「クールマイユールの魔女」

「クールマイユールの魔女」

聖暦67年雷竜の月12日
紫孤(しこ)騎士団、チェルヌイシェフ基地に到着。明日より赤孤(せっこ)騎士団壊滅の理由、仮称「クールマイユールの魔女」事件について調査を始める。
記録者は紫狐騎士団副団長ラチェット=リヴォフ。
聖暦67年雷竜の月13日
ヴィッテ=ツルキッゼ、グセフ=ケツホヴェリ、カムィシン=ロッヅの3名により、カデット=ピーケルを尋問。
カデット=ピーケルは加害者はクールマイユールの魔女と主張。
イヴァンシン=ネフソロフ、ゲルツェン=タンボフ、ルンケヴィチ=オブルーチェの3名により、マルトフ=プラストーフを尋問。
マルトフ=プラストーフの発言により赤狐騎士団に聖暦65年の軍命違反の疑いが濃厚。
オガリョフ=ソロヴィエ、グレヴィチ=ヒルファディング、ダネヴィチ=ミリューチンの3名により、ボルン=プレハノフを尋問。
ボルン=プレハノフによると襲撃者は赤銅色の髪をした人物。
サマラ=メンゼリン、ニジニー=ドブロリューボ、ウファ=アルハンゲリの3名により、タヴリダ=キエプスキを尋問。
タヴリダ=キエプスキはクールマイユールの魔女に襲われたと証言。
チェフニコフ=ラーゲルマルク、アルシン=ソルモヴォ、ヴァール=ロフチンの3名により、ミルラン=リッティングハウゼンに聞き取り。
ミルラン=リッティングハウゼンは事件は人の仕業と断言。
イーン=ペロフスカ、クラウキ=ノシッヒ、トラヴィン=ナタンソンの3名により、レーヴィン=モロチャーリンに聞き取り。
レーヴィン=モロチャーリンは事件は人の仕業で、負わされた傷に悪意を感じたと供述。
オゼロフ=デミャネン、リーベル=プロコボチ、ラファルグ=スタリツキの3名により、タジリーダ=エンゲルガルトに聞き取り。
タジリーダ=エンゲルガルトは人の仕業ではないかと示唆し、悪意を感じたと証言。
聖暦67年雷竜の月14日
セドレツ=ストルヴェ、ノヴゴロ=チチェリン、ボロゴエ=ブグルスランの3名により、トムスク=ピーサレフを尋問。
トムスク=ピーサレフによると襲撃者は単独。
ベレベイ=ゴルデエンコ、エニセイ=ディーツ、バルホルン=キシニョーフの3名により、アントノヴィチ=パルヴスを尋問。
アントノヴィチ=パルヴスによる有益な情報はなし。
ハインフェルト=エリセーフ、マホフ=ユドゥシカ、ナジモフ=ドンブロフの3名により、バウマン=ポリパを尋問。
バウマン=ボリバによると襲撃者は赤銅色の髪の女で、武器が刃の厚い短刀だったと証言。
聖暦67年雷竜の月15日
アゼフ=ノズドリョ、イクス=ロジャニコ、モスト=レヴィツキの3名により、イグナツ=ポトレソフを尋問。
イグナツ=ポトレソフはバウマン=ポリパの主張を支持。
レイキン=カルーガ、ルーゲ=デフテレフ、フェビアン=シナケンブルグの3名により、ズバトフ=パーブシキンを尋問。
ズバトフ=パーブシキンによる有益な情報はなし。
聖暦67年雷竜の月16日
本日より紫狐騎士団団長シュラム=ツェレテリ、副団長ラチェット=リヴォフにより赤狐騎士団元団長アレクシン=パルチュフを尋問。
「自分は紫狐騎士団の団長シュラム=ツェレテリだ。赤狐騎士団元団長アレクシン=パルチュフだな?」
「はい」
消え入りそうな声で答えが返る。
騎士の鎧も身につけておらず、もちろん武装もしていない粗末な平服姿の若者は、たかが田舎の騎士団に過ぎなかったとはいえ、その元団長だったともとうてい見えない人物だった。
「我々は貴公らがクールマイユールの魔女に襲われたと主張している事件について調べている。問われたことには正直に答えるように。他の赤狐騎士団全員にも主に襲われた時の状況を中心に聞き取りを進めているし治療師にも話を聞いている。この件で貴公が偽証したり、事実を歪曲した場合には新たに罰を受ける可能性もあることを心得ておいてもらいたい」
「はい」
「貴公以外にこの事件に関与しているのは赤狐騎士団員のカデット=ピーケル、マルトフ=プラストーフ、ボルン=プレハノフ、タヴリダ=キエプスキ、トムスク=ピーサレフ、アントノヴィチ=パルヴス、バウマン=ポリパ、イグナツ=ポトレソフ、ズバトフ=パーブシキンで間違いないな?」
「そのとおりです」
「エリ=ヴェーチェを基地で留守番させたのはなぜだ?」
「基地を空っぽにするわけにはいかないので、くじ引きで決めました」
「その判断は褒めてやろう。だがクールマイユール山脈には聖暦65年をもって許可なき者の立ち入りを禁ずる軍命が発令されている。赤狐騎士団員のなかには家業でクールマイユール山脈への立ち入りを許可された者もいただろうが全員ではなかったはず。何をしに行ったのだ?」
「一度、お山の向こうを見てみたいと思ったんであります」
「貴公ら、まさかゼノビアに亡命するつもりだったのではあるまいな?」
「とんでもありません。そんなこと、考えたこともないです」
「だが貴公らの企てが何であれ、クールマイユールの魔女とやらに阻止されたというわけだ」
「はい」
「しかし勘違いしてもらっては困るが、わたしはクールマイユールの魔女などという戯言は信用していない。貴公も襲撃者を目撃したであろう?」
「そ、それは」
「我らローディス教徒が崇めるべきは、ただお一人、フィラーハさまのみだ。伝承の存在など口に出さぬがいい。場合によっては異端審問官の興味を引かぬとも限らぬぞ?」
「そ、そんな」
「わたしがクールマイユールの魔女の仕業ではないと断言するのは貴公らの怪我だ。エリ=ヴェーチェの報告では皆、一様に足の腱を斬られたそうだな。まやかしたるクールマイユールの魔女ならば、そのような真似はするまい。これは明らかに人為的なものだ、そして、それを為す人物がクールマイユール山脈にいる。彼女の存在があったからこそ聖暦65年の軍命も出されたのだが、貴公らはそのことには思いも寄らなかったろう」
「いったい、どこの誰がそんなことをしたんですか? 自分たちに何の恨みがあったと仰るんです?」
「アレクシン=パルチュフ、貴公、襲撃者を目撃したであろう?」
若者は返事に窮した。
「見たと答えたところで罰には問われないから安心するがよい。わたしは我々が抱いている疑惑を確証にしたいだけなのだ」
それでも彼は答えに迷ったようで、しばらく答えるのを逡巡していた。
「ひとつ、おうかがいしてもよろしいでしょうか?」
「わたしで答えられることならば」
「ツェレテリさまが『彼女』と仰ったのはお間違いありませんか?」
「案外、耳ざといな。だが、そのとおりだ、我々の想定している襲撃者は女だよ」
「仰るとおり、自分は襲撃者を見ました。あれは女です、団員のなかには髪が赤銅色だったと言った者もいましたが、自分たちは基地に戻るだけで精一杯だったんです」
「なぜ戻ったのだ? お山の向こうは見足りたのか?」
「いえ、それはかないませんでした。ソハーゲ峠を越えたら奴が襲ってきたんです。3人目、ボルンがやられたので帰ることにしたのに奴は全員を傷つけるまで執拗に追いかけてきました。あれはいったい誰だったんですか?」
「それは最後に教える。その前に赤狐騎士団がクールマイユール山脈に入ってからチェルヌイシェフ基地に戻るまでの動きを、なるべく詳しく話してもらうとしよう。まず発端は風竜の月7日のことだったな?」
アレクシン=パルチュフはうなだれた。彼は上位騎士団の情報収集能力をだいぶ甘く見ていたらしい。
「はい、そのとおりです」
「そして貴公らがチェルヌイシェフ基地に戻ったのは風竜の月24日のことだ。18日間に何があったのか話しなさい」
「ソハーゲ峠を越えたのは風竜の月10日のことでした。それまで毎日、野営しました。奴に襲われたのは風竜の月11日、最初にやられたのはカデット=ピーケルです」
「風竜の月7日から10日の間には何もなかったのか?」
「はい、毎日、山を登って、休める小屋も見つけられなかったんで野営してました。風竜の月9日は一日中、雨だったので一歩も動けずにおりました」
「カデット=ピーケルも足をやられたのだろう、そのまま連れていったのか?」
「はい。まさか、そんな恐ろしいことになるなんて思わなかったしカデットも来たいと言ったんで。多少は進むのは遅くなりましたが、まだみんな元気だったんでカデットに手を貸してやる余裕もあったんです」
「それから?」
「風竜の月12日に小屋を見つけました。食料も少し置いてあったし、10人で休む広さもあったんで泊まりました」
「小屋には誰もいなかったのか?」
「はい。暖炉も使ってませんでしたし、誰も来ませんでした」
「続けて」
「風竜の月13日は別の小屋を見つけられませんでしたが風竜の月14日にもう1つ、小屋を見つけました。こっちもそんなに使われてないようでしたんで、休みました」
「大した遠足だな」
「すみません」
「話を続けたまえ」
「風竜の月15日にマルトフが怪我をさせられました。さすがに2人の怪我人を連れ歩くのは無理でしたから2人には基地に帰るように言って発たせました。残った8人で山を下り、3つ目の小屋を見つけました。そこはほかの2つに比べると、だいぶ使われていて、暖炉に料理の入った鍋がかけられていましたが冷たくなっていました」
「相手が人間では食べぬわけにはいかぬだろうからな。それで?」
「2人の怪我人が出たんで、戻ろうと言い出す者が出たんです。少し早かったけど小屋で休んで、先に進むべきか戻るかの決を採りました。その日は先に進むことになりました」
「それで?」
「ですが、翌17日にボルンが怪我をさせられ、急遽、基地に戻ることにしました。その後は怪我人を庇いながら山を登るのが精一杯で、とても襲ってきた奴と戦おうなんて思いませんでした。だいたい自分たちは騎士の訓練は受けましたが、実戦に出たことはなかったもんですから」
「それで貴公らは誰一人として鎧も身につけずに出かけたと言うのだな?」
アレクシン=パルチュフの表が青ざめた。
「鎧を身につけていれば、足などたやすく斬られなかったはず、奴の対処も異なったものとなったろう」
「ですが鎧を着ていては、お山に登れません」
「軍命に背いてまでクールマイユール山脈に登った理由は何だ? ただの好奇心ではないのだろう?」
彼の表からは、ますます血の気が引いた。もはや彼はシュラムの顔など見てもいられず、うつむいて全身を瘧(おこり)のように震わせている。
「ゼノビアの英雄」
その言葉に青年は顔を上げ慌てて、またうつむいた。
「貴公とて、その二つ名には聞き覚えがあると見える。それもそのはずだな、奴がクールマイユール山脈にいる、そのために山脈への立ち入りは許可制になったのだから。許可を得た者でさえソハーゲ峠を越えるべからずというお達しもあった。貴公らがそれでもクールマイユール山脈に入り、ソハーゲ峠を越えたのは何のためだ?」
返事はなかった。否、返事などできなかったろう。
「つまらぬ功名心に駆られて取り返しのつかぬ傷を負わされたものだな。ましてや貴公は赤狐騎士団の団長を任された身、その軽挙は高くついた。だが案じることはない、貴公らへの罰は三等級市民への降格だけだ。それさえもマンドル所領から移動できぬ、テンプルナイトに取り立てられることは二度とないというだけのこと、大した罰ではあるまい?」
しかし顔を上げたアレクシン=パルチュフは目を白黒させており、シュラムの話を半分も理解していないのは明らかだ。
「貴公らへの罰については後で、このリヴォフから説明させる。それに個々の団員には通達も送られる。いまは話を続けてもらおう」
「どこまで、お話ししましたか?」
「17日、貴公らが帰還を決めた時までだ」
「それからは毎日、一人ずつ、やられていきました。自分たちの動きは遅くなる一方で、どんどん動けなくなる者が増えていったので、どうしようもなかったんです」
「何日に誰がやられたのかも話してもらおう」
「風竜の月18日にタヴリダ、19日にトムスク、20日にアントノヴィチ、21日にバウマン、22日にイグナツとズバトフ、23日に自分です。24日に基地に着きました」
「良かろう。本日はこれで終了とする。明日も朝食後、出頭すること、以上だ」
言われてもアレクシン=パルチュフは、すぐには動かなかった。
「帰ってもいいのだぞ?」
「は、はい」
それで彼は帰ったが、シュラムもラチェットも黙って座っていた。クールマイユール山脈の麓近くに位置するチェルヌイシェフ基地は日没が早い。辺りは急速に暗くなっていく。それに気づいてラチェットは角灯(らんたん)に火をつけた。
「相変わらず、貴公の記述には無駄がないな」
彼が立ったわずかな合間にシュラムが紙をめくる。それは、そのままズィエロ公に提出されても問題ないほど丁寧に記されていた。
「だが簡潔すぎて無味乾燥だ。これでは誰を尋問しても同じことじゃないか?」
「そのようなものは必要ではありますまい。それよりもズィエロ公の使者は、まだ着かないのでしょうか?」
「ガリウスまで行かれたのだ、ズィエロからは片道10日もかかる。ましてやチェルヌイシェフ基地はマンドルの田舎、とうぶん到着されないだろう。それにズィエロ公は紫狐騎士団による解決を命じられたのだ。ガリウス公に相談されたところで、その決定は容易に覆るまいよ」
「ですが本当にゼノビアの英雄の仕業ならば我々の手には余りましょう」
「だから上層部は十四騎士団を動かしたくないのだろう。ゼノビアの英雄と十四騎士団が接触してみろ、そのままゼノビアとの全面戦争に発展しかねない。それには時期尚早だとお考えなのだ」
「では、どうなさると仰るのです? ゼノビアの英雄の仕業とわかれば皆の士気にも影響します」
「それぐらいで腰砕けになられては紫狐騎士団の名が泣くぞ。皆の報告も待とう、いまは考えすぎるな」
本件に関する赤狐騎士団の動きについて以下にまとめて記す。
聖暦67年風竜の月7日
クールマイユール山脈入り。
聖暦67年風竜の月9日
降雨のため、一日中、動けず。
聖暦67年風竜の月10日
ソハーゲ峠越え。
聖暦67年風竜の月11日
最初の負傷者カデット=ピーケル。
聖暦67年風竜の月12日
山小屋を発見。
聖暦67年風竜の月14日
2ヶ所目の山小屋を発見。
聖暦67年風竜の月15日
2人目の負傷者マルトフ=プラストーフ。
カデット=ピーケル、マルトフ=プラストーフをチェルヌイシェフ基地に帰還さす。
聖暦67年風竜の月16日
3ヶ所目の山小屋を見つけ、続行を決定。
聖暦67年風竜の月17日
3人目の負傷者ボルン=プレハノフ。
急遽、帰還に変更。
聖暦67年風竜の月18日
4人目の負傷者タヴリダ=キエプスキ。
聖暦67年風竜の月19日
5人目の負傷者トムスク=ピーサレフ。
聖暦67年風竜の月20日
6人目の負傷者アントノヴィチ=パルヴス。
聖暦67年風竜の月21日
7人目の負傷者バウマン=ポリパ。
聖暦67年風竜の月22日
8人目の負傷者イグナツ=ポトレソフ。
9人目の負傷者ズバトフ=パーブシキン。
聖暦67年風竜の月23日
10人目の負傷者アレクシン=パルチュフ。
聖暦67年風竜の月24日
赤狐騎士団員、全員がチェルヌイシェフ基地に帰還。
聖暦67年雷竜の月17日
引き続きアレクシン=パルチュフを尋問。
翌日、アレクシン=パルチュフは紫狐騎士団員に伴われて出頭した。彼の家はチェルヌイシェフ基地に近いので歩いても、それほど時間はかからないが言われたとおりに出頭しないことを見越してだ。
一方、他の団員は皆、田舎住まいだ。呼び集めるには手間がかかると判断し、団長は団員3名ずつを尋問に赴かせた。それも早い者は戻ってきていたので、団長と副団長は、そちらの報告を聞くのを優先したのである。
そのため、放置されたアレクシン=パルチュフには騎士団の古株ボリス=マカリーが当たり、赤狐騎士団員が受けるであろう二等級市民から三等級市民への降格処置についての説明を行ったのだった。
「だいたい理解できたかね?」
「はぁ」
「おまえさん方はほとんどがここいらに住まう者だろう? ならば『生涯、マンドル所領より許可なく出るべからず』という制限は、それほど問題にはならないだろう」
「一人、家業が行商の者がいるんですが、どうなりますか?」
「その足ではマンドル所領内を歩くのだって難しいはずだ。もちろん許可がなければ所領外に出ることもかなわないが不自由はするまい?」
若者は不承不承といった体で頷いた。
「それと念を押しておかないとならないのが万が一、おまえさんたちの足が治ったとしても二度とテンプルナイトになることはできん。くれぐれも応募しようなどと考えるなよ? おまえたちは軽率な行動で怪我を負い、教皇猊下より賜った騎士団の栄誉を傷つけたのだ。その汚名はマンドル所領から出れば厳しい風当たりとなるだろう」
「そ、そんな。自分たちはびっこにさせられたんですよ」
「話は以上だ。後は団長がおいでになるのを待つのだな」
アレクシン=パルチュフは手を伸ばしかけたがボリス=マカリーは素早く避けた。彼ににらみつけられて若者は震え上がった。
紫狐騎士団長が来る前に逃げ出そうにも扉の外には迎えに来た紫狐騎士団員が立っており、足の悪い彼にはできぬ相談だ。
しかも、まだボリス=マカリーが残っていたのでアレクシン=パルチュフは意気消沈して部屋に戻った。この基地に、まだ赤狐騎士団が駐留していたころ、この部屋が何に使われていたのか、彼にはどうしても思い出せなかった。
「あの様子では、だいぶ怒鳴りつけてやったんですか? いや、その割には静かでしたね」
「怒鳴る気など失せた。団長からして騎士に相応しからぬ田舎者だ、まったく我が国の入団基準はどうなっているのやら嘆かわしいことだ」
「ロスローリアンとドラゴンハーティドが、まさかの壊滅というゆゆしき事態ですからね、五体満足な志望者なら誰でも受け入れているんでしょう。いまは、どの騎士団も一人でも多くの騎士が欲しいところでしょうからね。ましてや田舎で応募する者はあまりいない、寄せ集めでも騎士団は騎士団だ、まさかそれが本番を迎える前に壊滅させられようとはお偉方も想像だにしなかったでしょうよ」
「あまり大きな声で言えることでははないがラームズ准将が殺されたのは痛かったな」
「おやおや、まさかマカリー殿は元老院派だったんですか?」
「枢機卿も元老院も、いままで意識したことなどなかったよ。だがラームズ准将が殺されたことで全ての騎士団を総括的に見られる方がいなくなったのは事実ではないか?」
「それ以上は聞かなかったことにしておきましょう。うっかり枢機卿や教皇猊下への批判などと受け取られては後が厄介ですからね」
「厄介なのは目の前の脅威の方ではないのか? それに告げ口するような奴もおるまい」
「それは団長やシェリンスキさまがお考えになることです。自分はしょせん駒に過ぎませんからね。それに壁に耳ありとも言います。言動には気を遣いませんとね」
「ふん、食えない奴だな」
それでボリス=マカリーは去っていったが、残された騎士は肩をすくめて、また見張りに戻ったのだった。
「手間をかけたな、サルピンカ」
「マカリー殿ににらまれたので奴さん、おとなしいものです。ですが、まだ訊くことがあるのですか?」
「話はあらかた聞き終わっている。聞き取ってきた団員の答えとも、そう矛盾はない。だが曲がりなりにも一つの騎士団を壊滅させるきっかけを作ったんだ、多少は油を絞ってやらなければな」
「尻拭いは全部、こっちの役目ですからね」
「夕方まで拘束しておけ」
「そろそろ食事を催促してきませんか?」
「水ぐらいは飲ませてやってもいいだろう。しょせん三等級市民の成り上がりだ、我々が奴らのせいで受ける義務に比べれば大した罰でもないさ」
「承知しました」
扉が開くと若者は慌てて飛び起きた。退屈と空腹と、もしかしたら多少の恐怖で寝てもいられなかったのだろう。だが、夕方まで放置された割には、それほど憔悴した様子でもなかった。
「待たせてすまなかったな。貴公らが基地に戻ってきてからの経緯を聞かせてもらおう」
「は、はぁ」
アレクシン=パルチュフは首をかしげたが、思い出しながら話し始めた。
「帰ったらエリ=ヴェーチェが治療師の手配をしてくれました。ここらには治療師も少ないのですが。それでも金竜の月2日に、紫狐騎士団に報告すべきだと言ってエリがマンドルへ発ちました。帰ってきたのが雷竜の月10日のことで、そのあいだのことはシュラムさまの方がご存じだと思いますが」
「そうだな。エリ=ヴェーチェがマンドルで報告したのは金竜の月13日のことだ。少しマンドルに逗留させたが雷竜の月には帰ってきただろう」
「はぁ。確か雷竜の月11日に前日に帰還したと言ってきましたが後のことは聞いてません」
「そのとおりだ。ヴェーチェは何と報告してきたか覚えているか?」
「後のことは紫狐騎士団の預かりになったと。我々の措置についても紫狐騎士団から話があるだろうと」
「よく覚えていたじゃないか。では貴公への尋問は、これで終了だ。今後は軍命に違反することなく家業に励むがいい」
「これで終わりなんですか?」
「そうだ。帰りたまえ」
彼は居心地が悪そうに立ち上がった。
「貴公に用はない。帰りたまえ、軍務の邪魔だ」
「ですが、このままやられっぱなしでいるなんて」
「自惚れるな。三等級市民に何ができる? 貴公らに、この件を収める力はない、そう判断されたからの降格であり我々の出動なのだ」
「で、ですがっ」
「いま、そんな姿勢を見せようとするなら、なぜ、仲間がやられた時に一矢報いなかったのだ? 我がローディスのモットーは実力主義だ。その力のない者は低い地位に甘んじているがいい。その代わり、手に余る負担は負わせない」
「し、しかし」
「見苦しいぞ、アレクシン=パルチュフ。騎士に戻ったところで戦えぬ貴公にできることはない。帰りたまえ、二度と自分の前に顔を出すな」
そこまで言われてようやくアレクシン=パルチュフは部屋を出ていった。家業は農業だ。今後、紫狐騎士団の目につくところに現れることは、そうそうないだろう。
「リヴォフ、遅くまですまなかったな。今日は休みたまえ」
「明日はいかがなさいますか?」
「全員が戻れば、これからの対策を立てるために会議だ。そうでなければ、休みとしよう」
「承知しました」
本件に関する赤狐騎士団の動きについて以下に続きをまとめて記す。
聖暦67年金竜の月2日
エリ=ヴェーチェ、所領都マンドルへ出発。
聖暦67年金竜の月13日
エリ=ヴェーチェ、紫狐騎士団に報告。
聖暦67年雷竜の月10日
エリ=ヴェーチェ、チェルヌイシェフ基地に帰還。
本件に関する紫狐騎士団の動きについて時系列の整理のため、以下に重複も含めて、まとめて記す。
聖暦67年金竜の月14日
エリ=ヴェーチェの報告を受け、同月15日まで会議を行う。
聖暦67年金竜の月15日
団長シュラム=ツェレテリ、マンドル所領主ベーベル=スヴォーリン殿にご報告。
ベーベル=スヴォーリン殿の命でラチェット=リヴォフ、公都ズィエロへ報告に発つ。
聖暦67年金竜の月20日
ラチェット=リヴォフ、マンドル着。ズィエロ公アンドロマリウス=シェリンスキ殿にご報告。
アンドロマリウス=シェリンスキ殿は神都ガリウスへ出向かれるもラチェット=リヴォフには帰還するよう命じられたため、マンドルへ発つ。
聖暦67年金竜の月25日
ラチェット=リヴォフ、マンドルに帰還し報告。
聖暦67年雷竜の月1日
アンドロマリウス=シェリンスキ殿の意向を受け、紫狐騎士団、会議を開催。
聖暦67年雷竜の月2日
紫狐騎士団、チェルヌイシェフ基地へ発つ。
聖暦67年雷竜の月12日
紫狐騎士団、チェルヌイシェフ基地に到着。
聖暦67年雷竜の月13日
ヴィッテ=ツルキッゼ、グセフ=ケツホヴェリ、カムィシン=ロッヅの3名により、カデット=ピーケルを尋問。
カデット=ピーケルは加害者はクールマイユールの魔女と主張。
「我らは紫狐騎士団の者だ。クールマイユール山脈にて負傷した時の様子を詳しく話してもらいたい」
3人の騎士に囲まれ、農民然とした若者は大変居心地が悪そうにしていた。「話せ」と言われても身体をねじらせるだけで一向に口を開こうともしない。
「話してください、カデット。赤狐騎士団がクールマイユールの魔女に壊滅させられたという噂の真偽を我々は確かめ、真相を突き止めねばなりませんから」
「お、いえ、わたしたちが罰を受けるということはありませんか?」
「話してみなければ、それはわからぬから話せと申しているのだ。クールマイユールの魔女などというおとぎ話につき合ってる暇はない」
「いえっ! 確かに魔女はいたんです、そうでなかったら、わたしたちが負傷させられるなどあり得ないではありませんか」
「ふん、どんな怪我をさせられたというんだ」
「足を斬られて歩くのが不自由になりました」
「それはひどい。誰にやられたのです?」
「だからクールマイユールの魔女様にです。俺たちが侵入したことに怒って罰を与えたんだ」
「そんな恐ろしい者がクールマイユール山脈にいるのですか?」
「俺たちの受けた傷が何よりの証拠です。あんたたちも、せいぜいお気をつけなさるがいい」
「ありがとう、カデット。あなたはもう十分すぎる罰を受けている、新たに罰が与えられるということはないでしょう」
「そう願いたいもんです」
すっかり粗野な農民の顔に戻ったカデット=ピーケルは、そう言ってさらに言葉を継いだ。
「この足では農作業だって不自由する。魔女様は俺にいったい何の恨みがあったっていうんですか?」
3人は、それには応えずに彼の家を退去した。
「団長には何と報告したものでしょうね?」
「我々の推測を交えるわけにもいかない。奴の話したとおりを報告するしかないだろう」
「だが事故でないことも、これで明白になった。問題はクールマイユールの魔女が何者かということだ」
「わたしたちは基地に戻りましょう。皆の報告を合わせれば、クールマイユールの魔女の正体も見えてくるのではありませんか?」
「そう願いたいものだな。だが貴公の発言は軽率だ。赤狐騎士団の連中に罰が与えられるのはこれからだ。安易に奴を安心させる必要などなかったろう?」
「彼の口が滑らかになってくれればいいと思ったのですが確かに先走りしすぎましたね」
イヴァンシン=ネフソロフ、ゲルツェン=タンボフ、ルンケヴィチ=オブルーチェの3名により、マルトフ=プラストーフを尋問。
マルトフ=プラストーフの発言により赤狐騎士団に聖暦65年の軍命違反の疑いが濃厚。
「我らは紫狐騎士団の者だ。クールマイユール山脈にて負傷した時の様子を詳しく話してもらいたい」
「いきなり斬りつけられたんであります!」
「襲撃者の姿は目撃したのか?」
「目撃できませんでした!」
「騎士たるもの何をしておった?」
「自分は足を斬られました。倒れてしまったので見ることができなかったんであります!」
「未熟者め。もう足の怪我は治ったんであろう?」
「それが腱を斬られたそうなので、このようにびっこを引いております!」
「イヴァンシン、マルトフ=プラストーフの負傷については治療師の見立てが提出されています」
「なるほど。それでクールマイユールの魔女の仕業だということにしたのか」
「自分は罰を受けるでありますか?」
「その質問には我らは応えられん。だが貴様ら、どんな理由でクールマイユール山脈などに立ち入ったのだ? まさか65年の軍命を覚えていなかったというのか?」
それまで元気よく答えていた彼の声が急にしぼんで何も聞こえなくなった。直立不動の姿勢も二つに折れてしまったほどだ。
「はっきり申せ! 場合によっては罪を加算されることもあり得るぞ!」
「え、遠足」
「は?」
かろうじて発せられたのは騎士たちが思いも拠らぬような言葉だった。それで若者は勢いづいたのだろう。また背筋を伸ばし、はっきりと言い切った。
「クールマイユール山脈を越えて遠足に行ったんであります!」
その場に間の悪い沈黙が下りた。答えた方は予想もしていなかった反応に居心地悪そうに身体を動かし、答えられた方も予想もしなかった回答に頭がついていかなかったのだ。
「何のために?」
かろうじて一人がそう言った。それは尋問というより独り言に近かった。
「お山の向こうを見てみたかったんであります!」
3人の騎士たちは顔を見合わせたが、ため息を発するのだけは避けられた。そうする代わりに彼らはマルトフ=プラストーフの家を辞した。誰からともなくチェルヌイシェフ基地に足は向いた。彼らが再び言葉を発したのは人里をだいぶ離れてからのことだった。
「呆れた連中だ。クールマイユール山脈へは軍命で立ち入りが禁止されている。それを遠足でだと?」
「言いたくないが、しょせんは下位の騎士団だ、軍命など気にもしていないのさ」
「だが奴らの不始末は上位騎士団の責任が問われるのだぞ。こんなことに巻き込まれたら十四騎士団に転入する機会だって失われてしまう」
「身の程知らずな望みは抱かぬ方がいいぞ?」
「ズィエロの田舎者は黙っているがいい、わたしは、どうしてもガリウスに戻らなければならないんだ」
「そうは言うが当てはあるのか?」
「そのためにも今度の作戦では下手なところは見せられないのだ」
「それは貴公だけじゃない、紫狐騎士団、サアラブそのものが試されている。下手を打てば地方騎士団は存続の価値なしと見なされ、十四騎士団の配下にされる可能性だってあると団長が言ったじゃないか」
「自分は団長の意見に反対だな。地方騎士団員が全て十四騎士団の配下になどなったら騎士団の規模が大きくなりすぎて、いまよりも身動きが取れなくなるに違いない」
「自分も同感だ。それに今回の件では十四騎士団の出動はないと副団長がズィエロ公に言われたのに十四騎士団だけにしたら、このような事態に対処できなくなるだろう。上層部がそのような判断をするとも思えない」
「その意見も一理あるな。だが全ての地方騎士団が十四騎士団の傘下に入れば貴公の目的は労せずして達せられるのではないのか?」
「そうすれば楽できるがな。しかしそのような事態になった時に十四騎士団の価値はだいぶ低いものになってしまうだろう。ヴァガヴァンを始め、ガリウス住まいではない騎士団も少なくないからな」
「ふむ。我々にとっては高嶺の花だからこその十四騎士団というわけか。実際、十四騎士団の一員になるなど思いも及ばないがね」
オガリョフ=ソロヴィエ、グレヴィチ=ヒルファディング、ダネヴィチ=ミリューチンの3名により、ボルン=プレハノフを尋問。
ボルン=プレハノフによると襲撃者は赤銅色の髪をした人物。
「我らは紫狐騎士団の者だ。クールマイユール山脈にて負傷した時の様子を詳しく話してもらいたい」
しかし請われた若者は下を向いているばかりで声を発したのかもわからない。
それでも3人は若者の答えを待って辛抱強く立っていたが、とうとう1人が手を出した。いつまでも下を向いたままのボルン=プレハノフの顎を鷲づかみにして顔を上げさせたのだ。
「我らの質問に答えよ。それとも答えられない理由でもあるのか? 理由の如何によっては異端審問官のお出ましを請うてもいいのだぞ」
その言葉に若者は目に見えるほど激しく震えだした。異端審問官は、その実態は詳しく知られていないが泣く子も黙る恐ろしい存在だ。ローディス教国において「いつまでも泣いていると異端審問官を呼ぶよ」と言われて泣き止まぬ子どもはいないのである。彼も、その時の記憶が蘇ったのだろう。
実際には、たかが一地方の騎士団である紫狐騎士団員に異端審問官を召喚する権限などありはしないのだが、そんなことも知らない田舎者には十分な脅しになったようで重い口をようやく開き始めた。
「わたしは、足を斬られました。そのせいで、びっこを引かないと歩けません」
3人は事前に提出されていた治療師の見立書を確認し、頷き合った。
「誰に怪我をさせられたのか見たのか?」
「はい。男か女かはわかりませんでしたが赤銅色の髪だけ見ました」
3人は、また顔を見合わせる。
「それは、いつのことだ?」
「風竜の月17日のことです。わたしの負傷で急遽、帰還することになったのです」
そう言うと彼は全身を震わせた。
「貴様らは襲撃者を追わなかったのか?」
「とんでもない! クールマイユールの魔女様は実在したんだってんで、みんな、逃げるだけで精一杯でしたよ。それに怪我人は増える一方で、追うなんて団長だって思いつきもしませんでした」
「貴様ら、それでも騎士か?!」
しかし詰め寄られた若者は悲鳴を上げて部屋の隅に逃げ込むと涙声になって叫んだ。
「お、おらはもう騎士じゃねぇ! あんなおっかねぇ目に遭わされるぐらいなら騎士じゃなくたってええ!」
3人は唖然とするしかなかった。心配そうにのぞきに来た彼の家族を残し、そのまま退去する。
それから彼らは、すぐにチェルヌイシェフ基地に戻り始めたが、お互いに気まずくて誰も何も言えないほどだった。
サマラ=メンゼリン、ニジニー=ドブロリューボ、ウファ=アルハンゲリの3名により、タヴリダ=キエプスキを尋問。
タヴリダ=キエプスキはクールマイユールの魔女に襲われたと証言。
「我らは紫狐騎士団の者です。クールマイユール山脈にて、あなたが負傷した時の様子を詳しく話してください」
「はいっ、何でもお答えいたします! 何からお話ししましょうか?」
「あなたが負傷させられた時のことを詳しく話してください」
「はいっ、お答えします!」
「その前にひとつだけお願いしてもいいかしら?」
「はいっ、何でしょうか?」
「もう少し声を下げてください。そんなに叫ばなくても聞こえますよ」
直立不動で立っていた若者はみるみるうちに顔を赤らめ、意気消沈した様子で座り直した。しかし彼は、すぐに気を取り直して話し出した。
「我々がチェルヌイシェフ基地に帰還しようと山小屋を後にして2日目の風竜の月18日に自分は魔女に襲われて怪我をさせられました。自分は4人目の負傷者です」
「そのようですね。ですがクールマイユールの魔女、ですか? あなたは、そのような者が本気でいると思っているのですか?」
「はい、迷信だと仰りたいのでしょう、わかりますとも。ですが、ここいらの者は迷信深いのです、誰に聞いてもお山にむやみに入ると魔女に襲われると言うでしょう。いいえ、ただ山に侵入したぐらいで魔女は怒りません。ですが山を荒らすようなことをすると魔女はすごく怒るのです、そう言われています。馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれませんが、ここいらの者は皆、そう信じているのです」
「ならば、あなたたちはなぜクールマイユール山脈を越えようなどとしたのです? それが魔女を怒らせる行為だとは思わなかったのですか? あなたの話は矛盾していますよ」
「そうなんです! お山越えには魔女様を理由に反対した者もいました、わたしもその1人でして、何人も同意しました。ですが結局は団長の権限で我々は山を越えることになりました」
「クールマイユール山脈への侵入は魔女の存在などとは関係なく聖暦65年の軍命で禁じられています。まさか、あなたたちはそれを無視したのですか?」
「そ、そんなことはありません! ですが団長がどうしてもと言ったのです」
「タヴリダ=キエプスキ、これは正式な尋問です。適当なことを話すと退団しているとはいえ責を問われますよ」
「そ、そんな」
「あなたは襲撃者、いまは仮に魔女と呼びましょう、魔女の姿を見ましたか?」
「い、いえ、わたしは見ておりません。それに皆、それどころではなかったのです。一刻も早く基地に戻りたいと思っていました」
「襲撃者と戦おうとは思わなかったのですか?」
「と、とんでもありません! 4人も怪我をさせられたのです、逃げるだけで精一杯でした。それに魔女は通常の武器では傷つけることはできないと言われているんです」
「なるほど。これ以上、あなたから有益な情報は得られなさそうですね。
戻るとしましょう。あなたたちは彼に訊きたいことはありませんか?」
「ないわ」
「ええ、戻りましょう」
「お待ちください! わたしはどうすればいいんですか?」
「あなたは怪我のために騎士でいられなくなったのです、生業に戻ればいいでしょう」
「この足では農作業をするのも不便なのです」
「キエプスキ、あなたたち赤狐騎士団は立ち入りが禁止されているクールマイユール山脈に登り、何者かに負傷させられました。教皇猊下からお預かりした装備も失い、騎士に戻ることもできなくなって、あなたたちへの処罰はこれから発せられるでしょうが、それほど重く罰せられることもないはずです。それ以上、何を望むのですか? 本当ならば軍命違反で厳重に罰せられてもおかしくはないのが、あなたたち赤狐騎士団の立場です。それで満足なさい」
「そ、そんな」
3人の騎士たちは途方に暮れた彼を放ってキエプスキ家を辞した。
彼女らの足はチェルヌイシェフ基地へ向かったが、誰からともなくため息が漏れる。
「何という身勝手な人間でしょう。この事件の調査は難航しそうですね」
「他の者から多少なりとも情報が得られていればよいのですが」
「赤狐騎士団員にも多少なりとも責任感のある人物がいるのを期待しましょう」
「地方の守りも大事とはいえ、あのような者をテンプルナイトに任命するのは考えものですね」
「仰るとおりです」
「地方ではテンプルナイトを志望する者は少ないと聞きます。人材の善し悪しは、どこでも頭の痛い問題のようですよ」
「だからといって数が足りればいいというものではないでしょう? テンプルナイトになれば市民等級も上がるし責任も増えます。誰もがなっていい身分ではありません。任命にあたっては厳格な適性検査と審査が必要です」
「ですが地方騎士団員の審査をいまからやり直すわけにはいかないでしょう? その審査もどなたにお願いしようと仰るのです? 十四騎士団の方々に過剰な負担をおかけするわけにはいきませんよ」
「そうですね。私たちは赤狐騎士団の犯した罪を他山の石とせず、サアラブの名誉を回復することを求められているのですものね。テンプルナイトの素質は私たちが考えるべき問題ではありません」
「でも、いずれ重要な問題になるはず、マンドルに戻ったらベーベルさまに申し上げようと思います」
「ご自由に。ですが、いまは任務に集中してください。クールマイユールの魔女の正体次第では私たちも、いずれクールマイユール山脈に入らなければならなくなるでしょう」
「ああ、私は早くマンドルに帰りたい。ここには基地と粗野な民間人の住居しかありません。助祭様もマンドルまで行かなければいらっしゃらないなんて文明のかけらも感じられないんですからね」
「それは同感だわ。ここの方たちは何かあった時に教会が身近にないことを不安に思わないのでしょうかしらね?」
「思わないから助祭様も置かれないのでしょう。ですが教会はもっと積極的に地方に進出されるべきだと私は思います。神都は特別としても公都と地方の差が大きすぎることを皆様はどのように感じていらっしゃるのかしら?」
「矛先はそこら辺で引っ込められるといいわ。教会批判などと取られては厄介ですもの」
チェフニコフ=ラーゲルマルク、アルシン=ソルモヴォ、ヴァール=ロフチンの3名により、ミルラン=リッティングハウゼンに聞き取り。
ミルラン=リッティングハウゼンは事件は人の仕業と断言。
「我らは紫狐騎士団の者だ。クールマイユールの魔女事件について調べている。貴公らが治療したという赤狐騎士団員らの傷について話してもらいたい」
「まず、あれは魔女の仕業などではありません。あんなことができるのは人間だけです」
「それは貴公だけの見解か、それとも貴公以外の治療師も同意していることか?」
「レーヴィン殿もタジリーダ殿も同意した意見です。赤狐騎士団員の皆さんは、いずれも腱を一撃で斬られていました。左と右の違いはありますが二ヶ所以上、斬られた方はいません。ほかの箇所に傷を受けた方もいません。こんなことができるのは人間だけではありませんか?」
穏やかそうな人柄がうかがえたが治療師は、そう言い切った。しかし3人の騎士が沈黙したのを不思議そうに見やる。
「それも相当な腕前であろうな?」
「剣術のことは、わたしにはわかりません。わたしが申し上げられるのは傷についてだけです。ですが残念ながら赤狐騎士団員の方々の傷から得られる情報は、それほどありません」
「承知した。時間を取らせたな。我々は、これで失礼する」
「いえ、このような田舎で、あのような大怪我をさせられた者が大勢、出たのは初めてのことです。ふだんは、このように閑古鳥が鳴いている始末ですよ」
確かに彼らの短い滞在のあいだにも新たな来客はなかった。それでも3人もの治療師がいるのは都市部と違って怪我をすれば大事になるからなのかもしれない。
3人が去るのを玄関まで見送ったミルラン=リッティングハウゼンは最後に、訊くともなしに言った。
「聖暦65年の軍命と今度の件は関わりがあるのですか?」
「深くは立ち入りせぬことだ。貴公ら民間人は軍命を守っていればよい」
「わかりました」
けれども彼の言葉を否定できないことは3人が、いちばんよくわかっていたのだった。
イーン=ペロフスカ、クラウキ=ノシッヒ、トラヴィン=ナタンソンの3名により、レーヴィン=モロチャーリンに聞き取り。
レーヴィン=モロチャーリンは事件は人の仕業で、負わされた傷に悪意を感じたと供述。
「我らは紫狐騎士団の者だ。クールマイユールの魔女事件について調べている。貴公らが治療したという赤狐騎士団員らの傷について話してもらいたい」
「わたしが診たのは3人の方でしたが、どなたも足の腱を一撃で斬られていました。あれは人の仕業です、クールマイユールの魔女などの仕業ではありません」
「それは、ほかの2人も同じ意見なのか、それとも、あなた一人の見解なのか?」
「お二人とも話し合いましたが、似たような見解でした。赤狐騎士団の方たちを負傷させた者は正確に足、それも腱だけを狙いました。決して魔女の気まぐれなどでつけられた傷ではありません」
「なるほど魔女とは気まぐれなものか」
「ええ、伝えられるクールマイユールの魔女は気まぐれな守護神であり疫病神です。ここいらの者は異端審問官よりも、まず魔女を恐れることを学び、長じて異端審問官について聞かされるのです。クールマイユールの魔女はどのような姿もとり得るので、ある者は幼い少女だと言い、ある者は老獪な老婆だと言います。またなかには絶世の美女だと言う者も少なくありません。魔女の姿は話す者の願望と恐れを写す鏡のようなものです。魔女とはそのようなものなのかもしれません。だからといってローディス教徒として信仰が足りないだの未熟だのとは仰ってくださいますな。助祭様もいらっしゃらないような田舎では彼らを正しい信仰に導くべき者もいないのです。教会があれば彼らの状態も改善し得るかもしれませんが、わたしのような者が考えることでもないでしょう」
「わかった。貴公の意見は大いに参考になるし、教会がないという、ここいらの問題も伝えよう。邪魔をしたな」
「どうかお気をつけて。『クールマイユールの魔女』が何者かはわかりませんが赤狐騎士団の方々に追わされた傷には悪意を感じずにいられません」
「なぜ、そのように感じたのか訊いてもいいか?」
「仮定を話すことをお許しくださいますか?」
「かまわない。聞かせてくれ」
「仲間の方が殺されてしまえば赤狐騎士団の方たちはもっと早く基地に帰還でき、負傷者も少なくなっていたかもしれません。仲間の遺体を置いていくのは心情的には忍びないものですが生きている者には替えられませんからね。ですが実際には皆さん、足の腱を切られています。負傷者を置いていくことはできませんが足手まといになるのは必須です。しかも全員が怪我をさせられて騎士に戻ることもできません。彼らはこの先、一生不具と言われるのです。悪意以外に何と呼べばいいのでしょう?」
「そうだろうな、我がローディス教国にとって最大の障害となるかもしれん」
その言葉にレーヴィン=モロチャーリンは眉をひそめたが「魔女」の正体を誰何することはなかったので3人の騎士は一礼して彼の家を辞した。
「口が軽いぞ。『魔女』の正体を臭わすなど三等級市民には百害あって一利なしだ」
「だが、いよいよ『魔女』などという怪異とは無縁になってきたじゃないか。三等級市民とて盲ではない。65年の軍命と無関係だと思わぬ者は少なからずいるだろう」
「それが余計なお世話だと言うのだ。彼らが知ったところで何になる? 『魔女』の正体が知られれば、この地を離れたがる者だって出るかもしれない」
「邪推するならば、やらせておけばいい。彼らは軍命が発せられてから2年、その意味を考えもしなかったのだ、いまさら逃げようなどとは思うまいさ」
「そのとおりだ。それに今回の事件が『魔女』の仕業ではないとわかっても彼らは『魔女』の存在を否定することはない。レーヴィンが話したのは、そういうことではなかったか?」
「確かに。ローディス教徒にあるまじき不遜だな」
「だから、それも見逃してくれと言うのだから、こんな田舎にはもったいない人物だろう」
「なるほど、教会がなく、助祭もいないというのも迷信の理由になっているわけだな。だが、その件は上に報告すべきだろう。ローディス教徒として見逃していい事態ではないからな」
「好きにするがいい」
「結局のところ彼らでは処理できない問題だったから我々が動かなければならなくなったのだ」
「だからといって『魔女』の正体が貴公らが考えているとおりなら我々の手に負える問題でもないぞ、それはわかっているのだろう?」
しかし返事はなく、3人は黙って基地への帰途についたのだった。
オゼロフ=デミャネン、リーベル=プロコボチ、ラファルグ=スタリツキの3名により、タジリーダ=エンゲルガルトに聞き取り。
タジリーダ=エンゲルガルトは人の仕業ではないかと示唆し、悪意を感じたと証言。
「我らは紫狐騎士団の者だ。クールマイユールの魔女事件について調べている。貴公らが治療したという赤狐騎士団員らの傷について話してもらいたい」
「私はお二人の方を治療しましたが、お二人とも足の腱を一撃で斬られておりました。ミルランさまとレーヴィンさまにお話を聞いたところ、ほかの方々も足の左と右の違いはあっても同じような怪我だそうです。あれは人の仕業ではないかとお二人は仰り、私も、そのように感じました」
「人の仕業だと断言はしないのか?」
「現場を見たわけではありませんから確かなことは申せません。ですが、クールマイユールの魔女のせいにするよりも人の仕業だと考えるのが妥当なように私には思えました」
タジリーダは言葉を選んで、ゆっくり話した。断言しないのは慎重な性格だからなのだろう、その分、思慮深さもうかがえる。
「それに私は人の悪意も感じました」
「と、いうと?」
「赤狐騎士団の方々の怪我は私たちには治せないものです。神都ガリウスでならば、いざ知らず、このような田舎では、そのための施設も知識もありません。あの方々は、この先、一生、不具だと言われ、場合によっては責められることもありましょうし、そのためにうまくいくはずだったことが失敗することも多いでしょう。命を取るよりも人を不具にする、そのような行為には悪意を感じないでいられません」
「そうだろうな。だが『クールマイユールの魔女』の正体について貴公らに話すわけにはいかないのだ。そのことは理解してもらいたい」
「承知しております。せめて、あなた方のご無事を聖ローディスとフィラーハさまにお祈りいたします」
そう言ってタジリーダが胸元の聖焔十字を握りしめたので3人は一礼して彼女の家を辞した。
聖暦67年雷竜の月14日
セドレツ=ストルヴェ、ノヴゴロ=チチェリン、ボロゴエ=ブグルスランの3名により、トムスク=ピーサレフを尋問。
トムスク=ピーサレフによると襲撃者は単独。
「我らは紫狐騎士団の者だ。クールマイユール山脈にて負傷した時の様子を詳しく話してもらいたい」
うつむいたままのトムスク=ピーサレフは声を発したようだったが、その言葉は3人のうちの誰にも聞き取れなかった。
「聞こえるように話せ!」
卓をたたいて騎士の1人が威嚇する。
彼は怯えた目を上げたが、また顔を伏せてしまった。
それで別の騎士が彼の両肩を鷲づかみにした。手のなかの若者は予想に反して震えてはいなかったが観念したように話し出した。
「わたしは基地に戻ろうとしていた時に襲われたのです」
「襲撃者は何人だ?」
「1人です」
「男か女か?」
「わかりません」
「なぜわからぬことがある?」
「顔は見られなかったんです」
「顔以外に何か特徴は?」
「わかりません」
「わからぬはずがあるまい、貴様を襲った奴だぞ」
「痛くて、それどころではありませんでした」
「役立たずめが。襲撃者が1人とまでわかっていて、どうして男か女かもわからぬ理由がある?」
「見ていないものは見ていないんです!」
若者は涙声で訴えたが3人には無視された。
「この様子では、どんな奴が敵か、そこから調べなければならぬようではないか?」
「各団員への尋問と並行して団長を尋問することになっている。団長がここまで腰抜けでないことを願うばかりだ。それにいくら無能な地方騎士団とはいっても有益な情報をもたらす者が1人もいないということもあるまい」
「断片的な情報も集まれば形を見せる。尋問に赴いた仲間が少しでも有益な情報を得てくれることを願うとしようではないか」
「そうと決まれば一刻も早く基地に戻ろう」
「うむ、それがいい。もっとも団長の尋問の内容については皆が帰らなければ話されないだろうがな」
3人の騎士は話しながら立ち上がり、もはや若者への関心は微塵も持っていなかった。家を出たという自覚もないまま、彼らの足は当座の本拠地となったチェルヌイシェフ基地に向かっていた。
ベレベイ=ゴルデエンコ、エニセイ=ディーツ、バルホルン=キシニョーフの3名により、アントノヴィチ=パルヴスを尋問。
アントノヴィチ=パルヴスによる有益な情報はなし。
「我らは紫狐騎士団の者だ。クールマイユール山脈にて負傷した時の様子を詳しく話してもらいたい」
「このとおり、びっこにさせられました」
「襲撃者は何名だった?」
「み、見てません。怪我のためにそれどころではなかったんです。それに襲ってきたのはクールマイユールの魔女様に決まってます」
「馬鹿馬鹿しい! クールマイユールの魔女などおとぎ話だ、そんな者がいたと主張して責任逃れをするつもりか」
「とんでもありません! で、ですが、誰も気づかなかったんです。自分も気がついたら足を怪我させられて、ひっくり返っていたんです」
「いくらおまえらがぼんくらだとて11人もいたのだぞ、1人も襲撃者を見ていないなどということがあるものか」
「だ、だから、クールマイユールの魔女様が現れたのだと。みんな、そう言っています」
「あくまでも魔女のせいにするつもりか。ならば言ってみろ、クールマイユールの魔女とはどういう者だ、なぜ我らローディス教国に楯突くような真似をするのだ?」
「そ、そんなことは魔女様しかご存じありません」
「くだらん。おまえは魔女が教国に背けと命じれば、そうするとでも言うのか」
「ま、魔女様はそんな世俗的なことには関わりません!」
「ふん、馬鹿馬鹿しい。遠路はるばるやってきて聞かされたのは戯れ言ばかりとは時間の無駄だ。
基地に戻るぞ」
立ち去る3人をアントノヴィチ=パルヴスは引き留めようとはしなかった。彼の家族が追いかけてきたが3人は無碍(むげ)に追い払い、チェルヌイシェフ基地へと急いだのだった。
ハインフェルト=エリセーフ、マホフ=ユドゥシカ、ナジモフ=ドンブロフの3名により、バウマン=ポリパを尋問。
バウマン=ボリバは襲撃者が赤銅色の髪の女で、武器が刃の分厚い短刀だったと証言。
「我らは紫狐騎士団の者だ。クールマイユール山脈にて負傷した時の様子を詳しく話してもらいたい」
「お、いえ、自分たちは女に襲われました」
「女? クールマイユールの魔女だとでも言うつもりか?」
「とんでもありません! あれは人間です、魔女なんかではありません!」
「おまえの話は興味深い。続きを話してみろ」
「ありがとうございます! あれは我々が基地に戻ろうとしていた時のことです。団長とイグナツ、それにズバトフ以外の者は自分も含めて足を斬られたためもあり、気持ちは皆、とても焦っていましたが進軍する速度は鈍かったのです。いえ、もう進軍とは言えなかったでしょう。そこに奴は襲いかかってきました。目にもとまらぬ速さでイグナツの足に斬りつけたのです。得物は短刀のように小さい物でしたが分厚い刃でした。自分はイグナツの後方にいたため、奴の顔を見ました。あれは女でした」
「女? 奴の髪の色は見たのか?」
「日の入りも近かったのですが、赤銅色に輝いていました。それもあって奴がクールマイユールの魔女だと皆が言い張ったのだと思います」
その言葉に3人の騎士は知らず知らずのうちに顔を見合わせていた。3人ともしばらくは言葉もなく、互いに言いたいことを逡巡し、また考えて呑み込んでいるような有様だ。
「騎士様?」
バウマン=ボリバが声をかけなければ、3人はいつまでもそうして突っ立っていたかもしれなかった。
それでも、やっと1人が声を発した。
「おまえ以外に襲撃者の姿を見た者はいるのか?」
「団長は見たはずです。ですが、ほかの奴らはクールマイユールの魔女が出たんだと言って自分の話を信じません。それではお役に立てませんか?」
「いや、十分だ。おまえの話は我々の疑惑を裏付けている。それを聞けただけでも、ここまで来た甲斐があったというものだ」
「ありがとうございます。どうか、自分たちの仇を取ってください」
「そう簡単にいくような相手ならばいいがな」
「えっ?」
「いや、気にするな」
「し、しかし」
3人は、そこで一方的に話を切り、彼の家を辞した。だがチェルヌイシェフ基地に戻る足取りは重いものであった。
聖暦67年雷竜の月15日
アゼフ=ノズドリョ、イクス=ロジャニコ、モスト=レヴィツキの3名により、イグナツ=ポトレソフを尋問。
イグナツ=ポトレソフはバウマン=ポリパの主張を支持。
「我らは紫狐騎士団の者だ。クールマイユール山脈にて負傷した時の様子を詳しく話してもらいたい」
「はぁ。わしが怪我をさせられたのは、わしらがチェルヌイシェフ基地に戻ろうとしていた時のことですだ。団長とズバトフとわし以外の者は足に怪我をさせられたせいで歩くのがとても遅くなっておりましたな。お山の中ではろくに手当もできませんでしたから、包帯の代わりに布を巻くぐらいしかできなくて、薬草の持ち合わせもありませんし治療の心得のある者もおりませんで、みんなして痛みにうめいておりましただ。魔女様も酷いことをなさるものだと思いましたが、ここらの者はクールマイユールの魔女様には逆らえません。わしらは山に深く入りすぎて魔女様を怒らせてしまったのだろうと、早く山から下りなければと、これ以上、魔女様のお怒りを買いたくないと必死でおりましただ。ですがクールマイユールの魔女様は無慈悲なお方です。わしが襲われたのは日の入りも近いころでしただ。ここいらはお山のおかげで日の入りが早うございます。すぐに暗くなってしまって夜が長いのですだ。わしが魔女様に足を斬られたのは、辺りが闇に包まれる、その前でしただ」
イグナツ=ポトレソフの話し方はゆっくりしており、だいぶ訛りも酷かった。ただ話の筋道は整然としており、田舎者と侮っていた3人の騎士は思わず姿勢を正して聞き入った。
「わしは斬られて、すぐに倒れてしまったので魔女様の姿は見られませんでしただがバウマンが魔女様の姿を見た、あれは魔女様なんかじゃないと言ったのは、その時でしただ。わしも含めて誰も聞く耳を持ちませんでしただが、いま、考えるとバウマンの言ったことが正しかったんでねぇかと思いますだ」
「なぜ、そのように思ったのだ?」
「わしの後でズバトフと団長も足を斬られましただ。基地に戻ってエリが手当のために治療師を呼んだりしてくれましたが、皆、腱を斬られたと言われましただ。マンドルでも治すことはできないと言われて、わしら、一生、足を引きずっていかねばならなくなりましただ。もちろん騎士団には戻れませんでしたが、それ以上に困ったのは家業の行商を手伝おうにも足が不自由だと困るってことですだ。クールマイユールの魔女様はおっかねぇお方ですが、こんな害をなすようなお方には思えませんですだ。なんせ、クールマイユールの魔女様は山の守り神様でもありますんで」
「ふむ、一理あるな。バウマン=ポリパには別の者が話を聞いている。貴公の話と整合すればクールマイユールの魔女とやらの正体もつかめるだろう」
「へぇ」
それほど関心はなさそうに彼は頷いた。
3人の騎士は話を終え、イグナツ=ポトレソフの家を辞して基地への帰り足についた。彼の家はチェルヌイシェフ基地から3日もかかる田舎にある。赤狐騎士団の一員だったころ、若者は滅多に家には帰れなかったことだったろう。
レイキン=カルーガ、ルーゲ=デフテレフ、フェビアン=シナケンブルグの3名により、ズバトフ=パーブシキンを尋問。
ズバトフ=パーブシキンによる有益な情報はなし。
「我らは紫狐騎士団の者だ。クールマイユール山脈にて負傷した時の様子を詳しく話してもらいたい」
「その日は自分とイグナツがやられました!」
「イグナツの次に貴様だったそうだな?」
「そのとおりであります!」
「それは続けて行われたのか、それとも時間をおいて襲撃者は現れたのか?」
「続けてでありました! イグナツが倒れて右往左往しているあいだに自分もやられたんであります!」
「貴様は襲撃者の姿を見たのか?」
「見られませんでした! 風のように斬りつけていきました!」
「クールマイユールの魔女か? これだから田舎者の言うことは」
「違うんであります、本当にあっという間の出来事だったんであります!」
「貴様も怪我をしたから、それどころではなかったと言うのだろう?」
「そ、それはそのとおりでありますが」
「そもそも貴様たちは何のためにクールマイユール山脈になど入ったのだ?」
「そ、それは、お山の向こうを見てみたかったからでありまして」
ズバトフ=パーブシキンの語尾が消えてしまったほど彼は縮み上がっていた。
「聖暦65年の軍命を貴様らは忘れたのか?!」
「ひっ!」
彼は立とうとしたが足がもつれ、椅子から転げ落ちて尻餅をついた。
「生業などにより特別の許可を得た者以外にはクールマイユール山脈への立ち入りを禁ずる。騎士団員ともあろう者が、そのお達しを知らなかったとは言わせんぞ!」
「ひぃっ!」
「愚か者め。貴様らの尻拭いを我らがせねばならん、足を怪我しただと? 軍命を破った当然の報いだ」
「これ以上、ここにいても時間の無駄だな。明日にはアレクシン=パルチュフへの尋問が始まる。急いで帰って話を聞いた方が良くはないか?」
「当然だ。だが、どうせ間に合いはしないだろう。慌てて戻っても終わっているさ」
3人の騎士はズバトフ=パーブシキンの家を辞し、チェルヌイシェフ基地へと足を向けた。
「まったく貴公の言ったとおり、とんだ貧乏くじを引かされたものだな」
「赤狐騎士団は紫狐騎士団の下位騎士団だ、責任を取るのが当然というのが上層部の考えなのさ。ラチェットがズィエロ公に、そう言われたと言っていただろう?」
「ふん、だから貧乏くじだと言うんだ。赤狐騎士団に下位騎士団になれと言ったわけでもあるまいに、単に同じサアラブだというだけじゃないか。それで奴らの行動の尻拭いまでさせられたら、たまらんよ」
「確かに。紫狐騎士団と赤狐騎士団は訓練以外では何の付き合いもなかった、こんな田舎、事件がなければ一生来ることもなかったろうにな」
「まぁ、貧乏くじを引かされたのはお互い様だ。この件、なるべく早く片づけたいものだな」
「そううまくいけばいいが」
話しながら歩いていく3人の表情は、とても楽観できるような状況にないことを物語っていたのだった。
聖暦67年雷竜の月16日
本日より赤狐騎士団元団長アレクシン=パルチュフを尋問。
聖暦67年雷竜の月17日
引き続きアレクシン=パルチュフを尋問。
聖暦67年雷竜の月18日
紫狐騎士団員、全員、チェルヌイシェフ基地に帰還。午後より会議。
チェルヌイシェフ基地は小さい。紫狐騎士団全員が一度に集まれるような大きな部屋はなかったので会議は前庭で行われた。もちろん全員が寝泊まりする場所もないから近隣の家々に泊まっているが期間が長引くことを考慮して騎士団と住民とで費用は折半だ。
「皆、揃ったな。まずは遠方まで出張しての尋問、ご苦労だった。それぞれ内容を簡潔に報告してくれ」
それで出かけていた30名のうち、リーダー格の10名が発言に立った。それぞれが尋問、あるいは聞き取りをした赤狐騎士団員や治療師について感想を漏らすこともあれば彼らの証言を簡潔に伝えるだけの者もあった。
そうして10名の報告が終わった時、雲をつかむような存在だった「クールマイユールの魔女」が具体的な姿形を持って浮かび上がってきたのは誰もが感じたことだった。
そこで団長が立った。
「次に昨日、一昨日と赤狐騎士団の元団長アレクシン=パルチュフの尋問について報告しよう」
彼は、それほど私情を交えずに簡潔に終わらせた。赤狐騎士団団長の人となりは、この事件において重要な要因だが解決には何の役にも立たないからだ。
「これらの証言から導き出される『クールマイユールの魔女』の正体は自ずと明らかだと思う」
彼の話は、そう締めくくられた。と同時に皆の顔には緊張が走り、なかには青ざめる者も出る始末だ。もちろん紫孤騎士団団長として、それらの反応を見逃すわけにはいかない。
「なお、この一件を解決すれば、その時点で生存の全紫狐騎士団員に一等級市民への昇格及び希望すれば十四騎士団への転入も考慮されるだろうとズィエロ公は仰せだ」
皆の表情に期待が混じる。一等級市民になれば神都ガリウスに居を構えることも許されるし、その義務と権利は二等級市民とは比べものにならぬくらい大きくなる。ましてや十四騎士団への転入は地方騎士団からは通常あり得ぬ大出世で、破格の報酬であったからだ。
「つまり、今回の任務はそれほどの難事だとズィエロ公はお考えということですな?」
冷たい声音に皆の高揚した気分も冷めたようだ。
けれど冷静に考えれば、それぐらいのことは子どもでも想像がつく。ぶら下げられた餌が通常の任務とは比較にならないくらいに大きいのだから危険度も通常より高いのだ。
だがシュラム=ツェレテリは淡々とした調子で話を進めた。飴と鞭は同時に使うから効果があるものだ。
「どれほどの難事であろうと任務を受領することを拒否する者がいれば申し出よ。その者らは赤狐騎士団員と同じ罰を受けることになるはずだ」
「それは、どのような処置でしょうか?」
先ほどと同じ者が応えた。
「三等級市民への降格と、騎士団への志願を永久に禁じる、だ」
「命が惜しいから貴公は抜けると言うのか、サルピンカ?」
「とんでもない! わたしはゼノビアの英雄に一目会いたいと思っていましてね、今度の任務、抜けるなど考えたこともありません」
「貴公はいつも一言余計だな。
ほかにはいないか? 言いたいことがあれば言っていいぞ」
「団長、ゼノビアの英雄がドラゴンハーティドを全滅させたというのは本当ですか?」
弱々しく手が上がり、何人かの者が頷いた。
ドラゴンハーティドは対外的には冥煌騎士団の名で知られた十六騎士団一の勇猛さを誇った騎士団だ。
だが、その栄華は聖暦48年の第三次光焔十字軍でニルダム・パラティヌス両王国を征服したゴドフロイ=グレンデルまでで、その後の枢機卿ら教皇派の隆盛と元老院派の没落によりグレンデル家は失墜、ドラゴンハーティドも聖暦62年のパラティヌス王国の革命とニルダム王国の独立で全滅したのだった。ゼノビアの英雄がドラゴンハーティド相手に繰り広げた戦いではオウガのごとき凶悪さで冷酷無慈悲だったとも噂されていたのだ。
翌聖暦63年には最強と言われたサルディアン教皇直属のロスローリアンもヴァレリア諸島という聞いたこともないような田舎で全滅に近い被害を被り、ドラゴンハーティド同様、復活はなされていない。現在のローディス教国には十四騎士団が残るのみである。
「貴公らは敵を買いかぶり過ぎだな。ドラゴンハーティドが全滅したのはパラティヌス王国の革命軍との戦いのためでゼノビアの英雄のためではない。奴がその当時いたのはニルダムで、ニルダムの独立に力を貸したというのが真相だ」
シュラムの返答に訊いた者は安堵したように頷いた。
だからといってゼノビアの英雄の名は聖暦65年の軍命の発令が彼女の存在によるためもあり、特に騎士団に所属する者たちには異端審問官同様に恐れられ、憎まれている。
一等級市民への昇格と三等級市民への降格という飴と鞭をぶら下げられた紫孤騎士団員たちは、それぞれにゼノビアの英雄との戦いと自分の生き残りとを天秤にかけなければならなくなったのだった。
「本日は、これで解散としよう。また明日、朝から会議を開く。それまでに自分の考えをまとめてくれ」
それで発言もしなかった若そうな団員から一人ひとり、あるいは2人3人と前庭を離れていった。宿泊している民家に帰る者もいたろうが、仲の良い者同士で話す者もあっただろう。
団長と副団長は当然とはいえ、残ったのは、いずれも一癖ありそうな古株の団員ばかりだ。
「団長、魔女の正体がはっきりしたいまこそ、例の件を再考してみるべきでは?」
「逆だな。シェリンスキさままで話が通ったいまだから、下手な結末では納得していただけなくなったと考えるべきだ。何しろ、この件を片づければ生存する紫孤騎士団員を一等級市民に昇格と仰った。赤狐騎士団員の首をはねて証拠なしでは、こちらが罰を受ける恐れの方がずっと大きい」
ボリス=マカリーは舌打ちでもしそうな顔だった。
だが金竜の月14、15日の紫孤騎士団の会議で決まった結論は、彼の意見を反対多数で否決したのである。一つにはよく見知ってもいない赤狐騎士団を反逆者に仕立て上げることに良心の呵責を覚える者が多かったせいもあるが、団長と副団長が揃って反対したのは、ありもしない証拠を捏造し、最悪の場合、枢機卿や十四騎士団のデステンプラーを相手に証明しなければならなくなることを恐れたからだった。
「しかし実際のところ策はあるんですか?」
サルピンカと呼ばれた団員が口を開き、何人かの者が同意するように頷いた。
「赤狐騎士団員がやられたのは皆、各個撃破だったな?」
「そのようですね。もっとも連中に、そんな自覚があったのかどうかもわかりませんが」
「敵地も同然なのだから2人一組で行動するのが当然だろう、そんな基本もできていなかったのだから、どんな訓練をしたのかも疑問だな」
別の古参の団員が腹立たしそうに言うのを他の者は意を得たりと言わんばかりに頷いたが団長の話に赤面した者も少なくなかった。
「訓練を施したのは我々だ。上位騎士団というだけではなく、その責任も問われている」
「ああ、思い出しました。64年に、そんなお触れが出ましたね。地方騎士団の増強と志願者の選別、それに訓練と、やたらに忙しい年でしたな」
「その時に赤狐騎士団員に騎士としての心構えを教え込んでいれば今回のような事件は起きなかっただろうとシェリンスキさまは仰せだ」
「それは、あんまりな仰せでは? 赤狐騎士団に限らず、地方の末端の騎士団は特に出入りが激しい。人員が変わった時の訓練も我々が行いましたが、それだけで厳しいと言って辞めてしまうような奴らを、どう鍛えろとズィエロ公は仰るんです?」
「彼らは同じ二等級市民ながら我々とは心構えも覚悟も違う。いざという時でさえ、せいぜい時間稼ぎか楯にしか使えない輩だ、せめてやる気を引き出して少しでも使えるように仕込んでおけとのことだ」
さすがに皆は押し黙った。それを見て団長は立ち上がる。
「ゼノビアの英雄への策は明日、話すとしよう」
それをきっかけに皆も、ばらばらに敷地から出ていった。
聖暦67年雷竜の月19日
引き続き会議を行い、今後の方針を決定。
シーポフ=カリフェ退団。
翌日、朝食後、すぐに召集がかかり、紫狐騎士団員は前庭に集合した。武装した騎士が100人も集まるような光景は、この辺りではかなり異様に写るらしく住民が遠巻きに眺めている。声の届かぬところまで下がるよう追い払われたが気がつくと近づいているのだ。それで古参の団員が何人か立たねばならなかった。
「まず昨日の宿題から片づけよう。今回の事件、敵はゼノビアの英雄ただ1人だと思われる。そうと知って逃げ出すような臆病者はただちに起立し、速攻でマンドルに帰還するがいい。貴公らへの処置は追って届くだろう。いないか?」
団長は、そう言って皆を見渡したが起立する者はなかった。
「貴公らの決断に感謝する。
ならば具体的にゼノビアの英雄に、どう立ち向かうか話し合おう。
リヴォフ、赤狐騎士団員の傷は、どこにつけられていたか?」
「全員、臑です。腱を斬られて、びっこになった者ばかりです」
「これは彼らが武器は持っていったものの鎧を置いていったからだ。
ここから得られる結論は、マカリー?」
「鎧を身につけよ、ということですな」
「単純だが、そうなる。だが我々が越えなければならないソハーゲ峠は標高8000バーム(約2400メートル)以上の高地だしクールマイユール山脈も峻険な地形だ。正直、鎧を身につけたまま登るのはかなり苦しいだろう。だが我々は完全武装した状態で登り、奴と対峙しなければならない」
「ソハーゲ峠を越える理由は何です?」
「そちら側がゼノビア領だからだ」
「山の向こうを見たかったとぬかした赤狐騎士団員もいましたな。ご禁制の山へ遠足気分とは脳天気な連中だ」
「遠足だけならば良かったのだがな」
「と言いますと?」
「まさか連中、ゼノビアの英雄の首級(くび)を上げるつもりでいたって言うんですか?」
「はっきりとパルチュフがそう言ったわけではないがな」
「呆れた奴らだ。足を斬られて、のこのこと逃げ帰るような臆病者が、よりによってゼノビアの英雄の首級を上げるつもりだったって?」
「奴ら、聖暦65年の軍命を何だと思っていたんでしょうね」
「さあな。彼らには三等級市民への降格でも罰が軽いくらいだ。だが過ぎたことを愚痴っていても仕方がない。我々は赤狐騎士団のような腰抜けでも無責任な輩でもないと証明しなければならない、ゼノビアの英雄の首級を上げることでな」
「しかし、どうやってです?」
「全員で奴を包囲すれば勝機も見出せるかもしれない。それに奴は赤狐騎士団員が単独で行動した時を狙ったようだ。よって単独での行動は厳禁とする」
「ですが鎧を身につけていては動きも鈍くなります。奴を包囲するのは至難の業では?」
「そこは同意できない」
「しかし奴は赤狐騎士団員を殺していません。治療師は奴の行為に悪意を感じると言いましたが、団長は奴の狙いを何だとお考えですか?」
「それは答えられるものではないな。シェリンスキさまは十四騎士団を動かすことではないかと仰せだったが」
「ズィエロ公がサアラブにて解決せよと仰ったのは、それが理由でしょうか?」
「おそらくは。十四騎士団が動けばゼノビアと全面的な戦争になる可能性が高い。ズィエロ公として、その決断はできなかったろう。それでシェリンスキさまはガリウス公に、お話をうかがうと仰せだった、そろそろ、その使者が着くと思う」
「ガリウス公が十四騎士団の出動に賛意を示されたら、どうなります?」
「シェリンスキさまは、それはないだろうと仰せだったが万が一、そのようなことになれば、この件は我々が責を負わされることだけはなくなるだろう。即日、マンドルに帰還する」
「では我々がクールマイユール山脈に入るのはズィエロ公の使者を待ってからとなりますか?」
「そのつもりだ。万が一のためにガリウス公の意向はおうかがいしておかなければならないからな。だがガルフィンキェルさまでさえ十四騎士団を一存で動かすことはできなかろう」
「しかしガリウス公がファルクバルサラ、特にイリヤー=ムーロメツ殿の支援者であることは、その筋では有名では?」
何人かの者は頷いたが、ほとんどの者は驚いたようにささやきあった。マンドルのような田舎にいると神都の世事には疎くなる。
「だからこそ、だ。ファルクバルサラに限らず十四騎士団の助力は期待しないことだ」
期待に満ちた顔は、すぐに意気消沈してうつむいた。ゼノビアの英雄の名は、それだけ重荷だ。世界最強を自負するローディス教国の、唯一の障害と言ってもいい。一介の地方騎士団が太刀打ちできるような相手ではないのだ。
それでも団長は余裕のある態度を崩さなかった。戦う前から気迫で負けているようではお話にならない。しかし待機の時間が長いのも考えものだ。赤狐騎士団の尋問や治療師の聞き取りに出かけなかった半数以上の者は、あれやこれやと考えすぎていることだろう。
「10人ほどの小隊で奴を攪乱(かくらん)するという作戦は駄目でしょうか?」
「何のために?」
「奴は我々がゼノビア領に入るのは是が非でも防ぎたいでしょう、10人ずつならば10の小隊が作れます。10も小隊があれば一つくらいは麓にたどり着けるのではないですか?」
「ゼノビアに侵入して何とする? いまは平時だ、我々が戦端を開くような真似はどなたも望んでいらっしゃらない。それならば最初から十四騎士団を出動させるだろう。それに地図もないクールマイユール山脈で奴を攪乱するほど自由に動けるとも思えないし小隊が相手では各個撃破される可能性もある」
「了解しました」
「ほかに意見のある者はいないか? この際だ、皆から忌憚ない話を聞いておきたい」
しかし、それ以上、手は挙がらなかったので、大して待たずに団長は言葉を継いだ。
「使者殿が到着されるまで待機とする。そのあいだに考えを変えた者がいれば申し出るがよい。本日は解散だ」
それで先に立ち上がったのは今日は古株の団員の方だった。案の定、出かけずに待機を命じられた若い団員ばかりが残っている。
しかし、それも互いの顔や微動だにせぬ団長、副団長の顔を盗み見て1人、2人と去っていき、最後まで残ったのは線の細い若い騎士だった。
見るからに気の弱そうな青年は3人だけになっても言葉を発しなかった。団長や副団長を見、また地面に視線を戻し、を何度も繰り返す。
とうとうしびれを切らした副団長が立っても、まだ何も言わず、二人きりになっても黙ったままだ。
それでも団長は自分の方から声をかけることはしなかった。こうしていることさえ予定のうちだという悠然とした態度を崩さない。
「あの」
先に根負けしたのは若い騎士の方だった。
「ゼノビアの英雄と戦うなんて本当ですか?」
「いずれ彼女とは雌雄を決しなければならない。我々がその先鋒を務めるというだけのことだ」
「ですが、まるでかなわぬように聞こえます」
「怖じ気づいたのか?」
「はい、恐ろしいです。もしも自分が彼女に殺されたら母が独りきりになってしまいます。母はどれだけ悲しむでしょう、どんなに心細い思いをしていることでしょう。まさか自分がゼノビアの英雄と戦うことになるなんて母に知らせたら卒倒してしまうかもしれません」
「そういえばカリフェの家は母1人子1人だったな、だが、そういう者はほかにもいる」
「で、ですが、自分の母は病弱なのです。自分も、あまり丈夫な方ではなかったので騎士団に入って鍛えようとしましたが訓練についていくのが、やっとの有様でした」
「そう謙遜することもあるまい。カリフェは慎重で臆病なところもあるが自分の欠点をよく把握しているから逆に使いやすいという声もある」
「ですが弓と魔法ばかり得意なようでは騎士失格だと言われます」
「剣で戦うばかりが騎士でもない。我がローディス教国では騎士は何でもできることを求められるが、それでも得意不得意があるのは仕方のないことだし、それを考えて隊を組むものだ」
「申し訳ありません、団長! それでも自分はゼノビアの英雄に立ち向かう勇気がないのです。独り残される母のことを思うと足がすくみます。どうか退団をお許しください」
「三等級市民に降格される不名誉よりも命を惜しむのか」
「申し訳ありません」
そこで互いの言葉が途切れた。シュラム=ツェレテリはしばらく逡巡していたが思い出したように言った。
「そうか、カリフェは、ここいらの出身だったな」
「はい」
「久しぶりの帰郷で里心がついたのは、わたしの誤算だった」
「申し訳ありません」
「帰ってご母堂に元気を顔を見せてやるがいい、退団の手続きは、こちらでしておこう。処置は追って届くだろう」
「失礼します!」
シーポフ=カリフェは深々と腰を曲げ、逃げるように飛び出していった。
入れ違いに副団長が来た時には山の早い日は暮れようとしていた。
「リヴォフ、カリフェの退団手続きをしてくれ」
「承知しました」
「カリフェの退団は明日、皆に話すが、まだ数人、退団希望者が出ることは避けられないだろう。皆への影響が痛いな」
「補充の要請もしておきますか?」
「ゼノビアの英雄と戦おうという地方騎士団に異動を希望する者などあるまいし新たな団員を補充できても訓練している暇もないだろう。いや、これは失言だった、記録からは削除してくれ」
「承知しました」
「では、また明日」
「はい」
聖暦67年雷竜の月20日
ポポフ=パルマショフ退団。
聖暦67年雷竜の月23日
ルーヂン=ゲルシュニ退団。
聖暦67年雷竜の月24日、ズィエロ公アンドロマリウス=シェリンスキ殿の代行者ヒルシュ=メーリング殿、チェルヌイシェフ基地にご到着。
「作戦に入る前に3人の脱落者が出たか」
「自分の不徳の致すところです。申し開きもできません」
「アンドロマリウスさまは、そのことで貴公を責められはしないだろう。だが3人少なくなったことで作戦の遂行に支障はないのか?」
「それは問題ありません。シェリンスキさまのご命令にご変更がなければ明日からクールマイユール山脈に入ります」
「ラチェットに伝えたところと変更はない。ヴァガヴァンを初めとする十四騎士団を動かすことはできぬ、紫狐騎士団のみにて事に当たれ、とのことだ。予定どおり進めよ、と言いたいところだが貴公らとの連絡が途絶えるのは、どうしたものかな?」
「毎夜、花火を上げます。上がらなくなった時はお察しください」
「相手がゼノビアの英雄とはいえ、そんな不名誉なことでいいのか?」
「いまは紫狐騎士団の総力を尽くして当たるとしか申し上げようがありません」
「我らがローディス教国と教皇猊下の御ために朗報を期待しているぞ」
「承知しております。
長旅、ご苦労様でした。何もないところですが、おくつろぎください」
「今日はよいが明日からは話し相手もなしか。誰か良さそうな者は知らぬか?」
「申し訳ありません。戦力がこれ以上、1人でも欠けるのは苦しいところですので誰も置いていけませんし片田舎のことゆえメーリングさまのお相手が務まりそうな者も思いつきません。治療師たちには、それなりの教養を感じましたが、あまり事件をおおっぴらにするわけにもまいりませんので、必要とあらば連れて参りますが、お話するのもほどほどにしていただけないでしょうか」
「わかったわかった。独りでおとなしく貴公らの帰還を待つとしよう。こうなるとわかっていれば伴を連れてくるべきだったな。チェルヌイシェフ基地が田舎だということを失念していた、わたしの失態だ」
「いえ、こちらから連絡すべきところを気が至らず、申し訳ありません」
ヒルシュ=メーリングにとって不幸だったことに、紫狐騎士団がチェルヌイシェフ基地を発って、また戻ってくるまでの17日間というもの、話し相手になるような人物も、話の種になりそうな物も誰1人、何1つとしてなかった。風光明媚なクールマイユール山脈の景色も毎日、見ていれば飽きるし、ズィエロと異なる風景も食事も続けば飽きが来る。しかもチェルヌイシェフ基地周辺に比べればズィエロは大都会だ。そこで生まれ育った彼には基地の周辺には興味を引かれるような物は何もなかったのだ。だからといってズィエロ公の使者の仕事を放り出してマンドルへ行って暇を潰すわけにもいかない。万が一、紫孤騎士団が予定より早く帰還した時に彼がいないのでは話にならないからだ。
まったく退屈な17日間であった。
聖暦67年闇竜の月1日、紫狐騎士団、クールマイユール山脈入り。
聖暦67年闇竜の月5日、紫狐騎士団、ソハーゲ峠越え。
「気づきましたか、団長?」
団長が皆の野営の支度を眺めているとゴーリン=サルピンカが近づいてきた。
「ああ、峠を越えた時から、ずっと見張られている。我々が来るのを待ち構えていたようだ」
「追わせてみますか?」
「地の利は向こうにあるし、鎧を着たままでは機動力も落ちる。追わせた者が撃破されるのも好ましくない。奴が何を企んでいるのか知らないが無視しよう」
しかしシュラム=ツェレテリは皆に注意を促すのも忘れなかった。
「ここは敵地だ。何をするにしても必ず二人一組で行動することを肝に銘じてくれ。我々は、すでに奴に見張られている。油断するな」
皆の顔に緊張が走ったが、それも1日も持てばいい方だろう。
ゼノビアの英雄が相手という、かつてなく危険な任務ではあるものの、例外的に彼らは立ち入り禁止のクールマイユール山脈に入山し、ソハーゲ峠も越えた。十四騎士団でさえ滅多に見ることのできないゼノビア領に入ったという「遠足気分」は当のゼノビアの英雄に遭遇するまで彼らにつきまとい続けるだろう。
聖暦67年闇竜の月7日、紫狐騎士団、最初の山小屋を見つける。ゼノビアの英雄と初遭遇。
聖暦67年闇竜の月7日、紫狐騎士団は山小屋に到着した。赤狐騎士団も見つけたという小屋だろう、10人どころか5人も入れば、いっぱいになりそうな小さい建物だった。
「どうやら赤狐騎士団と同じ経路をたどっているようだな」
「奴ら、鎧を身につけていなかったのに我々と同じくらいの進度とは、だいぶ遅かったようですね?」
「我々は奴らの行動から行く先を推測できる利があるが、奴らはまったくの手探りだったろうからな。それにここに着いた時には怪我人を2人連れていたはずだ、思ったよりも速いと言っていい」
「なるほど、遅れているのは我々の方というわけですか」
「だからといって速度を上げるつもりはない」
「そうしてください。完全武装で登山は厳しいですからね。これも禁句でしたかな?」
「貴公は、いつも一言多いな」
ゴーリン=サルピンカは肩をすくめ、その場を離れていった。
だが彼の言うとおり、皆は連日の登山に疲れている。大変なのは登りよりも下りの方で、足下に注意するあまり、周囲に気を配るのも難しいほどだ。見張りを立てながら進んではいるものの移動しているところを襲撃されれば隊列は崩れ、応戦態勢を取れるかどうかも怪しい。
ゼノビアの英雄がそこを狙ってこない意図は不明だ。たかが地方騎士団と舐められているのかもしれない。
そこに副団長が近づいてきた。
「今日は、ここで休憩しますか?」
「そうしよう。中で休むわけにはいかないが水源もあるようだし休憩しやすそうだ」
それで彼らは進軍を止め、野営の準備を始めた。クールマイユール山脈の南側は北側に比べて陽が長かった。
「団長は小屋で休まれますか?」
「いや、わたしも皆と一緒の方がいい。単独行動は、できるだけ避けたいし、いくら奴でも空を飛べるとも思えないが用心するに越したことはないだろう」
「承知しました」
「団長!」
それ以上の言葉は要らなかった。ボリス=マカリーが指した方を皆が一斉に見ると、彼らを見下ろすように赤銅色の髪の女が立っていたからだ。
夕陽を浴びた、その髪は銅貨のように煌めいていた。重装備の紫狐騎士団とは対照的に鎧は何も身につけていないように見える。驚いたことに武器も持っていないらしいが身体のどこかに隠しているかもしれず油断は禁物だ。
互いににらみ合っていたところ、こちらから何本かの矢が放たれた。1本はあらぬ方向に飛んでいったが残りの矢は彼女まで届いた。
しかしゼノビアの英雄は苦もなく矢を次々に捉まえると投げ返してきた。しかも矢は射手に向けて投げられた上、兜ののぞき穴を直撃したので彼らは驚かずにいられなかった。
幸いだったのは、まだ誰も兜を脱いでいなかったので矢が当たったところで痛くもかゆくもなかったということだ。
第二射が放たれる前に彼女は姿を消した。ここらは人の背より低い灌木ばかりだが起伏の激しい斜面だ。隠れるところなど、いくらでもあるのだろう。
「待て、追わなくていい!」
動きかけた何人かの騎士が足を止める。
「なぜです? どうせ近くに潜んでいるのではありませんか?」
「地の利は奴にある。足場の悪いところで待ち伏せされていたら厄介だし深追いして団が分断されてしまっても不利だ。それに奴の行動を決めつけるには我々は奴のことを知らなさすぎる」
「承知しました」
その後、彼らは8人一組、二交代で夜営を立てて休んだ。
寝しなに、この遠征で7本目の花火が打ち上げられたが、ソハーゲ峠を越えたいま、ヒルシュ=メーリングが見られるかどうかは不明だ。
彼らの予想に反してゼノビアの英雄の夜襲はなかった。彼女とて人並みに休むものらしい。そう考えると怪物のように思われたゼノビアの英雄も、それほど恐ろしいものではないのかもしれない。団長の言ったとおりドラゴンハーティドの全滅は彼女の仕業ではなかったのだし、その力を買いかぶりすぎただけだったのかもしれなかった。
しかし彼らの期待混じりの考えは、すぐに裏切られることになるのだった。
聖暦67年闇竜の月9日、紫狐騎士団、2軒目の山小屋を見つける。ゼノビアの英雄による初の襲撃。
聖暦67年闇竜の月9日、紫狐騎士団は2ヶ所目の山小屋を見つけた。道程は下りが主となったが道もなく、斜面が急なところや陥没、亀裂も少なくなく、足取りは慎重だ。
見つかった山小屋は1つ目の物と、ほとんど同じくらいの大きさで中に蓄えられていたのは、いくばくかの薪だけだった。訪れる者も、ほとんどいないらしく、そこら中に埃が積もっていることも1つ目の山小屋と似たようなものだ。
ここまで下りてくると辺りの景色は灌木が多くなった分、見晴らしは悪くなったようだ。
そして、ここ2日間というものゼノビアの英雄は堂々と彼らの後をつけてきていた。それも弓や魔法が容易に届かない距離を保っているのだから始末が悪い。もっとも彼女は飛び道具を持っていなさそうなので条件は変わらないとも言えたが、その意図がわからぬだけに不気味としか言いようがなかった。
野営地の一角で悲鳴が上がったのは皆が荷を解き始めた時だ。
なるたけ分散しないように言われていても灌木が邪魔をして、どうしても幾つかのグループに分かれてしまう。ゼノビアの英雄は、そのなかでも皆から孤立した者たちを選んで乱入してきたのだ。そこには団のなかでも女性ばかりが6人集まっていた。女性とて男性並みに戦うのはローディス騎士の常である。
だが紫狐騎士団に限らず団員の実戦経験が少ないのは地方騎士団共通の悩みの種だ。大規模な軍事作戦が展開された第三次光焔十字軍は19年も前のことなので参加した者は、どこの騎士団にもほとんど残っていないし、ましてやマンドル所領はローディス教国に組み込まれてから長いため、他の所領と違って争いごとや揉めごとは少なく、その分、実戦経験を積む機会は限られる。それも紫孤騎士団に限った話ではない。
かといって所領都たるズィエロ公領も事情は似たようなものだし何か問題が起こっても、まず命令が発せられるのはズィエロ公領所属の十四騎士団の一角ヴァガヴァンか、ズィエロ所領所属のムダッラァと決まっている。地方騎士団同士が力を合わせて事に当たらなければならないような事態は、現在の教国では、ほとんど起こり得ないのだった。
だから彼女らの名誉のために申し添えればゼノビアの英雄が襲いかかってきたところで、まともに剣を抜くぐらいの実戦経験を積めた者さえ皆無に等しかったのである。
彼女も、それは初手の反応で察したものと思われる。一度は抜いた短刀を素早く収めると周囲の女性たちに素手で襲ったからだ。休むために武装を解いてしまっていたのも良くなかった。
トゥーラ=ネミロは首の裏に手刀を喰らって倒され、ウファ=アルハンゲリは勢いよく足を払われて空を飛んだ。
皆が斜面に激突して二目と見られぬ顔になるのを想像して思わず目を背けたところ、彼女の腕をつかんだのはゼノビアの英雄だ。ウファを引き上げる彼女に襲いかかろうとする者はおらず、誰もが複雑な思いで見つめるだけだった。
「あ、ありがとう」
彼女の礼に耳を傾けた様子もなく、ゼノビアの英雄は続けてサマラ=メンゼリンに蹴りを喰らわし、ニジニー=ドブロリューボを殴りつけ、逃げ出したモル=ミトロファノフを追うことはせず、唯一、剣を抜いて立ち向かったサブリナ=ニキフォロは、あっさりと剣を奪われた上に目の前で折られて何もできなかったのであった。
そして皆がようやく包囲しようと動き出した時には彼女は姿を消していた。
紫狐騎士団の誰もが、しばらく言葉もなかった。団員同士で話すことさえはばかられた。
「奴め、いったい何が目的だったんだ?!」
団長の声に応える者もない。否、誰にも答えられなかったのだ。直接、対峙した6人でさえ、わかるわけがなかったろう。
「怪我人はいるのか?」
「トゥーラが気絶させられましたが外傷はありません。直に目を覚ますでしょう」
「サマラとニジニー、サブリナ、ウファもかすり傷で済んでます」
「奴と遭遇してそれだけで済んだのは幸いだった。
だがモル=ミトロファノフ、貴公の行動は騎士の風上にもおけない。いまは、このような状況だから、ただちに罪に問われることはないが帰還後の処置は覚悟しておくように」
「はい」
消え入りそうな返事のモルに何人もの団員が同情の眼差しを送ったが声をかけることはできなかった。敵前逃亡は重罪だ。もっとも誰も実際に敵前逃亡をなした者がどんな罰を与えられたのかテンプルナイトが知らされることはない。ローディス教国の状況が、いままでそのような状態に陥った者を生み出さなかったこともあるし、たとえいたとしても人知れず処理されてしまうだろうからだ。
「みんな、そんなに気落ちすることはない。今日は、こちらが6人だったし皆から離れていたから援護が追いつかずに一方的にしてやられたんだ。我々は100人近くいる。いくら奴とて一度に100人も相手できるものではないだろう?」
団長の言葉に皆は顔を見合わせた。
「今日の夜営は、いつもより厳重にするんだ。それとトゥーラたちは小屋を使うといい。良い場所がないからと離れたところに集まらせたのは悪かったな」
「承知しました」
それから間もなく花火が打ち上げられたが彼らもだいぶゼノビア領に下がってきた。ヒルシュ=メーリングが見られるとは思われなかった。
女性たちが小屋に入ると確かに、その遠さが浮き彫りになった。それは彼らに援護が届かなかったのも仕方がないと思わせるだけの距離があった。何しろゼノビアの英雄の襲撃は、わずかな時間のことだ。
だが冷静になって考えて見ると、駆けつけられない距離にも思えなかった。弓ならば確実に届いたが乱戦では使いづらい。それでも援護できなかった距離とも思われない。武装を解いていなかったから動きが鈍ったとは気の利かない言い訳だ。
その夜、ゆっくり身体を休められた者は多くなかった。夏とはいえ高地の気温はだいぶ下がったし、横になって休める場所は少ない。夜営の割り当ても前日までの4倍に増やされ、交替する時間は短くなったが立つ者は多くなった。それに、これほど過酷な遠征を紫狐騎士団は体験したことがなかったからだ。
彼らがゼノビア領に入ってから6日目が過ぎようとしている。ほとんどの者が訪れたことのない敵地での遠足気分はとうに吹き飛んだろうが、終わりのない緊張感は、いつか切れるものだ。
皆が皆、油断していたわけでもなかったろうが翌日の出来事は、その象徴のようなものであった。
聖暦67年闇竜の月10日、ナルヴァ=ビュヒナー、ゼノビアの英雄により負傷。
その日の進軍は特に足下が悪く、短い距離を登ったり下りたりさせられ、何度も亀裂を迂回しなければならなかった。身軽な格好でいれば飛び越えられそうな裂け目も重装備の身では障害となる。それでも誰一人として装備を解こうと言い出さないのは昨日、ゼノビアの英雄と遭遇したからにほかならなかった。
けれども苦心惨憺しながら進む彼らに彼女が襲いかかってくることはなく、遠目に監視しているだけだ。
だが夕方になって今日は野宿かと皆が覚悟したころ、それは突然、彼らの前に現れたのだった。
「団長!」
すでに木立の高さは彼らの背を超えていた。その1本に吊るされた者がいたのだ。
団長のほかに副団長や古参の団員が駆け寄った。
「ナルヴァじゃないか!」
「いつの間にこんなことに?」
「詮索は後だ、先にビュヒナーを下ろしてやれ。
モシェンスキ、傷を負わされているかもしれない。ビュヒナーの様子を診てくれ」
「承知しました」
鎧を着ていては木に登れない。それでラチェット=リヴォフが武装を解いて木に登り、ナルヴァ=ビュヒナーを解放した。皆がそのあいだ、見張りに立つ。
下ろされた若者は気絶しているようで解放されても反応がなかった。だが見たところ外傷はなく、武装を完全に剥奪された以外には異常もない。ロジキン=モシェンスキの報告も、そのようなものであった。
副団長は再度、武具を身につけた。
「ビュヒナーの隊の小隊長は誰だ?」
「自分です」
手を挙げたのは古参の団員のエッセン=ミュールベルガーだ。
「ビュヒナーの単独行動に気づかなかったのか?」
「申し訳ありません。皆とともにいるものだとばかり思って確認を怠りました」
「貴公の監督不行き届きだな。ビュヒナーが負傷させられなかったのは幸いだが単独行動は慎むよう厳命していたはずだ」
団長の言葉に班長らが目配せを交わした。
するとナルヴァ=ビュヒナーが目を開けた。彼は一瞬、何があったのかわからなかったようだが、すぐに気づいたらしく傍目にも、はっきりとわかるほど震え出した。
「皆は野営の準備を始めてくれ。リヴォフだけ残ればいい」
それで集まった者たちは散っていった。なかには若者の話を聞きたそうにしていた者もいたが、どうせ愉快な話ではないのだ。そうでなくても皆が聞き耳を立てているだろうし、団長は副団長だけ残したのだった。
「何があったのか覚えている限りで話してもらおう。貴公はゼノビアの英雄に襲われたのだろう?」
「はい」
消え入りそうな声で彼が頷く。
「単独行動をとった理由は訊ねまい。だが装備を全て奪われたのはまずかったな」
「団長、ナルヴァの装備ですが、エッセンが発見したそうです」
「まだ使えるのか?」
「剣は折られていましたが鎧は無事です。身につけさせますか?」
そう言ったラチェット=リヴォフの手元には、すでにナルヴァ=ビュヒナーの鎧一式が揃っていた。
「話が終わってからでいいだろう。
続きを話したまえ、ビュヒナー」
「用を足したかったんです。自分は列の後方を歩いていたけど、先の道は難儀していたし、すぐに列には戻れると思ったんです」
「それで?」
「みんなから離れて用が済んだと思ったら背後から奴に襲われました。面頬を開けていたので口をふさがれてしまい、声も出せませんでした。それから後は気絶させられたので覚えていません」
皆の手が、また動き出した。若者が肝心要のところを覚えていないと言ったもので耳をそばだてていてもしょうがないと判断したのだろう。
「背後からということは奴の姿は見なかったのではないのか?」
「そのとおりです」
「それなのに、なぜ、奴の仕業だと断定できる?」
「だって我々を襲うような奴はほかにいないんじゃないんですか? そ、それに剣も折られていたっていうことですし、仲間の仕業だとは思えません」
「リヴォフはどう思う?」
「同じ団員による悪戯、もしくは懲らしめの可能性もまったく否定はできませんが状況的に奴の仕業だと考えるのが妥当だと思われます」
「その状況とは何だ?」
「皆に気づかれずにナルヴァを吊るすなど誰にでもできることではありません。ゼノビアの英雄と呼ばれるほどの人物ならば、もしやとも思います」
「なるほど、一理あるな。だが愉快な話でもない。このまま先へ進めば我々は1人ずつ奴に吊るされかねないというわけか?」
「そうは申しません。ナルヴァのとった単独行動が奴につけいらせるきっかけを与えたのでしょう。今一度、単独行動は慎むよう皆に徹底させるべきです」
「わかった。この件でミュールベルガーを責めることはするまい。リヴォフの言ったとおり、皆は単独行動を決してとらぬよう気をつけたまえ。どんな用事でも1人では行動するな」
「承知しました」
エッセンが率先して返答し、ほかの団員たちにも抜かりなく伝えられたようだった。
「班に戻りたまえ、ビュヒナー」
「はい」
副団長は、まだ何か言いたそうに団長を見たが彼は黙って首を振った。
班に戻った若者は早速、皆に質問攻めにされていたが彼は「覚えていない」と一蹴した。実際、彼の言うとおりならば、それが事実なのだろう。
ナルヴァ=ビュヒナーは紫狐騎士団に入団して、まだ1年足らずの若手だ。彼の経験のなさから言っても相手が相手だけに無理もないと考える者も多かろう。
だが実際に団でも最古参のボリス=マカリーやゴーリン=サルピンカが彼女に遭遇した時に、彼と同じ目に遭わされないとは言い切れないのだ。
しかし、そんな話を皆の前でするわけにはいかない。彼らはまだゼノビアの英雄と、まともに戦ってさえいないのだ。彼女がどれほどの力を持っていようと戦う前から怯んでいたのでは話にならない。恐れは人の目を曇らせ、実力を発揮できなくさせる。仮定の話さえするべきではなかった。
聖暦67年闇竜の月11日、紫狐騎士団、3軒目の山小屋を見つける。
聖暦67年闇竜の月11日、紫狐騎士団は3ヶ所目の山小屋を見つけた。前の2軒に比べると小屋も大きく、10人ぐらいは楽に泊まれそうだ。使われる頻度も高いらしく、薪と毛皮、卓と椅子、それに暖炉には冷め切っていたが料理の入った鍋までかかっていた。驚いたことに曲刀も一振り、隅に立てかけられており、それが誰の物かは言うまでもなかった。
「団長、ここはいままでの小屋と違いますね」
「奴が拠点にしていそうな備えだな」
「破壊しますか?」
「それは止めておこう」
「ですが奴が怒りで冷静さを失うこともあり得るのでは?」
「マカリーには奴が、そんな凡人に見えたのか?」
「そういうわけでもありませんが、何しろ相手はゼノビアの英雄です、できることをしておいてもいいのではないかと思っただけです」
「効果はなさそうだから止めよう。それに、この小屋は何度も建て直されているようだ。こんな小屋が破壊されたところで奴には痛くも痒くもないのだろう。その曲刀を持ち去ったところで奴が別の武器を持っていないとも限らないしな」
「そうですか」
「それよりもだいぶ下ってきた。そろそろ奴が何か仕掛けてくるかもしれない。皆に改めて警戒を強めるよう言い渡してくれ」
「承知しました。ですが団長は、このままでいいとお考えなんですか?」
「どういう意味だ?」
「いくらナルヴァの経験が浅いと言っても実践慣れしていないことは皆、似たようなものだ。いまのままで奴に勝てると団長は思っているんですか?」
小屋の中を重苦しい沈黙が支配した。その場にいるのは団長、副団長に古参の団員ばかりだ。
「だからといってマカリーは奴に白旗を揚げろと言うのか?」
「それも選択肢の一つでしょう」
「おめおめと三等級市民への降格を受け入れると? よもやと思うが貴公ら全員が同意見なのか?」
「相手はあのゼノビアの英雄です。それなのに十四騎士団の一つも出さずに我々に解決しろとズィエロ公は命じられた。上層部の本音はいま、ゼノビアと事を構えたくないというより十四騎士団がゼノビアの英雄に敗北することを恐れているのではありませんか? 6年前、パラティヌスやニルダムをむざむざ独立させたように」
「それ以上の発言は御法度だ、上層部への批判同様にな。マカリー、わたしに軍事法廷など開かせてくれるなよ。それにすでに言ったがニルダムの独立を奴に負わせるのは勝手だがドラゴンハーティドはパラティヌスの革命軍が予想以上の強さでニルダムまで手が廻らなかったのが事実だ。奴を怪物化しすぎるな。貴公らがそれでは奴と対峙した時が思いやられる」
また沈黙が下りた。
「わたしは貴公らに奴を恐れるなと言いたいのではない。ただ奴を過大評価しすぎるなと言っている。それは難しいことなのか?」
「ゼノビアの英雄1人のせいでクールマイユール山脈への入山がいくつかの例外を除いて禁止とされたほどですからね。奴の力を警戒してもしすぎることはないのではありませんか?」
「まぁ、待ってください、それでは話はいつまでも平行線をたどるばかりですよ」
「では訊くが貴公はゼノビアの英雄の力に恐れを抱いていないと言うのか、サルピンカ?」
「恐れを抱かぬわけがありません、何しろあのゼノビアの英雄ですからね。だけどそれ以上に好奇心が募るんです」
「ならば貴公を先鋒に廻しても文句はないな?」
「ゼノビアの英雄が相手では自分では力不足かもしれませんが精一杯、務めましょう」
それで彼らは小屋を出た。皆はとっくに野営地を築き終わっていたが昨日の襲撃を鑑みて武装を解いた者はいなかった。
けれども彼らの警戒も空しく、その日、ゼノビアの英雄の襲撃は行われなかった。
彼らは明るいうちに周辺を捜索したが彼女の姿は見つからず、その気配は完全に絶たれていたのだった。
聖暦67年闇竜の月12日、紫狐騎士団、ゼノビアの英雄と4度、接触するも団長を始め、大勢の死傷者を出し、壊滅的な打撃を被る。
負傷者名 オゼロフ=デミャネン、メデム=スヴァールキ、ルナン=チェレヴァーリン、リーベル=プロコボチ、ラーリン=ゴマルテリ、マルガル=チーグロフ、グセフ=ケツホヴェリ、イヴァンシン=ネフソロフ、ヤコビー=ムロムツェフ、リービッヒ=エーシチン、ダネヴィチ=ミリューチン、クラウキ=ノシッヒ、レイキン=カルーガ、イーン=ペロフスカ、モル=ミトロファノフ、コンラード=ユイスマンス、ブラッケ=デーリッチ、イクス=ロジャニコ、ルンケヴィチ=オブルーチェ、ニジニー=ドブロリューボ、アニキン=ハインドマン、ゲイデン=ヒジャニコフ、オガリョフ=ソロヴィエ、ヴィッテ=ツルキッゼ、ギールケ=ネボガートフ、チェフニコフ=ラーゲルマルク、ルーゲ=ゲフテレテ、セロ=メシチェリャコフ、ユージン=ゼムリャチカ、レッケルト=カレーエフ、アルシン=ソルモヴォ、ナケ=ソロヴェイ、グレヴィチ=ヒルファディング、ウルソフ=ソバケ、ツィリン=キゼヴェッテル、モスト=レヴィツキ、シュラム=ツェレテリ。
死者名 ゲルツェン=タンボフ、セドレツ=ストルヴェ、ノヴゴロ=チチェリン、ベレベイ=ゴルデエンコ、マホフ=ユドゥシカ、アゼフ=ノズドリョ、ニキーチチ=ムラヴィヨフ、ヤクシキン=ビュルゲル、サブリナ=ニキフォロ、イサーリ=ナデジヂン、オラール=ホーフシュテッター、クリューズ=ノヴォシリツ。
「団長、あれを!」
その言葉に誰もが副団長の指さした方を見やった。そこに立っていたのは彼らをつけ狙うゼノビアの英雄だった。彼女は、いままでもそうだったように何の表情も浮かべてはいない。ただ彼らを見下ろし、今回は、どんなちょっかいを出すのかとシュラム=ツェレテリが思った刹那、素早く駆け下りてきたのだった。
「囲め! 奴を逃がすな!」
ただちに密集隊形がとられ、鎧や楯同士がぶつかり合う音が響いた。
彼女は素早く短刀を振るったが鎧は刃をはじき返す。
だが互いに伸ばした手はゼノビアの英雄ではなく戦友を捉えた。彼女が彼らより高く飛び上がったからだ。
紫狐騎士団は、たちまち団子になって倒れ、1人2人が下敷きになり、足蹴にされた。
さらに彼女が彼らを踏んづけていったので、また何人か倒された。皆は混乱しかかっていた。そこに団長の鋭い声が飛ばねば、そのままちりぢりになっていてもおかしくないほどだった。
「陣形を整えろ!」
皆の反応は悪くなかった。矩形の陣形を直そうと倒された者も立ち上がり、武器を構える。
しかしゼノビアの英雄の動きは彼らを遙かに上回っていた。
先行したイヴァンシン=ネフソロフとヤコビー=ムロムツェフが兜ののぞき穴から剣を刺されて、叫び声を上げて倒れた。
続いたヴィッテ=ツルキッゼとギールケ=ネボガートフは剣を登られ、後頭部を蹴られたために斜面を転がり落ちた。
その真後ろにいたオガリョフ=ソロヴィエとユーヂン=ゼムリャチカは突然、視界から2人が失せたことに驚き、自ら足を踏み外した。
転がっていくオガリョフとユーヂンを飛び越えてニキーチチ=ムラヴィヨフの肩に乗ると、鈍い音がして兜があらぬ方向に転がり落ち、彼の首もおかしな方向に曲げられていた。隣のサマラ=メンゼリンが悲鳴を上げる。
ゼノビアの英雄はサマラの剣を取り上げると彼女を突き飛ばした。投げられたそれはチェフニコフ=ラーゲルマルクの兜に刺さり、次の瞬間にはヤクシキン=ビュルゲルの首をひねっている。さらにヤクシキンの剣がイーン=ペロフスカに飛んで刺さったと思う間もなくナケ=ソロヴェイを蹴倒していった。
次いでオゼロフ=デミャネンの兜に短刀の柄が喰らわされ、大きく歪んだ。鈍い音がしたのは鼻でも潰されたからなのだろう。兜の下から血が滴った。尻餅をついたオゼロフの剣を奪うと、隣のコンラード=ユイスマンスの兜に突き刺す。
剣を掲げたセドレツ=ストルヴェとセロ=メシチェリャコフは足を払われ、斜面を転がり落ちていった。
それでも残った者が、また彼女を包囲する。背後から襲いかかったのは紫狐騎士団一の巨躯で力持ちのベレベイ=ゴルデエンコだった。両腕で腕ごと胴を締めつければ、さしものゼノビアの英雄も逃げられないと思われたが彼女は易々と腕を引き抜くと逆にベレベイの首を両腕で絞めた。
背中に目でもあるのかと思うような動きに皆の動きが止まる。
独りだけ動いたのはベレベイと仲の良かったツィリン=キゼヴェッテルだ。しかしベレベイもろとも刺そうとしたゼノビアの英雄は逆に刃の届く前にツィリンに蹴りを食らわし、彼は血反吐を吐いて10数バス(数メートル)も吹っ飛ばされた。
と同時に骨の折れる鈍い音がしてベレベイが力なくくずおれる。無造作に投げ捨てられたベレベイを皆は慌てて避けねばならなかった。
と思う間もなく彼女は次の標的をモスト=レヴィツキに定めていて短刀の柄が鎧の腹にたたき込まれる。その勢いたるや吹っ飛ばされたモストの鎧は大きく凹んでおり、彼は腹を抱えて悶絶したほどだ。
モストを助けようとしたサブリナ=ニキフォロは、ただちに兜に短刀の柄をたたき込まれて倒れた。首があらぬ方向に曲がっている。
ゼノビアの英雄は、まだ止まらない。
サブリナを飛び越え、及び腰になっていたアゼフ=ノズドリョに蹴りを喰らわすとアゼフはたまらず転げ落ちていった。
しかも、いつの間に抜いたのか剣を二振り、モル=ミトロファノフとレイキン=カルーガに投げつける。剣は吸い寄せられるかのように兜ののぞき穴に突き刺さり、2人は悲鳴を上げた。
この時になると皆は腰が引けつつ、団長を守ろうと集結していたが彼女にとってはいい的でしかなかった。
マルガル=チーグロフは剣こそ構えていたが、ろくに斬り結ぶこともなく短刀の柄を正面にたたき込まれて悶絶した。兜の下から緩慢に血が滴る。
マルガルの背後にいたグセフ=ケツホヴェリはマルガルの剣を兜ののぞき穴に突き刺された。
そのグセフの剣が脇にいたイサーリ=ナデジヂンの顎に突き刺さる。首を動かしたわずかな隙を狙ったのだろう。
倒れてゆくイサーリの剣は隣にいたゲルツェン=タンボフの兜に突き刺さっていた。
4、5人の者が一斉に飛びかかったが彼女の足払いを喰らい、メデム=スヴァールキとグレヴィチ=ヒルファディング、オラール=ホーフシュテッターが転げ落ちていった。
ニジニー=ドブロリューボとゲイデン=ヒジャニコフは堪えたが、それぞれ彼女に頭を押され、斜面に飛び込まされるような有様だ。
そして、いつの間に奪われたのかニジニーとゲイデンの剣がアルシン=ソルモヴォとルナン=チェレヴァーリンの首に突き刺されている。2人の剣も奪われ、クラウキ=ノシッヒとブラッケ=デーリッチの兜に刺された。クラウキもブラッケも団長よりも、ずっと後ろにいたのに、だ。
腰が引けたリーベル=プロコボチにゼノビアの英雄が襲いかかる。手首を捕まれ、後方に投げられただけで彼は斜面を転がり落ちていった。
その隣にいたレッケルト=カレーエフは無茶苦茶に剣を振り回したが軽く避けられ、こちらも後方に投げられた。
とうとう背を向けたノヴゴロ=チチェリンに剣が投げられ、狙い過たず兜と鎧の境に刺さる。
ノヴゴロの剣は後ろのクリューズ=ノヴォシリツに投げつけられたが兜ののぞき穴を手で隠した彼の鎧に跳ね返された。そうと気づくと彼女はクリューズの首根っこを押さえ、たちまちその首をへし折った。
逃げ出したマホフ=ユドゥシカの首を後ろから折り、アニキン=ハインドマンの後頭部に短刀の柄をたたき込む。
倒れたアニキンの剣はイクス=ロジャニコに投げられ、兜ののぞき穴に刺さった。
たまらず顔を隠したウルソフ=ソバケだったが無防備な腹を短刀の柄で狙われ、悶絶する羽目に陥った。
かといってルーゲ=デフテレフら4人で襲いかかっても、まったく相手にされずに足を払われるか腕を取られて投げられるか、だ。
さらに彼女が四振りの剣を投げ、ルンケヴィチ=オブルーチェ、ラーリン=ゴマルテリ、ダネヴィチ=ミリューチン、リービッヒ=エーシチンを倒すと団長の周りには、とうとう誰もいなくなってしまった。
団長は剣を抜いていたが彼女は意にも介さずに近づき、剣を取り上げた。
「負傷者を連れてベニスエフ峠の向こうに撤退するがいい。死者は葬ろう。だが療養は許さない」
何の感情もうかがわせない声音だった。
「私と戦いたければ十四騎士団の一つも連れてくるのだな。あなたたちの相手は、もう飽き飽きだ」
「藪から棒に何を言い出す?」
「あなたたちの騎士団の半数の者が倒れた。全滅するまで戦うつもりか?」
「貴公の首級を上げられなければ、どうせ騎士団解散か三等級市民への降格だ。ならば名誉の戦死を遂げた方が、せめて名も上がるというものだ!」
そう言うや否や団長は彼女の両腕を捕まえた。
「ゼノビアの英雄を殺せ! わたしのことなど気にするな!!」
だが、その言葉に反応したのは副団長のみで、それも簡単にはねのけられたし団長の拘束も長いものではなく、逆に馬乗りになられた。
「何をする?!」
団長の靴が剥ぎ取られ、鋼鉄製のそれは音を立てて斜面を転がっていく。
夕陽に刃が煌めいた。
「ぎゃあああああ!!」
団長の耳をつんざくような悲鳴も長くは続かなかった。副団長とゴーリン=サルピンカが駆けつけるより速く、ゼノビアの英雄が飛びすさる。
彼女は手にした物体を無造作に放り投げた。それが一撃で切り離された団長の左足だったと皆が気づくには、いくらかの時間が必要だった。
「まだ戦うか?」
抑揚のない声が響く。
だが団長は気絶している。その判断ができるのは副団長しかいなかった。ラチェット=リヴォフの沈黙に彼女は、さらに言葉を続けた。
「戦う気のある者はかかってくるがいい。そちらが望むなら、いいだろう、力の差を思い知らせてやる」
そう言うと彼女は短刀を突き出した。
「やめろ!」
しかし皆が動き出す前に副団長が制した。
「我々の負けを認める。
負傷者を連れてチェルヌイシェフ基地に戻る」
「しかし、それでは任務放棄と取られかねません」
「彼女の言うとおり全滅したいのか? 力の差は歴然としている、これ以上の戦いは無意味だ。団長と上層部には自分が報告する。
ボリス、ゴーリン、エッセン、各々、2名を連れて負傷者と死者の確認に行ってくれ」
それから彼は彼女に向き直った。
「療養は許さないと言ったが、もうじき日も暮れる。怪我人を連れて夜間に山を登るのは無理だ。その小屋で朝まで休ませてくれ」
「いいだろう」
「ウファ、ロジキン、トゥーラ、負傷者の確認と報告、それに手当を。助手に各々、2名使っていい。
残りの者は負傷者を小屋に運び入れる」
真っ先にボリス=マカリー、ゴーリン=サルピンカ、エッセン=ミュールベルガーが、それぞれ2人の騎士を選び出したので皆の抵抗は、ほとんどなかった。副団長の指示に動き出し、ウファ=アルハンゲリ、ロジキン=モシェンスキ、トゥーラ=ネミロにより負傷者の確認、手当、それに死者の報告が手分けして進められていく。
戦いと言うには、あまりに一方的なものだった。なにしろ相手は無傷だというのに、こちらは49人もの死傷者を出したのだ。たとえ最後の1人まで戦ったところで、かすり傷一つ負わせることはできなかっただろう。
聖暦67年闇竜の月13日、紫狐騎士団、チェルヌイシェフ基地へ退却。アルシン=ソルモヴォ、死去。
翌闇竜の月13日早朝、ラチェット=リヴォフが小屋を出るとゼノビアの英雄は外に立っていた。昨日、何もできずに放置した遺体は、いつの間にか埋められ、土饅頭が12も並んでいる。朝の空気は清々しいが高地のせいか、少し肌寒さも感じる。
「皆を埋葬してくれたのか?」
「私の仕業ではないがな」
「ありがとう。我々の手には負えなかっただろう。我々は団長が目を覚ましたら発つつもりだ」
彼女は頷いた。もっとも、ここでお別れということにはなるまい。自分たちがソハーゲ峠を越えるまで監視は怠らぬはずだ。ソハーゲ峠を越えた時から、ずっと彼女に見張られていたように。
彼の背を冷たい汗が流れた。ゼノビアの英雄という二つ名を団長以下、自分たちが、いかに軽く見ていたかに思い至ったからだ。十四騎士団を出さぬわけにも納得がいった。自分たちは最初から何も期待されていない、ただの捨て駒だったのだ。彼は改めて、この遠征の無謀さを感じずにいられなかった。
やがて皆が起きてきたが狭い小屋では、ろくに休めなかったのだろう、怪我人の憔悴が酷かった。さらに何人かの者がチェルヌイシェフ基地へ帰還する途中で倒れるかもしれない。だが彼女は「療養は許さない」と言った。それを撤回することはあるまい。
「ラチェット、団長が目を覚まして、おまえを呼んでいる」
「いま行く」
小屋に入ると血と体臭の臭いが混ざり合って一瞬、中に入るのを躊躇うほどだった。
それでも彼は意を決し、いちばん奥に横たえられたシュラム=ツェレテリに近づいていった。青ざめた顔をしているが、いつもの様子に見える。
「我々は負けたのだな?」
開口一番は思わぬ台詞だった。
「はい。教皇猊下よりお預かりした団員を、これ以上、失うわけにはいかないと判断し、彼女の降伏勧告を受け入れました」
「何人殺されたのだ?」
「12人です。負傷者は団長も含めて37人になります。ゼノビアの英雄の手の者が亡くなった者を埋葬してくれたようですが彼女は負傷者がゼノビア領で療養するのは拒絶しました。我々は急ぎチェルヌイシェフ基地に戻らなければなりません」
「そうか。ならば皆に退却を開始するよう伝えてくれ」
「承知しました」
それで彼はいったん団長の傍を離れた。
しかし負傷者のなかには自力で歩けない者もいる。彼らを運ぶための担架さえ、こんな山の中では作るのも難しく、一台しかできていなかった。
それでも半数の者は無傷だったわけだから皆は手分けして負傷者に手を貸し、背負っていった。その際、余計な重量でしかない武具類はうち捨てられた。1台の担架は団長のために残されたのだ。
だが、そのうちの何人かは基地にたどり着けずに死ぬだろう。その遺体を運ぶことも彼らはできないに違いない。野ざらしにされないだけましとはいえ、地理も不案内な敵国に葬られるとは思いも寄らなかったことだろう。
それで皆が小屋を出ていく慌ただしさのなか、副団長はボリス=マカリーを連れて団長のところに戻った。
「団長、指示は終わりました。退却の指揮はゴーリン=サルピンカに任せました。団長は担架にお乗りください」
「いや、その前にしなければならないことがある。皆の墓は近くにあるのか?」
「はい」
「弔いたい。肩を貸してくれ」
「それよりもボリスに背負われた方が良いのではありませんか?」
「いや。部下とはいえ弔うのに人の背中からでは格好がつくまい。手を貸してくれ」
それで彼とボリス=マカリーが左右から肩を貸し、3人は揃って小屋を出た。ボリスを残したのは団長とも副団長とも背格好が似通っていたからだ。
ゼノビアの英雄は土饅頭の傍に立っていた。夜のあいだに亡くなったアルシン=ソルモヴォの遺体は、まだ葬られてもいない。
しかし誰も、それを振り返る余裕はない。ゴーリン=サルピンカさえ、滅多に負わされぬ大役に緊張した顔つきで皆を先導していった。
右を支えていたボリス=マカリーが外れ、シュラム=ツェレテリは光焔十字を取り出した。それからしばらく団長は十字架を掲げ、祈りを捧げていた。
皆の声が聞こえなくなったころ、祈りは終わった。
そのあいだにボリス=マカリーが即席の担架を運んでき、団長を乗せる。
歩き出してラチェット=リヴォフは赤狐騎士団も似たような道をたどったのだろうかと思った。いや、退却する彼らをゼノビアの英雄は、さらに追い、血祭りに上げた。その恐怖は自分たちの比ではなかったろう。
聖暦67年闇竜の月14日、紫狐騎士団員ウルソフ=ソバケ、死去。
聖暦67年闇竜の月15日、紫狐騎士団員ツィリン=キゼヴェッテル、死去。
聖暦67年闇竜の月17日、紫狐騎士団、ソハーゲ峠越え。
聖暦67年闇竜の月18日、紫狐騎士団、チェルヌイシェフ基地着。療養の必要のない者はマンドルへ帰還さす。モスト=レヴィツキ死去。
真っ先にチェルヌイシェフ基地に着いたゴーリンはミルラ=リッティングハウゼン、レーヴィン=モロチャーリン、タジリーダ=エンゲルガルトの3人の治療師を次々に訪問し、助力を請うた。
しかしモスト=レヴィツキのように基地に着いた安堵感から命を落としてしまう者もおり、負傷者の様子は予断を許さなかったが、それでも3人の手当の甲斐もあって残りの者は生き延びたのだった。もっとも団長も含めた負傷者33人のうち、後年、騎士に復帰できた者は、わずか7人で、それ以外の者は騎士を続けることはできなかったのである。
一方、団長、ボリス=マカリーとともに最後に基地に着いたラチェット=リヴォフは団長に付き添って一人、待機していたヒルシュ=メーリングに報告した。
「無様だな、シュラム=ツェレテリ」
「ヒルシュ殿には面目次第もございません」
「だが赤狐騎士団に続いて紫狐騎士団まで壊滅とあらばアンドロマリウスさまも納得されよう。貴公らは養生に励むが良い」
「我らは三等級市民への降格処分となりましょうか?」
「それはアンドロマリウスさまだけで決められることではない。追って沙汰を待つのだな」
「ヒルシュ殿に、またこのような辺境までおいでいただくのは申し訳なく思います。同行させていただくわけにはまいりませんか?」
「貴公がガリウスまで来ると言うのか?」
「お許しがいただければですが」
「よかろう。そこまで言うのならズィエロまで来るがよい。それ以降のことはアンドロマリウスさまにご判断いただく」
「ありがとうございます」
「では明日、発つぞ」
「承知しました」
ヒルシュ=メーリングが出ていくとラチェット=リヴォフは改めてシュラム=ツェレテリに向き直った。
「団長、無傷、もしくは軽傷で済んだ者たちを明日にでもマンドルへ帰らせてはいかがでしょうか? この基地周辺で怪我人も含めて80人以上が過ごすのは限界があります」
「うん、そうだな。だが、いちいち自分の許可を得る必要はない。自分は、いまや自由に動けぬ身だ、貴公が紫狐騎士団の指揮を執ってくれ」
「ですが皆への通達は団長から仰っていただけませんか? その方が皆も納得しやすいでしょう」
「わかった。だが後のことは紫孤騎士団団長として貴公に一存する」
「承知しました」
それで副団長は部屋を出て、ボリス=マカリーやゴーリン=サルピンカを初めとする無傷の者たちを2、3人ずつ呼びに行った。
しかし皆に説明をしたのは、ほとんど彼で団長は一言「ご苦労だった」と言ったきりだ。
それでも彼の負った傷の重さを思ったのか皆は異論を挟まず、たいがいの者は1人で、なかには2人3人と連れ立ってマンドルへと発ったのである。
「それでは明日、ヒルシュ=メーリング殿に従ってズィエロへまいります。団長は、どうか療養に専念なさってください」
「すまないな、貧乏くじを引かせることになって」
そう言ったシュラム=ツェレテリは、ようやくわずかな笑みを浮かべたが、それもすぐに消えてしまうような弱いものであった。
聖暦67年闇竜の月19日、ヒルシュ=メーリング殿、ラチェット=リヴォフ、マンドルを経由してズィエロへ発つ。
オゼロフ=デミャネン、メデム=スヴァールキ、ルナン=チェレヴァーリン、マンドルへ発つ。
聖暦67年闇竜の月20日、リーベル=プロコボチ、ラーリン=ゴマルテリ、マルガル=チーグロフ、マンドルへ発つ。
聖暦67年海竜の月4日、グセフ=ケツホヴェリ、イヴァンシン=ネフソロフ、ヤコビー=ムロムツェフ、リービッヒ=エーシチン、ダネヴィチ=ミリューチン、クラウキ=ノシッヒ、レイキン=カルーガ、イーン=ペロフスカ、モル=ミトロファノフ、コンラード=ユイスマンス、ブラッケ=デーリッチ、マンドルへ発つ。
聖暦67年海竜の月5日、ヒルシュ=メーリング殿、ラチェット=リヴォフ、マンドル着。マンドル所領主ベーベル=スヴォーリン殿に事件の顛末をご報告。
イクス=ロジャニコ、マンドルへ発つ。
聖暦67年海竜の月6日、ヒルシュ=メーリング殿、ラチェット=リヴォフ、マンドルを発つ。
聖暦67年海竜の月14日、ルンケヴィチ=オブルーチェ、マンドルへ発つ。
聖暦67年海竜の月16日、ヒルシュ=メーリング殿、ラチェット=リヴォフ、ズィエロ着。ズィエロ公アンドロマリウス=シェリンスキ殿に事件の顛末をご報告。
聖暦67年海竜の月17日、アンドロマリウス=シェリンスキ殿、ラチェット=リヴォフに紫狐騎士団への処分を伝える。
団長シュラム=ツェレテリ、副団長ラチェット=リヴォフ、三等級市民へ降格。
他の団員は1年間の騎士団入団を禁止。
ラチェット=リヴォフ、マンドルを経由してチェルヌイシェフ基地へ発つ。
聖暦67年海竜18日、ニジニー=ドブロリューボ、アニキン=ハインドマン、マンドルへ発つ。
聖暦67年海竜の月22日、ラチェット=リヴォフ、マンドル所領主ベーベル=スヴォーリン殿に紫狐騎士団への処分についてご報告。ラチェット=リヴォフ、チェルヌイシェフ基地へ発つ。
聖暦67年黒竜の月2日、ラチェット=リヴォフ、チェルヌイシェフ基地へ帰還。残っていたシュラム=ツェレテリに処分について報告。
聖暦67年黒竜の月3日、元紫狐騎士団団長シュラム=ツェレテリ、マンドルへ発つ。
聖暦67年黒竜の月4日、ゲイデン=ヒジャニコフ、マンドルへ発つ。
聖暦67年黒竜の月10日、オガリョフ=ソロヴィエ、マンドルへ発つ。
聖暦67年黒竜の月15日、ヴィッテ=ツルキッゼ、マンドルへ発つ。
聖暦67年黒竜の月16日、ギールケ=ネボガートフ、マンドルへ発つ。
聖暦67年黒竜の月17日、チェフニコフ=ラーゲルマルク、マンドルへ発つ。
聖暦67年黒竜の月18日、ルーゲ=ゲフテレテ、マンドルへ発つ。
聖暦67年黒竜の月19日、セロ=メシチェリャコフ、マンドルへ発つ。
聖暦67年黒竜の月20日、ユージン=ゼムリャチカ、マンドルへ発つ。
聖暦67年黒竜の月21日、レッケルト=カレーエフ、マンドルへ発つ。
聖暦67年黒竜の月22日、サムィリン=シターケリベルグ、マンドルへ発つ。
聖暦67年黒竜の月23日、ナケ=ソロヴェイ、マンドルへ発つ。
聖暦67年黒竜の月24日、グレヴィチ=ヒルファディング、マンドルへ発つ。
聖暦67年双竜の月1日
ラチェット=リヴォフ、チェルヌイシェフ基地を去る。ここに「クールマイユールの魔女」事件の正規の記録を終える。
だが「クールマイユールの魔女」事件の裏でローディス教国上層部に以下のような動きがあったことを紫狐騎士団の誰一人として知る者はなかった。
「ズィエロ公アンドロマリウス=シェリンスキと申します。ガリウス公ガープ=ガルフィンキェルさまに火急の用にてお目通り願います」
門番は胸元の光焔十字章に目をやり、一礼した。
「ただいま取り次いでまいります。しばし、こちらにてお待ちを」
彼が指し示した椅子に腰掛けて待っていると、門番とともに現れたのは仕立ての良い制服を着こなした執事だった。
「お待たせいたしました、アンドロマリウス=シェリンスキさま。どうぞ、こちらへお越しください」
ガープ=ガルフィンキェルの屋敷は特権階級だけが住むことを許されるガリウス第一街区のなかでは小さい方に入る。長年、ガリウス公を務め、彼に命令できるのはサルディアン教皇と枢機卿だけと言われる権力者にしては、その権力の大きさを反映するものはないも同然だ。屋敷内の装飾は簡素で絵画や彫刻の一つが飾ってあるでなし、召使いの数も10人に満たない。当人の書斎も机だけは大きく立派なものだったが華美と思われるような飾りはなかった。
「御館様、アンドロマリウス=シェリンスキさまをお通しいたしました」
「入っていただけ」
重々しく扉が開けられるとズィエロ公はガリウス公のほかに、もう一人、見たことがあるような人物がいることに気づいた。鎧こそ身につけていないが背に大剣を差した目つきも鋭い武人だ。
「ようこそ、ズィエロ公」
武人の正体を誰何する間もなくガープ=ガルフィンキエルが近づいてくる。
「お久しぶりです、ガリウス公。前にお会いした時よりも、また恰幅がよくなられたようですね」
「貴公こそ少し痩せたのではないか? まぁ、座ってくれ。ズィエロから火急の用とは、いったい何があったのだ? それと先に紹介しておこう。ファルクバルサラのイリヤー=ムーロメツだ」
「初めてお目にかかります。ズィエロ公を務めておりますアンドロマリウス=シェリンスキと申します」
武人は無言で会釈した。
それでアンドロマリウス=シェリンスキもガリウス公がファルクバルサラの最大の支援者であることを思い出した。ロスローリアン、ドラゴンハーティドなき後の十四騎士団中、最強との呼び名も高い騎士団である。その噂は団長に負うところが大きく、彼の実力はドラゴンハーティド最後の団長リチャード=グレンデルにも匹敵すると言われていた。
「それでは貴公の話を聞かせてもらおうか。わざわざズィエロから来たのだ、さぞ興味深い話なのであろう?」
彼にはイリヤー=ムーロメツの向かいの席を勧めるとガープ=ガルフィンキエルはその向かいに腰を下ろした。
ズィエロ公が「クールマイユールの魔女」事件について話し出すとガリウス公もファルクバルサラ団長も身を乗り出すようにして聞き、話が終わると、どちらからともなく顔を見合わせた。
「ズィエロ公、わしには、もう答えは出ているように思われるがな」
「ヴァガヴァンを動かさず、サアラブだけで事に当たれ、ということですか?」
「そうだ。いま、ヴァガヴァンを動かせば事はズィエロだけの問題では済まなくなる。なにしろ相手はゼノビアの英雄だ、十四騎士団を一つでも遣わせば結果的にゼノビアとの全面戦争になる。それだけは、いまは避けねばならんし、ガリウス公として認めるわけにもいかん」
「クールマイユールの魔女の正体がゼノビアの英雄と決まったわけではありませんが」
「我がローディスに楯突くような人物が2人も3人もクールマイユールのような田舎にいるわけがあるまい。それに聖暦65年の軍命のこともある、彼女以外の誰が考えられる?」
「しかし赤狐騎士団はともかく紫狐騎士団を見殺しにするのも心苦しく思います。せめて団長のヴォラック=ウィンザルフだけでも遣わすわけにはまいりませんか?」
「いかんいかん! ヴォラックを動かすのはヴァガヴァンを動かすのも同じこと、彼をチェルヌイシェフ基地にさえ遣わすわけにもいかん」
そう言って大げさに手を振ったガープ=ガルフィンキエルはアンドロマリウス=シェリンスキを招いて、ささやいた。
「それに、あまり大きな声でゼノビアの英雄などと触れ回ってくれるな。ここにいるイリヤーでさえ彼女と決着をつけたくて、うずうずしておるのだ」
だがファルクバルサラの団長は、ただ静かに座っているだけだった。「クールマイユールの魔女」の名が出た時に身を乗り出したことさえ嘘のように無関心に見える。
しかしガリウス公が彼の名を出した時、瞑目しているかに見えたのが一瞬だけ見開き、鋭い光を放ったことにもズィエロ公は気づいていた。
それも致し方あるまい。ゼノビアの英雄の首級を誰が挙げるのかは十四騎士団のデステンプラーならば来るゼノビアとの戦いにおいて、当のゼノビアとの勝敗以上に最大の関心事と言っても過言ではないからだ。このイリヤー=ムーロメツを初め、名だたるローディスの誇る猛者たちが彼女を狙っている。そんな人物が「クールマイユールの魔女」などという片田舎の事件で容易に首級が挙げられるようでは興ざめと言うほかはないだろう。
「いずれにしても下位騎士団の失態は上位騎士団の失態でもある。不用意に彼女を動かした責任は果たしてもらおう」
「承知いたしました」
それからガープ=ガルフィンキエルとアンドロマリウス=シェリンスキのあいだで当たり障りのない世間話に花が咲いた。ズィエロから滅多に動くことのないアンドロマリウスにはガープの持つ人脈の広さは得がたい情報源であったが「クールマイユールの魔女」事件の解決や、むざむざ壊滅に陥りそうな紫狐騎士団を救うのに役に立ちそうなものはひとつもなさそうに思われた。
それで、とうとう下がったズィエロ公は次の二人の会話は聞かずじまいに終わった。
「どちらにしてもこの件、彼女の思いどおりになったわけだな」
「サアラブひとつを犠牲にして奴に譲るのなら安いもの、閣下はそうお考えではありませんか?」
「だからといってゼノビアの英雄の思うがままでは癪(しゃく)に障るというのだ」
「今回は我らの負けを認めましょう。奴の欲するままに十四騎士団を動かさぬことだけでも通さねばなりますまい。ですがゼノビアと雌雄を決する時が来たらば、この借りは必ず返します」
「その時は頼むぞ、イリヤー」
だが後日、彼の知らぬところでガリウス公を訪ねてきた者があった。彼がディーミング公領に発った翌日、聖暦67年雷竜の月10日のことだ。
「わたしはマンドル所領主ベーベル=スヴォーリン、ガリウス公ガープ=ガルフィンキェル殿にお目通り願いたい」
「ズィエロ公を飛び越えて、わし直々に話とは何だ?」
ベーベル=スヴォーリンは、その場に平伏した。
「お願いです、ガリウス公の権限で十四騎士団を出動させてください!」
「もしや貴公、例の『魔女』事件の解決に十四騎士団を出せと申しているのではあるまいな?」
「そのとおりです。このままではサアラブは壊滅してしまいます、どうか十四騎士団の出動を!」
「ならん。この件についてはズィエロ公がサアラブにて解決せよとの命を下したはず、それが、たとえサアラブの壊滅に至ろうが十四騎士団を動かすわけにはいかん」
「なぜですか?!」
「十四騎士団を、わしの権限で動かせば、恐れ多くも教皇猊下や枢機卿の方々の意向に背くことになり、ガリウス公としての職権を逸脱してしまう。それに話を聞けば、赤狐騎士団には軍命違反の疑いもあるとのこと、こんな時に彼女を挑発した責任は上衣騎士団である紫孤騎士団に取ってもらう、そのための地方騎士団であろう」
「ならば、せめてイリヤー=ムーロメツ殿だけでも出してください。イリヤー殿ならばゼノビアの英雄にも勝りましょう」
「断る。イリヤーはファルクバルサラのデステンプラーたる身、たかが所領主の頼みで動かせるようなものではないと心得よ。それにイリヤーを動かすは十四騎士団を動かすと同義、教皇猊下も枢機卿の方々も現時点でのゼノビアとの交戦は望んでおられぬ。ガリウス公として先走った真似はできん。そもそもマンドル所公領主ならばヴァガヴァンの団長ヴォラック=ウィンザルフを望むのが筋というもの、貴公の言い分は破綻しておる。帰るがよい、ベーベル。貴公にできるのはサアラブの無事を祈ること、新しいサアラブの形を考えることだけだ」
マンドル所領主は力なく立ち上がった。
「お恨み申しますぞ、ガープ殿」
「何だと?」
「わたしは確かに、たかがマンドル所領主に過ぎず、本来ならばズィエロ公を介さねばガリウス公たるあなたさまとは話すこともできぬ下層の身、それでもサアラブを守ることに助力していただけなかったこと、お恨み申しますぞ」
「無礼な。たかが所領主の分際で、まだ未練がましく恨み言を吐くか。全ての所領に駐留する地方騎士団ごときのために十四騎士団を動かすわけにはいかん。ましてや地方騎士団の失態などでゼノビアと事を構えるなど許されるものではない」
「それがあなたさまの本音か?! これが恨みを吐かずにいられましょうか!」
「下がれッ! 下がれ下がれッ!!」
ガープ=ガルフィンキエルは呼び鈴を握りしめ、荒々しく鳴らした。
しかし彼の予想に反してベーベル=スヴォーリンは、それ以上の言葉を発せず、やがて来た召使いに付き添われて、おとなしく屋敷を出ていったという。
だがガリウス公とマンドル所領主のあいだには、しこりが残った。このことは後に思わぬ形でガープ=ガルフィンキェルの足を引っ張るのを、いまの彼は予想だにしなかった。
ローディス教国ズィエロ公領マンドル所領所属のサアラブ騎士団は、ここに壊滅した。
以後、ローディス教国はクールマイユール山脈越えのゼノビア侵略を断念せざるを得なかった。
最後の紫狐騎士団員ラチェット=リヴォフの行方は杳として知れない。
《  終  》
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