月光酒の宵
賢者オルズデール=フォレスが扉を開けると、挟まっていた檸檬色の紙片が床に舞い落ちた。
すぐに拾い上げて裏も表も眺めたが、文字も何も書かれてはいなかった。それはただ紙片で、月の色をしていた。
老魔法使いは紙片を机の上に放り出した。似たような紙片が山のように積み重なっており、檸檬色の紙片もいずれそのなかに埋もれてしまうかもしれなかった。
それからオルズデールはパイプに煙草を詰めて、ゆっくりとふかした。
部屋中が白煙に満たされて、陽が西の空に沈みきった頃、ちょうど窓とかぶさるように檸檬色の扉が現れた。それは最初淡い影のようで、辺りが明るさを失っていくにつれてはっきりとしだし、しまいには満月のように煌々とさえした。
両開きの扉には把手もなく、暗い部屋のなかに扉だけが冴え冴えと浮かんでいる。
オルズデールが手をかざすと、扉は音もなく開いた。扉の色と同じ道が曲がりくねっていずこかへ伸びている。老人はパイプから灰を捨て、そのままポケットの1つにしまいこんだ。それから黄色い道に踏み込んでいった。
「あら、いらっしゃい。早かったのね。良かったわ、私が封を切る前に来てくれて。こうやってあなたと会うのは何年ぶりかしら?」
檸檬色の道はオルズデールの一人娘、幻術師エルの塔に通じていた。〈魔宮〉を使っているとはいえ、〈賢者の学院〉の〈結界〉に触れることなく侵入できるのも、オルズデールだからできる芸当だ。
「わしが〈賢者の学院〉に帰ってきた年だから、かれこれ20年以上は経っておろうな。どれ、瓶を見せてくれ」
その言葉にエルは窓際に置いた瓶を顎でしゃくって示した。
「そこにあるわ。でも、まだ開けては駄目よ。今日が最後の晩なんですもの、封を切るのは最後の1滴がたまってからよ」
「わかっておる。月光酒に関してはおまえの方がいまや詳しいはずじゃ。わしは口を挟むつもりも封を切る気も毛頭ないわい」
「あら、神妙な言い方ね。あなたにそんなふうに言われるとかえって不気味だわ。なんか、余計なことを考えちゃう。
なぁに。まさかと思うけど、バーザムと喧嘩でもして、まだ仲直りをしていないの?」
「馬鹿な! その無茶苦茶な論理はどこで結びつくのじゃ? 喧嘩もしとらんし、仲直りなどする必要もない。だいいちわしらは、ここ1ヶ月は会ってもおらんわい」
「あら、そう。バーザムにしばらくぶりに会いたかったのに、残念だわ。やっぱり私の方から行かないと駄目ね。だけど彼も住所不定の人だから、まず探さないと駄目なのよね。あなた、彼が今、どこにいるのか知ってるでしょ?
その様子じゃあ、ガイルにも会っていないわね。まさか彼まで、あなたたちみたいに10年以上も帰ってこないなんてこと、あるのじゃないでしょうね?」
「あれがどこをほっつき歩いているか、わしの関知するところではないわ。おまえのことだ、どうせわしには内緒で会っていたりするんじゃろう。そんなことを言ってあれの消息ぐらい知っておるんじゃないのか?」
「残念でした。彼に会ったのは1年も前よ。それからの行方は私は知らないわ。ミストローアには帰ってきてないと思うけど、彼はあなたと違って律儀だから、私に挨拶もしないで行ってしまうなんてことはないわよねぇ。どこに行ったのかしら、また会いたいのに。ねぇ、あなたのところに便りも寄こさないの?」
「さあな。あれでかなりの筆無精じゃ、手紙など1通ももらっておらんわい。やつの行方はおまえよりさらに知らんわ。
もっとも、そのうちやつの名はいやというほど聞くことになるかもしれんぞ」
「あら、意外だわ、彼があなたに隠し事をするなんて。あなたには何でも話していると思ってたのに」
「何の話か知らんが、子どもじゃないんじゃ、そんなこといくらあっても不思議じゃなかろうが」
「嘘よ嘘。あなた、そんなふうになんて思ってないわ。彼のことを対等に扱ったこともないじゃないの。大人だなんて思ってもいなかったくせに。いつも子ども扱いして、今でも弟子だとしか思ってないんでしょ、彼がいつまでも独り立ちできなかったのは、あなたが過保護のせいだわ」
「馬鹿も休み休み言え。弟子でいたがったのはあれの方じゃ。結局、制約こそ多けれ弟子というのは気楽な立場じゃからな。自由でこそないが、いつもわしの弟子ということで保護されてもおった。実力があろうがなかろうが、そんなやつを賢者になど推せるものか。あいつはおまえが考えているよりもずっと甘ったれじゃったぞ」
「あなたにとってはまるで孫みたいなものですものね。でもあなたの方こそ、甘えられてて悪い気持ちじゃなかったんでしょ。なんだかんだ言って、彼のやることには甘かったようだもの。彼が甘え上手だったのよ、あれで。
見てて。もうじき最後の1滴が落ちるわ。だれが考えたのかしらねぇ、月の光をお酒にしちゃうなんて。よほどお酒が好きだって言えばいいのかしら、それとも浪漫主義だって言った方がいいのかしら?」
「まぁ、その両方じゃろうな」
窓辺に置かれた瓶にいちばん細い月の光が射し込んだ。双つの月は違う周期で満ち欠けする。同時にいちばん細い月になるのは60日に1度、2ヶ月に一遍のことだ。
その細い光をお酒に変えたのが月光酒である。溜めるのに何十年もかかるし、だれでも作れるものでもないので知る人ぞ知る、秘酒中の秘酒だった。
瓶のなかにはすでに月光酒がずいぶん溜まっている。20年もかけて溜められたそれは、月光の輝きを寸分も失うことなく、月そのものの色だ。
「ねぇ、今日は訊きたいことがあるのだけれど、いいかしら?」
「駄目じゃ」
「何を訊きたいのかも聞かないで、いきなりそんな言い方ってないんじゃないの?」
「おまえがそういう回りくどい言い方をする時はだいたいなにを訊きたいのか想像はできるわい。だから駄目じゃと言っておる。そんな話をいちいちわしに聞かせるな」
「なによ、その言い方。実際に聞いてみもしないでよく言うわ。実際に訊けもしないうちからにべもなく駄目だなんて言われたって、私もはいそうですかって引っ込めるわけにはいかないわよ。私だって、いつまでも小娘じゃないんですからね、どうして駄目なのか理由も聞かされないでわかりましたなんて言えやしないわ」
「訊いてもいいかと言ったのはおまえじゃろうが。だから駄目じゃと言っておる。だいいちおまえときたら20年前も似たようなことを言いおったぞ。ほとぼりが冷めたと思ったのなら大間違いじゃ」
「あーら、よく覚えているわね。まったく、あなたの記憶力の良さには恐れ入るわ。
でも言っときますけどね、あなた、あの時も同じ答えだったのよ。私がなにを訊きたいのか、聞きもしないで駄目だって言ったんだわ。今みたいに理由も言わないでよ。あの時は私が諦めたんですからね、今度は諦めないわ。
だいたいあなたって、人がいいかって訊いたことは相手がだれでも十中八九駄目って言うじゃない。私がそれぐらいで引っ込むと思っていたらいい加減に大間違いですからね」
「おまえもしつこいのぅ。まったく、そういう執念深さはだれに似たのやら。
そら、最後の1滴が落ちるぞ。見ていなくてもいいのか」
「ごまかしたわね。
まぁ、いいわ。夜は長いんですもの、終わる前に絶対口を割らせてみせるから」
「おーお、勇ましいことじゃ。飲むもの飲んで、わしはとっとと退散した方が良さそうじゃな」
「そうはいかないわ。
今日は帰さないから。覚えていらっしゃい」
室内の灯りを消しても、月光酒がほのかに発光して、お互いの表情がかろうじて判別するぐらいの明るさがあった。
エルが用意した盃は1口で飲み干せてしまいそうな大きさしかなかったが、20年に1度の秘酒とあっては、2人で飲むという行為がそもそも贅沢なのだった。市場に売りに出せば幻の名酒として天井知らずの値段さえつくだろう。けれども、オルズデールに似てか、エルは金銭への執着がほとんどない。自分の興味のために動くことはあっても、金を稼ぐために動くことはまずないと言ってもよかった。
そしてもともと饒舌なエルは、酔いも手伝ってかほとんど一方的にしゃべっていて、オルズデールは合間に相槌を打つか、短い答えを返す程度だった。
それで半分ぐらいの月光酒が2人に飲まれていた。
「−−−まぁ、〈賢者の学院〉の近況はこんなところね。大して変わったことは起きていないでしょ。あなたという問題児がいなくなったんだからおとなしいものだわ」
「相変わらず一言多いやつじゃな。だが何事もないのはいいことじゃ。それはそれで退屈なものじゃろうがな」
「退屈なんてものじゃないわ。あなたがいなくなったから大賢者とその取り巻きが幅を利かせてうるさいったらないのよ。チアリとサーブがお気の毒だわ。あなたのとばっちりをいちばん受けているのはあの2人よ。それにガイルのこともあるでしょ、見ていて、娘として罪悪感を感じちゃうわ」
「気に入らなければわしのように〈学院〉など離れてしまえばいいのよ。あいつらならば〈学院〉の庇護がなくても大丈夫じゃろうに、ぬるま湯に慣れるとなかなか出られなくてな。おまえが罪悪感など感じるようなことではないさ」
「そ・れ・で、さっきの続きなんだけど」
オルズデールが立ち上がるより早く、その首根っこをエルが押さえた。
体格でいったら彼女の方が父親より頭半分は高い。力技で来られたら、身長も体重も標準以下の老魔法使いに勝つ見込みはないも同然だった。
「あっらー、逃げようったってそうはいかないわよ。私、今日は逃がさないって言ったでしょう? まさか、そのことを甘く考えてたなんてことはないわよねぇ、お父さん?」
「こういう時だけ父親呼ばわりするのはやめんか。痛いぞ、力を入れすぎじゃ」
「あーら、騙されないわよ。そんなこと言って、あなたが逃げ出したことなんて1度や2度じゃないものねぇ? 私もいつまでも小娘じゃないのよ。今日は逃がさないわ。いいえ、逃げたって無駄よ。通路を開けばいつでも行けるわ。どこまでも追いかけていってあげるから。まさか、私の追跡も甘く見てるなんてことはないわよねぇ?」
「エル、おまえ、酔っぱらっておるじゃろう?」
「だからなんだって言うの? 私だって酔っぱらうことはあるわ。今、すごーくいい気持ちなのよ、酔っぱらったことをあなたに咎められる覚えはないわ」
彼女はあまり色白の方ではなかったが、今ははっきりとわかるくらい頬と耳たぶが赤かった。
いつものエルならば、父親そっくりでいくら酒を飲もうが赤みさえささないはずだ。
ということは、今日に限って、彼女は相当酔っぱらっているのだった。
「さぁて、何から訊かせてもらおうかなぁ。私ねぇ、あなたに訊いてみたいことがたくさんあるのよ。そう、特にラサのこととバリオリのことをね。
話してくれるわよねぇ? そうじゃなかったらこのまま帰してあげないわよ。何日でも引き留めておいてあげるから覚悟しておいてよね。あなたにどんな用事があっても駄目よ。そんなものは言い訳だわ、あなたはたとえ師匠のことだって口実にしかねないもの、私は騙されませんからねぇ。いいえ、この際、あなたの都合なんてどうでもいいわ。だってあなたが素直に話してくれれば済むことですもの、ねぇ、お父さん?」
「いい加減にせんか、エルナータ」
「駄目よ駄目、怒っても駄目。いいえ、怒ったふりをしてみせても駄目よ。私、どうしてもあなたに確認しておきたいの。確認しないでいられないの。これが最後の機会だって思ってるのよ。
だってそれもこれも全部あなたが悪いのよ。私がなにを訊いても駄目だの一点張りで、今までなぁんにも答えてくれなかったんですものねぇ。まさか、自分の知っていることを全部墓場まで持ってくつもりでいるわけじゃないんでしょ。それは卑怯ってものだわ。そう思わないこと?」
「思わん。それにおまえなどに卑怯者呼ばわりされたところでわしは痛くもかゆくもないわい。なんと言われようと話せんことは話せん。
だいいちそのつもりでいると言ったらおまえは諦めるのか」
「まさかぁ。諦めるなんて絶対にごめんだわ。だってずっと諦めさせられたのは私の方なんだもの、今日は絶対に諦めないわよ。諦めませんからねぇ。だから、あなたも早く腹をくくってちょうだいね。
あー、喉乾いてきちゃった。ほとんど私ばかりしゃべっているんですもの。月光酒のおかわりいる? 逃げないって約束してくれたなら、離してあげてもいいわよ。そのままじゃ月光酒も飲めやしないものねぇ。まさか、あなたに限ってあれで満足したなんてことはないんでしょ?」
「できん約束はしない主義じゃ。押さえていたければ好きなだけ押さえておるがいいわ」
「まぁ! 相変わらず頑固ね。じゃあ、遠慮なく私だけいただくわ。食べ物の恨みは恐ろしいって言うけど、あなたも後から文句を言わないでね。もちろん、私もそう簡単に飲み干してしまうつもりはないけど。
今日のは酒精が強いのよね、ちょっと。そうよ、酒精を強くするのも私には簡単にできるようになったの。でもその秘密は教えてあげないわ。ほんと、あなたがまだ酔っぱらわないのが不思議なくらい。私だってこんなに酔ってるのに。もしかしてそんなに飲んでないのかしら? まさか、最初から遠慮していたの? そんなはずはないわよねぇ、あなたに限って。バーザムから聞いたわよ。自分が買ったんだからって言って、あなた、濁酒を1人で1瓶飲み干したそうじゃないの。
でも、私だって、まだまだいけるわよ。酔っぱらったから飲めなくなるなんてことはないですものねぇ。それにずーっと決めてたんですもの。絶対に今日訊こうって思ってたのよ。絶対に逃さないわ。
ねぇ、早速だけど、バリオリのことを教えてよ。私の祖母だっていうんでしょ。どんな人だったの? 私がそっくりだって本当? あなたはラサとバリオリと、どっちの方が好きだったのかしら?」
オルズデールはかなりきつい目つきでエルを睨んだ。
しかし彼女ときたらまるで馬耳東風で、酔っぱらった勢いもあるのだろうが、意に介しもしなかった。
「駄目よ、そんな目で睨んでも。あなたは私には借りがあるのよ、そう思わない? その借りは、まだ全部返してもらってないわ」
「そんなものは60年も前に返したわ。いい加減に手を離さんか」
「駄目駄目、まだまだ足りないわよ。私は足りてるとは思ってないわ。借りってそういうものよね。借りた方はもう返済したと思ってるし、貸した方はいつまでも足りないのよ。私は欲張りなの、他でもないあなたの娘ですもの。そう簡単にもういいとは言えないわ。間違ってももう満足なんて簡単に口に出しはしないわ。
ねぇ、これだけ言っても答えてくれる気にはならないの? 他でもない、バリオリのことなのよ」
「おまえがバリオリによく似ておるのは確かじゃ。ラサがそう言ったんなら間違いないじゃろう。あれはわしなどよりもずっとバリオリに近いところにおったはずじゃからな」
「ねぇ、それではそのことがどれだけラサを苦しめたのか、あなたは知っている? あの人も不幸な人だったわよね、なまじ力なんてあったものだから、力を失ったことであなたを恨んで、私を恨んで、しまいにはバリオリのことも恨んだわ。あなたのこともバリオリのことも、私のことも愛していたのに、愛するのとおなじくらい恨んで、憎んで、妬んでもいたのよ。そのことを最後まで認めはしませんでしたけどね。
だけど、そのおかげで、私もずいぶんあなたのことを恨んだものだわ。あなたも知っている通りね。だからと言って借りを返したなんて思ってもらっては困るのよ、お父さん」
「それだけ知っていて他になにを知りたいと言うのじゃ。いい加減に手を離さんか、エルナータ」
「逃げないって約束できるの?」
「話すもなにも、おまえの方がよほどバリオリのことには詳しいじゃろうが。直接会ったことはなくてもラサからさんざん話を聞かされているはずじゃからな。わしなどよりずっとよく知っておるはずだぞ。わしが知っているのはわしが会ったバリオリだけじゃ。それをおまえに話せと言われても、どう伝えよと言うのじゃ」
「どうとでも。私が知りたいのはラサを介さないバリオリのことよ。そして今となっては、あなた以外には訊ける人はいないってわけ。
バリオリは私に似ていて、それで? あなたの見たバリオリはどんな人だったの? どんな風に話したとか、どんなことをしたとか、そんなことが知りたいんじゃないのよ。私が知りたいのはバリオリの人となりよ」
オルズデールはパイプを出したが、またしまい込んだ。いつもならば腹立ち紛れに猛烈に煙草を吹かすところだが、月光酒が残っていてはできなかった。
月光酒は大変繊細な酒なのだ。空気に触れたとたんに、その芳香も色も輝きも失われてゆく。月光酒を溜められるのは密閉された瓶のなかにだけだ。煙草を吸うなんて行為はもってのほかであった。
「よくしまったわね、煙草好きのあなたが。でもそうしてくれなくちゃ困るわ。月光酒を味わうのに煙草を吸いながらなんて無粋な真似はやめてもらいたいわね。なんでもそうだけれど、あなたって味にうるさいわりに煙草を吸うんですもの、だれも信じやしないわよ。もっとも、あなたと仲のいい人って、バーザムを始めとして味音痴が多いわよね」
「余計なお世話じゃ。
言っておくがな、バリオリとのことはわしの私的な話じゃ。おまえにはこれっぽっちも話す義理などないことじゃ。だからわしからそんな話を聞き出そうとしても無駄じゃと覚えておけ」
「そんなことは最初から百も承知の上よ。それでも聞きたいの。どうしてもあなたの口からバリオリのことも聞かせてもらいたいの。たとえあなたの私的な話だって言ったって、私には聞く権利があるわ。そうは思わない?」
「思わんと言っておろうが。わしは口はわらんぞ。いい加減に諦めるのじゃな」
「さぁ。そんな無粋なことを言っていないでおかわりをどう? 次の20年はお互いにないかもしれないじゃない。これが最後の機会かと思えば、口もなめらかになってこないかしら?」
「おまえもいい加減しつこいのぅ、エル」
「あーら、褒めたって何も出ないわよ、あなたの娘ですもの。私のしつこいところはあなたに学んだのよ。あなたってほんとにいい教師だったと思うわね。
ねぇ、ちょっと待ってて。つまみでも探してくるわ。お酒を飲むのになにも出ないんじゃ、それもあなたの口が堅い原因なんでしょ?」
「やめておけ。月光酒は酒だけ味わうものじゃ。他にはなにも要らん」
「もう! ああ言えばこう言う。ほんとにあなたのためにあるような言葉よね」
「よく言うわ。おまえにも十分当てはまるじゃろうが」
「お互い様。
ねぇ、暑くなってこない?」
「酒の飲み過ぎじゃろう。おまえ、本当に赤いぞ」
「そんなはずないわ。あなたが平気な顔をしているのに、私だけ酔っぱらうなんてあり得ないわ。私の酒の強さはあなたに似たのよ。
でも、すごーく暑いのよねぇ、今。外はどう? ねぇ、屋根の上にでも昇ってみない? いらっしゃいよ、お父さん。とっても気持ちがいいわよ」
足下もおぼつかないようすでエルは窓の外に飛び出した。ほんの少し落下したかと思いきや、杖にまたがった魔女のように、屋根の上に飛んでいく。その身の軽いことは鳥か蝶のようでもあった。
「あら、お酒を忘れちゃったわ」
そんな声が聞こえたかと思えば、月光酒の瓶は羽が生えたように飛んでいく。
それを見てオルズデールも外に出た。
エルの塔は元々屋根が丸い。半円形の屋根なのでそもそも人が昇るようにはできていないのだ。塔の主はそのてっぺんに座っていた。
元々顔立ちからしてその祖母、バリオリによく似た妖艶さがあるが、今晩は酔っぱらっているせいか、その色っぽさにすごみがきいている。外見はむしろおとなしい印象を受けたラサとはまるで正反対だ。
性格的にもエルは母親とは似ていない。
オルズデールが思うに、年々1度も会ったことのないバリオリに似てくるようだ。その考え方も好みも、ラサよりずっと守備範囲が広いのは不思議としか言いようがない。
「ねぇ、聞いてよ。私、今度、こんな布を作ってみたのよ。半透明な布、どう売れると思わない?」
「エルナータ、これ以上わしを怒らせないでくれんか。おまえ、まさかそんなものが売れるなどと本気で思っておるわけじゃないだろうな?」
「あら、失礼ね。本気で思ってるわ。男どもは飛びつくわよ、だって見えそうで見えないっていうのがその気をそそるでしょ。女だって欲しがると思うわ。すけべぇな連中にはきっとばか受けするわよ。私は一財産築いて、魔法使いなんておもしろくもないことをやめて悠々自適に暮らすんだわ。どう?」
オルズデールは露骨に眉をしかめ、そっぽを向いた。
エルときたら素っ裸も同然で前に立ったからだ。彼女のまとった布は半透明どころではなかった。ほとんど透明で身体の線がすけすけに見えている。その見事に腰のくびれた体型も豊かな胸もはっきりとわかるほどだ。
始末に負えないのは、エルが自分のそういう肉体的な魅力を十分に承知していて、相手を挑発することだった。
だが彼女のそんなところも、ラサよりバリオリに近いのだ。ラサは今のエルよりもずっと痩せ型の体形をしていたし、自分の肉体的な魅力には禁欲的なぐらいに無頓着な方だった。
「ああ、気持ちいいわ。見てよ、月があんなに傾いて。
私、月を見てるのは好きだわ。満月が特に好き、それも双つとも満月なんていったら最高ね。胸が高揚して興奮して、自分が別物になれそうな気がするもの。だから満月の晩が好きだわ。
満月の光は今晩みたいに細い時とはまるで別よ、こんなに優しくないわ、もっと激しくて狂おしいのよ。ラサは月の光が嫌いだったわ。怖がっていたって言ってもいいぐらい。でも、私はいくら禁じられても月を見ることはやめられなかったわ。怒られても閉じこめられても、満月だってわかったし、じっとしてなんていられなかったのよ。ガーン=フォーンが取りなしてくれなかったら、私たち、どっちかが先に気が狂ってたかもしれないわね。
満月の夜は体中に月の光を浴びるの、何も身につけないで、月光を全身で受け入れるのよ。月に狂うんだわ。月に酔うって言ってもいいわ。
ねぇ、だから、もしも私の姿が変わってしまっても驚かないでね。月にはそんな力があるわ、そのために月があるのよ。ねぇ、月ってそんなものなのよ」
そんなことを言いながら、エルは一瞬たりとも落ち着いてなどいなかった。足下のおぼつかないまま、右へ左へ、前へ後ろへ、まるで踊っているかのような足取りで彷徨っている。
また言葉の合間合間に彼女は陽気な笑い声をあげた。それはまるで躁状態のようで、とうとう最後にエルは、仏頂面で盃を傾けていたオルズデールに大胆にしがみついたのだった。
「離さんか、エル」
「い・や・よ。教えてくれるまで絶対に離さないわ。
このままずーっと屋根の上にいましょ。どうせわかる人なんていっこないわ。私が本気でかけた術は、だれにも見破れやしないもの。なにか術のあることだってわかりゃしない。大丈夫よ、いくらあなたが〈賢者の学院〉から追放された身だからって、なにも問題は起こりはしないわ。いつまでだって屋根の上にいられるわよ」
「そういう問題ではないわい!」
「駄目駄目。あなたのそういう怒り方は本気ではないの。私の名前を呼んでる時もそう、あなたは本気で怒らない。だれにもそうね、私だけじゃないわね、あなたが本気で怒る相手なんてめったにいないし、本気で怒ったら相手は消してしまうんですものね。ねぇ、あなたが私に隠れてしていたこと、私が知らないとでも思ってた?」
「知っていたから手伝うとでも言うのか。娘に尻拭いをさせる気はさらさらないわい。おまえが知っていようが知らなかろうがわしの知ったことか。
わかっているならさっさと離れんか」
「い・や」
そう言ったエルの吐息がオルズデールの首筋にかかる。さすがの老魔法使いも、一瞬バリオリがそこにいるような錯覚を覚えた。
バリオリが生きていたのは80年以上も前のことだ。今となっては知る者もいないし、エル以外には訊こうとする者もありはしない。オルズデールでさえ、たまに思い出を忍ぶだけだ。それもたまにのことで、思い出しもしない日も少なくはない。
「どうしたの、いきなり黙りこくってしまって。最後の1杯よ、飲んでしまっていいわ。それであなたが話す気になってくれたらしめたものね」
「なんじゃ、気弱な言い方をするとはおまえらしくないな。諦めたのなら離してくれんかの。息苦しくてかなわんし、まさかこうやってひっついたまま何日もいられると思っているわけではあるまい」
「諦めなどするものですか。あなたに付け届けも賄賂も効かないから言ってるのよ。色仕掛けが効くのならいくらでもしてあげるんだけど。どう?」
「悪い冗談じゃな、エルナータ」
「そうかしら?」
「そんなことより、おまえの顔をよく見せてくれ」
「お安いご用だわ」
エルはあっさりとオルズデールを解放した。先ほどの布地はいつもの藍色の長衣に戻っており、身体の線など見えもしない。
どうやら半透明の布地というのはただの冗談だったらしい。しかしエルの幻術の強さは〈賢者の学院〉でも他の追随を許さぬほどで、見破れる者がなかなかいないのも当人の言うとおりである。
「どうぞ、よく見てちょうだい。どう、この角度? なかなかいいと思わない? 自分でもたまに鏡に見惚れちゃうほどなのよ」
「よく似ておる。おまえは年々バリオリに似てくるな。いや、80年以上も前となればわしの記憶も曖昧なものじゃ。おまえを見ているとバリオリを思い出すのじゃ、そして似ていると思い込むのじゃ。本当のところはもう誰にもわからんじゃろう。バリオリのことを覚えていて、話すことができるのはわしくらいのものじゃ、そのわしも忘れかけておる始末よ。都合のいい思い出をたまに取り出すぐらいでな。
エル、わしがバリオリといたのは人生のなかのほんの一瞬のことじゃ。その人となりこそ鮮烈なものじゃが、いつまでもはっきりと覚えておるにはわしは長く生きすぎた。ほかにいろいろと知らねばならんことが多すぎたのじゃ。
だからわしの覚えているバリオリは、どこまでもわしに都合のいいバリオリなのじゃ。おまえがラサから聞かされたバリオリがラサの作り出したバリオリであるのと同様にな。
それでもおまえはわしの口からバリオリの話を聞きたいと思うのか? それはもう本当のバリオリのことなど語ってはおるまいよ。ラサとおなじようにな」
「それでも私はあなたの口からバリオリのことを聞きたかったのよ。ラサもあなたも、私の後ろにバリオリを見ているのに、私だけ彼女のことを知らないなんて不公平だと思うわ。彼女がどんな人だったのか、私には十分知る権利があるはずよ、そうでしょ?
確かにラサにしてもあなたにしても、本当のバリオリのことは伝えられないかもしれないわ。だけど、2人の言い分を聞いて、そこから事実を抜き出すことはできるのよ、そういうものだわ。そうだとは思わないこと?」
「それでも大事にしまっておきたいことはあるものさ。思い出というのはなんでも美しいものじゃからな。ラサは自分やわしの思い出のなかのバリオリに嫉妬しておっただけよ。決してかなうはずのない相手にな。だから余計に思いも募ったのだろう。それが哀れだと思われることも受け入れられぬほどにな。
さて、酒もなくなったし月も沈もうとしておる。そろそろわしを放免してはもらえんかな。まさか、本気で何日も塔のてっぺんにいるつもりだったわけではおるまい?」
「そうねぇ」
エルは婉然と微笑みながら、両手をゆっくりオルズデールの首筋に這わした。
実の父親でさえその動きにも半開きの唇にも魅了されるほどだ。ましてや他の男たちがいかに彼女の虜になっていくのか、老魔法使いはいまさらのように気づかされた思いだった。
「じゃあ、最後に1つだけ教えてちょうだい。教えてくれたら後のことは訊かないでおいてあげるわ。でも、教えてくれないのなら、このまま帰しはしないわよ。私が本気だって、いい加減に思い知ったでしょ? それとも、あなたのことですもの、まだ足りないなんて言い張ってくれるのかしら?」
「わかったわかった、よーくわかったわい。おまえのしつこさには恐れ入った。これで最後だと言うのならなんでも話してやる。だがおまえが言ったとおり1つだけじゃぞ。これで本当に最後じゃからな」
「ええ、ええ、あとは私が勝手に推測させてもらうわ。その方がいいってあなたが言うのならね。
じゃあ、本当にこれで最後よ」
エルはまだオルズデールを解放していなかった。そのまま耳に口を寄せて、熱い吐息とともにそっとささやいた。
「ねぇ、結局のところ、バリオリとはうまくいったの?」
「逃げ出す前に一度だけじゃ。ラサとわしとは彼女のおかげで逃げ出せた。
さあ、それでよかろう」
「そうね、いい加減に解放してあげるわ。あーあ、私も最初の意気込みのわりに、なんだかんだで簡単に諦めちゃうのよねぇ。
ねぇ、お父さんって本当のところを言ったらどっちが好きだったの?」
「比べられるような話ではないさ。バリオリがいなかったら今のわしはおらん。ラサがいなければおまえはおらん。ただバリオリとの出会いと別れが強烈だったというだけのこと、ほかになにが欲しいと言うのじゃ? どんな言葉を尽くしても足りるものではないよ」
「そうね。だけどラサは死ぬまで疑いを捨てられなかったわ。でもあなたの言うとおり、思い出には絶対に勝てなかった。思い出に勝とうとしていて、自分で苦しんで、私はそれがいやだっただけよ。そんなことをしてなんになるのって今なら言えるのに、あのころはなにも知らなかったから、ラサを止めることもできなかったのよ。
ねぇ、そのことではあなたは私に借りがあるわよ。私に咎められても仕方がないのよ」
「わかっておるさ、エル」
その晩、オルズデールは初めて娘を抱いた。だがそこに、バリオリの面影は浮かんではこなかった。
「また20年経って生きていたら、招待状を送るわ。次の月光酒が溜まっているでしょうから、その時はなにがあっても来てよね」
「行けるようならな」
「なにがあってもよ、そう言ったでしょ」
オルズデールは檸檬色の扉を開けた。自分が死ねばこの扉も失われる。エルが招待状を送る相手もなくなるわけだ。
老魔法使いが振り返るとエルは投げキッスを送ってよこした。
「じゃあね、あ・な・た」
扉は音もなく閉まり、また次の月光酒が溜まるまで道も閉ざされる。今宵は特別な夜、20年に1度の月光酒の宵なのだ。
「そうじゃ。それまでわしが生きていられたらな、また会おうじゃないか」
そう独りごちて、オルズデールは檸檬色の道をたどっていった。
扉を閉める前に老魔法使いは道を振り返った。檸檬色の道はゆっくりと消えてゆく。それは今は亡き人との思い出にも似ていた。
「じゃがな、思い出にひたっているにはわしにはまだやらねばならぬことがあるのじゃ。しのぶのはそれからでも遅くはない。そうじゃろう?」
扉を閉めるまでもなく、それは道が消えると同時に消えた。
あとにはオルズデールだけが、1人残されていた。
「そうじゃ、それでいい。思い出は大事にしまっておいて、時々取り出して眺めるから美しいのさ。わしにはそんな暇はない。思い出にひたるより、もう一働きせんとならんでのぅ」
オルズデール=フォレスが宝剣戦争の始まりを聞いたのはそれから間もなくのことであった。
けれども賢者その人の行方は、杳として知れない。
《 終 》