「予感」

「予感」

「わたしはサラディン=カームだ。グランディーナに会いに来たのだが、どうしている?」
「これはこれはサラディンさま! このような貧しいところにようこそ、おいでくださいました! さ、さ、まずはおかけになってお休みになってくださいませ! 長旅で疲れたでしょう? おもてなしできる何もございませんが、どうぞ、火に当たってください」
「ありがとう、少し休ませてもらおう。そなたは、この基地に勤める隊長か?」
「とんでもありません! わたしはただの料理人です。隊長なら上にいるので呼んでまいりましょう。
おーい、レーガン! お客様がいらっしゃったぞ、下りてこい!」
「わかったわかった。いま行くよ!」
しかしサラディンの前に下りてきたのは、とても駐屯地の隊長など務まりそうにない若い兵士だった。
「そなたがここの隊長か、レーガン?」
「は、はい。すみません、滅多にお客の来るところじゃないもんで」
「それはかまわぬ。わたしも連絡もなしに来たからな。だが王の御用でグランディーナに会いに来たのだ。あれは出かけているのか?」
レーガンは困ったような顔で頭を掻いた。
「あの方は出かけてるっちゃ、ずっと出かけてらっしゃいます」
「どういう意味だ?」
「ええと、こっちの駐屯地にゃ寄りつきもしないで山ん中の小屋を泊まり廻ってるような案配で。五日に一度、俺がサッカラの小屋に飯を届けに行くんでさ。ここの隊長ってのは、それだけが仕事なんで」
「ならば、あれに会いたければ、そのサッカラという小屋に行けばよいのか?」
「そいつぁ、ちょっとわかりません。なにしろグランディーナさまはマンスーラ山中を飛び廻ってらっしゃってサッカラの小屋に寄られるのも、いつのことかわからねぇんです。待っていれば、そのうちにいらっしゃるとは思いますが緊急避難用の小屋ですから、お偉い方が泊まられるには向かねぇと思いますが」
「だが手紙を遺して、来てほしいと伝えるわけにもいかないのだろう?」
「それはやってみたことがないのでわかりませんが飯を届けに行くついでです、置いてきましょうか?」
「よい。せっかくここまで来たのだ、そのサッカラの小屋まで案内してくれ。あれを呼び出すよりも、わたしが会いに行くのが筋というものだろう」
「わかりました」
建物の外に出ると冷たい北風が細かい雪を伴って吹きつけてきた。イスマイリア駐屯地は旧神聖ゼテギネア帝国の帝都ゼテギネアから、さらに北にある。新生ゼノビア王国でも最北で、いちばん辺境に位置する基地だ。
しかし、そのすぐ北のダミエッタ山脈の向こう側がローディス教国のため、本来ならばゼノビアのなかでも最も緊張し、守りの堅い基地でなければならないはずが、ダミエッタ山脈という天然の要害があり、年中寒冷な厳しい気候のためもあって、あまり重視されてこなかったのだ。
サッカラの小屋に着いたのは翌日の昼頃だった。レーガンの発つ予定に合わせたために一日ずらしたのだ。彼の案内がないと道もなく、往復で丸一日かかると言われたのでサラディンも無理は言えなかった。
しかし、2人が到着した時、サッカラの小屋には誰もおらず、何日も人のいない底冷えのする寒さに支配されていた。
レーガンは荷物を下ろして火を沸かした。彼はこの小屋で小休止をとってから、その日のうちに駐屯地に引き返すのだそうだ。
「まったく、こんな仕事じゃ兵士だなんて言えませんや。することと言ったら五日に一度、この小屋まで飯を運ぶだけなんですから。飯を作ってるサッチの方が、ずっと仕事らしい仕事をしてますよ」
「不満ならば配置換えを申請したらどうだ?」
「それがそうとも言えないんで。はばかりながら、これでも隊長待遇で給料も悪くねぇし、仕事だってきつかねぇし、これ以上贅沢を言ったら罰が当たりまさぁ。ですがサラディンさま、本当にお一人でよろしいんで?」
「あれが来るまで、そなたをここに引き留めておくわけにもいくまい。そなたの話ではサッチも駐屯地には泊まらぬのだろう。あちらを無人にするのも好ましくない」
「それじゃあ俺は戻りますんで」
「案内をありがとう。駐屯地まで気をつけて」
「ありがとうございます」
レーガンが出ていった後でサラディンが改めて小屋の中を眺めると、彼の言ったとおり、緊急避難用の小屋以外の何物でもなかった。薪は大量に積んであるが寝具は厚手の毛布一枚と毛皮しかない。誰かが泊まることなど最初から想定もしていないような備えだ。
「グランディーナ、おまえはこんなところで3年間も過ごしたのか」
3年前に別れたきりの養い子のことを思い出して、彼は胸が詰まる思いであった。
「ゼノビアに帰るだって? どうしたんだ、いきなり?」
「疲れたのだ、これ以上、当てのない探索を続けることに。ローディスとの戦が始まれば、あの方は必ず現れるだろう。それを待った方が早いと思った」
グランディーナとサラディンのあいだに、しばし沈黙が訪れた。それは彼にとって居心地の悪い時間だったが、やがて口を開いた彼女の声音は驚くほど、いつもと変わりがなかった。
「ならば荷物をまとめなくてはな。宿の主人にも断りを入れてこなければ」
「片づけはわたしがしよう。ほとんどわたしの私物だし適当にまとめられたのでは都合の悪い物もある」
「それがいい。私では大事な物を壊すかもしれないからな」
グランディーナが部屋を出ていったので、サラディンは我知らずのうちにため息をついていた。彼女が笑みを浮かべなかったことに、いつの間にか圧迫感を覚えていたらしい。
それもそのはずだ。彼女は疲れを見せたことがない。むしろ彼女の強さにサラディンの方が引っ張られて、遠いバルバウダ大陸まで来たと言っても過言ではないだろう。
しかしそもそもの言い出しっぺは彼だった。ラシュディの行方を捜す。ただそれだけの当てのない旅にグランディーナを誘ったのはサラディンの方であった。
だが、その足取りはパラティヌスを最後に途絶えた。それだって、せいぜい第二皇子ユミル付きの侍女マーリ=キャランの父親がラシュディらしいという情報だけで、それ以上の動きはつかめなかったのだ。
それでも彼を先へ進ませたのは師を止めなければならないという義務感からだったが、その気力もついに尽きた感じだった。
「すまぬな、わたしのわがままにつき合わせて3年も無駄にさせた」
「謝ることなどない、私が好きでつき合っているんだ。それに無駄なこともない。いつかは来ようと思っていたところだ、いい機会だったし、あなたと旅ができて私は楽しかった」
彼女は、ここで初めて微笑んだ。
「それは帰りたいなどと言い出して悪かったようだな? おまえは一人で残ってもいいのだぞ」
「魔法も使えない私がラシュディを探せるはずもないだろう。いい機会だ、一緒にゼテギネアへ戻る」
「それはゼノビアへ行くということか?」
「違う。ゼテギネアの北に気になるところがある。そこに行く」
「ゼノビアに寄ってから行けばいいではないか。皆も会いたがるだろう」
「それこそ時間の無駄だ。ゼノビアに寄れば1ヶ月くらいは簡単につぶれてしまうしカストロ峡谷からも遠い。私は真っ直ぐにゼテギネアへ行く」
「何をそんなに急ぐことがあるのだ?」
「エンドラがローディスの侵入があったと言っていたのを覚えているだろう? 大軍の侵入できるような地形ではないがトリスタンになってから監視が強化されてもいないようだ。私が行こうと思う。トリスタンにはあなたから伝えてくれ」
「だが、それには王の勅命を拝しなければなるまい。疲れもあるだろう。ゼノビアに戻ってはどうだ?」
「別に基地に居座って隊長面しようというつもりはない。用があるのはマンスーラ山中の小屋だけだ」
「そんなに性急なことなのか?」
「そういうわけではない。だが放っておいていいことでもないだろう」
こうなったら梃子でも動かないことをサラディンは、よく知っていた。それでもゼテギネアに帰るまで、まだまだかかる。そのあいだに話をすれば彼女の気が変わらないとも限らない。
ところが、そんなサラディンの心中を見抜いたかのようにグランディーナはつぶやいた。
「私はまだゼノビアに行かない方がいいんだ」
「5年も経ったのだ、いつまでもおまえを担ぎ上げようとする者もおるまい」
「そういう楽観は抱かないようにしている。何かあってからでは遅いからな」
「だがトリスタン殿はおまえを将軍にとお望みだっただろう?」
「そんなものはローディスとの戦が決まってからでいい。平和な国には必要ない存在だ」
「おまえの居場所はないと言うのか?」
「いまのゼノビアに私は要らない。戦争屋が戦争以外のことに首を突っ込んではいけない」
彼女のあんまりきっぱりした物言いにサラディンは口をつぐんで片づけに専念した。グランディーナの意志の固さは容易に覆らないように思えたためだった。
2人は近くの港まで歩き、〈何でも屋〉のジャックの手配した〈漆黒の涙〉号でゼテギネアへの帰途に就いた。カストラート海を経由するのでアヴァロン島にも寄ることができたがグランディーナは頑固に行かないと言い張った。
「アイーシャに会いたくはないのか?」
「ロシュフォル教会の再建で忙しいのに邪魔しては悪い。それにアヴァロン島には二度と行かないと言ったんだ」
「それよりもローディスの方が気になるのか?」
「それもある」
けれども、そう言う一方で彼女は船上では昼寝三昧だった。
〈漆黒の涙〉号は、もといる船員と船長だけで動かせる船なので以前、カストラート海にランスロットやカノープスと赴いた時にも手伝えることはほとんどなく、2人は暇を持て余していたものだ。サラディンがかろうじて賄いを手伝う程度でグランディーナのすることなど端からない。
だからといって所構わず寝てばかりというのもどうかと思うがアレイス船長は〈何でも屋〉から彼女の邪魔をするなと厳命されているのだそうだ。
結局、船中でもグランディーナの意志を引っ繰り返すことはできなかった。彼女が寝てばかりいたのもサラディンとの論争を避けるためだったのかもしれないと思われたほどだ。
仕方なく彼はカストロ峡谷から単身ゼノビアへ戻った。さすがの彼も今度の探索行が何の成果も上げられなかったことで疲れを覚えていた。師の行方は二度とわからないのではないかと弱気になったせいもある。彼は己の老いを実感しないわけにはいかなかった。
ゼノビアに戻った時、多くの人びとがグランディーナの不在を残念がったが、ただトリスタン王だけは別な反応を見せた。
「そうか。彼女は、わたしの治世がまだ不安定だと思っているのだな。それにイスマイリア駐屯地の件は彼女の言うとおり、もっと用心した方がいいだろう。彼女がいればローディスへの抑止にもなる。内外にも喧伝しておくとしよう」
もっとも、これは弊害も生み出してグランディーナの怒りを買った。新生ゼノビア王国建国の英雄として彼女の名は広く知れ渡っている。イスマイリア駐屯地と彼女が「用がある」と言っていたマンスーラ山中の小屋にまで見物客が行くようになってしまったのだ。
それで彼女は駐屯地に寄りつかなくなった。そこに赴任している兵士たちのことも完全に無視してマンスーラ山中を歩き廻っている。
グランディーナ目当てでイスマイリアへの転任を志願した兵士たちが文句を言い出したので結局トリスタン王は人をやって彼女の意向を訊ねる羽目になった。
彼女が要求したのは次の三点だった。一つ、食事の用意、中身は問わない。一つ、駐屯地に責任者を置くこと。一つ、マンスーラ山中への立入禁止である。
前二つは明確な反対もなかったが最後の件はマンスーラ山に所有者がいるという点で反対を喰らった。
しかしトリスタン王は山一帯を国が買い上げると言って押し切った。いままで誰もローディスとの国境に近いという点に目を向けなかったのがおかしい。狩りの獲物もいないような寒山の所有にこだわるのはローディス教国との繋がりも疑われるという厳しい言葉に人びとはようやく黙ったが、平和な時代に敢えてローディスを挑発するような態度に、トリスタン王の決意を見出した者も少なくはなかったのだった。
それからというもの、グランディーナはずっとマンスーラ山中に籠もっている。一度もゼノビアはおろかイスマイリア駐屯地にも下りてこないというから徹底したものだ。
トリスタン王は彼女の要求に沿って、五日に一度、五日分の食事と携行食糧をサッカラの山小屋に運ばせている。その役目は最初、料理人が請け負うはずだったが、いつとなくイスマイリア駐屯地の兵士の仕事となった。たまに服や靴も届けられるそうだが、武器だけは置いていっても手に取った気配もないとのことだった。
それから3年が経つ。サラディンは王の手紙を携えてサッカラの山小屋を訪れた。グランディーナに、今度こそゼノビアに戻ってもらうために。
「サラディン? どうして、あなたがこんなところに?」
「久しぶりだな、グランディーナ。3年も山から下りてこないと言うから、どんな野人が来るかと案じていたが、あまり変わらないようで一安心だ」
「野人だよ、私は。人と話すのもしばらくぶりだ」
「今日はおまえと話したくて来たのだ。時間はとれるかね?」
「一日くらいなら差し障りはないだろう」
そう言って腰を下ろしたグランディーナは3年前に比べても、それほど変わらなかった。もともと日焼けはいとわぬたちなので真っ黒になっていたし、髪は自分で切ってしまうから短くざんばらだ。腰に提げた曲刀もそのままだったが、服装だけがサラディンの記憶と違っていた。
「毎日、何をしているのだ?」
「山の中を歩き廻っている。おかげで足腰はやたら丈夫になった」
「話の前に渡しておこう。トリスタンさまからの手紙だ」
「ありがとう。だが、まさか、こんな物を届けるために、あなたが出向いてきたわけではあるまい?」
「わたしが使者に立つと言い出したのだ。おまえを説得できたらと思ってな」
礼こそ言ったものの、グランディーナの手紙の扱いはぞんざいだ。封も開けずに卓の上に放り出している。
「トリスタンも筆まめだな。半年に一度は手紙をよこす。だが中身はいつも同じだ。ゼノビアに来い、それしか言わない。彼に伝えてくれ。紙の無駄だから二度と送るなと。時が来れば私はゼノビアに行く」
「それまで、ずっとここにいるつもりか?」
「そうだな。それも悪くない」
「おまえがここにいて何の意味がある?」
「はっきりした理由がなければ、いてはならないのか?」
「おまえの才能をこんな辺境で費やす手はないだろう。ゼノビアに戻ってこい、グランディーナ。その方がずっと役に立てることは多い」
「人にでも教えろと言うのか。仕事をしているよりも人とつき合う方に心を砕いてばかりいるようなところは私は苦手だ」
「だがトリスタンさまは、おまえの力を必要だと言われている」
「戦争屋に戦争以外のことを頼むものじゃない」
「寂しくはないのか、そうやって人から距離を置き続けるのは?」
「私のために国が分裂するよりずっといい」
「トリスタンさまの治世ももう8年になる。そろそろ盤石の構えを期してきたとは思わぬか?」
「人の心は移ろいやすい。8年も経てばゼテギネア帝国を倒したという興奮も、ゼノビアの建国という高揚感も消えて国への不満を抱き始めるころだ。そんなところに私が行けば、せっかく消えた火種に火をつけることになる。それだけはごめんだ」
言ってからグランディーナは目をそらし、暖炉の火を見やった。
「昔、まだ解放軍だったころ、フォーゲルとそんな話をしたことがあった。オウガバトルが終わった後、10年足らずで権力争いを始めた人間たちにフィラーハは見切りをつけ、天空の三騎士にも地上への介入を禁じたと。その時、私は10年ならば十分長い時間だと言ったが、それは間違いだ。争いで傷つくのはいつも力のない人びとだ。彼らのためには争いなど10年20年なくても短い。100年200年でもいいくらいだ。そのためだったら、私はいつまでもここにいる」
「トリスタンさまも同じようなことを仰った。3年前、おまえがここに行くと言った時に。あれから3年経って、おまえを呼び戻そうとしているのは確信を得られたからではないのか?」
「ならば余計、止めておこう。そういう時の方が却って危険だ。私はまだゼノビアに行かない方がいいだろう」
「皆が寂しがるぞ」
「寂しがらせておけばいい。会いに来られないところでもあるまい」
「この寒さは格別だ。温暖なゼノビアから来ると辛いな」
グランディーナが驚いた様子でサラディンを見、暖炉に薪を放り込んだ。
「すまない。自分が暑さ寒さに強い方だということをすっかり忘れていた。この小屋はあまり暖まらないだろう?」
話しながら彼女は毛布と毛皮もよこした。
「これはあなたが使うといい。これで足りるといいんだが」
「持ってきた毛布も使えば一晩くらい何とかしのげるだろう」
「食事もこんなもので悪いな。私にはこれでも十分なくらいなんだが、あなたには物足りないだろう」
「いいや、わたしが贅沢になりすぎたのだ。もう、おまえと一緒に旅に出ることもないだろう。身体がすっかり追い着かなくなった」
「奴の行方を追うのも諦めたのか?」
そう訊いた時、グランディーナの目は鋭く光るようだった。
「そうかもしれない。ゼノビアに戻った時、わたしは疲れ果てていた。おまえと別れた時には、また旅に出ると言ったが、その気のないままに3年が過ぎた。わたしはもう、あの方には会えないのではないかと思っている。おまえこそ、ここから離れがたい理由でもあるのか?」
グランディーナは立ち上がり、黙ってレーガンの持ってきた鍋の中身を大きなお椀に移し始めた。食器類は一つずつしかなく、彼女は最後に黒パンを皿に載せてサラディンの方に押し出した。
「先に食べてくれ。
はっきりした理由はないんだ。ただ、ひとつところを定めずに世界中を歩いているより、いまはここにいた方がいい。そんな気がしているだけだ」
「誰かが来ると?」
「そんなものではない。ただの勘だ」
サラディンが食べ終えるとグランディーナは同じ器で食事した。
不味くはないが、とりたてて美味くもない料理で、サッチという料理人の腕前は知れていた。グランディーナは味にうるさい方ではなく、むしろ無頓着と言ってよく、解放軍時代も「食べられればいい」が口癖だったのでサッチでもやっていけるのだろうと思われた。
それからサラディンはゼノビアの様子を少し話した。
トリスタン王とラウニィーのあいだに、もうじき待望の第一子が生まれるだろうこと。
カノープスが魔獣軍団長を退いたこと。
ギルバルドとユーリアがシャローム地方で仲睦まじく暮らしていること。
デネブは相変わらず神出鬼没であること。
そしてカノープスらとヴァレリア島に行ったウォーレンとランスロットは6年経ったいまも行方不明のままであること。
そんな話ばかりだった。
グランディーナは黙って耳を傾けていたが、それらの人びとに会いたいという気持ちは募らないのか、その表情が変わることはなかった。
そう、もしも彼女が変わったとするならば表情が乏しくなったとは言えるだろう。
もともと、ほかの者とは異なる視点を持っていたが、3年も会わないあいだにその視野がかなり広がったようだ。彼女と同じものは、もはや誰も見ないのかもしれない。ランスロットは解放軍時代、グランディーナの視点を天空の三騎士、つまり半神と同じだと評したことがあった。
彼女の表情が変わったのはただ一度、アイーシャの名が出てきた時だけだった。
「アイーシャがロシュフォル教会の大神官を引き受けたそうだ」
「そう、か」
パラティヌス王国からの帰り、彼女はゼノビアには行かず、アヴァロン島に帰った。それからはずっとアヴァロン島におり、ロシュフォル教会の再建に忙しく働いていたが、グランディーナと会ったのはそれが最後だったはずだ。あの時、2人だけで話し込んでいたが、何を話したのかはサラディンも知らない。
そのアイーシャの名にグランディーナは表情を曇らせたが、黙って火を見つめるだけだった。
「トリスタンさまはアヴァロン島の守りのために騎士団を置こうとされたがロシュフォル教会に断られたそうだ。アイーシャが大神官になる前のことだがな。いまさら中立を破り、国家の庇護を受ける気はないと。だがアヴァロン島はローディスの目標だ。そもそも光焔十字軍を起こしたのもアヴァロン島奪還のためだと聞いている。方針を変えなければ危険なことになるだろう」
「だがアイーシャは了承すまい。そうでなければ何のために大神官など引き受けたのか、わからなくなってしまう」
「おまえからアイーシャを説得することはできないのか?」
「何のためにそんなことを?」
「アヴァロン島を守るためだ」
しかし彼女は即座に首を振った。
「それではフォーリスさまの遺志は守れない。それに私の説得などアイーシャは聞かない。そんなことができれば彼女をアヴァロン島に帰さなかった」
「アイーシャがフォーリス殿のようになるというのか?」
「大神官というのは、そういう危険な立場だ。ローディスが攻めてくれば真っ先に狙われる」
「それでも騎士団は受け入れないのか」
「一度ゼノビアに降れば二度と中立ではいられなくなる。アイーシャ以外の者が大神官だったなら、そうした可能性はあったかもしれないが」
それきりグランディーナは黙りこくり、火を見つめるだけだった。
「わたしは、そろそろ休ませてもらおう。明日からゼノビアに戻らなければならないからな」
「あなたには無駄足を踏ませてしまったな」
「久しぶりにおまえに会えて嬉しかった。無駄足ではないさ」
「そうならば、いいけれど」
彼女はそう言ったが、やはり笑うことはなかった。
山小屋は寒く、サラディンはなかなか寝つかれなくて、寝てもすぐに目を覚ましたりした。暖炉の火は一晩中燃えていたが、やはり暖まりきらないようだ。火の爆ぜる音も耳障りであったし、外でうなり声をあげ続けている風もうるさかった。
火の傍で膝を抱えて眠るグランディーナを見て、サラディンは雪山で同じような姿で眠るところを思い浮かべた。そんなところを見たら、彼女を知る者は驚き、呆れるかもしれない。けれど彼女自身は王都での安穏とした贅沢な暮らしを望んだことなど一度もないのだった。
翌日、サラディンはイスマイリア駐屯地に戻り、グランディーナとは山小屋で別れた。彼女を動かせるのはトリスタン王でもなく、ただ戦いという火急の事態だけなのだ。
ならば彼女がずっとゼノビアに来ない方がいいのだろう。彼女が言ったとおり戦いで犠牲になるのはいつも力のない人びとだ。彼らのためには戦いなど起きない方がいいに決まっている。
けれどグランディーナはいつかゼノビアに来るだろう。来るべきローディス教国との戦いの先触れとして。
それは、もはや予感などではない。
《  終  》
[ 目 次 ]
[ トップページ | 小 説 | 小説以外 | 掲示板入り口 | メールフォーム ]