羅 炎

羅 炎

「トバドのトビー爺が月の光跨いだ。
それを見たお日さまがトバドを見逃した。
トビー爺は星の階段登っていって
お日さまを−−−」
「おもしろい歌だな、娘さん」
突然現れた2人組を、ネラはしばし呆然と眺めていた。
先頭の老人は、ネラとそれほど違わない背丈で、木の杖と灰色の長衣という出で立ちで、髪はほとんど白かった。
その後ろにいるのはネラよりずっと背の高い人物だったが、全身を外套で隠し、突き出して木の杖をついている手は茶色いしみのついた包帯に覆われていて、ネラのところまでなにかが腐ったような異様な悪臭が漂ってきていた。
手につかんだサンムの葉を引きちぎって、ネラは背中に背負っていた籐籠に放り込んだ。
腰を伸ばして少し楽な姿勢になったが、ネラの視線はずっとその2人組から外れることはなかった。
「だれ、あんたたち?」
ネラはいつもの癖で前掛けで手をふいた。
サンムの鼻をつく臭いがわずかに立ち上ったが、腐臭をうち消すほどではなかった。
「見てのとおりの旅の者だ。わしはオルズデール、後ろにいるのはバーザム、怪しい者ではないよ。
そうそう、おまえさんがさっき歌っていたのは魔除け歌だろう?」
「そうだよ。どうしてわかったんだい? あんたたち、村の人?」
「いいや。ただわしも、似たような歌を知っておるのよ。それでつい懐かしくてな、声をかけたのだ。それとついでに道を尋ねたいと思ってな」
「道?」
「わしらはイジェス村に向かっておるのだ。おまえさんの村はそういう名前ではないかな?」
「そうだよ、イジェス村だよ」
「ではわしらはようやく目的地に着いたようだな」
オルズデールは振り返って言い、バーザムがわずかに頷いたようだ。
「ねぇ、村に行くのなら、あたしが案内してあげるよ。村のだれに用事があるの?」
ネラは勢い込んで言ったのに、オルズデールはやんわりと拒絶した。
「残念だがな、わしらはイジェス村を目指しておったが、村に用事があるわけではないのだよ。
娘さん、ここで会ったのもなにかの縁だ。聞かせてもらいたいのだが、この森のなかに野宿できそうな場所はないものかね? 雨風を何日かしのげそうないいところがな」
「村には行かないの?」
「おまえさんも気づいておるだろう、この臭いは? バーザムはちと厄介な病にかかっておる。村には行くわけにはいかないのだよ」
「だって村には薬師さまがいるんだよ。あたしはそのオスカリスさまのところで働いているんだ。オスカリスさまは村でたった1人の薬師さまなんだよ、案内してあげるよ」
オルズデールが微笑んだので、ネラは一瞬身構えてしまった。
「どうかしたかね。なにもわしはおまえさんを取って食いやせんよ。
おまえさんの親切はありがたいのだがな、病という紛らわしい言い方をしたわしも悪かったわい。実はバーザムのは病ではないのだ、薬師の手には負えぬ、呪いというやつなのよ。だから村へ行く必要はないし、薬師の手を煩わせるまでもないのさ」
「呪い」
その言葉をネラは口のなかで転がしてみた。
ネラにはまるで馴染みのない言葉だった。
お祭りの時に村にやってくる旅芸人の芝居のなかや、冬の夜長に子どもたちだけ集められて聞かされるようなおとぎ話のなかにしか出てこない言葉だ。
1年に1度しか聞かれないような、現実離れした言葉だ。
すると急にこの2人が、お話のなかの登場人物の1人のようにネラには思えた。
それはネラにとって特別な、憧れの人たちでもあった。
なんでもできて、なんでも知っていて、どこにでも行ける人たちだった。なににも縛られていない「自由な」人たちだ。
そんな人に出逢った興奮を隠しもせずに、ネラは急いで言った。
「案内してあげるよ! あたし、いいところを知っているよ。森のなかにはないんだ、森を出たところに洞窟があって、村のもんはだれも行かないんだよ。雨風がしのげるし、きっとあんたたちの気に入るよ」
オルズデールはまたゆっくりと頷いた。
「それならば早速案内を頼むとしようか」
「こっちこっち!」
ネラは走り出しそうな勢いだったが、振り返るとバーザムがそれほど速く移動できないことに気づいた。
それまでバーザムは、杖に身を預けるようにしてじっと立っていた。
今はやはり、足を引きずって歩いている。
オルズデールは手を出さず、バーザムを見守っているだけだ。
だが、ネラが立ち止まったことに気づくと、オルズデールは急ぎ足で追いかけてきた。
「よく気がついてくれたな。おまえさんが止まらなかったら、わしはその足を無理にでも止めねばならぬところだったわい」
「ごめんよ。あたし、ずっと前に気がついていたんだ。だけど嬉しくって走り出しちゃったんだ」
「よいよい。
それよりもな、おまえさんに約束してほしいんだ。わしらのことを村のだれにもしゃべらないでほしいんだよ、できるかね?」
ますますお話めいてきて、ネラの胸は高鳴った。
「オスカリスさまにもかい?」
「もちろん。ここでわしらに会ったことは、我々だけの秘密にしようじゃないかね」
「秘密」
「そう、秘密だ」
オルズデールはそう言って、閉じた口の前で人差し指を立ててみせた。
ネラも思わず倣う。
「秘密だね! いいよ、だれにも言わない。あたし、秘密を守るよ」
「頼んだぞ」
「もちろんだよ。ねぇ、あたしはネラだよ」
「うむ」
オルズデールは深く頷いた。
それからネラを先頭に立てて、3人は森のなかをできるだけ速く抜けていった。
イジェス村は森のなかに拓かれた村だった。村の真ん中を街道が突き抜けているが、その道をたどればどこまで行けるのか、知っている者は少なくて、行ったことのある者はさらに少なかった。
森はイジェス村を四方八方から取り囲んでいたが、北東に白い崖があって、それがいちばん速く森から抜けられる方面だった。
ネラがオルズデールとバーザムと出逢った地点から30分と歩かないうちに、ネラたちは森を出て、白い崖の前に立っていた。
白い崖は横穴のたくさんある絶壁で、そのてっぺんは村から見ることもできるほど高かった。
それらの横穴には数多くの鳥が巣を作り繁殖しているそうなのだが、村の方から崖の上に登るのは至難のわざなので、だれも狩りに行ったことがないし、泊まりがけで狩りに行ったという者もいない。
それに白い崖の洞窟は中がぬれていたり、水がたまっていたりすることもあるので、よけいに村の者は近づかないのだった。
ネラはオスカリスさまの手伝いで何度も崖に来て、地面に近い、低いところに開けたいくつかの洞窟に入ったこともあった。
オスカリスさまの言うことには、この洞窟には薬になったり、旅の商人に高く売れるような珍しい貴重な石がたくさんあるのだそうだ。
そのなかでも火炎硝子の美しさは格別で、村がこんな不便な土地に拓かれたのも、火炎硝子を採掘するためだったという説もあるくらいだ。
けれど、ネラは火炎硝子をまだ見たことがない。そんな噂はあっても、村には本物の火炎硝子は1つもないのだった。
ネラの知っている火炎硝子は、お祭りの日にやってくる旅芸人の「魔法」でだけだ。
それはどんなにきれいな物でも、祭りが終わると2度と見ることのできない幻だった。
「ほう。すごい数の洞窟だな。どこらへんが良さそうかね?」
「こっちこっち。ひとつ、すごく広い洞窟があるんだ。オスカリスさまも奥の方はどうなっているのかよく知らないんだって」
オルズデールが立ち止まったのでネラはつられて振り返った。
「人が来るのは望ましくないな。だれも来ないような広い洞窟はないのかね?」
バーザムも立ち止まって杖にすがりついていた。
ネラは2人の姿を交互に見ながら、お話の主人公になるのも楽じゃない、なんてことを考えた。
「人が来ないような洞窟かい? でも、こんなところに来るのなんてオスカリスさまやあたしぐらいのものだよ。もうここいらには火炎硝子はないんだって。オスカリスさまはまだ探しているけど、ほかにはだれも探しやしないんだ。火炎硝子のほかにも薬になる石はたくさんあるからオスカリスさまは時々探しに来るんだ」
「その洞窟にオスカリスが来ることはあるかね?」
「どうかな。この前来たのが1月ぐらい前のことだったけど、火炎硝子は見つからなかったから、もうここには来ないかもしれないよ。だけど、人の来ないような洞窟はまだオスカリスさまが探していないから、きっとオスカリスさまが来ることがあるよ。それじゃ駄目なんだろう?」
「ふむ、おまえさんの言うことにも一理あるわい。どこの洞窟にもオスカリスの来る可能性はあるというわけだな。そうならば、できるだけ来そうにない洞窟にしたいものだ。わしらの逗留など10日もかかりゃせん。その間にだれも来なければいいのだからな。
ネラ、オスカリスが洞窟に来るのはどれぐらいに一度のことかね?」
「ええと、1月に一ぺんのこともあるし、2月ぐらい来ないこともあるよ。オスカリスさまが面倒見なくちゃいけない病人とかけが人が多くて来られない時には間が空くんだ。村でたった1人の薬師さまだもの、病気が流行したりすると忙しいんだよ」
「それで今はどうなのだ?」
「忙しかないさ。年が明けてもう1月経ったろう? 春から夏はいちばん病人が少ない時期なんだ、いつもそうさ。だから今のうちにたっぷり薬草を摘まなきゃいけないんだ。あたし、こう見えても忙しいんだよ」
オルズデールは悪気はなさそうに声を立てて笑った。
「それは悪いことをしたわい。忙しいところを邪魔してしまってな。だがわしの頼みたい用事はあと1つきりだ。それが終わったら、おまえさんは放免してやろう。
さあ、おまえさんの見立てでかまわん。良さそうな洞窟を言ってくれんか」
「ええっと−−−」
1月ほど前にオスカリスさまに連れられて洞窟に来た時のことをネラは懸命に思い返した。
あの時、石を探しに入った洞窟は覚えていたが、オスカリスさまはそこをまだ探すつもりでいただろうか。それとも新しいところを探すつもりだったろうか。
「ここはもういいだろう。見かけによらずに深いから、もっと大規模な捜索隊を組まねばこれ以上は探せないだろうな。しかし、あるかないかもわからぬ火炎硝子のために村の者がそう簡単に協力してくれるとも思えないからな」
ネラはオスカリスさまの言うとおりにするだけだ。
オスカリスさまは両親を流行病で亡くしたネラには親代わりで、ただ用事を言いつけるだけでなく、薬草のことをいろいろと教えてくれる。
オスカリスさまには息子が1人いて、タフルという。
タフルは10歳で、ネラより3つ年下だ。やっとオスカリスさまの手伝いができるようになって、時々ネラに用事を言いつけたりする。
ネラはオスカリスさまに隠れて乱暴をするタフルがあんまり好きではない。
けれどもオスカリスさまは今年の初めに、ネラをタフルのお嫁さんにしたいのだと言ったことがあった。タフルにはまだ内緒だそうだ。
「ネラ。どうかしたのかね?」
「ううん、なんでもない。
あの、この洞窟にはオスカリスさまはもう来ないと思うよ。さんざん探したから、もういいだろうってこの前言ってたよ。だからほかの洞窟に行くんじゃないかな」
「そうか。ならばここを借りるとしよう。
世話になったな。忙しいところをありがとうよ。
行くぞ、バーザム」
とうとうバーザムは一言も発しなかった。
ただ黙って頷いて、足を引きずりながら、杖にすがって不安定な洞窟に入っていった。
オルズデールはそんなバーザムに手を貸すこともなく、角灯で足下を照らすだけだ。
2人の体格差ではへたに肩など貸せないことはネラでも想像がついた。
2人が洞窟に入っていくのをネラは黙って見送った。
バーザムときたら、ネラのことなど一度たりとも見やしなかった。
物語の住人は物語に帰ってしまう。
ネラの出番はこれだけで終わりなのだった。
ところが、自分で「忙しい」と言ったくせに、ネラはまだ立ち去るのが惜しかった。
春先は薬草も思うように集まらない。
ネラは籠をいっぱいにするまで帰れず、帰ってからもまた薬草を摘みに行かされるか、オスカリスさまの手伝いで薬草を煎じるとか、仕事は本当にいくらでもあるはずなのだったが、ネラの足はその場に根っこでも生えたように動けなかったのだ。
どれぐらい待ったのかわからなかったが、オルズデールもバーザムも出てこなかった。
ネラは1、2歩後ずさりしてから、また自分の仕事に戻るために振り返った。
だから、オルズデールの声が背中から降ってきた時には心底びっくりしたのだった。
「なんだ、おまえさん、まだ帰っていなかったのか。
お礼というほどのものでもないが、おまえさんの仕事を手伝ってやらんでもないぞ。こう見えてもわしは薬草にはなかなか詳しいのだ」
「平気だよ。いつも1人でしているんだもの、手伝ってもらうことなんてないよ。
それより、あたしがもっと手伝ってやろうか? この森には薬草もよく見つかるけど、どこにでもあるってわけじゃないんだから」
オルズデールはまた笑ったが、すぐに真剣な表情になった。
「ありがたい申し出だが、わしらには薬草は要らぬよ。それよりも欲しいのは、羅炎だ。あの呪いは藍では払えぬ。羅炎が必要だ」
「なんだい、そのらえんって?」
「とても希少な宝石だよ。大昔に石のなかに炎が閉じ込められたと言われているが真相は定かではない。透明な色のついた石のなかに薄絹のような炎が見える、それが羅炎だ。わしらは羅炎を探してここまで来たのだ。遠い旅だったがな」
「オスカリスさまに訊いてみようか? 薬になるような石のことも知ってるし、オスカリスさまは村でいちばんの物知りなんだから」
「よいよい、その必要はないよ。オスカリスの手を煩わせるようなことはない。おまえさんもわざわざ探してくれることはないぞ。ただもしも見つけたら知らせてくれ。羅炎というのはこんなものだよ」
オルズデールの言葉も終わらぬうちに、広げたその手のひらに揺れた像が現れた。
ネラは口のなかで小さな叫び声をあげた。
それは火炎硝子だった。オルズデールが探しているという羅炎は、オスカリスさまも探し求めている火炎硝子であったのだ。
「どうかしたかね、ネラ?」
「それ、火炎硝子だよ。オスカリスさまがずっと探してる。イジェス村では火炎硝子が採れたんだって。でももう1個も残ってないんだって」
オルズデールはゆっくりと頷いた。同時に手のひらの火炎硝子もなくなっていた。
「そう、羅炎は火炎硝子とも呼ばれておるな。だが硝子よりもずっと強固でたいがいは魔法に使われる物よ。治療に使うとは聞いたことがないが、わしもその道には詳しくないから、珍しい病気に効くのかもしれんのぅ。
知っておるなら話は早い。わしらはその火炎硝子、羅炎を探しておる。ここでならば必ず見つかるものと確信しておるが、もしもおまえさんも見つけることがあったらわしに教えてくれんか。それなりの礼はしよう。わしにできる範囲でな。
だがオスカリスもその羅炎を探しておるのであれば、わしらのことはくれぐらも秘密にしておいてもらいたいな」
「わかってるよ。あたし、こう見えても口は堅いんだよ。だれにも話しはしないよ。
じゃあ、あたし、そろそろ村に帰らなくちゃ。ねぇ、本当になにか手伝ってあげることとかないかい? あたし、オスカリスさまの手伝いをしたことがあるから、病人の面倒を診たこともあるよ。バーザムも1人じゃ大変だろう? 手伝ってあげようか?」
オルズデールはまた微笑んだ。
その笑顔に、ネラはもう警戒心を抱かなくなっていた。
「わしはありがたいが、バーザムがいやがるだろう。口はきかぬがあれでも気を遣っておるのだ、放っておいてやってくれんか」
ネラはちょっとがっかりした。
けれども、あの異様な悪臭を放つバーザムの素顔を見ないですむということには、内心安堵しないでもなかった。
それでもオルズデールの手伝いができないことをネラはやっぱり残念に思った。
「気をつけてお帰り、ネラ。森はおまえさんにそのすべてを見せているわけではないからな。ここは古の古森の一角だ。おまえさんにどんないたずらをするかもわからんぞ」
「大丈夫だよ!」
森に入ってから、ネラはオルズデールが、年に1度村にやってくる旅芸人とおなじ「魔法」を使ったらしいことを思い出した。
「なにか、考えよう」
ネラはそうつぶやいた。
物事に熱中すると、ネラは時々独り言を言う癖があった。
ネラはそうと気づいていなかったが、オスカリスさまが言うのだから間違いないんだろう。
「そうさ。食べる物を持っていってあげれば、きっといやだって言わないよ。なにも持ってなさそうだったし、食べる物なんていくらあったって困るものじゃないんだし。なにか持っていってあげよう。偽麦でも卵でも。それぐらい大丈夫さ、あたしがちょっぴり我慢すればいいんだもの。きっと喜んでくれるよ。そうしたら、また魔法を見せてくれるかもしれない。それにもしもあたしが火炎硝子を見つけたら、なにかお礼までしてくれるって!」
道々見つけた薬草を籠に入れながら、ネラはどんどん歩いていった。
オルズデールの言葉を実感したのは、かなり歩いてからのことである。
「あれ?」
かなり重くなってきた籠を担ぎなおした時、ネラはやっと自分が道を間違えたことに気がついた。
村の周囲を取り巻いている森は東西に幅広いので、その地理を知り尽くしている者はだれもいない。
オスカリスさまも全部を歩いてみたことはないそうだし、ネラだって村と白い崖のあいだの森はよく歩いているが、だいたい決まったところだけを選んで歩く。
薬草はどこにでもあるわけではないから、手当たり次第に歩いてもしょうがないとオスカリスさまに教わったからだ。
だから、目印の岩をたどったつもりだったネラは、考え事に熱中していたとはいえ、まさか道に迷うなんて思ってもみなかったのだった。
「どうしよう」
ネラは辺りを見回した。
「こんなところ初めて来ちゃった。なにかあるのかな? どこで道を間違えたんだろう?」
すぐ近くに木のない開けた草地があった。
ネラが近づいていくと、午後の日射しがその草地にいっぱい降り注いでいてそこだけひどくまぶしかった。
草地の一角にネラの視線は吸い寄せられて、そのまま動かなくなった。
ネラは言葉もなく、丈の高い草をかき分けるようにして近づいた。
その青さが視界から隠れたように思われても、なおも近づいていくと、それは簡単に見つけられた。隠しようがない青だ。
まるで空の一部でも切り取ったような青さだった。
空の色を映したような、池の青さにも似ていた。
村長さんの奥さんがお祭りの時にだけ着る、一等いい青い服の色でもあったし、村長さんの家で1度しか見せてもらったことのない小箱の青い宝石のようでもあった。
けれど息を呑んでネラが拾い上げたその石は、ネラの知っているどんな石や花や布地よりも青い、碧い、蒼い宝石だったのだ。
その青い宝石のなかで、村長さんの奥さんが持っている服の生地よりも薄い、布のような炎の揺らぎが見えた。
それは宝石に閉じこめられた、火のようだった。
「火炎硝子だ! これ、火炎硝子だよぉ!」
自分の声があんまり大きかったので、ネラはまたびっくりした。
それよりも驚いたのは、だれかに聞かれたのじゃないかってことだった。
けれども、火炎硝子を手にしたままでネラがしばらく立っていても、だれも現れたりはしなかった。
知っている顔も知らない顔も、だれ1人として来はしない。
ネラはそれで、安心してもう一度、ゆっくりと火炎硝子を眺めた。
「お祭りの時の魔法なんてうそっぱちだ。こんなにきれいじゃなかったもの、全然違うじゃない。本当に炎が入ってるみたい。それにこんな青! あたし見たことがないよ」
日射しにかざすと、石はさらに輝くようだった。
ネラはため息をひとつついた。
「これを探してるって言ってたよね、あの人たち。オスカリスさまもずっと探してるんだ。でもずっと見つからないし、本物は1度も見たことないって言ってた。あの人は呪いを解くのに使うって言ってたけど、オスカリスさまはなにに使うんだろう? あたしが見つけたって言っても、きっと取り上げられちゃうだろうな。あたしが持っていてもしょうがないって、もっと役立てようって言われちゃうだろうな。
でも、この石を拾ったのはあたしだよ、これはあたしの物なんだ、これはあたしが拾ったんだから! あたしが来なかったら、この石はだれにも見つけられなかったんだから!」
ネラは大きな羊歯の葉をちぎって、火炎硝子をくるんだ。
火炎硝子は鶏の卵よりも小さくて、羊歯の葉では大きすぎたくらいだった。
ネラはそれを前掛けのポケットに押し込んだ。
その前に焼き菓子の屑とかが入っていたので、ひっくり返して全部きれいに出してしまうことも忘れない。
ネラは寝る時以外にはこの前掛けを外さないのだ。
いつも自分で洗うし、だれかに貸したこともない。
オスカリスさまの家でネラが自分の物だと言えるのは、この前掛けのほかにはほとんどなかった。
父さんと母さんが流行病で亡くなって、ネラと姉のエズラだけが残された時、家にあった物は全部親戚に持っていかれてしまったのだ。
ネラの家は村のなかでも貧乏な方で、ほとんどの食器やわずかな家具はみな親戚に借りたんだそうだ。
あまりネラの父さんや母さんと仲良くなかった叔父さんや伯母さんたちが、「あれも貸した、これも貸した」と持っていったら、家の中にはネラと姉さんの他にはなにも残らなかったのだった。
そしてエズラ姉さんさえ、あのころは15歳と今のネラよりも大きかったので、会ったこともない従兄と結婚させられるために村を出ていったのである。
それからネラは、姉さんに会ったことがないし、3年も経って、そろそろ姉さんの顔を忘れかけてさえいるような有様だ。
姉さんと違って、ネラは最初からオスカリスさまに引き取られた。
まだ父さんや母さんが生きていたころから、オスカリスさまの手伝いをしていることが多かったので、ネラも姉さんもだれも不思議に思わなかったのだった。むしろ姉さんの引取先の方がなかなか決まらなかったぐらいで、ネラの家の物をほとんど持っていってしまった叔父さんが、「じゃあ、エズラはうちの嫁にする」と言って連れていったのである。
「姉さん、元気でいるかな?」
気がつくと、いつの間にかネラは村に近づいていた。
どこをどう歩いたものやら全然思い出せない。
火炎硝子を拾ってから歩き出した覚えもなかったのだが、いつの間にかネラはちゃんと村に戻ってきていた。
「まぁいいや。ちゃんと帰ってこられたんだから」
ネラはポケットをひとつたたいた。
火炎硝子の確かな手応えが手に伝わって、思わず顔がほころんだ。
けれどもそれはネラだけの秘密だ。
オルズデールとバーザムのことが村のだれにも秘密であるように、火炎硝子のこともネラだけの秘密なのだ。
ネラは自分がちょっぴり大人になったような気がして得意だった。
秘密を守ることができるのは大人だけだ。
子どもの秘密は2、3日は保っても、いつの間にかだれか大人に知られてしまう。
知られてしまった秘密は、もう秘密ではない。
ネラは2つの秘密を、なにがなんでも守り抜くつもりでいた。
そうでなかったら、オルズデールが「秘密にしよう」などとは言わなかったに違いない。
それはネラが、秘密を守るのに値するということなのだ。
村に夕陽がさす。
今日という1日は、もうじき終わりなのだった。
「今日は遅かったようだね、ネラ。それに1回も帰ってこなかったじゃないか」
「薬草がなかなか見つけられなくて遠くまで行ったんです。それで道に迷って」
オスカリスさまは黙ってネラから籠をあずかると、薬草を1つひとつ取り出した。
オスカリスさまはいつも優しいが怠け者は嫌いだ。
ネラはオスカリスさまにほめてもらいたくて一生懸命働いているつもりだったが、「よくやった」と言われたことはほとんどない。
それなのに今日は、オスカリスさまにも秘密にしなければいけないことが2つもある。
ネラは心臓がどきどきしている音がオスカリスさまに聞こえるんじゃないかと、気が気でなかった。
「今年は薬草の出来が良くないようだね。探すのも大変だな。ネラ、手を洗っておいで。すぐに食事だ」
「はい」
オスカリスさまの奥さんはイオンヌさんだ。
2人は歳が離れているので、イオンヌさんはまだ30そこそこだが、オスカリスさまはもう40を越えている。
イオンヌさんはいい人だけれど、オスカリスさまの仕事をほんのたまに少し手伝うだけで家の中の仕事ばかりしている。
それでネラがオスカリスさまの手伝いに駆り出されるというわけだ。
家の外の大きな瓶にためてある水をくんで、ネラは手と顔を洗った。
オスカリスさまの家は村で2番目に大きいので庭に井戸がある。
そんなに大きな家は、あとは村長さんの家か、村長さんの分家しかない。
敷地のなかに井戸があるので、イオンヌさんは、亡くなった母さんのように毎日水くみをする必要はないのだった。
だけど村の他の人たちは、村の共同の井戸まで出かけて水をくみにいかなければならない。
食事の時間はいつも静かだ。
オスカリスさまはだれでも食事をしながらしゃべるのが嫌いなのだ。
それなのにタフルなどは3日に1回は怒られてばかりいるが、ネラは言いつけをいつも守っていた。
タフルの相手をしてもおもしろくないことと、オスカリスさまの機嫌を損ねて「出ていけ」なんて言われても、ネラには行くところがないからだ。
食事が終わってからもネラの仕事はまだ終わらない。
オスカリスさまやイオンヌさんの手伝いをいつも言いつけられるからだ。
そんなことをしているうちに外はすっかり暗くなっている。
すると、まずタフルが寝かしつけられる。
最近はなかなかおとなしく寝ないので、イオンヌさんが時々怒っている声が聞こえるが、いつも最後にはタフルが寝てしまう。
ネラがオスカリスさまの家に来たのは、今のタフルとおなじくらいの歳の時だったけれど、ネラは父さんや母さんにも、タフルのようにわがままを言ったことはなかった。
やっとタフルが寝つくと、オスカリスさまが寝る。それからネラ、イオンヌさんの順だ。
寝室はみんな一緒だけれど、寝台は2つあるのもネラの家とは違う。ネラの家では寝台は1つきりでみんなで雑魚寝だった。
ネラは寝る前になると前掛けを外す。
枕の下に置くのは、1回だけタフルにいたずらをされて以来だ。
でも今日は、枕の下に置いたら、火炎硝子がごつごつと当たって、とても眠れたものではなかった。
ネラはできるだけ前掛けを小さくたたんで、なんとか枕の端の下に置いた。
イオンヌさんと一緒の寝台だから、前掛けがイオンヌさんの方にいかないよう気をつかわないといけない。
それでもネラは、今日、秘密を守ることができたので安心した。
−−−明日も秘密を守れますように。
ネラはそっと心のなかで唱えたのだった。
雨が激しく屋根をたたく音でネラは目を覚ました。
起きると、タフルはまだ寝ていたが、オスカリスさまとイオンヌさんはもう起き出した後だった。
ネラは急いで起き、前掛けを身につけた。
ポケットから羊歯の葉がはみ出したのであわてて突っ込む。
雨音はけっこう強かった。
雨の日には出かけられないものだ。
よほど急ぎの用事でもないかぎり、雨の日には家のなかにいる。
種は雨がやむのを待ってから蒔かれるし、農作業だって雨の日にははかどらない。先を急ぐ旅人だって、雨の日には休むしかない。
ネラは内心ひどくがっかりした。
家のなかにいると、ネラは絶対に1人きりにはなれない。
仕事はいくらでも言いつけられるし、だいいちいくらオスカリスさまの家が大きいと言ったって、ネラを1人きりにしておいてくれるような部屋はない。
昨日拾ったばかりの宝物をゆっくり眺めることもできないし、それにネラは、またオルズデールに会って話を聞いて、ついでに魔法の1つも見せてもらいたかった。
「おはよう、ネラ。今日はゲンノショウコを多めに採ってきてもらいたかったが、そういうわけにはいかなくなったな」
「おはようございます」
「しょうがない。今日はタフルと一緒に薬草の勉強だ。採集は雨がやんでからにしてもらおう」
「はい」
オスカリスさまは笑ってネラを見た。
ネラはオスカリスさまの笑顔が苦手だ。
1回も怒られたことなどないのに、なぜかオスカリスさまが笑うといやなのだった。
「昨日はどこまで行っていたんだね、ネラ? おまえは森に慣れているし、容易に道に迷うよほど抜けてもいない。なにかあったのではないかね? 森のなかで、だれかよそ者に会ったのではないのかね?」
ネラはうつむいた。
でも、それは秘密なのだ。
オルズデールと約束したではないか。
火炎硝子のことはさらにネラだけの秘密なのだ。
ところが、恩あるオスカリスさまにうそをつきつづけるのも、ネラには難しいことだった。
「あの、道に迷ったのは本当なんです。森のなかで見たこともない草地に出てしまって。どっちに行ったのかわからなかったんです」
ネラは前掛けのすそをもみしぼった。
「なにか見たのではなかったかね、ネラ? おまえはだれも見なかったのではないのではないのかな?」
「見てません、オスカリスさま。あたし、だれも見てなんかいません」
「良かろう、ネラ。そこまで言うのならそういうことにしておこう。だけど、おなじ言い訳は2度や3度と繰り返さないでほしいものだね。わたしもイオンヌも、おまえのことは娘同然に思っているんだ。その娘がまさか嘘つきでは救われないからな。いいね、ネラ?」
「はい、オスカリスさま」
いつまでも前掛けをもみくちゃにしているネラの手をオスカリスさまが押さえた。
オスカリスさまは優しく笑ってネラを見たけれど、ネラはやっぱりいやだった。
タフルが起きてきたのは食事ができてからのことだった。
そのころには雨は小やみになっていて、屋根を打つ音もほとんど聞こえないほどだった。
食事がすんでネラが外に出ると、雨はすっかりやんでいた。
家にいなくてよくなりそうなことを知って、ネラは思わず小躍りしたいような気持ちだ。
家にいるのは嫌いではないが、オスカリスさまに秘密のことをこれ以上追求されるのは困るし、タフルと一緒では薬草の勉強も退屈なのだ。
タフルはオスカリスさまにもイオンヌさんにも似ていなくて、薬師の仕事にあんまり興味がなさそうなのだった。
だから1時間なんてとてもじっとしていられなくて、いつもオスカリスさまに怒られる。
その間は当然勉強は中断だ。
それがネラには退屈なのだ。
ネラは、村長さんがタフルがオスカリスさまの跡取りであることを心配していたのを知っている。
けれども、タフルのことはオスカリスさまがいちばんよく知っているはずだった。
「行ってきます」
昨日のうちに空っぽになった籠を担いでネラは出かけた。
もちろんオルズデールとバーザムのところには寄ってみるつもりだった。
そのオルズデールは森にいた。
木の杖を高々と掲げて、ネラが来たことにも気づかずに口のなかでなにかつぶやいている。
−−−魔法だ。
ネラはそう直感した。
それでなにが起こるのかずいぶん期待してネラは待ちかまえたのだが、オルズデールの杖が手も触れずに回転し、ネラを指して止まったほかにはなんにも起きはしなかった。
ネラは驚いて背後を振り返ってみたけれど、いつもと変わらぬ森が広がっているだけで、火炎硝子を拾ったことまでもまるで夢のなかの出来事のように思われた。
「なんだ、おまえさんか。わしはまた、オスカリスが来たのかと思ったよ。昨日は世話になったな」
「あんなの大したことないよ。さっきはなにをしていたの?」
「捜し物さ。あと2日のうちに羅炎を見つけねばならんのでな」
「呪いってそんなに大変なものなのかい?」
そう言った自分の声が、ネラには裏返っているように思えた。
けれどオルズデールはそう思っていないようだ。
「うむ。呪いというのは多かれ少なかれ面倒なものだが、あれはかけた相手が悪かったわい。あと2日というのはわしの見立てだが、呪いが払えなければバーザムの身は腐りはててしまうだろう。今日はもう歩くのも困難なようでな」
「呪いをかけた相手ってどんな人だったのさ? それに、どうして呪いなんかかけられたんだい?」
オルズデールが大きくため息をついたので、ネラはもう少しでポケットに手を突っ込むところだった。
「それは長い話でな、ここで立ち話ですむようなことではないのよ。いまはそんな話をしている時でもないし、ことが終わったら、おまえさんにも話してやる機会があるかもしれんがな」
「バーザムって友だちなのかい?」
オルズデールはすぐには答えず、なにか考えるように微笑んだ。
ネラが答えを待っていると、オルズデールはネラの方に顔を寄せて、ささやくように言った。
「こんなことをやつに聞かれたら、さすがのわしも恥ずかしくてかなわんから絶対にバーザムには言うんじゃないぞ」
「それも秘密かい?」
「そうとも。絶対に言ってはならんぞ」
「わかった」
「バーザムはな、わしにとってはただ1人のかけがえのない相棒さ。やつにならば安心して命を預けることができるな。
まったく、こんな歳になって、そんなやつに会えるとは思わなかったわい。だがその相棒がわしの身代わりに呪いを受けたのだ、わしはいても立ってもいられんよ」
「あんたたちって、やっぱりお話のなかの人なんだね。あたしなんかには想像もつかないような話だよ。命を預けるとか、かけがえのない相棒とか。あたし、お話のなかでしか聞いたことがないもの」
すると、オルズデールは声をあげて笑い出した。
ネラの言ったことがよほどおかしかったのか、オルズデールはしばらく腹を抱えるようにして笑い続けた。
ネラは最初のうちはあっけにとられていたが、いつまでも笑いやまないオルズデールにだんだん腹が立ってきて、つい声を荒らげた。
「なにがおかしいって言うんだい?!」
「おお、これはすまんすまん。なに、おまえさんがあんまり子どもっぽいことを言うものでな。ほらほら、ひとの話は最後まで聞くものだ。
わしが笑ったのは、おまえさんがあんまり狭い世界しか見てなくて、それでさも満足したような言い方をしたからさ。おまえさんはそんなちっぽけな世界に満足するようなたまではないよ。じきにおまえさんはこんな小さな村にいることに不満を覚えるようになるだろう。この森の向こうや、街道の先にあるものにおまえさんは惹かれはせんかね? 見たいと思ったことはないかね? 世の中にはそういう人間とそうでない人間がおる。おまえさんは間違いなく前者だよ」
「どうしてそんなことあんたにわかるのさ?」
オルズデールはまた笑った。
だが今度は声はあげなかったし、ネラはオスカリスさまの笑顔を見た時のように強く警戒した。
「そうでなかったら、おまえさん、わしらとは口を利いてもおらんよ。腐臭に驚いて逃げ出しておるか、少なくともこうしてわざわざ会いはしまいよ。いくら秘密と言ったって、帰ったその足で、おまえさんはオスカリスとやらにわしらのことを告げただろう。別に悪気があってのことじゃない、世の中には自分の勝手知ったる領域を赤の他人に荒らされることを嫌ったり嫌悪したり、ひどく怖がる人間がおるということさ。
だがわしの見たところ、おまえさんはそんなことはしておらんようだ。わしらの出逢いは、真に良き巡り合わせだったのさ」
ネラは頭が混乱しそうだった。
知っているなかには、ネラにこんな話をした人は1人もいなかった。
オスカリスさまもイオンヌさんも父さんや母さんも、エズラ姉さんも、だれ1人としてオルズデールのようなことは言わなかった。
けれど、いざどんなことを言ったのか思い出そうとしても、なにか言いつけられたり叱られたり諭されたりしていた、そんなことしか思い浮かばないのだった。
「あ、あたし、仕事に戻らなくちゃ」
「うむ。邪魔をしたな、ネラ。羅炎を見つけたらわしに教えてくれよ」
「わかってるよ!」
ネラはまずはオルズデールから離れようとして、でたらめに森を歩いた。
オルズデールは追っかけてはこなかった。
ネラはなんとなくそのことで、予想を裏切られたような気がしたのだった。
ネラがオルズデールの言葉をよくよく考えてみたのは、寝ついてからのことだった。
ネラはかみ砕くようにその言葉をゆっくりと繰り返してみた。
思い当たる節はあった。
いいや、オスカリスさまの家に来てから、ネラがずっと抱いていたもやもやを霧が晴れるように晴らしたようでもあった。
−−−でも、どうしたらいいのかわからない。
−−−自分がどうしたいのかもわからない。
ネラは小さくたたんだ前掛けの上から、そっと火炎硝子を握りしめた。
外、特に森にいる時はその色を存分に楽しむことができた。
見れば見るほど、火炎硝子はネラを魅了し、虜にさせるようだ。
その色はどんな青よりもきれいで、どんな宝物もこれに勝る物など考えつかない。
たとえどんなに金を積まれても、この火炎硝子を手放す気にはならないだろう。
ネラはその青さを、その内に見える炎のような模様を、たった1人で楽しんだ。
秘密を分かち合えるような友だちはネラにはいなかったし、だいいち子どもに秘密を打ち明けてはいけないのだ。
だからネラは1人で火炎硝子を見た。
手のひらの下の堅い感触は、それが夢ではないのだと言っていたが、オルズデールの言葉を思い返していると、その火炎硝子さえも不確かな物に思われてしまうのだった。
簡単に答えの出てこない思いを、ネラはとりとめもなくもてあそんでいた。
そのうちに眠ってしまったようであった。
「ネラ、今日は洞窟に行くとしよう。今はそれほど忙しくないし、忙しくなったらいつ行けるのかわかったものではないからな。
そういうわけだから、今日は出かけてくるよ」
最後の言葉はイオンヌさんに言ったものだった。
ネラが起き出すと、オスカリスさまはいつもと変わらぬ調子ではっきりと告げた。
イオンヌさんは「はい、あなた」といつもの調子で頷いていたが、ネラは思わぬ事態に頭のなかが一瞬真っ白になったほどだった。
「今日、洞窟に行くんですか?」
「そうだ。本当は人手を集めて洞窟を洗いざらい調べたかったんだが、なにしろ春先はみな忙しいのでね。いつものようにわたしとおまえだけで行くことにしよう。タフルは留守番だ、洞窟はまだ危ないからな。
どうかしたかね、ネラ?」
「な、なんでもないです。今日はてっきり薬草を摘みに行くものだと思ってたから」
オスカリスさまはまた微笑んだ。
「薬師の仕事には予定などあってないようなものだ。天候が崩れれば薬草も摘めないし、出かけるのもままならない。できるときにできることをしておかなければならないのだよ」
「は、はい」
ネラは思わずポケットを押さえ、また手を離した。
人前でそんなことをしたら、いつ火炎硝子のことがばれてしまわないとも限らない。
ネラはなにがなんでも秘密を守らなければならないのだ。
けれど、オルズデールとの秘密については、オスカリスさまを止める口実が思い浮かばないだけに、ネラにはどうすることもできなかった。
だいいちこれは不可抗力というやつだ。
オスカリスさまとオルズデールが鉢合わせしても、それはネラが口を挟むようなことではないだろう。
ネラとしては、後はそうならないことを祈るよりなかった。
「洞窟のどれかにだれかを案内したのではないのかね、ネラ?」
森に入って早々、オスカリスさまはそう言った。
やはり顔は笑っている。
「そんなことないです」
秘密を守るためにネラはあくまでもそう言い張るよりなかった。
それに、昨日否定したことを、今日になって認めるのもおかしな話だ。
ネラはもう一度強く首を振って言った。
「そんなことありません、オスカリスさま」
「それではどこかの洞窟にだれがいようと、おまえのあずかり知らぬことというわけだね。それならば、その者をわたしが追い出したところで、おまえには関係がないということになる」
オスカリスさまの言ってることがよくわからなくて、ネラはその顔を盗み見た。
相変わらずオスカリスさまは笑っている。
けれどもネラは、すごく嫌な予感がした。
洞窟で火炎硝子を探すというのは単なる口実で、洞窟にやってきた者を見つけ出すのが本当の目的なんじゃないかと思われるほどだった。
しかしオスカリスさまが探そうと探すまいと、オルズデールが昨日のように出かけていれば、どこで会わないとも限らない。
ネラは今日のところは仮病を使ってでもさぼるべきだったと思い始めていた。
「よそ者というのはなにをしでかすかわからないから困るのだよ、ネラ」
オスカリスさまはまた勝手に話し始めた。
「火炎硝子の噂を聞いて、欲に目のくらんだ愚か者があれらの洞窟をさんざん荒らし回ったことがあった。もう20年以上も前のことだがね。その時は連中は火炎硝子を1粒も見つけることができず、腹いせに村に悪さをしていったものだ。イジェス村はご領主の直轄領だが、森に囲まれていて便が悪いのが欠点でなにかあってもなかなかご領主がいらっしゃることができない。だからその時も村人に被害が出てしまって、わたしたちはとても悔しい思いをさせられたのだ。あれらの洞窟に利用価値があったとしても、それは村の者か、ご領主だけに与えられた権利なのだ。よそ者などが来て、勝手に荒らされては困るのだよ。ましてやとても貴重な火炎硝子が眠っているのかもしれない洞窟だ、そんなお宝をどうしてよそ者などに渡してしまえるかね」
ネラは黙って聞いていた。
オスカリスさまの言うことはわからなくもない。
ネラだってイジェス村の生まれなのだから、村に悪さをするような人は困るし、ましてや火炎硝子を勝手に持っていかれるのもいやだ。
けれども、一言も話していないバーザムはともかく、オルズデールはオスカリスさまの言うような悪者には見えなかった。
それがネラのわからないところなのだった。
オスカリスさまはよそ者が悪いと言う。
でもよそ者のなかにだってオルズデールのような人もいるのだ。
だからネラは、オスカリスさまの話が終わっても、「はい」とも「いいえ」とも言えないで、あれこれ考えていたのだった。
「おまえの会ったよそ者は、それほど悪い人間ではなかったと言いたそうだね、ネラ?」
ネラは驚いてオスカリスさまを見た。
「いいえ、オスカリスさま。あたし、だれにも会っていません」
「おまえもなかなか頑固だね。まぁいい。そのよそ者に会えば、おまえに会ったかどうかなどすぐわかることだ。
そらご覧、ネラ。だれもいないはずの崖の前で煙が上がっている。だれもいなければ煙など上がりはしないだろう」
そう言ったオスカリスさまの口調は勝ち誇ったようだった。
その顔を見たネラは、自分がオスカリスさまが笑うとどうして嫌な気持ちになるのか理解した。
オスカリスさまはいつも笑ってなんかいなかったのだ。
顔は笑っているように見えても、その目はいつも冷たくネラを見下していた。
子供心に、ネラはそれが嫌だったのだ。
ネラの家は確かに貧乏でなにもなかったけれど、ネラにはオスカリスさまにそんなふうに見られる覚えはなかった。
だが、確かにオルズデールたちのいる洞窟の前で煙が上がっていた。
ネラとオスカリスさまは森を抜けた。
そして煙のそばにはオルズデールがいて、オスカリスさまとネラが近づいていくのに気づいたようすだった。
「おまえは何者だ? ここでなにをしている?」
強い調子でそう言ったオスカリスさまを、オルズデールは上から下まで眺めた。
その視線は少しだけネラを見たが、すぐにオスカリスさまに戻された。
「わしは旅の者だ。今は友の呪いを払うための羅炎を探しておる。しかし他人に素性を尋ねるにはまず自分から名乗るのが礼儀というものではないかね、お若いの。それともここらの村では年長の者に対する礼儀はないとでも言うつもりかな?」
オスカリスさまの方がずっと背が高いのに、一瞬、堂々としたオルズデールにたじろいだように見えた。
「まぁ、よい。わしらもここに長居をするつもりはない。羅炎が見つかり呪いが晴れればすぐにでも出ていく身だ。おまえさんが何者であろうとわしらには興味もないこと、おまえさんにしてもわしらのことなどすぐに忘れよう。このまま別れるのも悪くはないと思うが? わしは今取り込んでおる。余計なことには巻き込まれたくないのだ」
オルズデールは煮炊きなどのために煙を焚いていたのではなかったらしい。
オスカリスさまから視線は外すと、オルズデールは木の枝で火のなかをかき混ぜた。
ネラは今にもその煙のなかからなにかが飛び出してくるのかと思ってしばらく見つめていたが、どう見てもそれはただの煙で、オルズデールが時々木切れを足さなければ、そのまま消えてしまったのかもしれなかった。
「わたしはロズリック=オスカリス、イジェス村の薬師だ。クレードル=イジェスさまから村を預かる身の1人として、よそ者が村の者に断りなく羅炎などを探していいとは言われていない。おまえの言葉によると友人が呪いにかけられ、それを晴らすために羅炎を求めているそうだな。それが間違いないとどうやって証明するのだ」
オスカリスさまはオルズデールに近づいていった。
ネラもその後についていく。
もしもオスカリスさまがオルズデールに手を上げることがあれば、ネラはどっちの味方をしたものかわからなかった。
とうとうオスカリスさまとオルズデールはたき火を挟んで対峙した。
オルズデールはその間ずっと、オスカリスさまの動きを見つめていた。
その傍らにずっと、オルズデールの杖が岩場に突き刺さっているのにネラは気づいた。どうやって刺したのかは知らないが、その瞬間を見られなかったのがネラには残念だった。
「わしの友はおまえさんの好奇心を満たすためだけに見せ物にはなりたがらんだろうし、わしもそのつもりはない。仮に見せてやったところでおまえさんが認めるかどうかはわからん。証明しろと言われても水掛け論だ、虚しい言い争いはやめにせんか。それに証明するもしないもおまえさんがこの場であったことを忘れてくれればそれで済むこと、それでかまわんとは思わんかね?」
「羅炎というのはどうやら大変貴重な物らしいな。おまえがそれを盗みに来たのでないと証明できるというのか?」
オスカリスさまはそう言って、オルズデールの右手を捉えた。
ずっと木の枝で火をかき回していた方の手だ。
ネラは口のなかで悲鳴をあげかけたが、オルズデールは微笑んで、左手で脇に退くように動かすと杖を抜いた。
その間、オスカリスさまはずっとオルズデールを引きずり倒そうとしていたが、どう見ても体重差では勝っているはずなのに、オルズデールはびくともしなかった。
ネラは言われたとおりに2人から離れた。
「愚か者!」
オルズデールは杖で軽くオスカリスさまを突いただけのように見えた。
けれど実際には、オスカリスさまの身体は数メートルは宙を飛んだ。
「狭い村の慣習にとらわれて欲に目がくらんでおるのはおまえの方だ。羅炎であろうが真銀であろうが人の命と比べられるものか。薬師として手伝いを申し出るならばいざ知らず、このわしを盗人呼ばわりするとは言語道断、その行為とても許し難い。
わしは賢者オルズデール=フォレス、杖も持たぬ薬師風情に侮辱される覚えはないぞ!」
オスカリスさまは勢いよく立ち上がった。
「賢者?」
「そうだ。わしはおまえなどの指図は受けん。行きたいところへ行き、やりたいことをする。それでもおまえが邪魔だてしようというのなら、その身を地を這う蟾蜍にでも変えてしまうぞ」
オスカリスさまは膝を折り、両手をついた。
ネラがいることなどまるで忘れたようだ。
「申し訳ありません、賢者どの。知らぬとはいえ至らぬことをしてしまいました。どうかお許しください」
「わかったならば立ち去るがいい。おまえはここでだれにも会わなかった。なにも見なかった。それでよいな?」
「わかっております」
「わしらは羅炎が見つかって、わしの友の身体が回復すればこの村は離れる。そのこと、だれにも伝えるでないぞ」
「承知しております」
オスカリスさまは立ち上がった。
その時になって、オスカリスさまはやっとネラがいたことを思い出したようだった。
「帰るぞ、ネラ。今日は洞窟の捜索はできない」
いつものように「はい」と言いそうになって、ネラはためらい、後ずさった。
「どうしたんだね、ネラ?」
離れた分、オスカリスさまが近づいてきた。
それでネラはさらに下がった。
オスカリスさまは今度は動かなかった。
オルズデールとネラを交互に見て、なにか言いたそうだったが、オスカリスさまは黙って1人で帰っていった。
ネラはオルズデールを見た。
オルズデールはもう火をかき回してなどいなかった。
古そうなパイプをくわえて、自分の口からゆっくりと煙を吐き出したところだった。
「どうしてオスカリスさまにあんなことを言ったんだい? あんたはそんなに偉い人なの?」
オルズデールは笑い、火をかき回していた枝を放り投げた。
「権力に媚びへつらう者は肩書きに弱いものだ。わしはこれでも人を見る目はあるつもりでな、やつにふさわしい対応をしてやったまでよ。だが正直なところ、賢者などというのがそんなに偉いものだとはわしも思ってはおらん。やつの反応を見ると、やつを追い払うには好都合だったようだがな」
それからオルズデールはひとしきり煙草をふかした。
「羅炎はまだ見つからないのかい?」
「うむ。だがもうじき見つかるさ。わしらはぎりぎり間に合ったのだよ。呪いが晴れればまた旅が続けられる。わしをずっと呼ぶものがあるのでな。
ネラ、おまえさんの言いたいことはどうやらそんな話ではなさそうだな?」
「ううん、そんなことないよ。あたし、別に言いたいことなんてないもの」
「そうかね。わしはまた、オスカリスのことでおまえさんになにか言われるんじゃないかと思っておったよ」
「どうして? あたし、オスカリスさまのことはどうも−−−」
その後に続ける言葉がネラには見つからなかった。
いや、それよりもネラは村に戻った時、オスカリスさまになんて言われるか想像もできなかった。
ネラはオスカリスさまがどんな人か、少しだけでもわかってしまったのだ。
オスカリスさまはオルズデールに膝をついた自分を見ていたネラを、どんなふうに思っているだろう。
そのことを考え出して、ネラはだんだん恐ろしくなってしまったのだった。
その時、オルズデールがネラの肩を軽くたたいた。
「おまえさんも戻りなさい、ネラ。あんまり長居しとるとオスカリスがあらぬ疑いを抱く。わしはおまえさんの身にはなにも起きないだろうと思っておるが、戻った方がいいと思うがな。
だがおまえさんはそろそろ自分のことを考えてもいいんじゃないかね?」
「そ、そうする。あたし、戻るよ」
ネラはオルズデールを見ずに森に走った。
走って。
走って。
息が切れるほど走って。
とうとう立ち止まったネラは、周りを確かめもせずにポケットの火炎硝子を取り出した。
曇りのない青だった。
この石を巡って争いがあっても、火炎硝子のきれいさにはなんの影響もないのだった。
なぜか、それが悲しくてネラは火炎硝子を手にしたまま泣き出した。
父さんや母さんが死んだ時も、エズラ姉さんと別れた時もネラは泣かなかった。
それなのに、今はいつまでもいつまでもネラは泣き続けたのだった。
「どうして賢者どののことを最初から話してくれなかったんだね、ネラ? 最初から賢者どのとわかっていれば、あのような失礼はしなかったものを」
オスカリスさまの言葉にネラはかなり驚いた。
けれど、その真剣な表情を見ているかぎり、オスカリスさまは本心からそう言っているらしいのだ。
オルズデールの言ったことの意味がネラにはやっとわかった。
ネラは急につまらなくなった。
オスカリスさまに薬師の仕事について教わることが、急におもしろく感じられなくなった。
でもなんて言っていいのかわからない。
そんなことを言ってしまっていいのかもわからない。
オスカリスさまには今までお世話になっている恩がある。
けれども次の瞬間、ネラは脱兎のごとくオスカリスさまの家を飛び出していた。
オスカリスさまの声が追いかけてきたが、ネラは聞いてなどいなかった。
ネラは森を走っていった。
気がつくと辺りには夕闇が迫っていて、そうでなくても暗い森のなかは足下がおぼつかないほどだった。
ネラは何度か木の根につまずいた。
とうとう最後には、ネラは転んで、草むらに両手をついていた。
ポケットから火炎硝子がこぼれ落ちた。
火炎硝子は少し転がって、完全に羊歯の葉から飛び出している。
その青が、周りはだんだん薄暗くなっていくというのに、まるで内の炎が輝きを増しているように光を発していた。
ネラは火炎硝子を拾いなおした。
火炎硝子は欠けることがないようだった。
傷1つなく、ただ輝いている。
−−−この世のものじゃないみたいだ。
ネラはふとそう思った。
それは紛れもない本物の火炎硝子だろうが、ネラにはお祭りの時に見た幻の火炎硝子の方がずっと確かな物のように思えた。
ネラは火炎硝子を握りしめて、今度は転ばぬようにできるだけ急いで歩き出した。
−−−こんな物、あたしが持っててもしょうがないんだ。
−−−あたしが持っていなくてもいい物なんだ。
やがて森が開けた。
ネラはわずかな灯りを頼りに、オルズデールらのいる洞窟に向かっていったのだった。
「こんな時間にどうかしたのかね、ネラ? おまえさん、村に帰ったんじゃなかったのか?」
洞窟に入るとすぐに、杖の先に灯りをともしたオルズデールが出てきた。
「帰ったよ。でも、あんたたちにはこれが今すぐ必要だと思って。
はい。あげるよ。一昨日拾ったんだ」
ネラは火炎硝子を差し出した。
それを見たオルズデールはゆっくりと笑ったが、すぐに受け取ろうとはしなかった。
「どうしてそんなに大切な物をわしにくれるのかね? おそらく、たとえこの村で探し続けようと、この先、おまえさんがおなじ物を拾う可能性はほとんどないと思うぞ。わしにくれてもいいのかね、ネラ?」
「だって、火炎硝子、羅炎が必要なんだろう? なかったらバーザムの呪いが解けないんだろう? だったら、これはあたしの物じゃなかったんだ。あんたが拾うべきだったんだ。だったらあたしは要らないよ。だってもともとあたしの物じゃなかったんだもの」
ネラはそう言いながらオルズデールの手に火炎硝子を押しつけた。
今度はオルズデールも受け取った。すぐに袂に放り込んで、青い輝きは見えなくなった。
「これは、おまえさんに礼をせねばならんのぅ。あいにくとわしはこれからバーザムの呪いを解いてやらねばならん。また明日、来てはもらえんかな」
ネラはひとつ息を呑んだ。
その答えを待たずに、オルズデールは急ぎ足で洞窟の奥へ戻っていってしまった。
ネラは、オルズデールがどうやってバーザムの呪いを解くのか興味津々だった。
でもオスカリスさまに言ったように、オルズデールは大事な友だちを見せ物にはしたくないだろう。
かといってのぞき見をするのも気がひける。
でも、外はすっかり暗い。
灯りもなしに森を通って村に帰るのは難しい。
ネラは洞窟の壁にもたれて、両膝を抱えて座り込んだ。
−−−今日はここにいよう。
−−−帰ったら、またオスカリスさまになにか言われるもの。
ネラは膝に顎を乗せて目をつぶった。
オルズデールの魔法を使っているようすを想像してみた。
薬師よりもずっと格好良さそうだ。
自分がそうなったところを想像するのはさらに楽しいことだった。
ネラはまんじりともせずに夜を明かし、いろいろな想像にふけってみたのだった。
明け方近くまで起きていたつもりだったが、いつの間にかネラは眠ってしまっていたようだった。
目を覚ますと日向臭い毛布がかけられていて、オルズデールが近づいてきた。
毛布の端はすり切れていた。オルズデールと一緒に、ずいぶん長い旅をしてきたようだ。
「目が覚めたようだな。わしらの方ももう片づいたよ。おかげで大事な相棒を助けられたわい。礼を言うよ、ネラ」
ネラは大きく伸びをして、あくびもひとつした。
少し身体がこわばっていたが、動き出せばすぐに治るだろう。
「さてと、約束通りおまえさんに礼をせねばならんな。わしにできることも限られてはおるが、約束は約束だ。
どうしたらいいかね?」
「要らないよ」
ネラの即答にオルズデールは少し驚いたようだった。
それでネラは急いで続けた。それはネラの、嘘偽りのない気持ちだったからだ。
「あたし、あんたのかわりに拾っちゃっただけだもの。もともとあたしの物じゃなかったんだもの、お礼なんてしてもらうようなことじゃないよ。だって、あたしが持ってたって役に立たないんだもの、あれは最初からあんたたちが拾わなきゃいけない物だったんだよ。
あたし、あれを持ってた時に、うれしかったし、見てるのもすごく楽しかったけど、だれにも見せられなかったし、自分だけの秘密なんて持っててもおもしろくないんだよね。でも、あんたにはあれが必要だったんだろ? じゃあ、あたしが拾ってもしょうがない物だったんだ」
オルズデールは笑った。
この人は逢った時からそうだった。
ネラを子どもだとばかにしないで、きちんと話を聞いてくれる人だったのだ。
オルズデールが笑うのを見るのがネラは嫌いじゃなかった。オスカリスさまのよりも好きだったくらいだ。
「それならば、これはわしの気持ちだよ、ネラ。おまえさんにもう一つきれいなものを見せてあげよう。羅炎ばかりではない、自然に勝る魔術師はおらぬものさ。
さあ、わしについておいで」
オルズデールが先に立ち、ネラは黙って従った。
オスカリスさまと一緒に来た時はそれほど奥には行かなかったのだが、ここ2、3日でオルズデールはこの洞窟のなかをオスカリスさまよりもずっと知っているようだった。
「ねぇ、あんたは魔法使いなんだろう? 最初にそう言ったよね」
「うむ、言ったな。それがどうかしたかね?」
「ねぇ、魔法使いになるのって大変なのかい? ねぇ、あたしでも魔法使いになれるものかい?」
オルズデールが立ち止まり振り返った。
ネラが身を引くと、オルズデールはすぐに笑顔を見せた。
「だれでも魔法使いにはなれるわけではないのだ。ここから遙か南にミストローアという町がある。そこに〈賢者の学院〉があってな、そこで自分の杖を見つけられた者だけが魔法使いになれるのよ。あとは本人の努力次第、杖さえ見つかれば貴族でも農民でもなれるのだがな」
オルズデールはまた歩き出した。
「ミストローアって遠いの? 杖は〈賢者の学院〉にしかないのかい?」
「歩けば1月ぐらいかかるかもしれんな。イジェス村はおなじハロンドール王国内でも北の端にあるし、ミストローアはかなり南だ。ほとんど端から端まで歩くようなものだな。
おまえさん、魔法使いになりたいのかね?」
「だって、薬師よりもずっとおもしろそうじゃないか。あたし、このまま村にいるのがいやなんだ。タフルのことなんて好きじゃないし、あ、タフルってオスカリスさまの子どもなんだよ、あたしより3つも年下なのさ。でもオスカリスさまはあたしにタフルのお嫁さんになれって言うんだ。それでずっと村にいて、子どもを産んで。魔法使いになった方がずっとおもしろそうだよ、あたしもあんたたちみたいに旅がしてみたいんだ。ううん、村を出られればなんでもいいのかもしれない。毎日毎日薬草を摘んで、薬草を煎じて、オスカリスさまの手伝いをするの、いやになっちゃったんだもの」
オルズデールは声を立てて笑った。
「笑い事じゃないよ! だって、あんた、言ったじゃないか、あたしがこんなちっぽけな村で満足するようなたまじゃないって。あたし、もうこんな村にはうんざりなんだ、ねぇ、あたしに礼がしたいって言っただろ? ねぇ、要らないって言ったのは嘘だよ、あたしをその〈賢者の学院〉に連れていっておくれよ!」
「その話は後でしようじゃないか、ネラ。先にどんな魔術師でもかなわない、自然の作ったものを見せてあげよう」
オルズデールの口調は荒げられることはなかったけれど、ネラにそれ以上の反論を許さないようだった。
「ねぇ、怒ったのかい?」
オルズデールはまた振り返り、ネラは身を引いた。
けれどオルズデールはなにも言わなかった。
少しだけ急ぎ足になって、洞窟の奥へネラを連れていった。
それでネラも、それ以上話を続けることができなかった。
ネラにはオルズデールが怒ってるように見えたのだった。
「さあ、ここだ」
オルズデールが杖を掲げると、洞窟中に光が反射してネラは思わず目を両手で覆った。
水滴が落ちる音が響いた。
その反響は洞窟中に広まっていくつもいくつもの音になって、やがて何事もなかったかのように静まりかえった。
ネラは恐る恐る薄目を開けた。
まぶしい。
外よりも明るいくらいだ。
洞窟中の壁が光を反射して、またその光が反射されて、羅炎以上にこの世のものとは思えないような輝きを作り出していたのだった。
ネラは言葉もなかった。
ただあふれる光に驚いて、感動して、なにも言えなかった。
いいや、それは確かにオルズデールの言ったようにどんな魔術師もかなわない魔法だった。
けれど、そんなにすごいものが自分の生まれた村のすぐ近くにあることさえネラはもちろん、オスカリスさまも、村の人のだれも知らないのだ。
知っていればだれも、こんな洞窟をただ放ってはおかないだろう。
ネラはゆっくりと前進して壁に触った。
冷たくて磨かれた石のようになめらかだった。
「なんだい、これ?」
「おそらく水晶の鉱脈だろう。ここまでのものはわしも初めて見た。だれが知っても放ってはおくまい、知っている者がいれば、いまごろとっくに掘りつくされておったろうさ。
だがここのことはわしらしか知らんよ、ネラ。もっと正確に言えば、この位置がわかっているのはわし1人だ。おまえさんは、たとえオスカリスに請われてもここに案内してやることはできまいよ。だがわしはこれに手をつけるつもりはない。これはイジェス村のものでも、だれのものでもない。自然が作りたもうた、奇跡というやつだからな」
「持っていかないの?」
ネラは少し驚いてオルズデールを見た。
魔法使いは当然のように頷いた。
「こんなにきれいなものに手をつけてどうするのかね? 確かに水晶は魔法に使われるものだが、これを崩してまで得る必要はそうそうあるものではないよ。
ネラ、わしはオスカリスに羅炎であろうが真銀であろうが人の命とは比べられぬと言った。だがな、逆もまた真なりだ。この水晶が見つかればイジェス村のものだけにはなるまい。人の口に戸は立てられぬ、あっという間に取り尽くされるだろうし、その間にもちろん争いも起きるだろう。だれも見ただけで満足はするまい。ならば、最初からなかったことにしてしまうのがいいのだよ」
オルズデールは杖をおろした。
それと一緒に、壁の輝きも闇に呑まれてしまったところもあった。
「さぁ、戻るとしよう。わしらはあの呪いのおかげでずいぶん回り道をさせられた。急ぐ旅でもないが、もう立たなければな」
「行っちゃうのかい?」
オルズデールが洞窟を出たのでネラも急いで後を追った。
確かにオルズデールの言う通り、ネラはもう一度ここに来ることはできないだろう。
洞窟のなかはそうでなくても道がわかりにくいものだ。
目印を置くとか綱や糸などをたどるとか、オスカリスさまの言ったように大勢の人を駆り出さなければここは2度と見つかることはないだろう。
あるいはオルズデールの口調はそんなやり方さえもできないようにしそうだった。
けれどもなにより、その時のネラにはオルズデールとバーザムが行ってしまうということの方がずっと重要だったのだ。
「うむ。呪いなど解けてしまえばたやすいものでな。バーザムはぴんぴんしておるよ」
「だって、さっきの話!」
オルズデールが立ち止まり、また振り返った。
ネラは今度は身を引くわけにはいかなかったが、オルズデールの表情は今まででいちばん厳しいように思えた。
「おまえさんを〈賢者の学院〉に連れていくというあれか。ネラ、残念だが、わしはそれに応じてやることはできんよ。いや、できんという言い方は正しくない。まだおまえさんとは対等に話をさせてもらいたいからちゃんとした言い方をしよう。
ネラ、おまえさんを〈賢者の学院〉に連れていってやる気はわしにはない。できんことではないがな。
だが、わしはおまえさんとはずっと対等に話をさせてもらっとる。おまえさんはまだ子どもかもしれんが、オスカリスなどよりずっと分別もあるし頭もいい、わしはおまえさんを子ども扱いはしなかったつもりだ。
だから、おまえさんにもそれに応えてほしいと思っておるよ。わかるかね? おまえさんがオスカリスに嫌気がさしたのは当然だったろう。だが、一時の激情で動くものではないよ。ましてやおまえさんの理由は漠然としすぎておる。感情に流されてしまう前によく考えた方がいい。感情は、このわしでさえ扱いかねる代物だ。〈賢者の学院〉に行って杖が見つからなかったらどうするかね? 杖はだれのでもあるわけではない、魔法使いになりたくて〈賢者の学院〉の門を叩いても、杖が見つけられずに挫折させられる者も少なくはないのだ。その時、おまえさんはどうするかね? なにができるかね?
もちろん、人間、時には逃げ出すことが肝要だ。わしもこれまで、いくつけつをまくったかわからんぐらいだからな。だがな、ネラ。逃げ出しつづけていればまた逃げ出さなければならなくなるぞ。時々は足を踏ん張って、とどまることも必要なのさ。ましてやおまえさんはまだまだ若い。〈賢者の学院〉に行くのは、まだ先でも遅くはあるまいよ」
「だって! あんたたちがいなくなっちゃったら、どうしようがあるって言うのさ? 村に残ったらおんなじだよ、あたしはこのまんまオスカリスさまの手伝いをさせられて、タフルと結婚しなくちゃいけないんだ、そんなのいやだよ!」
「そんなことはなかろう。世の中のことは往々にして変わっていくものだ。そうは見えなくても、おまえさんとオスカリスの間にはわしらという石ころが投げ込まれた、その波紋がただ消えるということはあるまいよ。何事もなかったかのように、波紋だけが消えるということはないのだ。おまえさんとオスカリスの関係もこれから変わっていくだろう。それが良き方向に変わるのをわしとしては願うばかりだ」
「本当にそう思う?」
オルズデールはにやりと笑った。
「だからわしらのような異邦人は嫌われるのだ。わしらが来なければそのままうまくいっていたものが、そうはいかなくなることがある。変化というのは良しにつけ悪しきにつけ、人の心を傷つけるものだからな。だがな、人は傷つかずにはなかなか前には進めないものなのさ」
オルズデールとバーザムは、言ったようにすぐに村を離れていった。
もちろん村には姿を見せもしなかった。
来た時とおなじように静かにいなくなったのだった。
ネラはバーザムとは結局口をきかずにしまい、彼がどんな顔をしていたのかも知らぬほどだった。彼がどんな人だったのかも知らない。
けれどもネラはそれで良かったんだと思う。
そして、ネラにはいつもの生活が戻ってきた。
薬草を摘み、薬草を煎じ、オスカリスさまを手伝う生活がなにくわぬ顔で戻ってきたのだ。
けれども、オルズデールの言ったとおり、すべてが元通りというわけにはいかなかった。
オルズデールとバーザムのことは、ネラとオスカリスさましか知らないことだというのに、ネラの周囲には確実な変化が起こっていた。
ネラはもうじき15歳になる。
ミストローアに行って、〈賢者の学院〉の門をくぐってみようという夢はまだ捨てていない。
ネラはその夢をもうじき実現できる。
その後のことは、またそれから考えればいいと思っているところだ。
《 終 》
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