2003年の年末年始は実家に帰りまして、久しぶりにテレビなど見て、おまけに冬コミで風邪まで引き込んで文字通りの寝正月でした。1月2日のテレビ東京系の12時間時代劇は、実は始まったころから我が家ではけっこう恒例になっているチャンネルで、「箱根駅伝」で母校に声援(もしくは罵声。さて、今年はどちらだったでしょう?)を送った後は、さらになんとかかんとか12時間もテレビにかじりついていたりしたものです。健康でも結局寝正月に徹するわけなんですけど。
で、今年の題目は「忠臣蔵」でした。そう言えば、紅白の裏番組として日本テレビ系でかかった年末時代劇も一作目は「忠臣蔵」でしたから、なんというか定番、年末っていうと「忠臣蔵」というパターンは最近特に傾向が強いようで、初めて見たころはけっこうおもしろがっていたたきがはも、何作か見ると飽きてきて、こういうワンパターンものを嫌う風潮のある我が家では「忠臣蔵」というだけですでに避けられる題材になっていました。
最近では、悲劇の主君・浅野内匠頭(念のため、「あさのたくみのかみ」と読んでください)が実はどうしようもない凡君で、悪役・吉良上野介(こっちも「きらこうずけのすけ」と読んでください。ちゃんと変換したAtokはやっぱり偉いぞ!)が実は名君だったという説も出てきた「忠臣蔵」ですけど、テレビで描かれる「忠臣蔵」はやっぱり忠臣の話であって、内匠頭はやっぱり悲劇の人で、上野介はやっぱり憎々しい悪役であるという描かれ方に変わりはなく、「なんでこうワンパターンなのかしらねぇ」とたきがはは母上と話しておりました。個人的には上川隆也さんに内匠頭なんて演らないでほしかったす。
その時、思いついたんですけどね。
内匠頭が悲劇の君主であるから仇を討ちに行く「忠臣蔵」なのではなくて、「忠臣蔵」だから、内匠頭は悲劇の主君でなければいけないのじゃないかって。だって凡君のために47人が仇討ちをして、しかもその相手が名君だったなんていったら、その方が悲劇じゃないですか。たとえ主君がばかでも忠節尽くさなくちゃいけないのが武士道(か? 封建制と間違ってるかもしれません)の常とは言っても、それでは美しくない。それではいけない。
つまり何が言いたいのかいうと、昭和天皇は戦争犯罪者として裁かれてはいけない。靖国神社に祀られている天皇の名において戦死した・戦犯として処刑された人が、犯罪者の名において戦死したり、戦犯として裁かれたわけにはいかないから、ということと根っこは一緒なんではないかと思ったわけです。
違うでしょうか? 「忠臣蔵」はただの美談でしょうか。て吉良上野介は実は名君だった、なんて「実は」がポイントなんだと思うんですけど。そして、内匠頭を悲劇の主君に仕立て上げなければ、昨今の脚本家の皆々様は「忠臣蔵」を書けないんじゃないかと思うんですけど。ばか殿のための「忠臣蔵」では視聴者は感動しないと思ってらっしゃる。感動させられる脚本が書けないんじゃないかとたきがはは思う。
いやいや。小泉首相はいみじくも「今国会で教育基本法と有事法制は成立させなくちゃいけない」と新年早々のたまいましたね。
来た来た。改革の美名に隠れていた本性がばれてきました。従来の自民党政権と寸分違うことのない本性が現れてまいりました。2002年の丸投げ政策なんて、有事法制に比べればかわいいもんですって。
折しもイラクでは、アメリカがなんでもいいからぼろを見つけだして、イラク攻撃の正当な口実にしようと躍起になっております。いちゃもんでもいいのです。国連の査察団だって、アメリカにすれば口実探しに過ぎないんだと思います。そして世界をアメリカの正義の名の下に支配したいんだと思います。
いよいよ、一人一人の行動が問われる時代になってきたと、思いませんか、ねぇ? その時たきがはは、アメリカの側にいたくないです。新年早々、物騒な話題ですけど。
(了)