「光差す朝」

「光差す朝」

「これより我々はディアスポラ大監獄の解放に務める! 監獄は全て開け放て。囚人がいれば釈放しろ。死んでしまった者があれば丁重に葬れ。
モーム、ノルン、怪我人の治療を頼む。囚人の介抱もしてやってくれ」
最後にグランディーナは負けた帝国兵の方に向き直った。
「あなたたちに、もしも手伝ってくれる気持ちがあるのなら歓迎する。
ランスロット、ギルバルド、カノープス! あなたたちが作業の指揮をしてくれ。鍵はこれだ」
「おい、俺たちに−−−」
ディアスポラ大監獄を守備する帝国軍と解放軍との戦いは終わったばかりだった。当然、怪我人はそのままだし皆、休んでもいない。それなのにグランディーナは休むより先に大監獄の解放をしろと言う。カノープスが文句を言おうとしたのも当然の反応だったが、彼女のいつになく険しい表情に思いとどまらざるを得なかった。
彼の様子に気づかぬ風に、グランディーナは監獄の鍵を投げ渡す。そして自分は、副監獄長エイゼンシュタインの首根っこをひっつかまえると、外へ連れ出しに行ってしまった。彼が抵抗するのを見て、アレック=フローレンスが手伝おうとしたのも邪険に断ったほどだ。
「珍しいじゃないか、君が言いかけた文句を引っ込めるなんて」
「言いそびれちまったんだよ」
「言える雰囲気ではなかったろう。彼女が我々の疲労をいたわる気持ちよりも大監獄の解放にこだわっているのがよくわかったからな」
「まぁ、そういうこった。大監獄って言ったって、全員でやればすぐに片づくだろう。さっさと済ませちまおうぜ」
「そうだな。
みんな、集まってくれ! 疲れているところすまないが、これからもう一仕事してくれ」
しかし、じきに彼らは気づく。ディアスポラ大監獄はゼテギネアでも最大規模の牢獄なのだ。解放軍に元帝国軍を加えてもせいぜい20人足らず、とうてい1日で解放し終わるような代物ではなかったのである。
まず彼らは生き残った囚人を助けようと片っ端から監獄を開放して廻ったが、三手に分かれてもそれだけで一日仕事だった。
しかも治療できるのはモーム=エセンスとノルンだけでかしまし三人娘も手伝いにかり出された。案の定、ノルンはすぐに根を上げたが、モームにとって幸いだったのは、彼女らの手が必要な怪我人はそれほど多くなかったことだろう。
そんな時、死体の遺棄穴を見つけたのがカノープスと行動を共にしていたカリナ=ストレイカーだった。
「大将、まさか、リーダーはそいつらも丁重に葬れなんて言わないですよね?」
荒っぽいことには慣れている彼も、死体の山となれば話は別だ。カノープスに報告した顔はいまにも泣き出しそうである。
カリナから話を聞いた時は、ロシュフォル教会にもよくあるような、身元不明の死体をまとめて葬る程度の墓穴としか考えていなかったカノープスだが、実物はそんな生易しいものではなかった。
どれだけ深く掘られたのかわからないが、その穴には何十何百の男も女も老いも若きも、まったくの区別なしに素っ裸の死体が放り込まれていたからだ。
目の前に来るより先にわかっていたが、その凄まじい臭いにカノープスは吐き気を覚え、案内したカリナの腕を引っつかむとすぐに現場から逃げ出した。
「何かあったんですか?」
口調に疲労をにじませてアンジェ=エルカシュが訊く。ルテキアで加わって以来、彼女がそれほど疲れたところは初めて見た。
「おまえ、グランディーナを連れてこい」
「わかりました」
駆けていく彼女とカノープスとを、カリナ以外の全員が不思議そうな顔で見ている。
それらの顔がだんだん見分けにくくなっていることに彼は気づいた。グランディーナが大監獄のことをどうしたかろうと、そろそろ休み時だ。ましてや戦闘の疲れも残っている。彼らには休息が必要であった。
ディアスポラ大監獄は広い。アンジェがグランディーナを連れてきた時には辺りに迫る夕闇はさらに濃くなっていた。
「生きている囚人は皆、助けられた。あなたたちもそろそろ休んでいい。何かあったのか?」
「カリナ、おまえも先に休め」
彼は心配そうな顔をしていたが、ここで死体の山について話すのははばかられるのだろう。言われたとおり、皆の後についていった。
それでグランディーナとカノープスが残ったので、彼は思い出すだけでも吐き気がこみ上げるのを堪えて、彼女を穴のところに案内した。
さすがのグランディーナも死体の山を前にしては言葉を失ったようで、その動きもしばし凍りついた。
「念のため訊いておく。おまえは死体を丁重に葬れと言ったな? それにはこいつらも入ってるのか?」
だが返事はなかったばかりか、突然、彼女が両膝を落とし、音も派手に嘔吐を始めたのでカノープスの方が慌てた。
「大丈夫か?! 待ってろ、いま、モームを呼んでくる!」
「行くな!」
「馬鹿言うな、そんなに吐いたくせに」
「すぐに収まる。少し休めば治る」
「だけどな」
「大丈夫だ。少しだけ休ませてくれ」
「おまえの答えを聞くのは明日だっていいんだぞ」
「大丈夫だと言ってるだろう。どこへ行くつもりだ?」
「水をもらってくるだけさ。ついでにランスロットとギルバルドも呼んでくる。いまのことは誰にも言いつけやしねぇから安心しろ」
彼女は立ち上がりながら、かすかな笑顔を浮かべたが、どちらかと言えば、苦笑いのたぐいだったのかもしれない。
カノープスは急いでそこを離れた。驚いたのは彼も同じだ。いや、グランディーナ以上だと言っていい。彼女が動揺したところはアヴァロン島で大神官フォーリスの処刑を口にして以来、見ていないが、娘のアイーシャがフォーリスと親しかったと言っているのだからそれも無理からぬことだろう。
だが、死体の山は見た目には凄まじいが赤の他人のものだ。大神官だろうと政治犯だろうと死者は死者、その重みに違いはないとしても、悼む気持ちは同じだとしても、まさかグランディーナに限って嘔吐するほど動揺するとは思いもしなかったのである。
「大将! どうでした、あれ?」
「いや、まだだ。それよりおまえ、水筒持ってないか?」
「ありますよ、どうぞ。団長やランスロットも戻ってて、飯にしようって話してたんですけど、あんなもの見た後じゃ、食う気になれませんよ」
「おまえには不運だったけどな、食っておかねぇと身体がもたねぇぞ。酒で流し込んででも食え!」
「そんなぁ」
弱気な声を出すカリナは放っておいて、カノープスはランスロットとギルバルドの元へ向かう。
「どこへ行っていたんだ? グランディーナも君と一緒だと聞いたが?」
「2人とも、飯は食ったか?」
「まだだ」
とランスロットが言い、ギルバルドも頷く。
「おぬしたちが戻ってからと思っていたのだが、何か不都合でもあったのか?」
「不都合と言やぁ、これ以上ない不都合だな。だが飯がまだなら好都合だ。一緒に来てくれ」
2人は不思議そうに顔を見合わせたが、黙ってその場を離れた。
大監獄の内部は最初から松明なしでは歩けないほどだが、夜になるとその暗さはまるで墨でも流し込んだようだ。しかもあの穴は屋外だが入り口からいちばん遠いところにある。急ぎ足でグランディーナのもとへ向かいながら、カノープスはあの死体の山を前に嘔吐した彼女を独りで、しかも灯りもなしに置いてくるべきではなかったんじゃないかと思い始めていたが、ランスロットの言葉がその考えの中に割り込んできた。
「君たちが何を見つけたのか、そろそろ話してくれてもいいんじゃないのか? カリナも何か知っていそうなんだが黙っているし」
「言うまでもねぇ、見ればわかるさ。おまえら相手にも口を割らないとはカリナにしては上出来だな」
そう話しているあいだにも腐った死体の耐え難い臭いが漂ってき、2人とも緊張感に包まれた。カノープスだって、またあれを見るのかと思うと気が重いのだ。
やがて光の下にグランディーナと死体の山とが照らし出された時、ランスロットもギルバルドも思わず目を背けずにはいられなかった。
3人を振り返ったグランディーナに水筒を投げ渡したが、先ほどの弱さは見られない。彼女は即座に手を洗ってうがいをすると、カノープスと水筒と松明を交換した。吐瀉物は片づけたようだ。
「カリナがこいつを見つけた。で、おまえはどうしろって言うんだ?」
「葬る。ここには囚人用に大量の毛布があるだろう。遺体はそれで包めばいい。明日にはアッシュたちが来る。皆で穴を掘ればそう時間もかからないはずだ」
「俺の意見を言わせてもらえるなら、俺たちは軍隊であって埋葬屋じゃねぇ。ましてやこいつらがこんなことになったのは帝国のせいだ。さらに俺たちは次にマラノに行く予定だ。マラノの解放を遅らせてもこいつらを葬らなきゃならねぇ理由があるのか?」
しかし、グランディーナは松明を掲げたまま、踵を返した。多少の覚悟はしていたものの、ランスロットもギルバルドもさすがにこの悪臭には耐えがたくなっていたので喜んでその場を離れたが、そんな2人をカノープスが無理に追い抜いていく。
「待てよ、グランディーナ!」
その手が彼女の肩をわしづかみにした。
だが、それは即座に払われた。足を止めて振り返った彼女の表情はいつになくきついものだ。
「あなたの意見など糞食らえだ。あの死者たちの姿を見てもそんなことが言えるのなら、あなたは先に行けばいい。マラノの解放を遅らせるのか、だと? そんなものが理由になるか!」
呆気にとられたカノープスの手に松明が押しつけられた。ランスロットとギルバルドが追いついて声をかけるより早く、彼女は3人をおいて走り出していた。
「君に限って、まさか、そんなことはしないだろうな?」
「当たり前だ。だけど、俺は一般論を言っただけだぜ。あんなに怒るほど、囚人の解放にこだわる理由がわからねぇ」
「それはわたしも聞いていないが、ゼノビアでアッシュ殿をお助けした時も、有無を言わせず連れていかれたからな」
「そいつは初耳だ。あの時は、おまえとウォーレンだけ連れていったんだったな」
「彼女に初めて会った時に、ゼノビア王国騎士団の残党だと言った。たぶん、そのせいだろう」
話しているうちに3人は大監獄の前庭に出ていた。
その灯りを認めたのだろう、剣だけを帯びたアレックが近づいてきた。
「お疲れ様です。夜番以外の者は皆、休みました。ランスロットたちもどうか休んでください」
「休む前に何か腹に入れておきたいな。残り物でいいんだ、取ってないか?」
「それだったら、マンジェラが4人の分だと言って、宿舎の食堂に取っておいたのがありましたよ」
「さすが、あいつは気が利いてるぜ」
「わたしは水を飲めればいいな。さすがにあんなものを見せられたら、食欲も失せたよ」
「そんなに凄いんですか?」
ランスロットは腹部に手をやって頷いたが、アレックには想像するのは難しいだろう。帝国の侵攻があったとはいえ、ヴォルザーク島はかなり平和な方だったし、彼は島から出たことがない。
「なんだ、おまえ、何か聞いたのか?」
「カリナが食欲がないなんて言ったものですから、よほどのことだろうと思って」
「まさか、その調子でみんなにばらしちゃいねぇだろうな?」
「そんなことしませんよ。見てもいないものを言いふらすなんてできません」
「夜番は君がしているのか?」
「ええ、わたしだけじゃなく、カシムとエマーソン、それにロギンスにもやってもらってます」
「じゃあ、俺たちは休ませてもらおうぜ」
「そうだな」
警備兵の宿舎は1階の半分が食堂だったが、すでに誰もおらず、建物全体も静まりかえっていた。炊事場に近い奥まったところに、アレックの言ったとおり夕食が広げられており、薄布がかけられている。
「なんだ、酒もなしか」
「やめておけ、カノープス。飲みたい気持ちはわかるが、悪酔いするだけだぞ」
その代わり、というわけではないのだろうが、水差しにはたっぷり水が入っている。ギルバルドは3人の杯に手早く注ぎ、手近な椅子に腰を下ろした。それでランスロット、カノープスも座る。蝋燭の炎が揺れたが、じきにおさまった。
そのあいだにもギルバルドとカノープスは食事を始めて、匂いを嗅いだら空腹を覚えたランスロットも、食べ散らかさないように気を遣って、少しずつ食べた。
「カリナがあれを見つけたのか?」
「ああ。あいつに任せた棟は囚人が少なかった。まさか、あんなものがあるなんて思わなかったけどな」
「なぜわたしたちを呼びに来たんだ?」
カノープスの手が止まり、ギルバルドもつられる。
「カリナから報告があって、君はグランディーナを呼んだのだろう。なぜ、それだけですまなかった?」
「ランスロット、おまえ、妙なところで勘がいいのは考え物だぞ」
「どういう意味だ?」
「そのとおりの意味さ」
しかし、カノープスの手は止まり、フォークを弄んでいる。いつかギルバルドも手を休めて、ランスロットともども黙って、彼が何か言うのを待った。
「食わねぇのか」
「わたしはもうたくさんだ。それよりも君の答えはわたしの質問への答えになっていない」
「どうしようかな。みんなには黙っているって言っちまったんだ」
ランスロットは立ち上がって、食堂の外まで確認したが、起きているのは確かに、自分たち3人と夜番の者だけだった。
「大丈夫だ、みんなは休んでいる」
「おまえも厭らしいことするんだな」
「君が思わせぶりなことを言うからだ」
カノープスは鼻の下をこすったが、ランスロットもギルバルドも黙っていた。
「しょうがねぇな。おまえらになら、話しても文句は言わねぇだろう。実はな」
彼はそこでいったん言葉を切って、2人を手招いた。
「俺も信じられなかったんだが、最初にあいつを穴のところに連れていった時にいきなり吐いたんだ」
「そのための水筒か!」
「そういうことだ。それに、俺も少し頭を冷やしたかった。だからおまえらを呼びに来た」
「なぜ、そんなことになったんだ?」
「俺が知るわけねぇだろう。だいたい、ほかの奴ならともかく、あいつに限ってそんなにかわいげのある反応するなんて思ってもいなかったからな。俺の方が慌てさせられたさ」
「それはおぬしでなくても慌てるだろうな」
「おまえにそう言われると、大丈夫だと言ってるように聞こえるのは気のせいか?」
「わたしだって、おぬしの立場だったらどうしたかわからんさ」
「そういうことにしておいてやるよ。
ところがあいつときたら、理由を訊いたって例によってだんまりだ。死体を見て吐くような神経なら作業をさせるわけにはいかねぇが、そんな単純な理由じゃねぇだろう」
「おぬしも心配性だな」
「ほっとけ。愉快な仕事じゃねぇから、余計な心配はしたくねぇのさ」
「だからと言って、グランディーナ殿が理由を話す気になるとも思えんがな」
「無理に話させるようなこともできねぇしなぁ」
「馬鹿を言うな。たとえできたとしても、そんなことをするおぬしではあるまい」
「それはそうかもしれねぇが、そうしなきゃならねぇ時ってのがあってだなぁ」
「わかっているさ」
ギルバルドは上機嫌に笑い、まるで酒を注ぐかのように水をカノープスの杯に注ぎ足した。
彼もまるでそれを酒のように飲み干す。
「だが、その彼女はどこへ行ったのだろうな?」
「探しに行くなんて言い出すなよ。どこ行ったってそれほど遠くに行くわけねぇだろう。せいぜい大監獄の敷地内にいないってぐらいだ。1人でいたいってこともあるかもしれねぇんだ。そっとしといてやれよ」
「ならば、明日は辛い仕事になるだろう。我々も休むとしようじゃないか」
「それがいい」
翌日になってグランディーナの出した指示は以下のようなものだった。女性陣と怪我人に遺体を包むための毛布や布を集めさせる一方、男性陣でも耐えられない者には穴掘りを始めさせ、残る者で遺体を1体ずつ穴から運び出させたのだ。
それで穴掘りにニコラス=ウェールズと元帝国兵が従事することになり、グリフォンやコカトリスも使って土を運び出していった。ウィングス=イースタリーが布を近くまで運び、女性陣ともども後で穴掘りもやることになった。
しかし当然のことながらどの作業をやるにしても愉快な仕事ではない。皆は自然と無口になり、2人一組になって死体を運び出し、布で包み、墓穴のところまで持っていったが、その作業はいつまでもきりがないように思われた。
「グランディーナ、少し休もう」
ランスロットの提案を彼女は思いのほか素直に受け入れた。
皆に指示した時以外は口をきいていないが、さすがのカノープスも、今日は黙ってカシム=ガデムと働いていた。誰だってあんなものを見せられれば無口にもなる。
さらに上の方はともかく、さんざん上から積み重ねられてきた下の遺体の損傷が凄まじい。ランスロットは自分のなかに、この作業をかなり甘く見ていた部分があったことを認めざるを得なかった。
すると、グランディーナが物陰に向かい、彼が追いかけるより早く、嘔吐する音が聞こえてきた。
「大丈夫か?」
背中をさすってやったが、見ると吐瀉物に固形物が混じっていない。白と黄色の濁った液体ばかりだ。
「君はまさか、今朝も食べていないのか?」
彼女は頷き、口の周りをぬぐってから振り返った。
「食べてもどうせ吐いてしまう。そう思ったから食べなかったんだが、何も食べなくても人間は吐けるものなのだな」
「何を呑気なことを言ってるんだ! これ以上作業を続けるのは無理だ。君も穴掘りに廻りたまえ」
「カノープスが何を言ったのか知らないが、あなたは勘違いしているようだ。私が吐くのは死体を運んでいるからじゃない。ここにいるからだ。どうせこの先にも吐く。大監獄から出るまで治らないことはわかっている。だから放っておけ。それよりも作業に戻ろう。私たちが休んでいると、それだけ皆への負担が大きくなる」
「待ってくれ。そんな事情があるのに君はあの死体を埋葬したがっているのか。なぜだ? 何が君にそんな無茶をさせる?」
「死者をあのままにしておけない。理由は昨晩、言ったと思ったがな」
「だからと言って、自分の身体に負担をかけてまでやることではあるまい」
「これぐらいで倒れるようなやわな身体じゃない。それに私が言い出したことだ、あなたたちに任せきりにしたくないだけだ」
「君がそこまで言うのなら、わたしたちには話していない理由があるのだろう?」
「そんなことを聞いてどうする。あなたが動かないつもりなら、私1人でも作業を再開するぞ」
「わたしは君の個人的な理由が聞きたいんだ」
「何のためだ?」
「君を理解する助けになればと思ってね」
「どうせゼテギネア帝国を倒すまでのつき合いだ。知らなくても支障があるとは思えないがな」
「わたしはそうは思わないね」
グランディーナは穏やかな眼差しをランスロットに向けた。すぐに話さないところを見ると、言葉を探しているようにも見えた。
「朝だ」
「朝?」
「真っ暗な牢獄に光が差し込んできたのを覚えている。あの朝の光が忘れられない。あの光を彼らにも見せてやりたい。私の自己満足にすぎないことも承知している。だけど、あの光が私を救ってくれた。彼らにも見せてやれたら、少しだけ気が休まる」
「少し、だけなのか?」
「死者のことは生者にはわからない。あるいはあのまま穴に遺棄されていても彼らは気にしないかもしれない。でも、何かしないでいられない。それだけだ」
ランスロットも牢獄に閉じ込められた経験は傭兵時代に1度だけあるが、グランディーナがそこまでこだわる理由は理解できない。確かに解放された後の陽の光は格別にまぶしかった。だがそれだけだ。あの光を彼は救いだなどとは思わないだろう。
「君はそんな酷いところに入れられていたのか?」
「昔の話だ」
さっき背中に触れた時、彼女はわずかに震えていたようだった。だが、その理由を訊いても答えはないだろうし、知ったところで何ができるわけでもない。
「少し休みすぎたな。作業を続けよう」
カノープスたちだけ働かせるわけにはいかない。ランスロットも反対するところではなかったが、そこへウィングスが走ってきて解放軍本隊の到着を知らせた。
「これで少し楽になるといいな」
今度は彼女もさっきよりもはっきりとわかる笑顔を浮かべて頷いてみせ、ウィングスにアッシュたちを連れてくるよう指示した。
人手が数倍に増えたので楽になるどころではなく、作業ははかどった。
しかし、グランディーナはさらに2度嘔吐しながら、自分は決して休もうとせず、ランスロットはカノープスを介してアイーシャと、遅れて合流したデネブに彼女のことを頼んだ。そうは言ってもグランディーナがこの場を離れたがらない以上、作業が終わらなければどうしようもないのだが。
穴も底の方になると遺体はもはやばらばらである。白骨が露出していることも蛆虫が湧いていることも当たり前だ。そうと気づかずに腕を引っ張ったカリナは、その腕が外れて骨だけ残ったのを見た時にはそこから逃げ出しかねないほどの泣き顔を見せた。
毛布がほとんど残っていないこともあって、まとめて包むことに反対する者はさすがにいない。
最後の包みを穴に下ろし、上から土をかぶせる。
その上にライアンが、ドラゴンに運ばせた岩を墓石代わりに置いた。
「これで最後だ。みんな、ご苦労だった。明日からカストロ峡谷に向かう。今日はゆっくり休んでくれ」
その言葉に控えめな歓声が上がり、ランスロットもカノープスやギルバルドと手を打ち合わせた。
「皆さん、食事を用意しましたわ。お酒もありますから、どうかゆっくりと疲れを癒してください」
「行こうぜ、ギルバルド!」
すかさず声をかけたマチルダ=エクスラインに、ギルバルドとカノープスを先頭に皆が一斉に移動する。
もちろん野営地はディアスポラ大監獄の外に設けられており、近づいていくと食欲をそそる匂いが漂ってきた。
「あなたは行かないのか?」
「後からゆっくり行ってもわたしの分はあるさ。君こそ行ったらどうなんだ? もう大監獄にこだわる必要はないじゃないか」
しかし無言でその場を離れたグランディーナの足取りは、皆の行った方とは別の方向に向かっていた。そうと気づいてアイーシャが追いかけていったのを確認して、ランスロットも野営地に向かったのだった。
「グランディーナ!」
答えの代わりに聞こえてきたのは、物陰で嘔吐する音だ。アイーシャは足を止め、近づくこともできなかった。
グランディーナの背をさすったのは、後からやってきたデネブだった。
「アイーシャ、お水、汲んできてくれない?」
「は、はいっ!」
彼女が急いで野営地に戻ると、カノープスが呼び止め、水筒を差し出した。
「持っていきな」
「ありがとうございます」
戻ってみると、グランディーナは塀に寄りかかって座っていた。差し出された水筒でうがいをし、また壁に背を預ける。
「あなたもよく堪えたわねぇ」
「そうでもない。カノープスとランスロットに見られている。でもこれが最後だ」
「だといいんだけど。そんなに吐いて、おなか、空かないの?」
「今日はいい」
そう言って彼女が目をつぶったところを、デネブが頭を撫でた。
「何やってるんだ?」
「頑張ったあなたを褒めてあげてるんじゃない。
アイーシャもいい子いい子してあげて。このままだと誰も言ってくれなさそうなんですもの」
「頑張ったのは私だけではないだろう。彼らを労ってやる方が先じゃないか」
「あら、そのためにマチルダさんたちがご馳走、こしらえたんでしょ? でもあなたはそれも食べられないし、探しに来なくちゃ、あなたがここにいることも誰も知らないわ」
「知らなくていい。こんなところ見られたくない」
「だから、あたしたちがいるんでしょ?」
デネブは得意げに笑ったが、グランディーナの返事は素っ気ない。
「どうせ、ランスロットかカノープスに言われたんだろう? あの2人に知られると話が大げさになるから困る」
「2日で5回も吐いてるのに大げさなんて言い方をしないで。みんな、あなたを心配しているのよ。それは、あなたは誰よりも強いかもしれないけど、心配されて迷惑だなんて思わないで」
「それぐらいで倒れるような身体じゃない。私は人一倍、頑丈なんだ」
「大監獄にいるってだけで吐く人が頑丈だって言い張るの?」
「そうだ」
「あなたもよくよく頑固よねぇ」
「それよりも少し休ませてくれ。明日になればどうせ治っているんだから」
「本当に?」
「昨日の晩も大監獄の外で休んだから吐かなかった。大丈夫だ」
「でも、私たち、なるべく急いで戻ってくるわ」
グランディーナはようやく目を開けて、2人に軽く手を振った。けれども宣言したとおり、彼女はすぐに目をつぶり直したのだった。
デネブとアイーシャが空いた席に潜り込むと、両脇にランスロットとカノープスが素早く割り込んだ。
「お疲れ様、アイーシャ」
そう言ってランスロットが杯に水を注いだので、彼女は恐縮する。
「で、どうなんだ?」
カノープスが、デネブの杯にも葡萄酒を注ぎながら囁いた。しかし魔女は、答えようとしたアイーシャを制したばかりか、葡萄酒をゆっくり飲み干してから、目の前の料理を吟味し始めた。
「おい、デネブ!」
「なによ、せっかくのご馳走なんだから、ゆっくり選ばせてくれたっていいでしょ」
「そんなことはこっちの話が終わってからにしろ!」
「あぁら、こっちの話って何のこと?」
「てんめぇ〜!」
「あの、グランディーナは大丈夫です! でも、食欲がないから朝まで休むって言ってました」
「駄目よぉ、そんな簡単にばらしちゃ」
「でも、お二人とも心配されてますから」
「まったくだ。そんなにもったいぶるようなことじゃねぇだろう」
「あらぁ、だってあなたたち、心配とか言いながら、あの子の邪魔をしそうなんだもの」
「するわけねぇだろう。まぁ、大丈夫ならいいさ。
行こうぜ、ランスロット」
「あまり大げさにするわけにもいかないが、彼女のことを頼むよ」
「はい」
早めに休む者が多かったので、野営地は静かになっていった。
ウォーレンの指示で夜番も立てられ、何日ぶりかで解放軍は一つ処にまとまったのだった。
デネブとアイーシャが毛布を持ってグランディーナのもとに戻ると、彼女は起きたが、すぐに寝直した。言ったとおり、あれから吐くこともなかったようだ。
グランディーナに毛布をかけてやって、2人とも休んだ。夜は静かに更けていった。
夜明けとともにアイーシャが目を覚ますと、グランディーナの姿がない。かけてやった毛布は畳んで置いてある。
グランディーナは早起きだ。たいてい夜明け前に起き出して、水浴びをするか、少なくとも顔を洗っている。ディアスポラは河川が多い土地柄なので、ルテキアからデネブとパンプキンヘッドたちと行動していた時も、たいがいは川にいた。
大監獄から近い川にはアイーシャも昨日のうちに水汲みに出かけていた。それで見当をつけて探しに行くと、案の定、グランディーナは水浴びの真っ最中であった。
「おはよう」
声をかけると彼女は振り返って微笑んだ。川はその腿ぐらいまでで少し深い。彼女の全身はすでに濡れており、日焼けした傷痕だらけの肢体が朝日を反射して光るほどだった。
「あなたも来ないか。冷たくて気持ちがいい」
「こんなに冷たい水は苦手だわ」
ディアスポラの山々はつい1ヶ月前までほとんどが雪をかぶっていた。いまの季節はその雪解け水が川に流れ込むので、水はいつもより冷たく、水量も増している。いまだに雪をかぶったままの山もあるくらい、ここらの山は高いのだ。
「私はこれぐらい冷たい方がいいな。気分がすっきりするし、目も醒める」
「どうぞ、ごゆっくり。私、アヴァロン島生まれだから、冷たすぎる水は苦手なの」
「本当に?」
「嘘を言ってもしょうがないでしょう。慣れなくてはいけないんだけど、洗い物は苦手。大陸の水はどこも冷たいわ」
「そのうちに慣れる」
「だといいんだけれど」
グランディーナが笑ったので、アイーシャは少しだけ口をとがらせた。川に指先を入れてみたが、朝という時間もあってか、昨日よりも冷たい。彼女はすぐに引っ込めて、指先を手巾(はんかち)で拭いた。
アイーシャが再び口を開いたのは、グランディーナが水から上がってきてからのことだった。
「ねぇ、グランディーナ」
「なんだ?」
「私、あなたがなぜ、あんなことをしたのか、わけなんか知らなくてもいい。だけど私、あなたの具合が悪い時には側にいたいわ。私にできることがないとしても、具合が悪いことを私に隠さないでほしいの」
「なぜ?」
「だって、それは弱みなんかじゃないもの。お母さまだってきっと同じことを仰ったわ」
「あなたはフォーリスさまじゃない」
「私、お母さまの代わりをするつもりなんかないわ。できるとも思ってない。だけど私のできることはそれだけだから、解放軍のなかでほかの誰にもできないことだから、私がやるの」
「ランスロットかカノープスにそんなことを言われたのか?」
「違うわ! 私、自分で考えたのよ。誰にも聞いてないし言われてもいない。デネブさんにちょっと相談はしたけれど、一応、自分で考えたんだから」
「ごめん。そんなつもりで言ったんじゃないんだ。ただ、少しだけ驚いたから」
「うふふっ」
グランディーナは頭をかいた。
「前に、あなたをフォーリスさまに似ていると言ったが、あれは撤回する」
「あら、どうして?」
「フォーリスさまはそんな言い方はしなかった。いつも困らせていたのは私の方だ」
「私、あなたを困らせている?」
「そういうわけじゃないけれど、アイーシャのことを誤解していたようだ」
「言ったでしょう、私、頑固だって?」
「そういう意味じゃなくて、あなたにこんな強いところがあるとは思わなかった」
「だって、私、お母さまの娘だもの」
アイーシャは笑ってグランディーナの手を取った。
「行きましょう。朝ご飯、食べられるでしょう?」
「ああ」
歩き出す前にグランディーナは振り返り、まぶしそうに川面を見つめた。けれど、彼女がそうしていたのは一瞬のことで、すぐに歩き出した。
野営地の方からはいつものように朝食の匂いが漂ってくる。皆も起き出していた。
この後、解放軍はカストロ峡谷を経由してゼテギネア大陸最大の都市、マラノを目指した。
解放軍が「解放軍」として人びとに受け入れられるのも、ディアスポラ大監獄の解放後のこととなるのである。
《  終  》
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