「宝剣物語」第一部第三章

「宝剣物語」第一部第三章

ローレンとサリアが結婚した相食の年15年は、その年のうちに早くも別の名称で呼ばれるようになった。
というのは、年内で4回目の雨期が明けた9月初め、どこからともなく現れた蝗の大群によって、アダモン島全島が大きな被害を受けたからである。このために相食の年15年は、蝗の年の始まりとして知られるようになったのである。
蝗の害はアダモン島では何十年に一度というくらいの割合で起こっている。しかも乾期であることが多く、そのたびに全島的に農産物は壊滅的な打撃を受け、人びとが食糧不足に苦しめられるという構図が繰り返されてきたのだった。
蝗の発生には前兆というものがない。ヘイズ氏では蝗や相食という珍しい現象があった年には必ず記録されてきたが、その対策は決して十分とは言えないし、後手後手にまわっている。しかし、何十、何百万という蝗の出現に対し、有効な手段などあるはずなかった。
蝗の群れはまるで真っ黒な雲のように見えた。が、その速さと、やがて聞こえてきた羽鳴りから、雲でないことは明らかだった。
その日、たまたま表に出ていたローレンは、すぐにそれが雲でないことを察したが、その正体まではわからなかった。ただ、見た瞬間に背筋がぞっとして、彼は村に向かって大声で叫んでいたのである。
「逃げろー! すぐに家のなかに入るんだ!!」
けれども、人びとが彼の言葉を聞き、何事かと周囲を見回して初めて反応するよりも、それはずっと早かった。
間もなく、ローレンの耳には、忘れられない、あのザーッという音が聞こえてきた。
黒い塊は東のほうから帯となって伸びてきた。
彼はもう、村のほうなど見てはいられなかった。不自由な足で階段を昇り始めたが、そう行けないうちに悲鳴が聞こえてきた。
このときになって、ローレンは初めて黒い帯が虫の群であったことに気づいた。つい数日前に読み終えたばかりの、モールニアの代々のヘイズ氏によってつけられてきた記録が脳裏を駆けめぐる。
虫の害はいくつも記録されていたが、それとおなじものに違いなかった。
だが彼は、同時に嫌なことを思い出してもいた。いずれの年にも、有効な手段などなにひとつ打てなかったのだ。
「ローレン、早く家のなかに入って! いったいなにをやっているの?! いま叫んだのは−−−あれはなに…?!」
サリアは彼にしがみついた。そういえば、彼女は一緒には読まなかったのだ。義父は、彼女には読み書きを教えなかったと言ったので。
ローレンも仕事の合間をぬうようにして読んでいたもので、彼女に読んで聞かせてあげようなんてことは考えてもみなかったのである。
でも、たとえ知っていたとしても、やっぱり彼女は恐れたに違いない。ローレンだって、たとえようもなく恐ろしかったから。
恐れる以外になにができただろう。いくら他の氏部族と違う技を身につけていようとも、ヘイズ氏だって、なにもできなかったことに変わりはないのだ。
それを、あるものは歯ぎしりするような思いで一部始終を目撃し、またあるものは諦めの境地で眺め、そしてなかには、無論のことながら、己の無力さを嘆きながら目をそらさずにいられなかったものもいたには違いなかった。
なにかできることはないのか。
ローレンもまた、階段のところでサリアに震えてしがみつかれたままで、必死に自分の知識を探っている1人だった。
けれども、彼も結局はなにもできないうちに、虫の帯は長く長く、大半が西へと飛び去っていった。
その頭から尻尾まで、たどるのが難しいぐらいに長いものだった。
あとに残されたのは、大量の虫の死骸だけで、ローレンは月の終わりには収穫されているはずだった玉蜀黍が茎までも食べ尽くされてしまったのを、呆然と眺めているばかりだった。
もはや今月の収穫は望み薄だった。1ヶ月のなかで種蒔きから刈り入れまでを行うという決まった周期があるために、それが一度崩されてはおなじ月のうちでやり直しなどできるはずもなかった。
モールニアの村人は、再来月に蒔く種を確保するために、その日のうちからもう食糧を切りつめなければならなかった。
サリアは、それでもファルコに出かけていった。どんなときでも薬草は常備されていなければならなかったし、今度の場合には情報を仕入れるというのも重要な目的だったからだ。
そしてローレンは、義父に手伝ってもらいながら、ヘイズ氏の記録のなかでも年代記的な部分を抜き出して、もっと長い目で歴史として捉えてみようとしていた。
だが、それは2人が思っていたよりもずっと困難な作業だった。
第一に、年の記述に基準というものがなかった。蝗の年も相食の年も、人びとに印象の深い出来事があった年に命名されるわけだが、地域によって異なったり、連続性もなかったからだ。そのばらばらのところをつなぎ合わせるのがまず一苦労だった。
しかも、第二の理由として、記録というよりも覚え書き、回想録のようなものだったから、年の記述がないことも珍しくはなかったし、親子で食い違うこともあったのだ。
初めて間もなく、義父はまず、モールニアのヘイズ氏の家系図を作るべきだと主張し、ローレンもそれに同意せざるを得なかった。
モールニアは、始祖の聖霊シアンから数えると最後の祖霊、ローレンから見れば祖父にあたるレオンまで19人を数える。
暇を見て2人は作業を進めたが、互いに譲らずに口論になってしまうことも珍しくはなく、そのたびに義母が仲裁に入った。
けれども、口論しながらも2人ともけっこう楽しんでいた。モールニアの村からは、とうてい笑い声など聞かれなかったのだが。
しかし、半月ほど留守にして帰ってきたサリアは、悲しい報せを携えていたのだった。
「ローレン、トラビスのお義父さんとお義母さんが…!」
そう言うなり、彼女は泣き出し、ローレンは最悪の結果を察した。サリアは長兄からの手紙を預かっており、荷物をほどくこともそこそこに、今度は母の胸のなかでひとしきり泣き明かした。
「父さんと母さんは祖霊の列に加わった」
スランからの手紙はそんな言葉で始まっていた。
「2人ともよくよくの結論であったと思うのだが、サリアが発つまえとなってしまい、悪いことをした。しかし、トラビスもファルコも事情は似たようなもので、ホール老によれば、最悪ではないかとのことだ。身をいたわられよ、こちらはほかのことでは順調である」
スランの字が、心なしか震えているように思われた。
ローレンは義父に報告し、手紙を渡した。読まなくても、サリアのただならぬようすから義父母は事情を察したようだったが、読み終えて、義父は不意に泣きじゃくるサリアを抱き上げた。
「お父さん…?」
「こういうときには残されたものは嘆いてはいけないんだ。我々はいずれ、すべてご先祖の末席に加わることになる。トラビスのお2人は、その時期を自ら選ばれたのだ。残された我々が嘆くことは、その行為を攻めることになってしまうのだからね」
「でも…」
義父は、18歳になった娘をまだ片手で抱き上げることができた。彼女は母親似で小柄で、どちらかといえば痩せていたからだ。そして、空いたほうの手で、優しくサリアのお腹をおさえた。
「お義父さん、まさか…?」
サリアはきょとんとしていたが、ローレンはようやく察した。長兄の言うことでわからないところがあったのだが、さすがに義父はすぐにぴんときたらしい。
「スランの言うとおりだ。わしも触ってみるまでは確信が持てなかったが……さあ、ローレン、あとはおまえの仕事だぞ」
そう言って、義父は娘をそっと降ろし、2人の肩を軽く叩いた。
ローレンは、壊れ物でも扱うかのように、そっとサリアを抱きしめた。義父母が2人に気遣って、そっと退室していたことはあとで知った。
そのときの彼は、ただ複雑な思いでいっぱいで、とうてい周囲に気を配るような余裕などなかった。
恥ずかしかった。
そして喜びと悲しみとがあふれて、サリアのなかに芽生えた新しい命を、彼はまだ義父や長兄のようにうまく感じることができなかった。
「……私、ちっとも知らなかったわ、ローレン…だから、お義兄さんはあんなに私に気をつかってくれたのね…お義姉さんも、きっと知っていたんだわ」
「僕もお義父さんに言われるまで、ちっとも気がつかなかったよ。まだまだ修行が足りないね、ほかでもない、君のことなのに」
「この子は大変なときに生まれてくるのね…男の子かしら。それとも女の子だと思う…?」
「さあ、どっちだろう。お義父さんならきっとご存じだよ。でもね、サリア、この子が生まれてくるのは来年の、そうだな、5月のころだよ。そのころには、蝗の害も消えて、また元通りになっているさ」
「そうだといいわ…ねぇ、ローレン…」
「なに…?」
「ううん、なんでもないの。内緒よ、内緒。教えてあげない」
サリアは、はしゃいでローレンから離れた。
「待って、サリア…!」
彼はあわてて彼女を掴まえ、その額にそっと口づけた。
「ねぇ、ローレンにはいつか教えてあげるわね」
「そうしたら秘密ではなくなってしまうよ」
「いいの、2人だけの秘密よ」
無邪気なサリアに彼はつい微笑み、今度は唇を交わした。
初めて2人だけの夜を過ごした、あの聖なる木の下で眠りたい、ローレンはそんな、夢のようなことを考えていたのだった。
実際に10月に入ると、人びとの予想以上に蝗の害はひどいものだった。
だれもが飢えていた。
そして年寄りのなかには、ドワン=ヘイズ氏のように夫婦ともに祖霊の末席に加わることを選んだものは少なくなかった。
さらに、スラン=ヘイズ氏のように、葬儀を行わないことを選んだものも多かった。葬儀を司るのはヘイズ氏の役目だが、その実行を選ぶのは遺族だからだ。
しかし、実のところ、ヘイズ氏は乏しい食糧を優先的に分けてもらっていた。そこに、かつて一族の秘技を守り、他の部族に証を立てるべく、自らの腱を切ったバウアー=ヘイズの遺志が働いていたことは言うまでもない。それはヘイズ氏にとって、当然の権利だったのだ。
けれども、ローレンは両親がそのためもあって自らの命を絶ったのであろうと考えていた。
スランとマイラのあいだには、あれから3人もの子が産まれ、うち1人が亡くなった。つまり、11歳になった甥のディーンの下には、7歳のフィロンと、3歳のミラがいて、一家は総勢7人になっていたのだ。
子どもたちは食べ盛りである。老いた両親が命を絶てば、子どもらへの割り当ては少しでも増え、トラビスの村人の負担は減るだろう。
10月の雨はいつもよりも強く降り、濁流には大量の蝗も混じっていた。
本格的な飢えは、11月に入ってからだった。収穫は済むまでは食糧がないことに変わりがないのだ。餓死者は11月になってからのほうが多かった。
このころになると、人びとはもう今年を「蝗の年」と呼んでいた。
相食という、世にも珍しい出来事があった年も、蝗の害による飢饉という直接的な被害のまえには忘れ去られてしまったようだった。
ちなみに、相食とは、空を巡る2つの月、大きいほうをティリエル、小さいほうをリリエラといい、2つが同時に日食を起こす珍しい現象なのである。
11月の終わりになって、人びとはようやく笑顔を取り戻した。
収穫はなんとか年が明けるまで食いつないでいけて、しかも年明けの祭りも行えるほどだったからだ。
そのころになると、サリアのおなかも目立ってきていたが、彼女は悪阻もなく、人一倍元気だった。
めまぐるしいことの多い年であった。だれもが、来年はいい年でありますようにと願い、年を越したのである。
ローレンとサリアの子は、予定通りに蝗の年より1年目の5月半ばに生まれた。母子ともに無事で、まずは一仕事終えて安堵したローレンだったが、男の子は元気がなくて、産声もろくにあげず、最初のお乳もろくに吸わなかった。
「少し小さいわね。サリアもこんなぐらいだったですねぇ、あなた」
「ああ。やっぱりあんまり泣かなくて、お乳も吸わなかったが、いちばん丈夫に育ってくれたなぁ」
「やだ、お父さんたら」
「本当のことですよ。この子は丈夫になるわ、母さんに似たのよねぇ?」
赤ん坊は義母から義父、そしてまた義母に移り、最後にサリアに返された。彼女は我が子を抱きしめ、なにごとかつぶやいたようだった。
「さあ、休みなさい、サリア。まずは君が体力をつけなければね」
「はい」
「わたしたちも休むとしようか。ファーナ、今度のファルコ行きはおまえにやってもらわなければならないようだからね」
「そうですね。トラビスやファルコの人たちに会えるなんて、1年ぶりですよ」
「ありがとうございます、お義母さん」
「いいのよ。私も覚えがあることですもの」
両親もサリアも、もちろん赤ん坊もすぐに寝ついたようすだった。出産は真夜中だったので、あといくらも経たないうちに夜が明けるだろう。
ローレンは、目が冴えて眠るどころではなかった。赤子を抱き上げて、そっと頬ずりをする。彼は、いまだに義父のように顎髭を生やしてはいなかった。
「ねぇ、ローレン」
「サリア、起きていたのかい?」
「眠れなかったの。ちっとも眠たくないの。赤ちゃんは寝ている?」
「もちろんさ。君だって寝なくちゃだめだよ。今度のファルコ行きはお義母さんに替わってもらえるけれど、本当なら明日からでも働かなくちゃいけないんだぞ」
「ええ、わかってるわ。でも、眠くなかったのよ。その子がまだヨーで、生まれたことにはならないって、そう考えたら、眠れなくなっちゃったのよ」
「いい加減にしないと怒るよ、サリア」
「寝るわ、もう寝る。でも、ローレン、ちょっとだけ耳を貸して」
「なんだい、まったく? 君ときたら、本当にいつまで経っても子どもみたいなんだから」
「ねぇ、ローレン、その子、ガイルよ」
「え…?!」
「うふっ…おやすみなさい」
それっきり、サリアは今度こそ本当に寝たようだった。
けれども、ローレンのほうはとても眠るどころではなくなってしまった。
「その子、チェシーよ」
そう囁くように言ったマイラの言葉が、脳裏にまざまざと甦ったのだ。
彼は不安な気持ちにかられて、「ガイル」と呼ばれた我が子を見つめた。
息をしているのかさえあやしいくらい、かぼそい呼吸だった。赤ん坊なんてこんなに頼りないものなのだろうか。義父母はああ言っていたけれど、この子は無事に育つのだろうか。
まるでローレンの不安に呼応するかのように、急に風が吹き、時折家をがたがたと揺らした。
彼は赤ん坊を抱いて座ったまま、いつか眠りに落ちていったが、忘れていた不安が甦ってくるのを朧気に感じていたのだった。
5月はアダモン島では1年でいちばん暑く、乾燥する月である。盆地状のモールニアでは、平地のトラビスよりもずっと暑く、空気もからからになるようにローレンには思われた。
ヘイズ氏が樹海の際に居をかまえたことは、5月の暑さとは決して無縁ではないようだった。つまり、村のなかに比べれば、いくらかでも凌ぎやすかったのである。
けれども、昨晩から吹き始めた強風は、5月には考えられないような奇妙な出来事だった。5月は風がそよとも吹かないことのほうが当たり前だったからだ。そのために気温は跳ね上がり、ちょっと不用心で出かけたら、日射病で死んでしまったという話も聞かれるほどだ。
それでも、義母は強風のなかをファルコへ出かけていった。「ガイル」が生まれたのが月の半ばだったので、もう発たなければ、5月のうちにモールニアに帰ってこれなくなってしまうからだ。
ローレンに子どもが生まれても、村人のようすに変わりはなかった。年が明けて命名され、ヨーでなくなるまで、誕生の祝いは行われないからだ。むしろ人びとの関心は、5月にはありえない嵐にあり、不安そうだった。
「これを軒下に吊しておいてください。悪霊除けのお呪いですから」
そう言って、ローレンは訪れた人びとに悪霊を祓う護符を渡した。環に十字を渡した、朝から義父が造っていたものだった。目を覚ますなり、モールニアの全戸に渡せるようにと作り始めたのである。村人にあげるように助言したのも義父だった。もちろん、ヘイズ家の軒下にもとうにおなじものが吊してあったのは言うまでもない。
護符をもらえるという話に、村人はそれだけのためにローレンを訪れた。環には簡単な魔法文字が刻まれていたが、あまり一般的なものではなく、義父がどこで習い覚えたのか、ローレンはいつも訊ねる機会を失っていた。そしてついに訊ねることはなかった。
最後の護符が渡されたのは、いよいよ風の強くなってきた夕方のことだった。
今日は人びとが不安のあまり、早い時間に仕事をお終いにしてしまったために、村を見下ろしても人影を見つけるのは難しかった。急ぎ足で帰っていく最後のお客人を見送りながら、ローレンは妙な胸騒ぎがしてやまなかった。
「ローレン。済まないが、眠り薬を調合してくれないか?」
「どうかしたんですか、お義父さん?」
「護符を造るのですっかり疲れてしまったよ。今日は早くに休みたいのだが、この風では眠れそうになくてね」
「わかりました。でも、眠り薬よりも熱い薬草茶を入れましょう。それに、手もそのままではよくないですよ。そちらもなにか探してみます」
視界の隅に人影が入り、ローレンは振り返ってみたが、どうやらだれかの影にすぎなかったようだった。
彼は護符が落ちないようになっていることを確かめて、扉をきちんと閉めた。
この強風のなか出かけていったファーナの身が案じられた。
それから彼は、義父の要望に応えるべく、薬草を探した。我ながら慣れてきたもので、外がすっかり暗くなってしまうまえに彼は熱い薬草茶を入れて、義父の手にも軟膏を塗ることができた。
「ヨーはあまり泣かないですね」
「そうだな。母親のお腹にいたときに、あまり栄養をとれなかったからかもしれないな……あまり心配するな、ローレン。おまえが心配をすると、すぐにサリアにも伝染してしまうからな」
「すみません…」
「赤ん坊にも個人差がある。うるさく泣くばかりが赤ん坊じゃないさ」
「そうですね」
間もなく義父は寝てしまい、ヘイズ家では、そしておそらくはモールニア全体でも、起きているのはローレンだけとなった。
サリアは「ガイル」と寝ていたし、ファーナもいなかったので、彼は自分で薬草の残り具合を見たり、仕事場を片づけたりしなければならなかったのだ。
風はいよいよ強くなり、家はしょっちゅうがたがたした。さっき、義父につきあって薬草茶を飲んでおいたのは正解だったようだ。こううるさくては、ろくに眠れなかったに違いない。
欠伸をかみころして、ローレンが角灯を消そうとすると、いやにはっきりと扉を叩く音が聞こえた。
「……どなたですか?!」
風に負けないように彼は怒鳴ったが、答えを聞くよりも早く扉が開き、ローレンはそこに、背後の夕闇よりもさらに黒い、長衣姿の人物を見たのだった。
「ひどい風ですね、扉が開いてしまうなんて。
こんばんわ、ローレン=ヘイズ。お久しぶり、といっても、あなたのほうでは忘れてしまったでしょうがね…」
相手はフードを被ったままだったので、顔も見ることができなかった。
ローレンは彼の不可解な言葉を問い質そうとしたのだが、嵐のなかだというのに長衣はそよとも動いてはおらず、その奇怪さに思わず後ずさりしていた。
「あなたはいったい…?!」
そう呟くにつれ、彼のなかで古い記憶が鮮やかに甦り、ローレンを呆然とさせた。なぜ忘れてしまっていたのだろうか。彼には見当もつかなかった。しかし、その原因が目の前の人物に関係があるはずということだけは疑いようもなかった。
「入らせていただきますよ。このままでもわたしはいっこうにかまいませんが、あなたには話しにくいでしょうからね。まったく、こんな強風は珍しい」
そう言った彼、ヴァールは、やはり長衣をまったく動かさずに家に入り、扉を閉めたのだった。
「子どもは無事に生まれたそうですね?」
「……耳が早いことだな。あなたはいったい何者なんだ?! あのときにわたしの子をもらいに来ると言っておいて、わたしの記憶を消したな?」
「そうです、覚えていられては都合が悪かったのでね。もうひとつの答えもそのとおりですよ、子どもをいただきに来たのです。
どこです、彼は? 母親と一緒ですか……無駄な抵抗はしないほうがいいですよ…」
「断る。子どもを渡すつもりはない…! なんのつもりかは知らないが、帰ってもらおう」
杖をついて戸口まで行く彼を、ヴァールは邪魔しようとはしなかった。が、風に押されてローレンは扉を開けることができず、彼を睨んだ。
「……あなた方の子どもは長生きしないだろう。あのかぼそい声が聞こえないのか? 1年と経たぬうちに、あなた方は神経がすり減るような思いをするだろう。あなた方では彼を育てるには不足だからだ…」
「出ていってくれ…! ご託はたくさんだ、あの子はわたしたちの子だ、おまえには渡さない。わたしたちでは育てられないだと?! おまえこそ人ならぬものではないか…!」
ヴァールが笑ったような気がして、ローレンは怒るよりもぞっとした。
彼が立ちすくんでいると、隣室につながる扉が静かに開き、ローレンはそこに、「ガイル」を抱きしめて凍りついたようすで座っているサリアを見つけた。
足が思うとおりに動かないことが、これほど腹立たしいことはなかった。飛んでいって、2人を守りたい、彼女にこそ、いまの話をすべて忘れさせたかったのに。
しかし彼は、杖を使わなければ、身動きもままならぬ身であった。義父の刃は、正確にローレンの腱を切り裂いたのだから。
「……1年したらまた来ましょう、ローレン=ヘイズ。来年の5月になったらね、あなたたちにもわたしの言ったことが正しかったとわかるでしょう。
そのときにまたお目にかかりますよ、真なるものよ……」
最後の言葉は、おそらく息子に言ったものと思われた。ヴァールは片膝をついて「ガイル」のほうに屈み込んだからだ。
弾かれたように赤ん坊が泣き出し、ヴァールの姿は溶けるように消え失せた。
泣き声が、若い夫婦を我に返らせた。
ローレンはできるだけ急いでサリアに近づき、彼女は、生まれて初めて力いっぱい泣く我が子をあやした。
けれども、互いに言葉が出なかった。サリアが恐ろしさに震えて、赤子をますます泣かし、ローレンがなだめてやろうとしても、そう簡単には泣きやまなかった。
「私にかして、ローレン。そんな怖い顔をしてあやそうったって、泣きやむわけないわ」
「君だって、わたしのことを言えるほど、いい顔をしているとは言えないよ」
「だって…」
彼女はいまにも泣き出しそうだった。
結局は赤子のほうが先に泣きやんだ。相当な体力を消耗したらしく、息も絶え絶えといったようすだった。
「……お父さん、いまの話を聞いてしまったかしら…?」
彼女は恐々といちばん奥の扉を振り返った。
「それはないと思うよ。よく眠れるように薬草茶をあげたからね…僕も飲んだのだけど、すっかり効能は飛んでしまったみたいだな。
サリア、立てるかい?」
「ええ…でも、こんな時間にどこへ行くつもりなの…?」
「わたしたちの木に、無事に生まれたことを報告してこようかと思ってね…本当は、命名が済んでからでなければいけないのだけど、こうなっては、早いほうがいいと思うんだ」
「お父さんたち、きっと反対するでしょうね…この子は、まだ生まれたばかりなんだもの」
「いいよ、サリア。わたしたちだけで命名式を行おう。正式の式ではないけれど、わたしたちの木にはきっと怒られないよ」
「……ローレン、あれは悪霊なの…?!」
「そのことについても話そう。それにも、だれにも来ない森のほうが都合がいいと思うんだ。お父さんが目を覚まさないとも限らないからね」
「お父さん、本当は起きているんじゃないの…? ねぇ、本当は聞いていたんじゃないの…?!」
「大丈夫だよ、サリア。お義父さんはよく寝ている。さあ、それよりもいまのうちに行こう」
「……私、いまでも森が恐いわ…あのときだって、あなたがいてくれなくちゃ、とっても眠れなかったわ…私たちの聖なる木だって言われてもわからないの……1人だったら、とっても行かれない」
「だから一緒に行くんだよ、サリア。わたしだって、こんな時間に1人で森へは行けないよ」
しかし、そのときの彼はなんにでもすがりたい気持ちでいっぱいだったのだ。それも超自然的な力、聖霊を信じ、祖霊を敬うような信仰心にこそ、ああした人外の存在に対抗できるものがあるとローレンは思っていたのである。
2人は、灯りも持たずに家を出た。こんな時間に森に入ることをだれかに見咎められたくなかったからだ。
義父は本当に眠っているようだし、ファーナが出かけている以上、そんな心配などあるはずがなかったのに、ローレンもサリアも、だれかに知られたくないという気持ちのほうが森を恐れる気持ちよりも強かったのである。2人とも、異常なまでに神経質になっていたのだった。
彼らの木を探すのはあまり難しいことではなかった。樹海とは言っても、まだ端である。木が密集し、枝が空を遮っている状態にはほど遠いものであった。
木を見つけると、ローレンは杖をサリアに預けて、不自由な足でどうにかひれ伏した。
「わたしたちの聖なる木よ、どうかわたしたちの息子に祝福と加護を与えてください。この子はいまだ正当なる命名の式を経ず、生まれてから1日しか経ってはおりませんが、名前を持っております。
けれども、この子は悪霊に魅入られているのです。わたしたちは、かつてわたしたちがそうしたように、聖なる木にわたしたちの息子をもお預けします。どうか、この子を認められますよう……」
気がつくと嵐は止んでいた。あれもヴァールの仕業だったのだろうか。
ローレンは跪いたままで木に近づき、両腕でその太い幹を抱いた。祈りの気持ちをこめて、恭しく口づけをする。
さやさやと枝が鳴り、今度はサリアがやはり膝立ちになって近づいた。
「私たちの聖なる木よ、どうか私たちの子の名をお聞きください。そして、私たちの子を認めてください。この子はシアンより始まりて、カナン、ガリー、リュース、ヴァンス、ジオ、フルト、セイト、グリン、ハルト、マコーヤ、ルネ、コトー、ラウメ、ノスミ、ブロウ、トリル、フレイン、レオンにつながりし、デュラスとファーナの子、ローレンとサリアの子、ガイルといいます。諸々の災いよりガイルをお守りくださり、祝福を与えてくださいますよう……」
それからサリアも幹を抱き、恭しく口づけをした。
ガイルがぐずったので、サリアはお乳をふくませてやろうとしたが、ろくに飲もうとはせず、白い母乳が溢れて、地面に吸い込まれたほうが多いくらいだった。
「この子、あんまり飲んでくれないの。お乳ばかりはって、痛いのに」
「まだ生まれてから2日目なのだもの、あまりお腹も空かないんだよ」
「だといいのだけれど…」
そう言いながらサリアは赤ん坊を抱きなおし、背中をとんとんと叩いた。
シアンのものでないかというあの奇怪な声は、2人が結ばれてから聞こえてはこなかった。
それでローレンは、あれはやっぱり見たこともない珍しい生き物のもので、モールニアの近くにはいないようになったのだろうと考えていた。
「私たち、これからどうすればいいの、ローレン…?」
「この子を、ガイルを育てていこう。あんなやつの言うことなんて信じられるものか。この子を生き延びさせてやらなくちゃいけないよ」
「それだけで? 本当にあなた、それだけでいいと思うの?」
「…聖霊シアンと、聖なる木の守りを信じようよ。わたしらがここで結ばれたように、ガイルもわたしたちや、みんなに結ばれたのだと信じよう」
わずかな月明かりでは、互いの位置がかろうじて判別できる程度だった。
サリアは頷いて、それだけでは足りないとわかっていたので、そっと言い添えた。
「私はあなたを信じるわ、ローレン…あなたとガイルと、私を信じるのだわ」
ローレンも思わず頷いたが、すぐに答えた。
「でもね、サリア。ガイルのことはお義父さんたちには秘密にしておかなければいけないよ。
来年の1月には、きっとヴェラとコーストからヘイズ氏の長たちが来て、この子に命名してくださる。わたしはまだ、どんなふうにやるのか知らないけれど、そのときにガイルとつけていただけるようにお願いしよう。それまでは、決して名を呼んではいけないんだよ、わかるね?」
「ええ、わかっています。くれぐれも気をつけるようにするわ。
ねぇ、ローレン、あなたはよかったの?」
「なんのことだい?」
「私、この子をおなかのなかにいるときから、ガイルって呼んでいたの。あなた、もっといい名前があるって、思わなかった?」
「そんなことないさ。君が、すいぶんまえに言っていた秘密って、名前のこと?」
「ううん、まだ秘密よ。でも、嬉しいわ、あなたが気に入ってくれて−−−」
ざわざわと枝がそよいだ。
2人がしばらく聞くことのなかった叫びが、森の奥のほう、本当の樹海のなかからゆっくりと響いた。
それに呼応するかのようにいくつかの声があがり、サリアは言葉を呑み込んだ。
「あれは、本当はなんの声なのかしら…? 人? それとも、獣? それとも、私たちが見たこともない、怪物のものなの…?」
「わからない……恐ろしいかい、サリア?」
「ええ……いいえ、恐ろしいだけではないの、懐かしくて、どこか哀しかったわ…」
「なぜ、懐かしいの…?」
「小さいときから、あの声を聞いていたからかもしれないわ…でも、もっと身近に聞いたような気もするの…知っていたような気がするのよ……。
恐ろしいのは、姿がわからないからだわ。ローレン、もしも私たちのまえに姿を現してくれたなら、好きになれるかもしれないじゃない…?」
「そうだね…」
人間ならばむしろ、好んで姿を隠そうとするだろう、ローレンはその言葉を呑み込んだ。
声は遠吠えのように二度三度と聞かれたが、だんだんと遠ざかっていった。
「そろそろ戻ろうか、サリア?」
「…本当は、一晩ここにいたいのだけど、お父さんにうまい言い訳が見つからないんですもの」
ローレンはくすりと笑った。
「大胆だね、君も。でも、そのとおりさ。それに、ガイルだって家のなかにいたほうがいいと思うよ」
「そうね」
立ち上がったローレンの唇を、サリアは指で探り当てた。彼女のほうから口づけを交わし、ローレンもそれに答える。
どちらからともなく笑みがこぼれた。2人はやはり幸福であった。木に、この思いを知ってほしかった。
けれども、彼らはあまりにも無知だったのだ。樹海というものに、恐怖というものに対して。
謎の、おそらくは人外のものであろうヴァールの言葉を、ローレンもサリアも長いこと、直視できなかった。
認めれば彼に屈したことになる。
なによりも認めてしまえば、彼らの息子が死んでいきそうに思われた。
日々は鈍く、またせわしなく流れていった。
お乳もろくに飲まず、ぐずぐずと泣いている我が子、機嫌のよかったときなどまるで記憶になく、痩せ細り、ひゅーひゅーと喘ぐように息をするガイルを見守り、あやし、なんとかして元気づけようとするとき、1日が過ぎるのはもどかしく、早く大きく、丈夫になってほしいと2人は願った。
ガイルが飲まないものだから、サリアのお乳は3ヶ月もすると出なくなってしまっていた。
かと思えば、ガイルの世話に日々追われ、ヘイズ氏としての仕事もこなさなればならず、気がつくと朝はとうに夕方になっているのだった。
ガイルを中心にした生活は、当然のことながらその祖父母にも影響を与えずにはいなかった。
デュラスもファーナも、次々と死んだサリアの兄たちを思い出しただろうか。モールニアのヘイズ氏には、もう四世代も男の子が成人しない。ガイルは、その五世代目となるのだろうか。
けれども、いくらガイルのことが心配でも、サリアはもうファルコ行きを母に替わってもらうことはできなかった。それは彼女の仕事であり、義務だったからだ。
彼女は、ガイルが命名され、本当にこの世に生まれてきたものとして認められるまでの8ヶ月、ファルコに行くたびに身の細る思いで出かけて帰ってくるのだった。
ローレンは、義父やときにはトラビスのスランの知恵をも借りて、ガイルに体力をつけさせようと考えたが、それらはことごとく無駄に終わった。
まるで悪い虫でもついているかのように、ガイルの体力は一向に好転する気配を見せず、たいていは一進一退を繰り返すのみであった。いや、赤子の容態は進むどころか後退していく一方だった。
むしろ、これだけ弱りながら死なないのが不思議な話で、ローレンは何度も匙を投げそうになっては、ヴァールのことを思い出して、気を取り直すのだった。
ヴェラのニール=ヘイズ氏と、コーストのクレス=ヘイズ氏が、お供に4人の若者を連れてモールニアに現れたのは、年明けて3月に入ってからのことだった。
彼らは2人だけ馬に乗っていて、長旅にさすがにみな、疲れ切ったような表情をしていた。
どんなに早くヴェラを経っても、1ヶ月でモールニアまで来ることはできない。おそらく、彼らはファルコで雨期のあいだを過ごしたにちがいなかった。
ローレンは命名式に立ち会うのはまったく初めてのことだったのだが、あまり緊張してもいなかった。命名さえ無事に済めば、彼の子はやっとヨーではなくなるのだ。もう何度、堂々とその名を呼べたらと思ったことだろう。
「サリア、君は立ち会えないから、外でお義母さんと待っていてくれるね」
「私たちだけの命名式のほうがよかったわ…」
彼女は、ローレンにさえやっと聞き取れるほどの小さな声で囁いた。
「あれが本当の命名式なんだよ」
「そうね……ありがとう、ローレン」
彼女は、抱きしめていた赤子をローレンに渡した。ガイルは成長が遅れていた。やっと首が座ってきたけれど、まだ1人でお座りができない。それはいいとしても、今日も少し熱があった。命名式はどれくらいつづくのだろうか。せめて、熱冷ましくらい飲ませてやる時間があればよかったのに。
ローレンが不安な思いで家に入ると、義父母の部屋ではもう支度が整っていた。
この家のなかで、祖霊を祀る霊壇があるのは、その部屋だけだったからだ。
「遅いぞ、ローレン。あまりお待たせするものじゃない」
「済みません。ヨーの具合があまり芳しくなかったものですから」
何度、こうしてヨーと言ったことか。ローレンは長と副長のまえだというのに苦々しい思いで胸がいっぱいだった。
「よいよい、デュラス殿。ローレンには初めてのこと、緊張もするだろう」
ニールは穏やかな笑みを浮かべて手を振った。
が、クレスのほうはローレンとその息子を値踏みするような目つきで眺め、彼は嫌な気持ちになった。
ローレンは、霊壇のまえに立つニールに歩み寄り、我が子を預けた。ガイルは抵抗することもなく、いつものようにまったくおとなしいものだったが、いつ儀式の最中に容体が急変するかと、彼は気が気ではなかった。
「うむ、少し熱があるようだな。これでは両親も心配になろう…しかし赤子よ、よく聞くがよい。おまえは、これから本当の意味で生まれることになるのだ。名を受け、我らヘイズ氏の一員として認められることになるのだぞ」
ニールは、赤ん坊の衣服をすべて剥ぎ取った。ガイルは弱々しい泣き声をあげたが、抵抗はすぐにやんだ。幼児らしからぬ、痩せた身体が痛々しく、ローレンは胸をつかれた。
剥がれた服はクレスに渡され、彼はニールのあとを引き取ってつづけた。
「この服は名もなきヨーのときの象徴なるもの、これを焼くことによって、ヨーとしてのおまえは死に、真実なる生を得るのだ」
小さな服はあっという間に燃え上がり、窓を開けていたために臭いも残らなかった。
再度、ニールが継いだ。
「さては聖なる霊、我らの父祖なるシアンよ。聞かれたまえ、認めたまえ、これなる赤子はあなたより始まりて、カナン、ガリー、リュース、ヴァンス、ジオ、フルト、セイト、グリン、ハルト、マコーヤ、ルネ、コトー、ラウメ、ノスミ、ブロウ、トリル、フレイン、レオンに繋がりし、デュラスとファーナの子、ローレンとサリアの子にて…なんと、ローレン?」
「ガイルです」
「よろしい…ローレンとサリアの子、ガイルと名づけられました。聖なる霊、我らの父祖なるシアンよ、ガイルに加護と祝福を与えたまえ、諸々の忌まわしき災いより守りたまえ…」
ニールが持っていた布でガイルをくるんだ。それから、赤子をローレンに返し、火をあおいで消した。
ガイルの熱さは尋常ではなかった。それなのに、ニールもクレスも儀式をつづけていたのだ。
ローレンは驚いてサリアを呼ぼうとしたが、すぐにクレスが気づいて声をかけた。
「まだ終わってはおらぬぞ、ローレン。おまえたちの聖なる木にお目通りを済まさねばならぬ」
「でも、この子は熱があります。ニールさま、クレスさま、どうか、熱冷ましを飲ませる間をお与えください」
ニールの代わりに答えたのはクレスだった。
「命名式は滞りなく行われなければならぬ。済ませられなければ、その子はヨーのままなのだぞ」
「それでは死んでしまいます…! ニールさま、クレスさま、わずかの間です。飲ませてやれればよいのです、どうか−−−」
「ヨーは死なぬのだ、ローレン。だが儀式さえ続けられれば、たとえ途中で死んでしまってもヨーではなくなるのだ。おまえは息子をヨーのままにしておきたいと言うのかね?」
「ではサリアに、わたしの妻に薬を煎じさせます。彼女の足ならば追いつけましょう、滞ることもございますまい?」
「女を神聖なる儀式に参加させることはできぬ。ましてやサリアは孕んでおる、もってのほかだ。
しかし、サリアで煎じられるものならば、儀式が終わるまで目の届かぬところで待たせればよかろう」
「…わかりました。仰せのとおりにいたします…」
「それではデュラス殿には式より外れて、サリアにいまのことを伝えてもらわねばなりますまい。よろしいですかな?」
「お願いします、お義父さん」
「しょうがなかろうな…滞ることなく行け、ローレン。おまえの子をヨーにしないためにな」
ローレンはよほど叫び出したかった。もう聖なる木への目通りは済ませたのだ。そんなことを繰り返すよりもガイルに薬を飲ませてやることのほうが先決だと、彼は頭の固い長たちや義父の言うことなど無視してしまいたかった。
だが、そんなことをすれば、彼とサリア、それにガイルはヘイズ氏の掟を守らなかったものとしてモールニアどころかヘイズ氏より除名されるかもしれない。町や村を離れ、親子3人だけで生きていこうなど自殺的な行為でしかない。一時の満足は得られても、やがて彼らの死で終わるだけだろう。
ローレンはとっさにそう判断したのだった。そうなれば、ヴァールの思うつぼではという気持ちも、彼を大いに押し止めたのである。
まったくサリアの言うとおりだった。親子3人だけの命名式は、なんと神聖な行為に思われたことだろう。
杖をつかねば満足に歩けないことが、ローレンにはもどかしかった。ましてや、長老方の歩みときたら、自分に輪をかけて遅いのである。
聖なる木に着くまでの時間が彼には永劫につづくかと思われた。ガイルが、歩いていくうちに腕のなかで冷たくなってしまうことさえ、彼は覚悟せずにはいられなかったのだ。
聖なる木に向かって、ローレンは以前とおなじような文句を唱えた。去年は秘密裏に行ったので、今回はいくつかの言葉は省かなければならなかった。去年サリアが唱えたことも、今年はローレンの負担だった。
「よろしい、ローレン。お主の息子はたったいまをもって、ガイルと認められた」
「ありがとうございます、ニールさま、クレスさま」
「さあ、ガイルはまだ生き延びておるのか? サリアを呼んで、薬を飲ませてやるがよい」
赤子はそれでも生き延びた。待ちかまえていたサリアが飛んできて、薬を飲ませるまで、息も途切れ途切れになりながら、それでも生きていた。
その力は弱かった。だがローレンもサリアも、生きようとするガイルの意志を、生きたいという無言の叫びを感じないではいられなかった。
こうして赤子はは正式にその名を認められたのである。
5月半ば、その年も気温は高く、埃っぽい日々がつづいていた。月が明けたらローレンもサリアも気が気ではなく、ヴァールがいつ来るのかという心配ばかりしていた。
ガイルも元気がなく、ずっと熱は下がらなかった。かつてなかった高熱で、もはやいかなる熱冷ましも効かないように思えた。
幼子が祖霊の列に加わるのも時間の問題のようでさえあった。
サリアは妊娠5ヶ月目に入ったところだったが、まだお腹は目立たずに食欲も変わらなかった。
ただ、4ヶ月目にガイルのときにはなかった悪阻に見舞われたことが彼女にはずいぶんショックだったようだ。
5月に入るとようやく悪阻は収まったが、サリアはそのためだけでもなく元気がなかった。
ヴァールが来たのは、その日の気温がいくら5月とはいえ、異常に高い日のことだった。
もう明日には6月に入ろうという日である。
あまりの暑さのためにデュラスもファーナも元気がなく、とくに義母の容態が悪かった。
けれど、ガイルほどではなかった。熱はぐんと上がり、幼子は脱水症状さえ起こしていたからだ。
貴重な水はほとんど彼のために使われたが、効果はほとんどなかった。
「ローレン…!」
サリアに呼ばれて彼は玄関を見た。そこに、あのときと寸分違わぬ黒衣姿の人物をローレンは認めた。
「お返事を戴きに来ましたよ、ローレン=ヘイズ。いかがです、気は変わりましたか?」
「そのまえに訊ねたい。なぜおまえはガイルを欲するんだ?」
「答える義務はないと思いますがね…あなた方にはしょせん縁のないことです。彼がいなければ、わたしとも一生会わずに済んだでしょう……。
それが返事というわけですか、ローレン…?」
「…いいや。
だが、見ろ! この子はいまにも死にそうなんだぞ、連れていっておまえが助けられるとでもいうのか?」
「わたしに診ろと言うのですか…?」
「治せるものなら治してみろ、この子がこの1年、どれだけ苦しんだのかも知らないくせに…! おまえの言ったことは本当だったさ、得意か? 予言が当たって嬉しいか? あのときわたしたちにはガイルを育てられないとおまえは言ったな? だが、おまえに育てられるのか? この子はこんなに苦しんでいるのに、その気持ちが、苦しみが、おまえにわかるって言うのか?!」
「やめて、ローレン。彼なんかに診せてどうなるっていうの? 私、彼なんかにガイルを助けてもらいたくないわ…!」
「でもあなた方では彼を助けられないでしょう…違いますか? だから、人間は我々の力を借りるのですよ、たとえそれが、あなた方にとって最悪の方法しかもたらさないとわかっていてもね…。
これは失礼、サリア=ヘイズ。身ごもっておられるあなたには、無縁の話でしたね……」
「どうして知っているの? それに、どういうこと…? ねぇ、帰ってよ。返事は否よ、ガイルは渡さないわ。たとえ今日死ぬのがこの子の運命だったとしても、あなたに渡すくらいなら、私、そっちを選ぶわ。ねぇ、ローレン、そうなのでしょう? なにか言って、黙っていないで…!」
「……いいや、サリア…本当に? 君は本当にガイルが死んでしまってもいいの? 君はあまり丈夫なほうじゃないんだよ、子どもを産むことは君にはすごい負担なんだ…! いいや、わたしには耐えられない、君も、ガイルも、失ってしまうなんてこと、わたしには耐えられない……」
「なにを言ってるのよ、ローレン? あなた、ガイルは渡さないって言ったじゃない、どうしちゃったのよ…?!」
「助けられるものならば彼に助けさせればいいじゃないか。
やってみろ、ヴァール!」
「代償は高くつきますよ…それでもかまわないのですか…?」
「わたしの命でもくれてやるとも…!」
ヴァールは声を出して笑った。隠そうともしない悪意に2人はぞっとした。
が、なにか言おうとしてサリアはお腹を押さえた。
激痛が走り、足の間をなま暖かいものが流れる。彼女は歯を食いしばろうとしたが、倒れ、うめき声がもれた。
「サリア…?」
ローレンは我に返ったようにうろたえたが、ヴァールから目をそらすこともできなかった。
彼はまっすぐにガイルに近づいていった。その長衣はやはり動かなかった。形を変えたのは、ヴァールが片膝をついたような姿勢をとったときだけであった。
袖口から、初めて彼は手を出した。白く、長い指、その長さも白さも、造り物のように見えた。
なにも握ってはいなかったのに、ガイルの上で輪を描くにつれ、銀色の粉が舞い落ちていった。そればかりか、幼子の周りに二重、三重の円と紋様を描いているではないか。
「タム・ティム・ジブ・ラドル、タム・ティム・ジブ・ラドル…」
ヴァールの低いつぶやきが響いた。
ローレンにはそれだけが現実のように思え、サリアの苦しむ声も、床に流れた赤い血も、長兄の造るような幻としか思えなかった。
「タム・ティム・ジブ・ラドル・デービ・キャピ…」
ヴァールの言葉をローレンは知らなかった。
だが、聞いたこともないはずなのに、頭の芯のほうで理解していた。それはぞっとするような言葉だった。魂の奥のほうに響き、語りかける言葉でありながら、その本質は真っ黒な闇そのものだったのだ。
本能はヴァールの言葉に耳を傾けることさえ危険だと主張しているのに、魂が聞かずにはいられないのである。
なんと心地よいのだろう。
身体が喜びに打ち震えている。
ローレンは、いつの間にかヴァールの言葉をゆっくりと唱和していた。
ガイルの息が落ち着いてくる。目を開き、周囲を見回したが、その表情には恐怖が凍りついていた。
「ナァ…」
初めて発した声はか細く、ローレンにはとても遠い遠いところで聞こえるものにすぎなかった。いまや彼は、はっきりとヴァールの言葉をたどっているような有り様だった。
「ナァマァ…」
けれども、サリアはヴァールの言葉には惑わされなかった。彼女は半ば気を失った状態にあったが、生まれて初めて発せられたガイルの言葉が、彼女の意識を取り戻させたのだった。
サリアはわずかに身を起こした。頭がくらくらして、激痛が全身を貫いた。なにが起きたのかはわからなかった。けれども、夫とガイルになにが起ころうとしているのかはわからなくても、それが最悪のことであろうとだけは察したのだった。
「……ナマァ…」
サリアは這った。ガイルのもとまではなんと遠かったことだろう。けれども、彼女はヴァールの言葉が終わるまえにガイルの周りに描かれていた輪に、血にまみれた手を重ねたのだった。
「うっ…?!」
ローレンが倒れた。
声をあげ、首を巡らす以外には動けなかったガイルが、わずかに手を差し伸べた。
「ナマァ…!」
サリアが精一杯伸ばした指を、ガイルはつかんだ。その力強さこそ、我が子の命だった。彼女はもう動けなかった。そう思っていたのに、幼子の力が彼女にまだ力を振り絞らせたのである。
見上げたヴァールのフードのなかには、やはりなにも見えなかった。暗い淵、モールニアより1日のところにある地溝をのぞき込んだようだった。
けれども、そこに目のように2つだけ光るものがあり、サリアはくじけそうになったが、ようやく握り返したガイルの手が、彼女にかつてない勇気を与えてくれるようだった。
「ファーグ・マキ・ランドール・エステメルア?」
サリアは首を振った。ヴァールの言葉はわからないし、理解もできなかった。彼女は気づいていなかったが、指から垂れた血がガイルの周囲の円をたどり、新たな紋様を描いていた。
とてもそれほどの量ではなかったのに。
笑い声が漏れた。
サリアは目のまえが真っ暗になっていくのを感じたが、力強い手が彼女の腕をつかんだ。
「ルス・ラーズ・リーバ?」
ヴァールの声が威圧的に響いた。
サリアの腕をつかんだのは当然のことながらローレンであった。彼はヴァールの言葉に震えたが、二度とおなじ言葉を使おうとはしなかった。
「契約はなされた」
彼の声は震え、消え入りそうに思われた。が、サリアはこのときもガイルの生命を感じ、それが両親に思いもかけぬ力を与えてくれていることを知っていた。
いまの彼女は指先を動かすこともできず、下腹部から広がる激痛と、ぬるぬるした生温かな感触だけが現実のように思われていたのだが。
「去れ、忌まわしきもの。わたしはおまえの名を知らないが、おまえはもうわたしたちに手を出せない」
ローレンが言葉を継いだのは、だいぶ時間が経ってからだった。そして彼は、話すときも言葉を一つひとつ選び、確かめているようにしか話さなかった。
「違えているぞ……それもおまえたちの選んだ道だがな…」
痛みが消え、いきなり視界がはっきりしてサリアは驚いた。
だが、ヴァールはもういなかった。
ガイルの周りに描かれた円が、幻のように消えていき、床には血さえ流れていないのを彼らは見た。
「サリア…!」
ローレンの力強い抱擁、互いに言葉もなく、恐怖と悪寒とにただ震えているのを確認しあっていたのだが、変わらぬ小さな声が、2人を引き戻した。
「ナマァ…」
「ガイル…!」
涙があふれ、若い夫婦は今度はひとしきり泣きあった。
「ねぇ、聞いた、ローレン? この子、お母さんて、ねぇ、お母さんって言ったのよ!」
「ああ、聞いたよ。話せないんじゃなかったんだ、ちゃんとわたしたちの言ったことを聞いていたんだよ」
「今度はディーよ、ガイル。お父さん、おじいちゃん、おばあちゃん…!」
サリアは立ち上がった。
ぽんぽんと言葉をガイルに聞かせているうちに、下半身が嘘のように軽いことに気づいた。
言葉が唇で止まり、さっきまで感じていた激痛が思い出された。
血と、そしてあれは…?
ローレンにも、その床に転がるものがなにか、なんであったのか、察せられたらしかった。
「サリア、見るんじゃない…!」
だが遅かった。彼女は動けずにガイルを抱いたまま、床に転がる薄紅色のものを凝視してしまっていた。
「ローレン…! ローレン! ローレン!!」
もしもその腕にガイルを抱いていなければ、彼女は発狂していたかもしれなかった。実際、彼女が産んだものでありながら、それは悪夢となって長いことサリアを苦しめたから。
ローレンは、ぼろ布で、つい数時間まえ、ヴァールが来るまえまでは確かに胎児だったものを包んだ。それはもう人の形をしていた。いずれ2人の第2子としてこの世に生を受けたであろうに、嬰児はいまは醜い肉の塊にすぎなかった。
サリアはガイルを抱きしめて泣きじゃくっていた。
赤子はつられて泣かず、母親を慰めようとするかのようにその小さな手を伸ばしていた。
一族の墓地までローレンは1人でそれを捨てに行き、やっと埋めた。
そこで戻ることができず、彼は草むらに吐いた。
涙が唾液と混ざり、胃袋が空っぽになっても、なお吐こうとして、なにか悪い夢でも見たような気持ちだった。
あれは悪夢か幻だったのだと、声高に主張しようとして、彼は嗚咽した。
夢じゃない、夢なんかじゃない。
「ローレン…」
「デー?」
「ちがうわよ、ガイル。お父さんはディー、お母さんがナマァ、ほら、言ってごらんなさい」
「デー…?」
「ディーでしょう?」
「デー……デーイ…?」
「ディー、ほら、母さんの口を真似してごらん」
「デイー…デー……ナマァ、ナマァ…!」
「ほら、サリア、あんまりガイルに強制してはよくないよ。やっと今日、言葉らしいものを話したばかりなんだもの、まだ舌がうまく動かないんだよなぁ?」
ローレンはようやく立ち上がった。
口のまわりをこすって、ガイルの頭をくしゃくしゃにした。幼子の毛は短く、柔らかかった。くしゃくしゃにしても、その形が残らないくらいに。
「ごめんよ、君のほうが辛かったろうに。よりによって奴の術にはまるなんてね……」
「…でもね、ローレン…どうしてなのかは知らないけれど、私を治したのも彼なのよ…トールを…いいえ、ヨーを流産してしまって、あんなに出血していたのよ、そのままだったら、私、本当に死んでいたかもしれない。彼が私の血を止めたの、きれいにしてくれたのよ…」
「奴が来なければ、君だってあんな目にあわないで済んだんだ…! ガイルだって−−−!!」
「いいの、もうなんにも言わないで、ローレン。ガイルは彼に連れて行かれなかったわ、子どもはまたつくればいいじゃない、私、大丈夫よ、母さんが5人も子どもを産んだなら、私は6人でも7人でも産むわ、何人でも子どもをつくるわ。ね…?」
「…とりあえず、一度は戻ろうか。気になることもあるし…お義父さんもお義母さんも心配していなければいいのだけどね」
「もしも聞かれていたら、全部話してしまうつもりなの、ローレン…?」
「迷っている……彼は、ヴァールは人じゃない。でも、そうなればヘイズ氏だけじゃない、アダモン島全体の問題になるだろう。もしも妖魔なら、確認されたという話はずっとなかったから、どうすればいいのかなんて、だれにもわかりっこないからね」
「でも…そんなことになったら、ガイルはどうなるの…? やっと守ったのに、もう二度とこの子を失うようなことにはなりたくないわ…!」
「それが迷っている原因さ…島の安全と、息子の生命を天秤になんてかけられるはずもないのにね……お義父さんだ。どうしたんだろう?」
「え…?!」
デュラスのほうでも2人を見つけたようだった。できるだけ急ぎ足で近づいてこようとするが、ちっとも早くは歩けなかった。
「ローレン! ローレン、どこに行っていたんだ? 急いで戻ってくれ、わしもやっとここまで来た。こんな時間にどこをうろついていたんだ?!」
「お義父さん、どうしたんですか? 落ち着いてください。わたしたちは−−−」
「言い訳はいい、さっさと戻れ! ファーナがおかしいのだ、わしでは脈がとれんのだ…!」
「お母さんが…?!」
ローレンは動こうとするよりも早く、サリアはガイルを預けて駆け戻った。
彼女の悲鳴と泣き出す声でローレンは理解した。
デュラスは膝をつき、自分でも最悪の事態は予想していたようだった。
その後、ファーナは祖霊の列に加えられたが、人知れず亡くなったローレンとサリアの子どもについては、だれからも悔やみの言葉ひとつ述べられるはずもなかったのである。
そして流産したサリアは、子どもを産めない身体になっていたのであった。
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