「囚われ人」
「げぇっ!」
牢の鍵も閉ざされないうちから、傭兵の女は吐き、あろうことか自分の汚物の上に倒れ込んだ。看守たちは彼女に嫌悪の視線を投げかけたが、囚人はそれきり身動きもせず、ただわずかに上下する背中だけがその生存を伝えるのみだった。
長くて量の多い赤銅色の髪が床に重々しく落ちた。それは首の後ろで緩やかに束ねられていたが、何日も梳いたことのない乱れ方をして、まるで鳥の巣よろしく草の葉も突き刺さっていた。
手首はここに連れてこられた時には荒縄で後ろ手に縛られており、むき出しの腕には新しい傷がついており、そのうちのいくつかは血も乾いていない。
服はいくばくか彼女の身についていたが、一見して何があったか容易に想像できるような端切れ同然で、靴も履いていなかった。
けれどまるで戦死者のような格好でありながら、彼女は自分の足で地上五階にある牢獄に昇り、いちばん奥の部屋に閉じ込められたのだった。もっともその歩き方はいまにも倒れそうで、顔も伏せ、一歩一歩足を引きずるようでもあった。
五階にはほかにも囚人がいた。だが、うら若い傭兵の女に声をかけるほど元気のある者はおらず、たいがいの者は無気力に座っているか、もう死にそうなのだった。
けれど、廊下の奥から嘔吐する声が何度か聞こえると囚人たちが徐々に騒がしくなってきた。もちろん彼女の吐瀉物の臭いに耐えかねてのことだろう。その臭いは、いちばん遠い看守たちの詰め所まで漂ってくるのだ。
彼らが腰を上げないでいるのは、ひとつには面倒だったからだ。この牢獄はアンサンク河の中州に建っているので水が不足することはなかったが、五階まで水を運ぶのは重労働なので、水瓶は必要最小限の分しか置いていない。当然、このような事態は誰もが想定外であり、牢を掃除するために下から水を持って上がることは誰もしたくなかったのだ。
それに彼女の嘔吐が止まったという保証もない。せっかく掃除をしてもそれが無駄に終わってしまう可能性もある。そんなことをするよりも看守たちは臭いを我慢することにしたのだ。囚人というのは臭いものだ。彼女だけが特別なわけではないだろう。
夜中に見回りに行くと、囚人のうめき声や、何とかしてくれと訴える声がやけに多かった。
だが、当の汚臭の発生源は相変わらず牢の真ん中に転がって、自分の汚物にまみれている。その顔は伏せられたままで、わずかに背にまわされた手が上下するのみだ。
看守のマークスはできるだけ静かに錠を開けた。牢内に一歩踏み込んだだけで、凄まじい悪臭に襲われ、思わず躊躇ったほどだ。
しかし、そんなものも忘れられるほど、彼は女に飢えていた。女傭兵の髪と二の腕をひっつかむと、汚れていない牢の隅まで引きずっていった。
月の煌々と明るい夜だった。
たったひとつの格子窓から差し込んだ月明かりを、赤銅色の髪が反射する。
仰向けにされて彼女はかすかに呻いた。
かなり若い娘だ。それは触った肌からも察せられる。年相応にふくらんだ胸も弾力があった。
だが、この際、マークスにはどうでもいいことだ。若い娘だろうが、年老いた婆だろうが、醜女だろうが絶世の美女だろうが、女であるというその一点だけが重要なのだ。
しかし、そうは言っても、いざ獲物が若い女となると気分は盛り上がる。もちろん醜女よりは美女の方がさらに良かろうが、月明かりでそこまで判別するのは難しい。それに傭兵などしているような女だ。そう贅沢は言えないと思いながら、彼女の肌に張りついた端切れを引っぺがした。
自分のズボンを脱ぐのももどかしく、マークスは女にむしゃぶりついた。
後頭部に激しい衝撃を受けたのはその時だった。
気がつくと、猿ぐつわをかまされ、後ろ手に縛られていた。酷い臭いだ。
金属の鳴る音は、自分の鍵束だろうか。
頭をかろうじて動かすと、素足がこの牢から遠ざかっていく音が聞こえた。
どこかの鍵が開けられ、床に鍵が落とされた。
もどす声が聞こえてくる。あの女傭兵が、また吐いたのだろう。
それから、どこかの扉が軋んだ音を立てながら、開けられた。
肌寒い風がいちばん奥の牢にまで吹きこんでくる。
何かが水に落ちる音がした。
それきり、辺りは沈黙したのだった。
《 終 》