「文庫(ふみくら)の司」
「サーラ。サーラ、こんなところで寝ていたら風邪を引くわ」
身体を軽く揺さぶられて目を開けると、ロシュフォル教会の大神官フォーリスが微笑んで見上げていた。
「それにあなたにはまだ所蔵室に入る許可はあげていないと思ったのだけれど、本当は許可がなくて入ってはいけないところなのよ」
「フォーリスさまの後をついてきたら、ここに入った。ここには何があるんだ?」
「大昔から伝えられる書物がしまわれているわ。私たちがオウガバトルで、どんなことがあったのか知ることができるのは、先人がこうして書き残してくれたからなのよ」
サーラは窓縁から滑り降り、周囲を見上げた。
床から天井まで15段の棚が、目の届く限りの壁という壁を埋め尽くしている。それらの棚には細長い四角い箱がいくつも並び、いろいろな人の手で書かれた貼り紙が必ず四方に貼ってあるのも見えた。
しかし、彼女はいまさら気づいたように顔をしかめ、軽く首を振った。
「かび臭い。あんな箱に、本当に書物が入っているのか?」
「それはとても古い書物もありますからね。できる限り、大切に保存されてきたのだけれど、触ると危うい書物もなかにはあるわ。もしかしたら、虫に喰われかけたものまでね」
「私はいい。虫食いの束に興味なんかない」
「そんなことを言わないで、いらっしゃい。あなたがいつ、ここの書物を読みたくなってもいいように、責任者の方に許可をいただきましょう」
サーラの知っている書物とは、流麗な字で彼女のためだけに書かれた物だ。だが、それらの書物は1冊残らず失われてしまった。着の身着のままでアヴァロン島に着いた時、彼女の持ち物など自分の身以外には襤褸(ぼろ)同然の外套しかなかったのだ。書物など1冊たりとも持ち出す余裕はなかった。
この所蔵室にはそれよりずっと多くの書物があるが、彼女は手に取ってみたいとは思わなかった。
しかし、フォーリスはそんなサーラを強引に1人の老人に引き合わせた。
「バーデンベルクさま、彼女はサーラといって、僧侶ではありませんが、訳あって大聖堂で生活しています。今日、所蔵室に入ったのも私を追ってのことで決して悪気があったのではありません。どうか、これからも彼女が所蔵室に入ることをお許しください。
サーラ、こちらの方がバーデンベルクさま。この所蔵室の責任者で、ここのことは何でも答えていただけるわ。どのような書物が読みたいか申し上げれば、どこにどんな書物があるのか。そこから波及した書物まで教えていただけるのよ」
老人はサーラには一瞥(いちべつ)くれただけで、彼女もこんなところに長居するつもりはなかった。彼がすぐに振り返って棚を探っているのも、フォーリスの話などまるで聞いていなかったようにも見える。
「お待ちなさい。あなたのために書物を探してくださっているのよ」
だから、フォーリスからそう耳打ちされた時も、サーラは信じられない思いだった。それに彼女はここの書物など読む気もなかったのだ。
「バーデンベルクさまは少し気難しいところもある方だけど、気に入った人には、ご自分で書物を探してくださるの。わからないことがあったら何でもお訊ねなさい。この大聖堂でも、いちばん物知りの方よ」
やがて老人が差し出したのは埃をかぶった箱だった。
受け取る前に書かれた貼り紙を読むと「ゼテギネア神話」とあった。意を決してサーラは受け取り、埃を吹き払ってから蓋を開けた。中の書物は思っていたよりもずっときれいで、重たかった。
「貸してくれるのか?」
蓋を閉めながら彼女が問うと、バーデンベルクは重い口を開いた。
「書を読むことは好きなのだろう。何でも読みたそうな顔をしているが、まずはここから始めるが良い。だが粗雑に扱ってはならん。これは写した物だが、それだけ人の手がかかっておる。いまも、古くなった書物を守るために、写す仕事が続けられているのだ。わしらには知識を後世に引き継ぐ義務があるのでな。わしが貸したように返すと約束できるならば、この書を借り出すことを認めよう」
「わかった。約束する」
しかし、彼はもう彼女の方など見ていなかった。それでサーラは、所蔵室を辞していくフォーリスの後について一緒に出た。
そのまま部屋に戻ったサーラは早速、借りてきた書物を読み始めた。
「その始源、世界は天と地の区別はなく、スープのような状態であり、ただ虚無だけが満ちていた。一筋の光がその世界に生まれると、光は闇を作り出した。光からガリンガ、闇からはウンディガという2人の巨人が生まれ、互いにいつ果てるとも終わらぬ戦いを始めた」
じきにフォーリスは、サーラが自室と所蔵室を往復するのを何度も目撃するようになった。
彼女の知識欲は大聖堂の誰にも勝っているようで、確かにバーデンベルクの指摘したとおり、彼女はどんなことも知りたがり、何でも読みたがっていた。
そして、もうひとつ、大神官を驚かせたのは、自分以外とは誰とも話そうとしないサーラが、所蔵室にほかの誰もいない時に限って、バーデンベルクと話し込んでいるということだ。フォーリス以外の誰とも、顔を合わせることさえ避けていたというのに、所蔵室の主には信頼を寄せているようだ。
サーラの置かれた状況を考えれば、それは望ましいことなのだとフォーリスは考えていた。彼女の敵対しているものはあまりに大きいのに、サーラは独りきりだ。味方は多い方が良い。それがどんな形の助けになるのであれ。
サーラは所蔵室にしまわれた書物を片っ端から読み漁った。1日に二度も所蔵室を訪れることも珍しくなく、その速さにはバーデンベルクも舌を巻いた。
それでも、この気難しい所蔵室の主が文句を言わないのは、彼女が最初の約束どおり、決して書物を粗雑に扱わないからでもあったし、彼女ならば、いずれ所蔵室中の書物を読み尽くしてしまうかもしれないと思ったからでもあった。
しかし、大神官が大聖堂を留守にすることがあると、サーラも途端に所蔵室に現れなくなった。
彼女についての良からぬ噂はバーデンベルクの耳にも入ってきた。それはありもしない中傷のたぐいから、事実を言っていることまで様々であった。僧侶でも下働きでもないのに、彼女が大聖堂に居座っていることを、フォーリスに直接は言わないまでも、良く思っていない者が少なくないのだ。それは、サーラが新たに入りびたることになった所蔵室の主にも、これ見よがしに聞かされるようになったのであった。
けれど、フォーリスの帰還とともに、また所蔵室に現れるようになったサーラに、バーデンベルクは変わらぬ調子で書物を貸し、彼女の方から話しかけてくれば、それがどんな長話になってもつき合った。老人の態度が変わらなかったことは、彼女にとって、より信頼を寄せる理由になったようだった。
「私はこれは読まない。ほかの書を貸してくれ」
「魔法は嫌いか? 先日、渡した書は読んだのだろう?」
「やってみた。でも、私には魔法の才能はないらしい。だから、別の書がいい」
バーデンベルクが立ったのでサーラもついていった。
少し奥まったところにある棚に、バーデンベルクはその書物を戻した。それから、彼女を振り返って、この老人には珍しい助言をした。そもそも、彼が自分の居場所である受付を離れることが大変珍しいのを、サーラは知らなかった。
「では、この棚の書はおまえには無用の長物だ。こちらの棚の書を読むといい。世界の地理について、興味があるだろう?」
「それがいい」
その時、所蔵室の入り口から彼を呼ぶ声がした。
棚の箱を抜き取ったサーラは、素早く所蔵室から出ていった。
大聖堂にいた5年近くのあいだ、サーラは知識を貪欲に求めて、書物を手当たり次第に読み漁った。それらは一見すると、知識の断片に過ぎず、生かすこともできなかったかもしれない。けれど、彼女のなかにしまわれたそれは、別の知識と結びつき、さらなる知恵となって彼女を助け、導くことも少なくなかった。
過去から未来へ時がつながっているように、知識もそれだけでは役に立たないことがあるのではないだろうか。
《 終 》