「刃の向かう先」

「刃の向かう先」

なぜだろう。彼女を見ると殺したくてたまらなくなるのは。
なぜだろう。わたしの殺意に気づいていように彼女がわたしを使うのは。
わたしはこの手で、もう一人のわたしを殺した。同じ顔の兄弟、こうして出会うまで互いに存在することも知らなかったもう一人の自分を。
わたしは長年仕えた主人を見捨てた。物心ついた時からずっと身も心も支配した主人を、その最期の時にわたしは助けなかった。助けようとしなかった。
それなのになぜだろう。わたしが彼女を仇のように思うのは。
なぜだろう。わたしが殺した自分の代わりに解放軍に入ることを承諾したのは。
なぜだろう。もう一人の自分のように彼女に仕え、ゼテギネア帝国を倒すために奔走しているのは。
これは本当にわたしが望んだことなのだろうか? 
わたしはいますぐ彼女、解放軍のリーダーと差し違えて亡き主人を追うべきではないのか。
わたしは彼女を殺すべきではないのか?
わたしの主人はプロキオンといった。
わたしは彼の手足となって動いた影、ジョーラム=ルデュックというのが仮の名だ。本当の名は知らない。
「先を続けてくれ」
彼女にそう言われるまで、わたしは自分のすべきことを忘れていた。影のまとめ役として先の地域の報告、それが解放軍の進軍を決める。その仕事の重要さは理解しているつもりだ。わたしが虚偽の報告をすれば、いくら勢いのある解放軍といえど、いまのような進撃は続けられないだろう。いいや、もっと、解放軍を負けさせるようにだって仕向けられるに違いない。そうだ、わたしが手を下すまでもない。裏工作は影の得意技、わたしが生来成してきたことではなかったか。
だが、わたしはそうせずに報告を続け、彼女に尋ねられれば応えもした。嘘偽りのない事実、ゼテギネア帝国の旧都ザナドュの実情を彼女、解放軍のリーダーに告げたのだった。
「ご苦労だった。下がっていい」
けれども、わたしは彼女に対する殺意を抑えようともせず、机上の地図に向けられた灰色の瞳を凝視した。
その目の色は、わたしの主人プロキオンと似ていたが、彼を思い出させるものは何ひとつなかった。暗い野望をたぎらせ、本来の主人だったオファイスの王を暗殺したプロキオンの眼差しとは似ても似つかない。ゼテギネア帝国を倒すという誰もがなし得なかった大事に挑んでいる人にはとうてい見えなかった。
いまなら彼女を殺せるかもしれない。そう考えた時、天幕の外で足音が近づいてきた。
わたしは殺意を抑え、誰かが来る前に天幕を辞したのだった。
それからも彼女と二人きりになる機会は何度もあった。彼女がわたしの報告を聞く時、誰かを同席させることはなかったからだ。そのたびに、わたしは彼女への殺意をむき出しにした。愚かしいことをしているのはわかっている。だが彼女の手に倒れたプロキオンが、解放軍の前に倒れた同胞たちが、そして、もう一人のわたしが彼女と話すたびに脳裏に浮かび、殺意が募るのをどうしても抑えられなかったのだ。
しかし、わたしでは彼女にはかなわない。彼女の剣の腕は解放軍のなかでも卓越しており、たかが影にすぎないわたしなどが立ち向かえるはずもないからだ。
だが、わたしは認めよう。そんな理由など言い訳にすぎないことを。彼女を殺したいと思いながら、渇望しながら、わたしは逃げているのだ。
けれど、わたしの殺意に気づいていないはずもないのに、彼女は何も言わないし、何もしないでいる。誰かに告げた様子もない。
無防備なわけではない。彼女はそんな隙を見せたことがないのだから。あるいは彼女のことだ、わたしの見せる殺意など意に介してもいないのかもしれない。そんなものを警戒しなくても、いつでもかわせると思っているのかもしれない。
だが、わたしも旧オファイス王国の影だったのだ。彼女を殺せなくとも一矢報いることぐらいはできるかもしれない。
しかし、わたしが求めているのは彼女の死だ。だから、わたしは万に一つの機会をうかがうとしよう。それだけがいまのわたしの生き甲斐のようだから。
光竜の月12日、その機会は突然に訪れた。
報告のために天幕を訪ねると、彼女が熟睡していたのだ。いつも眠っていたように思えても、わたしが入っていくと彼女は目を覚ましていたのに、今日に限って微動だにしない。
わたしは息を潜めて彼女に近づいた。彼女の寝息は静かなものだ。
本当に眠っているのだろうか?
わたしの鼓動は速まったが、慎重を期すことは忘れなかった。
ようやく彼女が眠っていると確信して、わたしは暗殺用の短剣を取り出した。これを心臓に突き刺せば、さすがの彼女も生きてはいられない。喉を抉ることもできるだろう。だが、さすがのわたしも彼女を苦しめて死なせたいわけではない。狙うならば心臓を一突きにするのがいいだろう。
それで全てが終わる。
わたしは解放軍のリーダーを殺した咎人として殺されるかもしれない。だが、そのことを恐れてはいない。たとえ、どのように惨たらしい死であろうと、常に死と隣り合わせだったわたしが、いまさら死を恐れようか。わたしは、どんな結末をも受け入れるだろう。
わたしは素早く彼女の心臓を突いた。狙いを過つはずもない。
だが、その手は寸前で止められていた。彼女の手がわたしの手を押さえたのだ。
彼女が顔を上げる。
わたしは欺かれたのだ。でも失敗したとは思っても、もはや、それを恥ずかしいとも悔しいとも感じはしなかった。
「いつから気づいていたのですか?」
「最初からだ。あなたがなかなか手を出さないから止めるのかと思った」
「わたしをどうするつもりです?」
「処罰してほしいのか?」
「あなたとて、そんなことをするためにわたしを嵌めたわけではないのでしょう?」
「そうだな。あなたにいなくなられては私が困る。こんなことであなたを失うわけにはいかない。だから欺いた」
そう話している間にも彼女の手はしっかりとわたしの手をつかんでいる。特別、力を入れているようにも見えないが、動かすのも容易ではないほどだ。
「無罪放免にしていただけるのなら手を放してもらえませんか」
「それでは堂々巡りだ。私はあなたに命をくれてやる気はない」
「ですが、わたしもあなたを殺すことを諦めはしませんよ」
「違うだろう」
彼女の目がわたしをのぞき込んだ。誰も知らない砂漠の中にある湧き水のような静けさだ。
「何が違うのです?」
「あなたが本当に殺したいのは私ではないだろう」
「誰だと言うのですか?」
彼女はわずかに嘆息したが、わたしにはその理由がわからなかった。わたしが彼女以上に殺したい者など、ほかにいるはずがない。
だが、彼女はわたしの手を力強く引き寄せた。冷たい刃がわたしの首筋に触れる。それだけのことなのに、わたしの背を冷たいものが流れていった。
「わからないと言い張るのなら教えてやる。あなたが本当に殺したいのはあなた自身だ。私を殺せば自分の破滅につながる。だから私を殺したいと思い込んでいるだけだ」
「馬鹿なことを。なぜわたしが自分の死を望むのです? 本当ならば話は簡単だ、わたしはこの刃を自分の心臓に突き立てるだけでいい」
声が震えていた。彼女がそのことに気づかないはずがない。
だが、なぜだ。
わたしは死など恐れてはいない。恐れなくなるほど死はわたしにとって身近なものだった。この手で何人も死に追いやった。命じられるままに、必要だと思うがままに、わたしは他者に死を与えてきた。物心ついた時には、わたしは人が殺されるのを見ていた。死を恐れぬよう、死を受け入れるよう、旧オファイス王国の暗殺者として、わたしは、そのように教育されてきたはずだ。
そのわたしが自分の刃が首に触れたというだけで、なぜ声を震わせているというのだ。
「あなたはプロキオンに縛られているだけだ。思い出せ」
冷たい刃は、わずかにわたしの首を抉った。
その針を刺したほどの痛みが、わたしの忌まわしい記憶を甦らせる。
プロキオンに身も心も支配された子どものころのことが、傷口から噴き出す膿のようにわたしに襲いかかってきた。
影の家に生まれた者は親兄弟など知らずに育つ。プロキオンを家長とする巨大な一族、それがオファイス王国がありし時からの決まりで例外はない。赤子はいまではゼテギネアの各地に適当に配分され、長じた者に育てられる。
わたしは旧オファイスに配分された。6歳の時にプロキオンにお披露目されるのも旧オファイスに配分された者には決まったことだ。
だが、わたしはそこでプロキオンに見目を気に入られ、親衛隊に取り立てられた。
親衛隊といってもプロキオンの嗜好を慰めるための存在で、影としての力量は求められていなかった。わたしは遊ばれるだけの人形でしかなかった。
けれど、そこから逃れたいと思って見よう見まねで影の技を身につけても、わたしにはプロキオンから逃れることはかなわなかったばかりか、さらに求められるようになり、逆にプロキオンから殺しの技を学んだほどだ。
彼に言われるままに殺しもした。プロキオンは酔狂のために人を殺すことも殺させることもしなかったが、その地位を守るための殺しはいくらでもした。裏切り者、逃亡者、密告者、名目が立てば、いつでも何人でも殺した。
わたしが変わらずに彼の傍にいられたのは、それでも忠実な奴隷だったからだ。彼から逃げようとはしても逆らうことなど考えもしない奴隷だったからだ。その気になれば彼の命を狙う機会はいくらでもあった。わたしほど彼に近い者はほかにいなかった。わたしが彼と閨をともにしない日など、数えるほどしかなかったのだから。
だが、これだけは言える。
わたしは彼との行為を一度として楽しんだことがない。わたしにとって彼に強制されることの全てが苦痛であり、屈辱であった。
けれど、わたしは己の感情に蓋をした。何も感じぬよう、思わぬよう、彼に求められるままに応じられるよう、わたしは自分を殺したのだ。
そうして26年間も自分を欺いてきたわたしは、奇跡のような確率で出会えた兄弟、もう一人のわたしを殺してしまった。
いまならば、わかる。わたしと再会した彼の苦しみが、もしかしたら立場が入れ替わっていたかもしれなかった、もう一人の自分を見た苦しさが。
あるいは剣を交えれば、わたしたちは互角だったのかもしれない。それなのに、彼はそうすることよりも、わたしの凶刃に倒れることを選んだ。わたしも彼を殺すことを躊躇(ためら)わなかった。まるで鏡を打ち砕くようなつもりで、わたしは彼を見た時の不快さを消そうとした。それが、わたし自身への不快さであることにも気づかず、わたしは彼を消せば楽になれると思ったのだ。
不快さはいや増すばかりで、わたしはプロキオンの下に戻ることができなくなって、彼らを見殺しにした。わたしは、かつての主人と彼に従う者が滅びていくのを、他人事のように眺めているだけであった。
わたしの手の中には暗殺用の短剣があった。けれども、それは彼女の手につかまれたまま動かせず、わたしは彼女を見返した。
「手を放してください。やっとわたしにもわかりました。わたしはもう、あなたを殺したいとは思わない。わたしが殺したかったのはわたし自身なのですから」
「そんなことはわかっている。だが、それでは私が困ると言ったはずだ」
「影ならば、わたしでなくてもいいでしょう。あなたには解放軍を結成した時からの影がいるではありませんか」
「彼らの役割はあなたとは違う。私が必要なのはいまのあなただ」
「あなたはわたしに言ったはずです。アラディの代わりは誰にもできないと。それなのに、なぜわたしに同じ役目を押しつけるのです?」
「アラディはあなたが殺してしまったが、私には彼が必要だった。だけど、いまのあなたはアラディの代わりではない。いまの私にはあなたが必要だ」
「ゼテギネア帝国を倒すためにですか?」
「ほかにどんな理由が要る」
「ならば帝国を倒したら、わたしは要らなくなりますね」
「要らないのは私の方だ。できあがる国を治める者に私の存在は邪魔なだけだ」
「あなたが国を治めればいいではありませんか」
「戦争屋にそんな才能はない。それに話はついている。帝国を倒したら私はいなくなるつもりだ」
彼女の眼差しにも言にも迷いはなかった。それもそうだろう。わたしと出会うずっと前から彼女は一人で決めていたのだから。いまさら、わたしが何か言ったところで覆るようなことはあるまい。
「だが、あなたは生きろ」
「わたしにその資格があるとは思えませんが」
「資格のある者しか生きてはいけないのか。ならば、ほとんどの者は死ななければならないな」
彼女はようやく、わたしの手を放して立ち上がった。
「死ぬことなどいつでもできる。いまは何があっても生きろ。いま、死のうと言うのなら、なぜプロキオンに陵辱された時に死ななかった? 殺し方を知った時になぜ死ななかった」
「それは、わたしには」
彼女の指摘するとおりだった。わたしの選択肢に自分の死はなかった。わたしは自ら死のうと思ったこともなかった。だが、わたしは生きたいと思っていたわけでもなかったはずだ。
「生きろ、その理由を見つけ出せるまで」
彼女は、ほんの少し微笑んだのかもしれない。わたしは彼女が天幕を出ていくのを見送るのみだった。
言われるまでもなく、わたしにはもう死ぬ気などなかった。
わたしの殺意など何だったのか。
砂の山が崩れるより呆気なく消えたのだった。
《  終  》
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