「それぞれの日常」

「それぞれの日常」

「カノープス」
「あん?」
「そなたのズボンがぼろぼろになってしまっていたから仕立て直してみた。着てみてくれぬか」
「仕立て直したって」
カノープスはそう言ったきり、サラディンと差し出されたズボンとを交互に凝視するだけでしばらく言葉もなかった。
「誰が?」
「そなたがだ」
「いや、そういう意味じゃなくって、誰が仕立て直したんだって?」
「わたしだ」
「なんだって?!」
その声は〈漆黒の涙〉号中に響き、滅多に驚かぬアレイス船長らもすっ飛んできたほどだ。しかし彼らはすぐにサラディンに追い払われた。
「そう驚くほどのことではあるまい。男の独り身となれば繕い物ぐらいできねば不自由する」
独り身なのはカノープスも同様だが、間違っても同意はしたくなさそうだ。かくいうランスロットも、繕い物は解放軍になってからはマチルダたちが率先してやってくれるので任せてきたし、ゼルテニアにいた時も妻か、知り合いの女性に頼んでしまっていたので人のことはとやかく言えない立場だ。
「不自由するって、あんた、針なんか持ってるのかよ?」
「針だけでは済まぬ、糸も釦(ぼたん)もあるぞ」
そう言いながらサラディンが懐から取り出したのは、女性が鞄に偲ばせていそうな裁縫道具だった。
「男がそんな物、持ち歩くなっ!」
言ってから、カノープスは痛みに呻いた。エニウェトック島でアルコルとポルキュスに負わされた傷は完治にはほど遠い。
「あいにくとわたしはそなたたちのように繕い物を頼める女性もいなかったのでな。それに慣れればどうということもなくなる。考え事をしながら針を動かすのもいい暇つぶしだ。そう思っていたら、そなたのズボンのことを思い出した」
「女性がいないって、あんた、3年間、グランディーナと一緒だったんだろう? あいつが女じゃないとは言わせねぇぞ」
「自分のことが一人でできるようになるまであれは1年かかった。そのあいだ、家事はわたしの仕事だ。その後はいろいろと教えはしたが、あれは家事は駄目だった」
「一言で片づけるな!」
「人間には向き不向きがあるものだが、あれはそれがはっきりしている。なかでも家事はいちばん向かないのだ」
「まさか、あんたが全部やってやったのか?」
「その方が効率がいいし、お互いに気持ちがいい。できもしないことを頼んだ上に、後かたづけに倍の時間がかかるようならば頼まない方がましだろう」
「それも、そうだが」
「料理ぐらいできるようになったらと思ってずいぶん教えたものだが、竈(かまど)を壊されて、やめさせたのだ」
「料理してどうして竈をぶっ壊すんだよ?」
「わからぬ。本人は言われたとおりにやったと言い張るし、そのたびに竈を作り直すわけにはいくまい。洗濯をさせても肝心の汚れを落としてこない。掃除を頼めば、後から片づける方が多いくらいだ。家事は駄目だと判断するのが妥当だろう」
カノープスは絶句し、ランスロットも思わぬ展開に言葉がない。だが解放軍結成以来、グランディーナが炊事や洗濯を手伝っているところは一度も見たことがなかったので、サラディンの言うことにも納得できた。
「で、あんたは繕い物ができるようになったと?」
「前からできる。腕前を磨いたのだ。何でも自由に買える状態にはなかったのである物を長持ちさせねばならなかったのだ。よく服も破かれたしな」
「炊事もできると?」
「〈漆黒の涙〉号に乗ってから、晩はずっとわたしが作っているのだが、味つけがバルモア風だったから、そなたたちの口に合わなかったかな?」
「いや、全然。美味かったぜ。だけど俺が言いたいのはそういう問題じゃなくてだなぁ」
「いちばん得意なのは洗濯なのだが、船では勝手が違うからな。わたしはやっていない」
「洗濯だと」
「バルモアはどこも水が豊かだ。バルモアの女性は洗濯上手なのが有名だな」
「そいつは初耳だぜ」
サラディンは微笑み、カノープスは彼が仕立てたというズボンを広げた。前よりも丈が短くなっていたが、ほとんど形は変わってないようだ。
「上手いんだな。あんた、仕立屋になれたんじゃねぇの?」
「そうなっていたら、わたしはいまごろ生きてはいまい。帝国に反対することもなく、バルモアとともに焼け落ちていただろう。グランディーナを知ることもなかったし、そなたたちとも出会わなかった。ラシュディ殿の二番弟子はカペラ殿ということになっていた。その方が良かったかな?」
「どう考えてもまずい状況だねぇ」
「先のことなど誰にもわからぬ。だが、わたしはいままで、ラシュディ殿に師事したことを後悔したことはない」
「あんたならそう言うと思ってたぜ」
カノープスは起き上がり、ズボンをはいた。踝(くるぶし)までの長さが膝上までに短くなっているが、特に支障はない。
「うん、いいんじゃねぇの」
「ならば、それはそなたに返そう」
「そいつはどうも。傷が治ってもはくズボンがないからどうしようかと思ってたところだ」
「それは良かった」
「そういやあ、あんたの得意なのは洗濯だって言ってたけど、何でだい? バルモアの女たちに倣ったってわけじゃねぇんだろう?」
するとサラディンはひとつ咳払いをした。
「お襁褓(むつ)を替えたから必要だったのだ。どんどん洗って乾かさねば、すぐに足りなくなる」
「へぇー、お襁褓ねぇ」
ランスロットもカノープスも、すぐにそれが誰のことかわかったが、サラディンはそこで話を切り、船室に戻ってしまった。
「赤ん坊からやり直した、なんて言ってたな」
カノープスはズボンをはいたまま、座り直した。
「知恵が先について、身体が追い着くのに1年かかったともね。七歳児にお襁褓は屈辱だろう」
「別にこのことであいつをからかおうなんて思ってねぇぞ。誰だって経験があらぁな」
「わたしもそんなことは心配していないよ。マチルダとサラディン殿と、どちらの料理が美味いんだろうとは思ったけどね」
「そんなこと。本隊に合流してから、いくらだって試せるじゃねぇの。もっとも、グランディーナがサラディンにそんな暇を与えてくれるかどうかは別問題だけどな」
「楽しみが1つ、増えたというわけだ」
「ああ。だけど、それよりも俺はそろそろ肉が食いてぇ。カストラート海に来てから魚ばかり食わされてるんだ。人魚と一緒の時は生魚ばかりときた。いくら料理が違ったって、いくら美味くたって、魚にはもう飽き飽きした」
「もう少しの辛抱さ。船を下りれば必然的に肉が増えるよ」
「もう少しって、あと何日だ?」
「さぁ? アレイス船長に訊いてみたらどうだ?」
「呼んできてくれ。動けやしねぇ」
「わかったよ」
結局、一行がタシャウズの港に入るのはさらに8日も後になる。カストラート海は広く、いまの季節は風向きもあまり良くないとのことだった。だが、カノープスは「飽きた」と言いながらも食欲の衰えた様子もなかったし、サラディンが夕食を作るという状況も変わらなかった。
それは金竜の月2日のうららかな午後のこと、季節は夏に移ろうとしている日のことであった。
《  終  》
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