お茶売ります。
「先生、お茶の葉がなくなってきたんですけど、どうしましょう?」
ガイル=ヘイズはそう言って、お茶の葉の入っていた筒を師匠に差し出した。その緑色の山は、彼が初めて見た時から確実に減り続けて、最近では傾けた角度によっては底が見えることもあるほどだった。
賢者オルズデール=フォレスは鋭い視線をその筒に向けて、静かにお茶をすすった。
食後のお茶と煙草の一服は、何人たりとも邪魔できない師匠の楽しみの一つだ。その楽しみのお茶の葉がなくなってきたとはいえ、正直なところ、ガイルは声をかけるのは半分おっかなびっくりのところがあって、慌てて茶筒を引っ込めたほどだった。
オルズデールは味わうようにお茶をゆっくり飲み干した。ガイルはまだ、お茶の入れ方を師匠に褒められたことがなかった。もっともこれはお茶の入れ方に限らず、食事の作り方から魔術全般について、彼は「よくやった」と言われたことがなかったのには変わりがない。人であれ物であれ事であれ、オルズデールが何かを褒めたのを彼は聞いたことがないのだ。
「いい機会じゃ、ガイル。おまえにこれから、わしの茶の師匠とも言うべき人物を紹介してやる。うまいお茶の入れ方をちゃんと学んでくるがいい。わしもそろそろ堪忍袋の緒が切れかけておる。わしなどが教えるよりずっと効果覿面じゃろうて。
ただし、あらかじめ言っておくが、かなりの気難し屋だ。くれぐれも機嫌を損ねて、弟子のおまえが気に入らないからわしにも来るなと言われんようにしてもらいたい。いいな?」
「はぁ。
それで、俺はどの店に行けばいいんでしょうか?」
「その店はミストローアにはない。鈍色の扉は見たことがあったか? そこが彼の店に通じる扉じゃわい」
オルズデールはそう言いながら、パイプに煙草を詰めた。
間もなく煙をくゆらせながら、2人は鈍色の扉を探して、そう広くない塔のなかを歩き回った。もちろんくゆらせているのは師匠だけだ。ガイルは酒も煙草もどっちもだめな、師匠に言わせると「おもしろくないやつ」なのである。
「先生、あの扉じゃないですか」
ガイルが指さすと、老魔法使いは煙を吐き出して頷いた。
鈍色の扉は2人が近づいていっても、消えることなく空中に浮いていた。このような魔法の扉がオルズデールの塔には数え切れないほどあった。それらはガイルにはまだ開けることはおろか、さわることさえできない扉が大半なのだ。その大多数は、師匠に曰く「図書室か実験室か倉庫」に通じており、塔がさまざまな物品で埋もれないのはこれら魔法の扉の、もっと正確に言えば〈魔宮〉のおかげなのだった。
「ふむ、間違いなし。これがお茶屋に通じる扉じゃ。わしがおまえぐらいの若僧のころに造った扉でな、ちょくちょく開けておるわい。もっともお茶以外の用事で出向くわけにはいかんが」
「このなかって、先生の造られた〈魔宮〉なんですよね? そんなところに住んでいるなんて変わった方なんですね」
「違うわい。この扉はあくまでもただの入り口、2つの世界をつなぐ扉にすぎん。わしが造ったのは扉だけじゃ。この扉がいままでの歳月、間違うことなく彼の店につながっておるのはひとえにお茶屋のおかげなのじゃ。またつないでくれておるのもお茶屋の好意なのじゃ。わしは扉を維持しておるだけで他にはなにもしとらん。お茶屋にその気がなくなれば、この扉はいつでもただの扉となるのさ」
ガイルは首を傾げた。どうも師匠の言い方は妙だ。まるでこの世界の他に、別の世界があるような言い方をする。
試しに彼は手を差し出してみたが、想像に反して簡単に把手を握ることができた。魔法の扉は力のないものには開けることもさわることも、見ることもできない ―――この順に簡単になる。つまりこの扉には、オルズデールに弟子入りしてまだ1年にしかならないガイルがさわってもまったく問題がないということだった。
彼はそのまま扉を開けた。
無数のお茶の混ざり合った匂いが強烈に漂ってきた。慌てて扉を閉めそうになったガイルは、そこが誰かの店先であることに気づいて、カウンターの向こうにいた小柄な人物と視線が合った。
尖った耳に突き出たような鷲鼻、外側につり上がった目はガイルをにらみ、ついでその後ろに立つオルズデールも見たらしかった。その顔はとっさに思い出せないだれかに似ていた。見たことあるような気がする、程度にしか思い出せないだれかにだった。
「ほっほぅ、オルズデール! またお茶を買いにやってきたな。この前お主がやってきた時から数えて月が3回生まれ変わり、星々もその位置を大きく変えたわい。まこと光陰矢のごとしだ。だがわしのお茶は健やかに育っておる。もうじき良い紅茶になるだろう。わしも健康そのもの、お主も健やかそうでなによりだ。
ところでその若いのはお主の何だ? 初めて見る顔だが、お主が連れてきたなかでいちばん若いし、いちばんきかん気そうだ。ふむ、お主がだれかを連れてきたのは月が何回生まれ変わる前であったものか、忘れてしまったのぅ。そいつもそれから連れてきておらん。もう名も顔も忘れてしまいおったわい。
お茶は好きかね、若いの? わしの名はあんたらには伝えにくいし覚えにくいし発音しにくい。まこと、音を伝えるとは難しきことなりかなだ。わしのことはただ『お茶屋』と呼んでくれ。オルズデールもそう呼んでおるし、他の客もそうだ。あんまり長いこと本名で呼ばれたことがなかったもので、わしもそろそろ自分の名前を忘れかけておるよ。忘れてしまったところでわしの本質に変わりがあるわけでもあるまいし、さしたる問題もないが。わしはお茶造りとお茶の売買を生業としておるものでな。
お茶! その不可思議なこと、単純な味わいに多くの含蓄がある。蒸らし、煮て、焼いて、炒めて、生で、さまざまに姿を変え、名を変え、味を変える。この世のあらゆる謎は、ただ1杯のお茶に含まれているのかもしれん。故にわしはお茶を極めたいと思っておるが、謎は謎、知れば知るほど限りがなく、また別のことが知りたくなる有様。お茶こそこの世の神秘、我が命題だ。お茶に次ぐものと言えば、わしには他に宝石しか考えられんわい。お茶と宝石、これさえあれば、わしはもう『満足だ』と言ってのけよう。その全てをわしに伝えよ。さすればわしの魂は犬にでもくれてやろう。
お茶を味わうがいい、若き者よ。お茶、お茶。もちろんお茶は嗜むのだろうな?」
「もちろんです、お茶屋さん」
思わぬ鋭い視線を向けられて、ガイルは師匠とはまた違った迫力を覚えて緊張した。お茶屋の顔は皺だらけで、向けられた手も小さい。だが、お茶に凄まじいほどの執着を見せる、このお茶屋という人物は、並々ならぬ力の持ち主のようだった。
彼の答えを聞くと、お茶屋は笑った。なんか師匠を小型にしたような笑い方だった。
「またお茶を求めに来ましたわい。相変わらず健やかそうでなにより、その意欲は初めてお会いしたころと変わりませんなぁ」
ガイルの後ろからオルズデールが出てきた。2人は軽く握手を交わし、ガイルも師匠に倣う。
「これはガイルといってわしの弟子です。この前、月が3回生まれ変わり、星々もその位置を大きく変えたころに弟子にとりましたわい。お茶について、一説拝聴しようと連れてきた次第です」
お茶屋は、今度はガイルを上から下まで眺め回した。だが彼ときたら、椅子の上に立ち上がってもまだ師匠やガイルより低いのだった。
「けっこうけっこう。お茶について語ることは多い。ただお茶を入れる、お茶を飲む、という単純な動作にも含蓄があるものだ。お茶について知れば、世界もまた見えてくる。世界を知れば、お茶のこともまたわかる。この小さな葉がな、ただ蒸され、煮られ、焼かれ、炒められ、生で味わうというそれだけの行為によって、なんと無数の言葉を持っていることか。
わしは月が無数に生まれ変わり、星々がいまの星座を形作っておらなんだころからお茶について知ろうとしており、育て、商い、味わっておるが、さてどれだけの真実が見えてきたのやら、さまざまな事実が見えれば見えるほど、物事の真実は霞んでくるのかもしれんのぅ。
若人よ、お茶の葉というものを見たことがあるかね? お茶を育て、お茶を摘んだことは?」
「ないです。お茶を飲んだことはありますけど、育てるとか、摘んだってことは全然。お茶の葉しか見たことがないです。こんな瑞々しい葉じゃなくて、お茶に入れる葉だけです」
お茶屋の目が光った。ちょっと踏ん張ると、お茶屋はすぐに椅子の上からカウンターを飛び越して、ガイルとオルズデールの前に立った。なりは小さいが、なかなかの動きだ。だが、その顔がだれに似ているのか、ガイルにはどうしても思い出せない。
「ほっほぅ、オルズデールよ。お主、今日はお茶を買いにきたのであろう? 棚はいつもの通りだ。試飲用の急須はこれ。お主の湯飲みはいつものところだ。わしはこの若いのを連れて、ちょっと畑まで行ってくる。お主はそのあいだにお茶を選んでおるとよい。
お茶、お茶とな。わしの棚はまた数を増やしおったぞ。あらゆる世界から茶を買っておるものでな、いくら棚があってもまだ足りん。もっとも棚に頼めばいつでも入れるところなど増やしてくれるがな。そのうち小屋も棚に合わせて広げなければならなくなるだろう。それも小屋に頼めばすむことだ。そうしたら畑の分が減る。これはだれに頼むわけにもいかん。畑は畑、それ以上でもそれ以下でもない。いろいろと思案すべきことは多いわい。お茶とな。
ソブル茶を試しに飲んでみるといい。なかなか手に入れられない一品でな、このために宝石をずいぶん手放したわい。だがお茶に勝るものはなしだ。宝石のいかな輝きも、お茶の前には霞んでおるのよ。金剛石も羅炎も、藍も真珠も琥珀も猫目石さえ、わしの目の前をただ通過していくのみよ。
うん、今日はなにを持ってきたのだ? 宝石は手に入れがたい、故にどこでも珍重される。たった1個の紅玉石で一山の紅茶が買える店もあるのだからな。ただ1粒の金剛石が国を滅ぼすこともある。ほぅ、これは緑玉石だな、それもなかなかの粒だ。よろしい! この若いのの勉強代も込みで、いつもの量を持って帰るがよい」
オルズデールは黙って一礼した。師匠がそんな風に振る舞う相手を見たことがなかっただけに、ガイルは目を丸くして、半ばあっけにとられて2人のやりとりを聞いていた。
「さあ行くぞ、ガイルとやら。わしの畑をその目で見られる機会はなかなかない。よく見て、お茶について1つでも学んで帰ってほしいものだ。
お茶。わしは全き満足を得られたことは一度もない。これがお茶の楽しいところでもあり、難しいところでもある。そして見てから、1服嗜んでゆくがよいぞ。お茶とな。それを極めるのは容易なことではあるまい」
「よろしくお願いします」
ガイルも頭を下げた。この、人でもなければ百8の魔の物でもないお茶屋は、他ならぬ彼の師匠が礼をもって相対する人物なのだ。弟子の彼が礼を失するわけにはいかないし、それよりも彼もまた、お茶屋に好意を覚えたのであった。
お茶屋は先に立って、ただ1つの扉を開けた。オルズデールとガイルが通ってきた鈍色の扉は、どこかへかき消えてしまったらしかった。
外に出ると、燦々と陽が照っており、少し汗ばむくらいの陽気だった。そしてお茶屋の建物の周囲は、四方八方例外なしに、どっちを向いてもお茶畑がずっと地平線まで続いていた。その地平線も緑色に霞んで見える。
ガイルは思わず目眩がした。お茶屋の言うことをはなから疑ってかかっていたわけではないが、彼の言うお茶がこれほどの数と量だとは想像もしてみなかったのだ。同時に、彼はお茶屋の言っていた「ありとあらゆる世界から」の意味がようやく呑み込めたようで、その多さにも背筋が寒くなったのだった。
「これ、全部あなたが集めたお茶なんですか?」
「もちろんそうだ。だが世界中をかけずり回って集めたわけではないぞ。
わしのお茶屋にはオルズデールをはじめとしていろいろな客が来る。お茶を売ったり買ったり、そのためだけにな。
無論、なかにはわしのお茶についての知識を重宝していろいろと聞きにくるだけの者もおるが、皆、じきにわしの店の客となるのだ。お茶はわしらを魅せるのだ。人であろうが魔であろうがそれに変わりはないわい。逆にお茶に魅かれる者に悪しき者などなかろうとわしは思うのだ。わしの店では皆が皆、ただの客であるのだからな。
なかには自らお茶を栽培している者もずいぶんおってな、珍しいお茶の苗木と引き替えに、別のお茶を求める者もおる。単にお茶を買いにだけ来る者は珍しい方だのぅ。となるとオルズデールは珍しいやつということか。
もっとも宝石さえ持ってきて、わしが気に入るような者なら誰でもわしの店のお客となれるのだ。さっきの緑玉石は見たかね? オルズデールとの付き合いも長くなるが、あれはなかなかどうして、平々凡々な石など持ってきたためしがない。どこで見つけてくるのか知らぬが、侮りがたいやつよ。
まったく、お茶のことを除けば、わしを夢中にさせるのはただ宝石のみ。だが宝石の方に熱中するにはお茶はあまりに魅力的な代物だ。まことお茶とは、この世の神秘に違いないわい」
「ずいぶんきつい香りのお茶があるんですね。いったいここには何種類ぐらいのお茶があるんですか?」
お茶屋はガイルをにらみつけた、ようだった。その尖った耳も鷲鼻も、お茶屋の顔についているとなんということはなくなって見えるから不思議だ。だれに似ているのか、喉元で引っかかっているようなもどかしさだった。
「お茶の数など数えてみたこともないのぅ。それはわしの関知するところではないし、興味もないからな。わしのお茶に対する興味とは、ただ全てのお茶と名のつくものを集めて、その全てを味わいつくすことにしかない。それだけでも十分だし、時間は足りないものよ。こんな小さな葉が醸し出す舌の上の小宇宙、わしにはそれだけあればよいのだ。それがお茶のすべてでもあろう。
だがガイルとやら。もしもここに何種類のお茶があるのか知りたければ、ひとつ、行って数えてきてくれ。わしはうまいお茶を入れて待っておる。オルズデールも待つぐらいは厭わんだろう。頼んだぞ」
「え? え、えっ?! ちょっと待ってください。どうしてそんな話になるんですか 」
お茶屋は彼の言い分など聞いていなかった。くるりと背を向けると、その小柄な姿は小屋のなかに消えて、あとにはガイルだけが残されていた。
「まったく! なにが数えてみたこともない、だよ! こんなに! ちゃんと! 名札まで立てておいて! 全部知ってるに! 決まってるじゃないか!」
すでにあれから、たっぷり数時間は経っていた。ガイルは汗をかき、1歩ごとに悪態をつきながら、それでもくそまじめに言われたことを成し遂げようとしていた。いつ終わるかなんて、もはやどうでもよかった。彼はただ言われたことを途中で放棄するような、子どもっぽい真似だけはしたくなかったのだ。いや、言われたことをただするのとどちらが子どもっぽいかと言われれば、彼はそういう冷静な判断もできないような有様だった。
しかしガイルもただで転ぶつもりはない。魔法が働くのをよいことに、彼は無数の知らない文字と言葉で書かれたお茶の名札を全部写し、お茶屋に一覧として渡してやるつもりでいた。問題はただ1つ、待ちくたびれたオルズデールが先に帰ってしまわないかということだ。
「その時は! その時さ! 俺にだって鈍色の扉は開けられたんだから! 帰るのなんて! 簡単じゃないかっ! カイザー!」
手帳はすでに100頁以上も埋められていた。魔法による〈写本〉は正しい文字の書き順も読み方もわからなくてもそっくり写せるのが利点だ。触媒の羽ペンさえあれば、どんなに分厚い本でも簡単に複製できる。欠点は魔法の書には効かないことだが、それも大した欠点ではなかった。もう1つあげれば、汚い字もきれいな字も、みんなそっくりに複写してしまうことだろう。
「喉、乾いたなぁ」
この陽気の下でずっと罵り、呪文を唱え通しだ。喉が乾くのも道理というものだが、彼はお昼に飲んだお茶以来、水分は摂っていなかった。
「小屋、見えないもんなぁ」
周囲はお茶の木だけになっていた。がむしゃらに、ひたすら前へ前へと進んできたもので、そんなこともすっかり忘れていたのだ。せめて水筒ぐらい借りてきてもよかったかもしれない。だがそのうち、水筒どころでは足りなくなるかもしれず、オルズデールがそこまで黙って待っていてくれるとも思えなかった。
「とりあえず休もうっと。
それにしても、よくこんなにお茶の木ばっかり集めたもんだよなぁ。口を開けば二言目にはお茶お茶、だし、俺にはどのお茶飲んでも、同じような気がするけど、そんなこと言ったら、先生にも怒られるだろうなぁ」
結局、のんびりと休んでもいられなくて、ガイルはそそくさと立ち上がった。お茶の木はいつまでも終わりがなく、あとどれぐらいかかるのか、とっさに計算できなかったのである。
お茶の木に後生大事に取りつけられた名札を見つけて、彼は呪文を唱える。
また数歩先に進んで名札を見つける。
その繰り返しだ。いつまでたっても前に進まず、いつの間にお茶屋の小屋が見えなくなったのかと思ったほど足取りはのろかった。
しかし彼は振り返るのはやめにした。見えないものはどう頑張っても見えないのだ。この際、いつまで続くかわからぬお茶畑で無駄な労力を使ってはならないだろう。
だが、そうやって〈写本〉の頁を十何枚か増やしていて、ガイルは身体を伸ばして、振り仰いだ。
空は相変わらず高く、雲一つない。風はほとんど吹かず、彼の身を隠せるようなものはただ、丈の低いお茶の木ばかりだ。
そして彼は不意に、確か陽がまったく動いていないことに気づいたのだった。
お茶屋から外に出た時、陽は彼の真上にあったはずだ。まぶしかったので空を見上げたのだから間違いはない。それから何時間も経っているのに、なぜ陽はいつまでも傾くことがないのだろう。
喉はからからだし、〈写本〉は100頁もできた。だが陽だけが傾かないとしたら、それはどういうふうに考えればいいのだろう。
「先生、お茶屋さん。どういうことなんです? ここはどうなっているんですか? 時間は経っているんですか? 俺はいつまで、ここで〈写本〉をしていればいいんです? このお茶の木は本物? 俺は夢でも見ているんですか? 俺だけ夢を?」
彼は改めて周囲を見回した。なにか、お茶の木以外の物が見たかった。確かななにか、そこに必ず存在している、夢を見ているのではないと彼が確信できるなにかを見つけなければならなかった。
だが、彼の周りにあるのはお茶の木だけだ。彼とお茶の木以外には何もない。
とうとう、ガイルはお茶の葉をむしり、思い切り噛んだ。彼の知っているお茶とよく似た芳香が口のなかに広がって、一息ついた。それが何という名前で、どれぐら珍しくて、お茶屋がどんな宝石と引き換えに手に入れたのかということはこの際問題ではなかった。
「そうだ。お茶を飲まなくちゃ。俺はおいしいお茶の入れ方を教えてもらうために来たんじゃないか。それから早く帰って、先生に続きを教えてもらわなくちゃ。いつまでもこんなことしていられないんだ。早く、帰らなくちゃ」
彼は手帳をただんで手に取った。お茶の葉を噛みしめて、そのまま飲み込む。干上がった口でお茶の葉を飲み込むのは一苦労だった。けれども彼は無理矢理にそうした。そうする以外に彼はここから帰れない。
杖を握りなおして目をつぶる。
ガイルはそっと1歩踏み出して、お茶畑のあった地面とは違う感触を靴の下に感じて目を開いた。
お茶屋が舌打ちをした。
オルズデールが愉快そうに身体を揺すって笑っている。
「わしの勝ちですな。約束通り、とっておきの1杯をご馳走してやってくださらんか」
お茶屋はもう一度舌打ちをした。オルズデールとガイルを順ににらみ、カウンターの向こうでお茶を入れる支度を始めた。
「まぁ、座れ、ガイル」
師匠が目をこすったのは、笑いすぎて涙が出たからだろう。
「はい」
椅子に腰かけたとたんに目眩がした。喉の乾きと暑さのために、彼は自分がこれほど疲れていたとは思ってもみなかった。
「飲め」
お茶屋が湯気の立つ湯飲みをガイルの前に置く。緑茶は濁っていて底が見通せず、その香りが彼の意識をはっきりとさせた。疲れは容易にとれなかったが、少なくとも気分は良くなったようだった。
彼は手帳を自分の上着の下にしまい込んだ。どうやらもう用がなくなったようだ。帰ったら〈消本〉すれば、また別の用途に使えるだろう。紙も本も大事に使わないとならない。紙はどこでも貴重品だ。たぶんお茶屋は、ガイルが作ったような手帳などもう持っているに違いなかった。それも何千、何万頁もありそうなやつを、どこかに後生大事にしまいこんで、日々頁を増やし続けているのだろう。
それから杖を傍らにのけて、両手で熱い湯飲みを持った。熱いのを予想してそっとお茶をすする。やっと大きく息を吐くことができた。
「どれ、おまえの作った〈写本〉か。見せてみろ」
「あ、先生」
オルズデールの手が頁を繰る。一度取り上げられたら、容易に取り返せない相手だ。ガイルはあきらめて、お茶をそのまま飲み続けた。それにしてもしまいこんだ本をいつ見つけたのだろう。隠したつもりもなかったが、見つけられていたとは思ってもいなかった。
「ふーむ、おまえもよく写したのぅ。1、2、3……こんなに写す前におかしいとは思わなかったのか? おまえのことだ、10や20で気がついてやめるだろうと思っておったんだがな」
「だって、どうせなら全部写してやろうと思ったんですよ。そりゃあ、俺だって〈写本〉が使えなければあきらめたと思いますけど、〈写本〉が使えるなら、どんな厚い本だって写すのなんて簡単じゃないですか。それは写す手間もかかりますけど」
「その言い方、おまえは世の書記に喧嘩を売っておるぞ。世のなかには文字が書けない者はごまんとおるし、その代筆で食っておる者も大勢おるのだ。〈写本〉なんて技を知られたら、とんでもないことになるわい。口は災いの元じゃ、ゆめゆめそんな言葉を不用意に口にするなよ」
「そんなことないですよ。魔法の本は写せないし、印章まで再現できないし、〈写本〉だって完全じゃないじゃないですか。書記に喧嘩を売るなんて、俺は別にそんなつもりで言ったんじゃありません」
老魔法使いが手帳を返したので、ガイルは改めてそれをしまいなおした。
「いいところに気がついたな。完全な魔法などこの世にありはせん。魔法とは常に不完全なものであり、ゆえにわしらは全てを魔法で片づけることなどできはせぬのだ。ゆめゆめ魔法の力を過信してはならぬぞ。完全とはどこのどいつが言い出した言葉やら、こと生き物のしでかすことに完全などありはせんわ。完全とは幻、完全なるものはそれだけで完結しておる。つまり完全なるものはこの世にはないのだ。わかるな? つまりは死こそ完全なるものとも言える。違う違う、全きとは死することだ。忘れるなよ、魔法使いの弟子たるもの、魔法に対して過剰な期待だけはかけてはならぬ」
「よく肝に銘じておきます」
オルズデールは自分のお茶を飲み干すと、煙草を吸い出した。
「まったく、本気で写そうと思ったんだったら、おまえがやがて〈写本〉に埋もれても終わらなかったろうさ。ここは他ならぬお茶屋の畑だぞ。お茶の木がおまえに数えられるほどしかないなどと思っておったのか?」
「思ってなかったと言えば、嘘になりますけど」
彼もお茶を一気に飲み干した。
「でも、それだってなんとかなるだろうと思ってたんですよ。別に甘く見てたとは思いません」
「無知とは恐ろしいものじゃのぅ。なんとかなると思ってると言うあたりがなめておるわい。その台詞、ここが無限回廊であっても言えるのか?」
オルズデールの言い方はからかうようだった。だが師匠がそういう言い方をするのはいまに始まったことではないので、ガイルもいまさらそんなことでむくれもしないし、傷つきもしない。
しかし、「無限回廊」という言い方は引っかかった。彼が知らないことはなんにつけてもまだまだ多い。そのうちの1つなのかもしれなかった。
「なんですか、その『無限回廊』っていうのは?」
「読んで字のごとしじゃ。世界は1つではない。無数の世界がそれぞれ重なり合い、つかず離れずして存在し、多くの世界は他のどこにも影響することなくある。世界が、なぜそのようにたくさんあるのかわかっていることは少ない。だがおまえとて、108の魔の物が棲むのがわしらの住んでいる世界と違っていることは知っておろう。ここは『無限回廊』あらゆる世界に僅差で接している、ただ1つの世界と言ってもいいな。もちろんなかには精霊界のように、わしらの世界にごく近い世界もあるが、それだけが全てではないのだぞ。もっともわし以上に次元に詳しい者もおらんて、誰に聞いてもおまえを満足させられるような答えはできんだろうがな」
「あのー、先生、質問です」
ガイルは湯飲みを置いて、そっと右手を挙げた。左手は杖を取る。魔法の杖はただ1人の魔法使いにただ1本附属する代物だ。その杖の代替はなく、杖がなければ魔法使いはどんなに簡単な魔法でも使うことができない。たとえ魔法を使う時でなくても、彼は杖から手を離して落ち着いたためしはなかった。
とたんに得意そうに話していたオルズデールが大げさなため息をついた。
「まったく、こんなところに来てまでわしを質問責めにせんでもよかろうが。後では駄目なのか、後では」
師匠の言い方は本当にいやそうだったが、そういう態度をされることも今に始まった話ではないのでガイルもほとんど気にしない。いちいち気にしていては、いつまでたっても先になど進めないものだ。
「先生がお茶をいただきながらでもかまいません。でも、今教えてください。ここで聞かなくちゃ意味がないです」
今度はお茶屋が笑う番だった。笑うと尖った鼻は、まるで鼠のように見えた。そうだ。お茶屋がだれに似ているって、鼠にそっくりなのだった。
「ひひひ、ざまを見ろだ」
「よかろう、質問せい。まったく、おまえの質問魔にも困ったもんだのぅ。しかし、くだらん質問だったら承知せんぞ。おまえの質問にわしが悩まされんですむよう、おまえの口をわしの気が済むまで閉じてやるからそう思え」
「そんなはずないですよ。『無限回廊』って言うからには、ここのお茶畑は無限に続いていて、端なんかないのかと思ったんです。それに、俺があのまま気づかなければどうなったのかと思って」
「わしのお茶を邪魔するほど重要な質問ではないわい! だいいち、そんなことわしに聞くな」
「じゃあ、お茶屋さんでもいいです。教えてください」
お茶屋の笑顔がとたんにひきつった。ガイルの質問はいつも相手を困らせるらしい。彼はそんなことを意識しているつもりはまるっきりないが、どうも素直に答えづらいことを聞いてしまうようだった。そんなに答えるのが大変な質問だとは思えないのだが。
「知りたければ外に居続けてみるのだな。どこまでもどこまでも行ってみるがいい。そうすれば自ずと答えも知られようて。だがわしが教えてやる義理はないわ」
「でも、お茶屋さんは先生との賭けに負けたんですよね? 賭けの内容とか訊いてるんじゃないんだし、俺の質問に1つぐらい答えてくれたっていいんじゃないですか?」
ガイルはしつこく食い下がった。
お茶屋の雄弁さは陰を潜めていた。どうやらあれは偽りの姿らしかったが、だとしてもよくもまぁあんなに喋り続けられるものだ。
「口の減らない若僧だな。おまえはオルズデールの若いころにそっくりだわい。
だがそこまで言うのならわしも答えてやるわ。ただし1つだけな。1つの答えは2つの問いに答えうることもあるものだ。だからあとは自分で考えるのだな。
そんなに端が知りたければひたすら歩いてゆくがいい。倒れるのが先か、たどり着くのが先か、そこまではわしの関知するところではないわい。『無限回廊』の名はだてではないぞ。無限とはな、まったくせっかちな言葉だ。どこまでも、陽が昇り続け、わしの足が歩き続け、わしの目が探し続け、いつまでもいつまでも、ただ心に願い続ける限り、そしてわしがあきらめぬ限り、わしが行き着くところ、それを『無限』と言うのならそう呼ぶがいい」
「ありがとうございます」
そう言ってガイルは頭を下げる。
お茶屋の驚いたところを見ると、彼がそういう反応をするとは思ってもみなかったようだった。
「気が済んだのか?」
「はい、少し」
「おまえはいつか頭でっかちになってしまうぞ。知っていることばかり多くても、実践が伴わねば役には立たぬ。知識ばかりいたずらに増やしても、その縦と横、前後のつながりを知らなくては使い物にならぬ。まったく、おまえのためにあるような言葉じゃな」
「だから、先生、早く帰りましょう。さっきの授業の続きを、俺、早く知りたいんです」
オルズデールはまたしても大げさに嘆息した。
「お茶の入れ方はもういいのか?」
「ええと、たぶん。でもなにも習ってなかったような気もするんですけど、いいんでしょうか?」
「おまえがいいと思えばいい。だがたとえ知りたがっても、お茶についてはさっきの1杯以上に学ぶことはないと思うがな」
「じゃあ、いいです」
オルズデールはお茶屋を振り返り、また得意げに笑ってみせた。
「またお茶がなくなったころに来ますわい。今度もこいつを連れてくるかどうかは定かではありませんがな。来るなと言われれば連れてはきませんが」
お茶屋は鼻をならした。そうやって拗ねているように見えるところはますます鼠っぽかった。
ガイルは横を向いて、くしゃみを殺すふりをして笑いを隠した。お茶屋のすることがあんまり子どもっぽかったからだ。幸いにしてそれは、お茶屋にも師匠にも気づかれなかったらしかった。
「ふん、好きにするがいい。だが今度はそううまくいくと思うなよ、オルズデール。昔のおまえにはもう少しかわいげがあったものだ、少なくともその若いのぐらいのはな」
「ひひひ、それは褒め言葉と受け取らせていただきますぞ。わしもいつまでも昔のままではおられませんわ。昨日よりも今日、今日よりも明日、人間とはあなたがおっしゃったように日々これ、せっかちに変わりゆくものですから。うまくいくいかないはお互い様でしょうな。騙し騙され、人生とは奇異なことの連続で、またその変わりやすきことはお茶を遙かに凌ぎますわい。
しかしまったく、ここで手に入れられるお茶に勝る味はありますまい。また良き宝石を手に入れて、新しきお茶を楽しみにするといたしましょう」
オルズデールが杖を取り上げると、すぐに鈍色の扉が現れた。とすると、さっき消えたように見えたのは師匠が消したからなのだろうとガイルは納得する。魔法の扉は全てオルズデールが作ったものだ。消すのも出すのも自由自在というわけだった。
「それでは失礼いたしますぞ」
「帰れ帰れ。ここはお茶屋だ。お茶も飲まん、お茶の売り買いもせんという輩に用はないわい」
「失礼します」
最後にガイルはそう言ったがはたして、お茶屋の返事はないままであった。
オルズデールの塔に戻ると、やはりかなりの時間が経っていたらしく、外はすっかり薄暗くなっていた。さらにガイルを落胆させたことには、夕食の支度もじきに始めなければいけないという事実だった。
「なんか、お茶屋さんに振り回されたって感じです。お茶を買いに行くだけだと思っていたのに」
「それはおまえの勝手な思い込みというものじゃ。もっとも次に行くときは、こうはなるまいがな。何事も経験が肝心というものじゃ」
「今日のことも経験になるんですか、先生?」
「口の減らん奴じゃな。
おまえが経験だと思っておれば経験となる。無駄なことをしたと思えば無駄なことじゃ。どっちにするのかはおまえ次第、役立てるか時間をつぶしただけに終わるかはな。その守備範囲の狭い者は、多くの無駄に忙殺されるであろう、広い者は何事も経験とするじゃろう。
それでおまえは経験にしたいのか無駄にしたいのか?」
「もちろん経験です!
先生、お茶屋さんはどうして『無限回廊』になんて住んでいるんですか? そりゃあ、あのお茶畑はどこにでも作れるってものじゃないと思いますけど、元々『無限回廊』の住人ってわけじゃないですよね?」
「それはおまえが訊くのだな。それだけでもただ者じゃないということはわかるじゃろうが?」
「はぁ」
オルズデールが買ってきたお茶の包みを手渡した。ガイルはこれ以上おしゃべりに時間を費やすのをやめて、自分の義務を果たさなければならなかった。
「先生、今日は早速新しいお茶を入れますね」
「うむ。お茶への眼力は並ぶ者なき超一流じゃが、気まぐれなのが欠点じゃのぅ。それにあれだけのお茶を知らぬ者の方が多いというのも、惜しむべきことじゃわい」
包みの中身を筒に移し替えていたガイルは、底からひときわ大きな結び文がお茶の葉まみれで転がり出てきたことに気がついた。それは人の拳くらいの大きさで、案外と重たかった。
「先生、お手紙が入ってましたよ。たぶん、お茶屋さんからじゃないかと思いますけど」
「なんじゃと?」
結び文のなかから出てきたのは、大きな植物の種だった。その手の知識には総じて疎いガイルはすぐに興味をなくし、それよりもお茶の葉を筒に移す方に夢中になっていた。貴重な緑柱石と引き換えにせっかく手に入れたお茶だ。ちょっとでも無駄にしたらお小言をくらってしまうだろう。
その時、種が音を立てて割れた。
ガイルもオルズデールも手を停めて、種を見た。器用なことに、師匠は、視界半分で手紙を読んでもいるようだった。しかし、ガイルの手は完全に止まっていた。
種はなおも動いた。種というよりもまるで生き物のようだった。
「そいつを捕まえろ!」
「ええ?!」
驚いただけに反応が遅れた。ガイルが手を伸ばすより早く、その種から猛烈な勢いで蔓と根が伸びてきて、窓を突き破り、老魔法使いを突き飛ばした。ガイルの耳元をも蔓はかすめて、彼は思わず縮こまった。
気がつくと、オルズデールの塔は、種から伸びてきた蔓と根に覆われて、なかの身動きもままならなくなっていた。当然家具はしっちゃかめっちゃかに倒れ、崩れて、なかでも悲惨だったのはオルズデールの所有する諸々の紙や書籍や巻紙がばらばらに散乱していることだ。もちろん、ガイルの部屋もその他の部屋もとうてい無事ではあるまい。後片づけこそ魔法ではままならぬ最たるものだ。その面倒さを思うと彼の気持ちは暗澹としたものになった。
「先生! ご無事ですか?」
返事の代わりとでもいうように、彼の目の前にあの結び文が降ってきた。彼は思わず手を伸ばし、それに目を通す。差出人は、やはりお茶屋だった。
「オルズデールへ
今回はおまえに一本とられたので、おまけにバンゲアの種をやろう。わしからのささやかな贈り物だ。
バンゲアはおまえたちの知らない世界に生える食人植物で、その高さは数百メートル、根は1000メートルの長きに及ぶ巨大なものだ。わしの知るなかでもバンゲアほどの大きさに育つ植物はあるまいし、時と場合によっては龍でさえその蔓からは免れぬという。バンゲアの生えるところでは、いかにこれから逃れるか、戦うのかが主要な命題であるとも聞いた。まことすさまじきものだ。
ところが、つい最近わかったのだが、そのバンゲアの強力な蔓から、かの玉露にも勝るとも劣らぬ極上のお茶ができるのだ。
バンゲアを育てて、うまい茶を飲んでくれ。ゆくゆくはわしの店の目玉商品にするつもりでいる。
お茶屋
追伸 バンゲアの種はよほど劣悪な環境下に置かぬ限り、1000年の長き眠りにつくことが知られておる。しかし、その種は程良い気温と適当な湿度があれば、どんなところでも芽を出し、瞬時に巨大化することで知られておるので、種の状態で1000年も数えるのはかなり珍しいことと言わねばならぬ。
おまえの塔がバンゲアに占領されぬよう、文を開けたら、まず種を封印するなりするといい」
「するといいって言ったって、遅いじゃないか!」
ガイルは唖然として、塔中にはびこった、そのバンゲアとかいう蔓を見上げた。
難を免れたオルズデールが、黙って下りてくる。その視線は、彼に何も言うなと告げていた。
その後、巨大食人植物バンゲアは、〈賢者の学院〉中にはびこる前に、オルズデールの手で枯らされた。それほど話題にならなかったのは、元々変人で知られる師匠のことなので、よくある奇癖の1つとしか見られなかったのかもしれない。
ガイルはあれからお茶屋に行っていないので、2人がそのことをどう話したのか、あるいは師匠がどう落とし前をつけたのかは知らない。
けれども、オルズデールの塔では相変わらず、お茶が残り少なくなってくると、どこからともなく師匠がお茶を買ってくる。その出先をガイルは聞かないことにしているのだった。
《 終 》