「禁呪の果て」

「禁呪の果て」

「サラディン、眠れないのか?」
「もう休もうと思っていたところだ。おまえこそ、とうに休んだものと思っていたのにどうしたのだ?」
「ガルビア半島に入ってから古傷が痛む。寒さがきつくなったせいかな」
「何てことだ! アイーシャを起こして痛み止めを処方させなさい」
「大げさだ、サラディン。痛むと言ったって大したことじゃ−−−」
「馬鹿なことを。おまえが我慢強いことは人一倍よく知っている。そのおまえが眠れぬほどの痛みとあれば、並みの者は気を失ってしまうだろう」
「でもずっと移動続きでアイーシャは疲れている。やっと休んだところなのに起こしてしまってはかわいそうだ」
「おまえが眠れぬことの方がよほど重大事だ。疲れているのならば、魔獣に乗せればよいだろう」
「サラディン!」
そんなわけでサラディンにたたき起こされた時、アイーシャはなぜグランディーナが不機嫌な顔をしているのかわからなかったし、なぜ起こされたのかも見当がつかなかった。
「グランディーナにラウダナムを処方しなさい」
「ですがサラディンさま、ラウダナムはマチルダさまのところにしかありません」
「なければ持ってくればよい」
それで彼女は急いで天幕を出て、マチルダたちの休んでいる方に走っていった。外に出るとガルビア半島特有の北からの冷風が頬といわず全身を撫でていき、アイーシャはようやく目を覚ました。
外はまだ真っ暗で、野営地内に設けられたかがり火が寝起きの眼にまぶしい。
しかし、治療部隊の休んでいる天幕に着くころには、アイーシャはすっかり目を覚ましていた。考えてみれば、ロシュフォル教会に勤めていたころはこんな時間に自分で起きて聖課に行かねばならなかったのだ。解放軍に加わってそれほど早起きの必要がなくなって、自分は怠け者になってしまったようだ。
あいにくというか当然というか、マチルダたちも休んでいるところだった。だがアイーシャは荷物の中からすぐに必要な物を見つけ出したので、起こしたのもマチルダだけで済んだ。
「ラウダナムなんてどうするの? そんなに重傷の人がいたかしら?」
「すみません。事情は後でお話しします。いまは急いでいるので失礼します」
「おやすみなさい、アイーシャ」
天幕に戻り、アイーシャはラウダナムを慎重に計った。サラディンが自分の手元を見ていたので緊張したが、グランディーナは関心なさそうにそっぽを向いている。
いったい彼女のどこにラウダナムが必要なのか、アイーシャにはわからないままだ。ここ数日のあいだ、怪我を負ったという話も聞いていない。
だがラウダナムは中毒性のある強力な鎮痛剤である。その危険性はサラディンならば承知しているだろうが、こんな時間にたたき起こされたことを考えれば、よほどの緊急事態なのだろう。
「サラディンさま、用意できました」
言ってから彼女はグランディーナを見た。アヴァロン島にいた時も1回だけ治療したことはあったが、彼女は一度も痛み止めが欲しいとは言わなかった。だから、今回もサラディンの意向なのだろう。相変わらず不機嫌そうな顔で、薬にも一瞥をくれたきりだ。
しかしサラディンは器を取るとグランディーナの目前に突き出した。
「飲みなさい。そんな身体で指揮が執れると思っているのか」
「ラウダナムは嫌いだ」
「ほかの薬草では効かぬ。自分の痛みのことはおまえがいちばんわかっているはずだ」
その時のグランディーナの表情はまるで小さな子どもがだだをこねるようだった。だが、食べ物については好き嫌いなど言ったことのない彼女が「嫌いだ」と言うのだから、ラウダナムに対する嫌悪感は並々ならぬものがあるのだろう。
「飲みなさい。我慢できぬから起きてきたのだろう。せっかくアイーシャが持ってきてくれた物を無駄にするつもりか?」
「サラディンはずるい」
「わたしのことなど何と言われようとかまわない。おまえの方が大事だ」
「そんな言い方をするからずるいと言うんだ」
サラディンは微笑んだが、グランディーナの左手に器を持たせた。
彼女はそれを一息に飲み干し、アイーシャが空の器を受け取る。
「どこが痛むの、グランディーナ?」
「あなたも知っている古傷だ。多分、この寒さのせいだろう」
「見せてもらってもいい?」
「どうぞ」
見たところで大したことができるとは思っていなかったが、表面上は何の異状も見られない。けれどアヴァロン島で大怪我をした時でさえ、自分の痛みには無頓着だったグランディーナが、触診のために触れただけで顔をしかめるのはよほど痛むのだろう。
「こんな傷、どうして負ったのか、訊いてもいい?」
「魔法だ」
そう言ったグランディーナが急にアイーシャの右手をわしづかみにする。
「同じだ。24年前、ガルビア半島を襲った禁呪と同じだ」
「グランディーナ?」
自分の腕を握る手に力がこもり、アイーシャが痛みを訴えるより早く、サラディンがグランディーナの手を引き離した。だが、その手も震えているようだ。
「アイーシャ、そなたはもう休みなさい。わたしはグランディーナに話がある」
彼女にはとんとわからぬ事情も、グランディーナとサラディンには通じているようだ。だがそれは、あまり人に、アイーシャにも知られたくないことのようだった。
「あまり無理をしないでね」
「ありがとう」
グランディーナが申し訳なさそうに微笑んだので、アイーシャは彼女の手をそっと握り返した。
いまさら気がついたが、グランディーナは髪をまとめてもいなかった。休む時に髪をほどくので、痛みのために起きたものと思われた。よほどのことがない限り、そんな素振りは見せない彼女のことだ。サラディンがあれほど焦った理由がようやく理解できて、アイーシャは納得して寝具に潜り込んだ。
昼間の疲れもあったのだろう。目をつぶるとすぐに寝ついてしまった。
「おまえはあの時、6歳ぐらいの子どもだった。ほかの7人も同じくらいのはずだろう」
「そうだ」
「禁呪は人には容易に扱えぬ技、わたしでさえ扱う自信はない。ましてや6歳の子どもに使えるようなものではないはずだ。他の者はどうだったのだ? どのような技を使ったのか、それが魔法だったのか、覚えていないか?」
「私は見ていない。サイノスの魔法で真っ先に倒されて、ほとんど何もできなかった。それにたとえ見ていたとしても、みんな初めて使った力だったんだ、私にわかるわけがない」
「だがおまえの力のことがあろう? わたしには無関係だとは思えない」
「だけどレクサールと私は魔法なんか使えなかった。剣と魔法の力はまったく別のもの、互いに影響を与えないはずではなかったのか? サイノスと私の力にどんな関係がある?」
「個々の力の関係のことではない。関係があると言うのはラシュディ殿の意図にだ。おまえの剣も、サイノスの使ったという禁呪も、言ってみればどちらも究極の力ではないか」
「サラディン? 何か思いついたのか?」
「わからぬ、まだ推測の域を出ていない」
「どうした? 顔色が悪いぞ」
「疲れたのだろう。少し休ませてもらうとしよう。おまえも休みなさい」
「私は大丈夫だ。サラディン、あなたこそ、無理をしないで」
アイーシャが目を覚ますと、グランディーナはすでに起きていた。自分で縛ったのか、いまは髪の毛も無造作にまとめられている。
「痛みはどう?」
「だいぶ良くなった。まだ残っているけど、動きに支障はない」
「でもサラディンさまが心配するわ。それにラウダナムで痛みが抑えられないなんて重症じゃない」
「心配しなくてもいい。痛みを堪えて戦うのなんていまに始まったことじゃないし、この腕では前線に立たない。サラディンが心配しすぎるんだ。それに」
「それに、何?」
「ガルビア半島にいる限り、治らないだろう。だから、もういいんだ」
「どうしてそんなことがわかるの?」
「同じだから」
そう言って彼女は言葉を切ったが、アイーシャは続きを待った。昨日も似たようなことを口走った。ガルビア半島を襲った禁呪と同じだと。
アイーシャは司祭だから魔法のことはよく知らないが禁呪ぐらい知っている。究極の呪文、使われれば敵や味方の区別もなしに襲いかかり、その地形や天候さえも変えてしまうという禁断の技だ。
「この傷は昔、禁呪を受けたものだ。ガルビア半島も24年前に禁呪にさらされた。その影響かわからないけれど、たぶん、そのせいで痛むのだと思う」
「私にはわからないわ。あなたはそれで納得しているの?」
「ほかに原因が思いつかない。大丈夫、傭兵は怪我と無縁ではいられない。それに無理はしない、心配しないで」
グランディーナは笑いながら、アイーシャの頭を撫でた。
「だけどあなたは、シャングリラの時にもそう言ったわ」
「シャングリラでは痛まなかった。それに戦闘に参加したのはガレスの親衛隊と戦った時だけだ。今回はデボネアがいる。フィガロとの戦いは彼に任せる」
「でも、賢者ラシュディがいるかもしれないんでしょう?」
「多分、もういない。サラディンも私も、こんな辺境で会えるなんて期待していない」
「それでもガルビア半島に行かなければならないのはなぜなの?」
「四天王の1人をそのままにしておくのは得策じゃない。奴がその気になれば、帝国の残党を率いてせっかく解放した地域を奪い返されるかもしれない。復興のままならないホーライやドヌーブでは致命的だ。ゼノビアにも魔獣軍団の主力が残っているが、四天王が相手ではどれだけ対抗できるかわかったものじゃない。不安の芽は摘んでおくに限る」
そこへスティング=モートンが走ってきた。解放軍の一員になって久しいが、今回は久しぶりにデボネアの指揮下に入ったそうだ。
「先遣隊、出発します」
グランディーナは頷き、スティングはまた走って戻っていった。
「私たちも行こう。その前にサラディンを起こさないとな」
そう言って向けられた背に雪が舞い降りてきた。
季節はもう真夏だというのに、ガルビア半島では雪が降る。ここは年中、真冬だ。それも24年前に賢者ラシュディが使った禁呪のために、歪められた天候が元に戻らないからだ。
けれど、こんなところでも戦端が開かれようとしている。
禁呪という痛みを負って、グランディーナは皆に号令を下す。
その戦いの結末は、雪だけが知っている。
《  終  》
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