「宝剣物語」第一部第六章

「宝剣物語」第一部第六章

霧のような雨が降りつづいていた。音もなく間断することもなく、ガイルを冷たく凍えさせていった。
「寒い…」
彼は我知らず呟いて両肩を抱いたが、肌を寄せあって眠った友は、もういないのだった。あの日から、ずっとガイルは凍えたままなのだ。寒くてたまらなかった。
けれど、彼は今晩は両手を肩から離した。その拍子に手が硬いものにぶつかった。
ラングレイから貰った、4つの石がついた耳飾りだ。でもこれの存在を知っているものはいない。なぜか怪物には見えないらしい。
だが、ガイルはこれを使うためにとラングレイが教えてくれた言葉など、とうに忘れてしまっていた。
それがどれくらいまえのことなのかさえ、もうあやふやな靄のなかだ。
彼は周囲を見回して、立ち上がった。見張りなどいない。
ガイルは意を決して、脱兎のごとく走り出した。
何者へも祈りの言葉は唱えなかった。
先祖代々受け継がれてきた信仰は、化け物の登場によりことごとく否定されたのだ。いまの彼が頼みとするのは、自分自身のみであった。
転がるように坂を下った。
銅鉱山の暗い山陰はやがて背後に消え、ガイルは麓の村を目指して走りに走った。
肺が喘ぎ、心の臓は爆発寸前だった。
足がもつれて、それでもまえへまえへと動かしつづけた。息ができないくらいに。
あっと思った瞬間には、もう転がり落ちていくところだった。
顔、手、足、背、腹、あちこちをぶつけて、それでも最初に勢いをつけすぎていたためか容易には止まらなかった。
鋭い葉で頬が切れた。ガイルは覚悟を決めて目をつぶり、両手足もできるだけ丸めようとした。
走るよりもこのほうがずっと楽だなんて思ったのも束の間、草薮に突っ込んで、ようやく止まり、彼はしばらく動けなかった。
全身痛くないところがないくらいだ。打ち身やら擦り傷、切り傷、骨折や捻挫をしなかったことだけは幸いと言うべきか。
ガイルが草薮からようやく這い出ると、まだ村には着いていなかった。
けっこう距離を稼いだような気がしたが、方向もめちゃくちゃにただ転がっていっただけだったので、見当違いのほうへ行ってしまったかもしれない。
彼は今度は歩いた。とても走れるような状態じゃなかった。歩くのがやっというところだったが、痛みよりも追われる恐怖が、彼を先へ先へと追いやった。
銅鉱山のほうは静まり返っていて、彼が脱走したことさえ気づいてもいないようすだったけれど。
気がつくと雨は止んでいた。
まだ湿っている大地を踏みしめながら、彼はいつの間にか、かつて村だった地に足を踏み入れていた。
足が丸いものを蹴飛ばしたと思ったら、頭蓋骨だったようだ。
けれども彼は驚きもしなければ恐れもせず、無論泣きもしなかった。
いちいち驚くには骨はそこいらじゅうに転がっており、半分埋もれ、雨に洗われたのだろう、生々しい白さが鮮やかだった。
が、ガイルがなにも感じなかったのは死に慣れたからではなかった。否、そんなことには、この先、決してならないだろう。
村は崩壊していた。
明るくなっていくなかで彼は食糧を探した。それに、彼の服ときたらほとんど形をなしていないも同然だったので、着替えも探さねばならなかった。
ちゃんとした服を着ていなければならないと思ったわけではなく、単に寒かったためだ。
だが、彼はこの先も寒さからはなかなか解放されることはなかった。
やがてガイルは、ひからびた野菜の切れ端と、ちょうどいい寸法の上下を見つけて着替えた。
焼け落ちた家屋の下に隠れて飢えを満たす。口に入るものならば、うまいもまずいもなかった。食べなければ飢え死にするだけだ。
久しぶりに見た日光は目を焼くようだった。ぎらぎらと、病的に輝いていた。
彼は横になった。
瓦礫が影を造った。
気温は、太陽が出たためにぐんぐんと上がっていたが、眠りながらガイルは、ずっと震えつづけていた。
焼き印を押されて引っ立てられていってから、ガイルは時間の感覚がほとんどなかった。
その道中のことさえろくに覚えてもいない。
モールニアの男たちは、鞭に追われて北西へ向かった。それは森と丘を突っ切っていく路で、恐怖が彼らを人外の領域に追い込んだのだ。
遅れるものは容赦なく鞭で叩かれ、化け物の汚らしい爪や角でこづかれた。
夜のうちに歩き、明るくなると休むという正反対の日々、ろくな食事も与えられない強行軍で、最初の襲撃で殺されないで済んだものも弱って死んでいった。
また、遅れたものも簡単に殺されて、化け物どもは1日に1人は殺すものと決めているようだった。
何日森のなかを歩いていたのか覚えていない。
気がつくとアダモン島最北の村、ヴェルチにいた。
いや、村だとわかるほど残骸があったわけではなく、村の近くにこの島では珍しい銅鉱山があったので、ヴェルチだとわかっただけだった。その名を思い出したのもずいぶん経ってからのことだった。
化け物たちは、アダモン島中から集めた人びとをこの銅鉱山に送り込んだ。そして日がな一日中、銅を掘らせた。
けれどもその目的が、銅の採取よりは強制労働という名の拷問と死にあることは疑いようもなかった。
男たちが南の町や村から到着するたびに、ガイルは知った顔を探したが、まったくいなかった。
ヘイズ氏は成人すると右足の腱を切るから、スランやクラレンスに会えると思ってはいなかったが、ハザードやディーン、フィロンくらいならば生きているだろうと彼は期待していたのだった。
けれども、最後にヴェラからの群れが到着すると、さすがに彼も諦めざるを得なかった。
会いたいわけではなかったが、ロングやデューサーも見かけることはついになかった。
だが、知った顔があったところでなんの意味があったろう。互いに慰めあい、いつか来る死を待つしかないのなら、1人であろうと違いはない。
泥水を啜り、野草を食み、それでもガイルは自分が生にしがみついている理由が最初はわからなかった。
両親が殺されたからか。
それともラングレイの言った大陸にひかれているのか。
希望とか夢なんて、いまのアダモン島ではどこを探しても見つけられないものなのに。
でも理由なんかなくても人間は生きているものなのかもしれない。
あるいは生きていくこと、それが最大の理由なのか。
アダモン島が闇に覆われたあの日、ほぼ半年振りで雨が降った。
それはやがて霧雨に変わったが、止めどもなく降りつづけていた。
ヴェルチの銅鉱山は最盛期などとっくに過ぎており、細々と鉱石が掘られていただけだった。
そのため、鉱山には人の立ち入りが禁止された坑道が何本も入り組んでいて、まるで蟻の巣のようだった。
人間の命など虫けらほどにも考えていない怪物どもは、そんな立入禁止の看板も壊し、人びとを追い込んだのだったが。
ガイルは鉱山のことはまったく知らなかった。地図や話でその存在は知っていたものの、どんなところかという知識に関しては零といってよかった。
だが、すぐにそこがいかに危険なところであるかは学んだ。
鉄砲水、落盤、酸素不足や中毒など、事故はいくらでも起きた。
そうでなくてもみんな体力が落ちているものだから、ふだんならば避けられたであろう事故にも、いとも簡単に巻き込まれてしまう。
かくいう彼も、あわや他の人びとを巻き込んで帰らぬ人となるところだったことがあった。
外に出るために梯子を登っていって、足を滑らせたのだ。
「あっ!」
ガイルは手を伸ばした。
周囲で悲鳴が上がり、彼は力強い手に腕を掴まれて、宙ぶらりんになっていた。
「大丈夫か?」
「……あ、ありがとう」
彼はそのまま上に引き上げられて、命の恩人の顔を見ることができた。
下からは安堵のため息が聞かれたものの、拍手も歓声も上がらなかった。振り返って見た目はまるで死体のようだ。
恩人は驚くほどハザードに似ていた。そして、死人の群れのなかにあって、ガイルが初めて会った、生きた目だった。
彼がすたすたと坑道を出ていってしまったので、ガイルは慌てて追いかけた。
「あの…!」
彼はやっと止まった。ガイルに追いかけられるなどと、予想もしていなかったという顔をして。
「あの…助けてくれてありがとう。俺は、ガイルっていうんだ」
「礼を言われるほどのことじゃないさ。俺だって、掴まえられるかどうかは半信半疑だったものでね」
「そんなことないよ。だから、俺はこうして生きていられるんだもの…!」
ガイルは力説した。
すると、相手はそのいかつい顔に笑みを浮かべた。
「俺はリックだ。よろしくな、ガイル」
「ありがとう…!」
差し伸べられた手を握り返した。
忘れていた人の温もりが、ガイルにはなによりも心地よかった。
目を覚ますとまだ明るかった。そして彼は、相変わらず空腹だった。
けれどもガイルは歩き出した。南へ向かって、たった1人で。
それからもヴェルチの村のように、全壊し、骨がそこかしこに散らばっている光景は目にした。
アダモン島中、すべての町や村がそうだったろう。
ガイルは野菜や穀物の残骸を食べて飢えを凌ぎ、わずかな水を啜った。
それでも空腹は癒しきれず、モールニアでは珍味に属した虫を探したが、虫はおろか、鳥の鳴き声さえ、とんと聞くことはなかった。
最終的には野草を食べ、その根も泥を洗い落としただけで食べたりした。
まるで、生きて動いているのは自分だけのような気がした。
ヴェルチから5つ目の町や村に入ったのは、銅鉱山から下りて14日目くらいだった。
ぼんやりと町かもしれないと思った。
ガイルがよく知っている町はファルコだけだったが、構造がよく似ていたのだ。家が密集して柵だったであろう残骸が残っている。
彼はいつものように食糧を探したが、期待するだけ無駄だったようだ。だいいち、辺りはかなり暗くなってきていた。
明るいとか暗いなんてことは、こんなときにしか意識しなくなっていた。
眠たいときに寝て、腹が空いて喉が乾いているのはいつものことだったから、見つけたときには必ず口に入れてしまうようにしていた。
それで、いまはあまり眠くなかった。
が、食糧が見つかる確率は町や村だったところのほうが高い。野草さえ食べる彼にはどこでもおなじことなのだが、いわゆる食糧のほうが腹持ちもいいし、満腹感も違うのだった。
彼は家の残骸を退け、灰を払ったりしながら、やがて一つかみほどの籾を見つけ出した。
となると欲が出る。
ガイルはお粥にしようと思い立って、今度は器を探し始めた。
欲−−−そんなものがまだ自分のなかにあるとは意外な気がしたが。
がらくたを退けていくと、炭が赤くなっているのを見つけた。あの長雨を避けられて、火が残ったようだ。
彼はさらに器を探しつづけた。籾と火がある。水はもっと簡単に見つかるだろうから、あとは鍋か釜だけなのだ。
だがガイルはいまだに知らなかった。夜に火を焚くことが、いかに危険であるのかを。
それは彼の焚いた火ではなかったが、暗くなっていくなか、赤く浮かび上がっていた。
「グゲッ!」
夜のなかで、燐でも浴びたようにはっきりとした輪郭を浮かび上がらせた化け物が、大きな目をぐるぐるとまわした。まるで巨大な蛙だ。
でも光る蛙なんて見たことも聞いたこともなかったけど。
お化け蛙は、やっぱり蛙のように跳ねた。
慌てたガイルの手が、耳飾りに触れて、小さく鳴った。
彼はそのなかの1つを適当にひっつかんで、自分でも知らないうちに、ラングレイにかつて習った言葉を唱えていた。
“死神王アケロンと火の精霊王ファフィフィルフィアンの名において命ず、火の精霊よ、我を助けよ!”
思いがけない効果に足がすくんだ。
彼の倍の高さはありそうな蛙よりさらに高く、紅蓮の炎が立ち上がったのだ。
怪物が脇からまわろうとすれば横に広がり、飛び越えようとすれば縦にさらに伸びた。
「ギャッ!」
化け物の短い悲鳴がガイルを我に返らせた。
火は確かに彼を庇い、化け物の行く手を阻んでいる。
彼は一目散に走り出し、器もお粥も頭から飛んでいた。
やがて町を抜け、まばらな森に紛れ込んだとき、さっきの化け物蛙の断末魔の叫びが、辺りの静寂を切り裂いたのだった。
もう追われないだろう。そうとわかったので、ガイルは走るのをやめて歩き出した。
ぼろ布に包んでいた籾は失わずに済んだので、これを齧って飢えを満たした。
歩きながら籾を食べて、朝まで隠れられそうなところを探した。
やっと木の虚に身を隠して、彼は初めて自分が震えていたことを知った。
夜に移動することがどれだけ危険であるのか、ガイルは初めて知ったのだ。
そうして浅い眠りに身を委ねた彼は、さっきの町がファルコであったことを思い出したのだった。
リックはガイルより10歳も年上だったが、2人はすぐに意気投合した。
というのも、リックによればガイルは彼に応えた初めての人間だったそうだからだ。
そしてガイルも、この銅鉱山でリックほど生きようとしているものを見たことがないと思った。
彼は間もなく、リックがヘイズ氏ではないことを知ったが、自分がヘイズ氏のものであるとは打ち明けられなかった。彼はいまヘイズ氏として、役に立ちそうなことなどろくに覚えていなかったからだ。
打ち解けてくると、リックはいずれ脱走するつもりで、計画も立てていることを打ち明けてくれた。
「でも、どこへ? アダモン島のどこに逃げ場があるんだい?」
「俺はヴェラの漁師だったんだ。ヴェラには、ずーっと昔になくなっちまったけど、年に1回は大陸から船が来ていたんだって」
「それ、本当かい?」
「そうさ。1回だけ地図も見せてもらったことがあるよ。俺は文字は読めないけど、いちばん近い大陸が確か、エリモルだったか、エズモルだったか、なにしろそんな名前だったな」
「エズリモル大陸だよ、それ」
「どうしてわかるんだ?」
リックがまえに乗り出してきた。
「俺…聞いたんだ、ラングレイさんに。あの人はエズリモル大陸から来たって。でも、殺されちゃったと思う…」
「そうか……じゃあ、本当に大陸はあったんだな。みんな絵空事だろうって信じていなかったけど、大陸はいまもあるんだな…!」
リックは仰向けになった。手を頭の下で組んで、いつでも暗い、洞窟の天井を見上げていた。
ガイルは、彼が脱走の計画を練っているんだろうと考えた。そういうことをあんまり相談してくれないのだ。
リックはガイルがヘイズ氏であることを知らないのだから、彼がやっと成人したばかりにしか見えないだろう。実際、それはあながち間違いだとは言い切れなかった。
それにたとえ相談されても、ガイルはあんまり役には立たない。
そんなとき、彼はリックに強い劣等感を抱くのだ。自分は足手まといなんじゃないかって思う。
ある日、そのことをもらしたら、リックはすごい怒って、1日も口をきいてくれなかった。
「俺が、いつおまえにそんなことを言ったっていうんだ? 相談しなかったのは悪かったよ。だからって、俺はおまえをそんなふうに思ったことも、扱った覚えもないからな!」
「ごめんなさい、リック…」
「ふんっ!」
でも翌日には、彼のほうから気をつかってくれた。そういうやつなのだ、リックは。
だから、余計なことだとわかっていても、ガイルのなかで劣等感の芽が育つ。
彼はリックが羨ましかった。
自分では彼のようになりたいと思いながら、なれるはずがないって思っていたせいだろうか。
リックはいいやつだった。
自分より弱いガイルを当然のように庇い、力を貸して、それなのに対等に扱ってくれた。
だから、あんな死に方をしたのだ。
ガイルは木の根を齧りながら歩いていた。銅鉱山を出てからもうどれくらいになるだろう。気がつくと髪はぼうぼうで、水面に写ったのが自分だとはとっさにわからないほどだった。
水面から彼を見つめ返していたのは、やつれてこけた頬、飢えと乾きに悩まされて、目だけがぎらぎらしている顔だった。唇はひび割れ、血の気もなく、泥や血や、その他諸々のものがこびりついていた。
彼はいつまでも水面とにらめっこなどしていなかった。こんな池がまだ無事だったことに驚きながら、口をつけて、次の瞬間には吐き出していた。
水は腐っていたのだ。魚の死体が隅のほうに浮いていて、それをつつく動物もいない。
顔を洗うことだけできた。二度と口に入らないように注意して、水浴びもした。
ときどき雨が降った。強いときもあれば弱いときもあったが、ガイルはどちらにしても休むため以外には立ち止まらなかった。
南へ、南へ。
彼はそのことしか考えていなかった。
ヴェラへ行けば船がある。船に乗ってアダモン島を脱出する。
それが当面の目標だ。
もちろん、最後にはエズリモル大陸に着かねばなるまい。
町も村も様変わりして、ファルコから先にはもともと詳しくなかっただけにどこを歩いているのか、まったく見当もつかなかった。
街道を辿ることができたのはせめてもの幸いだ。これなら、確実にヴェラまで行ける。
しかし、海はまだ見えてこない。
波の音が聞こえてくればコーストに近づいた証拠だし、そうなればヴェラまでは10日ほどで着くはずだ。
けれども先は長かった。
陽が昇り、陽が沈み、もう生活を営む人びとはいなくなってしまったのに、月日だけが繰り返されていくのだ。
ガイルは夕陽を仰いだ。
まだ歩けそうな気がしたが、暗くなってからはいつかのお化け蛙の教訓もあるので移動しないことにしていた。
彼は一晩隠れていられそうなところを探した。そのついでに、食糧や水も探さねばならない。
見つけたばかりの木の根を齧っていると、自分がまだ人間の恰好をしていることが不思議だった。
「あ…あー」
声は出た。喉は相変わらずからからだったが。
「お、れ、は……」
音を1つずつ発してみる。
大丈夫、まだ喋ることができる。少しぎこちないのは長いこと話さなかったからだ。
「俺は……」
けれど、彼はそこで口をつぐんだ。
自分が何だと…?
何と言っても足りなかった。
思いつきもしないとは、あるいはやはり、言葉は失われたのかもしれなかった。
根っこを捨てて、隠れ場所に潜り込んだ。
夜は時間の流れ方が緩慢になる。眠れないときはいつまでも明けることがない。寝ているときに目を覚ましても、たいていは暗い時間だ。
ガイルは眼を瞑った。夢を見なくなってから、もうずいぶんになる。
それから1時間も経ったろうか。
微かな震動に彼は身を起こした。
五感はすっかり聡くなっていて、特に化け物の臭気や足音、羽ばたきはすぐに感づく。
ガイルは耳を地面につけた。
どうやら近づいてくるようだ。
這うような音だが速い。
見つかっているのかいないのかわからないので、彼はじっとしていた。息も殺して動かなかったが、その震動は真っ直ぐに彼を目指しているようだった。
しかし、下手に逃げても追いつかれるのが関の山だし、この闇では圧倒的に彼のほうが不利だ。
どうしようか考えて、彼の手は自然と耳飾りに伸びた。
蛙のお化けから助けてくれたのは火の精霊だった。今度は何だろうか。
隠れ場所を出ると、月明かりでそれがはっきりと確認できた。
マウビーだ。
巨大な蚯蚓、口と胃袋しか持たない、ルンカネーラの眷属の怪物。
ガイルは精霊石を1つ取った。
“死神王アケロンと地の精霊王ドリアスの名において命ず、地の精霊よ、我を助けよ!”
言葉は自然と出た。
石を投げると、今度は火ならぬ土の壁がマウビーの行く手を遮った。
何でも食べ尽くしてしまうマウビーならば、土の壁だって食糧に思えたかもしれないが、食べられたのは土ではなく、マウビーのほうであった。
マウビーが土に呑み込まれていく。頭の先から、尻尾まで全て。
怪物が動けないことを確認して、ガイルは逃げ出した。
背後から巨大な咆哮が轟いた。
が、振り返ると、マウビーを呑み込んだまま、土の山はゆっくりと沈みつつあった。
精霊の力というやつがすごいのか、マウビーは見かけ倒しの大した化け物じゃないのか、どちらともわからなかった。
マウビーの尾が、最後の抵抗よろしく、ときどき振り上げられたが、土は容赦なく怪物の上に降りかかり、押し潰していった。
マウビーも土も、遠く遠くになったころ、ガイルは足がもつれてつんのめった。
無様に転がり、息もつけないほどだった。
辺りは静かだった。彼がぜいぜいと喘いでいる以外にはいつものように物音ひとつしなかった。
けれども、やっと息が収まり、身を潜めることができるようになったとき、微かな波の音をガイルは耳にしたのだった。
脱走者の噂はゆっくりと広まっていった。
銅鉱山とは名ばかりの死の収容所には、彼らが脱走できぬようにする見張りなど始めからいなかったが、それでも初めての脱走者だった。
やがて、ローガンという名のヴェラの漁師が当の脱走者だという話が、またゆるゆると伝わってきた。
「へぇ、ローガンか…あいつがこんな大胆なことをやるとは思わなかったな。先を越されちまった」
「リック、笑ってる場合じゃないよ。見張りとか立てられたらどうするのさ?」
「やつらはそんなことはしやしないさ。だって脱走したってどこに行こうって言うんだ? そのまえに見つかって殺されちまうのが落ちじゃないか。やつらはそう思ってるんだ。そうでなけりゃ、最初から見張りを置くに決まってる。
心配するなよ、ガイル。ヴェラまで行ければ船がある。そうすればアダモン島とはおさらばだ」
リックは決して楽天家というわけではなかった。彼は慎重に計画を立てて、いざ実行するときには大胆になるだろうと思われた。
実際、本当のところはどうだったのか、ガイルにはわからない。
リックには、いちばん大切なことは隠しておいて、相手がびっくりするのを楽しむという癖があったから。
結局、彼の言ったとおり、見張りが立てられることはなかった。
けれど、化け物たちは余計に人びとをいたぶるようになり、その被害が増えた。
あるいは、それらの殺戮を被害と呼ぶのは間違いだったのかもしれない。あまりに一方的すぎたので。
殺されないようにしているためには、やつらに目をつけられないことだ。
たまたま目が遭ったり、その化け物にいちばんに鉢合わせしただけで殺されたものもいた。
きっかけは、些細なことばかりだった。
人びとは、だから畏れ、次第に死に無感覚になっていった。
というより、感覚が麻痺してでもいかなければとうてい正気でいられなかったのだ。それが正気と呼べるならば。
死を、怪物を畏れることに、彼らは目を塞ぎ始めたのだ。それでも殺されることに変わりはなかったのに。
まったく、確実なことなんて何一つなかった。
「ねぇ、リック、もしも船が壊されていたらどうするの?」
「造るさ。木を伐って筏を造ればいい。ガキのころはそうやって遊んだんだ。
そうだな。ガイルは方角とか見分けられるか?」
「星を見れば…でも、明るいうちは自信がないや」
「上出来さ。俺たちが手を組めば、きっと行ける。おまえには、俺よりも知恵がありそうだから、頼りにしているぜ、相棒」
「そ、そんなことないよ。俺なんか、リックの足手まといにならないようにしているだけで精一杯で…」
こんなことを言ったらまた怒られるかと、ガイルは首をすくめた。
「でも、おまえはヘイズ氏なんだろう? いまさら、こんな氏族も意味がなくなっちまったけど、おまえは草のこととか、ちょっと他のやつよりも詳しいもんな」
彼はうなだれて首を振った。
「駄目なんだ、俺…大切なことはほとんど忘れちゃって、とっても話にならないんだ。俺がたくさんのことを覚えていたら、もっとリックを手伝えるのに、何にも思い出せないんだ……ねぇ、他の人には喋らないでよ、俺、ヘイズ氏だったなんて、だれにも知られたくないんだ。本当に、なんにもできないから…」
「心配するなよ。いまは忘れてることでもなにかのきっかけで思い出すかもしれないだろう? 忘れっぱなしなんてことはないさ。人間の記憶なんて、案外いい加減なものなんだぜ。それに、なにもいますぐ思い出す必要もないさ」
「……不思議だなぁ…リックが言うと、本当にそんな気がしてくるんだから…」
「気がするんじゃなくて、そうなるんだよ。もっと自信を持ちなよ、俺たち2人きりしかいないんだから」
ガイルは応えられなかった。
リックが羨ましくて、また劣等感に苛まれる。
劣等感はお化けだ。どんどん大きくなって、終いにはガイルを喰い潰してしまうかもしれない。
リックは、そんな彼にため息をついたようでもなかったし、呆れたようすでもなかった。
「隙間を空けるなよ。寒いだろう」
そう言って、彼を抱き寄せただけだった。
前方に人影を見つけたのは、もうヴェラの町の跡が見えてきたころだった。
近づいていくにつれて、そのくたびれきったようすはすぐにわかった。足はずっと鈍く、ときどき難儀そうに立ち止まっては息をついた。
よく日焼けした男だった。中年でもしゃもしゃの無精髭は胸の辺りまで伸びていた。
まさか人がいるなんて思わなくてさすがにガイルも驚いたが、しばらくつかず離れず、相手には気づかれないように歩いていくにつれて、そのうちに脱走者かもしれないと思い当たった。
ローガンだろうか。ガイルより先に脱走したのは彼しかいないはずだ。
それとも、知らされていないだけで、他にも収容所があったのか。
彼は思いきって近づいていった。
漁師ならば海のことに詳しいだろう。殺されたリックの代わりに、ローガンの力を借りてアダモン島を出ていけないものだろうか。
「あ、の…」
「ギャーッ!!」
声をかけただけなのに、相手は頭を抱えて道ばたの草むらに飛び込んだ。
呆気にとられていると、間もなく恐る恐る首を出し、大げさなため息をついた。
「なんでぇ、お仲間か。驚かすない、俺ぁ、心臓が止まっちまうかと思ったぜ」
舌はなめらかに動かなかった。ガイルは自分が子どものように思えたが、なにか言わないわけにはいかない。
「俺も、脱走して、きたんだ。あんたは、ローガン、だろう…?」
「そうさ。俺もすっかりびびっちまったけど、よくよく見れば、おまえもまだガキじゃねぇか。
まあ、いい。俺はアダモン島から脱走するつもりなんだ。おまえもそうなのか?」
ガイルは頷いた。最初からそのつもりだ。
しかし、よくローガンがいままで無事だったものだと、彼は内心驚くというより呆れていた。
彼は隙だらけだ。なのに怪物たちには襲われなかったのだろうか。
自分はもう2回も襲われて、そのたびに精霊石に助けられたっていうのに。
「おい、なんか食うものをもってねぇか?」
ガイルはちょっと肩をすくめた。食糧ならばこっちだって欲しいところだ。でも根っこは最近は食べていない。身体の調子がいまいちだったからだ。
「まぁ、しょうがねぇ。でも海に出れりゃあこっちのものだぜ。魚を釣って食えばいいんだ。魚があれば、しばらく食いつないでいけるもんな」
海のことはよくわからなかったが、彼はともかく頷いた。
ローガンは一緒に歩いている間中、ずっとガイルを値踏みするような目で見ていた。
そしてときどき、どこの出身だとか、海に出たことはあるのかと訊いてきた。
ガイルが苦労してモールニアの出身だと伝えると、彼はちょっと考えたようだった。
「1人で行くよりは2人のほうが楽かもしれねぇな。おめぇ、海の上にいるあいだは、俺に従えるか?」
その意味がはっきりとわからなくて、彼は曖昧に頷こうとしたが、ローガンは即座につけ加えた。
「おまえは海のことは知らねぇ。海をなめたらいけないんだ、俺は海で半分育ったようなものだからな、俺の言うことを聞いていりゃあ間違いはねぇってことよ」
「わ、かった」
「よし。
ヴェラに入ったら俺は船と旅に要りそうなものを探してくる。おまえは樽を見つけてこい。いくつでもいいぜ、それで港に運んでおくんだ。いいな?」
「うん」
ヴェラの町は、ガイルの記憶にある町並みは面影もなかった。アダモン島1を誇った規模も、いまは最大の瓦礫の山にすぎない。
言われたとおりに樽を探して、ガイルは港のほうに転がしていった。
まだいくつかの船が残されていて、初めて見る光景に彼はしばし立ち止まった。
1隻の船からローガンが下りてくる。
「おう、もっと樽を探してきな。あと、要りそうだと思うものもな」
ガイルはまた頷いた。
途中で、ヘイズ氏のものだった家の跡があったので、彼はそのなかでもいろいろと漁ってみた。
すると、奇跡的にいくつかの薬草が無事で、その用途についてまでは思い出せなかったものの、保存状態もそんなに悪くなかった。
ガイルは、ぼろ布で薬草を包み、それからまた樽を探しに行った。
ヴェラの町は大きい。そのなかから使えそうなものを探すのは容易なことじゃなかったが、もはやこれさえ過ぎればアダモン島から脱出できるのだという思いが、彼を突き動かしているようだった。
夕方までに、ガイルは10個ほどの樽を見つけて、ローガンが全部船に運び込んだ。
「今日は俺は船で寝るぜ。おまえはどうする?」
「俺は、港で、寝る」
「そいつはかまわねぇけど、間違っても海になんか落っこちるなよ!」
ローガンは1人でげらげら笑い、船に乗ってしまった。
帆柱が1本の帆船で、樽のせいで足の踏み場もないくらいの大きさだった。
もしかしたら、ガイルが寝ているうちにローガンが出港してしまうかも、という不安があったのだが、時折港に入ってくる高波に船は揺れて、見ているだけで気持ち悪く、とても一晩過ごせそうにはなかったのである。
もちろん、船出してしまえば慣れるしかないだろうが、いまから気持ち悪くなっていることはなかった。
それは正解だった。
ガイルが岸壁で浅い眠りをまどろんでいると、なにかを引きずるような音が彼を揺さぶったのだ。
彼は跳ね起きた。
今晩は月が2つとも満月のはずなのに隠れている。
音はガイルの神経を逆撫でした。
暗がりに目をこらすと、女性が近づいてくるのはわかった。髪が長いだけでなく、豊かな乳房が揺れていたのでそれとわかったのである。
ずるずるという音は止まない。
しゅーしゅーという音までときどき聞かれた。
ぞっとして、彼は走って船に飛び乗った。
「ん…なんでぇ、ガイル…?」
「錨を! 化け物、だ…!」
風が雲を一瞬払った。
けれど、その化け物の姿を見るには、充分すぎる時間だった。
それは女性の上半身と青緑色の長い長い蛇のような下半身を持っていた。深い緑色の髪も長く、塗れて蛇の胴体にからみついている。2人をねめつける眼には瞼がなく、青い唇の間から垣間見えたのは、紛れもない蛇の舌だった。
しゅーしゅーというのは、その怪物が息しているような音だったのだ。
蛇女とでも呼べばいいのか。そいつは2人が気づいたのを知るとずっと速く接近してきた。
「ローガン! 早く、船を…!」
「わかってるけど、はいそうですかなんて、船が動かせるものか! おまえはお祈りの言葉でも−−−?!」
“死神王アケロンと水の精霊王パイイの名において命ず、水の精霊よ、我を助けよ!”
ガイルは3つ目の精霊石を投げた。
蛇女が襲いかかってきた瞬間、突然の高波が船をさらい、一気に港の外まで押し出した。
「シャーッ!!」
蛇女は舌を出し、蛇の身体を目一杯伸ばして追いかけてきたが、波は怪物と船のあいだできっかり二方向に分かれて、船を沖へ、化け物を港へと隔てていった。
ガイルはずっと船縁にしがみついていた。
ローガンも帆柱にしがみついていたようで、そのあいだにも、別れを惜しむ間もなくアダモン島がどんどん遠ざかっていった。
ようやく辺りが静まり返ったとき、月は2つとも姿を見せて、アダモン島の黒い影を彼らの背後に浮かび上がらせた。
「なんだってんだ、いまのは…」
ローガンは低く呟いたが、その言葉とは裏腹に、彼の視線はじっとガイルの背に釘づけになっていた。
モールニア襲撃を指揮した蜥蜴男が銅鉱山にやってくると、目立たないように小さくなっているものにわざわざ目をつけて、見つけ出してはなぶった。
他の化け物のように爪や牙を持っていないためか、そいつだけは獲物に鞭を持っていたが、その痛みは長く深く、彼らを殺さないまでも苛んだ。
蜥蜴男は、ひと思いに殺してしまうよりも人びとが苦しむのを見て楽しむようなところがあった。
そいつに目をつけられたものこそ哀れだった。苦痛は何日もつづき、決して解放されることはないのだから。
死こそ、ここでは最高の解放であった。
蜥蜴男には、何故かもっと凶悪な姿の怪物どもも従った。それが何故なのかは、彼らにはとうとうわからなかったが。
リックは、蜥蜴男が来て、最初の犠牲者が出ると、とうとう脱走の意志を固めたようだった。
それは彼にとっては少し遅かった。
蜥蜴男は少年に目をつけた。彼が泣き叫ぶさまは聞いているほうにも耐え難く、ガイルなどは恐ろしくて耳を塞いでいたくらいだ。
そのせいで目をつけられたのだろうか。それともモールニアの村にいたときから、すでに目の仇にされていたのか。
次の標的はガイルだった。
ひゅんと鞭がしなって、彼の首に巻きついた。
リックの腕をもかすめたらしく、蚯蚓腫れがさっと浮かび上がったが、見ている間もなく、彼は引きずられた。
鞭はすぐにほどかれたが、何が起こったのか、倒れたままでガイルがまだ理解できないでいると、背中に激痛が走り、彼は悲鳴をあげた。
つづけて、間断なく、鞭が背中と言わず手足と言わず三度降ってきた。
彼は打たれるたびに泣き叫び、身をすくめ、どこにいるのかもわからない相手に止めてくれと頼んだ。
蜥蜴男は、その惨めなさまに笑い声をあげ、鞭が止んでからもなお泣き叫ぶガイルを、その太くて短い足で蹴飛ばした。
化け物が去って、ようやく人びとはのろのろと動き出した。リックでさえ、動けたのは化け物が行ってからのことだった。
生温かい血が彼を濡らした。
だが、ヘイズ氏でもなかったリックには、その傷口に効く薬草を探してくることもできず、ただ冷やしてやるのみであった。
鞭の洗礼は翌日もつづいた。ガイルは隠れるようにしていたのに、蜥蜴男はわざわざ彼を見つけ出し、もはや観客と化した人びとの面前に引きずり出すのだった。
3日目になると、ガイルはもはや傷の痛みのために動けなかった。リックが運んできてくれた食糧も食べることができず、かろうじて水だけを飲んだ。
最初の少年は3日目に殺された。ガイルもそれくらいだろうと思われた。
いや、関心を持ったものは少なかったに違いない。彼らは、己の死さえ無感動に受け入れるようになっていたから。
蜥蜴男は夕方に来た。
ガイルは動けず、わざわざ出向いてきたのだ。
鞭が振り下ろされようとしたとき、リックの鋭い声が辺りに響きわたった。
「やめろ!」
怪物は、冷たい目を彼に向けた。
「やめろと言ったんだ、この化け物野郎!」
蜥蜴男は笑った。背筋も凍りそうな声だった。ガイルをあざ笑ったときとは質が違うことにだれが気づいただろう?
「これはおもしろい。おまえたちのような蛆虫にそんな気力があるとは思わなかった。
ではおまえがわたしを楽しませてくれ、それほどの価値しかないのだからな…!」
まさか蜥蜴男が人間の言葉を喋るとは思わず、リックは不意をつかれて息を呑んだ。
と思う間に、鞭が雨あられと彼に襲いかかり、その口からは悲鳴がもれ、彼もガイルや、名も知らない少年のように泣き叫んでいた。
ガイルはそのときになって、初めて事の成り行きがどうなっているのかに気づいた。
リックが泣き叫んでいる。
いつも前向きで、自信があって、ガイルの劣等感をあれほど刺激した彼が、親兄弟の仇に、哀れに、惨めに、許しを乞いている。
鞭はしかし止まらない。
リックの声はだんだん弱くなっていく。
ガイルはただ震えていた。リックがなぶり殺されていくのを、ただ身を固くして、聞いているだけだった。
とうとう、リックは、ガイルの父ローレンのように、見分けもつかない血と肉と骨の塊と化した。
蜥蜴男はそれを化け物に食わせ、彼は死体さえ残すことができなかった。
リックは、決してそんなことをしてはならなかったのだ。もしも彼が生き延びたければ、ガイルが殺されるのを黙って見ているのがいちばん良かったのだ。
でも彼はそうしなかった。それは勇気などではなかった、無謀な行動だったのに。
蜥蜴男は、リックを殺したことで満足したようだった。そして、二度とガイルに目をつけることはなかった。
動けないまま、ガイルは一晩をリックが残した血の染みを見つめて過ごした。
涙も出なかった。鞭で打たれたときにはあんなに泣いたのに。何故見ていられるんだろう。彼を庇って死んだ友の、たった1つの遺したものを。
眠れないまま一夜を明かし、翌日は薬草を探しに行った。それさえも咎められることはなかった。
まるでリックなど初めからいなかったかのように、銅鉱山は変わることがなかった。
人びとは相変わらず無関心で、殺されたり死んだりしていた。
ガイルでさえ、リックが亡くなってから最初の数日をいままでとあまり変わらずに過ごしたほどだった。
けれども、ある夜、寒くて眠れなかったときに、初めてリックの死が実感として迫ってきた。
ガイルは涙を流し、震えて友がいなくなったことを悲しんだ。
それとも、悲しかったのは自分が1人きりになったためか、寒さのためにか。
以来、自分を庇って殺されたリックの死が、ガイル自身に大きく重く、のしかかってきたのだった。
船出して最初の数日、ガイルは酷い船酔いに悩まされた。
海が荒れていたというわけではなく、なにしろ船に乗るのも潮の臭いをまともに嗅ぐのもこれが初めての体験だったもので、ローガンにはなんということもない揺れも、ガイルには臓腑がでんぐり返り、吐き出しそうにさえ思えるのだった。
実際、彼は夜も日も明けずに吐きまくった。
けれど、その間にも船は西進しつづけ、ガイルがようやく船に慣れてきたころには、どっちを向いても本当に海しか見えなかった。
ローガンはガイルに集めさせた樽に塩漬けの魚をたくさんこしらえていて、ガイルにもそればかりを食べさせた−−−慣れないもので、最初のうちはこれも気持ち悪くなる要因だったが、ローガンにはとてもそんなことは言えなかった−−−。
それに干物も造っていて、魚の豊富だったヴェラでは、生でさえ食べるのだと言った。
雨が降ると雨水を貯えた。
ガイルはいまになって樽の用途を理解したが、彼には思いつかぬことばかりであった。ローガンがいなければ、ガイル1人で船出できたかさえ怪しいものだ。
が、ガイルはいくら感謝してもし足りないはずのローガンに強い警戒心を抱いていたのである。
化け物相手で鋭くなった神経は、時折自分を見つめるローガンに殺気さえ感じることがあったからだ。
そしてそれは、嵐の日にやってきた。
風と波に、2人を乗せた船は独楽のようにくるくる廻った。2人とも帆柱に命綱を結びつけていたが、すでに船は何度も転覆しそうになって、そのたびに重い樽をローガンが海に捨てた。
そしてローガンは、何度も彼の聖霊センヅに祈りの言葉を唱えていたが、いまのところ効き目はなさそうだった。
ガイルは、とうに聖霊シアンに祈ることさえ忘れてしまっていたのに。
また2人は、しょっちゅう水を汲み出していた。手が空いていれば、水を汲み出しているようなものだった。
嵐は船を勝手な方向へどんどん走らせていったが、どちらに向かっているのかは見当もつかなかった。
船は空中に放り出されてまた着水したりもした。
2人とも眠ることもできず、身体はぼろぼろに疲れ切っているのに、水を汲み出していた。
丸々一昼夜、雨と風と波とに悩まされて、何度目か船が空中に放り出されたとき、嘘のように一切が静かになった。
「な、に…?」
「嵐の目に入ったんだ。ここは嵐の中心てわけさ。
俺もガキのころに聞いたきりだった。まさか、本当にあるとは思わなかったぜ…」
「嵐の目…」
ガイルは不思議そうに、自分でも唱えてみた。
船首に人影が立ったのはそのときだった。背後の嵐よりも真っ黒い長衣は、重みもないのか船は傾きもしなかった。
「やっと追いつきました…まさか、これほど邪魔されようとはね。
そこの男、命が惜しくば彼の綱をほどきなさい。この嵐はただの嵐ではない、海の男のおまえならば知っているだろう。ただ1人しか、生きて出ることは叶わないのだよ」
「……あんたぁ、聖霊かい? 俺の聖霊センヅさまかい?」
「…聖霊などいない。我が名はヴァール、この嵐の力を見たいのか? それともいもしない聖霊の力を頼みとするのか?」
「…こんなガキくれてやらぁ! 俺ぁ、こんなとこでくたばるわけにはいかないんだ!」
「ローガン!!」
ガイルは手を最後の石に伸ばしたが、それより早く、ヴァールの放った電光が石を弾き飛ばし、彼の右手を痺れさせた。
その間にもローガンは綱をほどき、ガイルを綱ごとヴァールに押しつけようとしていた。
一か八か、ガイルは綱ごとローガンを引っ張った。
不意をつかれてローガンは不安定な船の上でよろめき、2人とも海に落っこちた。
水中で腰の綱をほどこうとガイルは懸命になった。これじゃあ命綱ならぬ死の綱だ。
息がつづかない。
それに泳ぎが達者で、まだ帆柱に綱を結んだままのローガンに引き戻された。
おぼれそうになり、塩水で目がひりひりと痛みながら、ガイルはまだ綱をほどくことを諦めてはいなかった。
そのとき、とっくに沈んでいったかと思っていた精霊石が見え、ガイルは最後の力を振り絞って、水を蹴った。
もう綱などどうでもいい。
あの石さえ手に入れられれば、火、地、水の精霊の力を借りて、残っている風の精霊の力が借りられるはずだった。
白くて指の長い手が、水のなかに突っ込まれた。ヴァールだ。
石を追っている。
ガイルとの競争で、間一髪、先に石を取ったのはガイルだった。
やっと水面に顔を出す。
せき込んでいる暇もない。石を使わなければ。
ガイルは無意識のうちに叫んでいた。
“死神王アケロンと風の精霊王アチカの名において命ず、風の精霊よ、我を助けよ!”
突風が彼らを襲った。
ただの突風ではない。船もなにもかも、いちどきに空中高く放り上げたのだ。
ローガンが声にならぬ悲鳴をあげている。
竜巻は彼らをきりきり舞いさせ、ガイルは船の上に放り出された。
探しても、ヴァールの姿はなかった。
同時に嵐までも去ってしまったようだ。
そして、ローガンが波間に溺れているのをガイルは見た。
命綱はいつの間にかちぎれ、彼は哀れっぽくガイルに助けを乞うた。
けれども、彼がなにかしようとする間もなく、強い風が帆を広げ、船は勝手に走り出した。
「助けてくれぇ…!」
ガイルは、ローガンが溺れるのを見てはいられなかった。彼は腰の綱をほどき、海に放り投げた。
船が何故動いているのかなど、どうしてわかろう。
だが、止めたいとは思わなかった。
やがて、朝日が彼の背後から昇ってきた。
ローガンの姿はもう見えず、狂ったように走った船も、いまはふつうの速さに戻っていた。
広い海原に、見渡す限り、ガイルはただ1人きりだった。
船縁にしがみついて彼は泣いた。
何故涙が出るのかわからない。
リックが殺されたときでさえ泣かなかったのに。何故自分をヴァールに売ろうとしたローガンなんて男のことを考えるだけで涙が出るんだろう。
「畜生、畜生!!」
それは、ガイルが初めて抱いた怒りだった。
村を襲い、両親を虐殺し、リックを殺した、異形の怪物に対して持った初めての怒りだった。
「いつか帰ってくるからな! 俺は、いつかアダモン島に帰るからな!!」
彼は拳を東方に振り上げた。
それから、西の地平をじっと見つめた。
その姿はやがて、海の彼方に消えていった……。
[ − 戻 る − | − 続 く − | 目 次 ]
[ トップページ | 小 説 | 小説以外 | 掲示板入り口 | メールフォーム ]