「宝剣物語」第一部第四章
「ガイル、おまえももう13歳だ。来月からは1人でファルコに行ってくれないか?」
「本当、父さん?」
「父さんの兄さんのスラン ・・・ つまり、おまえから見ると叔父さんだな、そのスラン叔父さんが、このまえ行ったときに手紙をくれただろう? もうおまえ1人でも大丈夫じゃないかと言っていたんだよ。どうかな、ガイル?」
「いい! 大丈夫! 俺、1人でも行けるよ! ねぇ、母さん、いいよね?」
蝗の年13年目の10月、外は今日も雨が降りつづいていた。
感激のあまり、ガイルはぴょんぴょんと家のなかを跳ね回った。お客人がだれもいなかったから良かったようなものの、そうでなければ大目玉を喰らうところだ。
「私はまだ早いと思うわ。外に出られるようになって、まだ3年も経っていないのよ。それなのに、もうファルコまで1人で行けだなんて…」
「1人じゃないよ。トラビスからはディーンが一緒だし、それに、俺はもうこんなに元気なんだってば。ねぇ、父さんからもいいって言ってよぉ」
「わたしはスランがいいと言うには大丈夫だと思うよ。それに、ガイルの健康状態もわたしよりずっといいぐらいだ。どうだろう、サリア? 1人で行かせてやってもいいんじゃないかな?」
「本当に大丈夫なの、ガイル?」
「叔父さんがいいって言ってるんだよ」
「叔父さんの言うことを訊いているんじゃありません。おまえがいいのかって、母さんは言っているんでしょう」
「大丈夫、本当に大丈夫だから」
ガイルは自分が元気に、しかも人一倍丈夫になったことをしきりに主張したが、母はまだ信用していないようだった。
けれど、父や叔父の後押しはなによりも強い味方だった。母にもそれぐらいわかっていたのだろう。反対したのは、せめてもの抵抗だったのかもしれない。
「しょうがないわね…でも、駄目だと思ったら、すぐにやめさせますよ、いいわね、ガイル?」
「任せて! ほんとのほんとに大丈夫だから!」
彼はそのまま雨のなかに飛び出した。
「こんな雨のなか、どこに行くの?!」
母の声が追いかけてきたが、さすがに雨のなかまで追ってはこなかった。
「おじいちゃんのところ! 早く知らせてあげるんだ!」
ガイルは入り口の階段を飛び越して、ヘイズ氏族の墓地まで走っていった。
それは、ちょうどモールニアの村の入った盆地の縁を走っていく道だった。お椀の縁、とでもいったらいいだろうか。
ヘイズ氏しか使わない道は、やはり半月も降っている雨のために目で追うことは難しくなっていたが、乾期のときにはできるだけ毎日来ているガイルだ。目をつぶっていたって、祖父の墓のまえにはたどり着ける自信があった。
雨期のあいだは、わざわざ外に出るものは皆無だ。間断なく1ヶ月も降りつづく雨のため、農地は柔らかくなってしまっていて、とても仕事にはならないし、雨期の終わりともなれば、どんなに太い道路だって川となり濁流が走る。
だから、人びとの仕事はみんな乾期に行われるのが倣いというもので、祭り、結婚、葬儀、旅行と、どれひとつとして雨期に入ったりしないように日程が組まれるのである。
もしも1ヶ月のあいだにはとうてい終えられないような長旅になったとしても、雨期に入ればどこかの町か村で厄介になる。ヘイズ氏ならばヘイズ氏の家に、他の氏部族のものは自分たちの祖霊を辿っていって、できるだけ親戚筋に宿泊するが、そうでなくても旅人を泊めないのはよほど心の貧しい人だけである。というのも、旅人の食糧はできるだけ、町村内のおなじ氏族や部族の人びとのあいだで分担されるものだからだ。
雨の日だというのに外に出たガイルは、走りながら奇声さえあげていた。
「やっほーい!!」
靴はあっという間に泥だらけになり、彼は全身ぐしょぬれになったが、気にもならなかった。
「おじいちゃん! …あーあ、花がみんな流れちゃってるじゃないか。雨め、もっと遠慮して降れよな!」
空に拳を振り上げてみて、ガイルはすぐに下ろした。墓のまえでそんな騒々しいことをやってはいけないのだ。それに、祖父がいたら、きっとたしなめられたにちがいない。死者の声は聞こえなくても、彼は祖父のことならよく知っていたので。
「ねぇ、おじいちゃん。俺さあ、来月から1人でファルコに行けるんだよ。お父さんとスラン叔父さんがいいって言ってくれたんだ。すごいでしょう? 俺さ、そのうちにヴェラまでだって1人で行けるようになるよ!」
彼はいつだって祖父に話したいことだらけだった。だから、毎日来てもちっとも飽きなかったし、祖父が生きていてくれたら、もっとたくさんおしゃべりできたのにと思わない日もなかった。
「でもねぇ、母さんが心配するんだよ。俺1人じゃ、まだ早いって言うんだよ。母さんたら、すぐに心配するんだ、俺、もうこんなに元気になったのにな、ねぇ、そう思うよね?」
雨がまた強くなってきた。
ガイルは花が流されてしまうのが嫌だったので、今日は手ぶらで帰ってしまうことにした。
「また来るね、おじいちゃん。今度はちゃんと花を探してくるからさ!」
駆け足で、泥をそこいらじゅうに跳ね飛ばしてガイルは帰った。
階段で靴についた泥をこすり落とす。そうしないと、清潔好きな母に家に入れてもらえないからだ。
「なんて恰好なの…! 服を脱ぎなさい。こんな、びしょぬれになるまで外にいるなんて、いったいどんな用事があったって言うの?!」
思わぬ母の剣幕にガイルはすっかり驚いていた。手こそ上げられなかったが、迂闊に答えれば、いつでも飛んできかねないと思ったほどだ。
彼は素直に靴も服も全部脱いで、押しつけられた手ぬぐいで黙って頭と身体をこすった。
「ごめんね、母さん。でも、俺、どうしてもおじいちゃんに報告したかったんだ」
「知りません…!」
母はガイルの服を干すと、さっさと隣室に引っ込んだ。彼は思わず助けを求めて父を見たが、苦笑いされただけだった。
「俺、おじいちゃんに教えてあげたかったんだ。だって、すごく嬉しかったんだもん、ねぇ、母さんは嬉しくないのかな? 俺が元気になったって、小言ばっかりで嬉しそうな顔なんてしてくれないんだよ」
「母さんは心配なんだよ、ガイル。実は父さんもなんだけれどね。おまえは、ずっと身体が弱かったから、もしかしたら、また熱を出すんじゃないか、倒れてしまうんじゃないかって心配なんだ。それなのに、おまえときたら、雨のなかに出ていってしまって、びしょぬれになるまで帰ってこないんだものな」
「ごめんなさい…」
「謝らなくてもいいさ。おまえは本当に元気になったんだもの。でも、その手ぬぐいはしばらく使っておいで。裸でいるのもよくないからね」
「はーい」
ガイルはそれで、部屋の隅に座布団を移動させて、手ぬぐいにくるまって座った。手ぬぐいといったって、用途によって大きさはさまざまだ。母に押しつけられたのは、滅多に使うことのないいちばん大きなやつで、ガイルより背の高い父でも全身を覆うことができる。
今日はもうお客人は来ないだろう。
彼は父の話を聞いているのが楽しかった。お客人がいないときは、決まって父は、いま煎じている薬草がなんという名前で、どんな症状によく効く、とか、ヘイズ氏の仕事について、思いつくままに話してくれたから。
祖父によって大いに刺激されたガイルの好奇心は、いまは父によってかなりのところを満たされていた。自分の部屋が世界のすべてだったころ、彼は先生はずっと祖父だった。あれから見ると世界はずっと広がって、モールニアだけでなく、トラビスやファルコまで入ってきたけれど、その先にもまだ世界があるのだということが最初のうちは信じられないくらいだった。
でも、いまのガイルはちがう。彼はアダモン島のこと全部を知りたかった。モールニアからいちばん遠いヴェラの町だけでなく、人びとが恐れてやまない樹海と、その向こうに広がるもの、森の向こうに見える〈魔の山〉のこと、たくさんのことが知りたくてたまらなかった。
〈魔の山〉というのはあだ名だが、正式な名称はない。けれど、たとえかんかん照りの日でも青い空に黒々とした山陰を沈ませるあの山は、〈魔の山〉という名がいちばん相応しいように思われた。
「ねぇ、父さん。俺、大きくなったらヴェラに行きたいんだ。樹海に行って、〈魔の山〉にも登って、アダモン島中を歩き回りたいんだ!」
「樹海や〈魔の山〉にもかい? すごいな、ガイル。樹海に入っていって帰ってきた人はいないって知っている?」
「うん! だから、俺がいちばんになるの、〈魔の山〉に登るのも、俺がいちばんになるんだよ」
「そうか。おまえの好奇心旺盛なところは、いったいだれに似たんだろうね」
「父さんは?」
「父さんはあんまり外に出歩くことは好きじゃなかったんだ。星の名前だって母さんに教わったくらいだもの。おまえはきっとおじいちゃんに似たんだよ。
さあ、そろそろ片づけてしまおうか。手伝ってくれるかい?」
「毎日でも手伝うよ、父さん。なんでも言ってよ。母さんは忙しいんだものね、俺が父さんを手伝ってあげるよ」
「それはありがたいな。でも、おまえももう13歳だ。わたしは10歳のころから1人でファルコに行くようになった。もちろん、モールニアから来ていたおまえのおばあちゃんといつも一緒だったし、兄さんが結婚してからは、義姉さんがファルコに行くこともあったけれどね。
母さんが心配する気持ちもわからないじゃないが、おまえもいつまでも子どもではないのだし、そうなれば子ども扱いさせるわけにはいかないね。だが、そうしてもらうためには、まずおまえ自身がどう考えているかが問題だ。
ガイル、よく考えて答えなさい」
「はい」
素直な彼の返事に父は微笑んだ。そんな顔をされるとは思ってもみなかったので、ガイルはどう返していいかわからなかったが、父はそのまま話をつづけた。
「子ども扱いしないからといって、すぐに大人になれるわけじゃない。ヘイズ氏の場合にはこの見習い期間が長いからね。そのあいだにおまえは大人になることを学び、ヘイズ氏としての責任と義務を自覚していかなければならないだろう。もしも、その自覚がないような子どもを見習いとして扱えば、どうなるかはわかるね、ガイル?」
彼は黙って頷いた。
「さて、改めておまえに訊ねよう。そのまえにもっと近くにおいで。父さんのまえに座りなさい」
「こんな恰好のままでもいいの?」
「大切なのは恰好ではないんだよ。だが、恰好もまた大事なこともあるけれどね」
「はい、父さん」
とはいうものの、裸でいるなんてことは水浴びをするときぐらいだったので、やっぱりガイルは照れくさかった。ので、手ぬぐいを羽織ったまま、座布団を父のまえに置いて座った。
「それでいい。
さて、ガイル。おまえに訊くが、モールニアの次のヘイズ氏を継ぐものとして、見習いとして扱ってほしいかな?」
「はい」
「では、扱ってもらえたなら、その責任と義務を忘れないで行動できるかね?」
「そうできるようになりたいです」
「これはいい答えだな。でも大切な心がけだ。
ガイル、責任と義務とを自覚するということについてわかっているかい? おまえが失敗を犯せば、わたしの責任ともなるのだ。もしもそれが大きなことであれば、ヘイズ氏全体の責任ともなろうし、祖霊の方々についても問われるだろう。そのことを常に意識して、ヘイズ氏の一員としてだれにも恥じることのない行動がとれるかということなんだよ」
「はい、父さん」
父は笑って頷いた。
「よろしい。
さて、サリア! いまの話を一部始終聞いていたろうね? 来なさい」
ガイルがびっくりしていると、父の言うとおりに母が現れた。
「ガイル、母さんのまえでもおなじように誓うことができるかい?」
「できます! もちろん!」
「さあ、サリア。君も聞いたとおりだ。なにか不服があれば言ってごらん」
「あなたもずるい方ね、ローレン。そう仰られたので、私だって反対できなくなってしまうじゃありませんか」
「それが目的でもあったからね。君はガイルを子ども扱いしすぎるよ。もう見習いとして認めてあげてもいいんじゃないかな?」
母はちょっとだけため息をついた。が、すぐにガイルを見つめ、それから父に視線を移した。
「そうですね。私も少し反省しなければいけないようだわ。でもね、ガイル。おまえが考えている以上にお父さんの仰ったことは大変なのよ。なにも脅かしたくはないのだけれど、半端な気持ちでは駄目だし、意地が通るわけでもありませんからね。いいわね? おまえが見習いとして扱われたいと言うのなら、母さん、なにも言うことはないし、そう扱うようにするわ」
ガイルは再度頷いた。母の真剣な思いが伝わってきて、彼は父の話を聞いていたときよりももっと緊張した。
でも彼は誇らしかった。大人に近づくのだという、真摯な思いがわき上がってきていて。
「さあ、今日はもう寝るとしようか。雨期は早めに休まないとな」
父の片づけを手伝ってからも、ガイルはいつまでも寝つかれなかった。ちょっとだけ大人に近づいたんだという興奮に、目はいつまでも冴えていたのだった。
そして明けて11月、ガイルはたった1人でモールニアを出ていった。もうずいぶんと見慣れたはずの光景は1人で見ると新鮮なものと写った。村のなかでさえそうだったのだから、外についてはなにをかいわんやであった。
「行ってきまーす!」
モールニアの村を見下ろせる峠に立って、ガイルは小さく見える母に手を振った。
それから、彼は改めて村を見回した。
畑とそのなかに点々と立ち並ぶ家々、トラビスやファルコを知ったガイルには、モールニアは小さく見えた。
事実、モールニアはアダモン島でいちばん小さい村だ。人口は150人くらいで、道行く人で知らぬ顔はまずない。森と丘に囲まれている盆地状のところなので、田畑を新しく開墾しようとしても限度があり、街道の終わりというより、おまけみたいなものだから、人の出入りも活発ではない。
「もう行かなくっちゃ!」
いつまでもこんなところに立っていると母が心配する。ガイルは嵩張るだけの背嚢を背負いなおして、快調な足どりで街道を歩き始めた。
でも、振り返ってもう村が見えなくなると知ると、彼は最初は遠慮がちに、次は飛び上がって思いきり叫んでいた。
「やったー! やったー!!」
ガイルにしてみれば、やっとお許しが出たというところだ。もう去年のうちから、ずっと1人で行きたかったのに、母にはいつも軽く一蹴されていたのである。
もちろん、トラビスからは必ず従兄のディーンが一緒だから、本当に1人きりになれるのはモールニアとトラビスを往復するあいだだけなのだけれど、それでも彼は、いつまでも母さんが一緒でなければならないお子さま、坊やとは見られたくなかったのである。
歩いていくうちにだんだん暑くなってきた。モールニアからトラビスまでは徒歩で4日かかる。これは最低の日数で、ガイルが初めて出かけたときには7日かかった。
そのあいだ、ずっと街道とは名ばかりの山道を行かねばならず、慣れないものでは森に迷い込んでしまうこともあるし、貴重な水源が見つからなくて、1晩餓えることも珍しくはない。モールニアに接する森は、細く長くこんなところまで広がってきており、道は森を拓いてつけられたからだ。
森はまた、樹海とも呼ばれている。あるいは森の木々が密集してくると樹海となり、樹海の端を森を呼ぶこともある。だが、意図するところはどちらも似たようなものだ。森も樹海も人外の世界であることに変わりはない。
「人外」その言葉はよく聞かされる。モールニアという辺境の地で育ったものや、ヘイズ氏のものには馴染み深い言葉だが、モールニアのヘイズ氏ともなればなおさらだ。
多くの人は、それを怪物を意味するときに婉曲的に使う。恐れと嫌悪の意を込めることが多い。場所を指す場合にも意味するところはおなじだ。けれどその裏には、人間が立ち入ってはならないところ、たとえ邪悪な化け物であれ、より神聖な意味で使われることもあるのだった。
道は昼間でも薄暗く、気温が低いので凌ぎやすかった。だが、ときおり道が森を外れ、砂埃の舞う山道にはいると別世界のように暑くなった。
「…今年は11月だっていうのに、いつまでも暑いよなぁ…」
父のいったことをガイルはそのまんま呟いてみた。わけはわからないなりに本当におかしいと思えるから不思議だ。
でも、どうしておかしいのか、なにか困ることがあるのかまでは彼にはわからないことだ。
モール地溝に着いたのは、夕陽がすっかり山と森の向こうに隠れたころだった。
モールニアからトラビスに行くときは、必ず最初の晩はここで1泊する。
もちろんこれはかなり早い歩調の場合で、2泊目、3泊目になってやっとモール地溝に着くこともあるが、ガイルがモール地溝で野営するのはごく近くに水源があって、1日目でここまで着ていれば、明日からが楽になるからだ。
彼は母と一緒のときに比べても決して歩調が落ちたわけでないことを確認して、少しほっとした。両親には大丈夫だと言ったくせに、実はいちばん心配していたのはガイル自身だったのだ。
だって、自分が村の外どころか、自分の部屋から出られるかってことだって、つい4年前までの彼は考えてもみなかったから。
ときどき、息もつけなくなるくらいに走ったり跳ねたりするのは確かめるためだ。自分は動けるんだぞ、こんなに走れるんだ、元気なんだぞって言い聞かせるためだ。弱気な夢を見る自分を叱りつけたいからだ。
目が覚めたら、彼はやっぱり身体が弱くて、いつ死んでしまっておかしくなかったような足手まといの子どもだったという夢、しかもそこに祖父はいないのだ。ガイルをいつも庇ってくれて、いろいろなことを教えてくれた祖父はいないのに、という夢だ。
そんな夢を見たあとは、彼は決まって枕を濡らしていた。両親と部屋が違うままだったので、安堵するのもそんなときだ。もちろん普段だって、彼は1人で寝るのが怖いなんてことはなかったのだけれど。
「いっけね、こんなとこでのんびりしていちゃいけないんだった」
気がつくと辺りはどんどん暗くなっていた。ガイルはすぐにでも寝っ転がって、休んでしまいたかったが、そんなわけにはいかなかった。野営の支度をしなければいけないという点もそうなのだが、忘れてはならないことはここが村のなかでも、自分の家のなかでもないということだった。
彼はいつものところで背嚢を下ろすと、走りまわって枯れ枝を集め、火を起こした。
そこは、下生えの草がぼうぼうで、よく足をとられる森のなかにしてはまるで草もなく、円く地面がむき出しになっていた。モールニアからトラビスに通う人びと、主にヘイズ氏が、もう何十、何百年もずっとここを使っているからだ。焚き火の位置までおなじなのはわけがあるのだが、そこだけ黒い染みがついて色が変わっていた。焚き火を中心に何度もなぞられて深い溝のできた〈結界〉のためなのである。
「我らの父祖なる聖霊シアン、どうか今日1晩を安らがせてください」
母がいつも唱えたとおりに、彼も祈りの言葉を唱えて〈結界〉を描いた。ここまでやらなければ、ふつう、野営の支度ができたとは言わないのである。そして、朝まで〈結界〉の外に出てもいけない。
けれども、ガイルはやっぱり興奮していた。祖父にさんざんねだった冒険談を、彼はいつでも自分も体験してみたくていたのだ。
それで、いま、いちばん手っ取り早い舞台といえば、昼間でも暗く、なかをほとんど見ることができないモール地溝以外に考えられなかった。
ガイルは薪を1本、松明代わりにして、そっと立ち上がった。森のなかは虫の声しか聞こえなかった。故郷の森に比べるとまったく静かなものだ。
〈結界〉を越えるのはやっぱり勇気が要った。だが、最後に勝ったのは好奇心だった。
ガイルは、なるべく音を立てないように歩いて、まず道に出た。足下もおぼつかない森のなかでは、いきなり地溝にはまってしまうかもしれなかったからだ。その点、道をたどっていけば、すぐに釣り橋に出られる。
彼は松明をぎゅっと両手で握りしめていた。
アダモン島は地溝が多い。大きさはさまざまで、子どもでも軽く跨げるものから、橋を使うか迂回しなければならないような幅のあるものまである。その大半は、幅が大人なら軽く越えられるものばかりで、本当に大きくて、名前までつけられているような地溝は、知られている限りでは3本しかない。
モール地溝、フィンク多溝帯、ベーツ双地溝である。
このうち、フィンク多溝帯は小さいものまで数えれば数百本もの地溝が集中しているところで、発見者のマシャン=フィンク氏の名をとってつけられた。いちばん近い町の名ももちろんフィンクだが、いくら近いといっても、歩いていけば2日はかかるところにあるので、噂だけで実際に見たことがあるものは少ない。
そして大きさでいけば最大のベーツ双地溝は、ディレンの村からカンチャの村に至る街道沿いにあって、2本の地溝が途中から1本になっているそうだ。ベーツとは、そもそも“二股”という意味があるが、この話をしてくれた祖父はおなじような形をしているという薬用人参を見せてくれた。まるで人の胴と足みたいだ。もちろん、こちらも街道沿いとはいっても、歩いて2日以上は離れているらしく、見たことがあるものは珍しいそうだ。
それで、縦に長いのがモール地溝で、街道を横切っている地溝のなかでは最大級だ。そして、このモール地溝があるために、モールニアの村はいつまでも辺境で、東端なのだった。たった1本かけられている釣り橋は、一説ではシアンが造ったものという話が聞かされるぐらいに古い橋だが、ガイルはいくらモールニアがシアンに縁の地だとはいっても、自分から数えて21世代もまえのご先祖さまの造った橋が残っているなどとはとうてい思えないのだった。しかし、この釣り橋にはそこかしこに修繕している跡が見られて、本当に最初はシアンが造ったのかもしれなかった。
ガイルはその釣り橋のたもとに、松明を手に立っていた。立ちすくんでいた、と言ってもよかった。
地溝は、アダモン島で暮らす人びとには大きな障害のひとつである。幅や長さは大したことがなくても、地溝の深さは尋常ではない。
こんな話がある。
ある農夫が農地を開墾していた。
彼には屈強な息子が3人もいたので、彼の農地だけではとても足りなかった。
息子たちは3人とも結婚できるような年齢だったのだが、農地を三等分して結婚させるわけにはいかなかった。
それで、農夫は上の息子1人を家に残して、農地の開拓に出かけたのだった。
中の息子と下の息子と3人で、もっと広い土地を探しに行ったのだ。
人が住んでいない土地は豊富にあったので、農夫とその2人の息子が望むような候補地は簡単に見つけられた。
中の息子は喜びいさんで鍬をふるい、下の息子も鋤を手にした。
「どこまで耕そうか?」
と中の息子が訊いた。
「おまえにできると思うだけとればよい」
農夫は答えた。
「ここに兄さんや母さんも呼んできて、村を造ろう」
と下の息子が言った。
「おまえたちの望むように」
農夫はさらに答えた。
けれど、いくらもいかぬうちに農夫と2人の息子たちは悲鳴をあげた。
「足が!」
「鍬が!」
「鋤が!」と。
2人の息子たちは、雑草に隠れていた穴に道具を突っ込んでしまったのだった。
道具を落っことしてしまうには穴は小さく、また内部で複雑な形をしていたので、彼らが腕力を振るうまでもなく、簡単に取り戻すことができた。
農夫は片足を穴に突っ込んでしまった。
膝まで落ちて止まったけれど、それは底についたからではなく、先が狭くなっていたからだった。
「助けてくれ!」
農夫の悲鳴に息子たちは急いで走ってきた。
「あっ!」
「兄さん!」
今度は中の息子まで穴に足を突っ込んでしまった。
けれども、下の息子が自慢の怪力を振るったので、すぐに助けることができた。
おなじようにして、2人の息子たちは農夫も助けた。
「なんて危ないんだ。これではだれも住んでいないはずだ。でも穴が隠されていれば草を焼き払ってしまえばいいし、塞いでしまえばいい」
と農夫は思った。
「草を焼いてしまうぞ。これでは仕事にならないからな」
農夫は2人の息子たちに命令した。
雑草が焼かれ、理想的だった農地は穴だらけだったことがわかった。
農夫は1つの穴に、雑草を焼いた灰を捨てた。
全部の灰をかき集めても、まだ穴1つ埋められなかった。
2人の息子たちは、今度は穴を掘り返して、穴を埋めた。
けれども、屈強な2人の息子たちが、丸々1日働いても、1つの穴を埋めることもできなかった。
やがて雨期が来た。
雨は穴のなかに流れ込み、農夫と2人の息子たちは、いつ穴から水があふれ出すかと見守っていた。
しかし、雨期が終わっても、穴から水があふれることはなかった。
農夫と2人の息子たちは、開墾を諦めて家に帰ったのだった。
「農夫と3人の屈強な息子たち」は、お伽話にはよく出てくる主人公だ。ガイルが好きで、繰り返しせがんだ英雄譚にはもちろん出てこないので、あんまり馴染みはなかったが、モール地溝をのぞき込んでいて、真っ先に思い出したのはその話であった。
話のとおりだった。モール地溝の底は見えず、穴はどこまでも暗く、松明に照らされたところは見えても、その周囲はよけい暗く黒く、濃さを増していた。
松明で照らせる範囲には穴を降りていけそうな足がかりはなく、ほとんど絶壁だと言ってもよかった。
丈夫で長い綱がないことを、ガイルは残念に思うよりも安心した。こんなところに降りていきたいなんて彼は思わなかったからだ。それに、そんな必要もなかった。
でも、もしも綱があれば、ガイルはちょっとぐらいもっと下のほうをのぞいてみたいような気もしていたわけで、そうしないで済むことに安心したのであった。
彼はまえにつんのめっても安全なところにしゃがんだ。
底のほうからは、風とも声とも知れない音が聞こえてきた。風が震えているのかもしれない。
ガイルは、〈炎煌〉のエルローがその長い冒険談のなかで、〈哭く山〉に行った話をそらんじていた。
人を寄せつけぬ高い山があって、〈哭く山〉と呼ばれていた。エルローは山に登り、その原因を突き止め、もしも化け物の仕業ならば倒さなければならなかった。
エルローは鎧も着ず、武器といえば短刀だけを帯びて出かける。山には巨大な怪物がいるのだという噂があったが、彼はその原因が山の頂上近くに空いた巨大な風穴にあったことを知る。穴のなかを風が吹き抜けるとき、怪物の吼えるような声を出すのだった。
かと思えば、穴の底に本当の怪物がいたという話も聞いた。
四つの大きな災厄のひとつ、ルンカネーラの眷属で、口と巨大な胃袋しか持たないマウビーである。
マウビーは見てくれはひたすら大きな大きな蚯蚓なのだが、一旦空腹になるとなんでも食べて、あとには荒涼とした土地しか残らないのだと言われていた。
「そろそろ戻ろうかな」
あんまり気をつけて言ったつもりはなかったのに、風の音が彼の声を飛ばしていった。
ガイルは松明を握りなおして、走って野営地に戻った。
トラビスまではまだ3日もかかる。彼はぐっすりと眠ったのだった。
「こんにちは!」
ガイルが声をかけると、最初に現れたのはディーンだった。ディーンは24歳、父のスランの真似をしてか、口数が少なく、簡単な物言いをする。ガイルが初めてトラビスに行った年、つまり一昨年に婚約したけれど、結婚できるようになるにはまだ何年もかかるだろう。
「1人か?」
「父さんに許してもらったんだ。スラン叔父さんもいいって言ってくれたって。少し休ませてもらってもいい?」
「フィロンに訊いてくれ。俺はもう一緒には行かない」
「ふーん…どうして、ディーン?」
「俺は婚約しているからさ」
ディーンはそれだけですべて説明できるものと思っていたらしかった。スランとディーンがちがうのはこういうところだ。
スラン叔父は確かに簡潔な言い方をするが、それ以上説明を必要とすることはめったにない。ディーンは単に言葉が足りない。
ガイルはディーンがいなくなったのを確認して、黙って家の裏手にまわった。
ひと休みはできないのだとしても、旅の埃くらいは落とさせてもらいたかったのだ。そこは勝手知ったる親戚の家だ。
「ガイル、フィロンは明日まで待ってくれって」
「ミラ! なんだよ、いきなり。声ぐらいかけてくれたっていいだろ」
「だからかけたんじゃない」
そのとおりだ。
スラン叔父にはディーンを筆頭に3人の子がいる。ディーン、フィロン、ミラだ。
フィロンは20歳で、ヘイズ氏に生まれたことを嘆いている変わり者だ。かなり軽薄で、仕事を覚えるよりも村の女の子を口説くのに忙しいともっぱらの噂だ。
ミラは16歳でちょっとおしゃべり、年下のガイルや、2人の兄までも子ども扱いして、でも面倒見はいいほうで、ガイルにはいい姉代わりだ。両親にはどちらにも似ていない。顔立ちはおとなしい母のマイラに似ているようだけれど、もっと華やかで陽気なところがある。
井戸のところでガイルはまだ荷を置いたばかりだった。服を脱ごうとしたらミラが来たのだ。
「どうしたの? さっさと水でもなんでも浴びればいいじゃない」
「ミラ、手ぬぐいを貸してよ。あと、ディーンかフィロンのお古もあったら貸してほしいんだけど…」
ごにょごにょ。
「なに、顔を赤くしているのよ? せっかく手伝ってあげようと思って待っているのに」
「いいよ、1人でできるもの。ほら、早く持ってきてくれよ」
彼女はぷっと吹き出した。
「やっだー! あんた、一人前に照れてるの?」
吹き出すだけならまだ可愛いものだが、今度は腹を抱えて笑い出した。
「笑うなよ! 俺だって、もう13歳なんだからな。いつまでも子どもじゃないんだから!」
真っ赤になって抗議したのに、彼女はなかなか笑いやまなかった。
悲しいのはまだガイルのほうが小さいことだ。だから、ミラを止めようと思ったって、逆に頭まで抱きかかえられてしまったのだ。
「んー、身長と肩幅はこんなものなのね。待ってて、探してくるわ」
もっとも、彼女のすごいところは頼んだことはちゃんと聞いていて、やってくれることだ。
それでも、まだ笑いながらよたよたと出ていったかと思うと、間もなく服も手ぬぐいも持ってきた。
ガイルときたら、そのあいだに水浴びでも済ませればいいものを、どうも鈍いらしく、ミラが笑ったことに憤慨していただけだった。
「いってくれよ!」
「いや。あたし、ちょっと確かめたいことがあるんだもの」
「確かめたいこと?」
「そうよ。いまさら恥ずかしがる仲でもないでしょ。さっさと水浴びでもなんでもして、着替えちゃいなさいよ」
「いつまでも子ども扱いするなよ。だいいち、ミラだって、もう大人なんだろ?」
「女の子のほうが先に大人になるのよ。あんたなんかてんでガキよ」
ガイルは心底むっとしたが、ミラは得意そうにつづけた。
「あたしに言わせれば、フィロンだってディーンだってガキっぽいわ。
なにさ、フィロンなんて」
どうやら攻撃の矛先は自分じゃなかったらしい。ガイルはおそるおそる事情を知ろうと探りを入れた。勘のいいミラは、すぐに気づいてしまうだろうからだ。
「…明日まで待てってのはそういうことなの?」
彼女は声の届く範囲にだれもいないことを確かめて、なお声を潜めた。
「フィロン、勘当されちゃうかもしれないわ。まったく馬鹿なんだから。フィロンは意気地がないのよ、弱虫なんだわ」
「どういうことだい?」
「知らないんなら、父さんかローレン叔父さんに訊くのね。別に母さんでもいいけど。あたしがしゃべったなんて知れたら、父さんから大目玉をくらっちゃうもの」
「…じゃあ、ミラからフィロンに言ってあげればいいじゃないか」
「聞く人じゃないわ。ディーンのことだって馬鹿にしてるんだもの。でも、今度は父さんも本気で怒ってるのよ」
「……よくわからないや。ねぇ、井戸を借りるよ」
「どうぞ」
服を洗うと、水が茶色く濁った。乾期のあいだは水は貴重なものだ。ガイルは水を取り替えられず、汚れた服で身体を拭い、またそれを洗った。
「あんたって白いのね」
「…!!」
ミラが意気消沈しているようだったので油断していたら、彼女はまだいなくなったわけじゃなかったのだ。
彼女はすっかりまごついたガイルににっこり笑いかけると、頭をぽんとひとつ叩いた。
「確かめてよかった。ありがとう、ガイル」
「なんの話だよ、まったくー!」
「いいのいいの。
ごめんね」
「…??」
ミラの言うことがわからなくて、ガイルは首を傾げるばかりだった。でも、いつまでも裸でいるわけにはいかないので、さっさと水浴びを済ませて、ちゃんと服も干しておいた。
けれど、と言うかやっぱりと言うか、スランとフィロンの話はまだ終わっていなかった。
それで、ディーンはせっかく婚約者が来ているのに、フィロンのせいでファルコに行かされそうなので機嫌が良くなかった。
彼の婚約者のアニーナは、実はミラと同じ年なのだが、3つ下のガイルが見ても子どもっぽく、良く言えば可愛い、悪く言えばまあ、よく婚約させたと思うような娘だった。で、ミラとはあんまり気が合わないらしく、その日一日中、ずっとディーンと一緒だった。
気になったのは、2人がときどきガイルのほうを盗み見ていたことだ。
それだけでもなくて、ガイルはちょっと居心地がよくなかった。だっていつもなら、半日ぐらいしか待たされないで済むからだ。彼の来る日はいつも決まっているので、ディーンだって用意していてくれた。
トラビスは父の生家なのに、ガイルが訪れるようになったのはここ2年ばかりでしかない。それに言いたくはなかったけれど、いままでは母がいたのだ。その庇護の翼の下は、なんて暖かだったのだろう。
「ガイル、外に出ない?」
「いいよ」
「ミラ、もうすぐ日没よ」
「いいじゃない、母さん」
ガイルは振り返って叔母の顔を見た。マイラはまだ言い足りなそうだったのだけれど、ミラに手を引っ張られたので、ガイルは慌てて階段を駆け下りたのだった。
「母さんて、いつもああなのよ」
ミラが真っ先に言ったのは、母の言葉を無視したような態度への言い訳だった。彼女はときどき母に反発したり反抗している。2ヶ月に1度しかトラビスに来ないガイルが見るくらいなのだから、本当は毎日のことかもしれないが。
しかし彼には、そんなミラのほうがよっぽど子どもっぽいじゃないかって思えたのだが、いまはちょっとだけ同感できるような気がした。
「でも、なにか言いたそうだったじゃないか」
「いいの、言うことはいつもおんなじなんだもの。いちいち付き合っていたらくたびれちゃって、母さんみたいにいつも眉間に皺を寄せてるようになっちゃうわよ。あんたはそんなことないの?」
「俺の母さんは眉間に皺を寄せたりはしないよ。でも、少しあるかな。だって、母さんて心配性なんだもの」
「あんたのとこは一人っ子だものね。それに、あんた、大きな病気をしてたんでしょ?」
「え…? あ、ああ、そう。でもさ、ちょっとあるんだよね」
ミラはふふっと笑った。長い髪だ。太い三つ編みに結っていて、ちょっとだけ母に似ているような気がするのは髪型のせいだろうか。
「ねぇ、ミラ。なにか用でもあったの?」
「なんにもないわよ。でも嫌だったのよ、アニーナと一緒にいるのが。あんな子があたしの義姉さんになるなんて嫌だわ」
「嫌だって、もう決まっちゃったんだろう?」
「だって、ディーンたら…!」
つい声が大きくなって、ミラははっとして口を閉じた。
トラビスの村人はみな帰り足だ。ミラにはみんなが挨拶をしたが、ガイルのほうまでは珍しそうに見るものがほとんどだった。
ミラは、祖父がよくやったようにひとつ咳払いをして、もっと小さな声でつづけた。
「ディーンたら、あんな子に惚れてるんだもの。それもめろめろなのよ、アニーナがフィロンに色目を使ってるのも知らないで、馬鹿みたい。どこがいいって言うのかしら」
「アニーナはちょっと子どもっぽいところがあるものね。でも、俺はちゃんと話したことはないけどさ」
「それ以上よ。話す価値なんてないわ。それよりもガイル、あんた、気をつけたほうがいいわよ」
「どうして?」
「なんでもいいから気をつけるのよ!」
「わかったよ。強引なんだから」
そういえば、ミラはまだ婚約しないのだろうか。ガイルの母は八歳で婚約したし、噂のアニーナだってディーンと婚約したときは14歳だった。ミラもお年頃なのだ。信じられないことだけど。
「なにを笑ってるのよ、ガイル?」
「なんでもない。ねぇ、そろそろ戻ろうよ。ほら、村の端まで来たよ」
本当はミラにはだれとも婚約しないでほしい。ガイルは密かにそんな、あり得ないことを願っていた。
「ごまかしたわね。
でも、いいわ。あんたと一緒に歩けることも、もうないと思うもの」
「どうしたんだい、急に?」
ミラの顔を見ると、ちょっと真面目だったので、ガイルはびっくりして立ち止まった。
「あたしも、もう16歳なのよね」
「知ってるよ、そんなこと。アニーナと同い年だろ」
「いちいち一言多いのよ、あんたは。
それで、サリア叔母さんて、18歳で結婚したんだったわよね」
「そうだよ。それで8歳で婚約したんだってさ」
「コーストって知ってるでしょ、ガイル?」
「ヘイズ氏の副長がいるところだよ。子どもだって知ってるさ…。
ミラ、そんなところに行くの?」
「まったく鈍い子ね。そうよ、行くのよ」
「遠いじゃないか」
「わかってるわよ、言われなくたって。でも、父さんが行けって言うの。もう何年もまえから、そんな話がずっとあって、でも、あたしに教えてくれたのは最近なわけ。未来の副長と結婚しろっていうのよ。
信じられないでしょ?」
「びっくりした」
「もう! あんたと話しているといらいらするわ。おめでとうとか、よかったねとか、お祝いの言葉とか、気の利いた言葉も言えないの、あんたって子は?!」
「俺は嬉しくないもん! ミラだって、ちっとも喜んでるようじゃないじゃないか!」
「そんなことないわよ」
「嘘だ。俺は鈍いかもしれないけど、ミラが喜んでいないことぐらいわかるよ。どうして嫌だって言わないの?」
「……それ以上言ったら殴るわよ、ガイル」
「どうしてさ?!」
「殴るったら、殴るんだからね!」
彼が口を開くよりも早く、ミラの平手が飛んできて、避ける暇もなかった。
他人事のようにいい音がして、ガイルは尻餅をついた。
「馬鹿! これぐらい避けなさいよね、男でしょ!」
夕陽を浴びてミラの顔は耳や首筋まで真っ赤だった。
ガイルが呆気にとられて、左頬をおさえていると、ミラはまだ言い足りなかったのか、もう一声叫んだ。
「馬鹿!!」
それから、彼女はガイルを置き去りにして走って帰り、あとには彼だけが残された。
もう日没で、しかも村の端とあっては、通る人もいない。
「…なんだい、馬鹿馬鹿って!」
打たれた頬はひりひりと痛かった。ガイルはよっぽどミラに悪態をつきたかったのだが、子どもっぽいし、帰りにだれかと会っても恰好が悪いのでやめた。
それでもむしゃくしゃした気持ちは収まらず、だれかに八つ当たりしかねなかった。
「ガキとか子どもって、ミラのほうじゃないか!」
じっとしていても暗くなっていくばかりなので、彼は立ち上がった。
それにガイルはスラン叔父のところに邪魔しているわけで、家にいるときのように勝手に振る舞えないことぐらい、彼にだって察しはついた。
「ちぇっ! ミラのばーか、馬鹿! ばー−−−わーっ!! 叔母さん、ごめんなさいっっ!」
家のまえにだれかいると思ったら、マイラ叔母だった。
実は叔母とはろくに話したことがない。ファルコに通うようになってからはずっと母が一緒だったので、叔母と話すのは母ばかりだったのだ。
トラビスのヘイズ家でガイルが話したのは、いちばんにスラン叔父かミラ、それからディーンで、フィロンと叔母とはほとんど話す機会などなかったのである。
「あなたが謝ることはないのよ、ガイル。ミラに話は聞きました。悪いのはあの子のほうですよ」
「でも、俺、ミラを怒らせちゃったみたいで…ミラは、コーストに行くんですってね」
「ええ。
でも、たとえ怒らせたのがあなたのほうだったとしても、殴ったことはいけないわ。暴力はどんなときでもいけないこと。わかるわね、ガイル?」
「少し…でも、ミラを叱らないでください。俺、全然大丈夫だったから。ミラだって、そんなに本気じゃなかったんだと思います」
ガイルにはマイラ叔母は寂しそうに見えた。彼女は父のローレンよりも年上だって聞いたけれど、スラン叔父よりも老けて見えたことがあった。
「大丈夫っていうわりにはちょっと赤いようね。夕餉を食べたら冷やしたほうがいいわ」
「すみません」
「いいのよ。それに、あなたもミラも叱りませんよ。
さあ、ガイル、夕餉にしましょう」
「…はい」
結局、ファルコに行くのはディーンになったようだった。ガイルはフィロンとはなにしろほとんど話した記憶がなかったので、ほっとした半分、ミラの言ったことが本当になったんじゃないかと思って不安でもあった。
ディーンは相変わらず機嫌が悪く、ガイルだっていい気持ちじゃなかったから、最低の道中だった。ファルコまででよかった。1日半で行けるところだ。
そして、出かけるときにも、ディーンとアニーナはガイルのことをちらりと見て、なにごとか囁きあったようだった。
もしも父に言われたことを思い出せなかったなら、ガイルは叔父のまえだろうとディーンを殴ろうとしていたかもしれない。体格ではずっと負けていたにもかかわらず。
それは、父がまだ若かったころに、スラン叔父に言われたのだという。
出発の日、ガイルは叔父に会うことができて、少しだけ話したのである−−−ということは、この家の人びとで彼がいちばん話すのはどうやらミラで、叔父は2番目か3番目だったらしい。
「遺恨は子々孫々まで残るが噂は1年と持たない」
叔父とそんな話をしたわけではなかった。
ガイルは両親が1人でファルコに行くことを許してくれ、叔父の助言が父を動かしたことに礼を言った。いずれ父の跡を継ぐものとして、責任と義務を果たしていけるようになりたいと言うと、叔父は頑張れと励ましてくれた。それから、叔父はいつものように両親は元気かと訊ね、ガイルも元気だと答えた。
叔父は52歳だが、とてもそうは見えない。しかも、スラン叔父といったら、ずっと父のローレンとは対照的な人だと聞かされてきたので、会うまえはずいぶん不安もあったものだ。
でも、実際に会って話をしてみたときのガイルの感想は、2人ともよく似ているということだった。どっちも真面目で厳しい。
出発前はとうとうフィロンに会わなかったが、それはいつものことなのであまり気にもならないはずだった。ミラが余計なことを言わなければ。
そして叔父は、ディーンが名残惜しそうに振り返るなかで、婚約者のアニーナを「話がある」と言って、連れていったのだった。
「まったく親父ときたら…」
道中ずっと口をきかなかったディーンだったが、野営を初めて間もなく、独り言のように呟いた。
実際それは独り言で、ガイルが答えず、聞こえなかったふりをしていてもそれ以上は聞こえてはこなかった。
それではディーンときたら、一日中今朝のことを考えていたらしい。アニーナがスラン叔父に連れていかれた件だ。
ガイルは内心驚いて、ミラの言ったことは本当どころかそれ以上だったんだな、と実感した。
しかし、ディーンが黙っていられたのは少しのことで、ガイルがそろそろ寝ようかと支度を始めたころになって、一方的に話しかけてきた。
「おまえのところは一人っ子だからいいよな」
「…そんなことないよ。俺だって、兄弟がいたらよかったのにって思うもの」
「兄弟? おまえ、そんなものがほしいのか? 一人っ子なら、間違いなく父さんの跡を継げるじゃないか。楽でいいなって言ってるのさ」
なにもガイルだって、そんなに兄弟が欲しいというわけではない。ただ、そうでなくても機嫌の悪いディーンに、当たり障りのない答えをしただけだ。
「ディーンだって長男だろう。叔父さんの跡を継いでトラビスに残るんじゃないか」
彼はふんと鼻を鳴らした。話しかけてきたときとおなじように一方的に話を切り、火を挟んでガイルの反対側ですぐに寝息をたてはじめた。
ガイルは食い下がろうとは思わなかった。もともとディーンのほうから話しかけてきたのだ。こっちは寝ようと思っていたのに。
それに、彼のほうから話しかけても、ディーンが怒り出すのは目に見えている。わざわざ喧嘩を買うこともあるまい。
それでも彼に訊きたいことがあるとすればアニーナとの内緒話だ。叔父が彼女を連れていったのもそのせいなのにちがいない。
だいたい、アニーナは最初からそうだった。言いたいことがあるなら、はっきり本人に言えばいいんだ。
スラン叔父とディーンが似ていないのはそんなところでもあった。
(……そう言えば、ミラも変なことを言ってたよなぁ…)
出かけるまえに彼女と会わなかった。ガイルにとってはそのことが心残りであった。
トラビスからファルコまでは1日半の距離である。道は平坦でなだらか、はっきりした街道を辿ることができるのだから楽なものだ。
ファルコはアダモン島北部ではいちばん大きな町である。
町と村の大きなちがいについて、ガイルは長いこと面積だとか、周囲を柵で囲われているとかだと思っていたのだが、どうやら間違いだったらしいと最近気がついた。
たとえば、トラビスやモールニアを比べてみればわかるのだが、大きさこそちがいはあれ、形はよく似ている。つまり、農地と家が隣接していて、全体を眺めると農地のなかにぽつんぽつんという感じで家がある。
どちらの村も、街道が村の真ん中を貫いてはいるけれど、それが主要な道路というわけでもなく、互いに行き来するには農地の端を歩けば充分だ。
ところが、ファルコとトラビスは全然似ていない。ファルコでは家だけで町を形成している。農地は柵の外にあって、農業に携わる人びとは毎日出かけていく。
ファルコにはおなじファルコ部族に属するいくつかの氏族と、ちがう部族に属する氏族が一緒にひとつの町を造っているが、町のなかで緩やかに区画分けがなされていた。
ファルコのヘイズ氏は、町の真ん中、2ヶ月に1度市が立つ広場に面したところに二階建ての家を構えている。おそらく、ファルコでもいちばん大きな家の一つだろう。
家が大きいのは、ファルコが薬草の交換のために、ヘイズ氏のものが集まるからだ。2ヶ月に1度の交換会はアダモン島全島でただ2ヶ所、ヴェラとファルコでしか行われることはない。たったの2ヶ所なのは、薬草にしても情報にしても、交換するのなら相手が多いほうがいいからである。
たとえ町であっても、雨期のことを考えれば床は高いほうがいい。
けれど、乾期のあいだは家屋の下は空いてしまうので、アダモン島北部から集まったヘイズ氏は、そこで交換会を行う。
「ようこそ、ディーン、ガイル」
ファルコの若き当主、クラレンスが2人を出迎えた。彼は物腰の穏やかな人当たりのよい人物で、女性のように長い黒髪を、編まずに背中で一つに束ねている。しかし、柔らかな外見と言葉とは裏腹に、いざとなれば男らしく、混乱に陥ってしまいがちな交換会をうまくまとめあげてもいた。
「またお世話になります」
ディーンとガイルは似たようなことをばらばらに言った。
クラレンスはたいていにこにこしているのだが、今日も笑いながらガイルに訊ねた。
「1人で来ることができるようになったのですね」
「はい! やっとお許しが出たんです」
「あなたもいよいよ子どもではなくなったわけですね。でも、チェニーがあなたを待っていたのですけど、いいですか?」
「喜んで、クラレンス」
気がつくと、ディーンはもう割り当てられた部屋に引き取ったらしかった。このまえまで母と一緒だったガイルとちがい、他の見習いの若者たちと一緒の大部屋だ。
ガイルは、そういえばいまのディーンの年にはクラレンスにはチェニーが生まれていたことを思い出した。そのころのクラレンスを彼は知らないが、23歳で結婚というのは、ヘイズ氏の標準ではかなり早いほうで、彼は天才とも言われていた。
「ガイルー!」
チェニーはクラレンスの2人目の子どもだが、生きているなかでは1番目の子だ。4歳で、女の子だからか、しゃべるのが早く、おしゃまさんである。彼女は集まってくるヘイズ氏のなかではガイルが最年少であるためか、妙になついてくれていた。
「やあ、チェニー、久しぶり。元気だった?」
「ねぇ、サリアはー?」
「母さんはしばらく来ないんだ。今度から俺が1人で来るようになったよ」
ガイルが部屋に行こうとすると、チェニーが足下にまとわりついた。
「チェニーねぇ、チェニーねぇ」
「待ちなさい、チェニー。ガイルに荷物くらい降ろさせてあげたらどうなんですか?」
「あーい」
ガイルはそんなに疲れていたわけじゃなかった。が、クラレンスの言うとおりだ。こんな嵩張る荷物を背負ったままでチェニーとなんか遊べやしない。
「クラレンス、俺、もう個室じゃなくていいですよ。母さんもいないんだし、みんなと一緒でも」
珍しくクラレンスがわずかに眉をひそめたように見えた。
でもガイルはその訳は訊かなかった。彼は両親とスラン叔父に次いでクラレンスを信頼していたから。必要なことなら、彼のほうから話してくれるだろうと思っていたのである。
「そうですね。でも、今日はこちらに用意してしまったから、ここに泊まってもらえますか? それにあなたが差し支えなければ、ずっとここを使っていてもいいんですよ」
「考えてみます」
「ねぇ、ガイル、ひとりでさみしいのー?」
「チェニーが来てくれると寂しくないんだけどなぁ」
「チェニーねぇ、いつもおかあさんとねるの。でも、ガイルのところにもあそびにいってあげるねー」
「ありがとう、チェニー」
彼は荷を降ろすと、すぐにチェニーに手を引っ張られた。
クラレンスに手を振ると、彼は「よろしくお願いします」と言って振って返した。
外に出ていくとき、他のヘイズ氏の見習いたちに混じって、ディーンの笑い声が聞こえてきた。そんなに彼が好きというわけじゃなかったけれど、ガイルはちょっぴりうらやましいような気がした。残念ながら彼と同年代の少年はファルコに来るもののなかにはおらず、いちばん近いのがミラという有り様だったからだ。
だから、小さなチェニーがはしゃいでいるのを見ても、ガイルはけっこう複雑な気持ちだった。チェニーは可愛いし、なつかれるのも嬉しいのだけれど、やっぱり同年代の友だちも欲しかった。
帰り道ははしゃぎすぎて疲れたチェニーを背負っていくことになった。
ガイルはふっとクラレンスが眉をひそめたわけと、ディーンとアニーナの内緒話がおなじこと、つまり自分自身を指しているのではないかと思いついた。
それがなんだというわけでもないのだけれど、彼はこっそりとため息をついたのだった。
「さあ、始めましょうか」
夕餉を軽くとって、クラレンスが皆に声をかけた。それを合図に皆はぞろぞろと出ていった。
ガイルはクラレンスを待って、最後尾からついていった。
薬草の交換会はいつも日没から始められる。そのほうが涼しいし、ヘイズ氏以外の人びとに見られなくて済むからだ。
しかし夜に出かけるのはあまりいいことではないので、野営しているときと同じように〈結界〉を描くし、なにかあればファルコの当主に従わなければならない。
それも道理で引退したクラレンスの父親以外には、成人しているヘイズ氏の男子はこの場には1人−−−つまりクラレンスしかいなかったからである。
「ガイル、今日はあなたが〈結界〉を描いてもらえますか」
「俺が?」
「このなかで〈結界〉を描いたことがないのはあなただけなんです。あなたも見習いになったんでしょう? 何事も練習ですよ。家が入るように大きく描いてもらえますか」
「はい!」
クラレンスから渡された木のペンはガイルが使っているのとはちょっと形が違っていた。
「聖霊シアン、今宵はあなたの子らが集います。どうぞ心穏やかにすごさせてください」
祈りの言葉を唱えて、ガイルは走って〈結界〉を描いた。いつも描くのとは勝手がちがう。馬鹿にされないように頑張ったのだけれども、大きいものだから、ちゃんと描けたかどうか心配だった。
〈結界〉を最初に越えたのはクラレンスだった。彼は真ん中には立たない。一度に見えないからで、他のものも車座ではなく、扇形に座らねばならない。
「ありがとうございます、ガイル。あなたはこちらにいらっしゃい」
モールニアのヘイズ氏の立場は集まってくるもののなかでも特別だ。交換会の最大の目的は、不均等な薬草の所有をできるだけならすことだ。モールニアで手に入る薬草の多さは他の町村の比ではない。もちろん、逆にモールニアでは決して手に入れられない薬もあるわけなのだが、交換というには荷物は帰りには少なくなるのが当たり前だった。
交換会は順調に進んで、ガイルは持っていった薬草がなくなるのを見ていた。ヘイズ氏の仕事には儲けという要素がない。農業ならば余剰生産物も求められるが、ヘイズ氏の場合は社会への奉仕という意味が濃く、損得で割り切れることではないからだ。
夜も更けたころ、やっと交換会は終わる。必要と思われるだけの薬草をみなが手に入れたと思えたときが終わりだ。
だから、いつも決まった時間に終わるというわけではなく、早いときもあれば遅いときもある。今日も場は白熱していたが、混乱しそうになるとクラレンスが口を挟んだ。
「ヴェラやコーストの方々からなにか知らせはありましたか?」
「いいえ」
「それでは今日は終わりにしましょう。みなさん、適当に休んでください。最後の方々は灯りを忘れないで」
明日からまたモールニアへの帰り道があることを考えて、ガイルはいつも早く寝てしまう。たいていは、明日も仕事のあるクラレンスと一緒に場を立っているのだが、今日に限ってクラレンスだけが引き止められた。
さっき喧嘩になりかけたのを彼が仲裁していたからそのことなんだろう。ガイルはあまり深く考えず、しかも眠かったのでさっさと寝ることにした。
「おやすみなさい」
みなが口々に答える。
そのまま眠ってしまえばよかったのだ。なにも考えず、眠ってしまえれば。
でもガイルはそうできなかったろうって後になって思ったりもした。それも彼がずいぶん大きくなって、忙しくなったころにふっと思い出したりしたのだ。
あれはもう、そういうふうにできていたんだとしか説明しようがない。
クラレンスの返事が聞こえなくてガイルは振り返った。でも遠目に見てもその横顔はそれどころではないと語っていった。戻ろうとしてガイルは思いとどまり、深入りするまいと考えた。
けれど、成人前の男子ばかりが残ったなかで、クラレンスはたった1人きりでいるように見えたのだ。それは彼だけが結婚しているという理由からではなさそうだった。
彼はふっとため息をつき、改めてガイルに「おやすみ」を言った。
1人で戻ると個室は真っ暗で寂しかった。やっぱり今度からはみんなとおなじ部屋にしてもらおう。今日は我慢しなけりゃならないとしても。
だが、1人というだけではなしにガイルはなかなか寝つかれなかった。だいたい、寝なければと意気込んだときに限って、いつまでも眠れないものだ。
それでも彼はずいぶん長いこと、寝ようと頑張ったような気がしたのだが、とうとう我慢できなくなって部屋を出た。
すると、外の灯りがまだついていたので、あれから大した時間が経っていないのか、逆にみんながまだ起きているのかと思ったのである。
昼間のあいだに水を飲むのを極力遠慮していたもので、多分喉が乾きすぎたんだろう。
ガイルはまずは一階に降りていった。頭は冴えているので、水瓶の位置はちゃんと覚えていたのだが、そこへ行く手前で、彼はつい耳をそばだてた。
「もうおやめなさい…!」
クラレンスの叱咤する声だった。
「堂々めぐりですよ、これじゃあ。あなたは信じないと仰り、我々は疑わしいと思っている。互いの主張が平行線を辿っています」
「疑わしい? なにも知らない方々に限って、あることないことを騒ぎ立てるものですね。なにを根拠に疑わしいなどとふざけたことを仰るんです」?
「明らかな事実じゃないですか。それに、ヴェラやコーストの長たちだって、疑わしいって判断されているんですよ」
「そうですよ。お願いです、クラレンスさま。我々は彼と、正確にはモールニアと取引の大半を行っているんです。あなたが真実を確かめてくださらない限り、これ以上黙っているわけにはいきません」
「彼は明日発ちます。そんなことを確かめている暇などないでしょう。それにわたしは彼を信じています。引き受けることは彼への裏切りです」
「…では、我々はこれ以上ファルコに集まるわけにはいきません。いや、彼が来るのならば、どこにも集まるわけにはいかないでしょう」
「卑怯な…! 見習いの分際で、わたしを脅かすつもりですか?」
「卑怯? なにかあってからでは遅いんです。それに、我々は父からの手紙をお渡ししたはずですが?」
「手紙については拝見させていただきました。どなたもおなじ意見だったようですが、ディーン、あなたの父上からは頂けなかったのですが、後継者たるあなたの考えを、スラン殿はご承知なのですか?」
「父は実の息子よりも甥のほうがかわいいんですよ。昨日まではそれどころじゃなかったですしね」
「クラレンス、やっていただけるんですか?」
「事実が確認されれば、我々も気にしないで済みます。もちろん我々だって、そうなることを望んでいるんです」
「もうおやすみなさい。あなた方だって、明日には発つことに変わりはないでしょう?」
「では、明日の朝には結果を出しておいていただけるのですね?」
「そうしなければ、我々は次の交換会には集まりません」
「……明日の朝、申し上げましょう…」
階段を昇ってくる足音が聞こえた。
杖をついている。クラレンスだ。
追いかけてくる足音はない。他のものは、まだ話し込んでいるらしいが、もう聞き取ることは難しい。
ガイルは逃げるようにして個室に戻り、このときばかりは二階であることに感謝した。いいや、この先もずっと、彼はファルコでは個室に泊まりつづけるだろう。
「起きていますね、ガイル…?」
クラレンスが来たのは、それからしばらく経ってからのことだった。
当然ガイルが寝つけるはずはなかった。
答える代わりに暗がりで身を起こすと、たった1本の蝋燭の明かりが、目を刺すように眩しかった。
「…さっきの話をどれだけ聞きましたか?」
「最後のほうだけです…でも、最初は俺のことだなんてわからなくて…盗み聞きしちゃいけないって思ったのに…ごめんなさい……」
「わたしなどに謝らなくてもいいんですよ。結局はわたしも彼らとおなじ、卑怯者なのですから…。
でも信じてください、わたしはあなたを信じているんです…!」
「なんの話なんですか? 俺のこと、みんなはなんだって…?」
「…悪霊憑き、だそうです。あなたが病弱だったことは、近隣のヘイズ氏で知らぬものはありませんでした。あなたは11歳になってから初めてファルコに来ましたが、決して遅すぎるというわけではありません。とくにモールニアからトラビスまでは長く、道も険しいですから、1人で旅ができるようになるにはちょうどいまのあなたぐらいが適当でしょう。
あなたの場合は、問題なのはその回復の仕方でした。あなたのような例が過去になかったというそれだけのことなんですが…だれがこんな話を始めたのかはわかりません。でも、人の口に戸は立てられなかったというわけです」
ガイルはクラレンスの腕を掴んだ。
「俺、やましいことなんかないです。健康だし、悪い夢も見なくなりました。だから、それでみんなが納得してくれるなら、調べてください」
「…それでは、あなたやローレン殿の名誉はどうなります…?」
「そんなこと気にしないでください。噂はいつか消えるものだって父さんに聞きました。父さんは、ずっとまえにスラン叔父さんに聞いたそうです。だから、俺は…!」
クラレンスはやっと微笑み、ガイルをそっと抱きしめた。
「あなたは強いのですね。
夜も遅いですが、こんなことは早く終わらせてしまいましょう…」
「はい」
「そこに立ってください。そう、それでいいです。すぐに終わりますから」
ガイルは内心ではなにかあるのではないかとびくついていたが、クラレンスが知らない言葉を唱え始めても特に違和感はなかった。
だが、ガイルはたった一度だけ肩越しに振り返って見上げた。そこにだれか立っていたような気がして、確かめずにいられなかったのだ。
その感触はすぐに消えてしまったので、彼はクラレンスに悪いことをしたような気持ちになった。
「…? どうかしましたか…?」
「いいえ、なんでもないんです」
すると彼は、ガイルの肩にぽんと手を置いた。
「あなたも大丈夫でしたよ。みなに返事を書きましょう。ただの中傷だったってね。まったく、子どもが惑わされるならいざ知らず、大の大人までその気になってしまうなんて…恥ずかしいことです。
わたしが至らないばかりに悪いことをしてしまいましたね…でも、スラン殿の言われるとおりですよ。噂はいずれ消えます、だから気を落とさないで。彼らも二度とこんな馬鹿げたことは言い出さないでしょう。
さあ、もう寝ましょう」
部屋を出ていきかけて、クラレンスは振り返った。
「ガイル、明日はディーンを先に立たせようと思います。スラン殿への手紙も持たせてね。だから、あなたはもう1泊していってください」
「わかりました」
「ではおやすみなさい、ガイル」
「おやすみなさい、クラレンス」
クラレンスが本当にいなくなると、ガイルはもう一度肩越しに見上げた。
左肩のところだ。クラレンスが不思議な言葉を唱え始めたときには、そこにいたように思ったのに。
彼は左肩に触れ、ふっと思い出したのは3年前のことだった。祖父が亡くなった、その日に見た夢のことだ。
あの夢のなかでガイルと話したのはただ1人の女性だけだったけれど、あれから、たとえ夢のなかででも彼女に会えた試しはない。
彼女が「プエナ」と囁いたときに、ガイルのなかで生まれたときから燻っていたようだった病は消えて、彼はすっかり健康になったのだ。
その彼女が「悪霊」じゃないとどうして言えるだろう。ディーンたちの主張していた「悪霊憑き」の正体なんて、いったいだれにわかるだろう。
ガイルは耳を押さえた。彼女が囁きかけたのも左耳、だれかいたように思えたのも左側だ。
「たったそれだけのことじゃないか…! 偶然だよ、偶然に決まってる。そんなことよりもう寝なくちゃ……」
それなのに、きつーく目をつぶって瞼の裏に浮かぶのは、光と影のように対照的だった、ふたつの手、1人の両手だった。
翌日、ガイルはほとんど寝られなかったが、皆が出発するころになると目を覚ました。
自分が出ていって、彼らによけい嫌な思いをさせることはあるまいと、残ったのが自分だけになるまで、個室でごろごろ、寝たり起きたりしていた。
おかげで朝餉を食べ損ねたが、昼餉にはクラレンスの妻ファニーが不承不承といったようすで呼びに来た。
その目つきで、ガイルは彼女もまた、噂を信じていた1人だったのだなと気がついた。ならば、チェニーと遊ぶことはもうないだろう。疑いは彼女の夫自身によって晴らされたとはいえ、チェニーは大切な一人娘だから。
とはいえ、ディーンと出発する日をずらした以上、その日も泊まらせてもらうつもりだったガイルは、珍客の訪問ですっかり予定を狂わされてしまった。
昼餉を食べ始めて間もなく、1人の大男がヘイズ家に現れたのである。
「どちらさまでしょう?」
ファニーは不機嫌さを隠しもせずに訊いた。
「俺はコーストのクレスとユーナの息子、ハザードだ。こちらのヘイズ氏にお目にかかりたい」
「まあ、すみません。いま呼んで参りますので、どうぞお上がりください。よろしかったら、昼餉をご一緒に如何です? いま、ちょうど食べ始まったばかりですし」
「それはありがたい。しかし、俺は遠慮しない質ですからね。食べ過ぎだったらご遠慮なく言ってください」
ガイルは内心ではびっくりするととも、吹き出しそうなのをこらえた。
ハザードの言い方は明らかにファニーへの当てつけだ。コーストのクレスといったら、ヘイズ氏の副長で、ハザードはその後継者だったから、いくら彼女が不機嫌だったとはいえ、態度を改めざるを得まい。それが気に入らなかったのだろう。
そのハザードは、早速ガイルやチェニー、それに引退したクラレンスの父がいるところに遠慮なく入ってくると、まずどかっと座った。
文字どおり、どかっ、だ。
「話は聞こえておりました。ようこそ、ハザード。わしはファルコのヘインツですじゃ。いまは引退して、息子に譲りましたがな」
「存じております、ヘインツ殿。クラレンス殿の天才ぶりは、コーストまで聞こえておりましたから」
乾期のあいだは、昼餉がいちばん量を食べる。ハザードはいかにも長旅のあとというようすで汚れて、腹も空かしていたようだった。まず辛く煮込んだ羊の肉をとり、むしゃむしゃと平らげた。
「これは失礼。ヘインツ殿、そちらの坊やは、クラレンス殿の弟ですか?」
老人は笑ったが、ガイルは笑うどころじゃなかった。
「俺は坊やじゃありません。モールニアのローレンの息子、ガイルです」
「モールニアの? ではこれから帰るところかい?」
「ええ」
「それは良かった。俺はこっちに来たのはなんせ初めてなんだ。ガイル、非礼は詫びるから、トラビスまででいいから、一緒に行ってもらえないかな?」
「あっ…! あなた、もしかして、ミラの婚約者の?」
「おやおや、情報が早いな。そのとおりだよ。彼女を迎えに来たんだ」
ガイルは激しくせき込んだが、ハザードはその理由までは感づかなかったようだ。あとはまったく当人の言うとおり、遠慮なしに食べていた。
間もなくクラレンスがやってきて、彼と一緒に去ったときは、ガイルはクラレンスの食べる分が残っているか案じないではいられなかった。
昼餉を食べ終わると、ハザードがもうガイルを待っていた。水浴びくらいはしたのか、さっきよりもこざっぱりした格好だ。
「さあ、行くとしよう。おまえ、どうせ交換会のあとじゃいつでも発てるんだろう?」
「ちょっと待っててください。俺、今日は泊まっていくつもりでいたから、支度してこないと」
「早くしろよ。そうしないとおいていくぞ」
案内しろと言ったわりには図々しい言いぐさだ。ガイルはちょっとだけ腹が立ってきていたが、あんまり真面目に相手をしないことにした。
もっとも支度のほうは簡単に済み、クラレンスに報告に行くと、彼も予定外だという顔をして、それでも封をした手紙を2通手渡した。
「これではディーンに先に発ってもらった意味がないですね。でも、ハザードを迷わせてしまうわけにもいかないでしょうし、お願いしますよ、ガイル」
「迷うような道じゃないと思うんですけど、初めてのところじゃしょうがないですね。でも、あの人なら迷ったって、どこかを通って、ちゃんと来れそうな気がするけど」
「ガイル、手紙を忘れないでくださいよ」
「大丈夫です。ちゃんと渡しますよ。それじゃあ、お世話になりました」
「お気をつけて」
手紙の宛名は1通が叔父のスランで、もう1通は父にだ。まったくヘイズ氏とは不便なものだ。成人してからは自分の家で動くのだって困難なのに、本当に大切なことを話したくなるのは、大人になってからのほうが多いだろうからだ。
「よお、来たな。さあ、行こうぜ」
ハザードは、体格も大きくて亡くなった祖父とおなじくらいありそうだが、態度もでかかった。将来の副長ともなれば、そんなものなのかもしれない。
最初のころはガイルが先に立って進んだ。もしもハザードを先頭に立たせれば、たとえ知らない道に出たって堂々と歩いていくだろうだからだ。
でも、ファルコからトラビスまでの街道は本当に彼が言ったとおり間違いようがないのだけれど。
街道には彼ら以外に人はいなかった。トラビスまで行くものは珍しく、その先のモールニアとなれば皆無だ。
もちろん、ハザードもだれもいないことを確認したからあんなことを言ったのだろう。
「ガイル! ちょっとこっちを向いてみな」
「なんですか、いったい?」
まったく自分勝手な男だ、と彼が思う間もなく、ハザードはぽつりと呟いた。
「悪霊憑きには見えないな」
「…?!」
「顔色が変わったな。おまえだけのんびりしているからおかしいと思ったっていうこともあったけどな。おまえのことはヴェラやコーストでも噂になっていたからな。
でも安心しろ、事実無根の噂だよ。ニール殿には俺のほうから報告しておこう、もちろん親父たちにもな」
「それはどうも! でも生憎ですけどね、昨日のうちにクラレンスさまが調べてくれたんですよーだ。いまさら、あなたにまで念を押されても嬉しくはありません」
「気の強い奴だな。まあ、いいか。おまえと会うのももうないだろうしな。もっとも、おまえが結婚して子どもができれば、命名式を行うのは親父じゃなくて俺だろうけれどね」
ガイルが返事をしなかったので、ハザードはふふっと笑った。
「なにがおかしいんですか?」
「コーストの話でもしてやろうかと思ったけど、聞きたくないだろう?」
「そんなこと…そんなことないですよ、べつに」
本当はガイルは聞きたくてうずうずしていたし、ハザードのほうだって話したそうだった。
実際、ハザードはほとんどガイルにはしゃべらせなかった。彼はコーストという町が好きで、誇りを持っていることがよくわかった。
それで、ガイルは一晩一緒に過ごしただけなのに、ハザードのことが好きになっていたが、それはミラを彼にとられてしまうということでもあり、複雑な気分だった。
「ハザードはどれくらいトラビスにいるの?」
「そんなに長居はしないさ。今月中にファルコに帰らないと、再来月にコーストに着けなくなるからな。
だいたい、おまえ生意気なんだぞ。俺のことを呼び捨てになんてしていいと思っているのか?」
「だって、ハザードだって成人していないじゃないか。俺はハザードよりずっと年下かもしれないけど、条件は対等だもん。
ねぇ、それよりも今月中にファルコに行くって?」
「そうさ。今日は11月25日だろう? ファルコまでは1日半かかるんだから、その計算で発たないとな」
「ミラまで連れていっちゃうのかい?」
「彼女は俺の婚約者だし、副長はふつうのヘイズ氏とはちがうからな。親父が勝手がちがうって戸惑われても困るから、早めに呼んでおけって。
そんな、新婚早々勝手知ったる女房だなんて、かわいげがないよなぁ」
そういう問題じゃないとは言えなかった。彼はミラの年下の従弟で、それ以上の存在ではないし、あってもいけない。
意気揚々とトラビスに入っていくハザードとは対照的に、ガイルはだんだん気が重くなっていた。ハザードの案内など引き受けなければよかったのだ。
「叔父さん、これをファルコのクラレンスさまから預かってきました」
スラン叔父にはハザードが先に会った。順当な順番というものだ。ガイルのはただの挨拶で、ハザードはミラの婚約者だから。
半日先に帰ったディーンに、クラレンスがどんな手紙を渡させたのかは知らないが、叔父はいつもより厳しい表情だった。
「ガイル。クラレンス殿からローレン宛にも預かっているだろう? それも渡しなさい」
彼はすぐに言われたとおりにした。それから、叔父がおもむろに手紙の封を切ったので、ガイルはミラを探しに行こうとしたが、引き止められた。
「でも、叔父さん…」
「ミラにはあとで皆にまとめて挨拶をさせる。おまえはそれ以上の挨拶をすることは許されない」
「それ以上ってなんですか? 俺がミラとなんだって言うんですか?」
「従姉弟同士、それだけだろう」
叔父の口調は怒っているというより、むしろ諭すようだった。しかし目は手紙に向いたままだ。
「叔父さん、俺はミラのことが好きだから、ずっと家にいたし、一人っ子だから、姉さんみたいに思えて、それで挨拶をしてきたいって思っただけなんです。だから、俺たちは、それ以上でも以下でもありません…」
彼が語尾を濁すと、叔父は初めて手紙から目を離した。
「叔父さんの言いたいことぐらい、俺にだってわかります。でも、ミラと結婚したいとか、できるだなんて思ったこともありません。俺、そんな大それたことを考えたことないです、ちょっと参ってるだけなんです。だって、ハザードはいい人だったから、姉をとられたような気がしているだけなんです」
すると、珍しくスランが微笑んだ。手招きをされたので、ガイルは素直に従った。
スランの大きい手が頭のうえに置かれると、思わず重みで首が垂れた。それだけのことで、もう彼は堪えられなくなっていた。
いろいろなことが一昨日の晩からありすぎて、ずっと頑張ってきたのに、涙が1つ落ち、2つ落ちしていくのを見ているうちに、彼はとうとう泣き出していた。
まだ堪えられる、まだ頑張れる。
そんな言葉が喉の奥に消え、彼は大きくしゃくりあげた。何度も何度もしゃくりあげて、ずっと堪えてきたものが吹き出したようだった。
叔父は最後にガイルをぎゅっと強く抱きしめてくれて、彼はその晩はぐっすりと眠ることができた。叔父が父への手紙を預かったわけも納得したような気がした。
だから、震撼するような出来事が起こっていたと気づいたのは、目を覚ましてからのことであった。
11月だというのに雨が降っていたのだ。
目を覚ましたガイルはその音に驚き、眠気も一気に吹き飛んだ。けれど、驚いたのは無論、彼だけではなかった。
叔父も叔母も、ハザードもディーンもフィロンもミラも、ヘイズ家の人びとも、トラビスの村人もだれもが驚き、困惑していた。
なぜなら、それだけはあるはずがなかったし、あってはならなかったからだ。
アダモン島の生活は1ヶ月おきの雨期と乾期を絶対的といってもいいぐらい基準にしている。そのなかで日々を営み、年月を重ねてきたのだ。農業も漁業も、冠婚葬祭もすべて1ヶ月が基準だったのである。
だが、そんな理由以上に、奇数月には降らないことが当たり前だった雨が降ったという事実のほうが恐るべきことだった。
「……おかしい…」
ハザードの低い呟きに、ガイルははっとしてその横顔を見つめた。
(…そういえば、どうしてヘイズ氏の長はヴェラで、副長はいつもコーストからって決まっているんだろう…? ハザードはなんだか知っていそうだよな…俺たちにはできないことを、ハザードは教わっているんだろうな……)
ガイルはハザードに気づかれないように視線をそらしたが、彼はもう叔父と話し込んでいて、彼は今日ハザードとミラがコーストに向けて長い旅に出立しようとしていたことを思い出したのだった。
「……雨が降っては出かけられません。スラン殿、話があるのですが、よろしいですか?」
「いまのうちだろうな。マイラ、お客人が来ても、いつもの場合以外は帰してしまってくれ。おまえでは措置できないようなことになったらわたしを呼びに来てもいい。ガイル、おまえはマイラを手伝ってやれ」
「はい、あなた。ガイル、お願いするわね。それにミラも一緒に来なさい」
2人とも同時に頷いた。
でも、本当はガイルはハザードの話が聞きたくてたまらなかったのだ。
幸いにしてその機会にはすぐに恵まれた。お客人は少なく、そわそわしていた彼を、叔母は間もなく解放してくれたからだ。
けれども、スラン叔父の部屋にこもったきりで、2人はなかなか出てこようとはしなかった。
ガイルは用もないのにそのまえをうろついて、ときどき耳をそばだててみたりもしたが、どちらの声も聞こえてはこないのだった。
とうとう廊下に座り込んだ彼は、いろいろと勝手な憶測を巡らせて時間を潰した。
「こんなところでなにをやっているのよ?」
「ミラ。叔父さんとハザードさんの話を聞かせてもらいたかったんだけど、2人ともこもっちゃって出てきやしないんだ。勝手に入るわけにもいかないしさ、ここで話が終わるのを待っているの」
「じゃあ、あたしもここで待たせてもらおうかな。2人を昼餉に呼びに来たんだけど、のんびりごはんなんか食べたい気分じゃないもん」
「…ミラは呑気だな」
こっちの気も知らないで、という言葉をガイルは無理に飲み下した。本当なら、今日はミラと話す機会はないはずだったのだ。彼はそのことをよく肝に命じておかなければならなかった。
「ねぇ、このまま雨期に入っちゃうのかしら…? そうなったら、あたしとハザードはいつコーストに行けるんだと思う?」
すっかり彼女はハザードの女房気取りだ。
「そんなこと、俺に訊かれたって困るよ。俺だって、もしかしたら、叔父さんやハザードさんならなにか知ってるかもなって思っただけなんだから」
「つまんないの…!」
扉が開いたので、2人とも口をつぐんだ。と同時に、自分たちが間の悪いところにいたことに気づいて赤面した。
「立ち聞きとはあまりいい趣味じゃないね、婚約者殿」
「父さんと2人だけで内緒話なんてしているからよ。それで、どんな悪企みをしていたのかしら?」
「ミラ、軽口を叩いている場合ではない。おまえとハザードは雨が止むまでトラビスに残ってもらわねばならないのだ。だが、ガイル、おまえはどうする?」
「俺は…さっき、ハザードさんが言ったことの意味を知りたいんです。おかしいってそう言いましたよね? 俺の父も11月になっていつまでも暑いのは変だって…なにがおかしいんですか? どっちにしたって、俺だって雨が止まなくちゃモールニアには戻れないんですから」
「……ほーら、スラン殿。やっぱりこいつは気づいてるだろうって言ったじゃないですか」
「気づいてないとは言わなかった。だがガイル、成人してもいないおまえが知ってどうするつもりだ?」
「なにもできなくても、俺はなんにも知らないままでいるのは嫌です! 俺はちゃんと知りたいし、いつだって自分で判断できるようになりたいんです」
「生半可な知識は逆に命取りになるし、知っていれば常に適切な判断がくだせるわけではあるまい」
「叔父さん!」
「しかしスラン殿、こういう知りたがりになにも教えないというのはかえって危なくないですか? しかも、いかにもなにかありげだとほのめかされたのでは、いくらなんでも酷というものでしょう」
叔父はハザードの言葉にいい顔をしなかった。が、その言い分には一理あると思っていたのだろうし、なにより好奇心旺盛なことでは自分やローレンの比ではないガイルを相手に、これ以上「知るな」の一点張りで済ませられるものじゃないとわかっていたのかもしれなかった。
間の悪いことに、その隣にはミラまでいた。好奇心の強いことでは彼女だって似たようなものだ。ただ、ガイルがあくまでも自分で聞いて判断したいという信念(?)があるのに対して、ミラの場合は本当に好奇心だけなのだ。
けれども、またハザードが口を挟んだ。
「スラン殿、ミラはいずれわたしの妻になります。ガイルに教えてやるというのなら、まずミラこそ知っているべきでしょう」
「…ハザード、次の副長になるべきものとしては、おまえは少しおしゃべりがすぎるようだな。だが話すと言った以上、ガイルにもミラにも話さないわけにはいかない。来なさい、2人とも」
ガイルがちらっとハザードを見ると、彼はだれに見せるでもなしに肩をすくめた。
それ以上に印象的だったのは、いつになく青ざめたようすのミラだった。口ではどんなに強気なことを言ってみせても、彼女だってやっぱり怖いのだ。それはもちろんガイルもおなじことだった。だからといって、知りたいという気持ちにいまさら歯止めがかけられるはずもなかった。
「座りなさい」
ガイルもミラも言われたとおりにし、少し遅れてハザードが腰を下ろした。
端の切れた藁の座布団は、自分の家にあったものよりもずっと古いようだ。
「おまえから話せ」
「そうですね」
とハザード。
「さて、と…俺もまだ見習いなんで、あまり詳しく話せるわけじゃない。ただ最初に言っておくが、ヴェラとコーストのヘイズ氏が長と副長をずっと勤めてきたのにはそれなりのわけがあるってことさ。ヴェラの長がどんなことを知っているのかは俺も知らないし、親父も表面的なところしか知らないらしい。教えてしまったら秘密にならないからね。
それで、コーストのヘイズ氏がなにを知っていて、できるかだが……」
彼はそこで言葉を切って、雨の音に耳を澄ませた。ガイルもミラも、ついそれに倣ったが、雨は強くなり弱くなりしているようだった。
「いつもの雨の降り方とちがうだろう…?」
「え…?」
何気なしに聞いていたので、ガイルはハザードに言われて、改めて耳を澄ました。注意深く、今度は雨の音だけを聞くようにした。
「そう言われてみればそんな気もしますけど、でも、これがあなたの言うこととどう関係があるんですか?」
「大ありなのさ。なぁ、この世界で起きる出来事には必ず原因があって結果がある。因果関係という奴だな。そして、どんな自然だって、無秩序に存在しているわけじゃないし、それだけで在ることもできないんだ。わかるか?」
ガイルは素直に首を横に振った。いきなりそんなことを言われたって、理解しろというほうが無理だ。
「ともかく、この因果を司るものがいるわけだ。それはもちろん我々じゃない。コーストのヘイズ氏は、それを精霊と呼んでいる。トナルディア、パロール、ファナエル、アスティラの名前ぐらいは聞いたことがあるだろう? 代表的な精霊さ、順に大地、水、炎、風の精霊だ。もちろん精霊はそれだけじゃない。死神王アケロンは、そのすべての精霊たちを統べる王だと言われているんだ。いくらなんでもアケロンは知っているだろう?
だがな、アダモン島じゃ精霊の力は弱いから、たとえ知っていたとしても、その力を借りるためには特殊な知識が要るんだ。これは俺も知らない。親父がいずれ教えてくれるだろう。
俺がおかしいと言ったのは、今の雨に水の精霊の力がまったく感じられなかったからだ。精霊は世界の秩序を保つ。それはこの世に必要なことであり、決して欠けてはならないものなんだ」
「雨の降り方がいつもちがうのはそのせいだって言うの?」
「こんな時期に雨が降ることもね。雨が降るのは1ヶ月おきだった。ましてや11月に雨が降ったことなどなかった。あってはならなかったことなんだよ、これは。わかるだろう?」
「精霊はいなくなってしまったんですか?」
「わからない…コーストのクレス=ヘイズなら、もっと詳しいこともわかるだろうが、トラビスからじゃ1ヶ月もかかるからな」
「精霊と話すことはできないんですか? なぜいなくなってしまったのかとか−−−訊くわけにはいきませんものね、いなくなっちゃったんじゃ…どうしようもないんですよね…」
「そこまでは言わないがね。でも知らないことのほうが多いから、どうだろうな」
「……」
ガイルは窓際に立った。
これがただの雨じゃないなんてとうてい信じられなかった。彼にとって、雨は雨で、それ以上でも以下でもなかったから。
もしも11月に降ったのでなければ、おかしいとは思わなかっただろう。いや、ハザードだって、おかしいとは思わなかったかもしれない。
雨が降るという行為になにかの意志が働いていて、世界にあるものはどれひとつとして単独で在ることができないなんて、想像の域を超えているか、お伽話の領域だと言ってもよかった。
「…ハザード」
「ん…?」
「精霊を見たことはありますか? それに、俺でも精霊を見ることはできるんでしょうか?」
「おまえなんかが精霊を見てどうしようって言うんだよ。それに、悪いが俺ではその方法は教えられないぞ」
「コーストのクレスさまでなくっちゃ、でしょ?」
「そうだよ。
まったく、おまえもかわいげのないやつだよな。よく言われるんだろう?」
「そんなことないよ」
ガイルはちょっとだけ口をとがらせる真似をしてみせたが、考えていたのはそんなことじゃなかった。
彼にとってこれほど面倒な事態はなかったのだ。
だって、雨が止まない限り、彼は絶対にモールニアには帰れないし、止んだからといってすぐに帰れるとは限らない。両親は心配するだろう。彼はすでに1日遅れている。
それに、薬草の足りなくなった人がいてもどうしようもない。でも連絡する手段はないし、雨がいつ止むのかはだれも知らなかった。
ガイルは雨のなかに目をこらしてみた。どうせなにも見えないことはわかっていても、それでも期待せずにはいられなかったのである。
だれも言葉もなかった。
そして異常だと言われた雨は、結局11月いっぱい降りつづき、ガイルがモールニアに発ったのは、12月2日のことだった。
雨上がりの道はぬかるんで歩きにくく、彼は逸る気持ちを抑えなければならなかった。
そのために、4日でモールニアに帰ることができず、ずいぶん明るいときにモール地溝の釣り橋を渡ったときにはとっても複雑な気持ちだった。
というのも、ここに来るときは最近ではいつも夕方以降と決まっていたので、明るいうちにモール地溝がのぞけて、少しだけ好奇心が満たされたのが嬉しかったのだが、あと1日ではとうてモールニアには帰れないこともわかったので、それが悲しかったのである。
もう何日もモールニアに帰っていないような気がした。
おかしいのは、12月だというのに雨がちっとも降らず、その気配さえないことだ。これも、ハザードの言った精霊とやらの影響なのだろうか。
そのハザードは、ミラとともにガイルが発ったのとおなじ日に、コーストへ向けて出発していった。
けれども、あのときのガイルにはミラと二度と会えなくなるかもしれないことを悲しんでいるような余裕などどこを探してもなかったのである。
雨が1滴も降らないまま、12月の5日、ようやくガイルはモールニアの入り口とも言うべき峠にさしかかった。道は相変わらずぐちゃぐちゃの酷い有り様だったが、つい急ぎ足になった。
最後の登りではほとんど息を切らせて、やっと村を見下ろせるところに出たとき、ガイルは力の抜けた膝をつき、そのまま尻餅をついて、疲れ切って充血した目を凝らした。
村のほぼ中央の唯一の広場で、人の群が静かに動いていた。
その真ん中には、白い布で包まれたものが見える。
そして、人びとの服も白かった。
ガイルはうなだれた。
あれは死者を送る群れだ。自分がぐずぐずしている間に、モールニアで死者が出てしまったにちがいない。
それは決して彼のせいなどではなかった。
現にガイルはあとで両親に咎められることはなかったし、村の人びとだって彼を責めるような素振りはこれっぽっちも見せなかった。
けれどもガイルは、ハザードに言われたとおり、自分がなにもできなかったことで悔い、責を負ったような気持ちにならずにはいられなかったのである。
だが、それも、すべては悪しきことへの前兆に過ぎなかったのだ−−−。