「冷酷さの仮面」
「この船はマラノまで行くそうだな? 対価は払う。私を乗せていってくれないか?」
三本柱の帆船ファイアクレスト号にやってきた娘はそう言った。傷だらけの胸甲を身につけただけの軽装だが、持った雰囲気にきな臭さを漂わせるあたり、ただ者には見えない。
甲板から彼女を見下ろしたカラドック=ブリフブラは、こちらを見上げた視線と目が合い、港まで降りた。
武器も持たない空手なのに、妙な威圧感を覚えさせられる。だがそのことは、大商人〈何でも屋〉のジャックの副官として不快に思われたのだ。
それにしても、赤銅色の髪をひとつに束ねた彼女は、明らかに浮いていた。雑多な品物が日々、行き交い、世界中の物品がやりとりされる港にあって、それは異常なことだ。そのこともカラドックの神経を逆撫でした。いったい何者なのか、彼女の正体をこの目で確かめずにはいられなかったのだ。
「あなたがこの船の船長か?」
「そうではない。だが、あんたを乗せるかどうかの裁量は持っている。見たところ、商人ではないようだが、なぜマラノに行きたいのだ?」
「実はマラノではなく、ヴォルザーク島に用がある。途中で下ろしてもらってもかまわないだろうか?」
「ヴォルザーク島?」
彼は思わず娘をにらみつけていた。
その島はゼテギネア大陸でも東の辺境、シャローム地方のさらに田舎にある小島だ。マラノに行くには回り道になる上に、寄っていったところで商売のねたになるような物産もない。
そんなところに寄れとは、ずうずうしいにもほどがある。
「対価は払うと言ったが、失礼ながら物も金も持っていないようだ。何で支払おうというのだ?」
「私の身体だ。何でも好きなように使ってくれてかまわない」
「何でも?!」
彼は絶句したが、娘は両手を広げて言葉を続ける。
「どうしてもヴォルザーク島に行かなきゃならないんだ。だけど、私にはこれしか払えるものがない」
「だが用心棒は足りているし、水夫に女は要らない。それにうちの船長は船に女を乗せない方針なのでな」
しかしそう言いながら、カラドックは彼女を巡って水夫たちが厄介事を引き起こしそうになるところを想像できなかった。この娘の持つきな臭さが、彼にそうさせなかったからだ。
「この港に泊まっている船で、ゼテギネアの方に行くのはあなたたちの船だけなんだ。何とかして乗せていってもらうわけにはいかないだろうか?」
「金がないと言うのなら、陸伝いに歩いていけばいいだろう。我々は−−−」
「そこまでになさい、カラドック」
彼が振り返ると、〈何でも屋〉のジャックが船を下りてくるところだった。
短い真っ黒の髪を額から後ろになでつけ、ちょび髭を生やしたところはあまり商人に見えない上に、フリルのブラウスに毛皮の外套など着ていると、まるで山師のようだ。
「あなたは仕事に戻りなさい。彼女の相手はわたしがします」
「ですが」
「そうしないと、あなたが危険だから言っているんですよ。それではわたしが困りますからね」
カラドックは思わず赤銅色の髪の娘を見たが、彼女は表情も変えずに肩をすくめただけだ。
理由はわからないが、主人にそこまで言われては逆らうわけにはいかない。渡り板を上って船に戻っていくと、同じ調子でジャックに話しかける娘の声が聞こえてきた。
「あなたがこの船の船長か?」
「はい、〈何でも屋〉のジャックと申します。お見知りおきを願います」
「私はグランディーナだ。あなたは話を聞いていたのだろう?」
「ええ。あなたがヴォルザーク島に行きたいと仰っていたところからね。ですが、そのための対価はあなた自身しかないとも仰っていました。それは本当ですか?」
「この前に寄った村で大剣を置いてこなければならなかった。それから、どこにも寄らずにこの町まで来た。もう1ゴートも残っていない」
「だから自分を売ると仰るのですか。ですが、それならば、金を稼いでからこの船に来られてもよかったのではありませんか?」
「この町には着いたばかりだ。だがゼテギネアへ向かう船はこれしかないと聞いた。金を稼いできてからでは時間がないかもしれない」
「だからといって、カラドックを脅そうとは強引な方ですね。万が一にも彼を殺されては、わたしが困るのです」
「空手の私が、どうやって彼を殺せると?」
「あなたのような方がその技に長けていないとは思えませんね。ですが、その力を振るわれる必要はありませんよ。どうぞ」
ジャックが後ずさると船への渡り板があいた。
グランディーナは驚いて彼を見、その場を動かない。
「どうしました? 乗ってください。あなたの仰ったとおり、わたしたちはもうじき発つのです」
「取引は成立ということか?」
「いいえ。そのようなけちくさいことを申し上げるのはわたしの沽券に関わります。あなたをわたしの客人として招待しましょう。あいにくとあなたをもてなしてさしあげられるような客室があるわけではありませんが、どうぞ、乗ってください」
「わかった」
彼女が船に乗り込むのを、カラドック以下、部下たちは目を丸くして眺めていた。しかし、ジャックも続いて乗ってくると、彼らはまた働き出して、じきにファイアクレスト号は港を出ていったのだった。
「カラドック。彼女はグランディーナです。わたしの客人としてヴォルザーク島まで乗っていただくことになりました。皆にもそのようにもてなすよう伝えてください」
「かしこまりました」
ジャックは満足そうに頷くと、彼女を自分の船室まで案内していった。
ファイアクレスト号の乗員たちは、〈何でも屋〉の気紛れに慣れている。どんなに高額な物だろうと、彼は気に入った者には簡単にくれてしまうし、その言動が気に入られなければ、簡単に出入りを差し止められる。
そうしながら、彼は世界中で巨額の富を築いてきた。ファイアクレスト号だけを根城にして、どこででも稼ぎ、いまやゼテギネア大陸に向かおうとしている。
だが、そのジャックが、この船に女性を乗せたことだけは1度もなかったのだ。皆の驚きは当然とも言えたが、それもまた、いつもの気紛れなのかもしれなかった。
「グランディーナ、この部屋はいかがですか?」
「無駄のない部屋のようだな。必要な物もよくまとまっているし。居心地は良さそうだ」
そう言いながら、彼女は相変わらず無表情だった。
カラドックが気づかぬわけだ。もしもあのまま放っておいたら、彼女は殺気も示さずに彼を手にかけていただろう。
「いかがです、ヴォルザーク島までこの部屋で寝泊まりされるというのは?」
話しながらジャックは杯を2つ出し、とっておきの葡萄酒の瓶を手にした。
「私は酒を飲まない。それは命令か?」
「いいえ。この船には客室がありません。人が寝泊まりするような場所は、ここと皆の大部屋だけなのです。それに、わたしはあなたを客人としてお招きしたのですよ。なぜ命令などいたしましょう?」
ジャックは残念さを隠しもせずに杯を1つ片づけた。とても薄い硝子製で高い金を積んで手に入れた逸品だ。
「ならば断る。私はむしろ大部屋の方がいい」
「なぜですか? つい、いましがた、居心地が良さそうだと仰っていただいたではありませんか?」
「慣れていないんだ、こういう部屋にいるのは。選ばせてもらえるのなら、雑魚寝の方が気が楽だ。それに居心地がいいのはあなたにとってだ」
ジャックは大げさにため息をついた。
「それよりも聞かせてくれ。なぜ私を船に乗せてくれたんだ? あなたたちはマラノを目指しているのだろう。ヴォルザーク島に寄るのは回り道ではないのか?」
「わたしが個人的にあなたという人に興味を抱いたから、では理由になりませんか?」
「寝ろ、ということではなくてか?」
「そう、それです。あなたはまるで何でもないことのように身体を売ると仰り、まったく同じ調子でカラドックも手にかけようとされていました。あなたのような方がなぜ、そんな風に自分を見せたがるのか、知りたいですね」
彼女の表情がわずかに動く。見れば、20歳そこそこの若い娘だ。けれど、その態度にも仕草にも同年代の娘たちと同じような女らしさは見出せない。年相応という言葉がこれほど似つかわしくない者もいないだろう。そんなところもジャックには新鮮だった。
「何をするにしても夜まで待ってもらえないか?」
「よろしいですよ。ですが何をされるのですか?」
「この船も夜になったら止まるのだろう?」
「ええ。夜の航海をしなければならないほど、急ぐ旅でもありませんのでね。それにゼテギネアには3ヶ月ほどで着けるはずです」
「何日も身体を洗っていないんだ。水浴びぐらいしておきたい」
「何でしたら、真水を持ってこさせましょうか?」
「そこまでしてもらうには及ばない。海で真水は貴重なのだろう?」
「それもそうですがね。それでは、いまのうちに大部屋に行っておきましょうか」
ファイアクレスト号の甲板の真下が、ジャックの言う大部屋であった。
とは言うものの、そこはさらに小部屋に仕切られ、部下のなかでもカラドックや帳簿係のウェッジのように重要な地位にある者は個室を構えている。雑魚寝しているのは水夫たちで、その管理をしているのがカラドックであった。
「とんでもありません、ジャック。水夫たちのなかに若い女を入れたら、どうなるかわかったものじゃありませんよ」
先ほどの自分の感想は棚に上げて、彼は事情を聞かされるとそう答えた。
「吊り寝床を貸してさしあげるわけにはいかないのですか?」
「あなたのお客人に傷つけられてもいいのですか? あるいは水夫たちを怪我させたいと仰るんで?」
「どっちも困りますねぇ」
彼の強硬な反対に、さすがのジャックも諦めざるを得なかったが、カラドックが自分自身に「万が一ということもあるからな」と言い聞かせていたことは、かなり後まで知らないままであった。
この話に立ち会わされなかったグランディーナは、ジャックに言われて頷いた。先ほど見せた感情の揺らぎは何だったのかと思うような無表情っぷりだ。
「それでも、わたしの部屋では寝起きしていただけないのですね?」
「それは最後の手段にさせてくれ」
「ですが、後は船倉と甲板くらいしかありませんよ? 甲板で寝るにはまだ早い時期ですし、積み荷は一応、固定しておりますが船倉は安全とは言いがたいところもありますしね」
「甲板でもかまわないのか?」
ジャックは目を丸くして彼女を見た。
「あなたの休むようなところではないでしょう?」
「野宿と同じようなものだ。野宿ならば慣れている。このぐらいの寒さならば、どうってことはない」
彼はまた、ため息をついた。それが〈何でも屋〉の調子を崩しているのだということに、当のジャック自身がまだ気づいていなかった。
船尾からグランディーナが飛び込むのを、彼は目で追いかけたが、その肢体は真っ黒な海に消え、しばらく海面にも上がってこなかった。
ようやく彼女の頭が現れたかと思うと、そのままファイアクレスト号の周囲を3周半して、やっと縄梯子から甲板に戻ってきた。
「海水にさらすと髪が傷みますよ。真水で塩分を洗い流さなければ」
「どうせ、いつものことだ。気にしてもらうには及ばない。貴重な水を、こんなことで無駄にすることはないだろう」
「女性の髪を守るのに、こんなことはありますまい。あなたの髪はそのままでも十分に美しいと思いますが、もっと手をかけてさしあげれば、より輝きを増すでしょうに」
「そんな時間があったら、私は剣を振るう。あなたの髪ではないのだから、気にかけなくていい」
「わたしも自分の髪のことならば、それほど気にもいたしませんが、ほかならぬ女性の髪、特にあなたのように見事な髪を見ますと放っておけない質(たち)でして」
そう言いながら、ジャックはグランディーナの背後に回り、その髪を手に取った。赤銅色の髪は濡れて重く、持った感触で量も人一倍多いのがわかった。しかも長さは彼女の腰まで達している。片手で束ねようとしても、持ちきれるものではなかった。
けれどもジャックが指で梳(くしけず)ると、御しがたいと思われた髪も量が多いなりに不思議とまとまった。そのあいだにも髪からも身体からも、雫はひっきりなしに滴り続けている。
そして、2人の会話も続けられていた。
「あなたの身体は美しいのですね。贅肉が少なくて引き締まった肢体だ。それに、女性の身体には必ずと言っていいほど無駄なところや遊びがあるものですが、あなたにはほとんどありません。ご自分をよほど厳しく節制していないと、なかなかできるものではありませんでしょう?」
「これは驚いた」
そう言いながら、彼女の口調には相変わらず、いかなる感情も見出せなかった。
「私の身体が美しいなんて言ったのはあなたが初めてだ。あなたの目はどこかおかしいのじゃないか?」
ジャックは髪に口づけをしてから手を離し、どこかから取り出した大きな布を彼女の肩にかけ、素早く前に回って合わせた。
「おやおや、それは名誉なことだと申し上げますね。あなたの美しさを認めたのが、このわたしが初めてだなんて、その栄光は痛み入るに余りありますよ。いまだって、わたしは、どうしたらあなたを独り占めにできるかとばかり考えているのですからね」
「それならば、あなたの部屋へ行こうか?」
「いいえいいえ! そんなにわたしを追い詰めないでください。そうでなくても、いまのわたしは自分を抑えるので精一杯なんですよ」
「あなたにはその権利がある。私はいつでも対価を支払う」
「いいえ、とんでもない。そんなことをしたら、わたしは一生、自分を軽蔑します。それとも、あなたがわたしの敵で、この〈何でも屋〉を破滅させたいと言うんでしたら、話は別ですが」
「あなたもいちいち大げさな人だ。なぜ私があなたを破滅させなければならないんだ?」
「ええ、わたしも、あなたにそんな気がこれっぽっちもないことは百も承知でお願いしているのです。どうぞ、これ以上、わたしによこしまな気を起こさせないでくださいよ」
「あなたは私の恩人だ。感謝こそすれ、どうして迷惑になるようなことをするだろう。だけど、私はあなたの言うことを半分も理解していないようだ。意図せずにそうしてしまった時は許してほしい」
「もちろんですとも。ですが、なぜ理解していないようだと仰るのか、伺ってもよろしいでしょうか?」
「あなたのような人と話すのは初めてだからかな」
彼女がそういう歯切れの悪い言い方をしたのも、これが初めてだった
思わずジャックは微笑んだが、実のところ、彼自身が、なぜ、こんな娘の反応に一喜一憂するのか、わかっていないのだ。
「そうでもないようですよ。あなたはご自分で仰る以上にいろいろなことをご存じだ。おそらく、わたしなどには想像もできないようなことを、たくさん経験してこられたのでしょう。わたしも多くの女性を知っていると自負してきましたが、まだあなたのような方に会えるとは、世の中も広いものですね」
「さぁ。戦場にいることが多かったから、それほどだとは思えないがな」
そう言うグランディーナの声音から、また感情が失せる。自分の感情を抑え、隠してしまうことに彼女は慣れているようだった。けれどもそれは、ひょんなきっかけで表れ、また何事もなかったかのように隠されるのだ。
そしてジャックは、またしても彼女を抱きしめたいという衝動を抑え込まねばならなかった。
「でも、わからない」
変わらない声音で、彼女はつぶやいた。
「なぜ、あなたは私を無償で乗せてくれるんだ? 確かに、あなたの言ったとおり、私はあの時、カラドックを人質にしようとしたし、いざとなれば殺しもしたろう。そんな人間を、興味を覚えたという理由だけで、ただで船に乗せるなんて考えられない」
「わたしは気紛れなのですよ。あなたが気に入ったから、お乗せするのです。それでよろしいではありませんか」
「私も文句があるわけじゃない。いまはヴォルザーク島に行くことが最優先だ」
「それではお互いに問題のない取引ということでよろしいですね?」
「ああ」
グランディーナは彼の前で布地を落とし、無造作に拾い上げて渡した。乾ききらない赤銅色の髪が彼女の身体中にまとわりつく。
けれども、それも裸身を隠すほどではなく、彼女は適当に縛り直してしまった。
「おやすみ、ジャック」
「おやすみなさい、グランディーナ」
見上げれば、三日月が細く白く輝いていた。冬の星々も冷たい光で照らしている。
しかし、ジャックはまた微笑み、手をすり合わせた時だけ、寒さを覚えたようにも見えた。
「不思議なこともあるものです。このわたしが女性に興味を抱くとは。わたしにとって女性とは自分を飾る花、たまの慰めにしか過ぎないと思っていたのに、この歳になって、あのような女性に会えるとは思いもしませんでした。彼女と一緒ならば、久しぶりに、船旅の楽しさも味わえそうですよ」
人は己を偽るため、他人を偽るために仮面をかぶる。
それは時に脆(もろ)く他人に暴かれ、時に堅固に自身を押し隠す。
グランディーナとジャック、先に仮面を暴かれるのは、さて、どちらであろうか?
《 終 》