「深き淵をのぞく」

「深き淵をのぞく」

「サラディン、私の部屋に行こう」
カストラート海での報告が終わり、リーダーたちが解散するのを横目に見ながら、グランディーナは素早く彼に囁いた。
サラディンは黙って頷き、彼女の後に続く。大きな司令官室に入るなり、彼はすぐ呪文のようなものをつぶやいた。
「どうしたのだ、改まって?」
「あなたに頼みたいことがある。カオスゲートの調査に行けば、2人きりになる機会は限られるし、野宿ばかりだ。今日のうちにあなたと話したかった」
「わたしもおまえに訊きたいことがある。グランディーナ、解放軍を抜けるわけにはいかぬか?」
「何を言い出すんだ、サラディン。ここまで来て、どうして私だけ抜けられると思う? いままでの解放軍のあり方も、死者も、すべて私の責任だというのに、それを途中で放棄しろと言うのか?」
「おまえとてすでに気づいているのだろう? ガレス皇子は危険だ。だが、ラシュディ殿はその比ではないのだぞ」
「だからって私だけ逃げ出せと? よりによって、あなたがそんなことを言い出すとは思わなかった」
「できるならわたしも言いたくない。だが、彼らだけで先に進めるのなら、彼らのためにもそうすべきではないのか?」
「それは無理だ。彼らだけでは四天王の1人も倒せまい。ジェミニ兄弟もどうなるかと案じていたが、皆に無理をさせて何とか倒した。たとえあなたの言ったように天空の三騎士の力を借りられたとしても、その力に頼りきることができるとは思えない。だいいち、私が負ってきた分を誰に押しつけろと言うんだ? トリスタンか? ウォーレン、それともランスロットか? 私ならばいい。どうせ、この戦いが終わればゼテギネアを離れるつもりだ。トリスタンもそのことは承知している。誰も私を引き留めなどしないだろう。そんなことをすれば別の戦いになる。それでは意味がない。帝国を倒す甲斐がない。だが皆は、私以外の者は戦いが終われば国に帰る。そんな人たちに私のしてきたことを引き受けろと? そんなこと、言えるはずがない」
そこまで一気にまくしたてたグランディーナは、サラディンの表に浮かぶ苦痛の色を認めた。
「私のことなどいい。解放軍の将を引き受けた時から覚悟していたことだ。最初からいなくなるつもりでいるからできたこともある。だから、そんな顔をしないでくれ、サラディン」
「おまえに教えられるとはな。だが、それならば、この件は蒸し返すまい。では、確認したいことがある。座って、右腕を見せてくれ」
彼女が三角巾を外すと利き腕は力なく垂れ下がった。座ったところにサラディンが椅子を寄せる。彼はグランディーナの右腕を取ると、触れるか触れないかのところで指を肩口から手首に向かって幾度か滑らせた。
「なぜ腕が動かなくなったのか、わかっているのだな?」
彼女は頷いた。
「では、いつ使うのかも決めているのだろうな?」
「もちろんだ。でも、たぶん、私の思うとおりにはいかないだろう。四天王がまだ3人も残っているし、ヒカシュー大将軍、ガレス、エンドラ。ラシュディはいちばん最後だ」
今度はサラディンが頷いた。
「そのための聖剣だ。天空の三騎士殿に力をお借りしろ。だが、おまえの言うとおり、ラシュディ殿に対峙する前にその力は使うことになろう。この先、どうなるかはわからぬが、おまえの言ったようにアッシュ殿とランスロットでは四天王の1人でも重荷であろう。会ってみなければ何とも言えぬが、わたしでも彼らを倒すのは一仕事だ。大将軍はさらに強い。ガレス皇子と女帝エンドラの力も底が知れぬ。おまえの力はじきに必要になるだろう。それで、おまえの頼みとは?」
「あなたが私にかけた記憶の封印を解いてもらいたい。私は、いい加減、自分の記憶と向き合わなければならないようなんだ。それに、そのほかにあなたの知っていることも教えてほしい」
サラディンは立ち上がった。大きな寝台に近づき、振り返りながら指差す。
「横になりなさい。おまえにその覚悟ができているのならば、わたしが言うべきことはなかろう」
しかし、グランディーナは逆にうつむいてしまった。
「覚悟なんて、あるわけがない。でも、このまま、自分の正体について煩悶しているのが嫌なんだ。それに、半端に記憶が蘇っていて、すっきりしない」
「辛いのか、グランディーナ?」
戻ってきたサラディンが、彼女の左の頬に手を添えた。グランディーナはその手をわしづかみにする。
「辛いのかどうか、わからない。中途半端なのが嫌なだけだ。あなたに助けられる前、確かに人を殺した記憶はあるのに、それが誰かわからないのがもどかしい。なぜ殺したのかわからないのが嫌だ。レクサールという名前を覚えている。だけど、それが誰なのか、わからない。思い出せそうなのに、蜃気楼を追いかけているように消えてしまう。だったら、あなたに封印を解いてもらった方がましなだけだ」
「おまえ自身のことだ、自暴自棄になってはいかん。封印を解くことなどいつでもできる。本当に、いま解いてしまって良いのか?」
グランディーナは手を離し、サラディンを見上げた。利かん気な灰色の眼差しは10年前と変わっていない。こうと決めたら決して後には退かぬ娘だった。10年前はそのような選択はそれほど深刻なものにはならなかったから、サラディンは養い子の好きなようにさせた。けれども彼は、彼女が選んだことで弱音を吐くことも許さなかったものだ。
「もう決めたことだから。それに、封印を解いてもらわなくても、私は人を殺したことを思い出した。それがどんな理由であれ、そのままにしておいていいはずがないだろう?」
「おまえの望むようにしよう」
グランディーナは立ち上がり、言われたとおり、寝台に横たわった。その表に一瞬だけ嫌悪感が走るのをサラディンは認め、見ないふりをする。
彼女は横になって寝ないとカノープスが呆れたように言っていたことを彼は思い出した。宿に泊まっても寝台に寝たがらぬとはランスロットの弁だ。2人とも、その理由はグランディーナが傭兵だった時の習慣から来るのだろうと考えていたが、サラディンはそれだけの理由ではないことに気づいた。
しかし彼はそのことには触れずに彼女の傍らに立つ。
「目をつぶって。力を抜きなさい。まだだ、力が入っている。そう、身体を楽にするのだ。おまえは戻っている。1年、2年、時を遡っている。10年、11年、そう、もうじきだ。おまえは9歳、わたしと一緒にバルモアの教会跡にいたな。12年、13年、そう、わたしたちが出会ったころだ。14年、おまえは6歳、あの事件があった時だ」
「がああああっ!!」
獣のような雄叫びがほとばしり出た。目を見開いたグランディーナが跳ね起き、空中の一点を凝視する。
「グランディーナ?!」
彼女の息づかいが激しく乱れ出したのもその時だ。
「レクサール、どうして?!」
その視界にはサラディンも、アラムートの城塞も入ってはいないのだろう。よろめいて立ち上がり、周囲を見回す。それは彼女が殺した者を探してのことだろうか。しかし、右の脇腹を押さえたグランディーナはすぐに力なく座り込んだ。そのあいだにも彼女の激しい嘆きは続いている。
「アーウィンド? サイノス? デスティン! みんな、どうしてこんなことに?! どうして?!」
滂沱する涙、左手の指の合間から血が滴り落ちた。
「レクサール!」
彼女はとうとう上半身を突っ伏した。嗚咽が漏れ、激しく震えている。
「いやだ、レクサール! どうしてこんなことになったの?」
グランディーナはまた起き上がった。
「アーウィンド、なぜ? サイノス、答えて! デスティン! 誰か、返事をして! レクサール!!」
サラディンはグランディーナの顔を上げさせ、己の方に向かせた。
「しっかりしなさい! ここはおまえの育った教会ではない、おまえも6歳の少女ではない! 自分の記憶に呑み込まれてはいけない、グランディーナ!」
しかし彼女はその手から逃れ、後ずさった。恐怖に満ちた眼差しが彼を見返す。
「助けて、レクサール!」
「グランディーナ!」
サラディンは再度、彼女をつかまえた。ところが彼女は首を振り、さらに逃れようとしたが、あいにくと背中が寝台にくっついている。
「違う」
「なに?」
「私はガルシアだ」
血の滴りは床にしみていた。
「ガルシア、それがおまえの本当の名前だというのか?」
「あなたは誰? レクサールはどこへ行ったの?」
まるで幼い少女のように頼りない表情で彼女はサラディンを見つめる。14年前の彼女もこんなあどけない顔をすることがあったのか、と彼は思う。
けれど、彼が知っていたグランディーナにはどんな感情も認められなかった。生気のない顔をして、虚ろな眼差しを虚空に向けていただけだ。彼女は生きながら死にかけていた。それで彼は、彼女の記憶を封印した。もう一度、初めからやり直し、生きさせるために、それがどんな記憶なのかは知らぬまま、彼は荒っぽい方法を選択したのだった。
「わたしはサラディンだ。まさか、わたしのことを忘れてしまったのか? おまえはガルシアだというのか?」
「ガルシア?」
彼女の表情がはっきりと変わった。サラディンの知らぬ少女からグランディーナに戻って、激しい嫌悪を示す。
「違う! ガルシアはラシュディが呼んだ名だ、私の名はグランディーナだ」
「戻ってきたか」
彼女は脇から手を離し、力のない笑みを浮かべた。
「すまない。記憶が戻ってきて混乱してしまった」
「無理もない。それだけ大変なことだったのだ。だが、出血してしまったようだな」
「本当だ。どうしてこんなところに?」
言いかけて彼女は言葉を失う。出血に驚いたはずはない。14年前に負った傷と同じ場所であることに、驚きを隠せない様子だ。
「上衣を脱いで横になりなさい。傷を手当てしなければ」
「うん。でも」
「診ながらでも話は聞ける」
「わかった」
グランディーナは上に着ていたものを全部脱ぎ捨て、今度は寝台にうつぶせになった。血は衣服全部にしみていたが、彼女の脇腹を布切れでぬぐったサラディンは、出血がすでに止まっていたことを知った。床に滴るほどだった血が、彼女の錯乱が収まると同時に止まってしまったかのようだ。
血を拭き取ると、彼もよく知る大きな傷痕のほかにいくつもの傷痕が露わになったが、出血した痕もなく、どこも裂けていなかった。
「不思議な話だ。どこから出血したのか、わからない。だが大事に至らなかったのは幸いだな」
「そうだと思った」
「しかし、わたしの知らぬ間にずいぶん傷を負ったのだな」
「あなたには見られたくなかったな」
「なぜだ? 気にしているのか?」
「そうじゃない。大変だったのだろう、辛かったのだろう。あなたにだけはそんな、月並みな言葉をかけてほしくない」
サラディンは微笑み、彼女の頬に落ちた毛を払ってやった。
「わたしはそんなことは言わぬよ。なぜ、そんなことが言える? おまえの傷痕を見れば、わかりそうなものだ。どのような思いでアヴァロン島に至り、どんな経験をしていま、ここにいるのか。わからぬのなら、わたしの想像力が足りないのだ」
「だから言ったんだ、そんなこと、あなたに気にしてもらいたくないって。あなたが石にされた時、私はもう一度バルモアに戻ることだけを誓った。それには生き延びること、戦うこと、強くなること、その順に自分の行動を決めることにした。生き延びられなければあなたを助けられない。戦わなければ何もできない。強くならなければ先に進めない。何があっても、その3つに照らして考えればいい。3つに沿う行動をすればいい。それだけ考えて私はアヴァロン島に行った」
「おまえがこの10年間、どこでどうしてきたのか、話したくなければ話さなくてもいい。わたしも訊こうとは思わぬし、そのことに思い煩う時間を、ゼテギネア帝国と戦うのに振り向けよう。だが、おまえには感謝しているよ、グランディーナ。確かにわたしは、いつか助けに来てくれとおまえに請うた。しかし、おまえはまだ10歳で、無事にバルモアから脱出できるかも危ういと思っていた。おまえには悪いが、わたしはあの時、おまえが帰ってくるとは期待していなかったのだ。だが、おまえがアルビレオ殿に捕まれば、わたしの希望もすべて潰える。この大陸の未来も暗黒道に塗りつぶされていただろう。そう、わたしの望みは1本の糸のようなものだった。細い糸、いつ断ち切られてもおかしくないような糸にわたしは賭けたのだ」
「私はあなたに応えたかった。だから、そのことだけを考えた。ほかのことはどうでもよかった」
「ありがとう、グランディーナ」
サラディンは起き上がった彼女を抱きしめた。それ以外に、どんな言葉もかけられなかったからだ。
「いいんだ、昔のことなんてどうでもいい。あなたにこうして会えたのだもの、何も言うことなんてない。あなたに話したいことがたくさんあったはずなのに、みんな、忘れてしまった。いいんだ、それで」
「わたしはどんなことでも聞こう。いつでも、おまえが話したいときに話せばいい」
「私は思い出したことをあなたに話したい。その意味を、あなたに訊きたい」
「では何から話す? 先ほど、おまえは何度も名を呼んだな。そして自分の名はガルシアだと言った。それが、あの廃教会にいた子どもたちの名前なのか?」
「そうだ。でも、私が覚えているのはその4人だけで、ほかに3人いたはずなんだ。どうしても3人の名が思い出せない。どうして、忘れてしまったのかな」
「無理して思い出そうとすることはないさ。レクサールというのは?」
「私の兄だ。私たちは双子の兄妹だった。でも、血の繋がった肉親はレクサールだけ、誰も知らない」
「ほかの6人はどうだ? アーウィンドが女、サイノスとデスティンが男というところだろう。彼らも双子だったのではないか?」
「わからない。そんなことも意識しなかったほど、私たちは仲が良かった、それも当然だな、私たちのほかに誰もいなかったのだもの。たまに来るのはラシュディとガレスばかりでは、どうしたって仲良くなるしかない」
「おまえたちを育てている女性がいたのではなかったか?」
グランディーナはサラディンから離れ、探るような視線を向けた。
「彼女は唖だ。口がきけなかったから名前も知らない。でも、どうしてあなたが彼女を知っているんだ? 私だって、言われるまで忘れていたっていうのに」
「わたしがおまえを助けたのは、あの廃教会に2回目に行ったときだ。だがその前に、一度、行っているのだよ。当時、わたしはドヌーブ王国でゼテギネア帝国に抵抗する活動を行っていた。もちろん、ゼノビアのトリスタン皇子が生きていたという話も知らなかった。四王国の王族は全員、殺されたというのが当時の定説だったのだからな。ところがわたしはある時、王族の方々のうち、幼い皇子、皇女が生きてゼテギネアに幽閉されているらしいと聞いたのだ。あくまでも噂の域を出ない無責任な話だったが、ともに戦う者たちから確かめてほしいと頼まれてな、そうして、わたしはあの廃教会がその場所らしいと突き止めたのだ。そこでおまえたち8人がいることを知ったが、噂は事実ではなかった。それに、そこにはラシュディ殿が出入りし、ガレス皇子まで通ってきていた。その時はわたしはそこで引き上げてしまったのだよ」
「そうか」
彼女は小さくうつむいた。
「だが虫の知らせというのだろう。それに、ラシュディ殿が単に子育てなどしているはずもない。それから1年ほどしておまえたちのことが気にかかり、再び廃教会を訪れたわたしは、そこでおまえを助けたのだ。だがいったい、そのあいだに何があったのだ? おまえは先ほど、人を殺したと言ったな? 7人とも、おまえが殺したと言うのか?」
「違う。レクサールとアーウィンドは確かに私が殺した。だけど、殺し合いを始めたのは私じゃない」
「なぜ、そんなことになったのだ? おまえたちは仲が良かったと言っただろう?」
「わからない。私は、いちばん最初にサイノスの撃った魔法で倒されたから。痛かった、怖かった、恐ろしかった、何より、なぜこんなことになったのかわからなかった。だけど、倒れたおかげで皆の目が私から逸れた。それからだ、本当に恐ろしいことになったのは」
そこで彼女はしばらく言葉を切った。サラディンが辛抱強く待っていると、ゆっくりと話し始めた。
「彼らはいきなり殺し合いを始めた。サイノスに同調したのかもしれない、とにかく誰もそれを止めようとはしなかった。だけど、レクサールは魔法が使えなかった。私もそうだ、でもみんなが使えるってことも、その瞬間までまったく知らなかったんだ。それも、あんな魔法を使える者にはいままで会ったことがないし、何という魔法なのかもわからない。ただ、切れ切れに聞こえてくる話でわかったのは、それはとうに会話なんてものでさえなかったけれど、彼らがしているのは、いかに自分の腕が優れているかを証明したがっているってことだけだった。それも、ただ1人の優れた者が皆を殺すという話だ!」
「だが生き残ったのはおまえ1人だ」
「ユリマグアスでスコルハティと戦ったときに言われた。もう少し、彼との戦いが長引いていたら、私は堕ちただろうと。彼らも同じだ。自分の力を出し尽くして堕ちてしまったんだ。だけど、それはいまだから言えることだ。あの時の私はただ直感した。彼らが二度と元に戻らないと。あのままにしておくわけにもいかない、彼らを助けるにはただ殺すしかないと。だから、数が減るのを待って、私が殺した。そうしなければ、私も殺されてしまう」
彼女は激しく身を震わせたが、そんな恐怖もすぐに押し殺してしまった。
「だけど、堕ちるのは彼らだけじゃなかった。自分の力を出し尽くせば私も堕ちてしまう。堕ちるという言葉ではなく、初めて戦場に出た時に私はただその事実を理解した。当たり前だな、レクサールが堕ちたのに私だけ無事でいられるはずがない。でも、その時の私は彼らと結びつけて考えたわけじゃないんだ。誰かを殺したことはとうに思い出していたけれど、それが誰か、自分とどう繋がるのかはわからないままだった。私にわかったのは、その時に全力を出してしまえば、戦線を突破できても、それは私自身に取り返しのつかない結果を生み出すだけだということだった」
グランディーナは言葉を切り、動く方の手で肩を抱いた。その時のことを思い出したのだろう、少しだけ身を震わせた。
「そのようなことはその後もあったのか?」
「何度も、いまとなっては数え切れないくらいだ。そして私は、そのことを甘く見ていた。私が我慢すればいいと思っていたけれど、そんな簡単なものじゃなかった。まるで奈落の縁を全力で走っていくようなものだ。相手の力を見極めるのはたやすい。力を出しすぎてはまずいとわかった時に手を抜いたと気づかれないよう敗北するのも簡単だ。だけど、それでは私はほとんどの相手に負けなければならないことに気づいた。それでは意味がない。自分の身に起きることをすべ受け入れられるほど私は強くない。だったら、素の私自身が強くなればいい。別に難しいことでもなかった。私は剣しか使えない。どんなに危険でも戦場にいるのがいちばん性に合っている。私はたぶん誰よりも、早く強くなれただろう。でも強くなって名を挙げては駄目だ。たとえ偽名を使っていても、いずれラシュディに気づかれるかもしれない。そうでなくてもゼテギネア帝国に睨まれるような真似は避けたい。だから私は、アヴァロン島からガリシア大陸に渡った。かなり奥地まで行って、ゼテギネアを知らない人たちにも会った。戦場から戦場へ渡り歩いた。そうすれば、人は私を覚えない。私の名は広まらない。アヴァロン島に行くまでの半年間に犯した過ちをもう一度、繰り返すようなことはしたくなかった。おかげでフォーリスさまに名前を言いそびれてしまった。それだけが心残りだ」
彼女は苦笑いを浮かべたが、すぐに打ち消した。その灰色の目にみるみるうちに恐怖の色が浮かぶ。
「私は何者なんだ? なぜ、私はこんな力を持っている? レクサールたちもそうだ、私たちは明らかにほかの者と違う。私たちの力はふつうの人間よりも桁違いに強い。自分の力を全開にしてしまえば、私は1人でもたやすくラシュディのもとにたどり着けるだろう。その確信だけはずっと持っていた、あなたがバルモアにいなければ私はそうしたかもしれない。後のことなんてどうなってもいい、あなたがいないのに私だけ生き残ってもしょうがない。誰が立ちはだかろうと関係ない、たとえ私は堕ちようと、ラシュディとガレスを倒してしまえばいい、それだけするつもりだった。だけど、なぜ、私たちにだけこんな力があるんだ? それにスコルハティにこうも言われた。人にあるべき魔力がないと。人間ではないのだろうと。そうなのか? 私は人間ではないのか、サラディン?!」
彼は最後は涙声にさえなったグランディーナをしっかりと抱きしめた。10年ぶりの再会で彼の腕のなかで泣いた時とは違い、いまの彼女はただ身体を震わせている。
「おまえは人間だ。人間でなければ、そのように心痛めることもあるまい、人間の手で傷つけられることもあるまい。人間だからこそ、おまえは傷つき、心を痛め、こうして迷っているのではないか。確かにおまえの力は人間離れしている。ランスロットらに聞いたが、スコルハティとの戦いの時にはおまえの動きを追いきれなかったそうだ。おまえの言うとおり、ゼテギネア帝国の誰も全力を出したおまえには敵うまい。だが、それでもおまえは人間なのだ」
「ではなぜ、私はこんな力を持っているんだ?」
「残念だが、いまのわたしには確たることが言えぬ。はっきりわかっているのはラシュディ殿だけだろう。だから、もう少し詳しく思い出してはもらえぬか? たとえば、彼らの使った魔法だ。そこから手がかりが見出せるかもしれない」
「魔法? ふつうの魔法ならば私にもわかる。でもあれはそんな生易しいものじゃない。あんな魔法はほかに見たことも聞いたこともない。あの廃教会がよく崩れなかったと思うほどだ。それぐらい強力な魔法だったんだ」
「だからといって、わたしがこんな魔法だったか、と使ってみるわけにもいくまい。その教会が無事でも、このアラムートの城塞が無事という保証はどこにもないのだからな。そのことは追々考えるとしよう。おまえたちが4組の双子だったことが、その手がかりとなるのかもしれない」
「レクサールと私以外は双子だったかどうかはわからないぞ?」
「おまえとレクサールが双子だった、ほかに男女が3人ずついた。これを双子と考えぬ方がどうかしている。だがほかならぬおまえ自身のことだ。このことはゆっくり考えてみよう。もしもおまえが、いま話した以外のことを思い出したら、わたしにも聞かせてくれ。意外なことが糸口になるのかもわからぬからな」
「わかった」
「どのようなことでもかまわぬが、話すのに辛いことまで打ち明けることはないのだぞ?」
しかし、彼女はかすかに微笑んだ。10年前はそんなに遠慮がちには笑わなかったものを。サラディンの記憶にある少女は、誰に憚ることもなく明るい笑顔を見せる娘だった。健康で溌溂として、屈託のない笑顔をいつも浮かべていた。彼に全幅の信頼を寄せて、無邪気に甘えてきた。
彼の知らない10年間は、彼女を大人にした代わりにその笑顔まで奪い去ったようだ。だが、そう仕向けたのはほかならぬ彼自身でもある。バルモアを見捨て、グランディーナとどこまでも逃げるべきだったのか、その選択をしなかったことをいまさら悔やんでも取り返しはつかない。
「辛いことなんてない。あなたには全部、話せる」
「いま、ほかに話しておきたいことはあるのか?」
「少し、この記憶について考えてみたい。それに明日からカオスゲートを調べなければ。自分のことどころではなくなるだろう」
「それならば、わたしは着替えをもらってきてから、ほかの者に話を聞くとしよう。着替えは誰に頼めば良いのだ?」
「補給の責任者はヨハン=チャルマーズだ。1階の倉庫を訪ねれば、彼が留守でも誰かいるだろう。洗濯も皆が交代でやってくれている。私は動きやすい服ならば、何でもかまわない」
「承知した」
サラディンが司令官室を出ると、階段で昇ってくるアイーシャとすれ違った。彼女は大きな籐籠を持ち、息を弾ませていた。藤籠からは夕食らしい香辛料の効いた匂いが漂ってくる。
「サラディンさま。グランディーナは部屋にいますか?」
「うむ。その荷物はどうしたのだ?」
「今日は食堂に降りるよりも、サラディンさまとお二人で食事をしたいだろうと思って運んできました」
「あれがそのようなわがままを言ったのか?」
「いいえ。私の勝手な判断です」
彼女は恐縮して顔を赤らめる。
「それは気を遣わせてすまぬな。そなたは、もう食事を済ませたのか?」
「いいえ。私は皆様のお手伝いに戻らねばなりませんから、これからです」
「それならば、そなた、あれと一緒に食べてやってはくれぬか? わたしはまだ用があるのだ。食事は後回しにしたい」
「ですがサラディンさま。お言葉を返すようですが、グランディーナはずっとあなたさまのお帰りをお待ちしていました。今日を逃せば、またしばらくは野宿が続きましょう。野宿の時には皆様と離れることがありません。グランディーナがサラディンさまとお二人で過ごせる機会は今日を逃せば滅多にないと思います」
サラディンが微笑みを浮かべたので、アイーシャは思ってもいなかった反応に驚いたようだ。
「それはわたしにもわかっている。だが、あれと2人きりで話さねばならぬことは済ませた。後は、明日からの遠征に備えて、知っておきたいことがあるのだ。すまぬが、そなたの頼みは叶えられぬ」
「それでは仰るとおりにいたします。ですが、せめて最初だけでもご一緒してはいただけませんか?」
彼女にフォーリスの面影を見ていたサラディンは、大神官ならば言わなかったであろう妥協案に内心、嬉しくなった。それにアイーシャの存在がグランディーナにとって、どれほど大きいかも実感した。
「よかろう。わたしの言い分だけ押しつけたのでは、そなたの好意も無駄になってしまうな。だが、わたしは1階で火急の用を済まさねばならぬ。そなた、先に部屋に行っていてくれぬか?」
「わかりました。でもサラディンさま、きっとお帰りくださいね。私たち、お待ちしておりますから」
「わかっている」
階段が薄暗いせいもあって、アイーシャはサラディンの持った血染めの衣類には気づかなかったようだ。
1階に下りたサラディンは、食堂から聞こえる喧噪に耳を傾けつつ倉庫に向かった。そこには補給担当のディック=プイセギュールがおり、洗濯籠と着替えのある場所を教えてくれた。しかし、この血染めの衣類を巡って、解放軍内で一騒動持ち上がろうとは、2人とも予想だにしなかった。
そしてさすがのサラディンも、グランディーナがどうして服を全部脱いで着替えが来るのを待っているのか、アイーシャがどう問い詰めるかということにも考えが及ばなかった。
着る物に頓着しないリーダーのために、常に洗い立ての衣類を数着、司令官室なり、手の届くところに置いておくべきだという話も、即、決まったのであった。
着替えを渡すとグランディーナは至極、当たり前のような顔で服を着たが、アイーシャの表情からはろくな説明もされなかったことが伺え、その原因もなぜかサラディンのせいになってしまったようだった。
しかし、それからじきに食事が始まるとアイーシャはようやく機嫌を直した。サラディンが多少、長めに残ったのも功を奏したようだった。
「アイーシャ、手間をかけさせてすまない」
「ううん、もっと2人でいたいんじゃなかった?」
「これからはずっと一緒だ。気遣いには及ばない」
右腕を吊りなおしたグランディーナは左手だけで器用に食事をした。彼女はいつもより上機嫌で、饒舌だとアイーシャは感じていた。
「でも、2人でいられる機会は、この先、あんまりないんじゃないかと思うわ」
「大丈夫だ、私もそこまでサラディンに甘えてばかりいられない。それより、あなたも明日からの遠征に来るのか? あまり無理しないで休んだ方がいい」
「駄目よ。アヴァロン島で言ったでしょう、いつもあなたと一緒に行くって。私は絶対に留守番なんてしないわ」
「あなたもたまには休むべきだ」
「だったら、あなたもよ」
「私はリーダーだ。誰かに任せて休んでなんかいられない」
「なら、私はあなた付の癒し手よ。離れる方がおかしいわ」
「そんなことを決めた者に文句を言おうかな」
「駄目駄目! みんな、忙しいのだもの、そんなわがままを言わないで」
「やれやれ」
話しながらグランディーナは匙(さじ)を置いていた。彼女は片手だけで食事するようになってからも、相変わらず非常識なほどの早食いである。しかし大食らいというわけではなく、むしろ不規則でも気にしない方だ。たとえ1日に1口の水しか飲めなくても、いつものように活動してしまうに至っては、アイーシャには理解できぬ身体構造であった。
「こんなに持ってくるのは大変だったろう?」
「少しね。でも食堂はいつも混んでいるし、あなたには煩わしいんじゃないかと思ったの」
「考えなければならないことが多すぎて食事の時間なんて忘れているだけだ。喧噪が嫌いなんじゃない」
「何をそんなに考えているの?」
「天空の島から帰ってきてからのこと。ここの司令官室には西ゼテギネアの資料が豊富だ。ダルムード砂漠、シュラマナ要塞、上都ザナドュ。そこまで行ったら帝都ゼテギネアはもう目と鼻の先だ。アラディがダルムード砂漠に詳しいので助かってるし、ザナドュのことならノルンやラウニィーに訊ける。あなたには、あまり興味のない話だったかな」
「そんなことないわ。知らないところに行くのは興味深いものよ」
食べ終えたアイーシャは手早く食器を籠に入れ直した。グランディーナは手を出さずに見守っていたが、最後の皿が収まると左手を出し、軽々と籠を提げた。
「返すのを手伝おう。見回りにも行かなきゃならないし」
「ありがとう。今日はランスロットさまとカノープスの帰還祝いですって」
「ふうん。その面子じゃ、相当、飲みそうだな」
「そうね」
炊事場に降りて、2人はそこで別れた。アイーシャは食器を洗わねばならず、グランディーナは見回りに行ったからだ。
1人になるとグランディーナの陽気さは急になりを潜めた。一見、いつもの彼女と変わらなかったが、サラディンに封印された記憶が蘇ったことで、その眼差しに、深淵をのぞいた者だけが知る恐怖が浮かぶことに気づいた者はいない。恐怖の奥に潜む罪の意識と後悔を、誰が知るだろう。
賢者ラシュディとの再会が、自分に何をもたらすのか、それは当のグランディーナ自身も知らないことだ。
それでも彼女は剣を取る。ゼテギネア帝国を、ガレス皇子を、ラシュディを倒すために。それだけが自分にできることだと知っているがゆえに。
けれど深淵は、彼女を呑み込まんと、いつもその口を開けて待ちかまえている。
《  終  》
[ 目 次 ]
[ トップページ | 小 説 | 小説以外 | 掲示板入り口 | メールフォーム ]