「醜きもの、汝の名は」

「醜きもの、汝の名は」

「お、俺をどこへ連れていくつもりだっ? 離せ、離してくれぇっ!」
「黙れ!」
グランディーナの一言に一瞬わめく声が止んだが、すぐに男は抵抗しだした。ゼテギネア帝国の元ディアスポラ大監獄、元副監獄長、それがついさっきまで男についていた肩書きだ。
しかしそれも解放軍との戦い、グランディーナとの直接対決によって奪われた。いま彼はただのシャルル=エイゼンシュタインという男に戻って、解放軍のリーダーに引きずられていく。だが傷つけられ、戦意を失ったとはいえ、元は剣士だった男だ。力任せに引きずっていくのも容易なことではなく、グランディーナの歩みはしばしば滞った。
「手伝いましょうか?」
見かねたアレック=フローレンスが声をかけたが、彼女はエイゼンシュタインの後頭部に一撃を喰らわしてから答えた。
「あなたに頼んだ仕事は囚人の解放だ。余計なことに気を回すな」
「申し訳ありません」
ようやく静かになった男を彼女は引きずっていく。
その一方で、ランスロットやカノープスを中心に大監獄の囚人たちが解放されているところであった。
大監獄の外に出ると、グランディーナは吐き気を堪えきれなくなった。腹の中のものをそっくり吐き出すと吐き気は収まったが、大監獄に戻れば、また同じことになるのはわかっていた。
小川を見つけて口をすすいできても、エイゼンシュタインは伸びたままだ。
グランディーナは彼の上半身を起こした。腰にぶら下がっているだけの曲刀を鞘ごと取り上げると、彼の背中に突っ込み、棒杭のように地面に突き刺した。それから彼女は、エイゼンシュタインの頬を強めにひっぱたいた。元副監獄長が呻き声をあげる。
肩書きは副でも、ノルンが来る前も来た後も、実質的な監獄長だった男だ。彼は自分の地位をめいっぱい利用して、その権力欲を満たした。大勢の者が理由もなく大監獄にぶち込まれ、身に覚えのない罪を責められた。そして多くの者が囚われたまま亡くなり、遺体さえ帰ってこなかった。旧ホーライ王国の残党を束ねていたヨハン=チャルマーズがその首を所望したように、このディアスポラで、この男ほど憎まれ、恨まれている者はいないのだ。
グランディーナがもう一度エイゼンシュタインの頬に張り手を喰らわすと、男はようやく目を開けた。だが、自分の置かれた状況はまだつかんでいないようだ。彼女はかまわず彼をはり倒した。
「な、何だ?」
「見ろ。私たち解放軍が大監獄に乗り込んだのを知った人たちだ」
彼の顔色がはっきりと変わった。彼女の言うとおり、見知らぬ顔が近づいてくる。そのほとんどは貧しい身なりの人びとだった。
「な、何をするつもりだ?!」
「彼らに訊け」
グランディーナは立ち上がり、棒杭に手を置いた。容易なことでは抜けないが、エイゼンシュタインに逃げられでもしたら事だ。
人びとは静かに近づいてきた。最初は大した人数ではなかった。だが少しずつ増えた。一人、また一人と、その列は絶えることなく続いた。
「もしやその男は、副監獄長のエイゼンシュタインですか?」
先頭の1人がようやく声をかけられるところまで近づいてきた。
そのあいだも人は増えている。
「そうだ。我々解放軍が彼を捕獲した。ここにさらす。あなたたちの好きなようにするがいい」
「やめろ、やめてくれぇっ!」
彼は即座に悲鳴を上げたが、群衆の中から聞こえてきた言葉に声を失った。
「あんたはそう言って命乞いをした人間を何人、殺したんだい?」
「おまえが監獄長になってから何十人も反帝国になんか関係ない人間がしょっ引かれているんだ!」
「それだけじゃない、おまえはいったい何人の人間を殺したんだ?! 飯も水もやらなければ処刑しなくたって人は死ぬんだ!」
「あの剣はどこへやったんだ? おまえが試し切りと言って何人も切った剣だ!」
「人殺し!」
「おまえは血も涙もない人間だ! オウガのような人間ていうのはおまえのことだ!」
「あたしの息子を返しておくれ!」
罵声はいつまでも続いた。人びとの憎悪の深さを示すように、いつまでもいつまでも止むことがなかった。1人が話すのを止めても、すぐ別の誰かが後を継いだ。
けれども、それは意外と長い時間ではなかった。しかも唐突に止んだ。
エイゼンシュタインの哀れっぽく泣き、許しを乞う声が、人びとの怨嗟の声を遮ってしまったのだ。
「助けてくれ、助けてくれぇ。悪かった、俺が悪かった、謝る、このとおりだ、謝るから命だけは助けてくれ。俺だってこんな仕事は嫌だったんだ。だがゼテギネア帝国に逆らえば俺が殺される、殺されちまう。言われたとおりにするしかなかったんだ」
グランディーナがずっと棒杭を押さえているので、エイゼンシュタインは身動きもままならなかった。彼は両手を前に伸べることができただけだった。
「助けてくれぇ。俺は仕方なくやったんだ」
「駄目だよ! こんな奴、許せるものか!」
エイゼンシュタインの声がまた止んだ。
彼の命乞いを鞭打つように遮ったのは、小さな老婆であった。
「あたしもあんたにそう言って土下座したんだ! あたしの息子を助けてくれるなら、あたしが代わりに牢に入ったってよかった。それなのにあんたは、高笑いしながらあの子を連れていったじゃないか! それなのに自分は助かろうっていうのかい? それもゼテギネア帝国のせいだって言うのかい? いいや、許さない、お天道様が許しても、あたしはあんたを許しゃしないよ!」
老婆の眼差しが怒りに燃え上がる。
その姿に、周りの人々も勇気づけられたようだ。
「殺せ! こんな奴、生かしておいたら、また悪さをするんだ!」
「そうだ、殺せ!」
人びとが一斉にエイゼンシュタインに群がった。その手はいちばん近くにいたグランディーナも一緒くたにかきむしり、打ち、引っかいた。
だが、彼が悲鳴を上げると何本もの手が引っ込み、なかにはエイゼンシュタインではなく、互いに打ち合ったり、爪を立てていた者もあった。そうと気づいて、それらの手は完全に引っ込められ、顔中に引っかき傷を負わされたエイゼンシュタインがまた現れた。
グランディーナが棒杭代わりの曲刀を引っこ抜くと、彼は前のめりに倒れた。1つひとつの傷は大したものではないが、彼が思い知らされたのは人びとの怨恨と憎悪の深さだ。彼はこの恨みからは逃げられぬことを知ったのだ。
しかしその一方で、彼はまだ呻いていた。助けてくれと、もはや空しいに等しい命乞いを続けていた。
「この男の剣だ」
グランディーナは曲刀を鞘から抜き、エイゼンシュタインの真っ正面に突き刺した。
その言葉は彼にも聞こえたのだろう。顔を跳ね上げたが手は伸ばさなかった。けれど、彼が言葉を失うには十分だったようだ。
人びとも彼とは別の理由で抜き身の曲刀を凝視した。
それは、彼らがふだん、目にすることもない物だった。その刃はわずかに曇り、午後の陽を鈍く反射している。血糊はついていない。
曲刀も剣も純粋に戦いの道具だ。人を切る以外の使い道などない。
しかもその刀は、ずいぶん長いこと、エイゼンシュタインを象徴する物だった。彼はそれで罪人の首をはねた。その切れ味は鋭く、無銘の刀ながら銘刀だとも言われたし、彼は戯れに囚人を切り捨てることも、先ほど誰かが言ったように囚人で試し切りをしたこともあった。
ディアスポラの大監獄に入れられた者が、再び陽の当たるところに出てくることは稀だった。たいがいの場合、彼も彼女もそこで死んでしまったのだと言われた。それがどんな罪で閉じ込められたのであれ、大監獄に入れられた者は二度と出てこられなかった。
だが、いまや大監獄は解放され、人びとが誰よりも恐れ、憎み、恨んできた男も、彼らの前に力なく首を垂れている。その力の象徴であった曲刀も、すぐそこにある。
とうとう、最初の老婆が曲刀に手を出した。むしろ誰もが彼女がそうするのを待っていた。エイゼンシュタインに復讐の刃をいちばんに振り下ろすのは彼女の権利だと考えたかのように。
ところが、小柄な彼女の手に曲刀は余った。見た目は細いが長さ4バスもある刀だ。人びとが考える以上に、そうした武器は扱うのに力の要る物だったのだ。
それで屈強そうな男が手を出した。木樵の使う斧は、曲刀よりもずっと重い。しかし彼も、斧とは勝手の違う曲刀に驚き、躊躇ったらしかった。
だが少なくとも彼には力があった。使い慣れてはいなくても、曲刀を力任せに振り回すことは可能だった。
「婆さん、俺が手を貸してやる。あんたの息子の仇を討とう! こんな奴、殺してやろう!」
老婆はおそるおそる手を添えた。
曲刀を支えているのはほとんど男の方だったが、彼女の意に沿うのは難しいことでもなかったろう。
震えながら、曲刀が持ち上げられ、その切っ先はエイゼンシュタインに向けられた。
「助けてくれ、助けてくれぇ」
彼は涙声でそう繰り返す。だが、もはやその言葉は人びとの耳には届いていなかった。木樵の男が曲がりなりにも曲刀を捌いたことが、人びとの心に膿のように溜まった憎悪を思い出させてしまったのだ。
それでもエイゼンシュタインを刺そうとする時、老婆は躊躇った。木樵も、自分ではそれほど力を入れなかった。
曲刀はエイゼンシュタインの胸の皮を、ほんの1ゼウ(約3センチ)も切り裂いただけで、引っ込められてしまった。
老婆は小さな悲鳴を上げた。
しかし、それはエイゼンシュタインの叫び声にかき消され、木樵の男でさえ、曲刀を放り投げてしまうほど、人びとを恐れさせ、驚かせた。
「助けてくれ! 殺される、このままじゃ殺されちまう、助けてくれぇっ!」
一方、エイゼンシュタインはなりふりかまわなかった。グランディーナの足下に逃げ込もうとして、抜き身のまま転がる、己の曲刀に気づき、思わぬ素早い動きでそちらの方に飛びついた。
「ぎゃああああっ!!」
だが、グランディーナはその動きも予測していた。わずかに早く曲刀を奪い取ると、彼女はそれを迷わずエイゼンシュタインの右手に突き刺したのだ。
先ほどよりもずっと大きな悲鳴が上がった。
人びとの動きも凍りついた。
彼女は即座に曲刀を抜いたが、エイゼンシュタインの甲からは緩慢に出血している。
「助けてくれぇ」
彼は泣き出していた。傷口を押さえ、ひたすら頭を垂れ、無力さをさらけ出していた。権力も武器もはぎ取られて、ただの男に戻って、この期に及んでもなお許しを乞うていた。
血のついたままの曲刀が投げ出された。もはやエイゼンシュタインはそれを奪おうとはせず、人びとは彼よりも奇異な物でも見るような目を向ける。
「彼を殺さないのか?」
グランディーナの問いに、老婆は疲れた顔で首を振った。息子の死よりも、エイゼンシュタインを殺そうとしたことの方がよほど彼女を疲れさせてしまったようだ。その生涯のなかで、彼女は誰も傷つけずに生きてきたのだろう。己や家族や知り合いの怪我に立ち会い、治療することはあっても、自らの意志で人を傷つけることはない。彼女はそういう生き方をしてきた人種なのだ。この大陸の大多数の人びとがそうであるように、暴力に脅え、傷つけられることはあっても、その逆はしてこなかった人びとの一人なのだ。
「あなたは彼を許せるのか?」
グランディーナの物言いは静かだったが、人びとはまるで大鐘でも鳴らされたかのような顔で彼女を注視した。
言われなくても彼ら自身が、その問いを繰り返しているはずだった。
家族を、友人を、知り合いを、殺された恨みを許せるのか。
けれども彼らは、その張本人を前にしてまたしても躊躇ってしまったのだ。他人に傷つけられても傷つけることのできない、人の良さを露呈してしまっていた。
「許せないよ、絶対に許しちゃいけないんだよ、こんな奴!」
しかし、言葉とは裏腹に、老婆は二度と曲刀に触れようとはしない。
ほかの者も、さも恐ろしい物でも見たような眼差しで血のついた刀を見まいとしている。
「あんたが代わりにこいつを殺してくれよ。解放軍なんだろう?」
「そうだよ。こいつが生き残っていたら、きっとまた同じ悪さをするんだ。俺たちはこいつが生きているあいだはそのことを心配しなくちゃならない。頼む、こいつを殺してくれ」
「エイゼンシュタインは許せないが、あなたたちは直接、手をくだしたくないというわけか。断る。私は彼の罪を裁くつもりはない」
「なぜだ? あんたが捕まえたんじゃないか。裁く気はないのにどうするつもりだったんだ?」
「私は彼をここに連れてきただけだ。そこから先はあなたたちの好きにするがいい。だが私はあなたたちの手先になるつもりはない」
「だって戦うのがあんたたちの仕事だろう? どうせゼテギネア帝国の奴だって殺してるんじゃないか。こんな奴一人ぐらい殺したところでどうってことはないだろう?」
「そうだそうだ! ほかの奴らは殺してきたんだろう? こいつ一人を生かしておいたってしょうがないじゃないか」
「そうだよ。俺たちの代わりに殺してくれよ。いいじゃないか、こんな奴、殺したって」
「断る。私たちが戦うのは私たち自身のため、私たちの意志でだ。あなたたちのためではないし、こんな男を殺すためでもない」
「だからって、こいつを連れてきたのはあんただ。好きにしろなんて放り出されたって困るじゃないか」
「私は好きにしろとは言ったが、殺せとは言ってない。殺したがっているのはあなたたちの方だ」
「そ、それはそうだが」
「だけど俺たちはあんたたちのように人を殺すことには慣れていないんだ」
「私たちだって慣れてなどいない。人を殺すことに慣れるはずがない。そんな風に思うのは、あなたたちの傲慢だ」
人びとは沈黙し、エイゼンシュタインを挟んでグランディーナと睨み合うような形になった。
午後の陽はだいぶ傾き、西の山の向こうに沈もうとしている。
その時、一人息子をエイゼンシュタインに殺されたという老婆がゆっくりと動き出し、放り出された曲刀を拾い上げた。
皆が見守るなか、彼女は曲刀を引きずって、やっとグランディーナの前まで持ってきた。
「こんな物は捨てておくれ」
「承知した」
それから、彼女はエイゼンシュタインを見やった。
彼はもう泣いてはおらず、ただうなだれている。その姿にはディアスポラ大監獄で権力を振るった、副監獄長の面影はなかった。
「お行き」
老婆の言葉がいちばん信じられなかったのは、ほかならぬエイゼンシュタインだったろう。彼は顔も上げず、手も動かさなかった。
「お行き、どこへなりとお行き! 二度とディアスポラに来るんじゃない、お行き!」
彼女が肩を押したので、彼は初めてそれが自分に向けられたことを察したらしかった。老婆を見返し、まだ信じられないという顔をしていた。
「お行き! おまえを殺したってうちの子が帰ってくるわけじゃなし。あたしはおまえの顔なんてもう見たくもないんだ、どこへなりと行っておしまい!」
エイゼンシュタインはまだ驚いていたが、ぐずぐずもしていなかった。素早く立ち上がると、街道を南へ下っていき、その姿はじきに木立に消えていった。
グランディーナは立ち上がると、曲刀を真っ二つにたたき切った。
その音に老婆も含めて、人びとは驚いたが、誰も言葉もなかった。
老婆に一番手を任せたことで、彼女の判断に異議を唱える者はいなかったのだった。
それがいかなる結果をもたらすのか、人びとは知らない。逃げ去ったエイゼンシュタインがどんなに醜悪な結末を持ち込もうと、それが老婆の選択であり、人びとの選択でもあった。
グランディーナは彼らに、ほんの少し、手を貸しただけにすぎない。
彼女が大監獄に戻ったのは辺りの夕闇がだいぶ濃さを増してきたころのことだ。
「グランディーナ、カノープスが呼んでます!」
そう言って走ってきたアンジェ=エルカシュの動きが疲労のために鈍くなっていた。
「グランディーナ、生き残った人たちは皆、助け出した。あとはカノープスの班がまだ戻ってきていないだけだ」
「今日はもう休め。続きは明日にしよう」
ランスロットは頷き、皆に指示を出す。
グランディーナはアンジェについて大監獄の建物に入っていった。
そこに待ち受けるものを、彼女はまだ知らない。
《  終  》
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