「歌をあなたに」

「歌をあなたに」

「兄さん、さっきはあんなことを言っていたけれど、私は一緒に行くつもりはないわ。戦えるわけではないし、役に立てるとは思えないもの。それよりも」
「いいや、おまえも一緒に来い」
カノープスに乱暴に言葉を遮られて、ユーリアはむっとした。しかし彼女の兄はなおも続ける。
「おまえのことだ、どうせ俺やギルバルドの安全を祈ってるとか言うんだろうが、俺たちが次にシャロームに帰ってくるのなんて、いつになるのか、わかったものじゃねぇ。もしも俺たちが途中でくたばるなんてことがあっても、おまえがそれを知るのはずっと先のことだ。だったら、一緒に来い。俺たちがくたばっても、それならすぐにわかるし、おまえの好きなように形見でも何でも持って帰ればいいだろうが? それに戦えなくたって、解放軍におまえの仕事がないとは思えねぇな」
ユーリアはまだ少し腹を立てていたが、兄の言うことはもっともだし、確かに彼女のしようとしていたことに比べれば、ずっとましに思えた。カノープスが指摘したように、彼女はババロアのもとに戻り、ギルバルドと兄の無事を願いながら、戦いとは無縁の生活を送るつもりだったのだ。
「わかったわ、私も一緒に行く。だけど、形見なんて拾わないから。ギルバルドさまも兄さんも死なせない。私たち、揃ってシャローム地方に帰りましょう」
カノープスは歯をむき出しにして笑い、彼女の髪を乱暴にかき回した。
「兄さん、やめてよ!」
しかしカノープスは笑った。つられたようにギルバルドも笑いだし、ユーリア1人が憤慨していた。
兄の言ったとおり、解放軍に彼女の仕事がないはずはなかった。魔獣の世話は昔から彼女の得意とするところだったし、ギルバルドもカノープスも、それだけは彼女にかなわないことを承知していたからだ。
それに、魔獣が増えることはあっても減ることはなく、ユーリアは魔獣たちを可愛がるのに忙しかった。
グリフォン、ヘルハウンド、コカトリス、ワイバーンにドラゴン、魔獣にはそれぞれ個性と癖があるが、同じグリフォンといっても、個体によって差があるのは当然で、そのこともまた可愛がる理由になる。
ギルバルドもカノープスも24年の隔たりを感じさせないし、解放軍にいるのもおもしろい。戦いは嫌いだが、解放軍が立たなければ、彼女の恋人も兄も、こうして笑っていることなどできなかったろう。
「だけど、なぜかしら?」
と、ユーリアはため息をつく。
ババロアの家で毎日、ギルバルドの無事を祈り、彼と兄が和解できることを願い、たった1人の兄さえ立ち直らせることもできない己の無力さを嘆いた、あの日々に比べれば、解放軍で過ごす毎日のなんと充実したことか。初めて見る世界の興味深いことか。
それなのに自分は何が物足りないと思うのだろう?
24年前、魔獣軍団が軍団長ごとゼテギネア帝国の支配下に入るまで、自分は何に満たされていると思っていたのだろう?
そんな時、彼女はエレボスを引っ張り出す。決して疲れに倦むことのない力強い翼が大空を羽ばたくのをいつまでも見つめていることもあれば、ともに空を駆け、何もかも忘れてしまえるまで飛んで、疲れて眠ることもあったが、物足りないと思う気持ちが癒されることはなかった。
グランディーナとともに、カノープスやエレボスがバルモアに発ったのは、ユーリアたちが解放軍に加わって3ヶ月も経ったころだ。
ドラゴンを除く魔獣たちのリーダー的な存在だったエレボスの長期にわたる不在は、解放軍の魔獣たちにとって不安定な要素になっていた。
ギルバルドもユーリアも、そのことはあらかじめ承知していたし、想定の上だったはずなのだが、エレボスの影響力は意外に大きく、人に使役される魔獣たちにとり、見過ごせないものとなっていたようだ。
「魔獣使いとしては不名誉な話だ。己の使う魔獣を落ち着かせることもできんとは」
そうは言うものの、ギルバルド自身の魔獣である2頭のワイバーンは、彼が側にいる時は割に平穏でいられる。ワイバーンは雄と雌で夫婦というのも大きいだろう。
問題は特に飼い主のいないグリフォンたちや、ロギンス=ハーチやニコラス=ウェールズの使役する魔獣たちで、群れのリーダーがもたらす安定感は欠かせぬものらしい。
魔獣部隊の者たちは、交替でグリフォンやコカトリスたちを散歩に連れ出した。マラノを平定した現在、戦闘はほとんど起こらない。たまに残存する帝国軍が見つかることもあったが、将たるアプローズ男爵はとうに討たれたし、組織は壊滅している。戦闘にもならずに武装解除されることもしばしばで、それさえも風竜の月の5日も過ぎるとまったく止んだ。
人ならば、訓練して汗を流したり、歴戦の騎士たるアッシュの教えを請うたり、ウォーレンの魔法談義に耳を傾けたりすることもできようが、魔獣は人の言うことに従わせる訓練は積んでも、実戦に即した練習はしない。人以上の力を持て余していることも、魔獣たちが落ち着かない一因であるようだった。
自分は魔獣のようだ、とユーリアは思った。
エレボスがいてもいなくても、戦闘があってもなくても、彼女の心は何かを求めて喘いでいる。
グリフォンを連れ出して思い切り飛ばせてみても、自分自身の翼で羽ばたいてみても、心が満たされることはないのだ。
「ユーリア、久しぶりにあなたの歌を聴かせてもらえないか?」
「歌、ですか?」
風竜の月10日、ギルバルドが急にそんなことを言い出したので、ユーリアは何の話かと思った。
「ゼノビア王国がいまだ健在であったころ、あなたは魔獣軍団によく遊びに来て、魔獣たちに歌を唄ってくれただろう? あのころの歌をもう一度、聴かせてもらいたいのだ」
「ですが、ギルバルドさま、私は何年も唄っておりませんわ。最近、流行の歌も知りませんし、魔獣たちに唄ってあげることもしなくなりました」
「そのことはわたしも知っている。あなたが唄わなくなったのは24年前、ゼノビア王国が滅び、わたしがゼテギネア帝国の軍門に降った時からだ。あなたはカノープスとわたしのために追われることになり、その手を逃れるために声を上げることも許されなくなった。ババロアに匿われた時も、居場所を知られないようにするためにも、魔女に迷惑をかけないためにも、あなたは唄うことなどできなかったのだろう。だが、あなたの歌声が容易に錆びつくはずはない。何よりわたしは、あなたの歌声をもう一度、聴きたいのだ。それは無理な願いだろうか、ユーリア?」
「いいえ、私はそれだけで嬉しくて、このまま天にも昇る心地です。ギルバルドさまにおねだりされるなんて、滅多にないことですもの、兄がいたら、自慢して、嫉妬させてやりたいくらいですわ。だけど私はもう24年も唄っておりません。歌を忘れた私が、ギルバルドさまをがっかりさせやしないかと、それだけが心配なのです」
「そんなことがあるわけがない!」
24年前と違うのは、ギルバルドが彼女に触れるのに、いちいち顔を赤らめないことだ。
ユーリアは力強い腕で抱き上げられ、口の中で小さな悲鳴をかみ殺した。
「いまもわたしは、あなたの歌声を聴けるのはいつかいつかと待ち焦がれているというのに。あなたが唄い出したら、人も魔獣も耳を傾けずにいられないだろう。誰が唄っているのかわからないと言う者がいたら、これがユーリア=ウォルフの歌声だと大声で自慢したいくらいだ」
彼はその場で一回転してから、ユーリアを下ろした。
ギルバルドは変わっていない。25年前から、彼女の恋人は愛情表現が不器用だ。いまみたいに大っぴらかと思うと、少年のように繊細で、10歳も年上とは思えなかったこともある。
そのくせ軍団長として表に出す顔は、自分にも他人にも厳格そのものだ。
そんなギルバルドがユーリアはとても好きだ。彼の優しさに触れた時から、彼女は彼に恋をして、その想いが愛に変わっていっても、側にいることが許されなかった時も、ユーリアは翼をいっぱいに広げて、ギルバルドを守りたいと願っていた。
兄のようにギルバルドの傍らで身体を張って戦うことはできなくても、翼あるものの親が子を庇わずにいられないように、彼女はギルバルドを包み、守りたいのだ。
「そんなに仰っていただけるなら、唄ってみましょう。でも、とても下手になっていても、決して笑わないでくださいね?」
「あなたの歌声が聴けて嬉しくて仕方がないのに、これが笑わずにいられようか? だが、あなたの頼みだ、決して笑わないと約束しよう、ユーリア」
彼女はギルバルドに背を向けて、こわごわと唄いだした。
声は思ったよりもごく自然に出てきた。己の声が聞こえてきた時には、彼女は24年の歳月などなかったかのように、唄うことを思い出していた。
ユーリアは小さくたたんでいた翼を、いまにも飛び立つかのごとく思い切り広げ、両手も差し伸べて、ギルバルドの方に向き直った。
身体の内から声が、音が、旋律が飛び出してくるかのようだ。言葉はなかった。ただ音楽だけが彼女の中に溢れていて、やっと得られた出口から怒濤のごとく流れ出してくる。
声を張り上げる必要もなかった。彼女自身が楽器となって、歌声を辺り一面に届けていた。
湯水のように湧いてくる音をようやく紡ぎ終えた時、ユーリアは我に返った。
人と魔獣が、ギルバルドと彼女を取り囲んでいる。
「ギルバルドさま、これは?」
「あなたが集めたのだよ」
「私が? でも知らない子もいます」
「マラノといっても、ここは森や山が近い。あなたの声が魔獣たちを集めたのだ。集めたと言うより、あなたの声に応えずにいられなかったのだろう」
「それは確かに、私は呼びかけました。エレボスがいなくても魔獣たちが落ち着いていられるようにと思いました。でも、野生の魔獣まで呼び出すなんて」
「あなたの声がそれほど届いたのだろう。ユーリア、あなたは24年もその歌声を封印してしまっていた。だが、あなたたち有翼人は成長期だ。24年前のあなたより、いまのあなたの方が心も体も成熟している。声もより遠くまで届くようになったのではないか?」
「ギルバルド殿の言うとおりです。唄ってやってください、ユーリア。魔獣たちが見違えるように変わりました」
「こんなにいい声を封印してるなんて、もったいないっすよ」
グリフォンのファメースが鼻を鳴らして、彼女の手にいかつい嘴(くちばし)をこすりつけてきた。甘えているのだ。もっと彼女の歌を聴きたいとねだられているのがユーリアにはわかった。それはほかの魔獣たちも同じ気持ちらしい。
24年前もそうしてねだられた。彼女が唄うと訓練にならないとカノープスに文句を言われたことを思い出す。
「だけど唄うなって言ってんじゃねぇからな」
兄はすぐにそうつけ加えた。
「魔獣たちがおまえの歌を聴くと気持ちよさそうなんだ。だから、訓練が終わってから来てくれ。魔獣軍団の連中も楽しみにしてるらしいし」
「わかったわ、兄さん」
それは彼女にとっても楽しみになった。ユーリアは、魔獣を可愛がることと同じくらい、唄うのが好きだった。言葉などなくても、音楽を表に出さずにいられなかったのだ。
「思い出しましたわ、ギルバルドさま。私、ずっと唄いたかった、誰かに聴いてもらうためではなしに、私自身が唄いたかったんです。何が足りなかったのか、私、やっと思い出しました」
「ならば、唄ってくれ、ユーリア。魔獣たちのために、あなたのために、あなたの歌声を聴かせてくれ」
「はい、ギルバルドさま!」
「だが」
と言ってから彼が口ごもったので、ユーリアは大胆にも首筋に抱きついた。
「時々でいい、わたしのためだけに唄ってくれ」
ギルバルドは照れくさそうに微笑んだが、彼女は頷いて、首を振ってから、満面の笑みを浮かべてみせた。
「いいえ、ギルバルドさま、私、いつでも、いくらでも、あなたのためだけ、お望みのままに唄います。だから、時々、私の声に合わせてくださいね。私にだけ、ギルバルドさまの声を聴かせてくださいね」
ゼテギネア帝国倒れし後、ユーリア=ウォルフは新生ゼノビア王国にその人ありと謳われる歌姫となって、その歌声は大勢の人びとを慰めたと伝えられる。
けれど、彼女が24年間も唄うのをやめていたことや、愛する人の言葉が再び唄うきっかけになったことなどは、あまり知られていない。
《  終  》
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