「その人の名を知らず」

「その人の名を知らず」

「あれは誰だ? アラディ=カプランなんて名前じゃない、本当の名は何ていうんだ?」
「彼はアラディ=カプランだ。それ以外の名は知らない。本当も何もない。彼の名はアラディ=カプラン以外にあり得ない。訊こうにも彼は殺された。ほかに名があったとしても、もう彼には答えられない。彼を殺させたのはあなただ。あなたが知らないのに私たちが知っているはずがない。彼はアラディ=カプランと名乗った。それ以外の名は聞いていない」
彼は膝を落とした。
アラディそっくりだが、ほとんど表情の変わらぬ顔、感情を面に表わさない顔は明らかに別人のものだ。けれど、その石のように動かなかった顔が、いまは恐れ、おののいている。驚きと戸惑いという、彼が知らなかったのであろう感情に囚われている。
「あなたの名は?」
「ジョーラム。ジョーラム=ルデュック」
「あなたの名も本当の名ではないのではないか? アラディ=カプランという名を偽物だと言うのなら、ジョーラム=ルデュックという名も偽名ではないのか?」
「そうだ。いいや、そうかもしれない。影にそのようなものは必要ない。わたしたちに名前はない」
しかし、ジョーラムと名乗った男の手をグランディーナは数バスほどつかみ上げた。手の先がたちまち朱に染まるのは、彼女がそうとう強く握っているせいなのだろう。けれどジョーラムはまるで気にしていない。
「私たちにとって彼はアラディだった。ほかにどんな名を持っていたとしても、アラディという名しか知らない。それ以外に必要もない。だから、あなたの名もジョーラムだ。それで十分ではないのか?」
グランディーナが手を離しても、ジョーラムは呆けたように座り込んでいる。
「彼は、ここで何をしていた?」
彼が言葉を発したのはずいぶん経ってからのことだった。
そのあいだにグランディーナは皆に野営地の設置を命じ、その場には誰も残っていない。
皆は忙しそうに立ち働いていたが、その動きも止まりつつあり、いつものように夕食の匂いが辺りに立ちこめていた。
「アラディは影だ。帝国の情報を集めたり、ほかの影たちをまとめたりさせていた」
「わたしが彼の代わりになろう。プロキオンさま亡きいま、ゼテギネア帝国に仕える理由もなくなった。ああ、そうだ、わたしの主人は最初からプロキオンなどじゃなかったんだ」
「自惚れるな。誰も誰かの代わりになどなれない。アラディの仕事はアラディにしかできなかった」
そこへランスロットが走ってきた。彼はジョーラムを気遣ったが、グランディーナは話すように促した。
「後始末は終わったよ。何か指示はあるかい? なければ、夜番を立てて皆を休ませるが」
「プロキオンの部下たちはどうした?」
「それはリゲルが引き受けた。コンシュ派といったっけ。彼が言うにはプロキオンがオファイス王を暗殺したために分裂したが当のプロキオンが殺されたから、また一つの組織に戻るだけだそうだ」
「なるほど。ギルバルドに来るよう伝えてくれ。あとは、あなたの言ったとおりでいい」
「わかった」
ランスロットが去るのを待ってジョーラムは口を開いた。
「ギルバルドというのは旧ゼノビア王国の魔獣軍団長ギルバルド=オブライエンのことか?」
「そうだ。解放軍に来る前のアラディのことを知っている」
彼はすぐにやってきたが、ジョーラムに驚いた素振りを見せた。もっとも話はすでに聞いていたのか、納得した様子でもあった。
「アラディを私たちに引き会わせたのはあなただったな。どういったわけでそんなことになったのか話してくれ」
「彼はわたしの副官として着任していたマナハイム=シャッセン付の影としてシャローム地方にやってきました。若いのに腕が立ち、出身を訊くとダルムード砂漠のコンシュの生まれだと言います。旧オファイス王国の影を見たのはそれが初めてでしたが、その卓越した能力は旧王国時代からよく知られていましたので、なるほどと思ったものです」
「ライナスやトリムが探せなかったユーリアの行方を捜してきた時には、私も少し驚かされた」
「アナトリアの魔女ババロアには、さすがの帝国も手を出せないようでしたからね。だからこそ、わたしもユーリアを彼女に託せたのですが。アラディが来てしばらくすると、あなた方の噂が聞こえてきました。解放軍のような反帝国の動きはいままでにもなかったわけでもありませんでしたが、下っ端とはいえ、帝国の支配者を倒したのは初めてのことでしたし、旧ゼノビア王国騎士団が中心になっているという話もありました。わたしは、あなた方に賭けることにして、いざという時には軍の指揮権を持つマナハイムを殺したのです」
「奴の子飼いの部下もいただろう?」
「わたしには信頼できる魔獣軍団員が半数以上も残っていました。マナハイムを倒すのは、それほど難しいことではなかったのです」
「アラディはどうしていた?」
「彼は便宜上、マナハイムの部下でしたが、実質はそうではなかった。プロキオンはしたたかです。帝国に従うふりをして子飼いの部下を帝国中に潜伏させていたようです。シャローム地方のような辺境にまで情報網を張り巡らしていたのでしょう。アラディがわたしやマナハイムが討たれた時にどうするか、わかっていなかったとは思えません。それなのに彼は受けていた命令どおりに動かなかったのです。だからわたしは彼にあなたへの伝言を頼み、後は好きにするように言いました。アラディはひどく戸惑っていました。理由はわかりませんし、彼に自分で判断する力がなかったとは思えませんが、どうしたらいいのかと問うばかりでした」
出身はダルムード砂漠のコンシュというオアシス都市だと教えられたが、そんな町にいた思い出はない。物心ついた時には影としての訓練の真っ最中で、彼はとうとうコンシュに行く機会もなかったし、ダルムード砂漠を訪れたのも、その長いとは言えない人生の最後の一ヶ月間のことであった。
世はすでに神聖ゼテギネア帝国の時代、オファイス王国は影の長プロキオン自らの国王暗殺により、旧四王国のなかでは最も早くハイランド王国に降伏した。帝国は旧オファイス王国の影をそっくりそのまま自国に組み込んだが、プロキオンも長として残されたため、実質的な指揮権は彼にあり、影は帝国のために情報収集に励む一方で、依然としてプロキオンの考えと意志に従っていた。
彼は帝国に提供される影だった。自分の意志とは関係なしにそういう運命が決められていた。拒否することも他の選択肢もあり得ない。旧オファイス王国の影として生まれた者は皆、決められた道を行くことしか許されない。
けれども、そんなことに彼は疑問ひとつ抱いたことがなかった。疑問を抱くほど、ほかのことを知らなかった。
そもそも名前というものさえ状況に応じて変えるもので、決まった名を使い続ける人がいるのだと知らなかったほどだから。
最初の名が何といったか、彼はもう覚えていない。そのあとでいくつの名を使ったのか数えられない。だが最後の名がアラディ=カプランだった。語呂の良さそうな名を選んだだけで、特に思うところも理由もなかったが、彼はその名を終生、使うことになり、アラディ=カプランとして振る舞うことをも覚えたのだった。そして、それが彼の最後の名となったのである。
彼がアラディとして命じられた仕事は、シャローム地方の副官マナハイム=シャッセンの手足となって働くことだった。シャローム地方はゼテギネア帝国の東端、その地を治めるのは旧ゼノビア王国の魔獣軍団長でありながら、ゼテギネアに降ったギルバルド=オブライエンという男であった。
「アラディ=カプランといいます。マナハイム=シャッセン殿の部下として着任しました」
ギルバルドはいかめしい顔を向け、頷いたきりだ。齢50、初老と言っていい年齢だそうだが、壮健な感じのする男だった。
もっとも、アラディがギルバルドと顔を合わせたのはこの時きりだ。副官といっても帝国からじきじきに任命されたマナハイムには、いざとなったらギルバルドを殺す権限も、そこまでしなくてもシャローム地方での彼の権限全てを奪うこともできる。シャローム地方にはギルバルド子飼いの旧魔獣軍団と、帝国が任命した兵士が混在していたが、その最終的な統制権もマナハイムにあった。
だが、あくまでも表面上の支配者はギルバルドになっていた。もともとシャローム地方を治めていたギルバルドに代わってマナハイムが為政者となると民衆がうるさい。それでマナハイムはずっと副官という地位に甘んじているのだということは、シャローム地方に来る前にアラディも学んでいた。
「おまえの仕事はギルバルドを見張ることだ。奴はゼノビアの裏切り者だが、いまでも奴を慕う者は多い。奴が戦わずに降伏したからシャローム地方は戦火を免れたという連中がな。20年以上もゼテギネア帝国に仕えているが、心中では何を考えているやらわからん奴だ。一度、裏切った奴は何度でも裏切る。怪しい兆候を見せたら、すぐに報告しろ」
「承知しました」
とは言ったものの、アラディはすぐにシャローム地方がそんなに緊張していないことを知った。帝国でも東の辺境だ。首脳部の目は旧王都ゼノビアより東へ向けられることは稀だし、旧ゼノビア王国の残党の抵抗も10年以上前に止んでいる。処刑吏ウーサーが豪腕を振るったのも、10年も前のことになるのだ。
けれど、それは人びとがゼテギネア帝国の支配を受け入れた、という話でもなかった。人びとはただ、抵抗した後の帝国の報復を恐れたのだ。どんな些細な抵抗にも徹底して追求され、弾圧される、その激烈さを恐れただけだ。多くの人びとは、いまも帝国を嫌い、敬遠し、できるだけ関わり合いになりたくないと思っている。影として働いてきたアラディには、その雰囲気が察せられた。オファイスでもドヌーブでもホーライでもゼノビアでも、ハイランド以外の旧王国で、いつ爆発するかもわからない火種が燻り続けている。それは何かのきっかけで突然ゼテギネア帝国を襲い、呑み込むかもしれない。
本当に警戒すべきなのは、一度、牙を折られ、爪を剥がれたギルバルドではなく、一見、牙も爪も持っていなさそうに見える民衆の方なのだ。
しかし、アラディはそのことをマナハイムに進言しなかった。それで、もしも帝国が揺らぐなら、それだけのことだ。万が一、新しい国に取って代わるのだとしても、彼ら影の重要性が失われるわけではない。為政者は影を必要とする、いつの時代にも。それがプロキオンの意向でもあった。
「アラディといったな。わたしを見張っても、いまさら何も出てきはすまい? それよりもおぬしと話をさせてくれないか」
「わたしからマナハイム殿や帝国の情報を引き出そうとしても無駄ですよ、ギルバルド殿」
「そんな気はないさ。それよりもおぬしはオファイス人なのだろう? こんな辺境にまでよく来たものだ。おぬしの目にはこのシャローム地方はどう見える?」
「良いところですね。旧ゼノビア王国の版図はどこも地味が豊かですが、シャローム地方はその中でも最も富んだ土地だとか。わたしの生まれたのはダルムード砂漠のオアシス都市コンシュだそうですが、ここの豊かさとは比べ物にもなりません」
「だそう、とははっきり覚えていないのか?」
「物心ついた時にはすでにコンシュを離れていましたし、戻ったこともありません。わたしたちにはふつうのことですよ」
「わたしは、おぬしとは逆に旧ゼノビア王国領を離れたことは一度しかないし、王都だった時のゼノビアにさえも数えるほどしか行ったことがない。他国の風景はかなり違ったものだろうな?」
「そうとも限りません。旧ホーライ王国にも豊かな土地はありますし、旧オファイス王国でもライの海近辺の土地にはシャローム地方と似たところがあります。ですがギルバルド殿、あなたはこのような他愛もない話をしたくて、わたしを呼び止めたのですか?」
「そうだと言ったらどうするのだ? マナハイム殿とは話が合わないし、わたしの部下たちは同じシャローム地方の者か、旧ゼノビア王国の者がほとんどだ。おぬしのように異国から来た者はとても珍しい。話が聞きたいと思っても不思議はあるまい?」
「あなたはご自分の民に厳しい為政者だと思っていました。素顔のあなたは少し違う方のようですね。それとも他国の話に興じられるあなたの方が作り顔なのですか?」
「どちらも素のわたしだ。民を治めるには優しい気さくな顔ばかりでは務まらん。異国の風景を楽しむのに気難しい顔はいらん。矛盾はしておるまい」
なるほどとアラディは心中で頷いた。マナハイムがギルバルドを、いまだに警戒するのも一理ある。そしてシャロームの民にギルバルドが慕われるのも、帝国の犬と誹られるのも彼は理解したように思った。
帝国に全面的に降伏したはずなのに、ギルバルドは、いまだその誇りを捨てていないのだ。そして帝国が戦前と変わらぬ地位を与えたことは、彼が自身の命と引き換えに守ろうとしたシャローム地方をいまも守るのに役立ち、子飼いの部下たちが大勢、無事なことも力を与えている。
「失礼いたします」
「おぬしさえよければ、また話につき合ってくれ」
「ええ、近いうちにできますれば」
大した男だ、とアラディは感心した。と同時に、シャローム地方の落としがたさにも気づいていた。
シャロームにいて、あちこちに顔を出すうちに、アラディはギルバルドの親友だという有翼人カノープス=ウォルフと、マナハイムが、ただ一人処刑させた魔獣軍団の副団長ガルシアン=ラウムのことを知った。
カノープスは、ギルバルドの降伏を批判したことで二人は仲違いし、シャロームの地方都市バハーワルプルに隠棲していた。「戦いを棄てた」と広言し、帝国の監視下から外されても久しい。
しかし元々がギルバルドにも匹敵する実力者で、特に有翼人に人気が高かったが、アラディが確認しても目立った行動はしておらず、ギルバルドとのつながりも20年以上、絶えたままであった。
カノープスの妹がユーリア=ウォルフといい、ギルバルドの恋人でもあったが、彼女も10年以上、行方が知れなかった。
ガルシアンの処刑は、ギルバルドとカノープスへの牽制には役立ったが、残念ながら、それ以上の効果はなかったようだ。むしろ魔獣軍団の結束を固めてしまったという声もあるほどで、マナハイムが20年以上もシャローム地方に居座る理由のひとつにもなっているようだった。
さらにアラディはシャローム地方の辺境にも足を伸ばしてみたが、反帝国の芽も、ギルバルドとのつながりも見つかることはなかった。離れ小島のヴォルザーク島はなお田舎だ。帝国も形ばかりの兵しか置いておらず、わずかな旧ゼノビア王国の残党が息を潜めているだけであった。
アラディは、ウォーレン=ムーンを初めとする残党についてマナハイムに報告した。彼らは無力かもしれないが無害とは限らないからだ。以前の帝国ならば、それが芽を出さぬうちに、たたきつぶしていただろう。特に旧ゼノビア王国に仕えた占星術師ウォーレンの動向にはもっと注意が向けられても良いはずだった。とかく魔法使いとは何をしでかすか、わからないものだ。
「奴にそんな力があるものか。20年以上、我が帝国から逃げまわっていただけの男だ。いまさら警戒すべき奴ではないわ。旧ゼノビア王国の残党も実力者など残っていない。だいいち、連中が何かしでかすとしてもヴォルザーク島からだ。奴らにはウーサーを当たらせる。そのあいだに我々は準備できるのだ。放っておけ。そんなことよりもギルバルドの尻尾は、まだつかめないのか? 奴は絶対に何かしでかす。それを突き止めろ」
「承知しました」
「影のくせにおまえが考えることなどないんだ。まったく、ギルバルドの首でも上げなければ、中央に帰れないとは。おまえたちが無能なせいだぞ」
「申し訳ありません」
けれど事を起こしたのは、そのウォーレン=ムーンであり、旧ゼノビア王国騎士団を中心として自称、解放軍を立ち上げた。
ヴォルザーク島を発った解放軍は間もなくシャローム地方の辺境に上陸し、2日のうちに処刑吏ウーサーを討ち取った。伝えられる情報では、解放軍のリーダーは無名の女剣士だということだが、その規模は30人足らずで、マナハイムはひどく不機嫌だった。だが、もとはといえば、自分で蒔いた種なのだ。
「ギルバルド=オブライエン、女帝陛下よりお預かりし、このシャローム地方を、これ以上、貴様に任せておくわけにはいかん。貴様の統治権を剥奪し、反乱の恐れある不届き者として監禁する。連れていけ!」
マナハイムの命令で部下たちがギルバルドを取り押さえた。
「わたしを監禁すれば、わたしの部下たちはあなたには従わぬ。そうなれば、帝国軍の数は半分以下、反乱軍にも数で劣ることになる。戦いに不慣れな者も多いところをいかに勝つおつもりか?」
「うるさい! 兵どもなど反乱軍を足止めするのに役立てばよいのだ。それよりも貴様のその言、帝国に反逆の意あってのものとしか聞こえぬぞ。長いあいだ帝国に恩ある身で反逆とは、貴様の狙いをつかんだぞ!」
「兵を足止めに使うなど、あなたの方こそ正気の物言いとは思われぬ。シャローム地方の統治権をわたしから奪っておきながら、敵と戦わずに逃げ出すつもりか?」
「ふん、シャロームなんて辺境は反乱軍にでもくれてやればいいのだ。貴重な兵力をこんなところで失ってたまるか」
「そしてわたしの首級を土産に中央に返り咲こうという腹か。身勝手なことを! シャローム地方をあなたの手になど渡しはしない! 反乱軍との決着はわたしの手でつけさせてもらう!」
ギルバルドは自分を押さえていた二人の騎士の手を振りほどき、その剣まで奪った。
「貴様、何をする?!」
マナハイムにそれ以上、言わせず、ギルバルドはその命を絶った。同時に見るからに魔獣使いと覚しき男たちが室内に侵入してきて、マナハイムの部下とアラディを拘留した。
ギルバルドが何か企んでいるというマナハイムの疑惑は事実だったのだ。けれども彼はそれを自身の命で証明してしまった。もっと上手に立ち回ることもできただろうに最悪の結果だけが残された。
「アラディ、おぬしに頼みたいことがある」
彼はまったく動けずにいた。影の戦闘力など本職の騎士に比べれば大したものではない。必要最小限、万が一の時のために身を守る程度だが、それでも極力、戦わずに済ませるだろう。影とはそういうものだ。戦って敗北しても命の保証などない。逆に影とわかれば殺されるのがおちだ。
だから、アラディは何もしなかったのではなかった。マナハイムの命を守れという命令を受けていなかったから動けないわけでもなかった。彼はマナハイムがギルバルドを捕えた時から何もしなかった。まるで木偶のように突っ立っていた。そんなことは予想していたはずなのに、何もできなかった。その後のギルバルドの反撃にも何もしなかった。
いままでは言われなくても身体が反応した。自分で考えたことなどない。ただ彼は命令されたとおりに動くだけだった。影とはそのようなものだ、マナハイムに言われるまでもない。彼は命令どおりに動く駒だったのだ。
「わたしに、何をしろと仰るのです? わたしは影だ。なぜ、わたしを殺さないのですか?」
「おぬしを殺す気などない。誰かに報告されて困るようなこともしておらぬしな。それよりもおぬしを優秀な影と見込んで頼みがある。反乱軍が近いうちにシャローム地方に攻め込んでこよう。そのリーダーに会って、わたしからの伝言だと伝えてくれ。『これ以上、互いに血を流すのは無用、シャローム地方を治める者として一対一で決着をつけたい』とな」
「反乱軍のリーダーを見つけられなかったらどうします? それに、わたしにその答えを持ち帰れと仰るのですか?」
「おぬしほどの影ならば、できぬはずはあるまい。それに反乱軍がペシャワールに着くまでにはまだ時間がかかろう。そのあいだに探せばよい。だが返事は不要だ。その者の行動でわたしは判断する。軍を率いて攻めてくるのならば、こちらもシャローム地方を守るために全力で戦おう。反乱軍は我らの屍を乗り越えていくがよい。もしも一人で来るのならば、シャロームが命を預けるに足る人物かもしれない」
「ですが、ギルバルド殿はわたしにその後、どうしよと仰いますか?」
「好きなようにするがよい。おぬしは自由の身だ。オファイスに戻ろうとどこへ行こうと、止める者はおらん」
「オファイスに戻って何をします? また影に戻るのですか?」
「それもよかろう。おぬしはコンシュの出身だと言っていたが、故郷に戻るのも悪くあるまい」
「出てきて以来、一度も行ったことのないコンシュなど故郷だと思ったこともありません。そんなところに、わたしの居場所などあるはずがないでしょう。ずっと影として生きてきて、わたしのいるべき場所など、どこにもない」
「ギルバルドさま、この者たちの処置はいかがいたしますか?」
「外出は許せないが客人として、おもてなしをしろ。その後の判断は反乱軍に任せる。わたしも後から行く。皆と待機していろ」
「承知しました」
ギルバルドとマナハイムの部下たちが揃って出ていき、室内にはアラディとギルバルドだけが残された。
「反乱軍、いいや、解放軍に興味はないか?」
アラディが答えられないでいると、ギルバルドは話し続けた。
「解放軍のリーダーとは、どこの馬の骨ともしれない傭兵だと聞いた。居場所がないと言ったな。ゼノビア人でもオファイス人でもない者の傍らになら、おぬしの居場所も見つけられるかもしれんぞ?」
「それよりもなぜ、あなたは反乱軍を解放軍と仰るのです?」
「わたしも待っていたからだ。ゼテギネア帝国の支配がこのまま続くとは思っていない。帝国は強大だが、打ち倒す者もあるかもしれないし、民も恐怖政治には飽いている。ならばここで、自らを解放軍と名乗る風変わりな連中に賭けてみるのも悪くあるまい。行ってくれるか、アラディ?」
「わかりました。あなたのご武運をお祈りします」
「そのようなものは要らぬよ。いかな結果になろうとわたしが生きていることはあるまい。最後に、20年以上仲違いしたままの親友に会えぬことが気がかりだったが、わたしが生きておぬしに会うことは二度とあるまい」
「わたしに生きろと仰るあなたが、ご自分は死ぬと仰るのですか?」
「わたしは自分の罪を知っている。それを憎む人があることも、生きたいと願った者を殺させてしまったことも。わたしを生かそうと思う者はあまりいないだろう」
「ですが、ご希望を捨てられますな。砂漠にも雨が降ります、万が一つの可能性でも生きてお会いできるかもしれません」
「その時はわたしのことなど忘れてくれ。これ以上、生きて恥をさらしたいとは思わん」
「それでも、あなたに生きていてほしいと願う者はおりましょう。身勝手ながら、わたしもその一人です。どうか、また生きてお会いできますことを」
「なぜ、そう思うのだ? わたしはおぬしの主人を殺したし、そのまま解放軍に討たれるかもしれない危険をも冒させようとしているのだぞ。なぜ、生きて会いたいなどと言えるのだ?」
「あなたがご自分のことをどのように考えられようと、わたしには命の恩人だ。生きていてほしいと思うのは当然のことです。もちろん、仰るようにあなたの死を願う者もおりましょう。ですが、わたしはそれと同等か、より多くの人びとがあなたの生存を願っていると思っています」
「そんなはずがあるものか」
「いいえ、シャローム地方を歩いて人びとの声に耳を傾ければ、すぐにわかります。あなたに恩義を感じている人びとは、それだけ多いのです。ご存じないのだとしたら、あなたはマナハイム殿と同じくらい、人びとの心を知らないのです」
「それでもわたしが死にたいのだと願っていても同じことが言えるのか、アラディ?」
「何度でも申し上げます。たとえ身勝手だとしても、あなたには生きていていただきたい、それがわたしの気持ちです」
「さて、それを決めるのはあいにくと、わたしではない。解放軍のリーダーの動きによっては、わたしは戦死するかもしれぬ」
「ですから、わたしはあなたにご武運を、と申し上げました」
「おぬしの方こそ気をつけていけ。わたしの部下たちは、おぬしのことは知らないが、じきにマナハイム殿のことは知る。おぬしは反逆者と見なされるかもしれない」
「それもわたしの仕事です」
「後のことはあなたの方が詳しいでしょう。彼はあなたへの伝言を伝えてくれ、そのまま解放軍の一員となったのですから」
「そうだな。ありがとう、ギルバルド。もう休んでくれ」
彼は一礼して去り、後にはグランディーナとジョーラムだけが残された。
解放軍の野営地は二人より少し離れた場所に設置され、かがり火も遠かった。
グランディーナは膝をつき、ジョーラムの面をのぞき込んだ。
「アラディの代わりは要らないが、影の席が一つ空いている。影たちをとりまとめられる者がほしい。解放軍に来ないか?」
「わたしに帝国を倒す手伝いをしろと?」
「いいや、手伝いなどじゃない。影の力はそんなに小さなものではない。ともに来て戦え、自分の意志で帝国を倒せ。アラディの分まで、この国の未来を見届けろ」
「この国の未来」
ジョーラムはつぶやき、答えを探すように視線を動かした。
「影に未来を提示するのですか?」
「提示などできないし、する気もない。私にできるのはゼテギネア帝国を倒すことまでだ。その後の国はあなたたちが造れ」
「わかりました」
神聖ゼテギネア帝国が倒されるまで、解放軍は何人もの影を使い、そのなかには中途で殺された者も少なくない。
けれど、彼らの名はどこにも記録されていないし、解放軍のリーダーは戦後、そのことについては堅く口を閉ざしたままだ。
決して表に現れぬまま、帝国と戦った者たちがいた。
その人たちの名は誰も知らない。
《  終  》
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