「遠い約束」

「遠い約束」

〈何でも屋〉のジャックが寒さに目を覚ますと目の前にあったのはグランディーナの寝顔だった。彼女の右腕はジャックの身体に巻き付くように置かれている。左腕は自分の頭の下だ。
暖かいのは彼女と接している側だけで、背中の方から凍りつくような寒さが迫ってくる。
小屋の中は薄明るいが外で唸る季節外れの吹雪は止んでいなかった。ほかの物音を一切消して、荒れ狂い、頑丈さだけが取り柄の丸太小屋は時々、揺れた。
ことの起こりは昨日の朝だ。いや、そもそもの始まりは一昨日の午後からだろう。
グランディーナがゼテギネアの辺境イスマイリアという田舎町の近くに居座ったと聞いて会いに来たのが発端である。
イスマイリアには新生ゼノビア王国の基地があるが、グランディーナは、ふだんはそこにいないというのでジャックはわざわざダミエッタ山脈のなかにあるサッカラの山小屋を訪ねた。
彼女はいつもそこにいるわけではなく、ほとんどはダミエッタ山脈中を歩き回っていると聞いていたが、その時はたまたま小屋に寄ったところで、ジャックの訪問に驚いたが、久しぶりの出会いだったのでしばらく話し込み、あまり上等とは言えないが食事もご馳走になり、夜も遅くなったのでそのまま小屋に泊まったのだ。
すると、その翌日から天候が急変して吹雪に見舞われた。ジャックは山小屋から一歩も出られなくなってしまったのである。だいたい彼の服装が秋向きの装いで寒さを凌げない上にグランディーナも吹雪が止むのを待った方がいいと言う。
そのことにジャックとしては異論はないのだが、山小屋に置いてある燃料がたった半日でなくなってしまい、小屋が暖まらなくなったから大変だ。たちまち凍えてしまった彼にグランディーナが提案したのが、二人とも裸になって人肌で温め合うという方法だった。
それでジャックは、ようやく眠ることができたのだが、夜明け前の寒さでまた目が覚めたのである。
その時、熟睡しているかと思ったグランディーナが目を開けた。
「もう起きたのか、ジャック」
「寒くて、あまり寝られなかったのです。それに空腹も堪えましてね」
「あと二日もすれば吹雪も止む。それまでの辛抱だ。雪だけはいくらでもあるから、それでもしゃぶっているといい。水分補給にもなるだろう」
そう言って裸のままで動き出したグランディーナは、この小屋の一つきりの扉に近づいた。彼女が掛け金を外すと扉の隅が開き、そこから猛烈な冷気が侵入してくる。外の景色はまったく見えず、ただ雪の壁だけが見えた。グランディーナは雪の塊を掘り出すと、ジャックに差し出した。これが彼女の言う「雪」なのだった。
ジャックは寒さに凍えながら氷を舐めた。その背にグランディーナが毛布をかける。
「そんな格好で、あなたは寒くないのですか?」
「あなたよりもこの山の気候に慣れている。それにもともと寒さには強い方だ」
そう言って彼女も氷を囓(かじ)っている。この小屋に、ほかに食べる物はない。ここは、もとを正せばダミエッタ山脈のマンスーラ山にある避難小屋の一つで、グランディーナが拠点にしている。今回のような急な天候の変化の時に避難するように設置されているが、燃料を使い尽くしてしまったのだからしょうがない。
ダミエッタ山脈は、そもそもガリシア大陸の最南端にある長大な山渓でゼテギネア大陸との接点になっているが人の往来は皆無に等しく、二つの大陸の交流が少ないのも、地理的な要因は大きかった。
だが新生ゼノビア王国暦5年、マンスーラ山がゼテギネア中の注目を集めたことがある。ほかならぬグランディーナが、この山に近いイスマイリア基地に来たからだ。その前の5年間は、ほとんどゼノビアにいなかった救国の英雄の登場に辺境の町は沸き返った。しかし彼女が嫌がったことでトリスタン王はダミエッタ山脈一帯を立入禁止にし、騒動は収まったのだった。
もっとも立入禁止といっても誰が取り締まるということもない。現にジャックは誰の許可も得ずに山小屋に至ったせいで、このような目に遭っているのである。いや、こういう非常事態ではあるが誰かのせいにできるものではないだろう。強いてあげれば自分、山小屋に来ることを決めた自分の責任なのだ。
そう思って彼は大きなため息をついた。手の中の雪は舐めたくらいではなかなか溶けず、そのうちに手がかじかんできていた。
「わたしたちは、このまま吹雪に閉じ込められてしまうのではありませんか?」
「そんなことはない。季節外れの吹雪だ、三日も吹けば止んでしまう。そうすれば、すぐに戻れる」
そう言ったグランディーナの口の中で雪が音を立てて咀嚼された。ジャックは、これ以上、雪を舐めているのを諦めて口の中に放り込んだが、寒さはいや増すばかりだった。
「なぜ、そのように言い切れるのです?」
「この山で1年も過ごしていると、だいたいのところはわかるんだ。ダミエッタ山脈は天候が変わりやすい。だけど冬ならばともかく、いまの季節の吹雪は長く続かない」
「だといいのですが」
「頼まれてもいないのに、こんなところまでやってくるからだ。物好きも、ほどほどにしておかないと命を落とすぞ」
「とんでもない! あなたのいるところなら、わたしはどこにでも行きますよ。心配なのは、ただ、あなたの邪魔にならないかということだけです」
言ってからジャックが大きくくしゃみをしたのでグランディーナが近づいてきた。
「眠くもないだろうが休んでおこう。いざという時に体力がないのは困るからな」
「いざという時など、わたしは想像したくもありませんがね」
「その時は私が、あなたを麓まで背負っていくよ。それだけの力は残しておく。あなたが麓まで耐えられるかどうかだけが心配だ」
「小屋にいた方がましなのではありませんか?」
「いざという時と言うのは、この小屋が吹雪に耐えられなかった時だ。さすがに風雪を凌げなくなると辛いからな」
「そんな事態は想像したくもありませんね」
ジャックの毛布が取り上げられたが、すぐに彼女に後ろから抱きかかえられた。その肌は多少冷たかったが、彼のそれに触れるとじきに熱を帯びた。胸の突起が背中に当たる。それは彼が思っていたよりも堅くて筋肉質のようだった。
しかしジャックは再度、大きなため息を吐き出した。グランディーナと、これだけ肌を合わせることがないというのに彼のものは萎(しな)びたままなのだ。あまりの寒さに勃(た)つことがないのである。
だが皆の反対を押し切って、こんな山小屋までやってきたのは彼自身だ。あわよくばという期待が彼のなかになかったとは言わないが、遭難同然の事態に陥ろうとは想定外の出来事であった。
「泊まるなどと言い出さないで、さっさと駐屯地に帰っていれば良かったですね」
「吹雪に見舞われるのは同じだが、その時は暖かい部屋で休めて、まともな食事も出たろうからな。でも、どうだろうな。もしかしたら下山する途中で吹雪に襲われていたかもしれないぞ」
「この小屋にいた方がましだったかもしれないというわけですか。ですが、その場合、あなたはどうしていましたか?」
「私は、いつもと同じだ。この小屋にいれば吹雪が晴れるのを待つし、外にいれば、どこかに避難する。あなたを見送った後だから、この小屋にいたかもしれないな」
「火の気もない小屋に一人でいるのですか?」
「それはしょうがない。私が好きでしていることだ。誰かをつき合わせるわけにはいかないだろう。それに燃料も、あんなに早くなくならなかったろうしな」
「でしたら、わたしはよほどの物好きということになりますかね」
「そういうことだ。さあ、休むといい。寝る時間だけは、いくらでもあるからな」
「グランディーナ、正面を向いてもいいですか?」
「あなたが、その方が良ければ、どうぞ」
もっとも前を向こうが後ろを向いていようが彼女はジャックを抱きしめるので、あまり違いはない。いや、冷たい小屋の壁を見つめているか、グランディーナの胸元を見つめているか、この違いは大きい。
「寝てばかりいるのも退屈です。少しおしゃべりをしませんか?」
「あなたらしい言いぐさだな。まだ心配する必要はなさそうだ」
「弱音ばかり吐いていても無様なだけですからね。あなたと二人きりで、そんなみっともないところは見せられません」
「それで何を話す? 私は山に籠もりきりだから、何も変わったことはないよ」
「そう、それです。たまには里に下りませんか? そのあいだ、山の方は疎かになってしまうかもしれませんが、あなただって、たまには息抜きしてもいいのではないですか? いいえ、あなただって息抜きをするべきです」
グランディーナが笑い出したのでジャックは寒さも忘れて、どう捉えたらいいのか思案を巡らせた。
「あなたもおかしなことを言うのだな。山を下りて何をする? いまさらゼノビアに行っても警戒されるだけだろうし、ここはどこに行くのも遠い。そんなに長いあいだ、山を空けているのは嫌だな」
「ゼテギネアやザナドュならば近いですよ」
「あなたと行けば話題になってしまうだろう。余計な気を回されるのはごめんだ。それに山暮らしが身について礼儀作法とやらも忘れてしまったから、あなたに恥をかかせることになりそうだ」
「そんなことあるわけがないでしょう。マラノでも申し上げたとおり、わたしはあなたの連れであることが自慢だったのですからね」
「あれだけ着飾れば私だとわかった者はいなかったろう?」
「それは、そうですが、あなただって正体を知られるのはまずかったのではないですか?」
「そうでもない。二度とやりたいとは思わなかったけれど、あれで解放軍に金が集まるのなら、いい宣伝だと割り切ることにした」
「それでは逆に知られなくて残念でしたね」
「もっとも、あの時の私は自分にそんな価値があるとは思っていなかったけれど」
「うら若い女性にないわけがないじゃありませんか。あなたはご自分の価値を低く見過ぎです」
「傭兵などやっていると、そんなものさ。足元を見られて値切られることに慣れてしまう。生きることが優先で自分を高く見せることまで気が回らないんだ」
「あなたほどの方でも、ですか?」
「私を買い被らないでくれ。それに自分の名前を売らないようにすることの方が大事だったから、どっちにしても高くなんて見せられなかったろう」
「わたしならば、いつでも最高の待遇でお迎えしますよ。いまさらですが、いかがですか?」
「あなたにはバンがいるだろう。彼の仕事を横取りする気はない」
「彼には別の仕事を頼みます。あれで有能な人物ですからね、使いどころは多いのですよ」
「だからって彼の後釜には座らないよ。私は、ここの方が居心地がいいんだ」
「そうですか? 自分では名案だと思っているのですがねぇ」
「ローディスとの戦争が済むまで、そんなつもりはない。あの国を倒すことが当面の目標だからな」
「その時は全面的に協力させてもらいますよ、解放軍の時以上にね」
「あなたまでローディスに何かあるというわけではないのだろう?」
「ありません。わたしは商人です、どこの国とも商いはさせてもらいますが、どこの国にも肩入れしないで来ました。ああ、あなたに限ってないとは思いますが、わたしがどこの出身かなんて野暮なことは聞かないでください。わたしは自分の生まれた国に思い入れはありませんからね」
「あなたもはっきりしているんだな」
「お褒めの言葉と受け取っておきましょう」
言ってからジャックは大きなくしゃみをした。グランディーナが彼をさらに抱き寄せる。
「少し休んだらいい。何かあったら、すぐに起こす。空腹だけはどうしようもないけれど」
ジャックは言われたとおりに目をつぶったが、こんな時になって困った事態に陥っていた。グランディーナの乳房が真上にある状況で、萎びきっていると思っていた一物に血が通い、力を帯びてきたのである。
「わーっ! 待ってください!」
「どうしたんだ?」
「手、手を、手を離してください!」
「どうぞ」
ジャックは慌てて立ち上がったが、たちまち震え上がるような寒気に包まれて勃起しかけた物は萎えてしまった。だらしなく垂れ下がったそれを見て、グランディーナは事情を察したらしく笑いを堪えているのが、また癪(しゃく)の種だ。
彼女は起き上がり、座り直した。
「私は、あなたとならいいよ」
そう言って手招きをするが、それは彼が寒さに震えているのを見かねてのことだろう。
「せっかくですが、お断りします」
「別にいますぐとは言わない。吹雪が止んでからイスマイリアに行ったって」
「そんな理由で、わたしがあなたに関係を求めるとでも思ってるんですか? 見くびらないでください」
「ごめん、ジャック」
毛布をかけられ、彼女に後ろから抱きしめられても彼の震えはなかなか止まらなかった。
「だけど私には何もないから、こんな形でしかあなたに返せないんだ」
「見返りがほしいなどと、わたしは言ったことはありません。この〈何でも屋〉の矜恃にかけて、あなたに、そんなものを要求するつもりはありませんよ。いいえ、謝らないでください。わたしも男ですから身体は正直に反応してしまうのです。むしろ、わたしの方が許しを請いたいくらいです。あなたを、そんじょそこらの女どもと一緒にするなんてね」
そう言いながら、温もりを取り戻した彼の息子が、また首をもたげるのをジャックは我慢した。
「私はきれいな身体じゃないよ。あなたに大切にしてもらうには及ばない」
「馬鹿を言わないでください。こんな時にお世辞で言うようなことではありませんよ。それに、わたしは初めてお会いした時に申し上げたはずです、あなたの身体はきれいだとね」
話しながらジャックはグランディーナの腕をつかみ、左右に身体をゆっくり揺らした。
「あなたはただ、こう言って澄ましていてくだされば良いのです。今日のことは、いつか恩返ししてくれればいい、とね」
「あなたは、それでいいのか?」
「それが対価というものです。商人のわたしが言うのですから間違いはありません」
「そうだな」
グランディーナが笑ったのでジャックも笑った。彼女があんまり楽しそうだったので、ジャックはこの時が永遠に続けばいいと思って、すぐに打ち消した。寒さも空腹も、すでに耐えがたい。いくらグランディーナと二人きりとはいえ、早く終わってくれた方が、よほどいい。
結局、吹雪はグランディーナが予想したとおり、三日吹き荒れて止んだ。
そのあいだ、ジャックは寒さと空腹と寝不足に悩まされて、さんざんに痛めつけられたが、大事には至らずに生き延びた。多少、手足の先が凍傷にかかりかけたが、それだけで済んだのは、ひとえにグランディーナのおかげだ。
彼女は、この三日間というもの、あまり眠っていない。ジャックの面倒を診るのもそうだが、万が一、吹雪で小屋が潰れるようなことがあったら、その前にしなければならないことがあるので、いつも神経を尖らせていたはずだ。
もっとも、そうは感じさせないのがグランディーナの凄いところで、ジャックはその強靱さに感嘆するのみである。
昨日までの吹雪が嘘のように空は晴れ渡り、この地方には珍しいという青空をのぞかせていた。
見渡すと、そこら中、雪で埋もれ、サッカラの山小屋も、もう一日、吹雪が長引いたら雪に押しつぶされていたかもしれないと思うと、ジャックは背筋が寒くなるどころではなかった。
しかし小屋を先に出たグランディーナは大きく伸びをしただけだった。このダミエッタ山脈で1年も暮らしているという彼女には、こんな吹雪もよくある天候の急変のひとつに過ぎないのだろう。山小屋を潰されれば彼女は拠点、というか麓のイスマイリア駐屯地との連絡先を失うことになるが、慌てたりすることもせず、何食わぬ顔で駐屯地に現れるのだろうとさえ思えるほどだった。
現に、その年の冬は寒さが厳しく、サッカラの山小屋のほかにもマンスーラ山に建てられた避難小屋が何軒も積雪のために潰されることになるのをグランディーナもジャックも、いまだ知らない。
雪に反射する光がまぶしくてジャックが目を細めているとグランディーナが振り返って言った。
「ジャック、今日の恩返しに、ひとつ、約束してもらってもいいか?」
「あなたの仰ることならば喜んで承りましょう。どんなことでしょうか?」
「この先、私が死んだら死体でも灰でもいいからゼテギネアに持って帰ってほしいんだ」
「藪から棒に唐突なお話ですね。あなたほどの方が誰かに殺されると言うのですか?」
「私だって人間だ、万が一ということはある。でも、あなたに頼みたいことは、そういう話とは違う事情なんだ」
「違うとは、どのようにです?」
「この先、ゼノビアとローディスのあいだに戦端が開かれる。トリスタンのことだからゼノビアから喧嘩を売るようなことはしないだろうけれど間違いなくローディスが仕掛けてくる。その時、ローディスに捕まったら私は生きていないだろう。ローディスの者たちは私のすることを許さない、そういう事態になるはずだ。私が死んだらと言うのは、その時のことさ」
「ですが、あなたが捕まってしまったら、ゼノビアも大変なことになっているのではありませんか?」
「そうだろうな。だがローディスは強い。私一人でどうこうできるような国じゃない。もちろん全力は尽くすつもりだけれど、それはローディスの恨みを買うことになるだろう、その覚悟もしている。ローディスと一戦を交えるというのは、そういうことだ」
「どうしても、あなたの死は避けられませんか?」
「仕方ないな」
「いいですよ、グランディーナ。わたしは商人です。ローディスであろうとゼノビアであろうと商売できるところには、どこにでも行きます。もしも、あなたがローディスに捕らえられた時は、わたしが責任を持って、あなたをゼテギネアに連れて帰りましょう。この〈何でも屋〉のジャックのすべてをかけて、お約束いたします」
その言葉に彼女は初めて笑った。
「ありがとう。あなたなら、そう言ってくれると思っていた」
「あなたのご期待に添えられて何よりです。ですが、わたし個人としては、そのようなことがあなたに降りかからないように願うばかりですね」
「それは、あまり意味がないな」
「それでも、わたしは願わずにいられないのですよ。あなたの死を看取ることになどならないようにとね」
「それよりもジャック、この雪は明日には溶けるだろうけど迎えが来るのもそれくらいだ。私が先導するから山を下りるか?」
「もう一日、山小屋で過ごすよりはましな提案ですね。ですが、途中で歩けなくなるかもしれませんが」
「大丈夫だ。その時は私が背負っていく」
「でしたら是非お願いします」
それで二人はじきに山を下り始めたが、ジャックにとって想定外だったのは吹きつける風の冷たさと来る時には味わわなかった山道の険しさだった。それは三日もろくに寝ず、まともな食事もしていないジャックには堪えた。
彼はサッカラの山小屋が見えなくなってからグランディーナに背負われてマンスーラ山を下ることになった。もっとも彼女にとっては、そんなことは想定のうちだったようでジャックが自分で下っている時よりも、その足取りはずっと速かったのが彼には情けない話であった。
グランディーナが山を下りる時、それはローディスとの戦いが始まることを意味するだろう。そうなってから彼女と会う機会は、なかなかあるまい。ましてや昨夜までのように誰にも邪魔されることのない二人きりの時間がとれることも、もはやないだろう。
それでも彼女は戦場に向かうし、ジャックも己の本分を忘れることはない。この小屋であったことなど二人とも忘れてしまい、思い出すこともそうそうないに違いない。
だが、それはどちらもが望んだことであり、自分の意志でそうするのだ。
誰かに強制されるのではなく、自ら、そうすることを選ぶ。
それぞれの戦いの果てに、グランディーナとの約束を果たすことがあるのだとしたら、それはジャックにとって最高の瞬間であり、最悪の瞬間でもあるだろう。
だが、それも悪くないと〈何でも屋〉は思う。グランディーナに言ったとおり、それは自分のすべてをかけてでも果たす価値があることだ。
〈何でも屋〉のジャックの全財産、金、物品、人材のすべてを使い果たしてでも彼は彼女との約束をかなえる。
願わくば、その日がなるべく先のことを。それが遠い、遠い約束になることを。
《  終  》
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