「自らの手で」

「自らの手で」

「よく来たな、サラディンよ。おまえの聡明さはわしも聞いていた。我が元で学び、力をつけるがよい。だが惜しむらくは、おまえがいずれ、このわしを裏切ることだ。おまえはおまえの信念のもとにわしと袂を分かつ。それだけが惜しいことだ」
「何を仰いますか、ラシュディさま。どうしてわたしが尊敬するあなたを裏切るなどと仰るのです?」
「未来はそうと決まっている。おまえはいつか、わしを裏切る。だが、案ずることはない。だからといって、おまえをアルビレオと差別などしない」
血腥い廃教会に立ち入った時、サラディン=カームはいまがその時だと確信した。
片づけられたのは死体や壊れた家具ばかりで血の痕も生々しい部屋には、1人の少女が虚ろな眼差しを宙に向けていた。上半身に包帯を巻きつけられ、薄掛けをかけられただけで横たわった娘、彼女をここから連れ出すことが師への本当の裏切りになるのだとサラディンは気づいた。
バルモアでの反帝国活動など、師は眼中にもない。その力をもってすれば、あのような戦いなど、いつでもひねりつぶせる。命を懸けて師と袂を分かったつもりでいたが、そうではなかったのだ。
そうとわかった時、サラディンは唇を噛みしめ、歯ぎしりをしたが、それでも戦いを止めるわけにはいかなかった。このゼテギネア中が神聖帝国の支配下にあるいま、誰かが反旗を翻し続けなければ、人びとはいずれ戦う力を失い、恐怖政治に蹂躙(じゅうりん)されるままになる。ゼテギネア大陸中のどこかで戦いを止めないのだという意志を示し続けなければ、やがて本当に帝国を倒す力が生まれた時に、それを支えることができなくなる。サラディンたちの戦いは、後に続く者への布石だ。人びとが、恐怖と戦うことを忘れないための捨て石でしかない。
だが、彼を空しくさせるのは、こうして少女を助けることも、師の予定のうちにあるということだ。50年も前に師は言ったではないか。
「おまえはおまえの信念のもとにわしと袂を分かつ。それだけが惜しいことだ」と。
ここで彼女を救わねば、とサラディンは自問する。少女は傷を負い、衰弱しきっている。治療は彼の専門ではないが、このまま放っていけば、いずれ彼女が死ぬことはわかりきっていた。そう、8人の少年少女たちのただ1人の生き残りでありながら、彼女もまた緩慢な死を迎えようとしている。それもごく近いうちに。ここで自分が手を出さねば、それは師にとっては予想外の行動ということになる。そうすべきではないのか、と彼は己に問う。
そうだったのかもしれない。だが、彼には目の前で死んでいこうとしている幼い命を見捨てることができない。それがいかなる結果をもたらすのであれ、助けられる命を捨てるのは彼の信条ではない。
サラディンは少女を抱え上げ、その軽さに胸を痛めた。灰色の眼に虚空を写す、彼女を襲った虚無に愕然とする。
「あなたにはこれも計算のうちか、ラシュディ殿。だが、それも良い。わたしは彼女を助ける。それがあなたの予定どおりでもかまわない。彼女もわたしも、自分の運命は自分で切り開いてみせる。あなたにそのように仕向けられたから彼女を助けるのではない。わたしはわたしの意志で彼女を助け、あなたと戦おう」
「それで良い。しょせん、おまえもわしも、運命からは逃れられぬ。だが、それでこそ、我が弟子だ。わしもせいぜい抗ってみるとしよう」
神聖ゼテギネア帝国暦24年、旧ゼノビア王国の辺境から、最後の力が打倒ゼテギネア帝国に向けて動き出して後、そのリーダーとなったのはサラディンが助け、グランディーナと名づけた娘であり、当のサラディンも、遅れてその戦いに加わった。
彼らの戦いもラシュディの予定のうちか。だが、彼らは戦いを止めるわけにはいかない。運命とは己の手で切り開くもの、その言葉に偽りがないのならば。
《  終  》
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