竹の歌
「道を開け、森の牧人ども! わしらが用のあるのは偽りの神、神を騙りし偽りの樹の化け物だけだ。
目を覚ませ、偽りのくびきに支配されしものども、主らの崇めるものの正体を教えてやる!」
賢者オルズデール=フォレスはいきなり大音声でそう呼ばわった。
そのあまりの大きさに、木々は震え、声なき声が老人を罵って広まってゆくのが、バーザムには見えるような気がした。
彼より頭1つは優に低い小柄なオルズデールの、いったいどこにそんな力が潜んでいるのか、2人を圧倒し、そのまま押しつぶしてしまいそうな木々を前にして、老魔法使いはしかし一歩も退かなかった。退かないどころか逆に木々の重圧を1人で押し返してさえいるようだった。
風はそよがず、鳥や虫の音も聞こえない。森のなかは異様なほどの静寂に包まれていた。
痛いほどの視線がオルズデールとバーザムを押し包んでいる。押し包んだままつぶしてしまおうとしている。
オルズデールが「森の牧人」と呼んだように、この森の木は生きて動いているのだ。
近所の村で、あるいは旅人に「お化け森」と呼ばれる所以であった。
「道を開けよ、森の司よ。これでもわしは主らには敬意を払っておるつもりだが、やつだけは許すわけにはいかぬ。一刻も早くやつを倒さねばならぬ。こんなところで意味のない押し問答をしておる場合ではないのだ。
同じことを何度も言わせるな。わしはかなり気が短い。お主らに比べれば寿命も短い人間だ。人間は待つことを知らぬぞ。わしの堪忍袋の緒が切れてしまわぬうちに、さっさと道を開けてもらおう!」
オルズデールがまた大声を張り上げた。
森に入る前に約束した通り、バーザムは剣の柄には手もかけなかった。
剣では木の相手にもならない。それに森の木々は猜疑心に満ちているだろうから、わずかでも敵意を示すわけにはいかなかった。
彼が剣を抜くより速く、木は2人を倒してしまうだろう。
木の数は彼らより遙かに多く、なにより森は木々のものだ。剣ではなくて斧だろうと2人がまともに戦えないことにかわりはなかった。
だがそれは、バーザムが最初に考えていたような生やさしいものではなかった。敵意に囲まれて丸腰でいなければならないのは、彼が考えていたよりもずっときつい、勇気のいることであった。
それでも彼がこらえられたのは、我ながら奇跡としか言いようがない。
逢って間もないオルズデールを、それだけ信頼していたのかと言えば、どうにもわからないと答えるしかなかっただろう。
「火と鋼を操る者よ。我らの言葉を理解せぬ、小さくて哀れな者よ。お主の言うことが正しいといかに保証するのか? その証、我らに示せ。さもなくば道は開かれぬ。我らはただ森を、我らの王を守るのみだ」
「知恵者を気取るとは、わしはお主たちの方に哀れみを感じるわい。『我らが王』とは、言うに事欠いてくだらぬことを言うものぞ。いつからお主らは王などを抱くようになったのだ? 森の牧人であり、いかなちっぽけな虫にも敬意を払うお主らが、よりによって王などを抱くとはちゃんちゃらおかしな話だわい。
ことやつに関しては、ふさがれておるのはお主たちの目だ。わしらを哀れもうと蔑もうとお主らの自由だが、やつについては譲れぬことだ。
よく聞け、森の司よ。そやつはお主たちの一部、森ではないぞ。ましてや木でさえないわ。お主たちがあくまでも己が誓約を守ると言うのならば、道を開けるがいい。わしの言葉が正しいこと、これからやつの身をもって証明してやるわ。
ガルガランゾルン、木々と草花の緑の王と名乗りし偽りの神よ、その名に聞き覚えがあればわしらに道を開けさせよ。我が傷と名に懸けて、主らがどこへ逃げようとわしは追いかけ続けるぞ。わしは主らを決して許さん。こんな森でなにも知らぬ者に守られて、自尊心もなにもかも失ってしまったものと見えるわ。かの世界で最強と謳われた神は何処へ行ったものやら。主の力も衰えたか、衰えたも道理、元々神などではなかったのだからな。元々神などおらなかったのだからな!
悔しければ道を開けたらどうだ。わしは逃げも隠れもせん。逆に主らを追いつめてやる。主らを倒すまで戦ってやるわ!」
森はまたしても震えた。
だが今度は森の木々が、オルズデールとバーザムに道を開けるためにであった。
それとはっきりわかるほど木は動かなかったが、気がつくと森の奥に通じる道ができていった。
するとその最奥から、木々の裏切りを罵り、呪いさえしているような声が聞こえてきた。
その声は、たった今聞いた森の司の、豊かな、なにかを含んでいるような太い声とは似ても似つかなかった。
どちらかといえば、言葉はわからぬものの、神経質で甲高い人間の声のようであった。
「バーザム、避けろ!」
矢のような勢いで蔓が伸びてきて、近くの木の幹に突き刺さった。
木は低いうめき声をあげた。それに呼応するような声が方々からわき上がった。
「切っても無駄だ。やつの本体はこの奥にある。本体さえ倒してしまえば、蔓など力もなくなるわ」
が、その言葉も言い終わらぬうちに蔓は猛烈な勢いで引っ込んでまた伸びてき、今度は狙い過たずに、オルズデールの手のひらを貫通した。
バーザムは再び引っ込もうとした蔓をひっつかんで、老人の手から引き抜いた。
鮮血が飛び散り、それを浴びた木が震えたような気がした。
この蔓はまるで鋼のような硬さだ。蔓と言うよりまるで矢か投げ槍のようで、打たれれば骨も折れてしまうかもしれなかった。もちろんたとえ折れなかったとしても、打たれれば無事ではすまないだろう。
「こいつは俺がくい止めてやる。あんたは本体とやらを倒せばいい」
「気をつけろ、バーザム。蔓は1本とは限らんぞ」
皆まで聞かぬうちに彼は蔓に引っ張られた。
鋼のように硬いがしなやかさは蔓のようだ。
そんな物を彼は見たことも聞いたこともない。おとぎ話にさえない。
急いで手を離すと蔓は猛烈な勢いで引っ込んでいった。
バーザムはとうとう鞘のままの剣を構えて立ち、前方を注視した。
「退屈しないことは保証されたが、まさかこんな化け物と戦うことになるとは思わなかったぜ」
冷や汗が背中を一筋垂れたが、かえってそれで肝が据わった。そしてたとえ破れかぶれで開き直っただけだったとしても、度胸の据わった彼は相当な事にも動じないのだ。
蔓が攻撃してこないのを見て、バーザムは自分の方から近づいていった。
すると、大きく開けた森の奥に、周りの木々を圧倒するほど見事な巨木が立っているのが見えた。
木の種類はわからないが、どこか見たことのあるのような樹皮だ。たぶんハロンドール王国ではよく見られる木なのだろう。あるいは木はみんな同じに見えるかだ。
そこいらにただ立っていても、でかい木だとしか思わなかったに違いない。
樹冠は天然の屋根を作っていて、枝と葉には隙間もないほどだった。
蔓だってこれほど派手に動いておらず、またオルズデールの話を聞いていなければ、この木に寄生した蔓としか見えなかったに違いない。
しかし蔓はまるで鞭だった。鋼のように硬い、始末に負えない鞭だ。
バーザムは蔓と激しく打ち合ったが、2本目の蔓に足下を払われた。
体勢を立て直す暇もなく、3本目の蔓に足を捕らわれて宙づりにされ、なにかをする余裕もないままに2本の蔓で滅多打ちにされていた。
しかし、突然彼は放り出された。
3本の蔓はオルズデールを、虫をピンで刺すように捕らえていたのだ。
老人の顔からは血の気が引いていた。
木の怪物は、どうやら彼のことを罵っているらしく、バーザムよりもずっと先に倒したいようだった。
聞いたことのない言葉が素早く甲高い声で吐き出され、その悪意は言葉がわからなくても伝わってくる。
まったく気持ち悪くなるほどの悪意だ。本当に呪いというものがあるのだとしたら、こういうことを言うのだろう。
蔓はまたオルズデールを打った。
が、2度目の鞭が振り下ろされるより速く、バーザムはそいつをひっつかんでいた。
「本体を倒せば蔓は無力化できるんじゃなかったのかよ?」
「そう簡単にいく相手ではないわい。愚痴をこぼす暇があったら、自分のやるべきことをやらんか」
「やることはやってるだろう。こんな化け物相手に剣1本でできることなんて大したことじゃないさ。せいぜいあの蔓を足止めしておくぐらいだ。それだって一度に2本とやりあえるものか。
そっちこそ、こっちがくたばらないうちにとっとと片づけてくれ。本体を片づければ終わるんだろう?」
「わかっておるわ」
力比べでは早々負ける気はしないバーザムだったが、それも相手が人間の場合だ。こんなにでかい木の化け物が相手ではお話にもならない。
それでも彼は善戦しているつもりだ。
見たことも聞いたこともない蔓のような鞭を操る化け物を相手に、たかだか剣1振りでかなりいい戦いをしているはずだった。
オルズデールが右に行くのと同時にバーザムも左に動いた。
「わしはこっちだ、ガルガランゾルン! わしらをいたぶってばかりいないで、さっさと喰らいにきたらどうだ!」
巨木は呪詛の言葉でも吐き散らしているかのようだった。
突然その根がゆっくりと引き出された。
足だ。この化け物は、蔓という武器を持っているばかりではなく、歩くこともできるのだった。
それから蔓は強引にバーザムから離れた。
すぐさま追いすがるのも振り切った。
その行方を追いきるまでもなく、無数の葉が、針の雨のように2人に襲いかかる。
オルズデールもバーザムも、なにはともあれ顔をかばった。目に刺さったりすれば一大事だ。あとはどこに刺さっても、抜くのは終わってからでも遅くはないだろう。
たぶん。
それからガルガランゾルンはご丁寧にも3本の蔓を使い切って、針を避けるために両手をあげていたオルズデールを自分の幹近くまで引き寄せた。
老魔法使いの小柄な身体はなんの抵抗もできず、その圧倒的な大きさの前につぶされてしまうだろうと思われた。
「オルズデール!」
不意に老人の身体が紅蓮の炎に包まれた。
枝も葉も逃げ出すよりも速く炎は急速に木の化け物に移っていった。
それからまもなく、ガルガランゾルンは音も派手に燃え始めた。
その姿を即座に水晶のような膜が包む。
オルズデールの手際の良さは、まるで最初からこの瞬間だけを狙っていたのだとしか思えないほどだった。魔法のことはまったくわからぬバーザムでもそれぐらいのことは簡単に想像ができた。
膜のなかで炎は勢いを増していったが、他の木々に飛び火することはなかった。
ほかの木を傷つけることなく、オルズデールは巨木の化け物だけを焼いてしまうつもりなのだ。
悲鳴が聞こえた。
木が泣いているのだ。
あれほど呪いの言葉を吐き続けた木の化け物が、その呪いを吐きつけた相手に哀れみを乞うている。
だが答えはない。
ガルガランゾルンの身がよじれ、もがいた。
なおも悲鳴をあげつづけ、慈悲を乞うているかのようだ。
あるいはいっそ、一息に殺せとでも言っているのだろうか。
まるで火刑にされている罪人でも見ているようだった−−−その時の記憶が少しだけ蘇ってきたが、自分がどう考えたかなんてことはバーザムはとっくに忘れてしまっていたし、それほど火刑を見たことがあるわけでもなかった。
彼は痛みも忘れて近づいたが、木の燃えるところを凝視するオルズデールの横顔に「やめろ」と言うことはできなかった。
炎を写して赤々と染まった老魔法使いは、その怒りをも炎の動きに乗せたかのようだ。それは炎の勢いがいっこうに衰えぬことからも彼が操っているのが明白であった。
バーザムは剣を拾い、腰に吊した。
彼はオルズデールを見つめていた。それ以外、彼にできることなんてない。
そして老人はガルガランゾルンが燃え尽き、ただの灰と化すまで炎を燃やし続けて、その場から立ち去ろうとはしなかったのである。
「わしが恐ろしくなったか、バーザム?」
事が済むと、2人はお化け森をとっとと退散した。
森の木々は夢から覚めたような様子で彼らに道を譲り、森から出た時にはすっかり辺りは暮れていた。
場所を選んでいる暇もなく、2人は急いで火を焚いて、野宿の支度を始めた。
だが、何よりも優先しなければならなかったのはお互いの傷の手当てであった。
「藪から棒になにを言い出すかと思えばそんな話か。くだらねぇ。
いちいち怖がっていたらこれからもたないだろうさ。化け物なんてもっとお目にかかるんだろう? 最初にあんたがそう言ったんじゃないか。
それに、俺にはあんたを恐ろしがる理由はない。そうだろう? あんたの敵は化け物であって、俺じゃないんだからな。俺があんたを恐ろしがる理由なんて何1つないはずさ。
さあ、馬鹿なことを言ってないで、とっととそっちの腕も出したらどうなんだ。まだ俺の手当が済んでないんだからな」
「お主も若いのに肝っ玉は太いものだのぅ。わしも人を見る目があったということだな」
「おだてたってなにも出ないぜ。俺は最初に断ったとおり、無一文のすっからかんだからな。あるのはこの身だけだ。あとはこの剣ぐらいだ。
そんなことより、いつまででかい声でしゃべってるつもりなんだよ? そいつもあんたの魔法なのか? だとしたら、いつになったら解けるんだ?」
「おお、忘れておった。道理でしゃべりにくいはずだわい」
あれだけ派手に炎に包まれたはずなのに、オルズデールは火傷1つ負ってはいなかった。傷と言えば、都合4回、蔓に突き刺されたところや葉に刺されたり、蔓にむち打たれたところばかりだ−−−それはそれで大した傷ではあるのだが。
しかも見た目の派手さにひきかえ、老人はバーザムよりも元気そうなほどだった。
それらの理由をバーザムは今更追求するつもりはないし、今夜のうちに本気で忘れてしまおうと思ってさえいる。
オルズデールは魔法使いだ。他にどんな言い訳を付け足しても、ことこの老人に関してはそれ以上の説明にはならないだろう。
加えて、老魔法使いは口のなかから鳥のくちばしのようなものを取り出した。田舎芝居とかで、鳥に扮した俳優が口につけていそうな、見た目は滑稽な代物だった。
しかしそいつを取り出したオルズデールの声は、ふつうの大きさに戻っていた。
バーザムの考えていたとおり、やはりそれも魔法なのだ。
「どうせ訊いても教えてくれないんだろうけど、やつはいったい何者だったんだ? ガルガランゾルンとかあんたはさんざん呼んでいたけど、それがやつの本当の名前だったのか? あんな化け物の?」
「答えてやらんでもないがちょっと待て。まずは一服してからだ。
パイプに煙草を詰めてくれんか、バーザム。この手では煙草をこぼしかねん」
「へいへい」
彼はパイプと煙草入れを受け取って、森を振り返った。
お化け森は、先ほどの騒乱など嘘のように静まりかえっている。
こうして見ているとごくごくふつうの森だ。
バーザムだって、実際に森に入って、生きて動いている木々を見たのでなければ「お化け森」だなんてあだ名は笑い飛ばしていただろうし、そもそもまともに聞いてもいなかっただろう。
彼は本来現実主義者で、自分で見たものでなければたとえ魔法だろうが奇跡だろうが、第一化け物だって信じはしない。
魔法についての考え方は、オルズデールとの出逢い以来、180度転換させられるはめになったとは言え、いまだって胡散臭いものと考えているのも確かである。無論それはかなり、オルズデールの人となりに原因があるのも間違いはない。
しかし、「お化け森」にガルガランゾルンと呼ばれた巨木の化け物がいて、そいつと戦い、オルズデールが根こそぎ倒してしまったことも、鳥や虫の音の聞こえる今となっては夢のような話だ。
それぐらい、森は平穏そのものだった。
しかし、バーザムの耳には、ガルガランゾルンのあげた断末魔がこびりついている。
あんなにでかい化け物があげた悲鳴が、耳を離れていない。あれほど居丈高に森の木々を従え、意に添わせていたやつの最後にしてはあんまり哀れっぽく、惨めったらしくて、すぐに忘れてしまうのかもしれないけれど、今日はまだ忘れられそうにないのだ。
だが彼の傷は、そのガルガランゾルンに負わされたものなのだ。骨は折れていないようだがひびぐらい入ったかもしれない。
その痛みは夢ではなかった。すべては本当に彼の経験したことであった。
紫煙が立ち上った。
オルズデールはさも気持ちよさそうにパイプをふかして、その人を喰ったような表情は、いつもの顔だった。
バーザムも遅れて火をつけた。思い切り息を吸い込むと胸が痛い。やっぱり肋骨の2本くらいにひびでも入っていそうだ。
彼が顔をしかめるとオルズデールが遠慮なしに笑った。
「ちぇっ、剛毅なじいさんだな。自分だってけがしてるくせに」
「生憎だがこれが性分なんだ。笑える限りわしは大丈夫だ。だからわしは、どんな時でも笑うことにしておる。どんな苦しい時にでもな」
「へぇ」
「真顔で感心されるとけつの穴がこそばゆいのぅ。そんな大仰なものじゃないさ、わしの意地というやつよ。転ばされてもただでは転ばん、地に這いつくばらされてもいつか立ってみせる。それだけのことさね」
オルズデールの表情が一瞬真面目になり、また和んだ。
バーザムはその面を思わず凝視したが、あわてて目をそらした。
「さて、落ち着いたところでやつの話でもしようかの。ガルガランゾルン、草花と木々の偽りの緑の王などと名乗っておったやつの話をな」
「いいよ、もう」
「なんだ、そりゃ? 聞きたがったのはお主の方じゃないか。わしは話さんとは言わなかったぞ。ただ一服させろと言っただけだ」
「だからもういいんだって、そんなこと。そいつがどんなやつかなんてもう俺は興味が失せたんだ。これからあんたが戦おうとしているやつらについても同じことさ。どんなやつでもいいんだ。たとえいいやつだろうと悪いやつだろうとどうだっていい。
あんたが倒せって言えば、俺はどんなことをしてもそいつらを倒す。この命と差し替えにしてでも倒してみせる。
あんたが剣を抜くなって言えば、俺はどんなことがあっても剣を抜かない。たとえ袋叩きの目にあっても絶対に抜かないでみせる。
それだけで十分さ。いいじゃないか、それで。
だからその、ガルガランゾルンなんてやつの話は聞かなくてもいいんだ。あんたが話したいって言うのなら俺も聞くけど、もうわざわざ知りたいとは思ってないんだ」
言いながらバーザムは背を向ける。
自分でも顔が赤くなってるのがわかった。恥ずかしくて、オルズデールの顔がまともに見られないのだ。自分で言いながら、あちこちがむずがゆくなってきたぐらいだ。
こんなことを言ったのはオルズデールが初めてだった。そしてこれからも、それは変わりはしないだろう。
「こっちを向け、バーザム。まだお主の傷の手当てが済んでおらんぞ」
そんなバーザムに気づかないのか、オルズデールの声音は変わらぬ調子だった。
そう、まるで特別なことなどなさそうに人を喰った言い方で、さらっととんでもないことを言ってのけるのだ、このじじぃは。
出会った時からそうだった。
「あ、ああ」
振り返ると、オルズデールが包帯と一緒に酒瓶を突き出していた。どこから出してきたのか、用意のいいことに杯まで持っている。
オルズデールの荷物が見かけによらないことを、いまさらバーザムは追求しようとは思わなかった。そんな小さなことを気にしていたら、この老人とはつきあっていられないし、バーザムにはあるべき物があればそれでいいのだ。
「お主の傷の手当てが終わったら心ゆくまで飲もうじゃないか。傷なんてで身体のなかから消毒するのがいちばんいいんだ。まずは一仕事終わったのだからな」
「そうだな。でも今日はいつかのようにはいかないぜ。俺はこれでも、簡単に酔いつぶれたりはしないからな。酒の強さには自信があるんだ。俺に勝ったやつなんてそうそういないんだぜ」
「望むところだ。それぐらいの相手でなければわしも酒を飲んでもつまらんわい」
「そうだな。俺も飲み甲斐がない」
オルズデールが先に笑い出した。つられてバーザムも笑った。2人とも傷だらけの身で、声を立てて笑いつづけた。
結局、その夜、2人は酒瓶を空にするまで飲み続けた。酒の強さではほぼ同等で、どっちも先につぶれず、ただ話をし続けた。そして酒がなくなった途端にほとんど同時に眠ってしまったのだ。
翌朝は2人とも傷を負っていたので道行きははかどらなかったが、空はよく晴れて、南側にそびえた大ダンドカンバ山脈の影だけが長く長く北に延びていた。街道はこの先、ずっとダンドカンバ山脈の影の下にある。人もほとんど住んでいないし、旅人を見かけることも滅多にない、文字通りの荒野が広がっていた。
その影を抜け出した遙か北に、彼らの目指すアズュレの地はある。
そしてこの先も、ガルガランゾルンのような怪物が2人を待ち受けているのだろう。
アズュレ 遙かなる北の果て
鳥も通わぬ最果ての地よ
貴女の心はアズュレより遠く
そこに至る道も そこより帰る道も
わからぬまま
そこへ行ったと言う者もなく
そこより来たという者もない
アズュレ そこは北の果て 最果ての地
恋人よ 貴女の心をいかにして
取り戻したものだろうか
復活暦928年。バーザム=フェルデス、17歳、オルズデール=フォレス、65歳のことであった。
《 終 》