「海辺の獣鬼(とろる)」

「海辺の獣鬼(とろる)」

「エルフィンドールへの道を探している。ついでに糧食も幾ばくか分けてもらえないだろうか」
西に大国パラティヌスを臨む海辺の村は、見るからに寂れていて冷たい海風が吹き抜けていた。
そこに紛れ込んだ両手持ちの剣と鎧を身につけたサーラは見るからに異質な存在で、彼女自身もそのことはよく理解しているつもりだし、用事が済めば早々に退散する予定だったのだが、彼女を迎えたのは好意的な視線であり、逆に彼女を警戒させた。
いかな理由をつけてみても、武器を携帯していることはふつうの人びとの考えでは異常なのだと彼女はよく知っている。そう考えている人びとがそういう自分を警戒するのも彼女には日常茶飯事のことであり、その逆の場合、たいていは裏の事情というやつがあるものなのだ。
だが、いまのサーラには選択の余地はなかった。狩りをしようにも獲物は何日も見ていない。実のなる木も生えていない。どんな裏があったとしても、行き倒れになる前にこの村を見つけられたのは幸運と思うべきなのだと彼女は自分に言い聞かせて、村を訪れたのだった。
「エルフィンドールなんて町は知らないがここからいちばん近い町はベアテというんだ。だがそこまで四日もかかるし、途中には村も宿もない。あんたは幸運だよ、この村はベアテからいちばん近い。うちの村に寄らなかったら、この先で行き倒れていたに違いない」
「それはどうも。ベアテまでの道を教えてくれ」
男は下卑た笑い顔を浮かべてサーラを見た。予想どおりの展開だ。
「ところがあいにくとこの村ではとても困ったことになっていてな。とてもじゃないがあんたにかまっていられないんだよ。あんたも大変な時に来ちまったもんだ。そうでなければ喜んでベアテまでの道を教えてやれたし、食糧も必要なだけ分けてあげられたんだが」
そう言って彼はため息をつく。
「私もただで糧食を分けろとは言わない。もしも私にできることがあれば手伝おう」
「本当かね? 見たところ、あんたは剣士さんのようだ。化け物退治など頼めるのかね?!」
男が声を張り上げたので、そこここの家から村人が顔を出した。だれもが似たような粗末な身なりをし、サーラに好奇の視線を向けている。たぶん、二人の会話もずっと聞いていたに違いない。
「どんな化け物だ? 大きさと数は?」
「一匹だけだぁ。それがわしらよりずっと大きなやつで灰色の肌をしてるんだぁ。武器を持ったえらく凶暴な奴でうちの山羊が食われた。あれはきっと伝説の獣鬼(とろる)に違いないよ」
「うちの鶏もやられたんだぁ」
「うちも山羊を喰われたんだぁ」
我も我もと声があがった。だがサーラの興味を引いたのは最初の者が言った「獣鬼」という聞き慣れない名前だけだった。
「獣鬼とは何だ?」
「子どもとか家畜を喰っちまう怪物だぁ」
「ここらの村じゃ悪いことすると獣鬼に喰わせちまうって言うんだぁ。本当にいるんだぁ」
「そいつが最後に現れたのはどこだ?」
またしても声がいくつもあがったが、根気よく整理すると西の方、パラティヌス王国との国境近くということになった。
「そこまで案内してくれ」
村人の好奇の目つきが多少の賞賛を含むようになる。だが彼女にしてみれば本当は食事もして休んでおきたいところなのだが、この状況ではそうも言っていられないようだから言ったまでのことだ。
「行く前に少し水を飲ましてくれないか」
「ああ、いいとも」
一人が雨水を溜めた甕(かめ)を指した。そこに入っている柄杓(ひしゃく)で一口だけ水を飲むと、疲れは少しだけ癒されたように思われた。絶食が続くとさすがに堪える。
最初の男がもう一人を連れてサーラの案内に立った。獣鬼については二人目の男が最後に遭ったようだが、最初の男は彼女が間違いなく獣鬼を退治してくれるかどうかお目付役も兼ねた村の代表らしい。
彼らが獣鬼と呼んでいるのは武器を携えた灰色の肌をしたジャイアントのような大きさの獰猛な怪物であった。しかし村人はジャイアントのことは逆に知らないらしく、このたとえは怖がられただけだった。
だがジャイアントには言葉が通じるし、むやみに人や家畜を襲うような化け物でもない。稀に人間と混血することもあるそうだから、村人の話す獣鬼とはまったく違う生き物だ。
「そっちの方へ逃げていったんだぁ」
パラティヌスとの境に聳える山岳地帯を彼は指した。もちろん道などない。あればこの村もパラティヌス王国領となり、少しは潤っていたかもしれないが、そのトレモス山脈が東の国境となったのだ。パラティヌス王国に伝わる伝説の開闢王ヴィラーゴが、藍の民との戦いの時に使った禁呪がトレモス山脈を高々と隆起させたという話は、王国領内を歩いている時には幾度か耳にした。だから王国の富はトレモス山脈で止まってしまう。そもそもパラティヌス王国の東方地方は中央ほどの富の潤いもない厳しい地域だ。
「鶏か山羊を貸してくれ。山に入って探すより、囮を置いて待ちかまえた方が効率がいい。さっきの話だと奴が最後に襲ったのは二日前の晩の山羊だそうだな。そろそろ来るころだろう、今晩か明晩か、退治できるのならば問題はあるまい」
村の代表、言ってみれば村長は、彼女の言い分をいろいろ思案しているようだ。案内役の村人は居心地悪そうに指先を動かしている。貧しい村ではこれ以上、家畜を失うのは負担なのだろう。
だが、サーラがここらで待ちかまえていても、広いトレモス山脈のどこから来るのか特定できなければ空振りに終わる可能性も高い。その化け物の知性がどれほどかわからないが、囮がいた方がいい。逆にこんなところにいるはずのない家畜を警戒するほど知能の高い怪物となると、それは別の理由で厄介なのだが、彼女はそのことは黙っていた。
「村長、まだ家畜を襲われてない奴から出させたらどうだろう?」
とうとう案内役が口を出した。
「そ、そうだな。確か、まだマルタンのところが無事なはずだ。ラウルも、襲われたとは言ってない。そうだ、村の危機なんだから、皆に協力させればいいんだ。待っていてくれ。村に帰って相談してくる。陽の暮れる前にあんたの言う鶏か山羊を連れてくるよ」
彼女は黙って頷いた。
二人が去ったのを見届けて腰を下ろす。
山から吹き下ろす寒風が肌を刺すように冷たい。ここ数日、ずっとそんな天気が続いている。
サーラは一握りの土を手にとってみた。農業のことはまったく知らないが、生えている草や木を見ても、ここらが貧しい土地であることは容易に想像がつく。実りの少ない土地で生きていくのは厳しいだろう。ベアテという町がどれほどの規模かは知らないが、彼女にはこの村に魅力は感じられなかった。
だが人の生き方はそれぞれだ。ここの村人に言わせれば、武器を片手に戦場を求めて放浪している自分など正気の沙汰ではないだろう。
土を捨て、彼女は負っていた剣を降ろした。使い勝手は良くない。買い換える金があれば、使い慣れた曲刀にしたいところだが、使い込んだ剣など二束三文にしかならない上、好んで使いたがる者もあまりいない両手持ちの大剣だ。転売価値は端から無いに等しく、加えていまのお寒い懐事情もあって、サーラはずっとこの剣を手放せないできたのだった。
「皮肉なものだな。使いづらいと思いながらこいつに命を預けたのがいちばん長いとは」
剣を抜き、山に向けてかまえる。灰色の肌をして、武器を持った怪物、ジャイアントのようなその姿を思い浮かべてみるが、いまはわびしい光景が広がっているだけだ。ねじくれた木の点在する灰色の山は、人が越えるには険しく、壁のようにそびえ立つ。そこに逃げ込んだという怪物は、このような山脈などものともしないような頑強な生き物だろうか。彼女もガリシア大陸はかなり広く歩き回ったつもりだが、そのような怪物の話は初めてであった。
西に大きな山脈を抱くのでこの辺りは日の暮れるのが早い。だが、夜の帳(とばり)が降りきる前に山羊の鳴く声がして、村長が囮の家畜を連れてきた。
「できるだけ殺させねぇようにしてくれ。山羊一頭でもここらでは貴重な家畜なんだ」
「努力はしよう。だがあなたは村に帰った方がいい。私も初めて聞く化け物だ。あなたを巻き添えにしないとも限らない」
「だけど、それじゃああんたが本当に化け物を倒してくれたかどうかわからん」
その答えは予期していたので、サーラは自分のずだ袋を差し出した。食糧が空っぽになったいま、入っているのは三日前に詰め替えた水の入った水筒と、寒さと降雨よけの外套、麻縄ぐらいである。
「私の全財産だ。あなたに預けておく。化け物を倒したら首を切り落として交換に行くから、それを証としてくれ。寒さしのぎに火を焚くわけにもいかないし物音を立てられても困る」
「あ、あんな奴の首を持ってこられても困る! せめて、そう尻尾とか、指とか、もっと大きくないものにしてくれ」
「わかった。それでかまわないか?」
村長はずだ袋を受け取り、その軽さに不安そうな顔になったが、化け物の首と引き換えと言ったことがよほど衝撃的だったのか、山羊に結んだ綱を渡すと、黙って村に帰っていった。
サーラは手近な木に山羊の綱を結びつけ、自分は岩陰に身を潜めた。それからじきに夕闇が訪れた。今夜も月は雲に隠されている。山から吹き下ろす風の音だけが聞こえるなかで、彼女は大剣を抜いた。
落ち着きのなかった山羊がくたびれて座り込み、しばらく哀れっぽい鳴き声を出すのもついに諦めて、寝に入ったころ、いっこうに止む気配のない風の音に混じって、無神経な足音が聞こえてきた。闇に慣れた目には、確かにジャイアントほどの大きさの二本足の影が山羊を目指して近づいてくるのが見えた。
それは荒く息を吐き出し、村人の言ったとおり、右手に何かを持っているようだ。両手は地面につくほど長いが、いささか猫背気味なところもあるらしい。背を伸ばせば、ジャイアントぐらいの高さはありそうだが、予想どおりジャイアントではなかった。
その音に目覚めた山羊は、嗅ぎ慣れない臭いに驚いたらしく、恐慌状態に陥って騒ぎ出した。
怪物、獣鬼(とろる)は言葉にならないうなり声を発し、手に持った得物を振り上げた。
サーラが飛び出して斬りかかったのはその瞬間だ。
切っ先に手応えを感じ、獣鬼も叫び声を上げる。
獣鬼は右手に持った斧を振り回したが彼女は返す刀で山羊の綱を切り、後ろに下がっていた。
斧が大きく空を切る。
山羊が彼女の背後から脱兎のごとく逃げ出した。
獣鬼は言葉にならないうなり声を上げたが山羊を追いかけることはしない。
再度振り回した斧に彼女は剣を併せた。
片手だけだが怪力だ。
だが、受け流されて逆に獣鬼は後ずさった。
弱々しいうなり声をあげ、突然逃げ出す。
思いも寄らぬ展開にサーラは驚いたが、すぐに追いかけた。
敏捷な動きではないが、歩幅の大きさで獣鬼は予想以上に速い。夜目も利くのだろう。
彼女は火打ち石を出し、手近の枯れ木をへし折って火をつけた。目が利かないし月明かりもないのではこちらの方が圧倒的に不利だ。即席の松明(たいまつ)を掲げると鎧の切れっ端を身につけた灰色の生き物が逃げていくのが見えた。
「待てっ!」
その姿が灯りの中から逃れ、彼女も後を追う。
獣鬼は山に入っていった。
植物もろくに生えていない岩だらけの山中は、灯りがなければ足下もおぼつかない。
だが彼女は獣鬼を追いつめることをせず、一定の距離を保って追い続けた。最初に斬りつけた傷からの出血は、すでに止まっているのか追跡の役には立たないようだ。
後ろから見ていると手の長さがよくわかる。ガリシア大陸ではほとんど見かけないが、大型の類人猿のように半ば四つ足になって走っていく。意外なのはそれが鎧を身につけていたことだ。ジャイアントにも毛皮から仕立てた鎧のようなものをまとう習慣はあるが、灰色の怪物がまとっているのは大きさこそ合っていないが立派な皮鎧である。
その時、獣鬼の足が止まり、振り返った。ジャイアントとは似ても似つかぬ化け物だ。むき出しの歯に灰褐色の肌、片手用の斧を握っているが、その手のなかではまるで小さなとんかちにしか見えない。
そこは行き止まりになっており、盲滅法逃げるうちに入り込んだものらしい。それなりの広さはあるが、抜け道はないようだった。
表情が歪み、うなり声とは違う声が吐き出される。
「だ」
「ざ」
「が」
「だ」
彼女にはそう聞こえた。だがそれは本当に音だろうか。その見知らぬ化け物には言葉を発するような知性があるのだろうか。けれどたまたまそう聞こえただけかもしれない。
彼女は足下に松明を置いた。光の届く範囲は広くないが、片手で大剣は振り回せない。
「あなたに恨みはないが、家畜を盗られて難儀している者たちがいる。悪いが倒させてもらうぞ!」
サーラは素早く斬りかかった。一太刀で仕留めるのがせめてもの情けだと思ったが、獣鬼は中途半端に避け、逆に傷をつけられた。吹き出した赤と緑の入り交じった血の色に彼女は驚いた。
しかし、傷つけられて獣鬼の表情が凶暴なものに変化した。風車のように斧を振り回し、猛烈な勢いで反撃してくる。
それらの攻撃を彼女はことごとくかわし、手の止まった隙に心臓めがけて剣を繰り出した。
獣鬼の口から血があふれて彼女をぬらす。その巨体から力が急速に失われ、彼女は急いで剣を抜いて後ずさった。
牛が倒れたような地響きが辺りに響く。
サーラは松明を手に獣鬼に近づいた。確かに死んでいるようだが、念のために首を切り落とすことを彼女は忘れなかった。首を落とされて生きていられる生き物はいない。かくいう自分も戦場で土左衛門と間違われて首を落とされそうになったことがあったほどだ。
だが、そう思ったとたんにここ数日の絶食とろくに寝ていない疲れがいきなり出てきて、彼女は大剣にすがった。
すぐにでもこの場を立ち去りたかったが、身体がそれを許さない。やむなく、彼女はそこで夜を明かすことにした。
だんだん細くなってゆく松明を見ながら、少しの音に目を覚ましたりまどろんだりを繰り返す。切れ切れの眠りではあったが、夜が明けるころには多少なりとも疲れは取れていた。
けれど、倒した証拠を取ろうと獣鬼に近づいたサーラは、昨晩とはその姿が変わっていたことにまた驚かされた。
いかにも化け物然とした姿は、一部が人間のような肌の色と部分を持ったあいのこと化していたのだ。それは化け物だけの姿よりもよほど醜悪だったが、荒れ地を染めた赤と緑色の血は紛れもなく人間のものではなかった。
灰色の肌と混ざった少し茶色い肌は、海辺の村人たちと似ていたが、この姿からはこのおかしな生き物の正体を推測できるような手がかりはそれ以上得られない。傍らに転がった片手用の斧にも何の銘も打たれてはいなかった。
彼女は高々と聳えるトレモス山脈を見上げた。この広大な山の中にこんな化け物が棲息しているのだろうか。あるいはもっと別の何か、自分などが思いも寄らぬような出来事がひっそりと進行しているのだろうか。
だがサーラは化け物の灰色の指を一本切り落とした。
それから村に向かうべく、帰路をたどり始めたのであった。
《  終  》
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