「忍ぶよすがに」
「グランディーナ、どこに行くの?」
「温泉だ。髪が血糊で固まったままだし、アヴァロン島に来て温泉に入らないのも芸がない」
「そういうものかしら?」
「そういうものだ」
ユーリアが笑い声を立てる。
有翼人は風呂に入るという習慣がなく、水浴びで済ます。彼女らの羽根は濡らしても大丈夫だが水につけると駄目になってしまうからだ。アヴァロン島の名物はロシュフォル教会と温泉ぐらいだが、有翼人たちには両方とも縁のないものであった。
「本当、髪に血がこびりついたままね。ごめんなさい、ずっと気づかなかったわ」
「あなたが謝る筋合いでもないだろう」
「駄目よ、無理に引っ張っては。布が破けてしまうわよ。血糊を落としたら自然にほどけるわ。どうしてもいま取りたいのなら、切ってしまった方が速いけど、そうしてもいいの?」
「駄目だ。それよりもあなたは温泉に入らないのだろう。なぜついてくる?」
「だって心配だもの。つい半日前まで瀕死の重傷だった人が何もなかったような顔をして歩いているのよ、いつ倒れたって不思議じゃないわ」
「私は大丈夫だ。デネブはそんなへまはしない。そう言ってもあなたはついてくるのだろうがな」
「そういうこと」
話しているうちにバインゴイン町営温泉に着いた。
グランディーナが料金を払い、中に入る。温泉にほかに人影はなく、貸し切り状態だ。
「蒸し暑いわねぇ。温泉というより、まるで蒸し風呂みたいだわ」
「アヴァロン島の源泉は湯温が特に高いそうだ。もっとも、私もアヴァロン島以外で温泉に入ったことはないんだが」
「ふーん。せっかく来たんだから水浴びでもしていこうと思ったけど、これでは無理ね。背中を洗ってあげるわ」
「ありがとう」
温泉は天然の露天風呂で、先に源泉があったらしい。周囲を柵で囲い、受付を設けただけの構造だ。柵に棚がつけてあり、いくつかの藤籠と手桶が備えてある。手拭いは料金のうちで貸してもらえるが、グランディーナは服と一緒に籠に放り込んでいた。
日に灼けた肢体には古傷が目立った。刀や鞭によるもの、ユーリアには原因もわからぬものまで身体中、傷痕だらけだ。ジャンセニア湖でシリウスに噛まれたという左肩にもしっかり痕が残っている。
有翼人は鎧兜を身につけることを嫌うし、ふだんから薄着、あるいはほとんど服を着たがらない。そんな彼らが戦場に出れば、受ける傷は自然と増える。
だがグランディーナの傷痕はその比ではなく、傭兵時代の凄まじさを彷彿とさせるに足りた。特に裸になると目立つのが右脇腹の黒ずんだ火傷の痕で、大きさは腕のつけ根から腰にまで達している広範囲なものだ。その傷の上から二重三重に傷痕が残っているのは治りきってからついたものだろう。
「はい、取れたわ。ずいぶん古いようだけれど、大事な物なんでしょう?」
「そのつもりだったけど、あんまり大切にしてこなかったな。フォーリスさまにもアイーシャにも悪いことをしてしまった」
「そうでもなかったようよ。あなたがシリウスに大怪我を負わせられた時、ランスロットは手巾(はんかち)を捨てるだろうと思っていたけれど、あなたはそうしなかったでしょう? 彼はそれで、あなたが大事にしている物だと思ったって言っていたわ」
「そんな風に見られていたとは思わなかった」
「あら、ランスロットはみんなのことをよく見ている人よ。人を信じすぎるって兄さんは言うけれど、ギルバルドさまも私も彼の見方を信頼しているのよ」
「その話も初耳だ」
「そりゃあ、あなたの知らない話はたくさんあるわ。だけど、ランスロットは誤解されやすい方かもしれないわね」
話しながらグランディーナは手桶に水を汲んできて、手巾を洗った。家事一切に関心のなさそうな彼女だが、この洗濯だけは別のようだ。しかし手巾に染み込んだ血は容易なことでは落ちず、彼女は何度も水を取り替えねばならなかった。それでもグランディーナはその手間を惜しまず、丁寧に洗い続けた。
ようやく手巾は元の白さを取り戻したが、彼女が音を立てて広げると、それはたやすく破れ、ほつれた糸くずがこぼれ落ちた。
ユーリアは呆気にとられたが、グランディーナはその手に切れ端を載せて、温泉に入っていった。
10人も入ればいっぱいになりそうな温泉は彼女の腰までの深さで、そこにいったん頭まで潜ったグランディーナは、後はしばらく肩までつかっていた。
ユーリアは手巾の残骸を広げた。生地は上等な物で右隅に文字の縫い取りが見えた。字の形ははっきり残っており、アイーシャの名が綴られている。しかし、布地そのものの傷みは激しく、いつ破れてもおかしくないほど古くなっていたようだ。
「残念なことをしたわね。でも、これではもう使えないわ。どうするつもり?」
「髪を縛る物がなくなってしまったな」
「だったら、私の手巾をあげるわ。同じぐらいの大きさだし、まだそんなに使ってないもの」
「あなたは何を使うんだ?」
「マチルダさんから手拭いをもらってくるわ。でも手拭いで髪を縛ると野暮ったくなっちゃうものね」
「ありがとう」
自分の手巾を畳んで手持ちぶさたになったユーリアが壁に貼られた効能表を見ると、この温泉の主成分は塩分で、美肌や疲労回復にいいそうだ。解放軍の女性陣に教えてやったら、温泉に馴染みのない者も入りたがるかもしれなかった。
しかし、グランディーナの表情にはつかの間の休息を楽しむ様子もなく、次の目的地であるディアスポラばかりでなく、ずっと先の行程まで考えていそうな緊張感が漂う。「アヴァロン島に来たら温泉に入る」というのは単なる口実で、1人になって考え事をしたかったのかもしれないとユーリアは思ったほどだ。
けれども、彼女の考え事はそれほど長いものではなかった。ひとつには湯温が高いせいもあったのだろう。湯から上がった時には全身を赤く火照らせていた。
素早く身体を拭いて服を着ると、グランディーナはユーリアの手から手巾を取り上げ、慣れた手つきで髪を縛った。濡れた髪は重そうで、特にグランディーナは髪の毛が人一倍多い。彼女が見るからに鬱陶しそうな髪を伸ばしたままでいることを不思議がる者は少なくないが、戦闘中でもふだんでも、髪を邪魔にしているところも誰も見たことがない。
それから2人は温泉を出た。夕方の海風が火照った肌を心地よくなぶる。今日の天気の良さを反映して、全天見事な夕焼け空だ。グランディーナは大きく伸びをしてから独り言のようにつぶやいた。
「アヴァロン島もこれで最後だな」
「あなたはフォーリスさまのお墓参りにまた来るのではないの?」
「墓参りなら済んだ。もう、ここに用はない」
「だったら、フォーリスさまを忍ぶことはもうないというわけ?」
「そのための形見だ。それに、私の知っているフォーリスさまは私の中にいる。だから、アヴァロン島にはもう来ない」
「でも、手巾は破けてしまったわよ。それを取っておくの?」
「いいや、これは処分するしかない。私は物を持たないようにしてきたから、取っておいても失くしてしまうだろう。フォーリスさまの形見は思い出だけだ。それもいつか霧散する。それでいいのかもしれない」
そう言って彼女は立ち止まり、水平線の彼方を眺めている。
その時になって、彼女が裸足だったことにユーリアは初めて気づいた。その足跡が砂浜にいくつも残っていたが、風に徐々に消されていく。彼女はひとっ飛びでグランディーナを捕まえて、後ろから抱きしめた。
カノープスが常々ぼやいているとおり、グランディーナは女性陣に警戒心を示すことがほとんどない。いまだって、これがランスロットやカノープス相手なら、かすらせもしなかったろうと思うような無警戒ぶりだ。
「どうした?」
「フォーリスさまを知っているのは、あなただけではないでしょう? たとえばアイーシャとでも話せば、思い出は霧散しなくても済むのではない?」
「フォーリスさまならばな。でも、私しか知らないのに、形見のない者はどうする? 思い出もなくなれば、いなくなったことになるのか?」
「あなたが忘れてしまえばね。あなたが忘れてしまわない限り、その人はいなくならないわ。でも、形見も残っていないなんて寂しいわね。あなたにとっては大切な人なのでしょう?」
「どうだろう。そんなこともわからない。名前も思い出せない。それでも、彼らがそこにいたと言えるのか?」
「だって、あなたがいたのだと言えば、その人たちはいたのよ。あなたがいないと言えば、その人たちもいなくなる。いなかったことにしたいのではないのでしょう?」
グランディーナはしばらく答えず、ユーリアの腕をつかんだきり、沈黙していた。それは彼女には珍しい戸惑いのようでもあった。迷いというものを見せない彼女が見せた、迷いのようでもあった。
「わからない、それも。私の記憶もまるで当てにならないところがあるから」
「でも誰かがいたことは覚えているのでしょう?」
「わかっているのはそれだけだ」
「きっと、それで十分なのよ。もしかしたら、いつか思い出せるかもしれない。忘れたように思えても、何かのきっかけで思い出したりするものだわ」
「それならば、いいな」
ユーリアはまた離れ、彼女の前を後ずさりして歩いた。翼に砂が飛んできて、打ち払いたくなったからだ。
「私はね、本当はあなたたちと一緒に来ないつもりだったの。私は戦ったことがないわ、あなたたちと行っても、できることなんて魔獣の世話ぐらい。それだったら、シャローム地方に残って、魔獣軍団の人たちを手伝いながら、ギルバルドさまと兄さんの帰りを待っている方がいいと思っていたわ。そうしたら、兄さんにこんな風に言われてね、一緒に来ることにしたのよ」
「カノープスは何て?」
「『どうせおまえのことだから、ペシャワールに残って、ギルバルドや俺の無事を願うなんて言い出すんだろうが、一緒に来い。そうすれば、たとえ途中で俺たちが倒されたって、おまえも納得して形見を持って帰れるだろう』って。だから私、言い返してやったわ。兄さんたちの形見なんて拾わない。3人で一緒にペシャワールに戻るんだって。そうしたら、あの人、『好きにしろ』ですって」
「彼らしい」
グランディーナは少しだけ笑った。
「さっきの手巾はアイーシャに渡したらいいわ。彼女もきっと喜ぶわよ」
「もう使えないのに?」
「フォーリスさまの形見じゃない」
「ああ、そうか。彼女なら私よりずっと大事にしてくれるだろう。でも、破ってしまったことを知ったら、悲しむだろうな」
「だけど、あなたがそのことを秘して捨ててしまったら、絶対にもっと悲しむわよ。たとえ使えなくしてしまったって、フォーリスさまを忍ぶよすがになるわ。だから私たち、形見を大事にするのでしょう? それが何より、大切な人がこの世にいた証なのだもの」
そう言うなり、ユーリアはグランディーナを抱きしめた。
「だけど、私、もしもギルバルドさまや兄さんが死んでしまったら、きっと形見をかき集めて、小さな子のように泣き出してしまうわ。形見なんて絶対に拾わないつもりでいたのに、どれもこれも捨てられなくて、泣いてばかりいそうだわ。ねぇ、そうしたら、あなた、私のことを叱ってくれる? 強くなれと怒ってくれる?」
しかし、グランディーナはすぐに答えた。その回答のよどみなさは、ユーリアが訊ねる以前から、彼女がこんなことを考えていたことへの証のようでもあった。
「私はたぶん、どちらもしない。あなたを慰めることもできないから、カノープスの羽根を1本もらって、火喰い鳥の羽根を思い出すだろう。でも、それで私は戦いに戻る。それだけが私を生かしてくれるものだからだ。だけど、あなたは、たとえ泣いているだけでも生き延びるがいい。生きて生きて、最後まで戦いの行方を見届けてくれ」
「ひどいわ、あなた。私に独りぼっちになれって言うのね? みんなが死んでしまっても、私だけ生きていけと言うのね?」
「見ていてくれる者は必要だから。それには、あなたが適任だ」
ユーリアが離れると、グランディーナが見つめていた。けれど、その眼差しが本当に見据えているものは、この戦いさえ越えた、遙か先の話であった。
そこにユーリアはたった独りで立つ自分の姿を想像させられた。
知っている者もほとんど死んでしまった戦いの果てに、生き延びた者は数えるばかり、大地は荒れ、風はうなっている。
それでも彼女は微笑みを浮かべ、生き残った人びとに手を差し伸べるだろう。皆を慰め、力づけ、また歩き出すことができるように、その時こそ、彼女は微笑むだろう。
「いいわ、グランディーナ。その時は私があなたの形見を拾ってあげる。でも、それはずっと先の話よ。さぁ、そろそろ、みんなのところへ帰りましょう」
「そうだな」
翌日、彼女たち解放軍はアヴァロン島を離れ、ディアスポラに向かった。
自分で言ったとおり、グランディーナは二度とアヴァロン島に来ることはなかった。
けれど彼女にとって、大神官フォーリスは終生、大切な存在であり、母のようにも慕い続けた。それは彼女にとり、形見があろうがなかろうが、変わることのない思いであった。
《 終 》