「彼女の事情」

「彼女の事情」

「そこ脇が甘いぞ!」
チェスター=モローの怒号がアラムートの城塞の屋上に響いた。
手合わせをしていたスウィフト=テンペルホッフが脇を払われて尻餅をつく。
「御苦労。少し休憩にしよう」
審判役のアッシュが声をかけ、皆が一息ついた。解放軍で唯一の剣士長であるチェスターは教え方がいちばん厳しい。休憩の後では教官が替わるだろうという期待も混じっている。
その場に腰を下ろす者、仲の良い者同士で談笑を始める者、いまの手合わせについて意見を交わす者など、皆は様々に過ごしていた。
そこへグランディーナが現れ、アッシュに近づいた。2人は皆から少し離れたところで話をしていたが、その様子を見守っていたケビン=ワルドがじきに異変に気づいたのだった。
グランディーナが首を振り、アッシュも言い返す。彼女が何かを言えば、次に首を振ったのはアッシュだ。
何事かとケビンが近づいていくと、アッシュの手から炭がグランディーナの手に渡り、彼女はいきなり石の床に何かを書き始めた。
「ちょうどいい。読んでくれ」
しかし、殴り書きというほど速く書かれたわけでもなかったのに、彼には何と書いてあるのか見当もつかなかった。
「むむぅ」
うなり声を上げてケビンがグランディーナと同じ側から見ようと移動すると、チェスターやアレック=フローレンス、オーサ=イドリクスらまで集まってきた。
だが読めないことはその場の誰もが同じようだ。
とうとうケビンは、意を決して訊ねた。
「これは、字、ですかな?」
何しろ書いた当人に訊くのだ。彼としてはこれ以上、気の遣いようなどないくらいであった。
「悪いが、私の字などこんなものだ。それに口頭で済むことを紙を使うという無駄を犯すつもりもない。わかったか、アッシュ?」
皆の視線が、元ゼノビア王国騎士団長に集まった。しかし、彼も返答に窮しているようで、いいとも悪いとも言わない。
グランディーナは立ち上がると、アッシュの手に炭を返した。裸足で書いた物を消しにかかり、その場を立ち去っていく。
「カノープスから聞いたことはあったが、まさか、これほどとは思わなんだ」
そうつぶやいて、アッシュが絶句する。その場にわずかに残された書き跡を見て、これは字なのかという問いを、誰もが心の中で思わず繰り返していた。
「なぜ、グランディーナの字が汚いのかだと?」
「あいつの字が読めねぇくらいなのに、どうして、あんたの字はそんなに綺麗なんだってことだよ」
「カノープス、君もたいがい意地が悪いな。何も、そんな話を蒸し返さなくてもいいだろうに」
「悪いが俺は、どこかの誰かさんみたいにあんな字は読めねぇんでな。だけどあいつときたら、反省するでなし、改める気もなさそうだし。この先、あいつの指令が手書きで来たらと思うとぞっとするぜ」
カノープスの言うとおり、サラディンの字は恐ろしく綺麗だ。
世には木片に1文字ずつ字を刻んで、まったく同じ印刷物を作る方法もあるが、かつてのゼノビアやマラノのような大都市以外では流通していない。紙が貴重なことと、そのような版を組んでも、持ち続けるのは楽ではないからだ。そしてサラディンの字は、版となる字を連想させるほど整い、揃っているのだった。
もっとも、どこかの誰かさんことランスロットは、カノープスが「読めない」と嘆くグランディーナの悪字を読破したことがあるので、そう簡単に同意するわけにはいかなかったが、サラディンは淡々と答えた。
「あれに字の練習をさせたことはないからな。わたしの知らないところでそんなことをしていなければ、上手くなど、なりようがないだろう」
「字の練習?」
「そなたはしたことがあるのだろう。だが、わたしたちにはそんな暇がなかった。読めるようになることが最優先で、ほかには星座や薬草のように実用的なことを教えたりしていたのだ。書く練習など、させる暇はない」
「読み書きは勉強の基本だぜ?」
「書記になるわけでなし、書けなくとも問題になることはあるまい」
「あったから言ってるんだろうが」
「先日も言っただろう。あれはできることとできないことの差がはっきりしている。それに問題があるのなら、これから練習すれば良いではないか。ただ、あれは口承に慣れている。書く必要性は感じていないだろうな」
「ないとは思えねぇけど」
「紙は貴重品だし、書けば持ち歩かなければならぬ。そんな手間をかけるぐらいなら、覚えておいた方が早いと言い出すだろう」
「だからって、みんながみんな、あいつみたいな記憶力があるってわけじゃなかろうが」
「確かに、人が増えると口承だけでは過ちも多くなる。そなたの言うとおり、字は書けた方が良いな」
「本人は書けるつもりなんだろうけどな、それが全然、読めないってことが問題なんであって」
「アラムートの城塞に着いたら、確認してみよう。場合によっては、わたしが清書すれば済むだろう」
「それって、根本的な解決になってねぇんだけど」
「大丈夫ですよ、サラディン殿。彼女の字ならば、わたしも読めます。練習したことがなくても、多少、練習すれば、すぐに読めるような字が書けましょう」
「一発で読めた奴に言われると、何か腹立つんだけど?」
「この話はアラムートの城塞に着いてからとしよう。それほど急がねばならぬこととも思えぬがな」
カノープスは言葉を呑み込んだような顔をしたが、サラディンが早々と自分の書き物に戻ってしまったので、その話はそこで終わった。
その字を真似するだけで簡単に綺麗な字が書けそうにランスロットには思われたが、グランディーナの場合、そのつもりが端からないことと、それ以前の問題として書き順もでたらめそうだったことも思い出したのであった。
「グランディーナ、何かお清書してあげる物、ないの?」
聞いている者が頭の芯から痺れてしまいそうな甘ったるい声がアラムートの城塞の司令官室に通る。
「ない。伝えなければならないことは口頭で伝えた。あなたの手を煩わせるには及ばない」
「そうじゃなくってぇ。あたしにもお仕事ちょうだいって言ってるのよ。せっかく、あなたの秘書になったっていうのに、あなたったら、ちっともお仕事させてくれないんだもの」
「私があなたに秘書になってくれと頼んだわけじゃない。仕事など、最初からない」
「ぶー」
デネブは形の良い唇を尖らせた。その背後には、いかにも暇を持て余していそうな4体のパンプキンヘッドがてんでばらばらに座っている。
しかしグランディーナは、魔女とその下僕に一瞥くれたきりで、また書物に戻ってしまった。彼女ときたら、このアラムートの城塞を落として以来、日がな1日、書物ばかり読みふけっている。
「だって、あなたったら、毎日、おじいちゃまたちのところへ行くじゃない? あたしに書かせてくれたら、カボちゃんたちに届けさせて、あなたの手をかけさせるなんてこと、させないのに」
「別に書いて伝えなければならないような複雑なことはないし、この部屋に籠もりきりになっている気もない。伝えなければならないことは私が言うし、もしも書かなければならなくても私が持っていく」
「それじゃあ、あなたの秘書として司令官室に居座った甲斐がないじゃなぁい。あたしとカボちゃんたちを路頭に迷わせる気ね?」
魔女の涙声につられてグランディーナが顔を上げると、デネブとパンプキンヘッドたちが揃って彼女を睨みつけていた。
潤んだ目元から、真珠のような涙がこぼれ落ち、すかさずパンプキンヘッドの1体が手巾(はんかち)を差し出すと、デネブは軽く鼻もかんだ。
「別に路頭に迷うことはないだろう。どうせ私1人には広すぎる部屋だ。あなたたちがいてくれた方が都合がいい」
「だったら、あたしたちにもお仕事させてよ。退屈なのはたまらないわ」
「サラディンたちが戻ってくるまで、休憩していていい。あなた1人が働いていることもないだろう」
「それを言うなら、あなただって働いているでしょ? あなたが興味本位くらいで、そんなに熱心に書物を開くなんて、あり得ないわ」
「西ゼテギネアの地図を頭に入れておきたい。アラディもラウニィーも、知っている地域はごく一部だからな」
「そんなに書物の虫のくせに、どうしてあなたの字を読める人が少ないのかしら?」
「それは、あまり関係ないことだろう」
「あら、そうでもないわ。書物を書き写したりしたことないの? 大切な書物はそうやって自分の物にするものよ。そんな書物を読んだことはないの?」
「私にとって書物は読む物だ。写す物じゃない。写すよりも覚えた方が早いし」
「じゃあ、自分の名前を書くことはなかったの?」
「名を書く必要のある部隊にいたことはない。私の字が読めなくて誰かが困ったこともない」
「誰かに署名してあげたことはないの?」
「私の署名など誰も欲しがるまい」
「あら、マラノでだったら掛け値なしに大金で取引されるわよ。あそこで売り買いされない物はないし、なんていったって、いまをときめく解放軍のリーダーの署名ですものね」
「だからといって署名する気はない」
「ううん、意地悪ね。じゃあ、誰かに手紙を書いたことはないの? 手紙を書きたくなったことでもいいわよ?」
「出しても届くとは限らないからな。受け取ってくれる人もいなかったし」
「カボちゃんがいたら、そんな時こそ、役に立ってくれるのにねぇ」
「いつも1人だったから、パンプキンヘッドがいても連れていなかったろうな」
「何よ、意地悪なんだから。じゃあね、自分の持ち物に名前を書いたこともないの?」
「書かなければならないような物を持っていたことはない」
「ないない尽くしの人生も、ここまで来るとご立派なものね。さすがのあたしも兜を脱ぐわ。お姉さん、降参。あなたの好きにしていいのよ?」
そう言ってデネブが寝台に倒れ込むと、パンプキンヘッドたちはその後方に引っ込んだ。
「デネブ、頼むから、これ以上、邪魔をしないでくれないか。いまはこの書物を読んでしまいたいんだ」
しかし魔女は倒れたきり動かない。グランディーナは読書に戻ろうとしたが、いつまでも倒れたままの主人に慌てたパンプキンヘッドたちが彼女を引っ張りに来たので、根負けしたような顔で立ち上がり、デネブの傍らに腰を下ろした。
「これだから、私はあなたに甘いとカノープスに怒られるんだ」
魔女はようやく目を開けて、勝ち誇った笑みを浮かべた。
「いいじゃない、言いたい人には言わせておけば。あたしはあなたのそういうところが好きよ?」
「それはどうも」
そこへ、パンプキンヘッドが3人がかりで、グランディーナの読みふけっていた書物を持ってきて差し出した。
解放軍のリーダーは思わず、いつも重たそうな南瓜頭のパンプキンヘッドたちが、非力なのか力持ちなのかと考えたほどだったが、ひとまず書物は受け取ることにした。
「こんな話はもういいだろう」
「そうね。あなた、まだ若いんだもの、これから始めたって遅くないわ。だけど、いざという時には、あたしたちがいるってこと、いつでも忘れないでね」
「ああ、そうする」
デネブは微笑むと、パンプキンヘッドたちに手伝わせて、自分の荷物を点検し始めた。
グランディーナも読書に戻り、没頭していった。
その後、周囲の思惑をよそに、グランディーナが自分の字の汚さを改めた、という話は聞かれない。サラディンやランスロット、それにデネブらに助けられたこともあって、彼女の字が汚いからといって、迷惑を被る者もなかなかいなかったので、字の練習をするという必要性は二の次、三の次になって、しまいには忘れられてしまったからだ。
そうして、彼女はその生を駆け抜ける。自分にできることとできないことを、知りすぎているがゆえに。
《  終  》
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