「幽霊船」

「幽霊船」

「ジャーック!!」
グランディーナがファイアクレスト号の主帆柱の見張り台から飛び降りた時には、さすがの〈何でも屋〉も心臓が止まるかと思ったほどだ。
「進路を変えろ! 前方に何かいるぞ!」
「な、何がですか?」
「もうじき見えてくるはずだ」
それでもジャックはすぐに南に舵を切るよう命じ、船もじきに進路を変えたのだが、それ以上の速さで黒雲をまとった帆船が近づいていた。
船腹の消えかけた文字は「黒蓮号」と読めた。船体にはところどころ穴が空いており、よく沈まないものだ。帆柱はファイアクレスト号と同じく3本で、船の大きさもほとんど同じだ。だが、その帆はどれ1枚としてまともな物はなく、穴が空き、端からほつれて、単に帆柱からぶら下がっている襤褸(ぼろ)切れにしか見えなかった。
そして黒蓮号が近づくにつれ、ファイアクレスト号の周囲の天候までおかしなものとなってきて、濃霧が2艘の船を包み込もうとしていた。
グランディーナは船尾に走っていった。船に乗って以来、ほとんど毎日のように居眠りばかりしていたのが嘘のような動きだ。いまだって、彼女は主帆柱の見張り台で見張りをしていたのではなく、眠っているものとばかり、ジャックでさえ思っていたのである。
そのあいだにも謎の船は船尾に接近しつつあり、船内は騒然としてきた。こんな事態はファイアクレスト号ではいままでなかったことなのだ。
「このままでは逃げられそうにありませんね。いったいどういう船なんでしょうか?」
「何だかわからないが、まともな船でないことだけは確かだろう」
「それは困りましたねぇ。わたしも商売柄、真っ当なことばかりしてきたとは申し上げにくいのですが、こんな船に追いかけられる覚えはありませんよ」
「ジャック、追いかけられるぐらいでは済みそうにないぞ」
「それであなたはどうしようとなさるので?」
「火の粉は払うに限る。あちらの船に乗り込んで、追い払えないものか見てこよう」
「まさか、お一人で行かれるつもりですか?」
「こういう仕事ならば私の領分だ。腕に覚えのある者がいるのならば、来てもらってもかまわない」
「何人か心当たりがあります。あなたの目にかなえば、連れていってください」
「あなたの推薦ならば、私が見るまでもあるまい」
「レザロ、ラリック、あなたたちのできることを彼女に申し上げなさい」
名前を呼ばれた2人が前に出る。
いまや2艘の船は完全に停止しており、風がやんだわけでもないのに、波に揺れているだけだ。帆は力なく垂れ下がっている。
「わたしは除霊師崩れです。除霊の真似事ならばいまでもできます」
そう言ったのはレザロで、首から提げた小さな十字架を見せた。除霊師はたいていはどこかの宗教団体に属しているが、彼が祈りを捧げているところなど誰も見たことがない。もう1人、背の高い方がラリックだ。
「わたしには魔法の心得があります。お役に立てれば良いのですが」
「十分だ。私が先に乗り込む。あなたたちには援護を頼む。状況によってはあちらの船に乗り込んできてもらってもかまわない」
グランディーナは曲刀を抜くと、即座に黒蓮号に飛び移った。
霧にまかれて視界は悪いが、彼女が甲板に着地したのは音でわかった。
すぐに鋼のぶつかり合う音が響き、跳ね上がった剣が海に落下する。
「レザロ、私のいるところに除霊術をよこせ!」
「はい! 死せる魂を常世の闇へ葬らん、安らかに眠れ、イクソシズム!」
光の柱の中にグランディーナと数体のスケルトンが現れたが、スケルトンは除霊術のために消滅していくところだった。
「アンデッドとは厄介です。わたしの魔法は効かないし、彼女の武器も足止めになるか怪しいものです。ジャック、あの曲刀は聖別された武器ですか?」
「とんでもない。わたしの知らないうちに乗っていた代物ですよ。そんなたいそうな武器のはずがないでしょう」
「わたしもあちらの船に移りましょう。渡し板をかけてください」
そのあいだにも、向こうの船からは激しい剣戟の音が聞こえてくる。
「グランディーナ! そちらにレザロが行きます! 板を渡しますから、近くに来てください!」
「わかった!」
そう答えがあると同時に、半壊した頭蓋骨がこちらの甲板に吹っ飛ばされてきた。
だが、板を渡しているうちに、頭蓋骨の受けた傷は修復され、身体の骨を生やすと、粗末な棍棒ながら武器まで手にして立ち上がったではないか。
「死せる魂を常世の闇に葬らん、安らかに眠れ、イクソシズム!」
レザロの除霊術はすぐに功を奏したが、敵もスケルトンばかりではない。自在にこちらの船に移動してくるゴーストやファントムまで現れ、レザロ1人で対処できなくなった。除霊術の及ぶ範囲は広くないため、開けた場所では対応が追い着かないし、崩れと言うからには本職にかなわないところもあるのだろう。
「バン、あなたもあちらの船に渡りなさい。彼女1人にお願いするわけにはいかないでしょう」
しかし、巨漢の用心棒が板を渡ろうとすると、グランディーナはその上に立ちはだかった。
「ここは私1人で十分だ。手があるのならば、そちらを守れ」
「ですが、こちらに来るのはゴーストやファントムばかりです。槍で追い払える相手ではありませんよ」
「だからといってレザロを無防備なままにしておくわけにはいくまい」
話しながら、彼女に海にたたき落とされるスケルトンもいたが、やはりゴーストには効果がない。曲刀がすり抜けていくだけなのだ。
それで唯一、効果的な技を保つレザロを皆で守るはめになった。
だが、ゴーストの攻撃はこちらの力を奪うし、ファントムは悪夢のような光景を見せて気力を萎えさせてしまう。無尽蔵に湧いてくるゴーストやファントムを相手に、そういつまでも耐えられるものではなかった。
それに、2艘の船はいまや、渡り板などなくても行き来できるくらいに近づきつつあった。こうなるとスケルトンも飛び移ってきてしまう。何体か失敗して海に落ちる者もいたが、そういうことは気にしそうな相手でもない。
グランディーナも含めて、ジャックたちは守りやすい船倉への入り口に後退したが、それが根本的な解決になりそうもないことは誰にもわかっていた。
「彼ら、何かを言ってる。待て! 手を止めろ!」
それは最初、スケルトンが骨を鳴らす音かと思われた。だが、破れて傷んだ帽子付きの長衣の下から、確かにうめき声だけではない、何かを伝えようとする言葉がかすかに聞こえてきた。
「何ですか?」
「すくい?」
ジャックを庇ってグランディーナが手を伸ばし、突き出された剣の切っ先をもろに左手の平で受けた。しかし彼女は声さえあげず、スケルトンを押し返す。
見かねたレザロが除霊術を行ったが、彼女はきつい目で睨みつけた。
「バン、あなたが前に出なさい!
グランディーナ、傷の手当てを!」
「大げさに騒ぎ立てるな。何て言ったのか、聞き取れなかったじゃないか。ジャック、彼らはこの船にある物を狙っているんだ。私の手当なんかより、その物を探して渡した方がよほど話が速いぞ。すくいとやらに心当たりはないのか?」
「すくいですって? アンデッドが助けを求めているのではありませんか? それはわたしたちの考えるような助力ではなく、生者を死に引きずり込もうとするものですよ」
ジャックはかなり強引にグランディーナの手に自分の絹の手巾(はんかち)を巻きつけた。
「だが、それならば、すくいをよこせなどと言うだろうか?」
バンがスケルトンの攻撃に押されて下がった。彼の得物は両手持ちの長槍だ。骨だけのスケルトン相手には分が悪いし、身体の大きさも狭い通路で戦うには不利だ。
そして、たとえ入り口を守ってもゴーストもファントムも壁を越えて侵入してくる。
レザロはその対応に追われ、バンの支援にはとうてい手が回らない。
「すくいをよこせと言ったのですか? 救いを?」
「そう聞こえたというだけだ。だが、この調子で後退すれば、いずれ船倉に追い詰められる。心当たりがあるのならば、何でもいいから試してみてくれないか。私だって、ここからヴォルザーク島まで泳いでいくのは真っ平ご免だ」
ジャックは吹き出したが、グランディーナの目も笑っているようだ。
もっとも、ジャックの副官のカラドックも含めて残りの者は、こんな状況で船長が笑い出したことも、冗談にしてはあまりに間の悪い、冗談ともとれない彼女の物言いに、開いた口がふさがらなかった。
「わかりました。たとえアンデッドが相手とはいえ、望みの物の1つも出せないとあっては〈何でも屋〉のジャックの名折れ、末代までの恥です。グランディーナ、ここはあなたにお任せしてもよろしいですね?」
「もちろんだ」
「ならば、バン、下がりなさい。あなたとカラドック、それにウェッジはわたしと一緒に来なさい。ほかの方たちは、彼女の指揮に従いなさい。よろしいですね?」
「かしこまりました!」
バンに追いすがったスケルトンを、グランディーナは一撃で甲板まで吹っ飛ばした。
一方、ジャックとカラドックは、船倉に着くなり、手分けして荷物の目録をめくっていた。〈何でも屋〉を自称するだけに荷物の種類も数も半端なものではない。1点物の貴重な品も多かったが、がらくたから日用品まで何でもござれだ。しかし、2人がこの時、目をとおしていたのは、ゼテギネアで好事家に売りつけようと目論んでいた稀少品の一覧だった。
乳白色の輝きを持つ宝石、ムーンローズ、まばゆい光を放つ星のかけら、星の宿り、どんな敵の心も動かして味方にできるというラブアンドピース、ネズミの町に伝わる伝説の猫を呼び出すレミングのハープ、七色の光を放つレインボータートルの虹色の甲羅など、すぐに買い手のつきそうな物から、誰も買いそうにもない物まで、さまざまな品が並んでいる。その謂われも由来も、どれ1つをとっても同じ物がない。
ジャックもカラドックも改めて荷の多さに呆れたほどだが、いつまでも手元に残る不良在庫が少ないのも〈何でも屋〉には自慢の種であった。
「これなんか良さそうですね。その名も救いの聖櫃(せいひつ)、いまのわたしたちの気分にも、彼らの要求にもぴったりじゃありませんか」
ジャックがそう言って手に取ったのは、小さな箱だった。暗がりで見ると、わずかな隙間から光がこぼれているが、一見するとただの箱だ。
ところがこの聖櫃、バンの怪力をもってしても決して開けられず、仕入れから勘定してジャックのつけた値段が17万1300ゴート。カラドックがウェッジの目録に最初に目をとおした時、真っ先に飛び込んできたのがその法外な価格であった。彼は早くもこんな箱が不良在庫になったところで、そう場所をとるものではない、と自分を慰めたほどだ。
「17万1300ゴートが海の藻屑となるかもしれないんですよ。本当によろしいんですか?」
カラドックはつい念を押す。自分の言い分など、聞き入れるジャックでないことはわかりきっていても、副官としてより、商売に携わる者の性と、こんな値段をつけた主人への皮肉半分だ。
「わたしたちの命が17万ゴートぽっちですか? それはずいぶんと安く見られたものですね。ましてやグランディーナになら、1000万ゴートを積んでも惜しくありませんよ。こんな箱で命が助かるのなら、17万ゴートだろうと安いものじゃありませんか」
残念なことにジャックの金銭感覚は人並み外れている。彼は皮肉にも感じなかったようで、さっさと戻っていく。だいたい、どうして〈何でも屋〉がこんな箱を仕入れる気になったのか、カラドックはそこから問い詰めたいほどなのだ。
実際のところ、ジャックがこれまでにどれくらい稼いで、どれくらい使ったのか、帳簿係のウェッジさえ知らない。帳簿に載らない取引も〈何でも屋〉には決して珍しくないし、帳簿どおりの金額では収まらない取引も多々あるからだ。それに、ジャックときたら商人としては落第に値するほど、帳簿管理が甘い。それでいて部下の無駄遣いにはいつも目を光らせているし、かといって吝嗇(けち)にもほど遠い。彼の総資産がいくらあるのか、当のジャックにさえわかってはいないだろう。強大無比なローディス教国さえ買えるとも言われたことがあるが、〈何でも屋〉がそうしないのは単に、あの国が嫌いだからだ。
「グランディーナ! 救いの聖櫃を持ってきましたよ!」
そう声をかけただけで彼女は振り返り、ジャックの投げた聖櫃をゴーストよりも早く手にした。長年、仕えているカラドックや、最古参のバンでさえできなさそうな芸当だ。
彼女は曲刀を放り出すと、聖櫃を掲げて甲板へ走った。あれほど皆を襲っていたゴーストやファントム、スケルトンが一斉に彼女に追いすがる。
皆も彼女を追って甲板に駆け上った。そのなかでもバンが彼女の曲刀を拾っていったのは賢明な判断と言えた。
しかし、甲板は霧に蒔かれて、先ほどよりもさらに視界が悪い。
だが、暗がりで光をこぼした聖櫃は、この時もわずかな光をもらして、グランディーナの髪をかすかに煌めかせている。
「これがあなたたちの求めていた物か?」
彼女の問いに、アンデッドたちがてんでばらばらに叫び声を上げた。けれどもそれは、先ほどまでの生者を呪ううめき声とはまるで違っていた。もしも死者にも喜びという感情があるのならば、間違いなくそういうたぐいのものだろう。
スケルトンたちはもはや武器を手にしていなかった。聖櫃を求めて、誰もが手を高々と差し上げている。だが触りそうで触らないのは奇妙な話だ。スケルトンはともかく、どこにでも現れるゴーストやファントムなどは簡単に触れるはずだ。
そこへ、1体のゴーストが箱のすぐ側に現れ、グランディーナが引っ込める間もなく、聖櫃に触れた。箱は彼女の手よりはみ出すほどの大きさしかなかった。
激しい火花と絶叫が辺りに轟いた。海も船も人も、皆が震え、何が起きたのか、とっさには理解しがたかったほどだ。気がつくと、ゴーストは跡形もなく消し飛んで、グランディーナの手も傷ついていたが、聖櫃は無事だった。
「皮肉な話だ。我らがこのような醜態をさらしてまで求める物が、生きた者にしか触れられないとは」
そう言いながら、死者の群れをかき分けるようにして長衣姿の人物が現れた。頭蓋骨に皮だけ貼りつけたような奇怪な風貌に、つばのない帽子をかぶり、手には先端でとぐろを巻いた蛇の彫り物のある杖を携えている。
「リ、リッチ?!」
ラリックが思わず腰を抜かしたが、その者はグランディーナから視線を外さない。
「だが触れられずとも願いは成就しうる」
「リッチ」の歩みは、グランディーナが手を伸ばせば届きそうなところで止まった。
死者たちもいまは沈黙している。2人のやりとりを固唾を呑んで見守っているようだ。
それはいまや、何があっても逃げ出すわけにもいかない、ファイアクレスト号の乗組員一同も同じことであった。彼らの進退は、どこの馬の骨とも知れない女剣士に委ねられてしまったのだから。
「我らのために聖櫃を開けてくれ、娘よ。救いの聖櫃は何人(なんびと)にも開けられぬ箱、だが、世にも稀な汝の力をもってすれば、その約束も違(たが)えられるかもしれぬ」
「この蓋を開けられれば、あなたたちは救われるのか? それが神と交わした約束なのか?」
「リッチ」は周囲を見回した。死者たちの態度から、彼が船の主人なのだろうと察するのは容易なことだ。
「この者たちは自らの死を受け入れられなんだ。生に固執するあまり、ますます生と離れた姿に成り果ててしまった。それなのに、こんな姿になってもなお、生への執着を棄てきれぬ。この世にある限り、生者の命を求めてやむことがない。それだけ生に餓(かつ)えておるのだ。それでも朽ちてしまうことがないのは、神との約束ではなく、罰だ」
「だが、あなたは違う。リッチとは究極の魔力を求めた者がなると聞く。あなたは死者ではあるまい?」
「リッチ」は乾いた笑い声をもらした。
「究極の魔力を求めた代償がこれだ。確かに我は死者ではない。だが生者でもない。我はもう幾百年もこの姿で彷徨っている。我が魔力は強大だ。汝の鋼さえ、我にさしたる傷はつけられまい。我が魔力は禁呪さえ操る。ゼテギネア1の賢者と言われたラシュディさえ、我に匹敵する魔力を持つかどうか。だが、魔力と引き換えに我の失ったものはあまりに多い。いいや、全てと引き換えに我は得たのだ、決して朽ちぬ身体と究極の魔力を。我は物を食すことも飲むこともなくなった。眠ることもない。この身体はずいぶんと使い古したが、不便というわけでもない。知識を求める心はいまも止まぬ。だが汝が救いの聖櫃を持って現れた。これが千載一遇の機会でなくて何であろう?」
グランディーナは手の中の聖櫃を眺め、また「リッチ」に視線を戻した。
「あなたは究極の魔力よりも死を選ぶのか?」
「おかしなものだ。魔力を得ようと欲していた時は、これで死も超越したものと思っていた。事実、いくら歳月が経とうとも我には触れることもかなわぬ。我は幾百の国が滅ぶのを見た。幾万の民が死ぬを見た。我には死は永劫に無縁のものと思うておった。我が滅ぼした国もある。我が滅ぼした民もある。いまのいままで彼らを哀れと思ったこともない。我の心に死は響かぬ。いかな死の形も、我は何をも感じぬ。それなのに救いの聖櫃があると知った時、我が心は幾百年ぶりかで打ち震えた。無数の死を見、もたらしたはずの我が、己が死に安らいだのだ。この姿のままでは決して得られなかった安らぎを得たのだ」
「念のために訊いておこう。もしも私がこの聖櫃を開けられなかった時はどうする?」
その時、「リッチ」の眼は炎よりも赤々と燃え上がり、天にかざされた杖とともに、その姿は数倍の大きさに膨れ上がったかに見えた。人のままでは決して得られぬ強大な力を得た魔導師はその魔力を発散するだけでグランディーナともども、このファイアクレスト号も燃やし尽くしてしまいそうなほどであった。
ジャック以外の誰もがその光景を間近に見て震え上がった。用心棒のバンさえも、その例外ではいられなかったほどだ。
だから、ジャックだけが見ていた。2艘の船ごと呑み込んでしまいそうな巨大な炎が、グランディーナに触れることもできずに元の大きさよりも小さく萎縮してしまった幻を。しかも彼女ときたら、武器は腰に差した小刀のみ、両手には怪我まで負っているのにだ。
気がつくと、「リッチ」は何もしておらず、グランディーナもまた、聖櫃を持ったまま動いていなかった。すべては「リッチ」の持つ魔力が見せた泡沫(うたかた)の幻でしかなかったのだ。
そうと気づいて、皆が恥ずかしそうに立ち上がるのにジャックは目もくれなかった。
「自分勝手な言い分だな。あなたは究極の魔力を手に入れて、何百年も好き勝手にしてきたのだろう。だが、そろそろそれも飽きた。自死も選びたくないし、死はやってこない。たまたま現れた私たちに、一方的に責任を押しつけているようにしか聞こえない。それに、もしもこの船を沈めれば、救いの聖櫃も海の底に沈み、二度と生者の手には触れられなくなる。救いが与えられないのならば、二度と得られない方がましだと言うのか? それならば、こんな箱、いますぐに海底に投げ込んでやろう。救いなど得られないまま、未来永劫、その姿で彷徨うがいい!」
「やめてくれ!」
悲鳴を上げたのは「リッチ」ばかりではなかった。死者たちが一斉に悲鳴を上げたもので、皆は耳をふさいだが、それは心に直接響いてくるような声であった。
それよりも、誰もがグランディーナを止めなければと思っていたが、彼女は聖櫃を投げ捨てなどしなかった。ただ振りかぶってみせただけで、杖を放り出して両膝もついた「リッチ」の傍らに自らも片膝をついた。
「あなたも彼らを脅かした。これであいこだな?」
「リッチ」は大きく震えて彼女を見つめた。あるいは彼が本当に究極の魔力など手に入れたのかと疑いたくなるような弱気な態度だ。
だが、最初に彼を「リッチ」と認めたラリックはいまだに立ち上がることができないでいる。対等に見えるのはグランディーナの力の故なのかもしれなかった。
そう思うと、ファイアクレスト号に乗り込んで以来、寝てばかりいた娘が、急に得体の知れない存在に見えてくる。
そもそも「リッチ」は「救いの聖櫃は何人にも開けられぬ」と言わなかったか。彼女はそれを開けられるつもりでいるのだろうか。
「何が望みだ?」
「リッチ」はか細い声で訊ねた。
「私はこれからゼテギネア帝国と戦う。あの国は強大だ。一度でいい、あなたの力を貸してくれ」
「それだけで良いのか?」
「私は剣しか扱えない。ゴーストやファントムのように武器の効かない敵がいたら厄介だ」
「それぐらいならば、お安いご用だ」
「リッチ」は杖を取り直して立ち上がると、周囲からアンデッドたちを遠ざけた。
彼が杖を掲げると、その先に力が集中していくのが魔法の心得のない者にも感じられた。やがて杖は発光し始め、誰もがそのまぶしさに目を覆った時、光は唐突に失せて、1枚の紙片が宙を漂い、落ちていくところであった。
「我が名はアイギーク。力を求めし時はこの紙片を掲げ、我が名を呼ぶがよい。我が込めし力は、汝を助けるであろう」
グランディーナは紙片を受け取り、頷いた。その表情はほとんど変わることがなく、果たして、先ほどの白光を見たのかさえも怪しいものだった。
「私の刀をよこしてくれ」
バンが素早く投げると、彼女は受け止め、腰から提げ直した。
グランディーナが黒蓮号に跳び移ると、「リッチ」やアンデッドたちも一斉に移動する。ジャックたちも船縁に走り寄った。
「正直言って、私もこの聖櫃を開けられるとは思っていない。だがこじ開けることならば、できるかもしれない。少し、離れててくれ」
アンデッドたちが少し下がると、グランディーナは手を振って、さらに10バスほども下がらせた。彼女の曲刀は長い。振り回せば、それぐらいの広さは必要になるだろう。
彼女はわずかに左半身を引き、右手を柄に添えた。真っ直ぐに聖櫃を放り上げ、一閃した曲刀の動きはあまりに速く、誰の目にも捉えることができなかった。ただ鋼と聖櫃が激しくぶつかる音が聞こえたばかりだ。
聖櫃はアンデッドたちの作った輪の内側に落ちた。
最初、それは何の変化もないように見えた。
だが、軋んだ音を立てて、ゆっくりと蓋が開くと、中からこぼれてきたのは目を刺すほどの強烈な光であった。
「ジャック、船を出せ! 沈没に巻き込まれるぞ!」
ファイアクレスト号の帆が風を受けて大きくふくらんだ。
と同時に、「リッチ」たちを乗せた船は聖櫃から流れ出す光にまかれて、全体が一斉にへしゃげるような音を立てて、グランディーナの言ったとおり、沈み始めたのである。
彼女はファイアクレスト号に跳び移ろうとしたが、船が勝手に動き出したもので間に合わず、横腹に曲刀を突き立ててぶら下がった。ファイアクレスト号に傷がつけられるなど前代未聞の事柄だったにも拘わらず、慌てたジャックの命令でグランディーナはバンたちに助けられ、船を傷つけたことにはお咎めもなしだった。
黒蓮号は渦に巻かれて、潰されながら沈んでいった。
救いの聖櫃から漏れた光だけが、船が沈んだ後もしばらく海面を煌々と照らし続けていた。
だが、ファイアクレスト号から完全に見えなくなってしまう前に、光もやがて水底に沈んだ。
1人の「リッチ」と無数のアンデッドとともに、謎の船は何も残さずに沈んでしまったのである。
ファイアクレスト号はまたヴォルザーク島への航海を再開し、その旅路には、二度と障害がまとわりつくこともなかった。すべては何もかも、元どおりになったかのようだった。
ただし、乗組員一同の申し出により、グランディーナは見張り台から下りることになった。幽霊船の一件では彼女の貢献は大きなものだったので、誰もが改めて船長の客分である彼女の地位に、異論を挟むわけにはいかなくなったのである。
グランディーナがどこでいつ休もうと、それは確かにジャックの言うとおり彼女の勝手というものであり、たとえ仕事に差し障ろうと、受け入れざるを得なくなったのだ。
もっとも、申し出られた当人は意外そうな顔をした。信じられないことだが、寒風吹きすさぶ主帆柱の見張り台も、彼女にとっては誰にも邪魔されない寝心地のいい場所だったらしい。それでも季節は冬から春に移りつつあった。もうじき、見張り台の仕事も、少しは楽になるだろう。
「グランディーナ、伺ってもよろしいですか?」
「何をだ?」
「あの時、聖櫃がこじ開けられなかったら、どうなさるおつもりだったのです?」
「それは考えてもいなかった。アイギークに力の紙片までもらったのに、できないでは済まされなかったろうな」
「ええ。その時はわたしたちも彼の怒りを買って海の藻屑と化していたでしょうね」
「だけど、できないなんて思いもしなかった。あれ以外にできそうな手も思いつかなかったし」
「まるで大したことじゃないように聞こえますが、あなたはとんでもないことをしたのですよ?」
「でも、海の底に沈むよりはましだろう?」
「それは当然ですがね」
だが、皆の態度に彼女を恐れるところが見えるのが、〈何でも屋〉には気に入らない。グランディーナ自身はそのことを気にしていないらしいが、あるいは彼女のことだ。あの主帆柱から飛び降りた時に、こうなることを知っていたのかもしれない。彼女の眼差しだけが初めてジャックの前に現れた時からずっと変わることがない。まるで凪いだ海のように穏やかなままだ。
すると、グランディーナは大あくびをして、大きく両手を伸ばした。
「あなたはそんなに眠ってばかりいて、どうするのですか?」
「ゼテギネア帝国との戦いが始まったら寝るどころじゃなくなりそうだから、寝だめしている」
「ですが、それはまだ1ヶ月も先のことではありませんか」
「寝だめは得意だ」
何でもないと言いたげな口調だ。それに放っておくと、彼女はすぐに寝入ってしまうのだった。
その後、〈何でも屋〉のジャックも含めて、ファイアクレスト号の乗組員一同は、グランディーナの剣技を見る機会には二度と恵まれなかった。
しかし、ゼテギネアにいるあいだ、帝国相手に破竹の快進撃を続ける、彼女率いる解放軍の噂を聞くたびに、彼らは黒蓮号の事件を思い出して、あの時、グランディーナと救いの聖櫃のどちらが欠けていても無事には済まなかったことに背筋が寒くなる。偶然で片づけるにはできすぎた符号だ。ジャックは「まさか」と笑い飛ばしたが、自らの救済を願った「リッチ」のアイギークが、救いの聖櫃を買うよう、〈何でも屋〉に働きかけなかったとは誰にも言えない。「リッチ」にはそれだけの魔力があるのだ。そして17万1300ゴートもする、決して開けられない小箱を買うような物好きが、そうそういるとも思われなかった。
けれど、全ては海の底に沈んでしまい、真実は誰にも確かめられない。
それに誰かの意図がまったく働いていないことなど、この世にどれだけあるだろうか?
《  終  》
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