「騎士の証を」

「騎士の証を」

「デニムー!」
「カノープスさーん、ギルダスさーん、ミルディンさーん!」
船上の少年がちぎれるように手を振り、彼を迎えに来た新生ゼノビア王国の騎士たちも力いっぱい振り返した。
やがて、ゼノビアとヴァレリアを結ぶ定期船から下りてきた少年は白騎士と有翼人の手荒い歓迎を受けた。
「元気そうだな。カチュア、いやベルサリア女王がよくおまえを出したな」
髭の騎士、ギルダスの大げさな歓迎に、デニムは笑顔を浮かべる。
「僕の役目はもう終わりましたから。女王の側にはヴァイスとモルーバさまがいます。それに僕は、いつか戻るからって約束したんです」
「船旅で疲れただろう? 今日は休んで、明日、ゼノビアに向かおう」
紅い翼のバルタン、カノープスがデニムの少ない荷物を取り上げた。
「いえ、僕は疲れてなんか」
「剣ももらっておくぞ。ゼノビアじゃ軍団員以外は帯剣は禁止だ」
「いえ、それは」
「デニムくん?」
少年の笑顔が急に萎み、うつむきさえした。
カノープスも剣を見直し、彼がうつむいた理由に気づいたようだ。
「こいつはロンバルディアじゃねぇか」
「そうです。ずっと僕が持っていたんですけど、どうしてもお返ししたくて」
「気を遣う必要はないって言っただろう? 団長はいつもおまえのことを気にかけていた。だから、おまえがこの剣を使うのがいちばんいいんだって」
「そうだ。それにヴァレリアに戻る時に、丸腰ってわけにはいかねぇだろうが?」
「でも、僕は」
それきり、口ごもってしまった少年の肩を、カノープスとギルダスが左右から抱いた。デニムの荷物はミルディンが引き取る。
「こんなところでする話じゃねぇ。このまま宿屋に行くとしようぜ」
「そうだな」
2人に先導されてデニムはついていった。
気がつくと、ソロンの港には彼ら以外いなくなっている。陽のあるうちに別の町へ移動していったか、彼らのように宿を取り、船旅の疲れを休めているかするために散っていったのだろう。
四人もやがて、〈黒獅子亭〉という看板のぶら下がった宿屋兼酒場に入っていった。
「まずはデニムとの再会を祝してかんぱーい!」
「乾杯!」
ギルダスの音頭で4つの杯が打ち合わされた。カノープスと彼は速攻で麦酒(びーる)を飲み干し、お代わりを要求したがミルディンとデニムは一口飲んだきりだ。
「無理しなくていいんですよ、デニムくん。飲めなかったら、この二人が片づけてくれますから」
「何言ってんだ! 男が麦酒くらい飲めなくてどうする」
「そろそろ酒も覚えなくちゃな。そら、こいつでも食べながらならいけるだろ」
そう言いながら、デニムの両脇に座った2人は、また杯を打ち合わせた。
すると杯を見つめていた少年は意を決したように持ち手を握り直し、3人の見ている前で一気に飲み干したのである。
「おお」
「やるじゃねぇか」
カノープスとギルダスは歓声をあげたが、デニムは黙って鶏腿肉の炙り焼きにかぶりついたかと思うとギルダスが勧めた豚の燻製肉もみるみるうちにたいらげ、さすがにこれは尋常ではないと3人が見守っていると、最後は卓に突っ伏してしまったのだった。
「おーい」
「大丈夫か、デニムー?」
話しかけても返事がない。
だが耳まで赤くして、彼は眠っていた。それを確認して、カノープスとギルダスが笑い転げる。
「初めてヴァレリアを離れたんだろうからな。寝かしておいてやろう」
「明日から長旅なのにデニムくんが二日酔いで動けないなんてことになったら、わたしたちの管理不行き届きですよ」
「大丈夫だって! いざとなったらとっておきの薬があるしな」
「げー。あんた、本気であれを使う気か?」
「大丈夫大丈夫」
「それにしてもデニムくんは大丈夫なんでしょうか?」
「何が?」
「ヴァレリアの英雄とはいえ、いろいろと心労が多いのではないかと思ったのです」
「それもあってヴァレリアを出てきたんだろうからなぁ」
「こいつがそんなことを言わない限り、俺たちが口を出す筋合いじゃないさ。辞めたいって言っているのにやらせたわけじゃないんだからな」
「そうですね」
「だけどロンバルディアの件はどうするんだ?」
「デニムから王に言ってもらうしかないな。俺たちも間違った報告をしたわけじゃなし、王に判断してもらえばいいさ」
それから3人は眠っているデニムをそのままに夜半まで飲んだ。半年前に発ったヴァレリアでの思い出に、話はいつまでも尽きなかった。
翌日、4人は王都ゼノビアに向けてソロンを発った。徒歩だと1ヶ月以上かかる距離なので四頭のグリフォンで来ている。デニムは初めて乗るのであろうにヴァレリアでも使ったことのある魔獣だったためか、それほど手間取らず、カノープスほどではないが自在に操れるようになった。一行のなかでいちばん慣れていないのはギルダスだったが長距離を飛ぶので替えのグリフォンは連れておらず、大人を二人乗せると速力が劣るのでカノープスが一人一頭を決行したのだ。
グリフォンに乗ったので街道は進まないため、どうしても野宿が多かったが、秋も半ばのため、辛いということはなかった。
ゼノビアへの旅はデニムにもヴァレリアでの戦いを思い出させたらしく、夜になって話をすると饒舌になった。ともに戦ったカチュアやヴァイス、フィラーハ教団の大神官に復位したモルーバ=フォリナーやシェリー、オリビアの姉妹、プレザンス神父や騎士ヴォルテールや弓使いサラのこと、傭兵のザパンや魔獣使いのガンプ、故郷に戻ったオクシオーヌとジュヌーンの話などは戦友の消息であるだけにカノープスたちにも懐かしく聞こえた。
それにヴァレリアが復興しつつあるという事実も嬉しい話だ。聖剣ブリュンヒルドの奪還という真の目的があったとはいえ、デニム率いる神竜騎士団に参加したカノープスたちにとりヴァレリアの戦乱や、その後の復興は他人事ではなくなっていたのである。
デニムの話をひととおり聞き終えたら今度はカノープスとギルダスが主にしゃべった。トリスタン王や王妃ラウニィーのこと、新生ゼノビア王国のことが主体だったが少年がもっとも興味を示したのは建国の英雄グランディーナについてだった。
二人の立場は確かに似ているところもある。特に戦後、最大の貢献者でありながら国を離れなければならなかったという点は近い。グランディーナは自ら解放軍とゼテギネア帝国打倒の上で生じた暗部を背負うことを選び、デニムは意図せずにそのような立場に置かれたという違いはあるものの親近感を抱くのも無理はない。
だが解放軍にいたあいだ、グランディーナにかなり近い立場にあったカノープスに言わせれば常に孤独であろうとした彼女と、仲間の助けを進んで受け入れたデニムは、むしろ正反対と言ってもいいほど違う。どちらが正しくて、どちらが間違っているわけではないのだが、それは二人の性格の違いでもあるし、デニムが抱いたような親近感はグランディーナが抱くことは決してないだろうと言えた。
「まぁ、会ってみればわかるさ。あいつはまぁ、そういう人種なんだ」
「そう落ち込むなよ、デニム。おまえを待ちかねている奴はほかにも大勢いるんだぜ。剣だけじゃなくて知識まで、ぱんぱんに詰め込んでからヴァレリアに返そうって腹だ」
「皆さんの期待に添えられるといいんですけど」
「大丈夫ですよ、デニムくん。君なら、できます」
そんな話をしながら旅を続けていたら、秋も終わりというころ、一同は王都ゼノビアに着いた。
初めて見る王城にデニムは目をまるくし、グリフォンを降りてからは異国の景色に瞳を輝かせた。
「どうするよ、ゼノビアからこれで?」
「マラノに連れて行ったら目を回しそうだな」
カノープスとギルダスに、そんなことを言われても興奮したデニムの耳には入らないようで好奇心を丸出しにして周囲に目をやるのに忙しい。
「さぁ、町を見るのは後でもできる。まずは王に会いに行くぞ!」
業を煮やしたカノープスが襟首をひっつかまえていかなければ、少年はいつまでも、そこに佇んでいたかもしれなかった。
それから4人は城門をくぐり、待っていた魔獣軍団員のホークマンにグリフォンを返した。階段を上がっていき、旅の荷物も預ける。デニムの荷物も一緒に引き取られたが、ただロンバルディアだけが返されたので、彼は所在なさそうな顔をしながら、剣を腰に提げ直した。
王と王妃に面会したのは玉座の間ではなく、大きな丸い卓のある部屋でだった。
「新生ゼノビア王国に玉座はない」
カノープスが言ったことを半信半疑で聞いていたデニムも、ゼノビア城に着いて知ると驚くばかりだ。
「王はかしこまったことが嫌いでな。玉座なんてものは人を威圧する効果しかないから不要だと言い張ったのさ」
「ほんとですか」
「まぁ、これから行くんだから実際に見てみろ。カチュアへのいい土産話だ」
丸い卓を挟んでトリスタン王とラウニィー妃に聖騎士団長、魔法軍団長、魔獣軍団長、ケインまで揃って、デニム、カノープス、ギルダス、ミルディンが差し向かって座った。最初に立ち上がったのはカノープスだ。
「陛下、ヴァレリア王国からの賓客デニム=モウン殿を無事にゼノビアまでご案内いたしました」
三人が一礼する。
「ありがとう。三人とも長旅、ご苦労だった。今日はゆっくり休んでくれ。
デニム=モウンくん、わたしがゼノビア王国の国王フィクス=トリシュトラム=ゼノビアだ。トリスタンでいいよ」
「初めてお目にかかります、陛下。デニム=モウンと申します」
王の態度が気さくだったのにデニムの方が恐縮してかしこまる。
「それと先に紹介しておこう。彼はマグナス=ガラントくんだ。パラティヌス王国の名は知っているだろう? ヴァレリアが暗黒騎士団と戦っていたころ、革命軍を率いてローディス教国の冥煌騎士団と戦っていた蒼天騎士団のリーダーだ。彼も1ヶ月ほど前にゼノビアに来てね、言ってみれば君と同じような境遇だな。互いに話すことも少なくないと思うよ」
それで王の隣り、ラウニィー妃の反対側に座った長身の青年が立ち上がって頭を下げた。パラティヌス王国に特有の藍色の髪を一部だけ編んでいるが見るからに騎士らしいたたずまいをした眼光も鋭い若者だ。
「初めてお目にかかります。自分はマグナス=ガラントです」
「こちらこそ、初めまして。デニム=モウンです」
デニムも慌てて立ち上がって頭を下げる。
二人の若者が座り直すのを待ってトリスタン王が話を再開した。
「ゼノビア王国もまだ復興の途上にあるが君に学んでもらえることは少なくないと思う。ヴァレリア王国に戻る時にはいろいろなものを持ち帰ってもらえるよう望んでいるよ。紹介しよう。彼らは聖騎士団長のクアス=デボネア、魔法軍団長のグレッグ=シェイク、魔獣軍団長のロギンス=ハーチ、それにグランディーナと私の后ラウニィー、宰相のケインだ」
カノープスたちは意外な人物が紹介されたので驚き、思わず目配せしあった。グランディーナに限って、このようなかしこまった場所に居合わせるとは思ってもみなかったからだ。
だが確かに軍団長たちの後ろにグランディーナの赤銅色の髪が見え、彼女がどういう気まぐれで来たのか、三人には見当もつかなかった。
「ありがとうございます。陛下に女王からの親書を賜っておりますので、どうぞお受け取りください」
「ありがとう」
デニムが持ち出したカチュア、ベルサリア女王からの親書はミルディンが素早く受け取って、トリスタン王のもとに運んだ。
「それと、この剣をお返しにあがりました」
「それは?」
「ゼノビア王国の前聖騎士団長ランスロット=ハミルトンさまのロンバルディアです」
「ギルダス、君の報告ではロンバルディアはデニムくんに渡してきたということだったが?」
「そのとおりです、陛下」
「ならば、これを返される覚えはない。君が使ってくれ」
「ですが、この剣はゼノビア王国聖騎士団長の証だとうかがっています。わたしに持つ資格があるとは思えません」
「なぜ、そう思うんだい?」
「だって、わたしは、わたしたちはランスロットさまを助けられなかったからです」
話すデニムの拳が机の上で固く握りしめられる。
「あの方がハイムに囚われていることがわかっていたのに、ぐずぐずと攻めていたんです。なかなかハイムに行かなかった。もっと早く行けば暗黒騎士団をハイムから追い出せれば、ランスロットさまを助けられたかもしれないのに!」
「わたしの聞いている報告は違うよ。君が率いる神竜騎士団の戦力ではローディス教国最強の騎士団と言われた暗黒騎士団と正面切って戦うのは難しかった。君たちは最大限の努力をし、最善を尽くしてハイムから暗黒騎士団を追い払い、ベルサリア女王を取り戻した。そうだったな、カノープス?」
「そのとおりです」
「でも! わたしでなければもっと上手く戦えたかもしれません。もっと早く暗黒騎士団を追い払えたかもしれないんです。わたしがぐずぐずしていたから、わたしがランスロットさまは大丈夫だと思っていたから。わたしでなければ、わたしが!」
「それ以上、ランスロットを愚弄するのはやめろ」
そう言って立ち上がったのはグランディーナだった。
デニムは彼女を凝視したが、先ほど紹介されたことは忘れているような顔だ。
「わたしはランスロットさまを愚弄なんか」
「あなたしかランスロットを助けられなかった、そう言うのが愚弄ではないというのか? 自惚れるな、ヴァレリアの英雄と祭り上げられて何でもできるつもりでいるのか。確かにロンバルディアは返すがいい。あなたが持つには重すぎる剣だ。ランスロット一人助けられぬあなたが持つべきではない」
彼女は、そのまま部屋を出ていった。
しかしデニムは顔を伏せ、肩を震わしている。
するとトリスタン王が立ち上がり、デニムの傍まで来て片膝をついた。その時になって初めて少年は王に気づいたようだった。
「ロンバルディアはひとまずわたしが預かっておこう。君にはこれからゼノビアでいろいろと学んでいってほしい。その時にロンバルディアを持てるかどうかわかるだろう」
「ありがとうございます、陛下」
声も震わしていたがデニムは、かろうじてそう言った。その傍らでトリスタン王は立ち上がった。
「明日はデニムくんには休憩してもらって明後日から各軍団長に預ける。予定は昨日、出してもらったとおりでかまわない。ヴァレリアからの大事なお客人だ。出し惜しみなどすることがないように」
「かしこまりました!」
三人の軍団長が揃って立ち上がり応答する。それでトリスタン王はラウニィー妃、ケインとともに退室し、その後から三人の軍団長とマグナスも出ていった。
デニムより1ヶ月早いだけにマグナスは三人と親しくなっているらしく、しきりに質問攻めにしていた。
残ったのはカノープスとギルダス、それにミルディンとデニムだけとなった。
「休息日は明日だけか。シャローム地方に行ってくるには時間が足りねぇな。ギルバルドとユーリアに紹介してやろうと思ったのに。
おまえら、予定とやらの中身は知ってるのか?」
「1ヶ月交替で各軍団に入団ということになったようです。デニムくんは何でもこなしますからね」
「だからって向き不向きがあるだろうが。ずっと前線で戦ってきた奴にいまさら魔獣使いなんか教える必要があるのか?」
「ですが魔獣のことを知るには魔獣軍団で学ぶのがいちばんでしょう?」
「まぁ、ヴァレリアの英雄がいつまでも前線に立ってちゃいけねぇからなぁ」
「ヴァイスがいるんですから僕は前線に出ますよ。僕はもっと強くなりたいんです。ハボリムさんのような剣士になりたいんです」
「ハボリムの旦那か! あれは剣聖だろう? 時々、見えてるんじゃないかと思ったぐらいだからな」
「目標が高いのはいいことさ。もっともゼノビアに剣聖なんて相応しい奴がいるかというと」
そこでカノープスが言葉を切ったのでデニムは不思議そうな顔で見た。
「あれは剣聖ってがらじゃねぇからなぁ」
「ハボリムの旦那とは別の意味で突き抜けてる御仁だしな」
「どなたのことですか?」
真顔で話すカノープスとギルダスに、デニムはミルディンに耳打ちする。
しかし彼より先に答えたのはカノープスだった。
「グランディーナに決まってるだろう! 剣を使わせれば確かに最強さ」
それでデニムも先ほど諫められたことを思い出して暗い顔になる。
しかし彼も伊達に神竜騎士団を率いて暗黒騎士団と戦ってはいない。すぐに顔を上げて言ったことはカノープスたちを驚かせた。
「あの、明日は休みでしたよね?」
「そうらしいな」
「あの方に何か教わるわけにはいかないでしょうか? もちろん明後日からは陛下の仰ったように軍団長の方々の下で学びます。でも明日ならば僕はまだ自由ですよね?」
「うーん」
真っ先にカノープスが唸り声を上げる。
「明日、あいつが城内に、というかゼノビアにだっているとは限らないぞ?」
「神出鬼没の御仁だからな。どこにでも行くけど、どこにもいない」
ギルダスも、わかったようなわからないようなことを言う。
「じゃあ、探しに行きましょう!」
「おい、デニム!」
少年が部屋を飛び出したのでカノープス、次いでギルダスが追った。残ったのは机の上に投げ出されたロンバルディアだ。
「デニムくんもやっと元気になりましたか」
そうつぶやくとロンバルディアを手にミルディンも会議室を出た。しかし彼は三人が行った方とは反対に向かい、中庭へ下りていった。
四角い形のゼノビア城は3階までしかなく、中庭は皆の憩いの場となっている。
もっとも彼が中庭に出るのと、ほぼ同時に反対側の入口からカノープスたちがやってきて、ミルディンは微笑んだ。
グランディーナが、そう長くないあいだ、ゼノビア城にいる時、自分に与えられた部屋にいるよりもここ、中庭にいることの方がずっと多いのは、いわば公然の秘密である。
そして今日も案の定、彼女は北西の隅に建ち並ぶ立像の1つに座って居眠りをしていた。
デニムがその前まで走っていく。しかし彼女が寝ていることに気づいて困った顔でカノープスたちを振り返った。
「かまわねぇから起こしちまえ」
「ですが」
「大丈夫大丈夫! そいつは暇さえあれば寝てるんだ。起こされたって文句は言わねぇよ」
カノープスは、しきりにけしかけるが先ほど諫められたせいかデニムは及び腰だ。
そのうちにグランディーナが目を開け、デニムを見下ろした。立像はカノープスの翼より3バス(約90センチメートル)以上、高かったからだ。
「何の用だ?」
彼女の声音は先ほどよりも穏やかだった。しかし立像にもたれたまま、そこから下りようとはしない。
「あの、僕と手合わせをしてもらえませんか? あなたがこの国でいちばんの剣士だとうかがったので是非、お願いします」
「何のために?」
「僕は強くなりたいんです。いざという時にみんなを守れるように、もっと強くなりたいんです!」
彼女は頭をかいた。
「カノープス、あなたが彼に余計なことを吹き込んだのか?」
「余計なこととは人聞きの悪い。俺はゼノビアでいちばん強い剣士は誰か教えてやっただけだ」
「私は人にものを教えるがらじゃない。ヴァレリアからの大事な客に怪我をさせるわけにはいかない」
「なに言ってんだ。おまえに限ってデニムに怪我させるなんてことがあるものか。たとえデニムがどれだけ暴走したって、おまえなら止められるだろうが?」
グランディーナは小さくため息をついた。彼女はデニムに視線を移し、彼も真正面から受け止める。
それを見たカノープスとギルダスは、してやったりの笑顔を浮かべていた。
「いいだろう。ただし私は明日、ゼノビアを発つ。今日、これからならつき合おう」
「ありがとうございます!」
デニムは腰を二つに折り曲げるほど頭を下げた。
グランディーナは立像から下りると真っ直ぐに屋上に向かった。その後をデニムが頬を紅潮させてついていき、カノープス、ギルダス、ミルディンが続く。
「おい、デニムの剣」
振り返ったカノープスはミルディンが持っていたロンバルディアに目を止めた。
「ちょうどいい。それを使わせよう」
「デニムくんが使いますか? ロンバルディアは一応、陛下の預かりになったはずですが」
「そんなこと言ったって、そこにあるんだからかまわねぇだろう。それともおまえの剣を貸すか?」
「デニムくんが、そちらがいいと言えば」
さらに彼らの後から興味を抱いた者も階段を上がってくる。グランディーナが誰かと一緒にいることは稀だ。数少ない例外はサラディンだが、ヴァレリアから来たばかりの賓客を従えていたことも興味を抱かせた原因だったようだ。その証拠に野次馬にはマグナスまで混じっている。
屋上に上がって、ようやくデニムは丸腰だったことを思い出したらしかった。
すかさずカノープスがロンバルディアを差し出すと彼は躊躇することなく受け取った。というよりロンバルディアであることにも気づいていない様子だ。
グランディーナが無銘の曲刀を抜き放つ。ヴァレリアでは、そのような長い刀を使う者はいなかったのでデニムは一瞬、間合いを計り損ねたらしかったが、すぐにロンバルディアを抜いて対峙した。神竜騎士団では、ほとんど前線に立っていたのだ。戦いの呼吸は呑み込んでいる。
「お願いします!」
先手を取ったのもデニムだった。もともと手合わせを言い出したのは彼の方なのだから自分から積極的に攻めると決めていたのだろう。カノープスたちが見慣れた鋭い剣戟を立て続けに打ち込んだ。
グランディーナは、それらを全て受け流した。
デニムも伊達に激戦をくぐり抜けては来ていない。格上の相手と戦うのも暗黒騎士団が相手では当たり前のことだった。その時の空気を思い出したような顔で前後、左右と攻め立てる。
しかし彼女は、これもほとんど動かずに受け流した。
デニムの速さが上がっていく。ロンバルディアはもともと片手で扱える剣だが、いまは両手で振るっている。それで勢いがついたらしい。
見守る者のなかから感嘆の声が上がった。
けれどもグランディーナも、その場から動かない。いや、動かないのは軸足の右のみで左足はデニムに合わせて動かされているのだが、それ以上の動きは上半身と腕だけなのだ。
デニムが劣っているわけではない。彼女の身体能力が高すぎるのだ。
そうと気づいて歓声が止んでいく。
しかしデニムも足を踏ん張り、強烈な一撃を繰り出した。
その攻撃にグランディーナが初めて、その場から下がった。
「よっしゃ、デニム斬り!」
ギルダスが思わず拳を握り締める。
デニムも勢いを得て次々に斬り込んだ。
また上がった歓声も彼の後押しをするようだ。
「何だ、その知性のかけらも感じられねぇような名前は?」
「いや、俺が勝手にそう呼んでるだけでデニムが名前つけたわけじゃないんだけど」
「そうだろうなぁ。いかにもおまえがつけそうな名前だよ」
「いえ、僕がギルダスさんに相談したんです。暗黒騎士団のテンプルコマンドたちがみんな、凄い技を使ってきたじゃないですか。あれに対抗してみようかと思って」
「おまえ、その案は悪かねぇけど相談相手が間違ってるだろ」
「じゃあ、何だ、旦那なら何てつけるんだよ? ええ? 知性のかけらも感じられそうな技名をつけてもらおうじゃないか!」
「え、えーっと」
「いつまで遊んでるんだよ。これから空中庭園に行くんだ、リーダーがそれじゃ示しがつかないぜ」
「ごめん、ヴァイス。いま行くよ」
「まったく、何をしてたんだ?」
「デニムの必殺技の名前を考えていたのさ」
「必殺技? あいつ、そんなもの使えたっけ?」
「この前、ブランタと戦った時に使っただろ?」
「ええーっ、あれが必殺技っていうのは無理があるんじゃあ」
「まぁまぁ、空中庭園に行くんだろ? おまえらも油売ってないで行こうぜ」
「旦那、ずるいなぁ」
「はいはい。文句は暗黒騎士団倒してからな」
結局、デニムの必殺技もどきの名前は、それきりとなった。空中庭園での激しい連戦に、それどころではなくなったし、空中庭園から帰ってみればヴァレリアを再建するのに忙しくなったからだ。
カノープスたちもゼノビアに帰らなければならなかったし、別れの挨拶は慌ただしかった。彼らをゴリアテの港まで見送りに来たのはデニムだけだった。
そんな事情があったのでギルダスが「デニム斬り」とつぶやいたのがミルディンにはおかしかった。
もっとも当のデニムは皆の歓声とは裏腹に息を上げつつあった。彼の戦い方は手数を多くたたき込み、自身の素早さで翻弄するのが基本だ。
だが「デニム斬り」は、ふだんとは逆に渾身の力を込めなければならない。それは戦いのなかで、そう何度も出せるものではなく、それだけに必殺技だったのだがグランディーナには通用しなかった。
とうとうデニムの足が止まった。吐く息は荒く、剣を持つ手も震えている。全てが重く感じられ、何もかも放り出して寝てしまいたいぐらいだ。
そうと気づいたのだろう。グランディーナが口の端を上げた。それまでデニムの攻撃を受け流すだけだったのが初めて攻勢に転じる。
その手数は多く、速く、力強く、デニムを圧倒した。たちまち彼を端まで追い詰める。ヴァレリアで戦った暗黒騎士団の誰とも違う無骨で実戦的な剣だった。
彼女の攻撃をデニムも全て受け流したが、それは自分の力ではないだろう。彼女が単に手加減しているだけだ。彼は実力の差を認めないわけにはいかなかった。
皆の歓声はデニムには届かなかった。それほど目の前の戦いに集中していたのだ。ヴァレリアにいた時にはできなかったことだ。
神竜騎士団のリーダーとして、彼はいつも周囲に気を配り、敵味方の様子に気を遣い、戦局を見定めていた。どこまで強硬できるのか、これ以上、押したら負けるのか、いつもいつも、その緊張感がデニムを支配しており、縛りつけていたし、それがカノープスやヴァイスたちへの信頼ともなり、逆に彼らもデニムの判断に異を唱えることは滅多にしなかった。
だが、たった独りでゼノビアに来たことで、その鎖から解き放たれたことに彼は気づいたのだ。そして自分の全力を出し切っても受け止めてもらえる相手を見つけたのだ。
「妬けるねぇ。俺たちじゃデニムにあんな顔はさせられない」
「馬鹿言え」
その時、グランディーナがデニムの胸をこづいた。
通常ならば、あり得ないような隙だったが力を出し切っていた少年は簡単に受け、尻餅をついた。手からはロンバルディアが転がっていく。
「おしまいだ。次は体力をつけてくるがいい」
「あ、ありがとうございました」
デニムは立ち上がろうとしたが手も足も言うことを聞かなかった。
慌ててカノープスとギルダスが駆け寄ってくる。
「大丈夫か?」
「すみません、お借りした剣が」
「剣なんかより、おまえの方が心配だよ。立てるか?」
「少し休んでいれば」
カノープスがロンバルディアを拾い、鞘に収めた。
そこにマグナスが近づいてくる。
「今度、手合わせをお願いできますか?」
彼はデニムの目の高さに合わせて片膝をついた。
「僕で良ければ喜んで」
マグナスが差し出した手をデニムが握り返すと彼は明るい笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます。自分もゼノビアに来た時に彼女とやらせてもらいましたけれど、とても刃が立たなかったですよ」
「そうですか。お互いにまだまだですね」
「ええ、これからです」
そんな堅苦しい会話を交わして、マグナスはカノープスたちにも挨拶すると去っていった。
「デニム、もう立てるか?」
「まだ難しそうです。何だったら僕はまだ休んでいきますから先に戻ってください」
「そういうわけにはいかねぇんだな、これが」
「えっ?」
「今晩はおまえの歓迎会で宴を催すことになってるんだ。と言ってもそんなに堅苦しい席じゃねぇから緊張することもないが主賓のおまえがいなくちゃ話が始まらねぇ」
「でも僕はすぐに動けそうにないですよ?」
「だとよ。どうする、ギルダス?」
「王を待たせるわけにもいかないからなぁ。旦那、頼むぜ」
「よしっ」
カノープスの手からミルディンにロンバルディアが渡った。何事かとデニムが目を白黒させていると、カノープスは素早く彼を後ろから抱え上げ、ギルダスに背負わせた。
「ちょっ! ちょっと待ってください!」
「いいや、おまえの恥より王を待たせる無礼のが問題だ。ここはおとなしく背負われていけ」
「だったら一人で歩きます!」
「だっておまえ、まだ歩けないんだろう?」
「どなたかに肩を貸してもらえれば僕だって」
「しょうがねぇなぁ」
それで結局、ギルダスが肩を貸してデニムを食堂まで連れていった。着いたころには彼はすっかり息を切らしていたが、今度「動けない」と言おうものなら問答無用でギルダスにおんぶされそうで、それだけは避けたかったのである。
「大丈夫かい、デニムくん?」
「はい、少し休めば直ります」
トリスタン王とラウニィー妃に挟まれてデニムは、ずいぶんと居心地が悪そうだった。
その向かいにはマグナスが座り、デボネアやグレッグ、ロギンスらも腰を下ろしている。
ほかに座っているのはケインとサラディン、それに各軍団の副団長だった。カノープスらの席が設けられているのはデニムへの配慮だろう。
ゼノビア城の食堂は、あまり広くなく片側に5人座れる卓が3つあるきりだ。それはトリスタン王が華美な装飾を嫌ったためで元からあった大きな部屋も複数の小部屋に分けられて、より実用性を追求した造りになっていた。
慣れた様子のマグナスはともかく、デニムは部屋の大きさに驚いていたが宴らしい宴にならないのはしょうがないことだった。もっとも彼としては、そのおかげで、あまり緊張せずに済んだ。食事こそヴァレリアでのそれに比べると、よほど豪華だったが室内の飾り付けのなさはアルモリカ城にも劣るだろう。
それよりもデニムが気にかかったのは一座のなかにグランディーナの姿がないことだった。
「誰かをお捜し?」
食事中に周囲を見回すのは、みっともないとしつけられていたデニムだったが視線は自然と赤銅色の髪を探した。それをラウニィー妃にめざとく感づかれて、彼は赤面する。
「も、申し訳ありません。当然、いらっしゃるものだと思ってたものですから」
「グランディーナならば、このような場には来ないわ。自分には似つかわしくないと言って断られたの。でも彼女は中庭にいるから行ってごらんなさい」
「ですがぼ、いえ、わたしのために開催していただいたのに席を外すのは申し訳なく思います」
「気にすることはないわ。そうね」
ラウニィーは空っぽの皿を取り、卓上を眺めた。皿の上に包み焼き(ぱい)を5切れ載せて、給仕を呼びつけて水筒に水を入れるように言った。
「彼女のことだからきっと夕餉(ゆうげ)の時間も忘れているわ。これを差し入れしてあげれば、きっと話し相手になってくれるわよ」
皿と水筒を差し出されたがデニムが、まだ立てないでいると後ろからトリスタン王にまで口添えされた。
「グランディーナは明日、発つ。君が話す機会はいましかないのだから行ってくるといい。わたしたちとはこれからいくらでも話す機会はあるだろうが彼女が次にいつ帰ってくるかは誰にもわからないからね」
「申し訳ありません、陛下、妃殿下。失礼します」
食堂を去り際にデニムは、もう一度、室内の人びとに向かって頭を下げた。
ラウニィー妃の言ったようにグランディーナは先ほどと同じ立像にもたれて眠っていた。そろそろ野宿には肌寒い季節だというのに一晩中、ここで寝るのかと思わせるような格好だ。
デニムが、またしてもどう起こしたものか躊躇(ためら)っていると今度もグランディーナの方が先に目を開けた。
「またあなたか。何の用だ?」
先ほどカノープスが言っていたとおり、眠っているのを邪魔されたわりに、それほど不機嫌そうではないがデニムも、ここは恐縮せずに図々しく振る舞うことにした。
「どうぞ、差し入れです。まだ晩ご飯を食べていらっしゃらないんでしょう?」
「誰の入れ知恵だ?」
「妃殿下です。あなたが夕餉の時間も忘れていらっしゃるだろうから差し入れしてさしあげたら話し相手になっていただけるだろうと仰ってました」
「なるほど」
グランディーナは立像を下り、包み焼きを一切れ、手に取った。
「ありがたくいただいておこう。だが話す前に一つ頼みがある」
「何でしょうか?」
水筒は持ってきたが中身は水だけだ。デニムは濁酒(どぶろく)を入れてくるべきだったかと考えたが彼女が言ったのは、まったく別のことだった。
「私に敬語を使うな。話しづらくてかなわない」
「すみません」
「別に謝ることもないが、ふつうに話してもらった方がいい」
そう言うとグランディーナは2つめの包み焼きを手にした。最初のやつは、いつ口の中に入り、呑み込まれたのか、わからぬ速さだ。デニムは、ようやくカノープスが呆れたように言っていた早食いのことを思い出して納得したが、そのまま彼女が腰を下ろしたので合わせて真正面に座り込んだ。
月明かりのおかげでお互いの居場所はわかるが表情までは難しい。けれどもグランディーナが笑ったような感じがデニムにはしていた。
「どうぞ、水です」
「ありがとう」
「これは全部、あなたのために持ってきたので食べてください」
「あなたはいいのか?」
「わたしの分は、食堂にありますから。足りなければ、もっと取ってきます」
「いや、私はこれで十分だ」
そう言いながら包み焼きが1切れずつ消えて、とうとう皿と水筒は空っぽになった。
「だが、あなたのために開かれた宴をさぼるのは感心しないな」
「わたしもそう思ったのですがラウニィーさまに後押ししていただきました」
「なるほど」
「話してもいいですか?」
「何の話か知らないが、いつでもどうぞ」
「ランスロットさまのことです」
「何を話すことがある?」
「さっきはなぜあんな言い方をされたんですか?」
「あなた以外の者が指揮を取ればランスロットを助けられたのではないかという話か」
「そうです」
「あなたもいい加減しつこいな」
「だって納得できません」
「ランスロットもカノープスもリーダーとして、あなたのことは高く評価している。そのあなたが、ほかの誰に代われば満足する?」
「え?」
「あなた以外の誰かならばランスロットを助けられたと言うのは彼の判断を疑う言動だ。それが彼を愚弄していると言っている。まだ納得できないのか?」
デニムは真っ赤になっていた。カノープスはもとよりランスロットにまで、そんなに評価されているとは思ってもみなかったからだ。またグランディーナが、その二人の評価を受け止めているのも信じがたかったが彼女の口調からからかっているのでもなさそうだ。
「納得したのなら帰ってくれ。私は寝たいんだ」
「そんなに寝て、どうするんですか?」
「明日からゼテギネアを離れる。何があるかわからないから寝だめをしておかないとな」
「どこへ行かれるんですか?」
「当面はパラティヌスかな。その先はサラディン次第だ」
「わたしも一緒に行ったら迷惑ですか?」
「あなたはそんなことのためにゼノビアに来たのではないだろう。ヴァレリアを代表して来ていることを忘れるな」
「でも、あなたと一緒の方がおもしろそうです」
「私はあなたのお守りをするのはごめんだ」
そう言うと彼女は立ち上がり、また立像に座り直したのでデニムも、つられて立っていた。
けれども彼女は、それきり眠ってしまったらしく、規則正しい寝息が聞こえてきた。
デニムは諦めきれなかったが、「お守り」とまで言われては反論しようもない。皿と水筒を持って食堂に戻っていった。
その翌日、グランディーナとサラディンがゼノビア城を発った。朝の忙しい時間のせいか見送る人の数は少なく、カノープスとデニム、それにラウニィー妃ぐらいしかいない。交わす挨拶も言葉少なだ。
「昨日、一緒に行きたいと言ったら、お守りはごめんだって言われてしまいました」
デニムの言葉にカノープスは心底、呆れた様子でため息をついた。
「おまえ、遊びに来てるんじゃないって、わかってるのか?」
「行ってみたかったんですよ。あの方の側でもっと強くなりたかったんです」
「そういう問題じゃねぇだろう。だいたいベルサリア女王にはどう申し開きをするつもりだったんだよ? 受け入れた俺たちの立場も考えてくれる?」
「そこまで考えてませんでした。でも、あの方は次にいつ帰ってくるかわからないと言われたので、いま行った方がいいように思えたんです」
「焦るな焦るな。おまえはまだ若いんだ。この先だって機会はいくらでもあるさ」
「そうでしょうか?」
不安そうな顔でデニムは赤銅色の髪を探したが、それはとうに城門を出てしまい、見えなくなっていた。
「昨日は二度とあの方に会う機会なんて、ないように思えたんです」
「あの方なんてがらでもねぇが、あいつだってまだ若い。確かにいつ帰ってくるのかわからんが会えないはずがないだろうが」
「そうだといいんですけれど」
デニムには、その時に感じた不安をうまく説明することができず、それでもカノープスの言うとおりなのだと思い直した。
けれども二人には二度と会う機会は巡ってこなかった。グランディーナは、その後、2年もゼノビアには戻ってこなかったし、自らヴァレリアに行くこともなかった。デニムも、いつまでもゼノビアにはいるわけにはいかなかったからだ。国土の立て直しに忙しいヴァレリアには彼を、そんなに遊ばせておける余裕があるはずはなかった。
そしてロンバルディアは結局、デニムに返された。彼自身が、ずっとこの剣で戦ってきたために慣れてしまっていたのと当のランスロットがヴァレリアで静養していたので返すのには早いだろうとの王の判断からであった。
デニムはマグナスともども鍛錬に演習にと忙しい日々を過ごした。たまの休みにはカノープスやギルダスに連れ回されてシャローム地方に行ったりハイランドに行ったり、ダルムード砂漠まで行って最後にはマラノの大きさに圧倒されたりもした。
マグナスとも仲良くなって、パラティヌスのことを聞いたり、ヴァレリアのことを話したりもした。互いの戦いの様子も話し合って、ヴァレリアとパラティヌスに同時に2つの騎士団を派遣したローディス教国の強大さに触れたりもした。
けれども1年後にヴァレリアに無事に帰ったデニムは、いちばん印象的だったのは、やはりゼノビア救国の英雄グランディーナとの出会いだったとベルサリア女王に報告した。
「デニム、明日から演習に加わってもらいたいから今日はゆっくり休んでくれ。夕食の後で説明する」
「わかった、ヴァイス」
女王のもとを辞したデニムが訪ねたのは海辺に建つ教会だった。
「お久しぶりです、デニムさま」
「元気そうだね、クレア」
「デニムさまもお変わりなく。新生ゼノビア王国は、いかがでしたか?」
「いろんなものが大きいところだったかな。人でも物でもヴァレリアとは規模が違うんだ。でも話し出すと長くなるから、おいおいにね。
それよりもランスロットさまの具合は如何かな? せっかくゼノビアに行ったから、お話できたらと思って来たんだけど」
「あまり長時間でなければ大丈夫だと思います。最近、少しだけ表情を変えられることがあるんですよ」
「それは君の献身的な介護のおかげだね」
「いいえ、そんなこと」
クレアは恐縮したがデニムは微笑んでランスロットに近づき、跪いた。
彼は椅子に深く腰かけており、下半身には大きなひざ掛けが巻かれていた。ひざ掛けに置かれたオルゴールは、かつて妻の形見だと言って見せてくれた物だ。その後に起きたバルマムッサの虐殺とは別に、デニムはよく、この時に聞かされたオルゴールの音色を思い出すことがあった。それはランスロットと話した最後の記憶でもあったからだ。
だが、彼を見下ろす聖騎士の眼差しは、どんよりと濁って光を失っており、クレアの言う「表情を変えることがある」のも、どれほどのものか疑わしい。
「ランスロットさん、僕、あなたの国に行ってきていたんですよ。ゼノビアに留学して、あなたのことを知っているって言うたくさんの人に会いました。でも、どなたもあなたのことを訊ねないんです。カノープスさんたちだって何も言わないんです。だって僕、何も言えません。聖騎士団長だったあなたが、こんなに傷つけられて話すこともできなくなってるだなんて」
デニムは額をランスロットのひざ掛けに当てた。その温もりは、あの日、命の責任について話してくれたランスロットのものなのに当人は何もわからないのでいるのがデニムには無性に悲しかった。
その時だ、彼の手が動いたのは。その重みにデニムは心底、驚いた。傍で見ているクレアさえ息を呑んだのがわかった。
だが、顔を上げるとランスロットの表情には変わりがなかった。ただ彼の手がずり落ち、焦点の合わない瞳がデニムに向けられている。
彼は、その手を膝に戻した。それだけが拠り所であるかのように彼はオルゴールをかき抱いているのだ。
「ありがとう、クレア。僕は、そろそろ戻るよ」
「またおいでになってください。きっと、いつか、お戻りになられますわ」
「そうだね」
その時こそランスロットに騎士の証ロンバルディアを返す。そう思いながらデニムは海の見える教会を去ったのだった。
《  終  》
[ 目 次 ]
[ トップページ | 小 説 | 小説以外 | 掲示板入り口 | メールフォーム ]