「忘れられた子守唄」

「忘れられた子守唄」

「あなたのお母上は生きておいでだ。長いあいだ、ゼテギネア帝国に囚われていたところを最近プレヴィア将軍とともにシュラマナ要塞に移された」
暗殺団の長になったというリゲル=カナベの話がトリスタン皇子の頭に浸透するのに少し時間が要った。
母が生きている。
その言葉を彼はゆっくりと反芻した。だが彼の心に浮かんできたのは戸惑いだけであった。
「わたしは母上の顔も父上の顔も覚えていないんだ。生きていると言われても実感がわかないな」
「それでは囚われたお母上を見殺しにされると?」
「そうは言っていない。ただ母上を助けようとすれば、わたし1人の判断で動けることではない。せっかくの情報だが早急に役に立てられるものではないようだ。今日は下がっていい」
リゲルと入れ違いにケインが天幕に入ってきた。
「どんな話をしました? 彼は使えそうですか?」
「母上が生きているそうだ」
「え?」
幼なじみは一瞬、怪訝そうな顔をしたが、すぐに事情を呑み込んだらしく心底驚いた様子だった。
「それはすぐグランディーナに伝えて、そちらへ進軍するよう伝えるべきではありませんか?」
そんなことは露ほども思いつかなかったことに愕然としつつ、トリスタン皇子は見た目は冷静に答える。
「そんなこと、彼女はとっくに知っているだろう。その上で先にライの海とクリューヌ神殿に行く方を選んだんだ」
「何のためにです?」
「ライの海の方は行き止まりだ。先に片づけたかったんだろう」
「ではフローランさまがいらっしゃるのはシュラマナかザナドュですか?」
「そうだ。最近シュラマナ要塞へ移動させられたらしい。わかるだろう、何のためか? 迂闊に動けば母上を殺される」
「妃殿下は我々への人質だと」
それでケインも言葉を詰まらせたようだった。トリスタン皇子は彼に微笑みかけた。
「心配しなくても単独で行くようなことはしないよ。だけど何か良い知恵は浮かばないものかね?」
「たとえ浮かんできたとしてもあなたが試されるようなことではありません。確かにフローランさまをお助けできれば我々にはまたとない味方になりましょう。ですが、あなたの命と引き換えにするほどのことではありません」
「うん、わかっている」
ケインは彼を睨んだ。
「心配性だな、君も。わたしだってそんな真似はしないよ。それにリゲルにも言ったんだ。母上が生きていると言われても実感などないとね」
「それは」
「考えてもごらん、ケイン。わたしは、ついさっきまで母のいない子どもだったんだ。生まれてから26年間、わたしの人生のなかで母上と一緒にいた時間なんてほんの少しでしかない。母上にしたって同じことだ。24年前に別れた子どもがいっぱしの大人になったんだ。『母上』と言われたって戸惑うだけだろう」
「妃殿下のお気持ちはわたしにはお察しできませんが、とにかく早まった行動はお控えください」
ケインが下がったのを見てトリスタン皇子は改めて苦笑いした。彼に釘を刺されるまでもない。自分にそんな気は毛頭ない。リゲルに言ったことは事実だし、母だって、この期に及んで会いたいなどとは思わないだろう。いまさら会っても話したいことなど何もないのだ。
それに1つ疑問がある。自分が厳しく追及されなかったのはトリスタンという偽名を使うことでフィクス=トリシュトラム=ゼノビアは死んだものと思わせていたためだろうが解放軍への参加を表明した時も、それほど驚かれたようではなかった。ということはゼテギネア帝国は自分が生き存えたことを知っていたのではあるまいか。そしてそのことをもはや帝国の住人になってもおかしくないほどの歳月をザナドュ辺りで過ごした母は驚きもせずに聞いていたのではないか?
だとしたら、彼女は自分が生きていることを、どう思ったのだろう。「会いたい」と思ったか、「懐かしい」か、それ以外の何かか?
あるいは何も思わなかったのか?
目の前で夫と我が子を殺された女性は消息も知られなかった、もう1人の皇子が生きていることをどのように思ったか、トリスタン皇子が母に訊いてみたいことと言えば、それしかない。
「だけど、そんなことを訊いて何になるっていうのだ? 『会いたかった』と言われて、わたしもですと言うのか? 『おまえなど知らない』と言われて絶望しろと?」
彼は自嘲気味につぶやいたが答えは出てこなかった。
しかしその夜、彼は母の夢を見た。顔も声も覚えていない母は、夢のなからしく曖昧な姿だった。けれど頬をなでられたその手は温かく、目が覚めた時には涙がこぼれたほどだった。そして思い出すこともできない子守唄のなかに確かに「私の坊や」という言葉があったことだけをトリスタン皇子は特にはっきりと覚えていたのだった。
「何かあったのですか? 目が赤いですよ」
「そうかい? どんな夢を見たのだろうな、覚えていないや」
彼はとぼけてみせたが、ケインの目は騙されない。
しかし、いまは朝食時で追求するには人が多すぎる。それで彼がやってきたのは朝食後だった。
「何があったんです? まさかリゲルがまた来たとか?」
「それはないよ。彼だって、そんなに暇ではないだろう」
「だったら何です? 本当に夢を見たというんですか?」
「そうだ。母上の夢を見た。おかしな話だな、顔も声も覚えていないのに母上だとわかったんだ」
「それだけですか?」
彼が黙ったので、しばらく経ってケインが訊ねた。
「そういうわけではないんだけれど、夢のなかで母上が子守唄を歌っていてね、それだけはっきりと覚えているんだ」
「それで妃殿下に会いに行きたいと仰るんじゃないんでしょうね?」
「まだそこまで感傷的ではないよ。ただ、まったく無関係だと思っていた母上が急に身近な存在に思えたことも確かなんだ」
ケインは顔をしかめた。
「それは良くない兆候です。せめてアッシュ殿の意見を聞いた方が良くありませんか?」
「そうでなくても父上のことで、いまも苦悩している彼にさらに心配の種を増やせと言うのかい?」
「それは彼の勝手です。それにわたしは24年前に殺されたグランさまのことよりも、あなたのことで悩んでもらいたいのですがね」
「それこそ彼の勝手というものだな。とにかくアッシュに相談しても何の助けも得られないことは間違いがない」
「ならば、この問題はあなたお一人で決着をつけるおつもりですか?」
「そこまで愚かではないつもりだよ。シュラマナ要塞にわたし1人で行って、どうにかなるとも思えないしね。でもリゲルにもう少し詳しく話を聞いた方がいいかもしれないな」
「そんなことをして何の得があるんですか?」
「ほかならぬ自分の母のことだ。解放軍のリーダーより知らないのでは格好がつかないじゃないか」
「そんな必要はないと思いますがね。それにリゲルにどうやって来いと伝えるのですか? この野営地のなかでわたしは彼の存在に気づかなかったのですが?」
「夜になったらやってくるよ、たぶんね」
果たしてトリスタン皇子は当てずっぽうで言っただけだったのだがリゲルは言ったとおり夜になったら現れた。今度はケインも一緒にいる。
昨日はグランディーナの真似をして影に1人で会ってみたのだが、いまさら彼を外すのも物足りない気がして、ともにいるように頼んだのだった。自分は孤高であろうとする解放軍のリーダーとは違うのだと思ったためもあった。
相手が増えていてもリゲルは特に顔色を変えたりもしなかったし、なぜとも訊かなかった。
「何か用があるそうだが?」
「君も地獄耳だね」
「そうでなければ影は務まらないからな」
「母上のことをもっと詳しく知りたくてね。シュラマナに連れてこられる前はどこにいたのか、父上と兄上を殺したのに誰が生かしておいたのか、なんてことをね」
リゲルは一呼吸置いてから話し始めた。
「あなたのお母上はシュラマナ要塞に連れてこられる前はザナドュにいた。誰がそこに連れていったのかはわかっていないがザナドュの支配者はハイランド王国時代からウィンザルフ家と決まっている。ヒカシュー大将軍が絡んでいるのは間違いないだろう」
彼がしばらく沈黙したのでトリスタン皇子とケインには考える時間が与えられた。
ヒカシュー大将軍については噂とラウニィーの話でしか聞いたことがない。最近はデボネアやノルンも貴重な情報源だが、彼女らが口を揃えて言うのは大将軍の人徳の高さと慈悲深さだ。
ウィンザルフ家は王家と並ぶほどの旧家で領民にも慕われている。ヒカシューは旧四王国との戦いで指揮を執ったが、グラン王の暗殺やホーライ王国騎士団を壊滅させた禁呪の使用はラシュディの独断と言われている。
ゼノビア王妃フローランをさらったのも夫と子どもを殺されて嘆く女性にとどめを刺すのが忍びなかったとも考えられるのだ。
「母上が大将軍の慰み者になっていたということはないのか?」
「どうやら、それはないようだ。そんなことになっていれば足繁くとは言わないまでもお母上の住居に通う大将軍の姿が人の噂にのぼっていよう」
「母上は、わたしが生きていることをご存じなのだろうか?」
「それは当人に直接訊くしかないな。知っていたところでどうにもできないだろうが」
トリスタン皇子は、またしても考え込んだ。
「フローランさまはシュラマナ要塞のどこにいるのか、わかっているんですか?」
「助け出すには警備が厳重すぎるがな。プレヴィア将軍の監視下に置かれているので話すことも難しいだろう」
「そんな環境で母上はいったい何をして過ごしているんだ?」
「日がな1日物思いにふけっているらしい。時々プレヴィア将軍が訪ねるほかは召使いとも話をしないそうだからな」
「それはシュラマナ要塞に連れてこられてからのことなのか? それともザナドュにいたころからずっと?」
ケインに袖を引かれるまでトリスタン皇子は自分が身を乗り出していたことにも気づかなかった。彼は慌てて座り直した。
「ザナドュの時はヒカシュー大将軍の庇護下にあったから、どんな様子だったかはほとんど知られていない。前にも言ったように大将軍は滅多に訪ねなかったそうだし」
何のために生きているのか?
そんな言葉がトリスタン皇子の脳裏に浮かんだ。
何が彼女を生かしているのか、人生の半分を幽閉され、無為に過ごすことに、どんな理由があるのか、意味があるのか。
「一説にはグラン王の持っていた秘宝の1つがフローラン王妃の手にあるということだ」
「秘宝? 初めて聞くが、それは何だい?」
「ゼテギネア帝国がいまになって必死で探している物だ。1つはゼノビア王国の副騎士団長パーシバル=シュレディンガーに預けられ、クリューヌ神殿で行方不明になっている。もう1つがフローラン王妃の手にあると言われているが、こちらも行方が知れない」
「それでグランディーナは先にクリューヌ神殿まで行くと言ったのかな?」
「あそこにはルバロン将軍もいます。そこまでは何とも」
「帝国が母上を生かしているのはその秘宝とやらのためか?」
「その可能性はある。ただ、なぜフローラン王妃だけがそのように厚遇されているのかはわからない。ゼテギネア帝国ならば拷問してでも手に入れそうなものだからな」
「帝国が秘宝の中身を知らない可能性は?」
「ラシュディがついていてそれは考えづらいな。グラン王は元々ロシュフォル皇子に仕える剣士だったろう。彼にそのような物を手に入れる機会があったのは五英雄の時代、それもロシュフォル皇子が世俗の地位を捨て、アヴァロン島に引きこもってからのはずだ。その時、ラシュディが一緒でなかったことはあまりなかっただろう」
「母上はどんな風だった? つまり君から見て幸せそうだったかい?」
ずいぶん考えてからトリスタン皇子は訊ねた。
訊かれたリゲルは、そんな質問は予期していなかった顔をしたが、すぐにいつもの無表情に戻った。
「そういう風ではなかったな。こういう言い方を許されるならば、王妃はそうした感情や価値観から超越したところにいた、というのがわたしの感想だ」
彼も何と言ったらいいのか困るような回答だ。
祖国を滅ぼしたゼテギネア帝国のもとで幸せだというのなら母は敵であろう。その帝国を倒すために自分は戦っているのだ。なれ合いなどできるはずがない。
母が悲しみにうち沈んでいるというのなら何の問題もない。解放軍はゼノビア王妃を救出するという大義名分を得られる。
だが、そのどちらでもないというのは、どう考えたらいいのか。夫と息子を目の前で奪われて茫然自失としているのだろうか?
それともリゲルが「超越したところ」と言ったように、そうした感情さえも失ってしまったのか。
ケインもリゲルも何も言わずに彼の反応を見守っている。
トリスタン皇子は先に幼なじみに目をやった。それだけで彼は腹を読んだようで小さな吐息をつく。
「すまない、ケイン。わたしは母上に会いに行くよ。1人で行くと言っても君は決して承諾しないんだろうな?」
「当たり前です。でも、あなたとわたしだけでも駄目です。せめて、もう1人いてくださらなければ」
そう言った彼が人選に惑ったようだったので、トリスタン皇子は迷わず1人の名を挙げた。
「ヨークレイフなら文句はないだろう?」
「やっぱり、そうなりますか」
「誰にも言えずに発てるのは彼だけだよ。不満ならば君も連れていかない。わたし1人で行く」
「反対はしません」
「後で文句を言っても聞かないよ?」
「そんなことはしませんよ。ですが皆さんには何て言い訳をされるんですか?」
「しないさ。誰に言ったって止められるんだ。こっそり発つよ」
「しかし彼らは裏切られたように感じるのではありませんか?」
「その時はしょうがないな。わたしもいつも理性的でいられるわけじゃないんだ」
ケインが黙ったので話が済んだと思い、それからトリスタン皇子は改めてリゲルに向き直った。
「さあ、わたしたちを母上のところに連れていってくれ。皆には見つからないようにしてね」
こうしてトリスタン皇子とケイン、ヨークレイフの3人はリゲルの手引きで解放軍の野営地を離れ、シュラマナ要塞に向かった。
その行動が、どんな問題を引き起こすのか、その時の彼が考えなかったわけではないのだが、事態は彼の予想を上回ってしまうのであった。
《  終  》
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