「温かい手」
天幕の外はいっそう荒れた天気になったようで、風がうなりを上げていた。アイーシャはガルビア半島のあまりの強風に天幕が飛んでしまわないかと思わず案じたが、目の前のグランディーナが苦しそうな声をもらしたので、それきり外の天気のことは忘れてしまった。
グランディーナの顎がのけぞった。休む前にラウダナムを飲んだはずなのに、ほとんど効いていないようだ。苦しそうに彼女が首を振る。そのまま寝かしておいていいものか、アイーシャが迷った時、グランディーナの方が先に目を開けた。
「アイー、シャ?」
「とても苦しそうだったわ。ラウダナムをもう一度、煎じましょうか?」
しかし、グランディーナはすぐに応えなかった。目の焦点も合ってないようで、激しく瞬く。
アイーシャは毛布の中に手を入れて、きつく拳を握りしめた彼女の左手を両手でそっと包み込んだ。
「なぜ、あなたが、起きてる?」
「あなたのことが心配だったから。私はそのために一緒に来たのだもの」
「だからって、夜中まで、起きている、ことはない」
「昼間ならランスロットさまやカノープスが起きているわ。でも、お二人を夜中まで起こしておくわけにはいかないでしょう?」
グランディーナはいいとも悪いとも言わず、目をしばたたいた。そうして話していながらも、彼女の表情が歪む。カノープスが雪の中から助けようとした時もその手を払ったのだ。古傷の痛みは相当なものだと思われた。
アイーシャは彼女の手を毛布の下に戻した。
「ラウダナムを煎じてくるわ」
「いい。要らない」
「でも、痛くて眠れないのではないの?」
「ラウダナムを、呑むより、あなたに、手を、握っていて、もらった方が、ずっといい」
「どうして?」
「ラウダナムなんか、呑んだって、大して、変わらない。あなたの、手は、温かい。私には、その方が、ずっといい」
そう言って差し出された手をアイーシャが握り返すと、グランディーナはわずかに微笑んだ。けれど、その額には脂汗がにじみ出ていて、口で言うほどには身体は楽ではないのだろうと思われた。
「フォーリスさまにも、手を、握っていて、もらったことが、あったな」
「お母さまに?」
「そう。一晩中、握っていて、くれた。フォーリスさまには、何でも、話せた」
声に力はなかったが、グランディーナは饒舌だった。アイーシャにはそれが少しでも痛みを紛らわせようとしているように見えて、彼女の語ることにただ頷くのみであった。
「サーラ、これからは何か問題があったら、私のところにいらっしゃい。できるだけ、あなたの力になるから」
「なぜ?」
ロシュフォル教会の大神官フォーリスは微笑み、サーラの両肩に手を置いた。そのずっと下の脇腹には、ついさっきフォーリスが巻いたばかりの包帯が見える。脇腹の古傷が裂けたところをフォーリスに見つかって、手当てしてもらったばかりだった。
「私があなたの力になりたいからだわ。それではいけない?」
「私がいたら、迷惑ではないのか?」
「なぜ? そう思うのなら、最初からあなたのことを引き受けはしないわ。それとも、私にはあなたを庇う力なんか、ないと思ってる?」
「そんなこと思ってない。でも」
フォーリスの手が離れ、サーラがそこら辺に脱ぎ捨てた服を拾い上げた。
「私の身を案じることはないわ。私はこのような時のために大神官になったのだもの。それよりも服を着てちょうだい。あなたは熱があるのだから、もう休まなくてはいけないわ」
サーラは僧服を頭からかぶった。彼女のそれは、フォーリスにもらった服の裾を勝手に膝下で切った物だ。裾がほつれてしまって、最近では膝上までになっている。彼女が袖に腕をとおすと、フォーリスが手を取った。
「お休みなさい、サーラ。あなたが休むまで、そばにいるわ」
「でもフォーリスさまは忙しいのだろう?」
「一晩くらい何もしなくても大丈夫。どんな仕事よりもあなたの方が大切だわ」
「そんな、子どもみたいなことされなくても眠れる。大丈夫だ」
フォーリスは、右手はサーラの手を握ったままで、左手を頬に添えた。
「私にとってはあなたは子どものようなもの、娘よ。娘が辛い思いをしているのに、どうして放っていけますか」
「辛いなんて」
フォーリスの手はそのままサーラの頭の上に動いて、なでた。
「私のことは心配しないで。あなたはあなたの傷を治すことに専念しなくてはね」
「ありがとう、フォーリスさま」
「お母さまらしい」
アイーシャが笑うと、グランディーナも微笑んだ。
「少し、休もうかな」
「ええ、そうして。私、ずっと手を握っているから。少しでも眠って」
「ありがとう、アイーシャ」
話しているうちに、グランディーナの手は開き、アイーシャの手に委ねられていた。けれど、その手は嫌な汗をかいていて、アイーシャはまた不安にかられる。
それでもグランディーナがやっと寝息を立て始めたので、アイーシャは安堵の息をついて、彼女の手を両手で包みなおした。
すると、グランディーナの手が指を曲げて、彼女の手を握り返すような形になったので、アイーシャは嬉しくなって、彼女の手を握る手に優しく力を込めたのだった。
《 終 》