「闇の眷属」

「闇の眷属」

パウル=ルキシュと名乗った少年は、ティオキアの魔力を凌駕していた。どんな学校にも通ったことはないと言いながら、パウルは博識で好奇心も旺盛だった。
パラティヌスの片田舎でティオキアは学校に行くことに飽きていた。学校で教わることはとうに彼が知っていることばかりで、それなのに両親は彼を手放し、王都ウィニアの魔導学校にも行かせたがらなかった。その代わりに、彼が望むままに本を与え、教師もつけてくれたが、ティオキアはすぐに、こんな辺境にいる教師が大したことを知らないのを知ってしまい、飽きていたのだった。
パウルはそんな時、彼の前に現われた。いろいろなことを知っていて、強い魔力を持った少年にティオキアは魅せられた。退屈な田舎暮らしが豹変した瞬間だった。
パウルは母親と2人きりで暮らしていた。母親は滅多に表に出たがらないそうで、ティオキアと顔を合わせたこともない。彼は最初、パウルが一人暮らしなのだと思ったほどだ。しかし、とある冷たい雨の日に彼女に会い、母だと紹介されたのだった。
2人の暮らす家は二間しかないつましい住居で、一部屋に陽の光を避けるように母親が住み、パウルは台所で寝起きしていた。うちの中のことはほとんど母親がやるのだとパウルは言うが、父祖伝来の大きな屋敷に住み、召使いに傅(かしづ)かれるティオキアには2人の生活は想像もできなかった。そんなパウルが、自分よりも魔法に優れている理由もわからなかった。
「天駆ける光竜の御力を借り、星々を大地に落とさん、メテオストライク!」
パウルが高らかに呪文書を読み上げると、2人の目の前に無数の隕石が降ってきた。彼は少し息を弾ませていたが、それはティオキアも同じだった。
「凄いな。父さんに買ってもらった呪文書はこれでおしまいだ。僕が何度、読んでもできなかったのに君ときたら、たったの1ヶ月で読みこなしてしまうんだからな」
「別に難しいことじゃないさ。読んでいくとわかるんだ。ここに何が書いてあって、何ができるのか。俺は読むだけでいい、呪文を読み上げれば、その力を引き出してやれるんだ」
「わかっていないな。僕が君と同じことをしようと思ったら、まず内容を理解するのにどれだけかかるやらと言ってるんだよ。読むだけで呪文書の力を引き出せるのなら、どうして魔導学校に通う必要があるんだい?」
「俺には必要ない。なぜか、わかるんだ。読んでいるうちに、この呪文書が何をするのか、わかってくる。まるで呪文書から話しかけられているようだよ。呪文書が俺に何かをさせたいと言っているようだ」
そう言うとパウルは呪文書をティオキアに返した。それがどんなに凄いことなのか、友は何の自覚もないように言う。メテオストライクを扱える魔術師など、この国に何人いるだろう? しかもそれが魔法について学んだこともない若者だとしたら?
「パウル、僕にもメテオストライクの呪文書を読めるようにしてくれよ」
「おまえにはまだ無理だ。ファイアーボールから始めなくちゃ。四大元素の呪文が全て唱えられるようになって初めて竜言語魔法が使えるようになるんだ」
「何だい、その竜言語魔法って?」
「メテオストライクのように神の力を借りない、古代の強力な魔法のことだ。容易に見つかるものじゃないんだぜ」
「へぇ。それが四大元素の呪文とどう関係があるんだい?」
「メテオストライクは大地の要素が強いけれど、火や風、水の要素も混じっている。ほかの竜言語魔法も1つの元素だけではないんだ。だから、それらの元素を全て制御できなければ使える魔法じゃないのさ」
「それでファイアーボールか。だけど僕だってファイアーボールぐらい知ってるさ」
「だったらアイスブラストは?」
「わかる。ライトニングもアシドヴェイパーも使えるんだからな」
「それならファイアストームはどうだ?」
「それは、まだだ」
「おまえのところに呪文書があっただろう? 明日、持ってきてくれよ」
「明日なんて言わずに、これから、うちに来ればいいじゃないか。まだ来たことがなかったろう? 父さんや母さんに紹介するよ」
「でも、おまえの家は遠いし、いい身分なんだろう? 俺が行っても迷惑がられるんじゃないかな?」
「そんなこと関係ないさ。君は僕の友だちなんだから、2人とも歓迎するに決まってるよ」
「俺たちは町の住人ではない。それでもか?」
「大丈夫だよ」
ティオキアは何度も請け負ったが、パウルはとうとう頷かなかった。その理由を彼は、じきに知ることになる。
「ティオキア、おまえは最近、町外れの家の子と遊んでいるそうだな?」
家に帰るなり、父がそう言って彼の行く手を塞いだ。
「そうだよ。どうして知っているの?」
「町中の噂になっているぞ、グラフィン家のティオキアは悪魔の子に魅入られたと! いままで、おまえをウィニアに留学させるのは早すぎると思っていたが、そうも言っていられなくなった。手続きが済み次第、すぐに行きなさい。おまえにとっても念願だったろう。わたしたちのわがままでおまえをいつまでもこんな田舎に縛りつけておいて悪かったと思っている。いまならまだ間に合う。これ以上、魅入られる前に、悪魔の子に魂まで奪われてしまわぬうちにウィニアに行くのだ、ティオキア!」
「何を言ってるんだよ、父さん? どうしてパウルが悪魔の子だなんて言われなくちゃいけないんだ。彼が何かをしたわけじゃないんだろう?」
「何かがあってからでは遅いのだ。あの母子は魔界から来たという噂まである。そうではないとしても、なぜあんな町外れに母子2人だけで暮らせるのだ?」
父は問答無用でティオキアの手にあった呪文書を取り上げた。
「これを悪魔の子に見せたのか、馬鹿者め! あれが我々にこの呪文を唱えないという保証がどこにある? ウィニアに行くまで、おまえは外出禁止だ!」
「馬鹿なことを言っているのは父さんの方だ! パウルは僕の友だちだ、悪魔の子なんかじゃない!」
するとティオキアは生まれて初めて父に打たれた。両頬を激しくたたかれ、気がつくと母に庇われていた。
「あなた! 何もそんなに激しくたたかなくてもいいではありませんか。ティオキアは何も知らないだけなのです、私から言い聞かせますから、どうか、おやめになってください」
不思議と彼は泣かなかった。いままでだったら父に許しを請い、母に優しく慰められなければ気が済まなかったものを、今日のティオキアは母の腕のなかから父を睨み返していた。もしも母の手がなくても、彼は以前のように父を恐ろしいとは思わなかっただろう。
それもこれも彼が悪魔の子に魅入られたためだろうか? 父が言ったようにパウルに魂まで奪われつつあるからだろうか?
ティオキアのなかで父の言葉を大声で否定する声がある。パウル=ルキシュには確かに得体の知れないところがある。自分と同い歳とは思えない老成さと落ち着きを彼は持っている。だが彼は悪魔の子などではない。自分の友人はそんな禍々しい者ではないのだ。
けれどティオキアが屋敷に閉じ込められているあいだに父は彼のウィニアの魔導学校への入学手続きを進めていった。クロタールは田舎だったし、ウィニアへの連絡には何日もかかった。
しかも彼は自分がパウルに会えるのがあと半年もないことを知ったのだった。
「パウル! パウル!」
「どうしたんだ、こんな時間に? まあ、入れよ。そんなところに突っ立っていると雨に濡れるぜ」
「いいんだ、君にこの呪文書を手渡したくて来たんだから。僕はすぐに帰るよ」
「だからって、そこじゃ呪文書まで濡れちまう。身体を乾かせよ」
パウルに手を引かれてティオキアは誘われるままに部屋に入った。そこは彼が寝起きしている台所で、火はとうに消された侘びしさが漂っている。母親は相変わらずいなかった。夜中という非常識な時間に訪ねてきたせいもあるのだろうが。
「親父さんに訊いてみたのだろう?」
その言葉にティオキアは胸が痛んだ。パウルは最初から父の反応を知っていた。だから屋敷に来ようとしなかったのだ。
「でも僕は父さんの言うことなんか信じない。君が悪魔の子だなんてひどい言い方だ」
「それだけじゃ済まないんだろう? 親父さんに監禁されていたみたいだし」
「そうなんだ。僕はウィニアに行かなくちゃならなくなった。いまさら魔導学校に入れと言うんだよ。それも君から引き離すためだけにさ」
「でもウィニアの魔導学校に行くことはおまえの憧れだったんだろう? 良かったじゃないか」
「だからって、こんな形で行かされるなんて僕は嫌だよ。いくらウィニアだからって君ほどの魔術師がいるとも思えないし、だいいち、君と何年も会えなくなってしまうじゃないか」
「ウィニアの魔導学校に行ったら俺どころじゃなくなるさ。あそこはパラティヌスでも最高学府の1つだ。おまえの出世は約束されたようなものさ」
「僕なんかより君の方がずっと魔法では優れているとわかっているのにかい?」
「そんなことを知っているのはおまえだけだ。誰に気兼ねする必要もないだろう?」
「でも君は知っているじゃないか」
「宮仕えなんて趣味じゃない。このままでいいさ」
「だけど君の力を見せてやりたくないか? ウィニアの魔導学校の連中だって大したことないって言いたくならないか?」
「おかしな挑発をするなよ、ティオキア。そんなこと言うまでもない。俺がわかっていれば十分だ」
そこで彼は呪文書をパウルに差し出した。表紙に書かれた文字はかすれ、ほとんど読めなくなっている。とても厚い本でメテオストライクの呪文書より厚いかもしれなかった。
パウルの顔色がわずかに変わった。メテオストライクの呪文書でさえ簡単に読みこなしてしまった彼のことだ。ティオキアにはまったくわからぬこの呪文書も、自在に扱えるに違いない。
「こいつはちょっと特別だぜ。いままでのような呪文書とは訳が違う。どこから持ってきたんだ、こんな物?」
「父さんの書斎さ。でも父さんのじゃないと思うな。とても古いし、ずっと奥の方にしまい込まれていたんだ。それで、これは何の呪文書なんだい?」
パウルは手を払った。それでティオキアは、彼が決して汚れた手で呪文書を扱わなかったことを思い出した。乱暴にもしなかった。彼の行動にも荒くれたところは1つもなかった。
だからパウルが悪魔の子だと言われてもティオキアは納得できないのだ。けれども父は、それさえも悪魔の子のせいにするだろう。彼のすることの何もかもが、悪魔の子ゆえとされるのだ。
「これは召喚のための呪文書だな。いまはほとんど手に入らないし、容易に読めない。何が召喚されるのかは読んでみないとわからないけれど、たぶん魔界の生き物を呼び出せると思う」
「魔界だって? 凄いな、そんなものが本当にあったんだ」
「これを俺に読めっていうのか?」
「君なら読めるだろう? 僕はどうせウィニアに行かなくちゃならない。だけどその前に君の力を見せてくれ」
パウルは慎重に頁をめくっていった。どの頁もしみだらけで汚れ、虫に喰われたところもある。綴じられた箇所もぼろくなっていて、もしもティオキアがこの呪文書を見つけなければ、そのまま書斎の奥で朽ちていたかもしれなかった。
だがそうなる前に彼が見つけ出した。父親も祖父も気づいていなかった、あるいは気づいていながら無視してきた父祖伝来の呪文書を、ティオキアが再び唱えられるように持ち出し、使いこなせるただ1人の人物に渡したのだ。
「万が一、おまえが出かけるのに間に合わなかったら悪いな」
「君がそんなこと、するわけがないじゃないか」
パウルは自信たっぷりな笑みを浮かべた。ティオキアはそれに満足して帰宅した。家出したことが知られたら、父の警戒はより厳重なものになるだろう。ウィニアに行くことはしょうがないし、出世して故郷に錦を飾るのもいいだろう。
けれどパウルが渡した呪文書を読めたかどうかわからないままでいるのだけはごめんだった。
それから1ヶ月ものあいだ、ティオキアは屋敷から一歩も出ずに過ごした。いざという時に父の目をごまかすためと、魔導学校での授業に備えたためだ。
それに、いままでパウルが呪文書について学ぶところをティオキアは見たことがなかった。呪文書を渡してしばらくすると、彼はそれを唱えられるようになっていたからだ。呪文書のことはパウルに任せておけば、万事間違いないのだった。
そして明後日にはウィニアに発つという日、ティオキアはパウルに呼び出された。それはいままでなかったことだ。ティオキアにはそれだけ彼が興奮しているのかと思われて、待ち合わせた場所に行くまで息が弾むのを抑えられなかった。
「パウル!」
名を呼ばれて友は手を振った。呪文書を抱えて、森の外れにたたずんでいる。
「やっぱりできたな。僕の言ったとおりだ」
「だけどずいぶん無茶もしたんだぜ。ここ10日ばかり、ろくに寝ていない。おまえが発つのを見送ったら、ゆっくり寝させてもらおうかな」
「でも凄いよ。読めるんだろう、それ?」
「ああ」
「それで何を召喚できるんだい?」
「邪眼大公ミュルミュール。どんな生き物かわからないけれど、凄い名前だろう? とんでもない悪魔が出てくるかもしれないぜ?」
「やってみなけりゃわからないだろう?」
「その必要はないよ!」
2人の背後から異質な声が降ってきた。ティオキアは驚いたが、パウルの驚きはそれ以上だ。2人は同時に振り返り、森の中からやってくる人影を見つめた。
「母さん?!」
そう言ったきりパウルは絶句する。ティオキアにも信じられなかった。そこに来たのは確かに彼の母と名乗っていた女性だったからだ。
「おまえたちが驚くのも無理はない。私だって何十年も封印されていたのだから、その名で呼ばれるのは本当に久しぶりなのだよ」
「最初からそのつもりだったのか?! 最初から俺たちを利用していたのか?!」
「そうさ。そうでなかったら、どうしておまえを拾う理由がある? 私はそっちの坊やのご先祖に召喚されて、こんな人間の身体に閉じ込められてしまったんだ。奴は私の名が呼ばれれば封印が解けるだろうと言い残した。だけど、どうしてそんな機会が偶然に訪れるものか。屋敷の奥にしまい込んだ呪文書を誰が見つけるものか。この地上で誰が私の名を知っているものかね?」
そう言って彼女が服を脱ぎ捨てると、その下から現われたのは見るもおぞましい、半身が蛇、髪の毛も無数の蛇である妖女だった。
「ティオキア!」
彼は気づかなかった。自分の喉から絞り出される叫びに。パウルがそれを止めようと彼を抱きしめていることに。
ティオキアには耐えられなかった。そこにこの世のものとは思われないゴーゴンが立っていることに。
「ティオキア、しっかりしろ!」
パウルの腕に気づくまでに、彼の口から出ていく叫びは次第に縮小していった。けれどもその代わり、彼は震え、涙を流し、哀れっぽい声で泣いていた。パウルに守られる以外、彼には何もできなかった。
ゴーゴンは氷のように冷たい眼差しで2人を見下ろしている。その目は闇のように深く、光のようにまぶしかった。ティオキアは恐れて目をそらし、それだけでも足りなくて目を閉ざした。
「おまえはよくやったよ、パウル。その坊やから渡された呪文書をおまえはよく読みこなした。それもこれも私が力を与えてやったからだけれどね。私の血、魔界の精をおまえは飲み干したんだ。だからおまえは闇の力たる魔に惹かれ、魔を使いこなす才に長けているのさ。天才なんかじゃない、私がそうしてやったんだ!」
「俺たちを殺すのか?」
「とんでもない! おまえたちのようなひよっこを殺したって、邪眼大公の名に傷がつくだけだ」
「だったら去れ! おまえはもう目的を果たしたんだろう? 魔界でもどこでも好きなところへ行っちまえ!」
「そう簡単にはいかないんだよ、パウル。私には魔界に戻る力が足りない。この地上と魔界はカオスゲートでつながっているが、そこを開けるには力が要るんだよ。だけど、おまえなんかに命令されるのはしゃくだねぇ。それにそっちの坊やの泣き声も耳障りだ。まるで赤ん坊の時のおまえにそっくりだよ、捨てられて道ばたで泣いていたおまえを思い出す。ああ、嫌な声だ、何て耳障りなんだろう!」
「やめろ! ティオキアには手を出すな!」
しかし彼は急にパウルの手を感じられなくなった。
と同時に人間のような者が投げ出される音がして、彼はおそるおそる目を開けた。
「ぎゃっ!!」
蛇の髪と下半身を持った女が彼を見ていた。ティオキアはたちまち腰が抜け、後方に手をついた。
「ああ、うるさいねぇ」
ゴーゴンの声音には苛立たしさが表われている。
「おまえの声にはほんとにいらいらさせられるよ。赤ん坊のようにひぃひぃ泣いて、その声を二度と聞かないで済んだら、どんなにいいだろうねぇ」
「やめてくれ、母さん!」
「誰だい、それは?」
ミュルミュールがせせら笑った。その視線はパウルの方に向けられ、ティオキアからは逸らされている。
「おまえの母親なんて女はもういないんだよ。おまえは親に捨てられた子なんだ!」
その時、ティオキアがなぜ短刀など持っていたのか。彼はゴーゴンにいきなり斬りかかり、蛇の尾に突き刺した。
「何をするんだい?!」
ゴーゴンの目が光った。
ティオキアの身体がみるみるうちに石に変わっていく。彼はそれきり意識を失った。
「ティオキアー!!」
その後、パウルは追われるようにクロタールを離れ、遠くトレモス山脈のクングルにまで至った。
彼は自らの力を封印し、過去とも決別しようとしたが、悪魔の子の名はいつまでも彼につきまとって逃れられなかった。
パラティヌス暦252年、失意の日々を送るパウルに1人の若者が声をかける。
後にこの国を引っ繰り返した革命軍の雄、マグナス=ガラントであった。
《  終  》
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