「腐った南瓜」
絹を裂いたような悲鳴がアラムートの城塞中に響き渡った。それを聞いた、ある者は剣を振るう手を止め、ある者は呪文の詠唱を止め、またある者の祈りは妨げられ、またある者は魔獣を世話する手を止め、なかにはうたた寝から飛び起きた者、ちょうど昼食の支度が始められていたのでその手を止めた者もおり、ウォーレン=ムーンなどは司令官室で見つけた興味深い文献を、自室で丹念に追いかける手を止めたのであった。しかし皆は悲鳴を発したのが誰かということをもすぐに思い出し、大多数の者が自らには関わり合いのないことだと気づき、あるいは関わり合いになりたくないのだと思い、関わり合いないのだと思い込もうとし、まるで何事もなかったかのような顔を取り繕い合って、中断させられた動きを、作業を、続けたり、やり直したりした。
なぜなら声の主は、絶世の美貌を持つ魔女デネブであり、彼女が悲鳴を上げるようなことというのは、大方の場合、ほとんどの者には無関係なことだったり、関係ないと思いたいようなことばかりだったからだ。実際のところ、彼女は解放軍に席を置いていたものの、どこの部隊に属しているというわけでもなかったし、強面でならす解放軍のリーダーさえ、魔女に命令などしなかった。デネブが解放軍にいるのは、一時の気まぐれによるものとたいていの者が信じていた。
彼女の連れているパンプキンヘッドたちも女性陣にはいい遊び相手だったが、彼らがいつ、ただの南瓜に戻ってしまっても、誰も驚きはしなかっただろう。
だが、肝心要の解放軍のリーダーがアラムートの城塞に不在のいまというもの、替わって留守を預かるアッシュ=クラウゼンには、デネブが何をしでかしたのか確認し、グランディーナが戻ってきたら報告する義務があった。そして、騎士の常として魔法に疎い彼が、同様に留守を守るウォーレンに助けを求めたとしても何の不思議もないわけだった。
しかし、アッシュがウォーレンの部屋を訪れた時、皆と同じ広さのそこはすでに千客万来の状態となっており、元騎士団長の姿を見た人びとは、これで安心と言いたそうな顔さえした。そこにいたのは同様に留守を預かるリーダーたちであった。
「用事はすでにわかっているようだな」
「はい。ですが、こんなに大勢でデネブを訪ねるわけにもいかないでしょう。皆さんには後で報告しますので、アッシュ殿とわたしだけで参りましょう」
「うむ」
ウォーレンに同行を求められては、アッシュとしても断るわけにはいかない。しかし、浮かない顔をした元騎士団長は、この期に及んで治りきっていない傷がひどく痛む様子であった。
だが、気が進まないのはウォーレンも同様である。しかし自分一人で泥を被るような真似はせず、2人は揃って渋い顔で、4階に上がった。デネブはアラムートの城塞の中でも、いちばん広い司令官室を、グランディーナの不在をいいことに占拠して、実験室としてしまっているのだった。
ウォーレンの部屋を訪れた者たちは自然と解散になったが、先ほどの作業なり訓練なり仕事なりに戻っても、誰もがいつまでも気もそぞろな様子であった。
「何があったのですか、デネブ? 悲鳴が中庭まで聞こえましたよ」
「あぁん、おじぃちゃまぁ!」
そう言うなり、魔女はウォーレンに泣きついた。彼女特有の芳香が2人を優しく出迎える。この匂いを嗅がされるとデネブのしでかした、どんなことでも許したくなるという噂だが、幸いアッシュもウォーレンもまだそこまで寛大な気持ちにはならなかった。
彼女が実験の最中だったのは間違いないが、ピンクのとんがり帽子を粋にかぶり、ピンク色のワンピースにピンク色の長靴という出で立ちは普段どおりだった。
その向こうで4人のパンプキンヘッドが慌てふためいた様子を見せて走り回っている。一見、いつもと同じデネブの部屋である。それは同時にグランディーナの部屋でもあるはずなのだが、いまの司令官室に、解放軍のリーダーの所在を偲ばせるような物は何一つとしてなく、ピンク色と鮮やかな南瓜色に染まった部屋は、どこからどう見てもデネブの私室兼実験室以外の何物でもなかった。
「泣いていてはわかりません。グランディーナが戻ったら何があったのか報告しなければなりません。何をしたのか教えてください」
ウォーレンは心の中でため息をついた。この自分がよりによってデネブを相手に、こんな台詞を吐く日が来ようとは夢にも思わなかったからだ。
魔女はいつの間にか手にしたピンク色の手巾(はんかち)で顔をふいて、鼻をすすり上げた。
「1つしかなかったのよ」
「何がですか?」
デネブの甘い声につい理性が吹き飛びそうになる。アッシュもウォーレンも、この時ほど一人で来なかったことを感謝したことはなかった。互いの目を意識しているから理性を保っていられるのだ。一人だったらまるで灯火に焼かれる蛾のように彼女に溺れて大火傷を負わされていたに違いない。
もちろん当のデネブにその自覚がないはずがない。彼女は甘ったるい涙声で話し続けていた。
「ラロシェルで黄金の枝を買ってきて、カボちゃんを改造しようと思ってたの。でも腐った南瓜は1つしか作れなくて、黄金の枝もほかの材料もなくなっちゃうし、もう作り直せなくなっちゃったのよぉ!」
デネブはそう言ってまた泣きついたが、改めてパンプキンヘッドを見直したアッシュとウォーレンは、初めてその異変に気づいた。
1人だけ色の違うパンプキンヘッドが混じっていたからだ。
パンプキンヘッドの頭は文字どおり、目と口のところに穴の空いた南瓜である。目のさめるような鮮やかな南瓜色は、たまに解放軍の食卓を飾る南瓜の煮物や南瓜の揚げ物と同じ艶やかさであり、まことしやかに解放軍内で囁かれている噂のひとつには、食卓に南瓜料理が並ぶ時、その材料はパンプキンヘッドの頭を取り換えたデネブが提供した物だとまであるくらいだった。もっとも、食糧を買い出しに行く補給部隊の誰一人としてこの噂を肯定した者はいないのだが、忘れられたころに南瓜が食卓を賑わせるたびに、誰もがその話を思い出し、また大慌てで打ち消すのであった。
その4人のパンプキンヘッドのなかに、1人だけくすんだ灰色の南瓜頭が混じっていたのだ。そのパンプキンヘッド、と呼んでいいのかどうかはわからないが、ともかく南瓜人間は、床に所狭しと散乱したデネブの実験道具やら材料やらをわざわざ選んで踏んづけまくっているようにも見えた。
「あんたたちったら、あたしがこんなに悲しんでいるっていうのに、ちょっとはおとなしくしていられないのっ?!」
デネブの金切り声にパンプキンヘッドたちは一斉に立ち止まったが、おとなしくその場に留まっていたのはそのうちの2人だけで、残る2人、うち1人は灰色の南瓜人間は、またすぐにせわしく動き回り始めた。
「んもう! 最低っ!」
その言葉がいかなる呪文だったのかはわからないが、走り回っていた2人が今度は突然、倒れた。
と同時にデネブは悲痛な泣き声を上げて、ピンクの手巾に顔を伏せてしまった。
おとなしくしていた2人のパンプキンヘッドは、1人は倒れた2人を甲斐甲斐しく介抱し、1人はデネブのもとに走り寄ってくる。
「あぁん、カボちゃあん!」
自分の造った、というパンプキンヘッドに頭を撫でられ、慰められているデネブの姿は、絶世の美貌も台無しの滑稽なものであった。しかしアッシュもウォーレンもこの場は至極真面目な顔を取り繕った。笑ったなんて知られた日には、デネブがへそを曲げるのは目に見えて明らかだ。
「つまり、あなたは改造するつもりのないパンプキンヘッドを改造してしまい、もう1つ造ろうにもその材料がもう残ってないというわけですね?」
「ええ」
デネブは頷くと、涙のいっぱいたまった眼を2人に向けた。その瞳はまるで空からこぼれ落ちた星のように輝いている。
「ですが、いまの解放軍にあなたの実験に使っていただけるような資金の猶予はありません」
「ええ、あたしもそんなものをおねだりしようとは思ってないわ。グランディーナとも約束しちゃったんだし、魔法の実験って何かとお金がかかるんだもの。でも黄金の枝はラロシェルでしか買えなかったの、次はいつディアスポラに行けるか知れたものじゃないわ。それが悲しくて」
話しながらデネブは鼻をすすり上げる。
「ともかく、グランディーナが戻ったら、そのように報告します。ですが、あまり騒がしくしないでください。アッシュ殿を初めとして、怪我の療養に専念している方も大勢いらっしゃるんですから」
ウォーレンの言葉にデネブは神妙な顔で頷いた。こう素直だと裏に何かあるのではないか、と勘繰りたくなる。しかし老占星術師は、これ以上この話を蒸し返さないことに決めた。
「おじぃちゃまたちには申し訳ないことしちゃったわ。ごめんなさい」
だが、魔女はあくまでも素直に謝った。ウォーレンの警戒にもまるで気づかぬ素振りだ。
「だけどあたし、グランディーナを見返してやりたかったの。だってあの子ったら、何かとカボちゃんたちを馬鹿にするんですもの」
頷きそうになって2人は心中で大急ぎで否定した。常々パンプキンヘッドと遊んでいる女性陣の思惑は知らないが、解放軍のなかでグランディーナほどパンプキンヘッドを買っている者など、思いつかなかったからだ。アラムートの城塞戦でだって、パンプキンヘッドを連れていき、しかも先制攻撃を任せようなどと誰が思いついただろう。否、グランディーナとデネブ以外の誰も、そんなことは考えなかった。パンプキンヘッドの攻撃は肝心な時には当てにならない、というのがこと解放軍幹部の暗黙の了解だったからだ。
「あの子をびっくりさせて、カボちゃんたちは凄いって言わせたかったのに」
デネブの切々たる告白は、いつの間にか訴えに変わって続いている。
しかしパンプキンヘッド改造の動機がグランディーナへの対抗心から生じたのだとしたら、彼女も罪なことをしたものだ。
「だから落ち着いて実験のできるところまでずっと我慢してきたんだわ。硝子の南瓜だってずっと大事に運んできたし、あの子もちょうど良く出かけたし、ここなら誰にも邪魔されないし、絶好の環境が整ったと思ってたのに」
突っ込む気力ももはやなく、アッシュとウォーレンが魔女の独白に気持ち半分で耳を傾けていると、急にデネブ言うところの失敗作、と言うか、予定外の灰色の南瓜人間が立ち上がり、3人が止める間もなく司令官室を飛び出していった。
「ああっ! 待ちなさいっ、エパポスッ!! いい子にしてないと南瓜料理にしちゃうわよっ!」
後を追って飛び出したデネブを、残る3人のパンプキンヘッドも追いかけていった。
残されたアッシュとウォーレンはしばし顔を見合わせ、どちらからともなく、つい、ため息が漏れた。
「これ以上、デネブに関わることもあるまい。我々の義務は果たしたのではないか?」
「そのようですね。ですが、デネブは聞き捨てならないことを言っていませんでしたか? 南瓜料理にしてしまうとか何とか」
語尾を濁したウォーレンに、アッシュにしては珍しく手を強く振った。
「そんなことは考えさせないでくれ。これ以上、南瓜については考えたくもないし、わしはしばらく南瓜料理もご免被る」
ウォーレンだって彼に同意したいのが本音だ。だが魔法に携わる者として、デネブと南瓜人間たちについて知りたいと思ってしまうのもまた事実なのであった。
その後、アッシュもウォーレンも事実のみを伝えたのだが、デネブがパンプキンヘッドの改造に失敗したという話はアラムートの城塞中を飛び交った。大方の者は日頃好き放題している魔女の失態に苦笑し、溜飲の下がる思いをしたが、そう思った者も思わなかった者も、失敗作の南瓜が食卓に乗る日が来ませんように、と願ってやまなかった。
だが、それ以外の点については、色味の変わった1人も加えて、4人のパンプキンヘッドたちは相変わらず女性陣のいいおもちゃだったし、司令官室に再度立てこもったデネブは相変わらず怪しげな実験を続けていたが、二度と悲鳴の聞かれるような事態は起こさなかった。
間もなく天宮シャングリラから戻った本隊の持ち帰った話が、皆にデネブの失敗を忘れさせるのに十分なほど衝撃的だったせいもあっただろう。
だが悲劇は忘れたころに起こるものだ。
その時に皆はデネブのしでかしたことの大きさに気づくだろう、それがもはや遅いと知りながら。
《 終 》