「宝剣物語」第一部第五章

「宝剣物語」第一部第五章

異常気象が11月で終わらないだろうとは、だれも想像だにしなかったことだけは間違いがなかった。
かくいうガイルも、12月に入って雨が降らない日が1日1日と積み重なっていって、初めてこのまま年が明けるまで雨は降るまいと思ったところだった。
そして相変わらず暑かった。9月か、へたすれば8月ぐらいの暑さだろうと父が言った。
母は早くも旱魃に備えて水を切り詰め始めて、村人にもそうするように勧めた。順当にいってもつぎに雨が降るとしたら来年の2月まではないことになる。年明けに慌てても遅すぎるからだ。
飲み水の確保はアダモン島の人びとには食糧と並んでまず優先させなければいけない最重要課題である。
水については、雨期が1ヶ月おきにやってくるといういままでの気象ならば乾期のときに気をつけてさえいれば、そんなに深刻な事態に陥ることもなかったのだが、こう雨が降らないのでは、11月末の不意の雨でせっかく水位の上がった井戸も、すぐに落ちるところまで落ちてしまうだろう。
飢えに悩まされることは珍しくなくても、乾きに悩まされることは滅多になかったために、モールニアの村では成人だけの会合が開かれ、ガイルの両親も当然参加することになった。
成人の会合は、ヘイズ氏以外の氏部族ならばどこでも持っていて、しばしば最も重要な役目を果たすものの一つだそうだ。
列席できるのは「成人」と名がつくだけあって成人した男子だけで、そのなかでも発言権を持っているのは結婚したものだけだそうである。これはヘイズ氏の見習い期間に相当する年代を、他氏部族でも持っているということだ。形の上では大人で、大人として責任もとらされるが、実質的な権限はないという立場である。
つまり、ガイルの母の出席は例外中の例外で、父の補助的な役割のために許されているだけで、発言権はないのだった。
そのためにガイルも出かけることができなかった。両親がいなくても簡単な切り傷くらいなら治療できるようになったし、彼の手に負えない病人やけが人は両親を呼びに行くという役目があるからだ。
いかなる理由があろうとも、ヘイズ氏が留守にしてはいけないのである。
でも彼は、内心では森にでも行って薬草を摘んできたいのにと思っていた。
だって、男の人たちがみんな会合に出ているのに、外で働こうなんて奇特なかみさんや、遊ぼうなんて子どもがいるはずがないのだ。
それに家のなかにいるよりも、森のなかは比べものにならないくらい、涼しくて過ごしやすかった。
ところが、母はそんな彼の心中をちゃんとお見通しだった。
「ガイル、お客様が来なかったのなら、薬草の残り具合を見ておいてちょうだいね。古くなったものはちゃんと捨ててしまって、新しいのを棚に補充しておくのよ。足りなくなりそうなものがあったら、次の交換会のときに忘れないように覚え書きをとっておくんですよ。
それでも父さんたちが帰れなかったら、仕事場も掃除しておいてね。いつも簡単に済ませてしまっているし、清潔にしておかなくちゃいけないからね。
なんだったら、家のなかも掃除しておいてくれてもいいわ」
「えー、そんなに終わらないよぉ」
「全部やってほしいとは言っていません。時間が余ったらやっておいてって言ってるの」
「…はーい」
父は厳しい人だが、母は手強かった。
それで、ガイルは諦めて棚に向かい、言われたとおりに仕事を始めた。
そのあいだに両親は出かけてしまい、彼はちょっとだけぶうたれたのだった。
棚は大きかった。祖父とは言わないまでも、せめて父ぐらいの背になれば、いちばん上の列にも手が届くのだろうが、いまのガイルでは母のように台を使わなければ駄目だ。
棚は薬草の数だけ仕切られていた。これを一つひとつ、全部見るだけでもたいへんな仕事だ。しかも薬草の有無や古びていないかを確認し、必要とあらば補充するのだから、毎日毎日となれば、彼はつくづく両親の生真面目さに頭が下がる。
いやいや、真面目だとかは関係なくて、そうしなければヘイズ氏の仕事は勤まらないのだ。
朝から始めたのに、昼過ぎまでかかったもまだ終わらなかった。
雨期のあいだは1日に2食が基本である。しかも起きるのは遅く、寝るのも早い。
それもこれも、雨が降って大多数の人びとは仕事にならないからなのに、こう雨が降らないのでは、乾期のように仕事をするわけにはいかないのだろうか。
遅餉の時間になると母が呼びに来た。
とても掃除などまでは手がまわらない。てっきり、ガイルは叱られると思っていたのに、母は棚を一瞥して、
「頑張ったじゃない。慣れればもっと早くできるようになるわ」
「でも、まだ終わってないよ」
「1人でやるのは初めてですものね」
そう言って頭をなでてくれたのに、ガイルは照れくさい気持ちのほうが先に立ってしまい、
「子どもじゃないんだから。頭なんかなでないでよ」
「あら、照れてるの? ふふふっ…。
ね、会合はまだ終わらなそうなの。だから、あなたも一緒に遅餉を食べなさい」
「うん。でも、どうしてそんなに長引いているの? 水のことだけだから、もっと早いかと思ってた」
「そうね…でも、このまま年内は雨が降らなかったとしたら、年が明けてからがたいへんなのよ。おまえが母さんのお腹にいたときにも、酷い凶作のときがあったわ」
「うん、父さんに聞いた。蝗が大発生したんでしょ?
今度、おじいちゃんとまとめた回想録があるから読みなさいって言われたよ。俺、おじいちゃんに字を習っておいてよかったな」
「そうね。おじいちゃんには、本当にたくさんのことを教わったんですものね」
「母さん」
ガイルはそっと母の手を握った。
「なに…?」
母は微笑んで握り返してくれたけれど、淋しそうな表情は消えないままだった。
彼らが会合の場になっている村長の家に行くと、一時的に話し合いは中止にされた。皆で一斉に遅餉をとるためというより、ガイルに聞かせるわけにはいかないというのがいちばんの理由だったようだ。
モールニアは小さい村なので、氏族も一つしかない。ファルコ部族に属するハリエット氏である。だから、氏族の長が自動的に村長になる。
しかし、二つ以上の氏族で構成される村になると、そう単純にはいかないらしい。人口の多い氏族がずっと勤めていたり、氏族のあいだで回り持ちだったりと方法は様々である。
ガイルは食事をしながら集まった顔ぶれをこっそり観察した。こういう機会でもなければ、彼が村の人に会うなんてことは滅多にないからだ。
全部で50人くらいいるだろうか。ということは、モールニアの全人口の約三分の一がここに集まっていることになる。
ヘイズ氏以外の氏部族では、おおかた15歳前後で成人する。必要な条件はただその年齢に達しているかで、彼らはそれぞれの氏部族だけに伝わる秘密の儀式を経て大人になってしまう。
モールニアはハリエット氏族の村だが、おなじ氏族のものとは結婚できないため、村の半数は実は他氏族のものだ。村のなかでの結婚は特にモールニアでは珍しく、よほど祖霊の重ならない組み合わせでないと周囲の猛反対を受けてしまう。その反対を押し切ってまで一緒になった例はモールニアにはないそうだ。ヘイズ氏以外で血の濃いもの同士が結婚することは禁忌なのである。
ガイルは「不義の英雄」と呼ばれたマクリーンの話を聞いたことがある。
「英雄」とは、彼には皮肉めいた呼び方でしかなかった。
マクリーンは実の姉と弟が結ばれてできた子で、その罪のためにどんな王国にも決して居着くことができず、常に後ろ指さされる身であったから。
そして彼は、「両親とおなじ咎を与えられる」という呪いを受けており、そのためにいかなる女性も愛さず、また触れないという誓いを立ててもいた。
マクリーンの武勇はその不名誉な出生に反して素晴らしいものばかりだ。
比類なき〈力の剣〉を手に入れた話、一つ目の巨人を倒した話、たった1人で砦を守りきった話、海中で七日七晩、10本足の水魔と戦った話など、ガイルは胸をわくわくさせて、次の冒険を聞く機会を待ちわびたものだ。
ところが決してひとつところに落ちつけず、その武功を讃えられるよりも人びとに「不義の英雄」と謗られて、マクリーンは、王国もなく、人も住まない荒野に向かったという。
彼は生涯〈力の剣〉を携えていたが、だれのためにももはや振るう気にはなれなかったのだと。
「それで、おじいちゃん? ねぇ、マクリーンはどうなったの?」
「彼は荒野に定住することも許されなかったのだ。マクリーンは人のいないところを放浪し、それでも彼の勲しは歌われた。人びとは彼の武勇伝を聞くことを好んだ、だが、彼を愛するものは1人もいなかったのじゃが」
「…かわいそうだよね、そんなの…」
「仕方がなかったのだ。マクリーンは禁忌を犯して生まれた子だったから。彼は両親の罪を負わねばならなかったのだ。
けれども、ただの1人だけマクリーンを愛したものがいた。彼にかけられた呪いのためか、あるいは彼女もだれにも愛されなかったゆえにか」
マクリーンを愛したのはマールリンデ、けれど彼女はマクリーンの異父妹で、そのことを知ってもいた。
マクリーンの母は、弟たる夫と引き離されてからはある好色な地方領主のもとに嫁いだ。
彼女はその屋敷で不義の子マクリーンを産むが、子どもは縁もゆかりもない、子どものできない夫婦に里子に出された。
実直さだけが取り柄の愚鈍な夫婦はマクリーンを育てるが、彼は15歳のときに己の出生を知り、養家を出奔し、各地を放浪するという宿命に追われつづけた。
一方、マクリーンの母は、地方領主とのあいだにマールリンデをもうけるが、彼女は立場の弱い第3夫人で、第1夫人と第2夫人の虐めに遭い、また愛する夫で実の弟とも引き離されたことを嘆いて、やがて幼い娘を残して亡くなる。
残されたマールリンデは、不義の子の妹として、幽閉同然の生活を強いられるが、彼女の心のなかには、すでにまだ見ぬ異父兄マクリーンへの思慕が芽生えていた。
マールリンデは美しく成長する。
地方領主はマールリンデに情が移って社交界に出そうとするが、人びとは未だに彼女の母とその弟との不義を忘れてはおらず、中傷と好奇を浴びてしまい、マールリンデはそれに耐えきれない。
マールリンデは、幼いころから聞かされた不義の兄、マクリーンを探し求めて生家を脱走し、すでに「英雄」となっていた兄の消息を探し求める。
探しつづけるうちに、マールリンデは母とおなじ過ちを犯そうとしていることに気づいた。
彼女はマクリーンを愛してしまっていたのだ。
そして荒野をさまよう孤独なマクリーンは、マールリンデと巡り会う。
マクリーンは誓いを破るまいとするが、マールリンデは彼に愛を告げた。
ついに2人が結ばれたのは呪いによってのみであったろうか。
マクリーンは、マールリンデを殺し、自害して果てる。
彼を助けた〈力の剣〉は、不義の英雄の死後、杳として行方が知れない。
ガイルは二度と祖父にマクリーンの話をねだらなかった。でも、その話を忘れてしまったこともなく、いつでも簡単に筋を辿れたものだ。
「ごちそうさまぁ」
両親に手を振ると、2人とも笑って頷いた。会合は間もなく再開されるだろう。
彼は外に出て、ちょっと寄り道をしながら家に戻った。
もっとも、モールニアの村では寄り道といったってたかが知れている。でも、真っ直ぐ家に帰りたくないときにはちょうどいいかもしれない。
村のなかは人影もなく、まるでだれもいないかのように静かだった。
家に帰ると仕事のつづきだ。ガイルはため息をつくより、頑張ろうという気になった。
薬草の確認は日没まえに終わった。
仕事場の掃除はずっと簡単なものだったが、家のなかの掃除まではちょっと気が進まなくて、ガイルはさぼって玄関口に座り込んだ。
話し合いはまだ終わらないのだろうか。
ガイルはちょっとだけ、自分がお話のなかの英雄だったらよかったのに、なんてことを考えていた。
そうすれば水不足に悩むこともなかったろうし、飢える心配もないかもしれない。
それに彼は、ハザードの言っていた精霊のことも考えてみた。彼らに、もっと雨を降らせてくれるようお願いできたらいいのに。
「あ…! おかえりなさーい!」
村長の家から人びとがぞろぞろと出てきた。
ガイルは盛んに手を振って両親に合図をし、じきに2人とも気がついた。
「おかえりなさい! ねぇ、話は終わったの?」
2人はちょっと顔を見合わせたので、ガイルも首を傾げた。
「家に入ろうか。もうそろそろ日没だ」
「そうですね。
ところでガイル、仕事はちゃんと終わったのかしら?」
「へへー、実は家のなかの掃除をしていないんだ」
「まあ、それはいいわ。まさか、会合がこんなに時間がかかるなんて、思ってもいなかったもの」
「しょうがないさ。水が不足になれば、いずれ作物に影響する。死活問題だよ」
「そうですね…」
「薬草を見るのはけっこうたいへんだったろう、ガイル?」
「そんなこと−−−あーっ!!」
本当はとてもたいへんだったのに、わざとそう言って、ガイルは西の空に目をやった。
ゆっくりと消えていく4人の人物を見つけたのはそのときだった。
両親も大声をあげた彼にびっくりして振り返ったが気づかなかったようで、
「疲れたようだね。話をするのは明日にして、もう寝るかい?」
「父さんも母さんも! いまのを見なかったの?! ねぇ、本当に見なかった?」
「なんにもなかったじゃない。なにかあったって言うの?」
「4人だよ、4人! そこの空に、4人の人がいたんだ。消えちゃったけど、いたんだよ!」
母の手がぴたっと額に触った。そんなことは久しぶりだ。
「熱はなさそうだけど…錯覚ではないの?」
「嘘じゃないよ! そこにいたんだ! 俺が見ているまえで消えちゃったけど、いたんだよ!!」
「…どんな人たちだったの?」
と父。
母も手を離した。
「1人は灰色の、そう、全体が灰色っぽいすっごくきれいな女の人。で、もう1人女の人がいて、その人は真っ青なんだ、2人とも母さんより髪が長かったよ、もう地を這うくらいあったよ。それで男の人が1人いて、真っ赤で、なんかこうさ、ほら、炎みたいな髪をしてたよ。長いんだけど、こんなふうに逆立ってるの。それで、あともう1人は男の人だと思うんだけど、真っ茶色で、木か土の像みたいな感じで、他の3人よりずっと小さいんだ。でもね、4人ともすごく悲しそうな顔をしていたよ。もう見ているうちに消えちゃったから、それ以上はよくわからないんだけど…。
ねぇ、本当だよ、父さん! 俺、見たんだよ!」
「ああ、わかっているとも。おまえは嘘なんか言ってない。
でもね、その話はおまえが本当に信頼できると思った人にしか話しちゃいけないよ。さあ、それだけ元気なら大切な話がある。家に入りなさい」
「…はい」
ガイルはごしごしと目元をこすった。本当にそんな人たちがいたんだろうか。自分でも自信がなくなってきた。
だって、彼らは宙に浮いていたことになる。
いよいよもってこれは怪しい。
「早くおいで」
「いま行く」
それっきり彼は、その4人のことなど忘れてしまったのだった。
「そこに座りなさい」
いささか緊張気味に、ガイルは座布団の上に正座した。
「おまえ、このまえにコーストのハザードから聞いたという話をしたね」
「うん」
「近いうちにコーストのクレス殿のところに行ってもらいたいんだ。これから手紙を書くので、それを渡しに行ってほしい。もしかしたらヴェラまで行ってもらわなければならないかもしれない。それに、手紙はここからヴェラまでの街道筋にある、全てのヘイズ氏に宛てて書くつもりだ」
「俺がコーストに?!」
「長旅だ。行って帰ってくるだけで、3ヶ月以上はかかるだろう。ファルコに行くのとは訳が違うよ」
「大丈夫、俺、1人でも行けるよ」
「ガイル、遊びに行くのではない。これが重要な事態であると思うから、わざわざコーストにまで行ってもらうんだ。
先々月、おまえに訊ねたね、ヘイズ氏のものとして責任と義務のある行動がとれるかと。今度のこともおなじなんだよ、あるいはさらに重いと言ってもいいかもしれない」
「はい!」
父は微笑んだ。
「そら、サリア。わたしの言ったとおりだろう? ガイルは尻込みなんかしやしないってね」
「そうですね。でもあなた、大切なことを忘れていますわ」
「そうだな。
さて、ガイル、おまえには1人で行ってもらうわけではないんだ。先ほどの会合で、モールニア、正確にはハリエット氏からも1人、代表が出されることになったし、行く先々で人が増えるかもしれない。それでも大丈夫だと答えられるかい?」
「だって、ファルコまでは俺のほうが旅慣れてるし、大丈夫だよ、俺、頑張るから」
「では決まりだ。明日も会合があるから、ガイル、おまえにも出てもらうよ。
それに、たとえ一緒に行く人が決まったとしても、なにも今日明日発つわけじゃない。いろいろと準備が要るのだからね」
「はいっ!」
彼が家を飛び出していっても、もはや両親は引き止めなかった。
ガイルはぴょんぴょん跳ねて、何回も万歳をした。歓声をあげて奇声も発していると、不意に森から遠吠えが聞こえてきた。
「…?!」
足も心も止まって、彼はおそるおそる森をのぞき込んだ。
が、真っ暗でなんにも見えやしない。
遠吠えは一度だけでは終わらなかった。
それが近いのか、ずっと奥のほうからなのか、彼には見当もつかなかった。
そして、その声に応えて、いくつかの遠吠えが間断なく聞かれた。
一切が静寂に返り、普段は気にもとめたことのなかった虫の鳴き声が夜空に凛と響きわたった。
ガイルはちょっと生唾を飲み込み、意を決して森に近づくと腹の底から思いきり声を出した。
「おおーい!!」
けれど答えはなかった。虫の音が止み、少しおいてまた聞こえてきただけだった。
「ちぇっ…! でも、なんの声だったんだろうな」
ガイルはまた走り出した。祖父の墓前へ報告に行くために。
でも彼は知らなかった。聖霊シアンより繋がる、モールニアの22世代に渡る歴史のなかでも、この声に応えたものなど、ただの1人もいなかったことを。
いつものように祖父に元気いっぱい報告したのに、ガイルはずいぶんと寂しかった。
だって他でもない、彼だけは祖父が〈忘却の河〉を越えていったことを知っていたはずだったから。
でも祖父が、もうなにもかも忘れて〈遥かな国〉へ行ったとは、彼だけは信じたくなかった。
話したいことがたくさんあるのに、どうして祖父はいないのだろう。いいや、どうして人間は死ななければならないのだろう。年老いていくのだろう。
ガイルは膝をかかえて、祖父の墓のまえに座り込んだ。
「おじいちゃん、夢のなかにくらい出てきてくれたっていいじゃないか…俺、すごく会いたいんだ、父さんでも母さんでも、スラン叔父さんでもクラレンスでも話せないことなんだ…! どうして俺が元気になるまで待っててくれなかったんだよぉ、俺、もっともっとおじいちゃんの話を聞きたかったのに……」
彼はちょっぴり鼻をすすり上げたけど、泣きはしなかった。それから少ししてガイルは家に戻ったが、自分が祖父の墓に行くことは減るだろうと思った。
蝗の年14年目、ガイルはモールニアの村長の息子ソルと旅立った。1年の始め、昼と夜とがおなじ長さになる日に、2人は村人に総出で見送られて日の出とともに出発したのであった。
ソルは村長の末の息子で、ガイルとおなじ14歳で、来年になれば成人する。
けれども彼は兄弟のなかではいちばんのしっかりものと評判だった。しかし、それまではガイルとは一度も話したことがなかった。
「俺の歩調できつかったら早めに言ってよ。無理は決してしないこと、いいね?」
「わかった」
ヘイズ家からガイルはすんなりと決まったものの、村人からの人選は混乱した。
まず、青年だけで造られる青年会から立候補が募られたが、これが1人もいなかった。
ならば成人の会合からという話になったが、会合から欠員が出るのは好ましくないし、長旅はきついのではという御仁と、家族の養い手を何ヶ月も引っぱり出すわけにはいかないと、立候補さえ募られることなく、また青年会に戻った。
ここまでで2日間も費やしている。
不毛な話し合いに、わずか1日で飽きてしまっていたガイルは、父の承諾を得て、2日目以降は、不完全ながらモールニアにあるという唯一の地図を見て、コーストまでの道のりについて、少しでも情報を得た。
それに、母と持っていかなければいけないものについても話し合った。
2日目の夕方、父がうんざりしたようすで帰ってきて、ことの顛末を教えてくれたが、その翌日も行かなければならないことに疲れを覚えたようだった。
父にしてみれば、ガイルと長旅をさせるのに、だれでもいいというはずがないのだ。だからといって、その選択肢が一つもないのではどうしようもない。
それで3日目、今度は青年会のものが1人ずつ呼び出されて、個別に村長や、主だった会合の代表から説得をされたが、青年会ではまだファルコまでしか出たことがなかったので、だれ1人として引き受けようとはしなかった。
若者たちは、年に一度ほど村を出ることがある。主要な目的は花嫁探しだ。とくにモールニアのような1氏族しかいないところでは、どうしても外に花嫁、花婿を見つけなければならない。
村長はかなり粘って説得をしたほうだ、と父があとになって言った。
青年会となれば、仮にも大人である。こんな大切な任務を自主的に引き受けようとしないとは、まるで子ども同然だと、村長や他の人びとも言い合っていたが、実際、彼らの息子たちだって、名乗りを上げようとしないのだった。
ただ1人、いまだに成人していないソルを除いては。
候補者探しの説得は、ずっと村長の家で行われていた。ソルはその有り様を、見ることができたにちがいない。
たとえ盗み見だったとしても、彼は引き受けようとしない大人たちを不甲斐なく思い、少年らしい冒険心を大いに刺激されたわけだった。
ソルが名乗り出ると、村人は一斉に賛成した。村長はもちろん大反対で、ソルのような子どもに行かれるくらいなら、たとえ自発的に言い出したのではないとしても、未婚の、それでも成人した誰かのほうがよほど適役だろうと主張した。
だが、村長の言い分はいままでの繰り返しに過ぎないことはだれもが知っていた。
そして、ローレンまでがソルに同意したので、やっと6日目にして、ソル=ハリエットが、ガイルに同行することが決定したのである。
父がソルの同行に賛成したのは、ガイルと同年齢で、元来が人好きのするほうでもない息子といちばん歩調を合わせられそうだったからだ。
そう言われたときに、ガイルは父の心遣いが嬉しい反面、どこか煩わしさも感じないではいられなかった。
実際に旅が始まってからは、まったく父の言うとおりだったとも思ったけれど。
それから約半月、ガイルもソルも旅の支度で忙しくて家業を手伝うどころじゃなかった。
父も、各地のヘイズ氏に手紙を書くのに忙しそうだったが、旅慣れていないソルに教えるのは母の役目だった。
けれど、ソルの頑張りは大したものだった。もともとハリエット氏は農業に従事しているから、基礎体力はできていたようで、なかなか根を上げなかった。
それに、彼はガイルとはけっこううまが合った。ヘイズ氏に同年代の友だちがいないことを、常々残念がっていたガイルだったが、すぐ近くにいようとは思ってもみなかった。
「ソルはすごいな。大人の人たちがだれも行きたがらなかったのに、自分から行くなんて言えるんだもの」
「ちっともすごくなんかないさ。ただ、父さんや兄さんたちが勝手なことばかり言っていたから、腹が立ったんだ、成り行きってやつだよ。
でも、こんなことはみんなには内緒だぜ。とくに兄さんになんか知られてみろ、恩着せがましく『替わってやる』なんて言い出しかねないからな」
「なんだ、ソルは兄さんたちと仲が良くないのかい?」
「そんなわけじゃないけど、俺は3人兄弟の末っ子だからさ、いろいろと気を使うんだよな」
「俺も兄さんなんて欲しかったな。ずっと一人っ子だから、ソルには兄弟が2人もいて羨ましいよ」
「…ふーん、そういうものかな。俺なんかガイルのとこと逆だろう? 生まれたときからずっといちばん下でさ、こんなにつまんない話なんてないんだぜ」
ガイルはふふっと笑った。するとソルもつられたように笑った。
「おもしろいね。俺たち反対でさ、お互いに羨ましがっているなんてさ」
「うん。でも、本当に父さんたちには内緒だぜ」
「わかってるさ」
ガイルは、やっぱりソルはすごいなと感心した。
だって、もしも立場が反対になっても、ガイルはそんなに正直には打ち明けられなかっただろうからだ。
かと思うと、2人はめちゃくちゃに喧嘩したりもした。それも罵り合いではなくて、取っ組み合いの喧嘩を。
腕力ではソルのほうが絶対に勝っていた。ガイルときたら、力仕事なんてずっとやらないでしまったので、差がついて当然だ。
でも喧嘩となれば、互いに手加減なんかしなかった。
それなのに、翌日になるとソルはけろっとした表情でガイルのところに来た。
ガイルが痣だらけの顔で、
「喧嘩したんだからな、馴れ馴れしくするなよ」
と言っても、やっぱりけろっと言い放つのだ。
「なんで喧嘩したんだっけ? …ガイル、よかったら原因を教えてくれないか」
腹が立つというよりもばかばかしくなって、ガイルは「なんでもない」と言うよりなかった。
「変な奴だな。なんでもないんなら、最初っから言うなよ」
ムッ。
「そっちが忘れるのが悪いんだろう。なんだい、そんなぼこぼこの顔して、よく忘れたなんて、言えたもんだな」
「ぼこぼこって言ったな!」
痣と瘤だらけなのはお互い様だ。
「言ったがどうした!」
ところが、実はソルときたら、見るも無惨なにきび面だったのだ。このため、彼は「ぼこぼこ」だの、「でこぼこ」だの、「穴だらけ」だのと言われることを、たとえ自分を指したのではないにしても異常なほど嫌っていて、やたらに神経過敏だった。
もちろんガイルだって、そういうことを承知の上で言ったのである。また喧嘩になったことは言うまでもない。
しかし、ガイルはこのあとで父にこっぴどく叱られた。
よりによって、他人の肉体の欠点をあげつらって喧嘩するとは何事か、というわけだ。父の怒り方はちょっとないほどに強いものだった。滅多に怒らない人だっただけに、ガイルは心底怖くて、すまないという気持ちになった。
挙げ句に、彼はその日のうちにソルに謝りに行かされたが、もはや最初の喧嘩の原因など、互いに忘れていた。
そのおかげで、2人はうまいこと仲直りすることができた。
その後も、2人はよく喧嘩をしたけれど、互いに喧嘩の原因を忘れたなんてへまはしなくなった。
旅慣れていないソルが一緒では、どうしても歩調を落とさなければならないことはわかりきっていた。
ので、ガイルはその心構えをよく諭された。
早くコーストに着けばいいというものではないのだから、2人、あるいはそれ以上の人数になれば、全員がついてこれるよう速さにしなければならない。
もしも、ガイルの歩調に合わせるとしたら、他の人びとには、多分旅慣れていないだろうから大変なのだ、とも言われていた。
なにしろ、彼は1人で旅しているわけではないのだから、身勝手な行動はくれぐれも慎まねばなるまい。
それで、最初の日にはモール地溝まではとうていたどり着けなかった。
ガイルは、疲れ切って食事の支度もできないで、そのうえ足の痛みに呻いているソルに、まず痛みを和らげる湿布を施してやったが、野営の準備は全部彼がしなければならず、少し気が重かった。荷物は最小限にしたのに、ソルの分まで持ってやっているのだ。
でも先は長いのだ。いまからソルに無理をさせるわけにはいかないし、トラビスまで4日の距離が8日になってもしょうがない。
ガイルはさんざん自分にそう言い聞かせて、ソルの元に戻った。
「……俺って、足手まといだよな…」
「くだらないこと言ってないで、さっさと食べて休めよ」
「おまえだって、そう思ってるんだろ?」
ガイルはむっとして振り返った。
ソルはモールニアじゃガキ大将だった。
家では3人兄弟の末っ子だったかもしれないが、子どもたちだけになれば周りの子分に命令できる立場で、モールニア中の子どもたちを引き連れて遊んでいるのをガイルは何度も見た。女の子だって、小さいうちはソルと遊んでいるようだった。
ガイルは仲間に入れてほしいとは思わなかったし、ソルのほうからも誘ってくるようなことはなかった。
ところがいまじゃ、2人の立場は逆転し、ソルのほうがずっと弱いのである。
「ガキ…!」
あっかんべーをして、ガイルはまた背を向けた。
ソルは寝転んだきり、起き上がることもできないようだ。
だから、彼の手の届かないところに行ってしまえれば、ガイルはまったく安全なわけである。
結局、先に寝たのはソルのほうだった。
その憎たらしいくらいに無邪気な寝顔を見ながら、ガイルはもう一度、父の戒めを繰り返したのだった。
3日目の朝に、ソルは心底ぞっとしたような表情でモール地溝の釣り橋を恐々と渡っていった。
ガイルだって、釣り橋を渡りながら地溝をのぞき込めば、決していい気分ではなかったのだが、なにもあそこまでびくつくことはあるまいなんて思ったものだ。
昼間のうちは、ソルも泣き言はもらさなかった。口数こそ少なかったが辛いとも言わず、黙々とガイルのあとについていった。
けれども、夜になると弱気の虫が顔を出し、モール地溝を見たことも影響しているのか、あれこれと推測し、しゃべり立てて、こっちだって疲れていないわけじゃないガイルを苛つかせた。
が、口論にもならなかった。ソルが一方的に愚痴るだけで、ガイルは相手もしなかったからだ。
彼は野営の支度をして、食事の支度をして、ソルの足をもんでやり、湿布を貼ってやり、たいていは黙ってこなした。
「なんとか言えよ、この野郎! 口を開けば、ああしろこうしろって命令ばかり言いやがって!」
腕を捕まれて、振りほどこうとしたが失敗に終わった。たとえ疲れてはいても、腕力はソルのほうがずっと強かった。それだけガイルが非力だということだが。
「放せよ、俺はもう寝るんだから」
「親父になにを言われたのかは知らないけど、1人でいい子ちゃんぶりやがって。言いたいことがあるんなら、はっきり言ってみろ!」
今度は手を振りほどくのに成功した。ソルはそれだけ疲れているのだ。
でも、ガイルはやっぱりなんにも言わなかった。疲れているのはこっちだっておなじことだ。
「男のくせに文句一つ言えないのか?」
「黙って寝てろよ。それだけ元気があるんなら、食事の支度ぐらいやってみろっていうんだ」
日程はやっと半分だった。トラビスまでは多分あと4日はかかるだろう。
雨は相変わらず降らなかった。
1月4日、ガイルはソルに荷物を1つ持たせた。いちばん軽い奴だ。
進み具合は相変わらずで、ガイルはちょっとだけ、湿布薬がトラビスに着くまでもつのか心配になった。
それで、自分のほうからふっかけたくせに、ガイルは後ろめたさを覚えたが、かといって、いつか喧嘩したときのようにこっちから話しかけるのも馬鹿みたいに思われて、相変わらず必要なときにしか口を開かないようにしていた。
2人は気まずかった。なんでもいいから、ガイルはさっさとコーストに着いてくれたらいいのになんてことばかり考えていた。
「…なぁ、ちょっといいかな?」
明日はトラビスに着くだろう晩、ガイルが例によって黙って寝支度をしていると、ソルがいつもより下手に出て話しかけてきた。
「なんだい?」
毎晩ソルの足を按摩してやっていたもので、いい加減ガイルも腕が痛かった。
でも彼は、出歩くことができるからまだましで、水を探したついでに、しばらく腕を冷やしてくることもよくあった。
というより、最近は毎晩のことだった。
湿布はぎりちょんで、もう残っていない。ちょっとぐらい無理したって、明日はどうしてもトラビスに着かねばなるまい。
「俺もさあ、おかげでよくなってきたし、食事の支度ぐらい手伝えると思うんだ。俺にもやらせてくれないかな?」
「明日はトラビスに着くよ」
ぶっきらぼうに答えたものの、さすがにガイルも反省して、すぐにつけ加えた。
「でも、明後日から手伝ってもらえればいいかな」
「任せときな」
ソルが久しぶりに笑ったので、ガイルもつられた。
「…でも、水汲みは手伝えないと思うんだ」
「そんなこと動けるようになったら言いなよ。当分は俺がやるし、こればっかりは水源を探すこつってものがあるんだから、だれにでもできるわけってじゃないんだぜ」
彼はちょっぴり得意だった。
「いや、そういうこともあるんだけど……俺、こうして座っているだけでも怖いんだよ。〈結界〉を出るなんてとんでもない。水源を探しになんて、絶対に行けないよ…!」
ソルは一瞬口ごもって、すぐに意を決したようでつづけた。その表情から嘘でないことはわかった。
そしてガイルは、いきなりヘイズ氏と他の氏部族とのちがいを見せつけられて、呆気にとられていた。
ソルの言う「怖い」が、たとえば蜘蛛が怖いというのとはとうてい次元が違うことだけはわかった。こればかりは克服しようと思ったって容易じゃない、そういう類の恐怖なのである。
考えてみたら、モールニアでもトラビスでもファルコでも、日没後に外出するものは皆無だ。だいたい、通常ならばそんな時間は寝ているもののほうが多いくらいだ。
本当に緊急の用事でもないかぎり、出歩くものなどまったくないと言ってもよい。
ついでに言えば、雨の日の外出も敬遠される。人びとは、たとえ1ヶ月でも平気で家のなかにこもっているのだ。
ところがヘイズ氏は、人の命が関わっているという理由もあるのだが、昼でも夜でもおかまいなしに出かけるし、ファルコでは2ヶ月に一度、夜の集会も行われる。
ガイルにいたっては、夜だろうが雨だろうが、出かけることを苦にしてもいない。もっともこれは、祖父の墓に行くときだけだが。
この違いは大きかった。
ソルの恐れはもはや本能だ。
夜や雨の日は人間の活動圏外だという認識が先祖代々植えつけられている。それを取り払うことはすぐにはできないだろう。
人外−−−その言葉の意味を噛みしめさせられたのはこれが初めてだった。
ソルたちの使うそれには、本当に恐れがこもっている。
ガイルたちが使う意味とでは、根本的に違うのである。
「……そういうことならしょうがないよね」
ずいぶん経ってから、ガイルはぽつりと呟いた。
もう眠ってしまったのか、ソルの返事はなかった。
「こんにちわ、叔父さん」
「今月は少し早いが、どうした?」
「実は…これ、父さんから預かってきました。詳しい話は、これを読んでいただけませんか。俺たち、コーストまで行くんです、それ以上はあんまりうまく言えないんで。
叔父さん、彼はモールニアのラエル氏の息子のソルです」
「初めまして。ソル=ハリエットです」
叔父は頷いたきりで、にこりともしなかった。
「俺たち、叔母さんのところに行っているんで、なにかあったら呼んでください」
お客人はいなかったので、叔父は早速封を切った。
ガイルはソルの袖を引っ張って、急いで叔母のところに向かった。どうせ叔父に呼び出されるんだろうけれど、そのまえにちょっとでも休んでおきたかった。
「あらあら、こんな時期に来るなんて。ガイル、2人とは珍しいわね」
「すみません。でも、俺たち休みたいんです」
そう言ってから、ガイルは手早くソルを紹介し、彼も型どおりに挨拶をした。
「じゃあ、まずは水浴びでもなさい。2人とも、1ヶ月もうろついていたように薄汚れていますよ」
「ありがとうございます」
ガイルはいつ叔父が呼ぶかと案じて、気もそぞろだったが、水浴びが終わっても、遅餉を食べ終わっても来なかった。
トラビスの家にはいま3人の子どもたちはディーンしかいない。もちろん、婚約者のアニーナは一緒だ。ただし、2人は相当叔父に絞られているらしく、以前のようにガイルをちらちらと盗み見ることはなくなったし、2人きりの内緒話もしなかった。アニーナは相変わらず子どもっぽかったが、まえよりはましになったのだろう。
ミラがさんざん勘当されるんじゃないかと心配していたフィロンは、たしかメナンか、もっと奥のヘイズ氏の元で修行中である。
ガイルもソルも遅餉にはがっついてしまった。だって、モールニアを出てから、ずっと麦のお粥しか食べていなかったのだもの。
荷物を軽くしようと思ったら、どうしても糧食は穀類に絞られる。芋類なんて、嵩張るし、重たいし厳禁だ。そのうえ、水も節約しなくちゃいけないときには干し飯がいちばんだが、糧食としては最低で、腹一杯になることと、軽いことだけが取り柄だ。
「あーあ、久しぶりに肉なんて食べたよ」
とソル。
彼はすぐに指折り数えて、去年の9月と10月のあいだ、1年でいちばん昼が短くなる日の祭り以来だったということを発見した。残念ながら、今年は大晦日から元日の祭りが行われなかったため、2人ともずっと肉なんて見ていなかったのである。
「別にトラビスでだって、そんなに頻繁に食べてやしないよ。今日は、きっと叔母さんが気をきかしてくれたんだよ」
「ありがたい。
ああ、そうそう。ガイル、あのマイラさんて人、なにかあったのかな? 無理してはしゃいでいるように見えたけど」
「そう? 俺は気づかなかったけど……気になるんだったら、叔父さんに訊いてみればいいよ」
「ええー、やだよ、俺。あの叔父さんて、なんかおっかないんだもん」
「そうかなぁ。そんなことないと思う…けど…」
「ガイル…?」
杖をつく音が聞こえて、噂のスラン叔父が現れた。どっちにしても、この家で杖を使っているのは叔父しかいない。
「話がある。ソル、おまえにもだ」
「…父さんからの手紙のことですよね…?」
座布団を勧めると叔父は難儀そうに腰を下ろした。
「わざわざ来てもらわなくても、俺たちが行ったのに」
「動かないと身体がなまるからな。わたしもいい年だ」
ソルが緊張しているのがガイルにはおかしかった。それに、いつもなら彼はとっくに寝ている時間だろう。ちょっと眠そうな顔もしている。
「俺たち、明日には発つつもりです」
「わかっている。だが、トラビスからはだれも出せない。これから村人に募ったのではモールニアとおなじになるだろうし、その必要もない。だが、明日にはトラビス氏のところに挨拶をしていけ。詳しい話はわたしがする。
そう緊張するな、わたしは大した話をしに来たわけじゃない」
「叔父さん、俺たち、薬草と食糧を分けてもらえれば充分なんです。今月はファルコの交換会には行けませんけれど」
彼は頷いた。
「要るものがあればマイラに頼みなさい。だが、必要な話以外はしないことだ。いいね?」
「どうしてですか…?」
「あの、マイラさんはなにか悩み事でもあるんですか…?!」
ガイルが訊いたのに勢いづけられて、ソルはやけくそ気味に怒鳴った。
だがスラン叔父はそんな2人は睨みつけ、
「気をつけて行け」
と言ったきりであった。
2人はそろって肩を落とした。
「ごめん、俺が余計なことを言わなければ…」
「いいや、俺だって軽はずみだったんだよ。そんなことを訊いちゃいけないことくらい、わかっていたってよかったんだから」
ガイルとソルは顔を見合わせて、ため息をつき、どちらからともなく灯りを消して横になった。
訊くなと言われたって、叔父の言い方には含みがありすぎた。それでも、ガイルは好奇心に蓋をして、無理矢理に寝ついたのであった。
1月8日の朝は慌ただしく発った。叔母が、持たせようと思ったものを荷造りしていてくれなければ、出発は昼になったかもしれなかった。
叔父は朝からお客人とかで忙しく、見送りには来てもらえなかった。
そのかわりというわけでもないのだろうけれど、簡単な挨拶だけで済ませてしまった、おなじファルコ部族のトラビス氏の人たちが見送りに来てくれて、ソルはちょっぴり英雄扱いだった。
今日はソルも、荷物を背負っている。ガイルの荷に比べれば三分の二くらいのものだが、初日から見るとずいぶん進歩したのだ。
ソルを振り返ったガイルは、ちょっと歩調を速めることにしたのだった。
モールニア・トラビス間に比べると、トラビス・ファルコ間の街道は素晴らしいとさえ言える。よく整備されていて歩きやすく、ガイルはつくづく「街道はトラビスで終わり」なんだなぁと実感した。
ちらっとソルの顔を盗み見ると、彼はまだそんなことに気づくような余裕はないようだ。
でも、生まれてこのかたモールニアから出たことがなかったソルは、今度の旅でガイル以上に戸惑い、驚かされることが多いにちがいない。
それはソルに任せるとしても、ガイルはまた、以前のように彼と話せるようになったことが嬉しかった。かなり旅慣れしてきて、彼なりに余裕も出てきているのだろう。
でも、歩きながらしゃべることは、ガイルのほうで気をつけていなければならなかった。けっこう体力を消耗するので、彼はやっと上がってきた歩調を崩したくなかったのだ。
だからといって、夜になるとソルの口が重いのは相変わらずだった。
「この調子だと、明日はファルコで休めると思うよ」
「それはいいな。でも、またヘイズ氏のところに泊まるのかい?」
「そのつもりだけど…不都合でもあるの?」
「俺だって、一応ハリエット氏を代表して来ているんだからな。ファルコ部族の長にはちゃんと挨拶もしたいし、部族からなら、代表して同行する人も出るかもしれないじゃないか」
「じゃあ、そうさせてもらうかい? 俺はクラレンスさまに挨拶できればいいんだし」
「そうしようそうしよう。ファルコから先はガイルだって知らないんだろう? 案内してもらえればいいじゃないか」
案内してもらうといったって、ガイルはこんなにはっきりとした街道などで、迷うことになるとは思えなかった。
でも、これはヘイズ氏だけの問題ではないのだ。現に父は、同行者が増えるだろうと言っていたではないか。
「それよりもさあ、ファルコってどんなところかなぁ? おまえ、何回も行ってるんだろう?」
ソルは、ファルコのことを考えてわくわくしているようだった。できることなら、彼はトラビスでだってもう1泊したそうで、ガイルは有無を言わせずに発ったのだった。
トラビスで1泊なんかしたら、この先日程はどんどんずれる。どうせ最初から予定もあったものじゃなかったけれど、途中の町村で時間を無駄にはしたくなかった。
「な、話してくれよ」
ソルの期待に応えるのは少々辛かった。どんなふうに言っても、本当のことは言い表せないだろう。ガイルがちょっと言ったことも、期待しているソルのなかではどれだけに膨れ上がるかわかったものじゃない。
だから、ガイルはあれこれ頭をひねった挙げ句に、
「俺が余計なことを言っちゃうよりもさ、自分の目で確かめたほうがいいよ。だから、もう寝ろよ」
「えーっ! けちー、ちょっとぐらい話してくれたっていいじゃないかよぉ」
「だって、俺だってそんなにファルコのなかを歩いたわけじゃないもん。
町だよ、町!」
「俺はモールニアから出るのだって初めてなんだぞ。教えてくれたっていいじゃないか!」
「やだったらやだ! 自分で見ろって言ってんだ!」
「…ふんっ!」
翌日、2人は一言も口をきかずに出発した。
けれども、夕方遅く、ファルコが見えてくると、ソルのほうから先に謝ってきた。
「ごめん、おまえの言うとおりだった」
そら見ろとも言いにくくてガイルが黙っていると、
「俺、ちょっと浮かれてたんだ。遊びに出てきたわけじゃないのに」
「…いいよ、俺も言いすぎた。でも、俺、本当にファルコのなかのことは知らないんだよ」
「もう、いいや。だって、俺たち、これからコーストまで行くんだもんな! アダモン島で二番目に大きい町だろう? もしかしたら、ヴェラだって行くんだから!」
「そうだよ。ファルコぐらいで驚いてなんかいられないんだぜ」
「よぉぉし、俺、頑張る!」
そうは言うものの、ソルはやっぱりびびっていたのだろう。ガイルが手を握ってやると、ほっとしたような笑みを浮かべた。
まずは昨日の話どおり、先にクラレンス=ヘイズを訪ねた。
2人がファルコに入ったときにはすでに日没を過ぎており、ガイルがちょっと強く押せば、ソルは今晩もヘイズ氏の家に泊まることに同意しかねなさそうだったが、ガイルはそのことについては約束だから、黙っていることにした。
「こんばんわ、クラレンス」
「おやおや。今日はまだ9日ですよ。交換会には早すぎやしませんか?」
「実は薬草の交換に来たんじゃないんです。あの、詳しい話は父から手紙を預かってきましたんで、これを読んでもらえますか?
それと、彼はモールニアのラエル氏の息子、ソルです」
「初めまして。ソル=ハリエットです」
「ローレン殿からお手紙とは、いろいろと裏がありそうですね…それで、今日はうちに泊まっていくのでしょう?」
ガイルは強い味方を得た思いでソルのほうをちらっと見たが、彼はやっぱり同部族の長のもとに行きたそうだった。
「実は、今日はファルコ部族の長のところへお伺いしようかと思っているんですけど、案内をお願いできませんか?」
「うーん…それは難しいですね、ガイル。あなたたちがいまから伺っても、もう夕餉は終わったころでしょうし、もう寝てる方もいらっしゃるかもしれません。おやすみのところをお邪魔するよりも、明日にしても礼を失したことにはならないと思いますよ」
ガイルは再度ソルを見たが、クラレンスにそこまで言われたのでは彼の意向など、あってなきが如しだ。
「わかりました。じゃあ、突然ですみませんけれど、お願いします」
「どちらにしても、わたしは夕餉はこれから戴くところなんです。ファニーに言って、あなたたちの分も支度させましょう」
「ありがとうございます」
「ふふっ…あなただけならともかく、モールニアの村長の息子さんが一緒となれば、ローレン殿の手紙を読まなくてもなにかあるだろうとは思いますよ。
ガイル、いつもの部屋をお使いなさい。支度ができたら呼びに行かせますから」
「はい。行こう、ソル」
「ちぇっ、ついてないな」
部屋に2人きりになると、ソルががっかり半分、安心半分で呟いた。
彼の、夜には外にいたくないという気持ちは、部族への忠誠心よりもよほど強いものらしい。
「でもクラレンス…さまの言うとおりだよ。俺たちヘイズ氏は日没後だって起きているけど、ふつうはみんな寝ちゃうんだもん」
「そうだなぁ…俺だって、この旅に出るまえまではこんな時間に夕餉を食べるなんて思ってもみなかったもの」
「でも安心したんだろう?」
「ちょっとだけだよ」
ガイルはにやっとした。
それから、少しのあいだ、2人は今度の旅で見たものについて話した。いちばんの目玉はなんといってもモール地溝のことだった。
ソルはあの暗い穴に吸い込まれそうな気がした、と白状した。
それで、ガイルも好奇心にかられて、夜に地溝をのぞきに行ったと言ったが、ソルは呆れ顔だ。
「怖くなかったのか?」
「怖かったけど、1回見てみたかったんだ。でも、昼間でもあんなに暗いんじゃ、夜になればもっと暗いのは当たり前だよな。もう、いいかなって感じだけど」
「あんなとこ、もう1回だって見たくないよ。帰りにも渡らなけりゃならないかと思うとぞっとするなぁ」
「そう? すごく深いけど、あんなのただの穴じゃないか。俺さ、フィンクの多溝帯とかベーツの双地溝とかも見てみたいよ」
「えー! 地溝なんて見たっておもしろくもなんともないよ。帰りにだって、俺は絶対に付き合わねぇからな!」
「しーっ!
そんなにでかい声を出すなよ。モールニアとは違うんだぜ」
ガイルが指を立てると、ファニーがちょうど呼びに来た。
2人は首をすくめたが、彼女はそれを無視し、必要なことを伝えると、さっさと戻ってしまった。
どうも、ガイルは彼女に嫌われているような気がしてならない。「悪霊憑き」の噂も彼女は気に入らないのだろうが、もしかしたら自分では気づかないうちに、ずうずうしいことをしているのかもしれなかった。
が、確かめようにもファニーときたら、あの愛想のいいクラレンスの奥さんとは思えないほど愛想のない女性なのだ。ガイルはクラレンスとチェニーは好きだったけれど、どうにも彼女だけは好きになれなかった。
翌朝、朝餉もご馳走になって、ガイルとソルとはファルコ部族の長の家に向かった。
クラレンスは手紙のことはなにも言わず、発つまえにもう一度寄ってほしいとガイルに耳打ちした。
部族の長の家のまえで、2人ともいささか緊張していた。とくにソルときたら、いままではずっとガイルの付録みたいだったものだから、扉を叩くまえに二、三度口上を練習せずにはいられなかったほどだ。
それで、本番で扉を叩く役もガイルの分担になった。
「えーと、えーとっ…俺はモールニアの…えーと、ラエル=ハリエット、じゃない、えーっと…」
「落ちつけよ、ソル」
「えーっと、ハリエット氏の長、ラエルの三男、ソルです…!
人が一生懸命練習している脇でごちゃごちゃ言うなよ。それで、いいかな?」
「もう1回、最初から通しで言ってみな」
「よし…! えーと…俺は、モールニアの、ハリエット氏の長、ラエルとマーニャの三男、ソルです」
「…いいんじゃない?」
「よし、叩いてくれ」
ソルがあんまり真面目なので、ガイルは自分も緊張したり、逆に吹き出しそうになったりした。
でも、彼はちょっと呼吸を整えると、真面目くさった顔でゆっくり、しかし響くように扉を叩いた。あとはソルの出番なので後ろに下がる。
すると、ソルが一瞬情けなさそうな顔をしたが、すぐに唇をきゅっと引き締めた。
少し待っていると、扉はゆっくりと開き、おっとりした感じの初老の女性が姿を見せた。
「…どちらさまですか…?」
「あの…俺はモールニアのハリエット氏の長ラエルとマーニャの三男ソルです!」
「…まあ、それは遠くからいらっしゃたのねぇ…私はファルコ部族の長、ウィレムの妻のネネよ。そちらはお友だち…?」
彼女の返答は、だれに対しても一瞬遅れるのだということを、間もなく2人は知った。
「はい! モールニアのヘイズ氏、ローレン殿の息子のガイルです!」
「…まあまあ。2人とも、モールニアからいらっしゃったのね。おあがんなさいなぁ。いま、ウィレムに紹介しますからねぇ」
ネネはおっとりと2人の先に立ち、ガイルはちょっとだけ苛ついた。でも、彼だけ外で待っているというわけにはいかないので、ソルのあとからくっついていった。
ソルも、かなり気合いが入っていただけに、ネネには拍子抜けしたらしかった。
「…あなたぁ。モールニアから可愛いお客さまがお見えになりましたわぁ」
「それは珍しいこともあるものだ。ネネ、わたしの部屋にお通しして、お茶を持ってきておくれ」
「…はぁい」
やがて現れたウィレム=ファルコ氏は、がっしりした体格によく日焼けした初老の男性だった。
ガイルは、〈農夫と3人の屈強な息子たち〉の話を思い出した。
1回、たとえネネが相手とはいえ、予行練習をしたので、ソルも今度は淀みなく言えた。
2人は揃って挨拶をし、それぞれの父からの手紙を差し出した。
氏族や部族の長は、ヘイズ氏以外では読み書きできる貴重な存在である。もっとも、三男のソルや、そのすぐ上の兄のボリスには読み書きを学ぶ機会は与えられておらず、2人とも大多数の人びとのように文盲であった。長を継ぐのはふつう、長子と決まっているからだ。
ウィレムは、同時に手紙を受け取ったものの、どちらから先に読むべきか迷った。部族の長として、彼は氏族の長の手紙を優先させるべきか、すべてにおいて敬意が払われるべきヘイズ氏の手紙を優先させるべきか、どちらとも判断がつきかねたのである。
せめて、ガイルかソルかが、出す機会をうまくずらしてくれれば、先に渡されたほうを読んだのだが。
「ウィレムさま、ラエルさまの手紙を先に読んでいただくようにと、父が申しておりました」
気づいて、ガイルが助けを出す。
「それはかたじけない」
それでウィレムは読み始めたのだが、ガイルもソルも、座布団の上で居心地が悪かった。
読み終わった彼になにを言われるかわからなかったし、目上のものの許可もなしに勝手に退出するのは失礼であると、2人ともしつけられていたからだ。
だから、間もなく、おっとりとネネがお茶を運んできたときには心底ほっとした。
おっとりしているわりにはネネの入れてくれたお茶は熱く、2人とも冷ますのに懸命だ。ふーふーとうるさくして、ウィレムに失礼だとまでは考えがまわらなかった。
モールニアではお茶といったら鮮やかな緑色に決まっている。
しかし、アダモン島全島ではお茶の色は緑と茶色のあいだでさまざまに分かれており、お茶の色で出身地がわかるとまで言われることもあるくらいだった。
ファルコのお茶は、モールニアのお茶に慣れた2人には奇妙な色合いに写った。
だって、くすんだ緑色だったのである。ガイルは、クラレンスの家で飲んだお茶の色もよく覚えてはいなかった。お茶は、それほどに当たり前に飲まれる。
でも2人とも、先へと進むうちに、そのうちにお茶の色などを気にしていられるような余裕はなくなってしまっていったけれど。
「…あらあらぁ…ちょっと熱かったかしらぁ…?」
「ええ、でも、大丈夫です」
彼女はおっとりと微笑み、
「…よかったら、ウィレムが手紙を読み終わるまでに、もう一杯くらい、お代わりをいただく時間があると思うけど、いかがかしら…?」
「…いただきます」
ネネの言うとおりだった。
彼女は、2人の少年がやっとお茶を飲み干すと、やっぱりおっとりと出ていった。
ウィレムがローレンからの手紙にとりかかったのはそのあいだのことで、彼はまず、すっかり冷めたお茶を一気にぐっと飲んだ。
「ちょっとぬるいな…ネネ、ネネ! わたしには熱いお茶を入れてくれといつも言っているだろうに」
「…あなた、いまお代わりを持っていきますから、少し待っていてくださいなぁ」
「しょうがないな…」
それから、ウィレムはまた手紙に没頭した。
ネネが3人のお代わりを持ってきてくれたのに、また冷ましてしまいそうだ。
お茶はやっぱり熱くって、ガイルはネネがこっちの言ったことなんかちっとも聞いていなかったんじゃないかと疑わずにいられなかった。
そうでなければ、ウィレムが熱いお茶を要求したから、自分たちまで気が回らなかったか、だ。
お茶が冷めるのを待ちながら、ガイルは父がウィレムやスラン叔父、クラレンスらにどんな内容の手紙を書いたのか知りたいと思っていた。
が、それは無理な相談だ。彼はあくまでも父の代理に過ぎないからだ。帰って父に訊くよりほかにない。
さてウィレム氏は、結局2杯目のお茶も冷ましてしまった。
それで、手紙を読み終わってから、ネネが改めて熱いお茶を彼のために入れ、ガイルとソルはやっと冷めてきたお茶を啜った。
「待たせたな、ソル、それにガイル。だが、おかげでラエル殿とローレン殿のお志はしかと承った。
さてと。ガイル、昨晩はクラレンス殿に会われ、ローレン殿よりの手紙を渡したそうだな?」
「はい、そのとおりです。でも、俺たちが出かけてくるとき、クラレンスさまはこのことについてはなにも仰ってはいませんでした」
「うむ、そうであろう。ローレン殿はファルコでの人員派遣についてはわしとファルコ部族に一任したいと仰せだ。人員を割かれようにも、クラレンス殿のところではどなたも行かれないであろうからな。
ところで2人とも、最初の予定どおり、このままコーストまで行くつもりかな?」
「もちろんです!」
とソル。
「俺も、父からはこの件については任されています。コーストか、あるいはヴェラまでも行くつもりです!」
ガイルもすかさず答える。
2人とも、「ここまででいい」なんて、まさかウィレムは言わないだろうかと必死だった。
「うむ、おまえたちがそう答えるであろうと、お二方とも仰せだ。案ずるな、なにも、わしはおまえたちをここで帰そうなどとは考えてはおらん。
だが、今度の件は見てのとおり、アダモン島全体の問題でもある。よって、わしはファルコ部族の長として、改めて代表を1人選び、おまえたちとともに行かせるとしよう。この件に関しては、異論はないな?」
2人は思わず顔を見合わせたが、ソルは部族長の決定に異存を唱えるわけにはいかず、だとすればガイルだって、友だちのためには同意するよりなかった。
「わかりました」
「よろしい。
では、なるべく早く決まるように早速、集合をかけてみることにしよう。コーストかヴェラまでは長旅だ。旅慣れていて、おまえたちを無事に連れていけるような経験を積んだものはそう多くはないからな」
「お願いします、ウィレムさま」
「うむ。
それで、おまえたちには客室で休んでいてもらいたい。用があるときには呼びに行かせるのでな」
「はい」
「ではネネ、彼らを頼んだぞ」
「…はぁい。
さあ、2人ともいらっしゃい。お部屋に案内するわ。今日の昼餉は、ちょっと贅沢にしましょうねぇ」
ガイルは、ファルコに来て、自分の手から、今度の件がウィレムにさらわれたような気がして、表ではなんてことはないふうを取り繕っていたが、内心では目一杯不満だった。
結局、肝心なところは大人たちが手柄にしてしまうのだろう。それもヘイズ氏でもない他部族が。
だが、ソルに袖を引っ張られたので、彼は慌てて立ち、荷物も背負った。
「気持ちはわかるけどさ、俺たちじゃどうしようもないだろう。どっちにしたって、コーストに行ったら、おまえの氏族からも大人たちがしゃしゃり出てくるんだろうしさ」
「わかってるけどさ…おもしろくないじゃないか。それに、みんな、本当にこんな天気で大丈夫だなんて思っていたのかなぁ…?」
「うーん、モールニアは井戸が少ないからなぁ…」
でもソルは、それ以上の事情については知らなさそうだった。
なにしろ、元々勢いだけが動機みたいなものなんだから、事情に明るいはずがなかった。
でも、ウィレムの選択はやっぱり正しいのだろう。ガイルがちゃんと知っているのはファルコまでで、そこからコーストまでのことなどなんにも知らないのだから、どこで迷うかわかったものじゃない。
コーストか、もしもヴェラまで行くことになっても、案内できる人がいたほうが安心には違いない。
ガイルは座布団に座って足を投げ出した。
どうやら、今日は出かけられそうにない。ならば、せいぜい身体を休めておこう。
ウィレムが2人を呼んだのは夕方になってからだった。
揃ってうたた寝をしていた彼らにウィレムは苦笑したが、咎めるようなことは言わなかった。
「なぁ、あとでクラレンスさまのところに行こうよ」
「どうして?」
「俺も、ちょっと疲れたから」
「そうだな。ずっと俺の分まで荷物を背負っていてくれたんだし、按摩もしてくれたんだもんな。うん、行こう。
でも、暗くなってからは嫌だぜ」
「わかってるさ」
2人はこっそりとそんな相談をし合ったのだった。
ウィレムが連れてきた男はたった1人だけだった。まるで最初から心当たりがあったような話し振りだったのはそういう訳だったのか。
が、すぐにソルの顔色が変わった。
「まさか…ロング叔父さん…?!」
30代半ばの如何にも旅慣れていそうな男だった。悪く言えば、いかにも人の良さそうなウィレム=ファルコ氏とは対照的な、腹に一物抱えていそうな、裏と表のありそうな男だった。
彼はソルの言葉ににやりとし、ぱっと両腕を広げた。
「叔父さん!」
その胸のなかに飛び込んでいったソルは涙顔で、ガイルは説明を求めてウィレムを振り返った。
「ソルの母がファルコの出身でな。彼はその末弟なのだ」
「へぇー」
「ちょっとばかし、ソルを驚かせてやろうかと思ってな」
意外な事情に彼はびっくりしたが、ちょっとお茶目なようすのウィレムには、さすがあのネネさんの夫だと、変なところで納得していた。
「彼は旅慣れている。多分、ファルコどころか、このアダモン島でも彼ほど遠出するものはまずおらんだろう。問題はないね?」
「もちろん」
叔父と甥は、久々の対面を喜び合っていた。その親密さにはまだなにか事情がありそうだったが、ガイルはともかく明日の出発に備えてクラレンスのところに出かけて、事の顛末を説明した。
「そうですか…ウィレム氏の選択はきっと正しいでしょうね。ロング殿ならばわたしも知っていますけど、ファルコの方なのにファルコにいるほうが旅をしているよりも短いくらいですから。あの方は勉強熱心な方でしてね、読み書きもできると評判ですよ」
「ふーん。
でも、ロングさんて、そんなに旅をしているなんて、なにをやっているんですか?」
「わたしもよく知りません。というより、あの方を除いてはだれも本当のところは知らないんじゃないでしょうか。なんでも、あの方はずっと独身を通されていますからねぇ」
「へぇー」
「今回は、ソルくんと引き合うものがあったんでしょうかね。あなたたちが来る前日にひょっこり戻っていらしたんだそうです。でも、ロング殿が、あなたの友人殿の叔父上だとはわたしも知りませんでしたけど」
「でも俺、ちょっと嫌なんです」
「なにか、心配事でもあるんですか…?」
「……だって、俺とソルとで、いままでの11日間をけっこううまくやってきたと思うんです。それなのに、どうせ、俺はファルコから先は全然知らないから、しょうがないんだけど、ウィレムさんがファルコ部族を代表して、1人出すって、それがソルの叔父さんで。きっと、この先に行ったら、他の部族からも代表が出されるでしょう?
……俺って、わがままですよね…」
「そんなことはないですよ。だって、旅慣れていないソルくんがここまで無事に来れたのはあなたの力じゃないですか。ちょっとぐらい威張ってもいいと思います。それにあなたは、ローレン殿の名代で来ているんでしょう? それぐらいの誇りは持っていないとね…?」
ガイルはほっとして頷いた。クラレンスと話していると不思議だ。本当にいいんだって思えるから。彼は、いつもクラレンスに勇気づけられる。
でも、それではクラレンスは…?
「…すみません、クラレンス…さま」
「はい…? なにを改まっているんですか? いまさら、クラレンスさまもないでしょうに」
「だって、俺、いっつもいっつもあなたに甘えてばっかりで、いっつも勇気を分けてもらっているのに、あなたにはなんにもできなくて…」
「なにを言っているんですか。わたしはあなたよりずっと大人ですよ。わたしを見くびってもらっては困りますね。それとも、ガイルにはわたしがそんなに弱く見えるんですか?」
「そんなことないです! …ごめんなさい…」
「あなたのお気持ちだけ頂いておきますよ、わたしにも心強い友がいるってね。なぁんてね」
クラレンスが彼には珍しく悪戯っぽい笑みを浮かべたので、ガイルはほっとした。
「あのぅ、俺、もうウィレムさんのところに戻ります。今日はいろいろとありがとうございました」
「気をつけてくださいよ、ガイル。それに、明日は出発のまえには必ず寄ってくださいね。大したものはありませんけれど、旅に役に立ちそうなものを用意しておきますから」
「はい! 本当にありがとう、クラレンス!」
ガイルが走って戻ると、ソルはまだ叔父のロングと話し込んでいた。当然のことながら、客室には寝具が1組増えていた。
「遅いじゃないか、ガイル。クラレンスさんのところに泊まってきちゃうのかと思ったよ。そんなに話してきたのかい?」
「そっちこそ。まだ起きてるなんて思わなかったよ」
「だって、叔父さんと会うのはもう10年振りぐらいなんだもん。
それで、ちょっとだけおまえのことを話したんだ」
「なにを言ったんだよー?」
「へへー」
「おいおいソル、いい加減に彼をちゃんと紹介してくれてもいいんじゃないのか?」
ロングの表情からは、初めて見たときの狡猾そうなところは消えていて、ずっとくだけてて気さくな人柄に思われた。ガイルは、あれが自分の目の錯覚だったのかもと思ったほどだ。
「へへっ、ごめんなさい。
彼はガイル=ヘイズ、モールニアのヘイズ氏、ローレンさまの息子だよ」
「ほほぅ、モールニアか…ソルがいろいろとお世話になったそうだね。改めて、わたしのほうからも礼を言わせてもらうよ」
「そんな、お礼を言われるほどのことじゃないですよ。俺はヘイズ氏だから、ソルよりも旅慣れてたし、できることをしただけで」
「ということは、君はけっこう薬草とかに詳しいんだろうね?」
「まだまだ見習いです」
「明日からはわたしが一緒に行かせてもらうけど、これから行く町では、各部族の代表が合流することになるだろう。みんな、君に面倒を見てもらわなくちゃいけないようだな。よろしく頼むよ」
「とんでもない。こちらこそ、よろしくお願いします」
どうやら、彼とはうまくやっていけそうだ。そう思うと、ガイルは相変わらず複雑半分、嬉しかった。
一方ソルのほうでも、大好きな叔父と友人とが、この先うまくやっていけそうなので、安心したようだった。
翌日、1月11日、3人はファルコを発った。クラレンスが薬草をいろいろと持たせてくれ、注意書きも書いていた。
コーストはまだまだずっと先にあった。
旅をしてすぐに知ったのは、ロングの奇妙な持ち物のことだ。
彼はガイルやソルよりも背の高い、木を円弧状に曲げて弦を張った、弓と呼ぶものを持っていた。
彼はその弓に矢をつがえて射ち、兎や山鳥の肉を2人に食べさせてくれることがあった。それも獲物があれば、毎日でもだ。
肉なんて食べ慣れなかった2人は、やがて1日おきでも要らないと言うようになっていたが、ほしいと言えば、ロングはその日か、遅くとも翌日には食べさせてくれるのだった。
「おまえの叔父さんて凄いんだな」
「当たり前だろ。叔父さんは、狩人なんだぜ」
ソルは、いかにも覚えたての、その「狩人」という言葉を、心から得意そうに唱えた。それだけで、彼がどれだけ叔父に心酔しているかわかる。
けれどガイルは、ロングのことで一つだけ嫌な点があった。それは、彼がヘイズ氏が独占している薬草の知識を、あわよくばガイルから聞き出そうとしているところだった。
そんなときのロングはガイルが最初に見た狡猾そうな表情で、しかも決して露骨にはやらないのだった。なにか、肉や持っていった糧食以外に食べられるものを探してくると、そのなかに半分くらいの確率で薬草が混じっていて、彼はガイルにその名前や用途を訊ねるのだ。
「そんなこと知ってどうするんですか?」
名前ぐらいは気楽に答えていたガイルだったが、用途まで訊かれると警戒心がむくむくと首をもたげてきた。彼は、自分で言うのもなんだけれど、意外とそういうことには聡かったのだ。
「一人旅をすることが多いのでね。いくら知っていても知りすぎるということがない。村に戻って、ヘイズ氏の治療を受けられればいいが、それまでに間に合わないこともあるかもしれないだろう?」
むっとしたことをガイルは隠そうともしなかった。そっぽを向いてロングから離れたが、ソルが2人のやりとりをはらはらしたようすで見守っていたことまでは気を配る余裕もなかった。
けれども、そのことを除けば旅は順調で、ファルコを発ってから、エッダ、フィンク、セラム、ドリィ、ディレン、カンチャと1ヶ月のあいだに2つの町と、4つの村を通り過ぎた。
途中フィンクの町では、部族の長がやはり代表を1人出したいと言うので、1日ほど待たされた。
ここでもロングの名が知れていることにガイルはいささか驚いたが、ソルはもう得意そうな顔をせず、いつの間にか距離を置くようになっていた。
彼は、ヘイズ氏の友人よりも大好きな叔父をとったのだ。
フィンク部族の話し合いは、ハリエット氏族の失敗を受けて早めに終わった。実際、ガイルは代表を決めるまでに1日どころかモールニアでさんざんもめたようにもっと長く待たされるものと覚悟さえしていたのだ。
フィンク部族の代表は、長の弟のデューサー=フィンクだった。彼はロングのようにヘイズ氏の仕事にはまったく興味を持っておらず、この災厄が早く終わってくれて、以前のように働けることだけを望んでいた。
ロングは、そんなデューサーを面白味のない人間だとこき下ろしたが、表ではデューサーを敬うような態度を示していた。
気がつくと、ドリィを出発してから4日目には、もう2月に入っていた。雨は相変わらず降らなかった。切れ切れに降ることはあっても、以前のように1ヶ月もの雨期は来なかった。
ガイルはちょっぴり、このまま雨が降らないことを期待していた。
だって、そうでなければはるばるモールニアから来たのに、雨期がまえのようにちゃんと来たら、この旅の目的は失われてしまうからだ。
どうせなら、この際、コーストやヴェラをちゃんと見ておきたかった。
また彼は、意識してロングを避けた。もちろん、デューサーと話が弾むはずもない。
ガイルは少し孤独で、コーストのハザード=ヘイズが、まだ成人していないことを、ミラ抜きで切に願っていた。
実際、あれからまだ数ヶ月しか経っていないのだから、彼が成人できるわけはなかったのだが、ハザードが成人していなければ、きっとヴェラ行きに同行してくれるに違いない。
いつの間にか、彼らの目的地はコーストではなくてヴェラに移っていた。五大部族が一堂に会することなど、しごく希な話だ。そして、そうさせたのは他でもない、ロング=ファルコだった。
ガイルが父から預かった各地のヘイズ氏への手紙は、町や村に着くたびに1通ずつ手渡されていった。そして、そこのヘイズ氏からヴェラやコーストの長、副長宛の手紙を新たに託されて、結局手紙の数はちっとも減らなかった。
ソルがラエル氏から託された手紙のほうは減っていく一方だった。氏族の長たちは部族の長宛に手紙を書くことはあったが、そこから先に伸びることはなかったからだ。
そして、2月14日、一行はついに最初の目的地だったコーストに到着した。
「じゃあ、俺はヘイズ氏の副長のところに行きます。あなた方は、コースト部族の長のところでいいんですよね?」
「そうだな。いいですね、デューサー?」
「もちろんだ」
もはや彼らを率いていたのはガイルではなくロングだ。デューサーはロングとおなじくらいの30代半ばだったが、あまり旅慣れてはおらず、ロングが主導権を握ることに、異存は始めからないようだった。
ソル、ロング、デューサーと別れると、全然知らないコーストの町なのに、ガイルはほっとした。
道を行く人を眺めている暇もなくクレス=ヘイズ氏の家を訊ねると、案外簡単に見つけられたので、幸先がいいぞと、彼はちょっとだけ元気を取り戻しさえしたのだった。
「こんにちわー」
「はーい?」
「げっ…?!」
聞き慣れた返答にガイルはびびった。ここに来れば会えるのはわかっていたけれど、心の準備というものができていないではないか。
「ガイル?! ガイル、あんた、どうしてコーストなんかにいるのよぉ!
ハザード! ハザード? ねぇ、ガイルが来たわよ!」
「や、やあ…」
ミラは相変わらずだった。アニーナのように義理の父親であるクレス氏に絞られておとなしくなっているかと思ったのに−−−正直に言えば、それは期待半分というところだが。
彼女は遠慮なくガイルを抱きしめ、頭をかいぐりかいぐりした。
「やめろよ、ガキじゃないんだから」
「なーに、照れてんの、知らない仲じゃあるまいし。いらっしゃいよ、お義父さんとハザードに挨拶をしなくちゃね」
「わかってるよ、それぐらい…!」
と、ここでいつものミラなら、だれか−−−たいていの場合はスランだったが−−−に咎められるまでガイルに引っ付いているのに、今日はすぐに離れた。
「ふふっ…」
「なんだよ、気持ち悪いなぁ」
「あんたもあんまり大きくならないのね」
「当たり前だろ、あれからまだ3ヶ月しか経ってないんだから。それにこれからだよ、これから。いまにミラなんかぐんぐん追い越しちゃうんだからな!」
「せいぜい頑張んなさいな」
「ふんっ!」
ガイルが行くと、クレスもハザードも案外意外でもなさそうに迎えた。もちろん彼だって、ヘイズ氏のなかでも特別な力を持つ副長や長ならば、父以上に今度の事態を重く見ていて当然だと考えていなかったわけでもなかった。
「初めてお目にかかります、クレスさま。俺はモールニアのローレンとサリアの息子、ガイルです。
お久しぶりです、ハザード」
するとクレスのほうがわずかに笑みを浮かべた。そうとわからなければ、仏頂面にしか見えなかったが。
「遠いところからよく来た。おまえに会うのはなにもこれが初めてというわけではない。おまえの命名式はわしとヴェラのニール殿とで行ったのだからな」
「そうでしたか。
あの早速ですが、これを父から預かりました。それと、各地のヘイズ氏からもです」
ガイルが手紙を差し出すと、受け取ったのはハザードで、クレスもいままでのヘイズ氏のようにすぐに読み出しはしなかった。
「用件は大方察しておる。この気候について、精霊の知識を持つ我らと、ヴェラのニール殿の力を借りたいと言うのだろう?」
「そのとおりです」
「そのことについては、我らも去年より懸念しておったが、今年早々にニール殿より使いがあった。解決策があるので来てほしいとな」
「解決策?」
さすがは長だ。話はもうそこまで進んでいるとは。
「ところが、このハザードが待てと言いおった。おまえが来たのは2月も半ば、少々遅すぎたような気もしないでもないが、これで我らもヴェラに使いを出せる」
「だから待っていたほうがいいって言ったでしょう。去年の雨からこっち、ずっと異常気象がつづいているんだ。ヘイズ氏ならば、いずれおかしいと思うに決まっているとね」
「それもおまえが、トラビスで余計なことを吹聴してくるからだ。だが、今回ばかりは見逃さねばなるまい。
ハザード、ヴェラにはおまえに行ってもらうぞ。わかっておるな?」
「承知しています」
「すみません、クレスさま。あと、ファルコとフィンクの方々も一緒だったんです。コーストの長のところに行かれたので、四大部族もこの件には関心を持っていると思います」
「…ふむ、関心を持つなと言うほうが無理だろうな。だが、ニール殿からの使いについては、いくらなんでも我ら以外には知るまいな?」
「そうです。他のヘイズ氏にもばらしてはいません。
しかし、解決策とは大胆な仰りようだ。慎重なニールさまらしくないですね?」
「うむ…。
ガイル、ミラに案内させるから、コースト部族の長のところまで伝言を頼む。いつ発てるのか、クレスが知りたがっていたとな」
「はい」
どうやら、クレスはハザードとだけ話したいことがあるようだ。ガイルは例によって興味津々だったが、言われたとおりにするしかなかった。
コーストの副長の家はファルコよりも狭いぐらいだった。お客人が来るわけではないから、あまり広い家は必要ではないのかもしれない。コーストにはヘイズ氏の家は他にも2、3軒あるはずで、薬師としての技はそちらに受け継がれているはずだからだ。
「あっ、ミラ! ちょっと頼みたいことがあるんだけど」
「あら、どこ行くの?」
「クレスさまに、コースト部族の長のところまで案内してもらえって言われたんだ」
「なんだ、せっかくお茶を持っていってあげようとしたのに。あんた、コーストのお茶なんて飲んだこともないでしょ?」
「そりゃそうだけど、クレスさまとハザードは、なんか2人だけで話したいことがあるみたいだったよ。お茶はどっちにしてもあとにしたほうがいいと思うけど」
「…そうねぇ。
じゃあ行こうか? ついでにコーストのなかを案内してあげるわ。そんなにおもしろいものがあるわけでもないけどね。でも、モールニアからじゃ、今度はいつコーストまで来られるかなんて、わかったものじゃないでしょ?」
「そうだね」
ミラは、まずは目的地にさっさと連れていってくれた。
道行く人とは挨拶もなく、薬師の家ではないのだから、そんなものなのかもしれない。
「ほら、ここ。あたしはここで待ってるから、さっさと済ませちゃいなさい」
「そうする。
すみません、クレス=ヘイズさまの使いで、コースト部族の長に面会させていただきたいんですけど」
「ご用件はなんですか?」
ガイルがむっとしてなにか言い返そうとすると、すかさず、ミラが助けてくれた。
「クレス=ヘイズはヘイズ氏の副長ですよ。あなたがその用件を聞いてどうしようというのです? 彼はクレスの使い、あなたの役目は彼をコースト部族の長殿に会わせることだけです」
「こ、これはミラさま、失礼いたしました。仰せのとおりにいたします」
彼女は、呆気にとられて振り返ったガイルににやっと笑ってみせた。
ガイルはその偉ぶった若者のあとにくっついて、クレスの家とは比べものにならないくらい大きな家に入っていった。
多分、コーストの長だというくらいなのだから、コーストでもいちばん大きい家なのだろう。何故か、床下だけは平均的な1メートルにはとうてい足りないようだったが。
家のなかに入って、初めてガイルは旅の汚れを落としてくるべきだったなんて思った。これでは警戒されるのも当たり前だ。だって、あんまりぴかぴかに磨いてあって、立派な家だったから。
でも、ソルたちは多分、そんなこともしないで、ここを通ったはずだった。ガイルはちょっとだけ心細くなって、この際ロングでもいいからお目にかかりたいなんて思っていた。
「失礼いたします、奥方さま。
ヘイズ氏のクレスさまの使いの少年が奥方さまにお目にかかりたいと申し上げております。よろしいでしょうか?」
(おくがたさま…?)
聞き慣れない言葉にガイルは目を白黒させた。
「謁見室にお通ししなさい」
おくがたさまだなんて、どんな得体の知れない人物かと思いきや、返ってきたのは柔らかい女性の声だった。
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
否も応もない。ガイルは若者に案内されてえっけんしつとやらに連れていかれ、ここでも一悶着を起こすところだった。
「膝をついてお待ちしなさい」
と彼が言うのだ。
「どうして膝なんかつかなくちゃいけないんです?」
もちろん、ガイルは即座にこう答えた。
「立ったままでは失礼に値するからです。奥方さまがいらっしゃったら、頭を床にこすりつけて、口上を述べるように」
「冗談じゃない! 俺はヘイズ氏です、ヘイズ氏の長がそう言えば従いもしますけど、コーストの作法になんて従えません! おくがたさまだの、えっけんしつだの、いい加減に−−−」
「なんだと、小僧! ここをどなたの−−−?!」
「おやめなさい、ルーアン」
「お、奥方さま…! これはおいでとは気づきませんで……」
「お客人の言うとおりですよ。さあ、あなたは下がりなさい」
「はっ、しかし…」
「下がりなさいと言ったでしょう。聞こえなかったのですか?」
「はい! 申し訳ありません」
彼、ルーアンは、ばたばたといなくなった。
「ごめんなさいね、クレスさまの使いの方。彼は私への忠義のあまり、みなにその姿勢を強要するのです」
現れたのは、母よりも年上で、マイラほど老けていない、髪の毛に白いものが混じり始めたかという年齢の女性だった。彼女はおなじ部族の女性でも、ネネとはずいぶん違うが、それも長だからなのだろうか。
彼女は新品の座布団を勧めて、自分も腰を下ろした。
その尊大な態度を見ていると、よっぽどガイルは、さっきのルーアンのちゅうぎとやらは、彼女自身のせいじゃないかと言いたくなった。
「ようこそ、私がコースト族の長、メリラ=コーストです」
「初めてお目にかかります。俺は、ヘイズ氏のクレスの使いで、モールニアのローレンとサリアの息子、ガイルです」
「まあ! それではロング殿やデューサー殿の仰っていた、若きヘイズ氏の使いの方とは、あなたのことだったのですね?」
「はい」
「でも、残念ながら、あなたの話をゆっくり伺っている時間はないの。私は話をロング殿より大方伺いましてコースト部族としてはどうするべきか、、1人で検討していたところでしたから。
それで、クレスさまはなんと仰っていて?」
「クレスの息子、ハザードがヴェラの長、ニールのもとに伺います。コーストの代表の方は、いつヴェラに発てますかと言っていました」
「それはありがたいこと。
クレスさまは常々秘密主義なんですよ。私、せっかくファルコ族とフィンク族の代表の方が来てくださったのに、今回も仲間外れにされてしまうかと思っていましたわ。いらっしゃって早々、あなたはクレスさまのところに行ってしまわれたと伺いましたものでね」
「はぁ……」
「でも、せっかくだけれど、クレスさまをお待たせしてしまうことになると思うわ。ヴェラに行くにはやはり、責任を果たせるものでなくてはね。コースト族としては、やはり代表を担うに相応しい人材を選ぶべきだと思うのよ。そうじゃなくて?」
ガイルはメリラの勢いに負けた感じで曖昧に頷いた。
「ですから、このように申し上げてちょうだい。お声をかけていただいて大変光栄に存じておりますが、人員が早急には決まらないので、今すぐには返事を致しかねます。私のほうから連絡を差し上げますので、それまでどうぞお待ちください、とね。
よろしいかしら?」
「え、ええ…」
ガイルは口のなかでもぐもぐと復唱しようとしたが、なにしろメリラときたら、こっちの知らない言葉ばかり使うので、半分以上もちゃんと伝えられるか不安でしょうがなかった。
案の定、彼女は口元を手で隠して笑い出した。
「ほほほ…可愛い方ね。
そうですわ。私の言うことを正しく復唱しろというのが無理というものですのね。申し訳ありませんわ、せっかく来ていただいたのに。気のきかないこと、許してくださいね」
「は、はぁ……」
「でしたら、私のほうから使いを出します。ちゃんと、私の言葉を、一語一句復唱するものがいますのよ。それしか能がないんですけれどね。
ですから、あなたは心配なさらないで、ちゃんと私が使いを出しますからね」
「…すみません」
ガイルが恐縮して出てゆくと、メリラが鈴を鳴らすのが聞こえた。彼女の命令を出す声は威圧的で、彼はなにか、本当に遠いところに来たんだなぁと初めて実感した。
外に出ると門のところにいたのはさっきの忠義面した若者で、ミラの手前、ガイルには文句も言えないようだったのが小気味よかった。
「どうしたの、ガイル? なにか変なことでもあった?」
「ううん、なんでもない。さ、行こうよ、コーストの町を案内してくれるんだろう?」
「そうね」
ミラはコーストの案内をすると自分で言い出したとおり、コーストのなかのことはたいてい知っていた。めぼしい建物がいくつかあって、コーストの氏族の長の家だと言うのだが、メリラ=コーストの家ほど、大きくて偉ぶっている家は他にはなかった。
ガイルがいちばん興味を引かれたものは、町中にはなかった。コーストのあまり使われていない西門の外から眺めた、細く長く、断崖からコーストにまで切り込んだ湾だった。そして、その向こうに広がった大海原であった。
「あれが海…!」
崖の上には田畑もなく、だれも利用することがない土地なのか、膝丈以下の草がまばらに生え、丸い岩がそこらに転がっていた。
耳に聞こえるのは、遠い波の音と、足下から轟く湾に打ちつける波の音、鳥の鳴き声に首を巡らせれば、弧を描いて遥か頭上を飛ぶのはなんという鳥だろう。
ガイルは、生まれて初めて歩いたときのように、ゆっくりと崖のほうに近づいていった。
それにつれて、湾を囲む断崖絶壁に向かって、激しく打ちつける波飛沫が見えてきた。
海面は何百メートルも下方にあるというのに、波は崖の高さを越えてしまうのだ。
その力強さを彼は実感した。
そして初めて嗅いだ潮の臭いが鼻を刺激した。
けれども、ガイルは思いきり深呼吸して、海の彼方にまで届けと叫んだ。
「おおーい!!」
波の音は、そんな彼の大声さえも消し去ってしまったのだけれど。
「あんたって、どうしてそう次から次へと変なことばっかり思いつくのよ!!」
ミラが、波に負けじと叫んだ。
「変…? 気持ちいいよ、ミラ。君もやってみればいいのに」
「子どもみたいな真似、できるわけないでしょ! あたしは、ヘイズ氏の次の副長、ハザードの妻になるんですからね!」
「ちぇーっ! 自分だけ大人になったみたいな言い方してらぁ」
「あたしは大人だもの。その証拠に婚約者だっているわ。あんたなんか、あたしより小さいし、第一年下じゃない…!」
挑発的な言い方にガイルはかっとした。ミラがそんな物言いをすることなど、ついぞなかったのだが。
「小さい小さいって言うな!」
ガイルが飛びかかると、ミラは簡単に倒された。
「離してよ!」
彼女はもがいたが、自分でも意外なほど、ガイルの力はミラに優っていた。
それで、ミラも終いには諦めたのか開き直ったのか、ガイルを真正面から見据えた。
逆にそうされてガイルのほうが赤面した。つい勢いで彼女を押し倒したものの、そのあとでどうするかという予定はまったくなかったもので、そそくさと立ち上がった。
「意気地なし…!」
ミラは、草を払いもせずに、立ち上がるとまず叫んだ。
彼女は走ってコーストへ戻っていってしまい、いつかのように、またガイルだけが残された。
もう追いかける気にもならなかった。
ガイルは自己嫌悪に苛まれて座り込み、膝を抱えて海と湾とを交互に眺めた。
日没が迫っていた。
彼は、夕陽が沈むまで見ていて、ゆっくりとクレスの家に戻った。
ミラと2人きりになることは、たとえ彼女が結婚しても、ガイルが結婚しても、もう二度とないだろう。彼は自分にそう言い聞かせた。彼女は仲良しの従姉じゃなくなったのだ。
今更ながら、「意気地なし」の意味がわかって、彼は再度赤面したが、ちょっとだけ涙がこぼれた。
「どこに行っていたんだ、ガイル?」
気がつくとクレスの家のまえで、玄関口まで出てきたハザードと鉢合わせした。
彼は怒ったような物言いで、ガイルは今更のように、ここはコーストで、モールニアでないことを思い出した。
「すみません…海が見たくて、遊びに行ったんです」
「よく1人で帰ってこれたな。あんまり遅いから、探しに行こうかと思っていたところだよ」
「ごめんなさい…」
「メリラからの使者はさっき来たよ。それはいいけど、おまえ、遅餉に食いっぱぐれたことはわかってるのか?」
「……おなかすいちゃった」
「言うと思った。まったく、ミラのやつだけ1人で帰ってくるからどうしたかと思った。
さあ、俺の部屋に来いよ、ちゃんとおまえの分ぐらい残してあるからさ」
「ありがとう、ハザード!」
コーストでは、魚料理が出た。ガイルはすっかりお腹が空いていたので気にしないで食べたが、実際に食べたものの形を聞かされると、妙な気持ちだった。
「変なやつだな。食ってるときはなんともなくて、言われたらおかしくなるのか?」
「そんなことないけど…だって、魚なんか、食べるの初めてだったんだもん」
「まあいいさ。
でも、おまえがすぐに帰ってこなかったせいで、またミラが叱られたんだぜ。まったく、親父の頭の固さときたら参るよ、ああいう娘は、さっさと結婚しちまったほうが早く落ち着くと思うんだけどな。子どもでも造ってさ、母親にでもなってみろよ、きっと人が変わったようになっていると思わないか?」
「俺に言われたって困るよ。こっちには婚約者だっていないっていうのに。
でも、俺、本当のことを言うと、ハザードがまだ婚約してなくてほっとしたんだよ」
「ふーん…それはなにかありそうだな。どうかしたのかい?」
ガイルはちょっとためらったが、ハザードにロングのことを話した。なにしろ、1人でも味方はいてくれると心強いものだ。
「……ロング=ファルコか。そいつの名は、コーストでも聞いたことがあるぜ。お目にかかったのは今日が初めてだがね。ソル=ハリエットとかいう坊主と一緒に来て、おまえを探しているとか言っていたっけ。
しかし、そんなに問題のあるやつなら、おまえはいなくて正解だったな」
「ねぇ、どうしよう?」
「おまえ、明日も留守にしてな。ロングというやつは、だいたい昔から胡散臭いやつだと思っていたんだ。30過ぎても結婚しないなんて、他の部族では考えられない。絶対なんかあるとは睨んでいたが、まさかヘイズ氏の仕事に首を突っ込もうとはな。
気をつけるんだぜ、ガイル。俺たちはいままであんまり警戒してこなかった。薬師の仕事はヘイズ氏のものと、決めてかかっていたんだ。
でもそうじゃない。もしかしたら、ロングに限らず、似たような考え方のやつはもっといるのかもしれないぜ。それで、虎視眈々と俺たちの知識を狙っているんだ。
親父にも相談してみるよ。それに、ヴェラのニールさまにもな。さあ、今日はもう寝ろよ。そんなに心配すんなって」
「ありがとう、ハザード」
それからというもの、ガイルは毎日海を見に行った。メリラの使いが来るまでは3日ほどかかり、その間中コーストの西、断崖の上に1日でも座っていたのだ。
海は見飽きるということがなかった。
ガイルの好奇心はこの大きい獲物をまえにしてもひるむことがなかったが、海は広く、深く、彼の知識欲を受け入れて満たしてくれるようだった。
風の強い日には波が高くなり、真っ白い泡が崖のうえまで飛んできた。ガイルが慌ててそれを取りに行くと、泡はすぐに風に飛ばされてしまった。
かと思うと、凪いだ日にはまるで海は鏡面のように輝き、青い空を写してなお青く見えた。青も森の緑のようにおなじ色ではなかった。日によって、場所によって、海の色はさまざまな青に変化し、濃淡があって、ときどき魚が跳ねるのが小さく見えた。
空には鳥もいた。白くて、飛んでいるさまは三日月のように細くきれいな弧を描いている海猫、黒くて集団で飛んでいるのはなんていう鳥だろう。
ときどき海に飛び込んでいく鳥もいる。再び空に舞い上がったときには、嘴にはしっかり魚をくわえていた。
けれど、ガイルがいちばん興味を抱いたのは、海そのものではなくて、海の向こうになにかあるのか、あるのだとしたら、それはなにかということだった。
祖父から聞いた伝説の舞台は、その多くがアダモン島ではなかった。ということは、このアダモン島以外にも他に陸地があるのだ。そしてそこには、話に聞いたような異様な光景や怪物、伝説の英雄もいるのに違いなかった。
そんなことを夢想してみるのは楽しかった。小さいころから、空想はいつでもガイルのいちばんの遊びだったから。その世界でこそ、彼は自由でいられたのだ。
メリラの使者は2月17日に来た。彼は、メリラのあのわけのわからない、意味不明の言葉ばかりの伝言をしっかりと復唱して、
「なにか言づてがございますれば、奥方さまにお伝えいたしますが」
と言った。
「おまえでは埒があかん。ハザード、ついてこい、メリラに会いにいくぞ!」
「はいっ!」
「クレスさま! 奥方さまはわたしに−−−」
「そこを退け!」
ガイルは呆気にとられて、ばたばたと出かけていく3人を見送った。
ミラに気づいて、慌てて彼らを追いかける。彼女と2人きりになるのだけは避けなくちゃいけない。
それにしても、メリラはいったいどういうつもりなんだろう。
コースト部族の代表に自分を出すとは−−−。
クレスが精一杯急いで歩いて、メリラの屋敷に行った。
そして、門番の若者が止めるのを怒鳴りつけて退かし、メリラと丸々1日も直談判に及んだ。
ハザードもガイルも、くっついては行ったものの屋敷に入ることはできず、しかもハザードはガイルは先に帰した。
「どうして?」
「多分、話し合いは長引く。俺は親父を連れて帰ってやらなくちゃいけないから待っているけど、おまえまで付き合うことはないさ」
「別に一緒に待っていたっていいのに」
「親父が嫌がるんだよ、そういうのは。おまえは一応お客なんだから、あの人は形式にこだわるの。
わかったら、さっさと帰んな」
「じゃあ、俺は出かけてくる」
海をもう1日見ることができるのは嬉しくもあったが、もうそろそろ出かけたくなっていたので、さっさと決着がついてくれればいいのにとも思った。
そしてクレスとメリラの話し合いは、結局はメリラの全面的な勝利で終わった。
彼女の意志は覆らず、しかも旅慣れていないメリラが1人馬に乗り、従者まで連れてくるというのだ。
もっとも、馬はともかく、お供がついてくるのはガイルは内心では大賛成だった。だって、そうでなければ、彼らがメリラの面倒を見なければならなくなってしまう。しかもそのお鉢は、薬師だからとガイルに廻ってくる可能性が高いのだ。彼は、それだけは是非とも避けたかったからだ。
もっとも、ハザードはこうなることを承知していたような素振りだった。彼は、ガイルが文句を言ったときに答えたものだ。
「しょうがないさ、そんなこと言ったって。なにしろ、コーストはメリラの町なんだ。彼女に逆らえば、いくら親父がヘイズ氏の副長だからっていったって、どうなるかなんてわかったものじゃない」
「そんなのおかしいじゃないか。町はだれのものでもないし、メリラはコーストの長で、ヘイズ氏には赤の他人なんだよ」
「ところがどっこい、モールニアみたいな田舎ではわからないだろうけどね、コーストはメリラのものなのさ。だからこの町じゃ、みんな喜んで彼女の言うことには従うってわけだ」
「卑怯な話だな、それって」
ガイルはちっとも釈然としなかったけど、いくら言っても無駄なことはわかっていたので、これ以上は黙っていることにした。どうせメリラは自分の思いどおりにするのだ。でも、納得などしたはずもなかった。
結局、一行は総勢7人に増えた。ガイル、ソル=ハリエット、ロング=ファルコ、デューサー=フィンク、ハザード、メリラ=コーストとその従者ラーナである。
彼らが発ったのは2月19日、本来ならば雨期も半ばで、ガイルがコーストに来てから6日目のことだった。
コーストを出てからは深く切り込んだ湾を迂回して街道が延びている。
ヴェラまではナカナという村が途中にあるのだが、ナカナはコーストとヴェラにいちばん近い村とは思えないほど小さく、活気もなかった。
だから、ガイルはコーストからヴェラまでの10日間のことはあんまり覚えていないのだ。むしろ、その半分くらいで行けるはずだった距離が、メリラ1人のせいでとても時間をくったというほうが印象に深くて。
メリラは馬だからよかったが、その従者のラーナが全然コーストを出たこともない娘で、まともに進むことができなかったのである。
しかも、一行のなかで薬師の知識を持っているのはガイル1人で、結局彼は、自分がメリラの面倒を間接的に見ていることになってそれが嫌だったのだ。
そして、事件はそれだけでは終わらなかった。
明日はヴェラに着くという晩、ガイルはさすがに興奮して眠れなかった。ここまでの道のりと遠いモールニアを思うと、身体は疲れているのに、眠たくならなかったのだ。
それで、彼はぼんやりと月を眺め、星を見上げていた。
この際、クレスやハザードの心配は後回しだ。ニールが解決策を持っているというのなら、それでいいじゃないか。すべての町や村が水不足に喘いでいたのだ。コーストのような大きい町にいるとその実感はないのかもしれないが、旅の目的はそもそも最初からこの異常気象と水不足の解消だったのだから。
「ガイル、ちょっといいかな?」
「このまえの話ならお断りですよ、ロングさん。お話がそれだけなら、もう寝たらどうなんですか?」
けれども、ロングはずうずうしくも隣に腰を下ろした。
ほかのみんなは寝ているようで、静かなものだ。
「なにも話はそれだけとは限らないさ。
まったく、君は生意気だね。大人に対する礼儀をヘイズ氏では教えてはいないのかな」
「大人だからって闇雲に敬えばいいとは限りません。俺は敬意を払うべき人にはちゃんと払います。でも、あなたがそれに値しているとは思えませんけど」
「そんなことを子どもが決めるのが間違いなんだ。ましてや君はまだソルと同い年じゃないか。君の両親は、よく勝手なことを許しておくね」
「俺は子どもじゃありませんよ。それに、推測で勝手なことを言うのはやめてください」
「君が子どもじゃないなんて、だれも認めやしないよ。たとえヘイズ氏が特別だとしても、君はまだまだ子どもさ。
だいたい氏族だの部族だのと、馬鹿馬鹿しいと思わないのかい? 君は一生ヘイズ氏に仕えて生きていくつもりか?」
「それであなたのようになるんですか? 余計なお世話です。それに、あなたの言い方はヘイズ氏を侮辱しています。ヴェラに行ったら長に訴えますよ」
「じゃあ、君は足の腱を切っても平気だと言えるのかい? そら、顔色が変わったな。それが真実さ、ガイル。氏族だの部族だなんて厄介なのがある限り、我々はどうあがいてもそこから逃れることはできないし、この島に縛りつけられなくてはならないんだ。その筆頭がヘイズ氏だっていうことになぜ気がつかない? 君は大馬鹿者だよ」
「俺が馬鹿ならあなたは卑怯者じゃないか…!
あなたが寝ないっていうのなら俺が寝る。もうかまわないでください」
けれども、勢いよく立ち上がったのに、いきなりロングに腕をつかまれて、ガイルは思いきり尻餅をついた。
「なにするんだよっ…?!」
「しーっ! みんなが起きるじゃないか。さあ、いちばん簡単なものでいいんだ。ちょっとした傷を治せるくらいのでね。わたしにはそれが必要なんだ、わかるだろう? わたしにはとても切実な−−−」
「なにをやっているんだ、ロング=ファルコ殿?」
「ハザード…!」
「わたしはただ…」
「お話し中申し訳ないが、あなたのしていることはバウアーの誓約に反している。我々はどの氏族の方々にもヘイズ氏の持つ技や知識を教えるつもりはない。例外は造らない。諦めていただきましょうか。
ガイル、来なよ」
「ありがとう、ハザード」
ガイルは急いで彼のもとに行ったが、その向こうにメリラが立っているのを見てぎょっとした。
「起きていたんですか、メリラ殿…?」
「いいえ。お話しする声が聞こえたので目を覚ましてしまったんだわ。興味のあることなので黙って聞かせていただいたんですけれど、あなたもガイルももう寝てしまうと言うのでね。
私にも一言言わせていただいてよろしいかしら…?」
「コーストの長ともあろう方が、盗み聞きとはあまりいい趣味ではないですね。けれど、いくらあなたでも俺の答えはおなじですよ、否です」
「あなたに訊こうとは思っていませんわ。私もコーストには長いですからね、あなたやクレスさまが薬師としての知識はお持ちでないことぐらい見当はつきますもの。
でもそちらの坊や、あなたなら知っているわねぇ…? 私がコーストの主人だってことを軽く考えないほうがよくってよ、2人とも」
ガイルはハザードの顔色を伺ったが、暗いので彼がちょっと緊張しているらしいということぐらいしかわからなかった。
「どちらにしても、明日はヴェラに着きます。あなたがコーストの長だと言われるのなら、我々ではなく、ヘイズ氏の長と話し合っていただきたいですね」
ハザードの言葉は理に叶ったものだった。それだけに、メリラもロングも憎々しそうな顔をしていたが、彼らが部族の代表であるということを自身に思い出させたようだった。
もはや2人ともガイルとハザードを引き止めようとはしなかったし、できなかった。
けれどガイルは、そうでなくても異常気象という問題を抱えて、遠い故郷では人びとが飢えと乾きに苦しんでいるだろうというときに、これ以上関係ないところでもめ事を起こしてはほしくなかった。
腹にそれぞれ一物抱えた一行がヴェラに入ったのは、蝗の年14年目の2月末日。
ガイルは、遠くモールニアから2ヶ月もかけて旅してきた日々を思わず振り返らずにはいられなかったが、これからが本番であった。
ヴェラに入ると、一行はヘイズ氏の長宅に向かうガイルとハザード、ヴェラ部族の長宅に向かうソル、ロング、デューサー、メリラとラーナとに別れた。
別れて早々ガイルはハザードになにか言いたかったのだが、目で制されたので黙ってあとにくっついていった。
ヘイズ氏の長、ニールがどんな人かはガイルはまったく覚えがなかった。そりゃあそうだ。赤ん坊のころに会っただけでは相手が覚えていても彼が覚えていられるわけがない。
ただ、彼がもしもクレスに「解決策がある」と連絡をしたのなら、いっそそいつを持ってアダモン島全島を巡回してくれればよかったのに、とも思っていた。
そうなればこんなところまで来る機会は、この先二度となかったろう。
ヴェラのヘイズ氏の家は、質素でコーストの家と似たような造りだった。メリラの屋敷にうんざりしてガイルは、ヴェラの町中にも大きな屋敷を何軒か見つけていたので、小さいというだけで安心して好意が持てた。
2人が行くと、現れたのはクラレンスぐらいの独身の男だった。でも彼は奇妙なことに杖を手にしており、ガイルは首を傾げずにいられなかった。
彼に案内され、ニールの待つ部屋に通された。そのまま彼は退室するのかと思ったのに、ニールが手招いた。
「遠いところからよく来てくれました、ガイル。それにハザード、お久しぶりです。これはラングレイ、わたしの跡取りです」
「…?!」
「こんにちわ、ラングレイさん。俺はモールニアのローレンとサリアの息子、ガイルです」
「初めまして、ハザード、ガイル」
「…早速ですが、ニールさま。解決策というのはいかなるものなのですか? すでに、この件に関しては他の四部族も動いております。俺が伺うのが遅くなって申し訳ないのですが、一刻も早い解決を、人びとは望んでいると思います」
「それについては、ラングレイのほうから説明させましょう。わしも身体が弱りました。本来ならばラングレイをアダモン島全島に派遣するべきなのでしょうが、果たして内陸のほうでいかなる状況になっているのか、わしらにはなかなか伝わってまいりませんし、まだラングレイの婚約者も決めていない有り様です」
「では、早速ですが、表に出ていただけますか?」
「あの、ラングレイさま、待ってください。四部族が動いているっていうのは、俺たち2人だけでヴェラに来たんじゃないんです」
ガイルは途中はしょったり戻ったりしながら、いままでの経緯について話した。ハザードは口を挟まず、ラングレイの顔をそれとなく見つめ、不意に目をそらしてニールと話したかと思うと、またラングレイに視線を戻すのだった。
ラングレイはヘイズ氏には珍しく色白だった。ヘイズ氏に限らず、アダモン島では肌はみな浅黒いと相場が決まっていて、彼のような白い肌のものはガイルも見たことがなかった。それに、大人でもないのに杖を持っていることも奇妙だった。
けれども彼は、ガイルの話に一つひとつ頷いてみせ、穏やかなニールと似たような印象を与えてもいた。
ガイルの長い話が終わると、ニールが一つため息をついた。彼は昨晩のことまで包み隠さずに話したからだ。
するとラングレイが、自信たっぷりなようすでニールの手を握って微笑みかけた。
「ご安心ください、お父さん。この天候に悩まされているのはどこの町や村でも変わりはありません。メリラさんやロングさんという方々が余計なことを言い出すまえに、わたしたちのほうで先手を打たせていただきましょう」
「そうでしたね…そのための技です。
さあ、ハザード、ガイル。ラングレイと一緒に行ってください。あとは彼がうまくやるでしょう」
「はい」
素直に答えたガイルだったが、改めてハザードのようすを伺うと、とても楽しいとは言い兼ねた。むしろその視界には、ガイルもニールも入ってはおらず、ただラングレイだけを見つめていた。
けれども、ハザードの視線に気づいているのかいないのか、ラングレイは終始穏やかな表情を崩さずに、微笑んだままであった。
どこかぎくしゃくした雰囲気のまま、3人はヴェラ部族の長の家へと向かった。
ロングやメリラよりもさらに狡猾そうなヴェラの長だったが、ラングレイは簡単な挨拶を済ませると先手を打った。
「みなさま、このヴェラまでわざわざおいでいただいたのはこの異常気象のためだとか。どうぞ、わたしと一緒にいらっしゃってください。あなた方の悩みを解決してさしあげましょう」
ラングレイを先頭に、ぞろぞろと大集団が動いた。最初は10人くらいだったのに、何事かと興味を抱いたヴェラの町の人びとがついてきたのだ。それはどんどん膨れ上がり、ガイルは気がつくとラングレイからすっかり離れてしまっていた。
「ちょっとこっちに来いよ、ガイル」
「え? ハザード、ラングレイさんから離れていっちゃうよ」
「大丈夫だよ、すぐに追える。だいたい、同族の俺たちがいなくて、ラングレイが始めるものか」
「もう、なんだっていうのさ」
コーストに比べてもヴェラの人口は桁違いかと思われるくらいに多かった。そのヴェラ中の人が集まったのかと思えるような人数で、ガイルはハザードに手を引かれて、人混みを抜けるのにえらい苦労させられた。
「なんの話だい?」
「…ガイル、あのラングレイは偽物だぞ」
「え…?」
「俺は彼とは1回しか会ったことがないが、あんな奴じゃなかったぜ」
「だって…じゃあ、どうしてニールさまがなんにも言わないんだい? それに、どうして俺たちを助けてくれるのさ?」
「ニールさまがなんにも言わない理由については俺も見当がつかない。でも、まだ助けてくれるなんて決まったわけじゃないぜ。お目にかかろうぜ、あの自信たっぷりの理由をさ」
「嫌な言い方だな。それで……」
ガイルは急に押し黙った。あのラングレイは確かにおかしい。だが、どこが−−−? 彼には答えられなかった。
頭のなかが混乱してきて、彼はハザードの上衣の裾を離さないようにした。そうしないと彼からもはぐれてしまう。そのうえこの人混みだ。モールニアが急に懐かしくなって、できるものなら飛んででも帰りたくなった。
人の群れの行く先はヴェラの畑地帯だった。
とっくに着いていたラングレイは、ガイルとハザードが来たことを確認すると微笑し、
「始めさせていただきましょうか」
と言った。
人びとの見守るなか、ラングレイは杖を片手で斜め前方に突き出すように持ち、空いたほうの手−−−右手を添えた。
彼の口から不可思議な抑揚の音が漏れた。その音を知るものも、後々になって覚えていられたものも、だれ1人としていなかった。
ラングレイが杖を掲げると、いちばん細い糸のような雨がさらさらと降り、乾燥しきった畑ばかりでなく、その場に居合わせた人びとの心をも潤した。
彼はヴェラの長やメリラたちのほうを見てわずかに頷いてみせた。彼らはまるで木偶のように応え、ラングレイは満足そうに微笑んだ。
「さあ、遠くモールニアからいらっしゃった方々もいます。雨を降らせに、わたしは発つとしましょう」
人びとの拍手喝采がわき起こった。
ガイルはハザードの脇腹を肘でこづいたが、彼はまだ不信感を拭いきれないようだった。
ラングレイは、うち続く異常気象に降ってわいた救世主だった。
彼はどこの町や村でも雨を降らせ、モールニアに向かった。
彼の言ったとおり、ロングもメリラも、無論ヴェラ部族の長も、だれもヘイズ氏の知識を寄こせとは二度と言わなかった。
ラングレイの技はそれほどまでに効果的で、部族や氏族の違いも乗り越えてしまったのだ。
ガイルはすっかりハザードの言ったことなど忘れていた。というより、ラングレイが偽物だなんてとうてい信じられなかったのだ。
彼がいなければアダモン島全土がいまごろ凶作のために死者が出ていたかもしれない。
そう思うと、彼を疑う気持ちなど、てんでどこかに消し飛んでしまうのだった。
また、ラングレイはガイルやソルに親切で、旅の合間に星座の名を教えてくれたり、北極星のことを教えてくれたりした。
特に北極星のことは、ずっとあとになって大いに役に立った。そのときのガイルは、ただ天空の中心となって動かない星があることが、ただおもしろいと思っただけだったのだけれど。
一時は総勢8人に増えた一行も、ファルコを出たときにはガイル、ラングレイ、ソルの3人に減っていた。
ラングレイは、先にファルコから近いモールニアに行き、それから北のメナンのほうをまわるつもりだった。
そしてガイルはできるものならば彼にくっついていきたかった。だって、ラングレイは旅慣れていないし、薬師の知識もないから、とても一人旅などできないだろうと思ったのだ。
それに彼は物知りで、両親でさえ知らないことも知っていそうだったし、事実知っていたので、ガイルはその話も聞きたかった。
ラングレイはヴェラの長が貸してくれた驢馬に乗っていたのだが、その驢馬にさえ最初のうちは乗り慣れていなかったのか、ずいぶん苦労していたようだった。
彼らがモールニアに着いたのは4月末日、出発してから、ちょうど4ヶ月経った日のことだった。
村人は、まず村長の息子ソルの帰宅を喜んで迎えた。
けれども、彼の口からラングレイのことが紹介されると小さな村は興奮に沸き立ち、疲れ切り、絶望に打ちのめされそうになっていた人びとの顔がにわかに希望に輝きだした。
ラングレイは長旅のためにかなり疲れていたろうに、自ら早速雨を降らそうと申し出た。
田畑に雨が降るのを、村人から少し離れたところでガイルが眺めていると、ぽんと肩を叩かれた。
「母さん…! それに父さんも…」
「よくやったな、ガイル。凄い人を見つけてきたじゃないか」
「俺の力じゃないよ。あの人はヴェラのニールさまの跡取りなんだって。俺たちがコーストまで行ったらさ、もうそういう話でまとまっていたんだ」
「ニールさまの跡取りか…おなじヘイズ氏とはいっても、長や副長の方々は我々とは違うことを知っているからな」
「でもよかったわ。これでみんな救われます。あの方がヘイズ氏の方なら、私たちがおもてなしをしてさしあげなければね」
「そうだね。
でも、サリア、ガイル。見てごらんよ…雨がこんなにきれいなものだったとはね……知らなかったよ…」
父が心底感銘したように呟いた。
その顔を見上げたガイルは、父も母も肌がひび割れ、すっかりやつれてしまったことに気がついた。
彼は母にしがみついた。
やっと帰ってきた。なんて長い旅だったんだろう。なんて長い間、留守にしてしまったんだろう。
「俺、もっと早く帰ってきたかったんだ…」
「なんにも遅いことなんかなかったわ。あなたはちゃんと間に合ったのよ、ガイル。それよりも母さん、あなたが無事に帰ってきてくれてよかったわ」
「うん…」
母の腕のなかで、ガイルは両親に話したいことをたくさん見たり聞いたことを思い出した。
でもそれは明日だ。今日は疲れていて、もうなんにもしたくなかった。
やがて一家は、ラングレイを伴って村を見下ろせる家に帰った。
その晩遅く、樹海の深淵部から忌まわしい咆哮が聞こえてきた。
けれど、その意味するところを知るものはなかったのだ−−−。
一晩経つと、ガイルはすっかり元気を回復した。昨日、寝るまえに飲んだ薬草茶もいい効果を発揮したらしい。
「ごちそうさま!
俺、久しぶりにおじいちゃんの墓参りに行ってくる」
「そうだな。自分がちゃんと仕事をしたって、報告してくるんだよ。おまえは胸を張っていいんだからね」
「はい!」
「あのぅ、わたしも一緒に行かせていただいていいですか?」
ラングレイの申し出に、3人の視線が集中したが、彼は臆すことなく答えた。
「モールニアは聖霊シアンに縁の地だと伺ってきました。こうしてわたしが訪れたこともなにかの縁だと思います。是非、墓参りに行かせてください」
「そうですね。ヴェラの方がいらっしゃることは滅多にないですから、これはいい機会かもしれませんね」
「じゃあ、俺が案内してあげるよ。行こう」
「ありがとう、ガイル」
外に出ると、空は相変わらずよく晴れ渡っていた。
でもガイルは、ずいぶん長いこと空など見ていなかったような気がして、眩しかった。
「ラングレイさんは明日発つんですよね?」
「そうだね。本当は今日にでも発ちたいところだけど、とても身体がいうことをきかないよ」
ラングレイも薬草茶を飲んだのだけれど、あんまり効かなかったらしい。
「それにしても、雨を降らせられるなんて凄いですねぇ。
やっぱりニールさまに習ったんですか? 俺なんか、何回見ても感動しちゃって……ラングレイさん?」
返事がないので振り返ると、彼は答える代わりに鏡を差し出したところだった。
「ガイル、君に見てもらいたいものがあるんだけれど、いいかな?」
「その鏡ですか?」
「そう…」
ラングレイはため息を一つついた。
その顔は、いつも微笑を讃えたヘイズ氏の長の息子ではなくて、ガイルが違和感を覚えた、別の顔だった。ヴェラで、ハザードが「あのラングレイは偽物だ」と言ったときに、なぜ彼まで引っかかったんだろう。
「……」
「わたしは、その鏡に写る、ある少年を捜しているんだ。ちょうど君ぐらいの年代の子をね……ヴェラで見つからず、ずっと、ずっと、いろんな子に見てもらったのだけれど…明日はモールニアを発つ。そのまえに、君にも見ておいてほしいんだよ。
…そうだ、君とはずっと一緒だったのに、どうしてもっと早くに見てもらわなかったんだろう…?」
「どうして…?」
彼は寂しそうに笑ったが、答えなかった。
そしてガイルに、鏡を示した。
手渡された鏡をひっくり返した。
裏面にはびっしりと不思議な紋様が刻まれている。
違う、これは紋様なんかじゃない。
文字だ。
ガイルはそう思った自分に驚いたが、それよりもっと驚かされたのは、ラングレイが「そのとおりだよ」と言ったことだった。
「どうして君が知っているんだい?」
「あなたこそ、どうして俺が考えたことがわかったんですか…?」
「説明すると長くなるから、あとにしてもらえるかい? さあ、鏡を表にしてみて」
「…??」
ガイルは半分まで言われたとおりにして、そこで手が止まった。
「あのラングレイは偽物だ」
ハザードの言葉が急に実感となって迫ってきたのだ。
けれど、彼はすぐに鏡を動かした。
その銀色の表をのぞき込む。
鏡の縁にも、びっしりとおなじ形の文字がところ狭しと刻まれている。
「あっ…!」
表面がゆらゆらと揺れた。
鏡に写っているのは彼自身なのだろうか。
だが、もっと年をとったようだ。少なくとも、あと10年くらいは年上だろう。
全身が写っているので顔はよくわからないが、鏡のなかの彼は一振りの剣を手にし、どこか遠いところを見ているようだ。
剣には、べったりと黒いものがこびりついている。
ガイルは顔を上げてラングレイを見た。
彼の顔は青ざめ、それ以上立っているのも辛そうに力無く座り込んだ。
「大丈夫ですか…?」
「…少し休めばよくなる。大丈夫、ちょっと驚いただけなんだから…」
「あの、なんだったら、俺、家に戻って父さんに薬を調合してもらいます、気分が悪ければ−−−」
「行かないでくれ…! ここにいて。大事な話がある」
「でも、気分が悪そうですよ」
「本当に大丈夫だから。もう時間がないんだ、わたしには残された時間がない……なぜ、もっと早くにこうしなかったんだろう……そうすれば……」
そう言って、ラングレイはじっとガイルを見つめた。
彼は隣にしゃがみ、祖父の墓参りのことをすっかり忘れていた。
「ガイル、これから話すことはすべて本当なんだ、わたしを信じてほしい。
わたしは、実はアダモン島の人間じゃないんだ。大陸から来た、君たちがなんと呼んでいるのかはしらないが、エズリモルという大陸で、そのなかでもいちばん大きい国、ハロンドール神聖王国からね…」
ラングレイの話は途方もないものだった。
彼はニールの息子なんかじゃなくて、大陸から来た魔法使いで、雨を降らせたのはすべて魔法によるものだという。
ではハザードの言っていたことは本当だったのだ。
またラングレイはハザードよりもずっと精霊のことには詳しく、この異常気象がアダモン島より精霊が去ったためだとも教えてくれた。
そして彼の使う魔法も、精霊の力を借りているのだと言う。
けれど、何故アダモン島から精霊が去ったのかはわからない。
彼の役目はガイルを、鏡に写った少年を見つけ出すことだったが、それ以上は関与できない。
彼の命はこのアダモン島で終わると予言されたからだ。
「……それと、君にこの石をあげよう。これは精霊石、4つの石に地水火風の精霊が1人ずつ閉じこめられている。使うときはこうだ、どれでもいいから一つ取って、『死神王アケロンと精霊王の御名において我に力を貸せ』とね。耳飾りにするといい、使いたいときには簡単に外せるから」
「お、俺、父さんと母さんのところに戻らないと……。
だって、いまの話はとてもじゃないけど、俺1人じゃ決められないし…」
ガイルは走り出した。
が、その刹那、モールニアどころかアダモン島全体に轟くかと思われるほどの咆哮が、彼らを足下から揺さぶった。
「な…なに…?!」
ガイルはこけ、ラングレイがなお青い顔で、杖を握りしめるのを見た。
「さようならだ、ガイル。わたしの教えたことが、少しでも君の役に立てばいいのだけれど」
「ラングレイさん?!」
「行きなさい! 両親のもとに帰ってあげなさい!」
「…!!」
再度ガイルは走った。
「死神王アケロンと精霊王の御名において、君が無事にあの方の元へ着くことを…!」
そう呟くと、彼は杖を構えた。
雨を降らせるときに使った不可思議な抑揚の言葉をまた使ったが、今度は何事も起きなかった。
彼はおなじ言葉で、今度は別の意味を使ってみたが、結果は変わらなかった。
ラングレイが、絶望的な気持ちでモールニアの村を見下ろすと、化け物に襲われて右往左往する人びとが写った。
年寄りは問答無用で殺され、男は抵抗すれば殺されたが、たいていは生かされた。
そして女たちは、見つかるそばから犯され、老いも若きもない。
子どもたちが泣き叫んでいる。怪物が次々にさらっていくからだ。両親や祖父母は当然これを追いかけるが、成功することはない。
別の化け物がやってきて、男ならばたたきのめし、女ならば犯し、年寄りは殺した。
けれど、ラングレイにはいつまでも突然化け物の襲撃を受けた村を眺めている暇はなかった。
彼が視線を森に転じると、何匹もの化け物が出てくるところだった。
もはや彼になす術はなかった。
走りながら、ガイルは家が燃やされているのを見た。
と、いきなり足下に毛むくじゃらの汚らしい棒だか足が突き出され、避けそこねて転んでしまった。
立ち上がろうとする間もなく、圧倒的な力で押さえつけられ、しかも気が遠くなりそうな臭さが彼を襲った。
「離せ!」
ガイルは逃れようともがいたが、ろくに動けなかった。
生臭い息が耳に吹きかけられる。その臭いにまた頭がくらくらする。
母の悲鳴が聞こえて、彼はもがくのを止めた。
それに重なるように哀願する父の声が、嘲笑に打ち消された。
見える。ガイルは、2人がはっきりと見分けられて、声も届く距離で倒されたのだ。
父も母も、彼とおなじように押さえつけられている。
ただし、2人は仰向けだ。
ガイルの視線は母のほうに釘付けになった。
いつも一本の太い三つ編みにまとめていた髪はほどけて乱れ、顔は血と泥と、汚れている。
涙が止めどもなく流れていた。時折彼女は悲鳴をあげる。
目が遭った。
けれど、母はすぐに顔をそらした。
「母さん!!」
父が振り返った。
「見るんじゃない、ガイル!」
叫んだそばから、怪物に殴られる。
父の顔は痣ができていて、血も流れているようだ。
母の答えはなかった。
否、答えられなかった。
彼女は次から次へと化け物どもに犯されていたから。
父は、ずっとそれを見せられていたから。
母の口が動いたが、ガイルのところまでは言葉は届かなかった。
「母さん…?!」
突然母の形相が変わった。
それきり、彼女はぴくとも動かなくなった。
「サリア…?!」
父が泣いている。
押さえつけられたままで、殴られていることも気づかないように。
「父さん! やめて、父さんをぶつな!!」
ガイルの叫びに怪物たちは一瞬動きを止め、げらげらと笑いあった。
父はなぶられつづける。
そのうちに顔が顔とわからなくなり、見分けがつかなくなり、人であったことさえわからなくなるまで。
ガイルがやがて怪物に追われて両親のそばを通りすぎたとき、彼が見たのは血と肉の塊にしか見えない父と、舌を噛みきって死んだ、怪物たちに汚された全裸の母であった。
彼はこづかれて歩きながら、胃の辺りを押さえた。
立ち止まって吐く。
するとすぐに追われ、結局は吐きながら、村のほうに下りていった。
血と煙の臭いが、さらに吐き気を催させた。
もはや、ここに村があったことなどわからなくなっていた。
建物は全壊し、田畑は焼き払われ、荒らされた。
そのなかから、人びとが追われてくる。
ガイルとおなじように吐きながら、あるいは泣きながら。
そこかしこに死体が転がっていた。
死体ばかりでなく、まるで人間の部品の見本のように、手足や胴体、首、内臓などが散らかされていた。
散らかされて、という以外にぴったりの言い方はなかった。
腹を裂かれた妊婦と、臍の緒が繋がったままの胎児もいた。
どっちを向いても、死体がないところなどあり得ないぐらいだった。
化け物たちは、上半身が人間で下半身が大蜥蜴の怪物に指揮されて、生き残ったすべての村人を三つに分けた。
子ども、女、男である。
子どもたちはさんざん泣きわめいたのだろう。汚い顔をして、もはや自分の意志を訴える力もなくしていた。
蜥蜴男が地面に円を描くと、化け物が子どもたちを次々にそのなかに追い込み、彼らはみなどこかへ消えてしまった。
女たちはみな何匹もの化け物に犯されたのだろう。服を着ていないものばかりで、虚ろな目をし、ぶつぶつと独り言を言いつづけている娘もいた。彼女は、モールニアでいちばんの美人と評判だったクレアだろうか。
彼女たちのためにも蜥蜴男は円を描き、1人ずつ円に入ると、かき消すようにいなくなってしまった。
村には男ばかりが残された。年寄りは1人もいない。ガイルくらいが最年少で、あとはせいぜい50代までだ。
蜥蜴男は三度円を描いた。
けれど三度目は男たちをそこに追い込むためではなかった。円のなかに手を突っ込むと真っ赤に焼けた鉄の棒が取り出された。
なにか命令すると、化け物が男を1人捕まえた。だれも抵抗する意志もない。
けれど、鉄の棒がその不運な男の背中に押しつけられると、人びとは彼の泣き叫ぶ声で、それがなにか理解したようだった。
焼き印だ。アダモン島では家畜に押すぐらいにしか使っていない。
当然、ヘイズ氏には無縁のものだ。
さすがに抵抗をするものも現れたが、蜥蜴男は容赦なく彼を化け物に与えてしまった。
彼は生きながら喰われ、その断末魔は残ったものたちを怯えさすには充分すぎるほどだった。
焼き印を押す作業が繰り返される。
気絶してしまうもの、悲鳴をあげるもの、でも耐えられるものなど1人もいなかった。
ガイルの番は最後だった。
蜥蜴男の目を見た彼は、何故かは知らないけれど、自分がこの化け物に目をつけられていることを察した。
目の前の焼き印が突きつけられる。
熱い。
顔を背けると、人間でもないくせに妙に人間らしい顔がにやにやと笑っていた。
「…?!」
激痛のあまり、ガイルは声もなかった。意地もなにもかもかなぐり捨てて、痛みで涙があふれた。
泣くまいと歯を食いしばる。彼は地面に放り出され、それでもじっと耐えた。
それが気に入らなかったのだろう。蜥蜴男は彼を蹴飛ばし、再度化け物どもに命令を下した。
彼らは鞭で追い立てられて北へ道なき道を歩み始めた。
その頭上に、大粒の雨がぽつりぽつりと落ちてきて、やがてどしゃぶりとなったのだった……。
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