「イアイモの迷宮」

「イアイモの迷宮」

目を覚ますと彼女のずっと上に暗闇があって、2つの人影が見下ろしていた。薄暗い部屋で2人の顔がわからず、彼女はそこがどこかと訊こうとしたが、声は音とならず、口をつぐんだ。
2人のうち、左手の1人が手を差し出してきた。はしっこそうな印象の若い男性で右手のもう1人は杖を持った年寄りだ。彼女は手を握り返し、身を起こした。
最後の記憶は突然、道に倒れたことだ。それきり意識を失って、気がついたら声も出なくなって、こんなところにいたのだった。
「ようこそ、イアイモの迷宮へ。君は俺たちの3人目の仲間だ。俺はダドリー、こっちはオルズデール」
老人も手を出してきたので彼女は握り返した。だが彼は目を閉じたままで、ダドリーと名乗った男が説明するのに任せたきりだ。
「俺たちはこの迷宮の主イアイモに拉致された同士なんだ。君は声、オルズデールは視力、そして俺は記憶を奪われた。イアイモはこの迷宮のいちばん奥で俺たちを待っている。罠を仕掛けて、奪われたものを返してほしければ来いと俺たちを挑発しているんだ」
彼女は頷いた。見れば、その部屋は広いようだったが、灯りはオルズデールの杖の先にしかなく、隅までは見渡せなかった。すべての壁も床も石造りだった。
「見たところ、君は戦士のようだ。オルズデールは魔術師、俺は盗賊。この迷宮はその三種の職業の者がいないと先に進めない。だけど君の前にいた戦士はこの下の階層で倒されてしまったんだ。倒された者が元の世界に帰ったかどうかはわからない。ほかに訊きたいことはあるかい?」
彼女は首を振った。腰には使い慣れた刀があり、目的は明快だ。役割は決まっているし、彼女の手に負えない分野を補ってくれる仲間もいる。ならば彼女はさっさと問題を片づけたかった。
「おぬしにしてみれば後は迷宮に挑むだけなのだろうが、あいにくとわしらはおぬしのことは何も知らない。これから命を預けあおうという同士だ。少しは知っておいても損はないんじゃないかね?」
彼女が頷いてみせると、オルズデールは杖を持ち直して彼女に向けた。その動きはまるで目が見えているように的確だ。
「杖の先を握ってくれ。いまから魔法をかけさせてもらう。喋れないままでは不便じゃからな」
彼女が言われたとおりにすると老人が何かをつぶやき始めた。杖は小刻みに震え、その先端から放たれた光が彼女の身体を覆い始める。けれど、それは突然、消え失せてしまった。手先から始まった光が、彼女の足下に届く前に消滅していったのだ。
「おかしいよ、オルズデール。うまくいってない」
「そのようじゃ。
いまの魔法はな、おぬしの声の代役をしてもらうはずだったんじゃが失敗した。いままでこんなことはなかったんじゃが心配はいらん、別の魔法を試してみよう。もう手を放してもいいぞ」
彼女はそうしたが、今度はオルズデールはすぐに動かなかった。杖を前に傾けたまま、口元だけ動かしている。
「どうした? 何か、わかったのかい?」
ダドリーがせっかちな口調で訊いた。
「うむ。
さて娘さんや、別の魔法を試してみたのだが、これもうまくいかなんだ。次の魔法を試す前に確認しておきたいことがある。この魔法はおぬしの考えたことをわしに投影するものじゃ。強く念じたことだけをな。ただ、それだけでは、わしがいちいちダドリーに伝えなければならないから面倒じゃ。だから、おぬしが強く念じると、わしの杖がそれを音に出す。そのような魔法を使おうと思うのじゃ。確認したいのは、そういう魔法を受け入れてくれるかということじゃな」
彼女はそれほど逡巡しなかった。このままでは不便なことは自分がいちばんよくわかっている。
「あんた、思い切りがいいなぁ。この前の奴なんて、しばらく迷っていたっていうのに」
「ならば、すぐに始めさせてもらおうか。イアイモがわしらをせかすことは滅多にないが、そろそろ先に進みたいところじゃからな」
彼女には魔法をかけられているという感じはなかった。だが、オルズデールは立ち上がり、すり足で彼女の周りを一周した。魔法をかけるのに杖を使っているので、杖につたって歩けないからだ。けれど彼は正確に彼女の周りに円を描き、元の位置に座り直した。今度は手のなかで杖をゆっくりと廻して、彼女にはわからない言葉で何かをつぶやき始める。それは唄のようでもあったが、杖が止まると同時に止んだ。
ダドリーはその動きを真剣な眼差しで見つめていたが、彼女に気づくと人なつこい笑顔になった。
「さあ、念じてくれ。おぬしの名は何という?」
“サーラだ”
くぐもった音で杖がそう鳴った。それは彼女の声ではなかったが、確かに彼女が念じたことだった。世の中には便利な魔法もあるものだ。
「やったな、オルズデール」
「何を言うか。わしの使う魔法が失敗したのがおかしいのじゃ。ほかに聞いておきたいことはあるか?」
「いや、俺はないけど」
「ならば、おぬし、何か言っておきたいことはないか? せっかく魔法がうまく働いたのじゃ。これだけで終わりではもったいないからのぅ」
“この部屋から出口はないのか?”
「ない」
応えたのはダドリーだ。
「俺とオルズデールの技で隅々まで探してみたけれど見つからなかった。俺たちはイアイモの言ったとおり、奴を倒しに下まで行かなくちゃならない」
“イアイモの目的は?”
「わからん。さしずめ、わしらに喧嘩を売って、自分が優れた術者だと証明したいのかもしれん」
サーラは2人の言ったことを思い返してみた。
“私の前にいた戦士が倒された時、元の世界に帰ったかどうかと言ったな? ここはゼテギネアではないのか?”
「ゼテギネア? 知ってるかい、オルズデール?」
「いや、初めて聞く名じゃな。残念だが、わしらは別の世界から来たのじゃろう。わしも、前にいた戦士もこの世界の人間ではない。おぬしもイアイモという名を聞いたことはあるまい?」
彼女は頷いた。イアイモは有名な魔法使いらしいが、覚えのない名前だ。
「出口があっても役には立たん。元の世界に帰る方法がわからんままではな。わしらはイアイモの狙ったとおりに奴を倒しに行かねばならんのじゃ」
“ならば行こう。話はこの後でもできるだろう”
「そうじゃな」
それで3人は立ち上がった。灯りの届く範囲が拡がったおかげで、サーラは自分の後ろに下への階段があるのを見つけた。
「覚悟はいいかい? 最初の階層はあんた次第だ。俺たちは助けてやれない」
“かまわない”
彼女はそう答えると、真っ先に階段を下りていった。下りきったところに扉がある。そこが1つめの階層であった。
部屋の真ん中に立っていたのは7バス(約210センチメートル)もあろうかという黄金の像だった。
サーラが腰の曲刀を抜いて部屋に踏み込むと、像は予想以上に素早い動きで、拳を振るって襲いかかってきた。
彼女が上半身を後ろにそらして避けると、左右の拳が連続して繰り出された。
その動きは正確で人間のような疲れを知らない。
彼女は強引に前に出て、二の腕をなぎ払った。
ようやく像の動きが止まる。
サーラは間髪入れずに攻撃に転じた。
だが像は堅く、刀で戦うには不利な相手だ。いかに鋭い刃でも黄金の塊を切り刻むことはできない。
彼女の攻撃を難なくいなした像は、何もなかったように殴りかかってきた。
防戦しながらサーラが後方をうかがうと、オルズデールとダドリーは扉の外で見守っていた。
“奴はこの部屋から出られないのか?”
「わからん!」
“その扉は閉められるのか?”
「動かない!」
立像の攻撃は一方的だったが、一度も彼女にかすらなかった。だが、このままではいずれ像に捉まる。いくら彼女でも、疲れを知らない像を相手に逃げ続けることはできない。
像の動きをかわしながら、サーラはその全身を観察していた。このような像を動かしているのはほとんどが魔法の力による。彼女にその素養はなく、力もまったく持たなかったが、それらしい物に目をつけ、片っ端から壊していけば、どれか当たるだろう。もっとも、そういう物は巧妙に隠されているのが常で、それらしく見える物は外れることも多いが、彼女はこれはと思った物はみんな壊してしまうことにした。
幸い像が身につけた装飾品らしい物は数えるほどしかない。サーラは額のそれから順に破壊していった。
腰帯を破壊した時、像の動きがようやく止まった。彼女が後方に飛び退るのと同時にそれは倒れ、地響きとともに崩れた。
「やった!」
サーラは大きく息を吐いて、刀を鞘に収めた。
ダドリーが駆け寄り、オルズデールは杖をついて部屋に入ってきた。
「やるじゃないか。どうして奴の弱点があそこだってわかったんだ?」
“怪しいところを片っ端から壊しただけだ。わかってなんかいない”
「なぜ、あれを怪しいと思ったのじゃ?」
“前に同じような像と戦った時に宝石を壊したら動かなくなった。同じようなものだろう”
「そうじゃな。わしらがイアイモの手の上にいるとはいえ、魔法の仕組みは極端に違うものではない。おぬしはいいところに目をつけた、これならば先に進めるだろう」
“前の戦士はここで倒れたのか?”
「そうじゃ。彼には荷がかちすぎたのじゃろう。像にあえなく潰されたのじゃ。どんな重傷を負わされても命があれば生き長らえることもできたが、あれでは無理じゃ」
「召喚した奴が弱いからといってイアイモはそいつを引っ込めたりはしないからな」
“戦士が倒されて、どうなった?”
「奴の姿は消えて、俺たちは1階に戻された。あんたが来るまで1晩くらいは待ったと思う」
「丸一日じゃな。イアイモはきっかり1日待たせて、おぬしを召喚したのじゃ」
“あなたたちはどこまで下りたことがあるのだ?”
「いい質問じゃな」
「俺たちの力を測れるね」
「ここの階を1つめとした時、わしは4つめまで下りた。2つめの階は魔術師、3つめの階は盗賊、4つめの階は戦士と魔術師の力を問う仕掛けがある。今回もそこが同じ仕掛けとは限らんが、その時、組んだ戦士は4つめの階で倒されたのじゃ」
“連携がうまくいかなかったのか?”
「力が足りなかったのじゃ、ザックが像に倒されたように。魔法を使う、炎の息を吐く。手強い敵じゃ」
「俺は一度だけ7つめの階まで下りたことがある。青い悪魔が次々に出てきて、俺以外の2人は倒されちまった。オルズデールは2人目の魔術師で、あんたは4人目の戦士だ」
“7階の先は?”
「たぶんイアイモがいる」
“あなたたちは待っている時は何をしていた?”
「大してうまくもないが携行食糧と水は補給される。一度倒した奴が復活もしない。休むのは自由さ」
「だが、ここから出られることはない。わしらも休むかね?」
“私は大丈夫だ。先へ行こう”
「それ以外にできることもないからな」
扉を開けると階段が始まっていた。
オルズデールが杖の先に灯りをつけなおし、彼女たちは次の階へ向かった。
2つめ、3つめの階でサーラがすべきことはなく、それぞれオルズデールとダドリーが仕事を済ませるのを待った。
おかしなことが起きたのは、ダドリーを待っている時だった。
オルズデールが口を動かしてもいないのに彼の声が聞こえたのだ。
「そのままで聞いていてくれんか、サーラ」
それで彼女は言われたとおりに微動だにしなかった。彼の口調が急に真面目なものに変わったせいもある。
「この話、可能な限りダドリーにもイアイモにも聞かれたくないのじゃ。だから、おぬしの鼓膜を震わせておる。もっともイアイモに心を読まれれば同じことじゃ、だから可能な限りと言っておる」
サーラは立ち上がって見える小部屋をのぞいた。最初の扉も含めて四方に1つずつ扉があり、そんな部屋がずっと続いているようだ。
「杖の魔法を解除した。おぬしの念じたことはわしにしか伝わらぬ」
“そこまでして何を話したいのだ?”
小部屋は一辺が5バス(約150センチメートル)ぐらいの正方形だ。全体が最初の階と同じ大きさならば、この階には100近い小部屋がありそうだ。
「もちろんイアイモのことじゃよ。だが、わしはダドリーも信用しておらん。おぬしはどうじゃ?」
“信用していないことはダドリーもあなたも同じだ。そんな話をなぜ私にする?”
その時、ダドリーが顔を出した。オルズデールが杖に魔法をかけ直すのを聞いて、サーラは彼が見えないと言いながら、明らかに見えている時があることを不審に思った。
「待たせたな、2人とも。前に来た時より部屋の数が多くなっていたんだ。もう通れる。先へ行こう」
“次の階は私とオルズデールだったな?”
「そうだ。何か策でもあるのかい?」
“そんなものはない。私はそこにいる怪物と戦うだけだ”
ダドリーが口笛を吹いた。
「大した自信だな、あんた。どんな化け物が出てこようと倒せるってことか」
“帰りたいからな”
「いい心がけじゃ。結局のところ、生死を分けるのは必ず生きるという気持ちじゃからな。そうなった時は強いも弱いもない」
「前はこの扉の向こうには金色のドラゴンがおった。炎の息を吐き、魔法も使う強敵じゃ。鱗も鋼鉄の鎧のように堅い」
“戦術は?”
「おぬしがドラゴンを攻撃、わしが防御じゃ。わしの魔法では奴を倒しきらんし、おぬしだけでは守りが手薄になる。それでいいかね?」
サーラは頷いた。ドラゴンとは何度か戦ったことがあるが、魔法を使うものがいるとは初めて聞いた。金色という体色も初耳だ。頑丈な鱗に鋭い爪と牙、尾の一撃もばかにならないドラゴンはそれだけでも十分な強敵だ。それが魔法も使うというのだから、相当手強いだろう。
「ドラゴンじゃなかったら、どうするんだ?」
「その疑問はもっともじゃ、と言いたいところだが、何が出るのかもわからんのにぐだぐだ悩んでもしょうがない。だが戦法はそう変わらんじゃろう。サーラが攻撃でわしが防御、それだけは変わるまい」
“準備はいいか?”
「いつでもかまわん」
サーラは曲刀を抜いて、扉に手をかけた。
“行くぞ”
扉を押し開けると硫黄臭い空気が漂ってきた。彼女が部屋の中を見渡すまでもない。その中央にオルズデールの言った金色のドラゴンが鎮座して、2人の姿を認めると首をもたげたからだ。
老人が魔法を唱えた。
ドラゴンは炎を吐き出したが、サーラは構わずに突進した。
彼女の見たことのある、どんなドラゴンよりも大きい。大きな翼を羽ばたいたが、こんな迷宮では役に立たなさそうだ。
そしてその黄金の鱗は彼女の知る、いかなるドラゴンよりも堅く、斬りつけた手応えはまるで鋼鉄の塊のようであった。
しかし彼女はオルズデールの魔法に守られ、石の床さえ焦がすような炎にさらされても火傷ひとつ負わなかった。
サーラは腹部を狙ったが、ドラゴンは大きく狡猾で、容易にいちばん柔らかい部位を攻撃させなかった。
逆にドラゴンは彼女に魔法をかけた。血まで凍りつきそうな冷気が彼女を包み込む。
しかしサーラは強引に曲刀を振るい、無防備になったドラゴンの首根っこに斬りつけた。
遅れてオルズデールが魔法を唱えたが、冷気は失せなかった。
腕ばかりか全身が凍えた。
抗いがたい寒気にサーラは膝をつき刀を放り出してしまいたい衝動にかられる。
だがドラゴンから迸(ほとばし)った鮮血は、数滴浴びただけなのに溶岩のような熱さを持って彼女の腕を傷つけた。
それにドラゴンが猛々しく吠えていることも彼女に戦いを辞めさせなかった。
しかし、この手ではそう長くは戦えない。指先の感覚はもうなくなりつつあるし、刀は手に凍りついているから落ちないような有様だ。
“オルズデール!”
サーラは後方に飛び退った。
「どうしたのじゃ?」
“両手を柄に縛りつけてくれ”
「よし」
老魔法使いはなぜ、とは訊かず、手早く彼女の手と柄に布を巻きつけた。
その間にもドラゴンが魔法の二発目を放つ。
だが、オルズデールが先ほど唱えた魔法の壁が今度は功を奏し、冷気は彼女に届かなかった。
そしてドラゴンが魔法を唱える隙をついて、サーラはその腹に斬りつけた。
刀が思うように振るえないので力任せの攻撃だったが、ドラゴンの腹に穴が空き、血が噴き出してきた。
ドラゴンが大きくのけぞったところに、彼女はさらに二度三度と斬りつけた。
曲刀は本来このような使い方をする武器ではないが、いまのサーラにはできない相談だ。この腕が動かなくなる前にドラゴンを倒す。それしか考えられなかった。
後方からも魔法の火が飛んで爆発した。
最後の力でドラゴンが爪を突き刺した。
彼女と金色のドラゴンが倒れたのとほぼ同時だった。
「サーラ!」
オルズデールとダドリーが走ってきたが、彼女には返す元気もなく、意識が急速に落ち込んでいった。
それから、どれぐらいの時間が経ったのか、サーラが目を開けると、傍らでオルズデールが居眠りをして首を垂らしていた。
驚いたことに彼女の手は無事で、ドラゴンに刺されたと思った傷も癒えているようだった。ただ、ドラゴンの爪に割かれた服が、傷を負ったという確かな証拠として残っていた。
傍らには折れ曲がった曲刀が置かれている。ドラゴンに無茶苦茶に斬りつけたのだから無理もない。問題はこの先、どうやって戦うのかということだ。
彼女が身を起こすとダドリーも眠っているらしかった。サーラが倒れたので、2人はここで休息を取ることにしたようだ。
そして彼女の枕元には携行食糧と水筒が置いてあった。携行食糧を食べ、水を飲む。彼女はそれらの動きを一つひとつ確かめるようにゆっくり行った。どこも不自由がないのが驚きだ。
動作の確認が済むとサーラは休んでいる2人に目をやった。ダドリーは横になり、オルズデールは座っている。だが2人とも眠りは深いようで微動だにしない。
彼女は曲刀を取り上げた。刀身が折れ曲がって酷い状態で、二度と使い物にならなかった。しかし換えの武器も見当たらない。そもそも、この迷宮で武器が手に入れられるのかどうかも不明だ。あと持っているのは短刀一振りだが、こんな物でまともに戦える相手がいるとも思えない。
サーラはそっと立ち上がった。前の階に戻って、見落とした物がないか探してみるつもりだったのだ。
しかし入ってきた扉は開かなくなっていた。鍵穴も見当たらないので、物理的に閉められたわけではないらしく、そうなると彼女には余計、お手上げだった。
「イアイモは俺たちに後戻りしてほしくないらしい。いままで必要もなかったんだけど、上の階に戻る扉はすぐに閉められてしまうんだ」
声をかけたのはダドリーだった。
“武器がないから、どうしたものかと思った”
「俺のでよければ貸してやるよ。あまりいい物でもないけれど」
彼の差し出した剣をサーラは見たが、確かに短刀よりまし以上の武器ではない。
“借りておこう”
しかし選択肢は他になかった。この先、武器が手に入らなければ彼女はこの剣だけで戦っていかなければならないのだ。
「怪我はもういいのかい?」
“治った”
「俺もあんな酷い傷が治るとは思わなかったよ。俺たちが何もしていないのに凍っていた腕がみるみるうちに温かさを取り戻していったんだから治るんだって信じないわけにはいかなかったさ。だけど、あんたがそうやって手を動かしているのを見ないうちは、まだ半信半疑だったんだけどね」
彼女は立って剣を振るってみた。曲刀に比べると刀身が短く、切れ味も悪そうだ。それに両手で持つには柄も短いので威力もかなり低そうだった。
「その剣じゃ、さっきのようなドラゴンとは戦えないだろうな」
“やってみなければわからないだろう”
「その自信はどこから来るんだい? あんたは他の戦士と違う、いきなりこんな迷宮に連れてこられたのに自分のすべきことがいつもわかっているみたいだ」
サーラは剣を収めてダドリーを見た。オルズデールはまだ寝ているようで姿勢は変わらないままだ。
“私にできることはそれほどない。することに迷いがないだけだろう”
「その代わり、どんな怪物が出てこようと必ず倒せるってわけか」
“どこにあっても私にできるのはそれだけだ”
「そう言えるのがただ者じゃないってこと」
“剣は借りておく”
「ああ、いいとも」
それからオルズデールが起きてきたので3人は下に向かった。ここから下の階のことはダドリーしか知らない。そしてイアイモには誰も会ったことがないのだ。
その扉には文字が書いてあった。見たこともない文字だったにもかかわらず、サーラにはその字が読めた。オルズデールたちと話ができるのもそのせいなのだろう。「鍵を盗め」と扉にあり、彼女はオルズデールとダドリーもそう読んでいるものと考えた。
“この階はダドリーと誰だ?”
「おぬしじゃ。だが、そんな剣では不安じゃのぅ。どれ、わしがもっと強い武器を呼べないか、試してみよう」
「武器を呼ぶ? そんなことができるのかい?」
「うまくいけばじゃがな。過度な期待をされても困るぞ」
“なぜ私の武器が弱いとわかる? あなたの目は見えないのではなかったのか?”
「魔法のために少しは見えるのじゃよ。だが、おぬしの腰にある物には魔法がかかっておらん。そんな物をどこから持ってきたのじゃ?」
“ダドリーに借りた。魔法がかかっていなくてはおかしいのか?”
「おぬしの曲刀には魔法がかかっておった、おぬしにかけられた魔法がともにな。わしもそうじゃ。ダドリーにも魔法がかかっておる、だが、その剣だけ何もない。これをおかしいと言わずして何と言う?」
「それなら簡単だ。その剣はこの迷宮の中で拾った物だからさ。俺が最初に持っていた剣は失くしてしまったんだ」
「代わりの剣を見つけられたのか?」
「ああ、この次の階で拾ったんだよ」
「ならばサーラ、おぬしも次の階まで頑張ってみるかね?」
“呼べると言うのなら呼んでもらいたい。劣った武器で戦うような無理はしたくない”
「それは一理あるかのぅ」
やがてオルズデールは呪文を唱え始めた。それは唄うような節回しで少し調子外れだったが、ダドリーの視線から、何かサーラには見えないものが見えているらしかった。
そしてオルズデールの足下に一振りの剣が出現した。だが、サーラの期待していたような曲刀ではなかったし、大きな剣でもなかった。何の変哲もなさそうな、ダドリーから借りた剣と瓜二つの剣だったのである。
「どうじゃ、うまくいったか?」
ダドリーが剣を拾ってよこした。
“同じ剣だ”
「同じ?」
「俺の剣と同じ剣だよ。あんたが呼んだのは大した剣じゃないらしい」
「確かに、どっちも魔法がかかっておらんのぅ」
“このままでも構わない”
「なんでだい?」
“あまり得意ではないが両方使えば補えるだろう”
「両方?」
彼女は二振りの剣を左右の腰に提げ直した。両手にかまえて振るってみる。曲刀とはまったく違うが、使い勝手は悪くない。それに自分ならば、どんな武器でも使えるはずだ。形状も使い方も関係なく、自分はどんな武器でもすぐに使いこなせる。その意味も理由もサーラにはわからないが、使えるものを使わない手はなかった。
「サーラがいいと言うのなら、問題はなかろう。この階、前はどんな仕掛けがあったのじゃ?」
「前に来た時には道化師がいたんだ。風のように素早くて、ドラゴンのような火を吐く奴だ。俺はそいつから鍵を奪った。でも、その次の階で魔術師と戦士がやられちまったのさ」
「道化師とはまた変わった敵じゃのぅ」
「奴の鎌は死神の鎌だという話だ。だから、奴の鎌に触れられると、そこがすっぱり切り落とされるんだ。動きも人間離れしているし、地獄の道化師ってあだ名されてるんだ」
“あなたの役割は、その道化師から鍵を盗むことか?”
「そうだ。だけど鍵を盗んでも奴がいなくなるわけじゃないから、向かいの扉を開けるまでかな」
“私は道化師を倒さなくていいのだな?”
「できるものならな。奴は人間じゃない、道化師の形をした怪物なんだ。倒さないより倒した方がどれだけ楽か、わからないぜ」
“あなたは道化師から鍵を盗むことだけ考えていろ。戦うのは私の仕事だ、私のやり方でやらせてもらう。それとも、あなたが道化師と戦うか?”
「冗談だろう! 俺は戦いなんて柄じゃない」
「ならば、倒した方が楽だなどと言わぬことじゃな。
さあ、御託はそのくらいにしたがええ。この階を片づけねば、イアイモには会えないのじゃからな。扉を開けてもいいか?」
“いつでも”
「俺が開ける。あんたは引っ込んでいてくれ」
「ひひひ、任せたぞ、ダドリー」
その部屋の中央には身の丈よりも長い鎌を構えた道化師が3人を待ちかまえていた。
明るい緑色の上着に赤いズボン、赤いとんがり帽子をかぶり、顔には笑った仮面をつけている。仮面からのぞく眼は赤かったが、爛々と燃えさかる火のようでもあり、サーラは瞬時にその危険さを察知した。
「きえーっ!!」
奇声をあげると、道化師は鎌を振りかざして襲いかかってきた。
彼女は前に出て、その攻撃を押し流す。
鎌の刀身は細く、こちらの剣が力押しで負けることはなさそうだ。
だが、道化師は振るうだけでも一苦労のその鎌をまるで短刀でも振り回すように軽々と振って、サーラに反撃の隙を与えなかった。
しばらく打ち合ったところで道化師が後退した。
息を吸い込む音が聞こえてきたのは、すぐだ。
サーラは道化師の周りに輝く粒が生じるのを認めた。その周囲の空気が急速に冷やされているからだ。
“奴が息を吐く! 避けろ!”
その言葉も終わらぬうちに道化師が吐き出したのは、ドラゴンの魔法に優るとも劣らぬ血も凍りそうな冷たい息だった。
だがドラゴンもそうだが、そういう息による攻撃を行う者は息を吐いている間は無防備になってしまうことが多い。
その道化師もそうだった。
サーラが息もかまわずに突進しても、わずかに後退するしかできなかった。そのために息を吐くのも止まった。
彼女はそのまま道化師の首の左右から剣をたたき込んだ。
それとダドリーが鍵を盗んだのは、ほぼ同時だった。
サーラは力任せに道化師の首を落とし、緑と赤の細い身体は、人形やゴーレムのような乾いた音を立てて倒れた。
血は1滴も出なかった。
少し遅れて、道化師の鎌も床に転がった。
「お見事。倒さなくていいなんて言っておいて、結局、倒したんじゃないか」
“鍵を盗んで終わりではないからな”
「さっきは自分の好きにさせろと言ってたくせに」
“だから好きにした”
しかし背後で動く気配に彼女が振り返るのと同時に、首のない道化師が胸に鎌を突き立てた。
「おいっ!」
“先に行け”
サーラは剣を捨て、鎌をつかんだ。
道化師は鎌を引き抜こうとしたが、彼女はそうさせなかった。
掌は熱く、刺された痛みも気を抜くと気絶してしまいそうに思える。だが、生きてこの階を出られさえすれば傷は治るのだ。
ならば、いまはこの道化師を倒すなり追い払うなりしなければならない。首を落とされても動ける怪物ならば、その四肢を切り落としても動きを止めなければなるまい。
サーラは左手で鎌を押えたまま右手の剣を振るった。
道化師も強引に下がって剣を避けようとしたが、彼女の狙いは手首の辺りだったので鎌を手放さない以上、外すはずもなかった。
けれど彼女が左手を切り落としたところで、道化師も鎌を引き抜いて逃げ出した。
だがサーラは血まみれの左手も剣に添えて道化師に追いすがった。
道化師は再度、鎌を振るったが、片手で扱うには長すぎる得物だ。
しかし彼女もそれ以上、道化師を追い詰めることはしなかった。一転して背後の扉に駆け込んだが、道化師も追ってはこなかった。
「大丈夫か?!」
ダドリーに受け止められてから、意識は急速に遠ざかっていった。
「おぬしも無茶ばかりしよるのぅ」
“ここはどこだ?”
「おぬしの夢の中じゃ。ちょっと邪魔させてもらっておるぞい」
サーラが目を開けると、そこは確かに迷宮とは違うところで、オルズデールがいたがすべてが頼りなく感じられた。
“これが私の夢?”
「まぁ、正確にはおぬしの意識の中と言った方がいいかのぅ。迷宮のわしらは傍目には休んでおるようにしか見えんよ」
そう言った老魔法使いは相変わらず両目をつぶっていた。夢の中だからといって、何でも思い通りになるわけではないらしい。彼女の声も出ないままだ。
“さっきドラゴンと戦った時に防護の魔法を遅らせただろう?”
「気づいておったのか。悪いが、あれはちと、おぬしの実力を知りたかったのでなぁ。取り戻せぬ失態でもなし、手を抜いたのよ。ただ、おぬしの武器が壊されたことは誤算だったがな」
“私がイアイモの味方だとは考えなかったのか?”
「そりゃあ、仲間にするなら若い女子(おなご)の方がいいからのぅ。それに、この手のことに関して、わしの勘が外れたことはなかなかないんじゃ」
オルズデールは悪びれた様子もなく笑った。
“私の手は無事なのだろうな?”
「道化師の鎌を握っていたせいで切り離されたが皮一枚でつながっておったわい。それもちゃんとついたから安心するがええ。胸も刺されたが、間一髪で心の臓は外れておった。おぬしがあの時、振り返るのが遅れたら間に合わなかったかもしれんな。血もとうに止まっておるじゃろう」
“イアイモが私たちをおとなしく解放すると思っているのか?”
「してもらわねば困る。わしもいつまでもこんな迷宮で遊んでいる気はない。それはおぬしも同じじゃろう? いざとなったら無理にでも奴に解放を迫る」
“こんな迷宮を作り出すような奴に太刀打ちできると?”
「魔法使いの優劣を決めるのは力の強弱ではない。頭の善し悪しじゃよ。この迷宮に飛ばされた時は不意打ちを喰らったが、今度、奴に会ったら負ける気はないぞ」
“大した自信だな”
「魔法使いなんて多かれ少なかれ自信家なものじゃ。おぬしこそ剣の腕には相当な自信があるようじゃな?」
“私はこれしかできない。魔法は使えないんだ”
「人間、できることが一つあればええのじゃよ。それもおぬしの才は並外れておる。それ以上、贅沢を言ったら罰が当たるぞ。わしも器用貧乏な奴より、専門家の方が馬が合うのでのぅ」
“それで、これからどうするつもりだ?”
「ダドリーの話ではあと2つの階を抜ければイアイモのいる階にたどり着けるということじゃ。だが奴がこのままおとなしくわしらを待っているとは思えん。どこかで罠をかけてくるじゃろう。あるいは直接わしらの足を止めに来るかもしれん。なにしろ、この迷宮の規則ではイアイモに勝った者は無罪放免にせねばならんからのぅ。奴がわしらを閉じ込めておきたければ逃げ続けるのがいちばんいいのじゃ。何も逃げずともええ、この迷宮は戦士、術者、盗賊がおらねば先に進めん。ダドリーを消してもいいわけじゃよ、最悪な」
“怪物と戦う以外に私は役に立たないぞ?”
「それこそ、わしがいちばん不得手なところじゃ。おぬしの守りがなかったら、さっきのドラゴンの炎でわしは消し炭と化していたじゃろう。おぬしが頑張っているあいだにわしは頭を働かせることができる。そのうちにいい知恵も浮かぶじゃろう」
“次はあなたとダドリーの担当だったな?”
「そうじゃ」
“あなたが彼を疑う根拠を聞いていなかったな”
すると老人の手の中にパイプが現われた。考え事をする時の彼の癖なのだろう。じきに幻のような紫煙が立ち上り始めた。
「最初の疑念は奴がわしを4人目の術者だと言ったことじゃ。確かにこの迷宮、生半可な実力の奴では生き延びられん。わしも2人の戦士が倒れたところを見たし、おぬしも手こずっておる。だがダドリー程度の腕前の奴が生き延びられるほど甘いところではないんじゃよ」
“彼が大した腕前ではないとなぜわかった?”
「3つめの階で小細工をしてみたのじゃよ。本当はまずいんじゃがイアイモにばれた時はばれた時じゃ。それにばれんで済んだし、奴は気づきもせんかった」
“彼がイアイモに操られているという可能性はないのか?”
「それも否定はせん。奴は記憶を失っていることになっておる。あの人格もあるいは植えつけられたものかもしれん。だが、わしはトレヴァーが倒れた時に奴がつぶやいたことを忘れておらん。確かにこの迷宮に挑むにはトレヴァーは力が足りなかったかもしれん。だが、それは彼のせいではないのじゃ」
“わかった。いまはあなたを信用しよう”
「可能性はもう1つある。ダドリーがイアイモ自身だった場合じゃ。わしらが右往左往しているのを見るには、ともにいるのが手っ取り早いからのぅ」
“悪趣味だな”
「本来は異なる世界の人間を自分の造った迷宮に押し込めるような奴じゃ。間違っても趣味がいいはずはあるまい」
気がつくとオルズデールはパイプをふかすのをやめていた。
「さて、そろそろ起きようとするかいのぅ。もっともいまの話、全部イアイモに聞かれていなかったとも限らん。くれぐれも用心してくれよ」
“魔法使いを相手に気をつけられることがあるか、わからないが心がけよう。あと1つ教えてくれ。私は目を覚ますにはどうすればいい?”
「簡単なことじゃ。目を閉じて開け直せばいい。わしももう出ていくよ」
それで彼女は言われたとおりにした。見えてきたのは冷たい石の天井だった。
「よく寝ていたなぁ、あんたたち。却って気分が悪くなったりしないのかい?」
「わしも歳かのぅ。いくらでも寝られるようじゃ」
「寝てばかりいたら、いつまでも帰れないだろう」
「ひひひ、案ずることはない。わしかて、それぐらいわかっておる。だからこうして起きてきたのじゃ。さあ、行くとしようじゃないか」
「あんたもいいのかい?」
“大丈夫だ”
オルズデールの言ったとおり、サーラの傷は全快していた。剣も一振りを捨ててきたが、オルズデールかダドリーが拾ったらしく、二振りとも揃っている。
彼女は立ち上がり、剣を腰に提げ直した。
「それでは不安が残らんか?」
“立像やドラゴン相手では太刀打ちできないだろう。だが短刀よりはましだ。それとも当てがあるのか?”
「ダドリーが剣を次の階で手に入れたと言っておったろう? そいつは当てにできるかもしれんぞ?」
“行ってみればわかることだ”
「そうしようじゃないか」
「なくても俺を恨まないでくれよ。イアイモの気紛れなんて責任は取れないぜ」
「わかっておるとも」
オルズデールが先に立って階段を下りていった。ダドリーは最後に行きたそうだったが、サーラが促すと先に行った。
下りる前に彼女は振り返ったが、迷宮の中は変わることなく静かだった。
6つめの階はオルズデールとダドリーが働いたが戦闘はなかった。山のように物の積み上げられた部屋の中で、2人は正しい鍵を探した。
サーラは一応、見張りをしていたが、この迷宮を徘徊する怪物はいないらしく、無事だった。
そこで見つけた二振りの曲刀を持ち、3人はさらに下っていった。
「青き悪魔の階」
下りきったところの扉にはそう書いてあった。
「いままでの例からすると、ここはわしら全員の力が要るのじゃろうな」
“青き悪魔とはどんなものだ?”
「わしも知らんな」
2人の視線は自然とダドリーに向けられた。
「グレーターデーモンのことだ」
「強いのか?」
彼は頷いた。
「魔法も使うし、爪には毒もある。でも、いちばん手強いのは仲間を呼ぶことだ。1匹を倒しても次々に仲間を呼ばれるから、きりがない。前に下りた時もそれで倒された」
「おまえさんだけ、よく生き延びたの」
「たまたま俺が最後まで生き残っていたんだ。俺だけになったら、すぐに最初の階に戻された」
“仲間を呼ぶのなら呼んだ奴から倒せばいいのだろう?”
「一撃で倒せない厄介な奴だから問題なんじゃないか。魔法だって金色のドラゴンほどじゃないけど、けっこう強いのを使うし、群れとしての強さはここらじゃ相当なものだって言われているんだぜ」
“案ずるな。どうせ戦うのは私だ。あなたの手は患わせない。
それよりもオルズデール、刀を見てくれ”
「おお、すまんすまん。じゃがなぁ、おぬしが気に入った方でいいと思うぞ」
“それはどちらを使っても同じだということか?”
「同じではなかろう。ダドリーの薦めた刀は確かに強い。込められた魔力も相当なものだし、大した切れ物じゃろう。強すぎるきらいはあるが、おぬしほどの腕前で使いこなせぬはずもない。だが何でも相性というものはあるからのぅ。それにこの刀はおぬしに嫌われたことも感づいておるのではないかな」
「刀が感づくなんて、そんな意志とか持ってるはずがないじゃないか」
「強い武器には理屈では片づけられぬことがある。武器に振り回されるというのもそれではないかね?」
サーラはダドリーが強いと言った方の刀を抜いてみた。柄の近くに彫られた銘は「ムラマサ」と読める。その白刃は杖の先の灯りに鈍い輝きを見せていた。
しかし、刀は抜かれるだけで満足してはいなかった。それはさらなる血を欲していた。この迷宮にあって数多の化け物を倒し、無数の人間の血も吸ってきたであろうに、ムラマサはなおも飢え、乾いているのだった。
彼女は刀を鞘に収めて、もう一振りの曲刀を抜いてみた。白刃の輝きに違いはないように見えたが、それは無銘で、ただの道具だった。道具は自ら求めることはない。それは使い手によってただ振るわれ、化け物を倒し、人を殺す。用が済めば鞘に収められ、抜かれない限り沈黙する。
サーラが欲しているのはただの道具だった。彼女はこれまで自らの意志で武器を取り、人を傷つけ、殺してきた。そこに武器の意志はなかったし、必要ともしていない。人を殺すのにそんな理由は要らない。
彼女はムラマサを階段の隅に置いた。
“待たせたな”
「本当に使わないのかい?」
“要らない”
「だって、この迷宮じゃ、いちばん強い武器なんだぜ。欲しくたって簡単に手に入るものじゃないのに使わないなんて、もったいないじゃないか」
“あなたが使えばいい”
「俺は使えないよ。その刀はあんたみたいな剣士にしか使えないんだ。あんたが使うべきだよ」
「なぜ、その刀をそんなにサーラに使わせたいのじゃ? 何か意図があるのか?」
「俺はただ、もったいないだけさ。せっかくただで強い武器が手に入るのに使わない手はないだろう?」
「ただほど高いものはないとも言うぞ。おまえさんの話ではこの刀を手に入れるのはいろいろと大変なようじゃ。そんな物がただで手に入るのなら何らかの罠を疑ってみた方がええじゃろう」
「そこまで言われちゃ無理にとは言わないけど、だったら俺がもらってもいいかい?」
「使えもしない物をどうするつもりじゃ?」
「こいつは高く売れるよ。市場には滅多に出回らない物だからね。無事にここから出られたら、この刀を売るだけで一財産になる」
「これは開いた口がふさがらんわい。わしらはまだ、おまえさんの言うグレーターデーモンの階も突破しておらんのじゃぞ」
「あんたたちの話を聞いていると、そんなこと、何の問題もないようだからさ。そうしたら、この迷宮を出られた時のことを考えるのは当然じゃないか」
「それは結構なことじゃが、くれぐれもそんな刀を持っていったために、わしらの足を引っ張るようなことはしてくれるなよ。そんなことはわしの計算外じゃからな」
「大丈夫だよ。刀はここに置いておくさ。ここまで来て、俺のせいで失敗したなんてことになったら、かなわないからな」
「当然じゃ。
それではどうするか決めるとしようか。と言っても方針は金色のドラゴンと戦った時と、そう違いはないかのぅ?」
“私が悪魔と戦い、あなたが防御に専念する。ダドリーの役割は何だ?”
「イアイモは罠や鍵が好きなようじゃ。その悪魔が持っている鍵を奪えとか、わしらがしのいでいる間に鍵を開けろとか、そんなところじゃなかろうかな」
「あんたはさも簡単なことのように言うけど、あの悪魔の攻撃をしのぐのだって楽じゃないぜ?」
「そやつらを一度に追い払える手などないのじゃ。ここはしのぐとしか言いようがないじゃろう」
「でも何をしたらいいか、わからないんだろう?」
「おまえさんが見つけるのじゃよ。わしらが頑張っている間にな」
ダドリーは扉を振り返った。何か手がかりはないかと思ったのだろう。しかし扉には「青き悪魔の階」と書かれているだけで、ほかには何もなかった。
「オルズデール、灯りをもっと近づけてくれ」
「何かあるのか?」
「こんなところに出っ張りがあった。このままだとこの扉は開かないのかもしれないな」
「あり得ん話ではないな。どうすべきか、おまえさんに任せるぞ」
「開けたら、その悪魔がどっさりいるのかな?」
「そんなことは言わずもがなじゃな。たとえ1匹しかいなくても次々に仲間を呼ぶのじゃろう? ならば最初からいるものと考えた方が慌てんでいいわい」
「気持ちのいいものじゃないね」
そう言いながらもダドリーは扉から離れず、その仕掛けに取り組んだ。
サーラは扉が開いた時に備えていたが、後方の警戒も怠らなかった。いままでのところ、階段に化け物が出たり、罠が仕掛けられていたことはなかったが、それが全ての階に共通とは限らない。扉がただで開かないように、いつ背後から青き悪魔とやらが現われてもおかしくはないのだ。
「開いたぜ」
ダドリーが振り返ったのは、じきのことだった。
「開けるから、あんたが最初に乗り込むかい?」
“その方がいいだろう。
異存はないな、オルズデール?”
「もちろんじゃ」
彼女は曲刀を抜き放つと、ダドリーの開けた扉の中に踏み込んでいった。
“何も”
「サーラ、わしと替われ!!」
空っぽの部屋に踏み込んだと思ったら、背後から大きな手に引っ張られた。
彼女は部屋の外にいて、目の前にドラゴンほどの大きさの怪物が立っていた。それは全身が暗い青色で、こんな迷宮では役立たずの大きな翼を生やしていた。長い爪は4本あって、液が滴っている。太い尾は身体を支えるのにちょうど良く、振り回しても厄介な武器になりそうだ。むき出しの牙は顔の幅だけ並んで隙間がなく、その大きさに似合わず動きは俊敏で、魔獣が獲物を狩る時のように前足を払った。
サーラは一撃目を避けた。
悪魔は次々に腕を振るったが、彼女は曲刀で全て受け流し、隙を見て反撃を入れた。
だが、その青い皮は鎧のように堅く、軽い攻撃では傷つけることもかなわない。
悪魔の方も自分の攻撃をすべて避けた彼女を手強い相手と認識したのだろう。攻撃の手を止めて後退した。
しかし、そこは狭い階段で、悪魔の巨体はほとんどその場から動けなかった。
彼女は易々と追いついて、今度は強烈な一撃を見舞った。
胸に開いた傷から、血とも体液ともわからない黒い液体があふれ出し、サーラにまではね飛んだ。
それは火のように熱かったが、サーラはそんなものにはかまわずに二撃、三撃目をたたき込んだ。
「仲間を呼ばれたぞ!」
その言葉が発せられたのと同時に彼女は悪魔にとどめを喰らわし、部屋に戻った。
同じ姿の悪魔が部屋の中央に陣取っていた。口を開けると真っ黒で、そこから別の世界に通じていそうだ。だいたい仲間を呼ぶと言ったって、こんなでかい奴がどこから現われたのかもわからないのだ。
冷気が3人を包んだ。しかしオルズデールがかけた魔法が功を奏しているようで、彼女たちには涼しいぐらいにしか感じられない。
だが、そうと気づくと悪魔は部屋の端まで下がった。
「また仲間を呼ばれるぞ!」
“させるか!”
サーラは追いつき、悪魔を正面からたたき斬ったが、怪物の大きさから一撃では倒しきれなかった。
部屋の中の空間が歪んで、割るようにして悪魔が現われた。どれもこれも、青い身体も大きな翼も嫌になるほど同じ姿だ。
オルズデールが魔法で攻撃したが、悪魔は防護されているらしく、呪文はその手前で消滅しただけだった。
「ダドリー、悪魔は調べておるのか?」
「やろうとしたけど、こいつの血が溶岩のように熱くて手が出せないんだ」
「この期に及んで何を呑気なことを! サーラもわしもいつまでも持たんぞ、やることがないとぼやく暇があったら、とっとと働かんか!」
「考えてるよ!」
彼女は床に転がった悪魔の死骸が邪魔だった。その上、例の血がもっと広く床を覆いだしており、足下も不安定になってきた。
けれどもサーラは倒れた悪魔を飛び越え、呼び出された悪魔が何もしないでいるところに斬りかかった。
悪魔は太い丸太のような腕でそれを受けると、反対の手で殴りかかってきた。
彼女はその攻撃を受け流したが、爪の間から滴る毒液がむき出しの腕に触れると、そこから感覚が失われ、その範囲が徐々に広がっていくのが感じられた。いずれ、腕どころか全身が動かなくなるに違いない。
「わかったぞ! オルズデール、手伝ってくれ!」
「何をするのじゃ?」
「こいつの死体をこっちに引っ張るんだ。後で説明する、手を貸してくれ」
「このわしに力仕事をさせようとは無謀な奴じゃ」
「サーラに頼むわけにはいかないだろう!」
彼女の腕のしびれは徐々にひどくなっていた。
しかし、彼女はオルズデールと悪魔の間に入り、巨体を渾身の力で切り捨てた。
その熱い血を頭から浴びた時、低い震動が足下から響いた。
と同時に彼女たちは別の部屋に移されていて、ダドリーが倒れるのを見たのだった。
「ようこそ、イアイモの迷宮へ。わたしが魔術師イアイモだ」
青き悪魔の死体はなく、サーラの受けた傷も腕の痺れも治っている。
そして、その部屋の中央には白い衣装の人物が両手を広げて立っていた。「イアイモ」と名乗ったのはその人物だった。
「ダドリーはどうしたのじゃ?」
オルズデールの言葉が終わらないうちに「イアイモ」は話し始めた。一方的な口ぶりだ。
「ここまで来た者は君たちが初めてだ。よく戦った。君たちから取り上げたものを戻して、元の世界に帰してあげよう」
オルズデールが話に割り込もうとしたが、「イアイモ」は話し止めなかった。
それは不快さを通り越していた。相手が人間ではない、少なくとも自分たちのように考え、行動する生きた者ではないと思われたことは不快などという言葉で片づけられるものではなかった。
「イアイモ」はただ自分の頭の良さを語り続けていた。自分がこの迷宮を造るのにいかに苦心したか、いかに気を配ったか、いかに趣向を凝らしたかということを蕩々(とうとう)と語り続けた。
そして最後に「彼」は軽い調子でこう付け加えた。
「もしかしたら君たちはダドリーの身を案じているかもしれないが気にかけることはない。彼はわたしの作った人形、魔法で動かされていた物に過ぎないのだから。もっとも、ここまで来た君たちなら彼のことなど、とうにお見通しだったかもしれないがね」
話している間にサーラは「イアイモ」に近づいた。目の前で曲刀を抜き放っても「彼」は関心を示さない。白っぽい姿には実体のない頼りなさが漂っている。
彼女が曲刀を振るうと、案の定、刃は「イアイモ」の身体をすり抜けただけだった。
その間にも「彼」が話を止めることはなく、それもそろそろ終わりにさしかかろうとしている。
「それでは約束どおり、君たちを元の世界に戻すとしよう。二度と君たちにちょっかいを出すことはないと思うが、さようならだ」
「そうはさせんぞ、イアイモ!!」
その言葉とともにサーラは襟首を引っ張られて、視界が歪むのを見ていたのだった。
「大丈夫か、サーラ?」
オルズデールが初めて目を開けて彼女を見ていた。
「どこだ、ここは?」
「イアイモ」は約束を守ったようで彼女の声も戻っている。
「イアイモの隠れ家、と言いたいところじゃが、わしもこれから調べるところなのじゃ」
「狭い部屋だな」
オルズデールは頷いた。
「あのまま戻されるのはしゃくだったのでのぅ。イアイモの正体を突き止めてやろうと思って、できることなら拳骨のひとつも喰らわせてやりたかったのじゃが、そういうわけにはいきそうもないわい」
「それはどういう意味だ?」
彼が手招いたので立ち上がると、床に描かれた巨大な魔法陣が見えた。
その中央に人骨が倒れていた。その姿勢はまるで、この魔法陣をちょうど描き終わったところで力尽きたように見え、身につけた長衣もそのままだったが、布地はひどい襤褸(ぼろ)だった。
「彼がイアイモなのか?」
「そう見るのが自然じゃろうな。ひねた見方をすれば、魔法陣を描いた奴はとっくにとんずらしておって、逃げそびれた奴かもしれんが真相はわからんよ。どちらにしても心の残る死に方だったじゃろう」
サーラは呆気にとられて骸骨を見つめた。さっきまで憎むべき敵だったイアイモが急にそうではなくなってしまったからだ。自分をこんな迷宮に連れてきて理不尽な戦いを強いたイアイモが、狭い部屋に閉じ込められた孤独な虜囚に見えた。閉じ込めた者たちか、彼がいなくても廻る世界への復讐に、人を閉じ込めて戦わせ、高みの見物を目論んだのかもしれないが、その命は肝心の魔法陣を描き終えたのと同時に消えた独りぼっちの男の姿が浮かんだ。
「くそっ」
「奴に同情してやることはないさ。こんなところに閉じ込められるような者はたいがい何か悪さをしているものじゃ。そうでなくても生まれながらに強大な力を持ってしまい、それを制御できなかったか。その者が悪いわけではないのじゃ、だがその者のためにほかの者が傷つけられるなら黙って見過ごすわけにはいかないからのぅ」
「それが望んでいない力でもか?」
「人より優れた力を持つ者はそれを正しく行使する義務があろう。全ての者がそうできるわけではないこともわしは承知しておるよ。だが生きている者はそうしようと努めるべきではないかね?」
「あなたはイアイモもそういう人間だったと言うのか?」
「その可能性もあるというまでじゃ。だが閉じ込められたにせよ自ら閉じ籠もったにせよ、赤の他人のわしらに戦いを強いていいという理由はないんじゃないかね? わしが奴に同情する必要がないと言ったのは、わしらはあくまで自ら望まずにこんな迷宮に連れてこられたから言ったのじゃがね」
「そうだったな」
「さて、それでは改めて、わしらの仕事にとりかかるとしようか」
この部屋いっぱいに描かれた魔法陣は隙間ない文字のために、とても複雑そうなことが一目でうかがえた。
「あなたはこれを読めるのか?」
「半分くらいしか理解できん。ただ、これもイアイモであるようじゃな」
「イアイモが人ではないということか?」
「そうじゃ。少なくとも、わしらをこの迷宮につれてき、戦わせたイアイモは、この魔法陣なのじゃ。そして、もうひとつ、わかったことがある。おぬしはあの迷宮で上の階に戻れないことをおかしいと思わなかったかな?」
「思っていた」
「イアイモの迷宮はな、1つの階層しかないのじゃよ。それを階段でつないで、さも複数の階があるように見せていただけなのじゃ。わしらはイアイモの魔法で階段を下がっているように思わされて、実は元の部屋に戻っていたのじゃ」
「何のためにそんなことをしたのだ? 部屋をいちいち作り直す方が面倒そうなものだ」
「これがそうとも限らんのじゃよ。たとえば、おぬしが倒した石像やドラゴン、迷宮を維持するのなら、あれらの死体をいちいち片づけねばならん。壊れたところも直さねばならなくなる。迷宮を維持するというのは案外、面倒なものなのじゃよ。だが、部屋そのものを作り直すなら、そんな心配は要らなくなるのじゃ。中の物は廃棄してしまえばいいのじゃからな。それもこれもこの部屋が虚無にあるからできるのじゃろう。そして、この部屋はこの世界の全てなのじゃよ」
「部屋が1つしかない世界?」
「そうじゃ。この部屋の外には何もないのじゃ。この魔法陣を描いた奴は孤独だったじゃろう。だが、そやつは自分のほかには何もいない世界で外の世界から人間を呼びつけることに成功した。それであの迷宮を考えついたのかもしれん」
なぜこの部屋から出ていかなかったのかと訊くことに意味はなかった。それはサーラにはまったくわからない知識なのだ。そしてオルズデールの推測が正しいとも証明はできなかった。
彼女はイアイモと名乗った男の姿を思い出した。自信に満ちた壮健そうな人物だった。こんな迷宮を造って勝手に呼びつけた者を戦わせるような傲慢な人間には見えなくもなかったが、あれさえも作られた姿なのかもしれなかった。
「帰る前に一仕事、やっておきたいのじゃがな」
「この魔法陣を壊すという話になら、つき合おう」
「ひひひ、おぬしならば、そう言ってくれると思っておったわい。ただ1つ問題があってな、守りの魔法がかけられておって、うっかり手を出すわけにはいかんのじゃ」
「どのような条件で発動するのか、わかるか?」
「この魔法陣に手を出そうとすると良からぬことが起こるようじゃ。それ以上、詳しく調べていいものかはわからん。うっかり調べて、その罠を発動させるわけにもいかんでな」
「この魔法陣を読むことはできないのか?」
「複雑すぎて、わしの手に負えん。それに生き物を召喚することはわしにはできんのじゃ」
サーラは部屋の中を歩き回った。
魔法陣のことを知らないのはオルズデール以上だが、それが描かれた床ならば別だ。要はこの部屋を破壊してしまえば魔法陣も残らないだろうと考えたのだった。
「この部屋を壊したら、この世界はどうなる?」
「元々、虚無に漂う世界じゃ。きれいさっぱりなくなるじゃろう。生き物もおらんし、魔法陣が壊れてしまえば、全ては霧散していこう」
「私たちは無事に帰れるのだろうな?」
「大丈夫じゃ。わしがちゃんと送り届けてやるわい。まるでおぬしがどこにも行かなかったかのように元の場所にな。それで何か策は思いついたか?」
「いま言ったことだけだ。私はこの手の専門家ではない。壊すことはできるが、1、2ヶ所の煉瓦を外したくらいでは無理だろう。それに、この部屋、魔法によって維持されているのではないのか? あなたにこそ策がありそうだ」
「うむ、そうじゃな。だが、この部屋を維持している鎖は容易なことでは外れんぞ。なにしろ、ここにイアイモを閉じ込めた者は決して出したくなかったようじゃからな。願わくば、外の世界にも干渉させず、ここで朽ちさせたかったのじゃろう」
「だがイアイモは外の世界から私たちを呼び出すことに成功した。閉じ込めた者たちの思惑は失敗したということだな?」
「手厳しい言い方じゃが、そうなるのぅ。大事なのはイアイモを閉じ込めることではなくて彼の力に悪さをさせぬことじゃからな。そのための封印じゃ」
オルズデールは天井を見上げた。
「見つけたぞ」
彼がつぶやくと、1バス(約30センチメートル)もありそうな長い楔と木槌が現われた。
「何をするつもりだ?」
「この部屋を壊すのじゃよ、おぬしが言ったとおり。さぁ、この木槌と楔を持ってくれ」
サーラが言われたとおりにすると、老魔法使いは彼女の服の裾をつかんだ。
「この魔法陣を描いたイアイモは、魔法陣を守ることは考えた。それはそうじゃろう、出る見込みがないのだから外の世界にちょっかいを出そうとしたのじゃ。そのための道具が壊されてはたまらんからな。だが、この部屋は彼にとっては抜けられぬ牢獄だった、守ることなど考えもしなかったろう。それは彼をここに閉じ込めた連中が考えるべきことだったのだからな。
さぁ、御託はこれくらいにして仕事にかかろうか」
オルズデールの魔法が2人を部屋の外に運んだ。そこは漆黒の空間だった。だが、虚無という大げさな名のわりに、そこら中にごみのような物体が漂っていた。この部屋もまた虚無に漂うごみと言えなくもなかった。
「これがその封印じゃ」
彼が杖で示したのは掌ほどの大きさしかない札だった。そんな物がこの部屋を存続させ、イアイモを閉じ込めてきたのかと思うと不思議なものだ。
「その札を剥がしてくれ。それで片づく」
サーラは最初、手で剥がそうとした。けれど、それは隙間なく貼りついていて、爪さえ入れることができなかった。その札は見た目より、また彼女が考えたより、ずっと強固に貼りついているらしかった。
「わしが木槌と楔を出したのはそのためじゃよ。もちろん、こんな部屋を維持しようという守り札が手で剥がされては意味がないからのぅ」
それで彼女も今度は木槌と楔を使って札を剥がしにかかった。木槌を楔に打ちつけるたびに木の鳴る音が響き渡る。それはまるで札というより、木の皮でも剥がすような作業だった。
「なぁ、おぬし、わしとともに来んか? どうしても倒さねばならぬ相手がいて、わしは相棒を捜しておるところなのじゃ。頼りになる剣士が来てくれたなら、とてもありがたいのだがなぁ」
「私の心は読んだのだろう? ならば私がどう応えるのかもわかっているはずだ」
「うむ、そうだな。余計なことを訊いたわい」
剥がされた札は形も残らずに霧散した。と同時に、あれほど強固だった足下が急に頼りなくなり、当たり前のように部屋を作っていた煉瓦1つひとつが不安定になった。
もはや、その部屋は虚無に存在できなくなったのだ。煉瓦は1つ抜け、2つ抜けていき、魔法陣の描かれた部屋が見えても崩壊は止まなかった。
それらは虚無のあちこちに向かって、てんでばらばらの方向に飛んでいった。
魔法陣の中央にあった骸骨もいつまでもその部屋の中にいなかった。どことも知れぬ虚無の中へ消えていったのだった。
「では、これでお別れじゃな」
「ああ、世話になった」
サーラとオルズデールは左手で握手をして別れた。
気がつくと彼女は旅の途中でケルレンへ向かっているところだった。
まるで何事もなかったように、あの続きから彼女は旅を再開したが、それはオルズデールの計らいには違いなかった。
イアイモの迷宮で戦ったことは彼女にとって無駄ではなく、さまざまな局面で活かされた。
けれどサーラが思い出すのは、怪物のことではなく、あの迷宮を造った者のことだ。あれだけの魔法陣を描きながら、孤独に死んでいった人物だ。
彼が何を思い、何を願って、あのようなものを作り上げたのかはわかるまい。
あるいはダドリーこそが、その孤独な魂を慰めた者の写し身だったのかもしれない。
全ては異界に消えた幻に過ぎない。
だがそれは、彼女が足を踏みしめる、この世界も同じことなのだ。
《  終  》
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