「勝負ッ!」
「よっしゃー!」
カノープスのものと思われる叫び声が響き、野営地の一角がいっそう賑やかになった。
ランスロットが興味を覚えて近づいていくと、ホークマンのカリナ=ストレイカーが、右手にしきりに息を吹きかけているところだ。
「強いのねぇ、カノープス」
「その逞しい腕に抱かれて飛んでみたぁい」
シルキィ=ギュンターとマンジェラ=エンツォが黄色い声をあげる。
「何をしているんだ? 夜番の者もいただろう、持ち場に戻りたまえ」
「寝る前のちょっとした余興じゃねぇか。堅いこと、言うなよ。ちょうどいい、おまえが相手になってくれよ。みんな、負かしちまって相手がいなかったのさ」
緊張感のかけらもないカノープスの言い分にランスロットはいささか腹が立った。確かに解放軍はまだペシャワールにいるが、ゼテギネア帝国相手の戦いは始まったばかりなのだ。
「君が勝ったら何を要求するつもりだ?」
「考えてねぇし、そんなつもりもなかったな。こいつら相手に腕がどこまで鈍ったか試したくてねぇ」
そんなものは自業自得だと言ってやりたいところだが、皆の前で断るのも癪に障る。その場にいないのはグランディーナ、ウォーレン、マチルダ、リスゴー、それにガーディナーぐらいである。
「わたしで何人目か訊いてもいいか。それに何で勝負をしようというのか、聞いていなかったな」
「腕相撲さ。それとおまえはアレック、ロギンス、オーサ、カリナに次いで5人目だ。準備はいいかい?」
カノープスはそう言うなり、右肘を地面について手を差し出してきた。
腕相撲とはまた古風なと思ったが、ランスロットも訊いた以上は断るわけにいかない。腕まくりをして肘をつき、カノープスの手を取った。
そう言えば、バハーワルプルで彼とグランディーナの一戦を見たのは一昨日のことだ。あの時の彼は酔っ払っていたが、いまは素面である。しかも腕はカノープスの方が一回りほど太い。
いつの間にか2人の脇に来たカシム=ガデムが右手を上げる。
「始めっ!」
いきなり猛烈な力で押し込まれ、ランスロットはもう少しで手の甲を地面についてしまうところだった。しかし、彼はそこから右腕に全身の力を込めて持ち直し、皆の歓声を浴びた。
「やるじゃねぇか」
「そう簡単に負けられないね」
「そいつはどうかな?」
カノープスの二の腕の筋肉が大きく波打ち、さっきよりも強い力がかかってきた。ランスロットも負けじと堪えたが、少しずつ腕は傾いていき、容易に戻すことができない。
歓声がさらに大きくなり、カノープスの顔が朱に染まる。朱いのは自分も似たりよったりだろうと思ったが、ランスロットはすぐにそんなことは考えていられなくなった。
渾身の力を込めても、カノープスの手を元の位置に戻せず、かといって手の甲を地面についてしまうこともなく、ランスロットはしばらく持ち堪えた。
「頑張ってねぇで、降参しちまえよ」
「君こそ、息も切れ切れ、じゃないか」
「余計な、お世話だっ!」
カノープスがすぐさま攻勢に出る。
その勢いにランスロットは持ち堪えられず、とうとう手の甲をついたが、勢い余って半ば引っ繰り返ったような形だった。
「いててて」
「おぅ、悪いな。おまえがあんまり頑張るものだから、つい力を入れすぎちまった」
カノープスの差し出した手をランスロットは素直に取る。
「強いな」
「俺にここまで力を出させたのはギルバルド以来だ。大したものだぜ」
しかし、カノープスはすぐに手を離した。
「グランディーナ! おまえもどうだ? 一昨日は遅れを取っちまったが、今日はそうはいかねぇぜ」
彼女は近づいてくると籠手を外した。それだけの行動に、皆が黙り込む。カノープスもよほどの自信があってのことなのだろうが、顎の下をぬぐったきりだ。
「どちらが勝とうが終わったら夜番は持ち場に行け。
さっさと済ませようか」
先に肘をついたのは彼女の方だ。一昨日同様に落ち着き払った目がカノープスを見上げる。
その態度に臆したわけではないのだろうが、カノープスは肘をつくことを一瞬、躊躇ったように見えた。しかし彼はすぐに肘をついて彼女の手を取った。
さっきはすかさず合図を出したカシムが動かなかったので、ランスロットは二人の脇に立って手を挙げる。
「気に入らねぇな、その態度」
カノープスがささやくように言う。
「私は自分の力を知っている。その使い方もな」
「じゃあ、その力とやらを見せてもらおうじゃねぇか!」
合図もないのにカノープスが力を出し、グランディーナの手は危うく地面につくところだった。
だが、彼女はそこで持ち堪えると、すかさず始めの位置まで戻した。
ランスロット以外の者が歓声を上げたが、彼女の動きはそんなところで止まってなどいなかった。
カノープスが顔を真っ赤にする。それは彼がランスロットと勝負した時よりも力を入れているということなのだろう。
しかし、彼女はカノープスの手を少しずつ押し返してゆく。
「2回も負けられるかよ!」
今度はカノープスが堪えて最初の位置まで押し戻した。彼への声援が大きくなる。
ところが、バハーワルプルで対峙した時もそうだったように、グランディーナは相変わらず冷静だ。せっかくカノープスが戻した手を、また押し返す。
声援が徐々に止んでいった。
そうして声がまったく上がらなくなったころ、彼女はカノープスの手の甲を地面に押しつけた。
「冗談だろう」
彼は呆れたようにつぶやいたが、グランディーナはすぐに立ち上がった。
「さぁ、余興は終わりだ。明日はジャンセニア湖に向かう。夜番以外の者はもう休め」
その言葉に皆は散っていき、最後にグランディーナも黙って立ち去った。後にはランスロットとギルバルド、それにカノープスとユーリアが残されていた。
「おぬしの目も鈍ったものだな。勝てないことぐらいわかりそうなものだ」
カノープスはギルバルドを睨みつけた。
「じゃあ、なんだ、おまえは最初から俺が負けると思っていたのか?」
「そうだ」
「ちぇっ、友だち甲斐のねぇ奴だな」
「だがおぬしらしい。だから黙っていたのだがな」
「よく言うよ!」
カノープスの視線が今度はランスロットに向けられた。もっともランスロットだって、彼の目的が最初からグランディーナ一人だったことぐらいはわかる。
「それで? なんでおまえも残ったんだ? てっきりあいつと一緒に行くと思ってたのによ」
「君が、何をそんなに彼女にこだわるのか聞きたくてね」
するとカノープスはそっぽを向いて、彼にしては聞き取りにくい言い方をした。
「だって、俺は2回も負けるとは思っていなかったしよ、だいたい、あの時は酔っ払ってたんだ、ちゃんと決着をつけておきたいじゃねぇか」
「兄さんたら、相変わらず負けず嫌いなのね」
「あいつには負けたくなかったんだよ。でもまぁ、負けてすっきりした」
「再戦とは言わないのか?」
「俺だって馬鹿じゃない。それに2回も負ければ十分さ」
「ギルバルドはなぜ彼女が勝つと?」
「ペシャワールで戦った時にわかった。わたしは彼女にかなわない。ならばカノープスが勝てるはずがないこともな」
「何だか腹立つなぁ」
「おぬしとわたしでは決着がつかない。ならば、彼女にもかなうまい?」
「俺が腹立つって言ってるのは、俺がおまえに勝てないって言うからだよ!」
カノープスがギルバルドの手を取り、強引に腕相撲の体勢に持ち込む。
しかし、最初から不利な姿勢だったのにも拘わらず、ギルバルドは持ち堪えた。
「ギルバルドさま、頑張って!」
「ユーリア! おまえ、妹のくせに俺よりもそいつを応援するのか?!」
「当たり前です! ギルバルドさまに負けて、少し頭を冷やすといいんだわ!」
「こんちくしょう!」
カノープスの顔が三度、真っ赤になった。
しかし赤さで言ったらギルバルドも負けていない。20年来の親友同士とはいえ、ここは互いに負けられないようだ。
「ギルバルドさま!」
「黙れ、ユーリア!」
均衡した拳は、最初の位置からほとんど動かなかった。時々、左右に振れるものの、グランディーナやランスロットと対戦した時のようには、どちらかに傾きすぎることはない。2人の力が、それだけ拮抗しているということなのだろう。
その時、視界の隅にグランディーナを捉えたランスロットは、彼女が手に何か持っているのを認めた。
それが何かと気づくより早く、彼女は水桶の中身を4人、主にギルバルドとカノープスにぶちまけた。
「冷てぇ〜!」
「グランディーナ、何するんだ?!」
「私の言ったことが聞こえなかったのか? いつまでも遊んでいないで、さっさと休め」
水桶の中身はただの水だったが、いまの季節に浴びるには少々肌寒い。しかしグランディーナは4人を睨みつけて戻っていってしまった。
「いきなり水をぶっかけるとは何て奴だ」
「我々が悪いのだ。彼女の言うとおり、いつまでも遊んでいたからな」
「ちぇっ、おまえって物わかりがよすぎ」
「兄さんが悪いんだわ、いきなりギルバルドさまにけしかけるんだもの」
「そうカノープスばかり責めるな。勝負を受けた、わたしも同罪だ」
「そうそう。おまえが俺に負ければいいんだ」
「それとこれとは別問題だ」
「3人とも、それ以上、続けていると次は何をかけられるかわからない。これで身体を拭いて、休もう」
「ありがとう、ランスロット」
実際、水はほとんどギルバルドとカノープスにかけられたので、彼とユーリアはそのしぶきを浴びただけで済んだ。
だが、グランディーナに限って、こういう直接的な手段に訴えると思わなかったのでランスロットはつい笑みを漏らす。
ギルバルドやカノープスにもそれは伝わったようで、3人は思い切り笑った。
神聖ゼテギネア帝国暦24年、影竜の月16日、解放軍の戦いはまだ始まったばかりであった。
《 終 》