「林檎」

「林檎」

「何だ、眠ってんのか」
そうとわかると少し安堵して、紅の翼と髪を持つ有翼人は腰を下ろした。傍らには栗色の髪の少年が憔悴した顔つきで目を閉じている。無理もないだろう、あんなことのあった後では。
バルマムッサのウォルスタ自治区に閉じ込められた同胞5000人、その武装蜂起を目論んで赴いた遊撃隊・神竜騎士団を待っていたのは彼らの理想など受け入れそうにもない厳しい現実だった。
ヴァレリア諸島を統一した覇王ドルガルアの死後、この国が再び陥った政治的な混乱は王が忘れさせたはずの民族間の対立を再燃させた。
少数派ながら北方の大国ローディス教国からやってきた暗黒騎士団ロスローリアンの力を背景に支配者層に返り咲いたバクラム、7割を占める圧倒的多数派をもってバクラムの支配に異を唱え支配者たらんとするガルガスタン、最も少数でありガルガスタンに抵抗を続けるウォルスタである。
半年間の監禁生活から解放されたウォルスタの指導者ロンウェー公爵は、神竜騎士団の活躍もあり、ガルガスタンとの戦いに光明を見出した。そしてウォルスタ自治区という名の強制収容所の開放と囚われた5000人の武装蜂起を神竜騎士団に命じたのだが、若きリーダー、デニム=パウエルらを待っていたのは勇ましい言葉にも若き英雄たちの鼓舞にも耳を貸そうとしない、戦いに疲れた人びとの怨嗟の声であった。彼らは不利な戦いを同胞に強いるロンウェー公爵という指導者を、とっくに見限っていた。ガルガスタンの支配が理不尽で過酷なものであっても命まで取られることはないと、それを受け入れていたのである。父祖の代から続くガルガスタンとの終わりない戦いに、ウォルスタの人びとは疲れ切っていたのだ。
戦おうとしない人たちを説得する言葉を、自ら戦場に立った若者たちは持ち得なかった。デニムにも、その親友ヴァイス=ボゼッグにも、彼らの心情は理解できなかったに違いない。話し合いは平行線を辿り、打開策は見出せなかった。
そこに別働隊として武器を運んでいくことになっていたウォルスタの騎士団長レオナール=レシ=リモンが現れた。デニムから状況を聞いたレオナールは、それも公爵の予測のうちだと言って新たな命令を下す。
「これから町の住人を一人残らず殺すんだ」と。
その理由を激しく問い詰めるデニムに、レオナールは応えた。
「公爵様は、こう申されていた。
『バルマムッサの住人がすんなりと蜂起するなら何も問題はない。しかし、あの子どもたちが行ったとて、やつらは武器を手に取り革命のために命を投げ出したりはせんよ。その時、おまえはガルガスタンを装い、住人を一人残らず殺すのだ』
『な、なんですとっ! 我が同胞を殺せとご命令になるのか』
『落ちつけ、レオナール。おまえは頭のいいやつだからわかろうがっ。よいか、ガルガスタンとの戦いに勝つには、これまで以上に我々、ウォルスタの団結が必要なのだ。バルマムッサがガルガスタンによって滅ぼされたとあれば、他の自治区にいる同胞は否応もなく戦わざるを得まい』
『し、しかし』
『それにそうした暴挙をガルガスタンの反体制派が黙ってはおるまいよ。いずれにせよ、バルバトスは戦力を我々とガルガスタン内部の反体制派に分散しなければならなくなる。そして我々は勝機とバルバトスを討ち取る大義名分を得ることができるというわけだ』
『しかし、彼らは黙ってはおりますまい』
『そのときは、お前が』
従ってくれるな? こうしなければウォルスタに明日はない!」
デニムは逡巡し、立ち聞きしていたカノープスでさえウォルスタ指導部の発想に驚愕した。そこまでしなければ宿敵ガルガスタンと戦えないほどウォルスタが追い詰められているとは思わなかったからだ。
しかも彼の予想に反してデニムはレオナールの命を承諾する。ヴァイスの猛反発も効果はなく、「理想のために、この手を汚そう」と答えるデニムにゴリアテの町で出会った時の幼さは失われていた。
そこへガルガスタン軍が現れたため、神竜騎士団はヴァイスを欠いて、その戦いに突入することになり、バルマムッサの同胞虐殺はレオナールの手によって行われた。5000人もの人びとが一人残らず殺され、後にガルガスタンの仕業と喧伝されて「バルマムッサの虐殺」として知られることになる。
デニム率いる神竜騎士団はレオナールの仕事の完了を見届けると、別の経路をとってアルモリカ城へ帰還した。しかし帰路では気丈に指揮を執ったデニムがアルモリカに着くなり倒れてしまった上、ヴァイスによってバルマムッサの虐殺の真相が広められてしまい、ウォルスタ指導部も方針が決められないまま、一週間が過ぎようとしていた。
デニムの枕元には籐籠が置いてあり、それにはいくつかの林檎が入っていた。
カノープスがデニムを見ると少年は眠っているようで目を覚ましそうな気配はない。それで彼は林檎を手に取った。しかし、その近くには小刀一本置いていなかった。護身用にミニマムダガーを持ってはいたが、林檎を剥くには向かない。
「まぁ、いいか。皮ごと食っちまえ」
自分のズボンで表面を軽くこすり、林檎にかじりついた。時期的に去年採れた林檎だろうが、皮は赤と黄色が混じって美しく、味も酸味と甘味がほどよく混じり合い、申し分がない。熟れ具合もいい感じだ。
「カノープスさん」
「何だ、おまえ、起きてたのか?」
「いえ、いま、目が覚めたところです」
「よく眠ってたぜ。顔色もだいぶましになったな」
「姉さんは?」
「俺が来た時には誰もいなかった。さすがに休んでるんだろ」
「僕は、もう大丈夫です。レオナールさんや、みなさんに迷惑をかけてしまって」
「そうでもねぇぞ。上層部は毎日、会議の真っ最中で、いまだに方針が決まらねぇ。おまえは、ちょうどいい時期に倒れたんだよ」
「そう、ですか」
デニムは、ため息をひとつついて、起こしかけた身を、また横たえた。その姿を横目で見ながら、カノープスは林檎を食べ終える。
「みんなは何をしているんですか?」
「疲れていたのは誰もかれも一緒だ。しばらく休憩して、剣やら弓やらの稽古を再開したのは最近かな。カチュアは、ずっとおまえにくっついていたが、目の下に隈ができてるってんで、サラに引っ張っていかれたし、まぁ、そっちもそのうちに元気になるだろう」
「カノープスさん、も?」
「俺は、おまえたちとは鍛え方が違うんだよ。あれぐらいで倒れるような柔な身体はしてねぇ」
「さすがですね」
そう言ったデニムが、やっとわずかに微笑んだ。バルマムッサでレオナールの命令を受諾して以来、ずっと眉間に皺を寄せていたが、その性格を考えてカノープスは逆に心配になる。
「お前の方こそ、少しは落ち着いたのか」
問われて少年の表情が曇るのはどうしようもないことだ。たとえ自分の手を汚していないとはいえ、彼は同胞の虐殺を承諾してしまったのだ。そのことは、これから先、ずっと彼についてまわるだろう。その登場がロンウェー公爵の救出と華々しかっただけに堕ちるのも早い。「ゴリアテの英雄」の名は、いまや血にまみれてしまっている。
「アルモリカに着くまで、あんなに毎日のようにうなされたのに、昨日も今日も夢も見ませんでした。薄情な話ですね」
「そうでもないさ。おまえが決めたんだろう、ウォルスタのためにああすることが必要だと。だったら、それを認めて先に進むしかない。これは戦争なんだ、どんなことでも起こりうる」
「だけど僕はヴァイスがしたようにレオナールさんの命令を断ることもできたはずです。そうすれば、一人でも助けられたかもしれません」
「助けて、どうする? ヴァイスのようにウォルスタを離れるのか?」
「そこまで考えてませんけど」
デニムは目を逸らし、語尾を濁した。
カノープスは林檎を一つ取り、そのまま彼に渡そうとしてやめ、ミニマムダガーを取り出すと皮を剥き始めた。
「済んだことを悔やんでも時間を戻せるわけじゃない。いま、あれこれと悩むくらいなら、どうして、あの時にそうしなかった? そんなことで悩む暇があるのなら、あのことを無駄にしないで済む方法の一つも考えてみろ。それが命に対する責任の取り方ってものじゃねぇのか?」
「ランスロットさんにも同じようなことを言われました」
「不思議はねぇだろう、俺たちは、ともにゼテギネア帝国と戦った戦友同士だぜ。いまはゼノビアを追放されてヴァレリアに来ちまったが、あいつの考えてることぐらい、俺にわからねぇわけがねぇだろうっていうの!」
ちょうど剥き上がった林檎をデニムに押しつけると、彼はひどく驚いた顔をした。
「何だ、林檎なんて珍しい物でもないだろう」
「いえ、小刀もないのに、どうやって剥いたんですか?」
「ミニマムダガーに決まってるだろ。俺が、こんなことで手こずるとでも思ってるのか? 見ろ、女だって、こうはきれいには剥けねぇぞ」
だいたい同じ幅で一本につながった林檎の皮を示すと、デニムはますます興味深そうな顔をする。こういうところは年相応の少年だ。
それでカノープスは、さらに林檎を四つに割り、改めてデニムに手渡した。
「ありがとうございます」
「食えよ、デニム。生きるには食わなきゃならん。おまえがバルマムッサで殺された連中の死を無駄にしたくねぇと思うなら生きろ。生きて生きて戦って、ウォルスタに未来を取り戻せ。そのためにも食え」
「僕なんかが生きていて、いいんでしょうか?」
「当たり前だ。それ以上、しちめんどくさい理屈をこねるとぶん殴るぞ」
「はい」
デニムはやっと身を起こして林檎を一つずつ食べた。
その間にカノープスは立って、賄いに食事を頼んだ。いくら何でもロンウェー公爵たちの話し合いも、そろそろ終わるはずだ。その方針がどうなるにせよ神竜騎士団にも命令が下されるだろう。その時に肝心のデニムが動けないのでは話にならない。
「もう一個もらうぜ」
「どうぞ」
彼はおとなしく渡された粥をすすり始めた。
しかし、その目の前で今度は林檎を兎の形に剥いてやると、少年の手はごく自然に止まり、カノープスの手の動きに魅せられてしまった。
「おまえなぁ。ガキじゃあるまいし、こんなもの、何がおもしろいんだよ」
「だって、そんな剥き方をできる人なんて母さんくらいしか知らなかったんですから」
「なんだ、カチュアはしてくれなかったのか?」
「姉さんは、そんなに器用じゃないんですよ」
聞き取りにくい声でデニムが答える。まるで扉の後ろにカチュアがいるのを警戒しているかのようだ。
「母さんが死んでから特に僕の世話ばかり焼きたがるんだけど、うっかりすると僕がやった方が早いことだってあったんです」
「やめろと言わなかったのか?」
「言ったんですけど、とても怒られちゃって、目に涙まで浮かべられたもので僕の方が驚いて。それから言いたくても言えないんです」
「目に浮かぶようだなぁ、そいつは。カチュアも頭はまわるけど、わりと手が追っついていないところがあるからな」
「そうでしょう?」
「まぁ、たった二人の姉弟じゃないか。仲がいいのは悪いことじゃないさ」
「だからって僕だって、いつまでも子どもじゃないのに」
「そら、食いたいんだろ」
「で、でも、それはカノープスさんが食べるんじゃないんですか?」
「自分のためになんか、こんな面倒な剥き方をするかよ」
姉に対する不満は、うさぎりんごで解消したらしい。文句は言いつつ、やっぱり仲の良い姉弟なのだ。それに、まだまだ子どもだ。
しかしカノープスは楽しかった。デニムが、こんな笑顔を見せるのは久しぶりだったし、ようやく立ち直りそうな気配も感じられるからだ。
「今度は何をしろと言われるかな。どっちにしたって、いつまでもアルモリカに籠もっていても何も解決しねぇんだからな」
「はい」
少年は即座に顔を引き締めた。神竜騎士団は若者が多いが、すでにウォルスタ軍で重要な位置にある。そのことを彼は理解し、自らの責務を果たそうとしている。それは戦士の顔であり、リーダーとしての器も備えつつあった。
「だから約束だ。この先、何があっても、どんな戦いでも生き残れ。生き残った者だけが明日を見、築くことができるんだからな」
「カノープスさんも約束してください」
「馬鹿野郎!」
彼は左腕をデニムの頭にまわし、右手の拳骨を押しつけた。
「そんなこと、誰に言ってるんだ。俺は風使いカノープスさまだぞ、おまえより先にくたばるわけがねぇだろうが!」
「痛い、カノープスさん、痛いです」
それで彼は、すぐにデニムを解放した。
「約束だ、デニム」
残っていた林檎を手に取って、少年の目前に突きつけた。
「お互いに生き残ったら、またうさぎりんごを剥いてやる。それでどうだ?」
「はい!」
その後、デニムとともにヴァレリア諸島の戦いをカノープスはくぐり抜け、神竜騎士団に、その人ありと知られるようになっていく。
しかし、彼がゴリアテの英雄に、いくつのうさぎりんごを剥いたのかは記録に残っていない。
《  終  》
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