「宝剣物語」第一部第二章

「宝剣物語」第一部第二章

ローレン=ヘイズが10歳も年下の同族の娘サリアと婚約したのは相食の年5年、彼が18歳の年のことだった。ローレンはトラビスの村のヘイズ氏の、生き残ったなかでは2番目の息子で、10歳年上の長兄スランと2人きりの兄弟だ。
長兄は3年ほどまえに父の跡を継いだ。薬師、呪術師、占星術師と、ヘイズ氏の役割は多いが、兄は若いながらよく父の教えを守り、そつなくこなしていると評判だ。しかも、そのときに結婚した妻マイラとのあいだには、命名を終えたばかりの息子のディーンと命名前の女の子、それに3人目の子がいるとわかったのは、ローレンが婚約する数日前のことだった。
また、父のドワンも引退こそしたがいまも健在で、長兄で解決できないような問題を片づけたり、望まれればすぐにでも現役復帰できそうで、たとえスランに万が一のことがあったとしても、ローレンがトラビスのヘイズ氏になれる可能性は皆無といってよかった。順番でいけば、長兄の子どもたちが最優先で、弟はその下にまわされるからだ。
だからといって、ローレンはいずれ父や長兄のようにヘイズ氏として成人するのだと思ってはいても、それがトラビスでなければならないと考えているわけでもなかった。むしろ物心ついたときから長兄の存在が常にあったもので、成人するのなら、トラビスでなかろうとかなりまえから思っていたぐらいだ。
ヘイズ氏族に生まれた男子は、間違っても独身でいることはないし、ましてや他氏族の娘と結婚し、ヘイズ氏でなくなることなど先例もなく、これからもあり得ないだろうことだったからだ。
ヘイズ氏の技は他の氏族に伝えられることはなく、どんな村や町でだって、最低でも1人は必要とされている。たとえ本人がどう考えていようと、ヘイズ氏の勤めを放棄することなど許されるはずもない。
とはいうものの、そのローレンだって、まさか自分が10歳も年下の娘と結婚することになろうとは予想だにしなかった。サリアはいま8歳ということだ。彼女と年の釣り合う若者だっていたろうに、よりによって自分が選ばれようとは。
だが、その後にローレンは知ることになるのだが、10歳くらい年齢の離れた夫婦など、ヘイズ氏では珍しくもないのだった。
というのは、総じてヘイズ氏の男子は晩婚で、早くて20代半ば、遅ければ30歳になってからというものも珍しくはないからだ。女性はだいたい10代後半からどんなに遅くても20代前半までには結婚してしまうが、これは赤ん坊の死亡率が高く、出産に危険が伴うことと無関係ではない。
少しでも身体が若くて丈夫なうちに、できるだけ子どもを産むこと、そうでなくても子どもが無事に成人することは珍しいのだから。
しかし、サリアがモールニアの村のヘイズ氏の一人娘だと聞いたローレンは、ちょっとだけ納得しないでもなかった。
モールニアはトラビスから歩いて4日以上かかるところにある、東隣の村だ。街道のいちばん奥まった地で、モールニアから出るものはあってもモールニアに入るものは少ないとさえいわれている。それもそのはず、モールニアの村は、このアダモン島で人の住む最東端にあたる辺境の地だったからだ。
いちばん近いとはいっても、街道はほとんどこのトラビスで終わっているようなもので、モールニアへは狭い山道を辿っていかねばならない。その行程は大半が山と森のなかで、とくに森は、人跡未踏の樹海の端っこで、昼間でも薄暗い道のりだという。しかもモールニアより徒歩で1日のところにはモール地溝と呼ばれる深く南北に長い穴があり、その幅はもっとも広いところ−−−つまり街道と交叉しているところでは20メートルもあり、釣り橋がなければ渡ることなどできないのだった。
そしてモールニアの村は、その山と森のなかの窪地にあって、四方を山と森、というよりここまでくると樹海に囲まれていて、ローレンは無論のことながら、父や長兄でさえ訪れたことがなかったのである。
父はいつものように長兄の手伝いをしていたローレンを呼び、珍しいことに家を出ようと誘った。杖をついても歩くのが不自由な人なので、その父がわざわざ外に出ようということでローレンは不安さえ覚えた。
「ローレン、モールニアのデュラスは知っているな?」
長兄は父に似て簡潔な物言いをする人だ。父はローレンが階段を降りるや否や、そう切り出した。
「お名前だけは。僕は会ったことがありましたか?」
その反対にローレンは長兄に言わせれば「回りくどい」言い方をするのだそうだ。
父は先に立って歩き出し、ローレンがそのあとを追う。
「デュラスには娘が1人しかおらん。おまえをモールニアにと望んでいる」
「僕はまだ成人できるような年齢ではありませんよ。あと数年はかかります」
「今すぐにではない。デュラスの娘はサリアというが、まだ8歳だ。結婚できるようになるにはあと10年、早くても7、8年は待たねばなるまい」
2人の脇を新婚らしい若い夫婦が腕を組んで歩いていった。
ローレンは奇異なものでも見るかのような目で2人を見つめ、あろうことか、一瞬父の話も忘れて立ち止まった。
若い男のほうは彼とおなじくらいに見えたが、ローレンの視線に目敏く気づくと咳払いをして新妻を自分のほうに引き寄せた。
「おまえもあれくらいの年で結婚したいというのか? 責任も果たせないものが結婚することは許されんぞ」
父に睨まれて、ローレンは居心地悪そうに身をすくめた。
「ファルコの娘は今年嫁ぐ。おまえではまだ釣り合わんし、さらに先になれば、サリアとおなじくらいの年齢だ。選択の余地はないぞ」
ローレンは黙って頷いた。ちょっと驚いただけだ。相手がまだ8歳で、しかもモールニアのヘイズ氏となれば。けれど、そんなことを言っても父は無視するだろうことは彼だってわかりすぎるくらいわかっていたので、なにも言わなかったのだ。
「では、僕は早速婚約者に会わなければいけませんか?」
ゆっくりと歩き出した父を追って、ローレンは声をかけた。黙って頷くのは従順の印だ。逆らうことは許されないが、すべてに従わねばならないというわけでもあるまい。
「それには、モールニアに行かなければなりませんよね?」
父はいかめしい表情で首を振った。
「モールニアに行けば雨期に入る。そうなれば雨期が明けるまで戻ることができない。再来月まで待つのだ」
「そうですね…」
父の言うとおりだ。ローレンはまだ長兄の手伝いをするのがやっとで、それも薬師としての仕事だけに限られている。
しかしヘイズ氏の仕事はそれだけではなく、呪術師、あるいは占星術師として、暦を作り、占い、祭りの指揮を執り、出産に立ち会い、葬列を導かねばならないのである。
ところが彼は、父に言われるまで今日が3月末日で、月が明けたら雨期に入ることも忘れていたのだ。
どちらにしても、彼には他に選択肢はなかった。ヘイズ氏のものは必ず同族と結婚しなければならないからだ。そこに当人たちの意志の働くような猶予はなく、選ぶことができたとしても、せいぜい両隣の娘のどちらがいいか、というぐらいの幅でしかない。
それでも、ローレンはサリアに同情した。まだ8歳のうちから生涯の伴侶を決められてしまうとは。8歳といえば、やっと両親の手伝いに慣れるか、遅い子ならば両親の手伝いを許されるころだ。そんな年端もいかぬ娘に、会わなければならないとしてもどんな顔をすればいいんだろう。婚約者だと挨拶をするしかない。
「手を貸してくれ、ローレン…わしも衰えたものよ、少し歩いたぐらいで疲れるようではな…」
答えるべき言葉が見つからなくて、彼は黙って父に手を貸した。父はたしか56歳のはずだが、長兄が跡を継いで安心したのか、ここ数年すっかり老け込んだように見える。体重も減ったようで、肩を貸してもあまり重圧にはならず、ローレンは少しだけ寂しい気持ちになった。昔の父は、どんなに辛いときでも息子たちには弱みなど見せなかったのに。
そういえば、モールニアのデュラスはどんな人だろう。長兄ならば知っているのだろうが、ローレンが物心ついたときにはもうデュラスは成人していたはずだ。会ったことがあったとしても、彼は赤ん坊で命名もされていなかったころにちがいない。
むしろ、彼の妻のファーナのほうをよく知っている。ちょっと小柄な人で、2ヶ月に1度、ローレンが10歳のころから一緒にファルコに行っている。つい数日前に別れたばかりだ。
彼女は今年36歳で、とてもそうは見えないほど若々しかったが、サリアの上に産んだ4人の男の子を全員成人するまえに亡くしたのだそうだ。そのせいか、ファーナはローレンをまるで彼女の息子か弟のようによく可愛がってくれる。長兄もファーナには弱くて、いつもの仏頂面も隠れる。義姉のマイラのまえではあまり笑わない人なのに。もっともファーナとマイラとでは全然性格も異なるけれど。
「大きい人よ、とっても。そうね、腕が太くて、お髭を生やしてて、彫刻も得意なの。男の子がローレンぐらいに育っていたら、きっとあの人みたいに大きくなったでしょうね。あたしと並ぶとまるで大人と子どもみたいなの、サリアはあたしに似ててちっちゃい子だから、デュラスに抱かれると余計にちっちゃく見えるわ」
そうだ、ファーナはそんなふうに家族のことを話していた。あのときはサリアはまだ小さくて、デュラスの父もまだ健在だったものだ。
でも、あの後、間もなくファーナは命名されたばかりの4人目の男の子と父親とを相次いで亡くした。ローレンは彼女を慰めようとして、逆に慰められたことをよく覚えていた。
「……父さん、あの噂は本当なんですか?」
父は顔を上げた。支えられているのは父のほうなのに、その歩みが止まり、ローレンも立ち止まらなければならなかった。2人の身長はだいたいおなじくらいだが、ローレンのほうがずっと痩せていた。
「モールニアでは1人の子どもしか育たないって…」
自分で言い出しておいて彼が口ごもると、父はつづけるように促した。いつもより厳しい目だが、ローレンの言葉は否定できないようだった。
「モールニアで子どもが育たないのは樹海があるからだって聞きました。強すぎる薬草が毒になり、命取りになってしまうように、人間にはよくないって。だから、ファーナは4人もの男の子を亡くしたんですか?」
「その話、母さんやマイラのまえでは決してするなよ。おまえの婚約のことはまだスランしか知らないが、そんな話を耳にすれば、反対するに決まっているからな」
「じゃあ、父さんは本当のことだって思ってるんですね?」
ローレンは思わず声を潜めた。トラビスは田舎の村で、道を行く人もファルコとは比べものにならないくらいに少ない。彼らの話を聞いているものがいればすぐにわかるはずなのだが、まだ陽は高く、ほとんどの村人は畑にいるものと思われた。それでも彼は、母や義姉ばかりでなく、他のだれにも聞かれたくなかったのだ。
「子どもが1人しか育たないのは事実だ、それもヘイズのものに限ってな。だが、モールニアは聖霊シアンに縁の地なのだ。ヘイズのものはあの土地を離れるわけにはいかない、それが聖霊の意志とあらばな」
父はまた歩き出し、この話を一方的に打ち切った。
もっとも、聖霊の名を出されてはローレンだって逆らうことはできない。もしも逆らえば、それは父に逆らったのみならず、聖霊に唾し、祖霊をおとしめたものと見なされ、氏族からも除名されてしまうからだ。
聖霊とは、父祖の霊のなかでも最も力があり、神聖とされる。祖霊が直系のご先祖を指すのとは違い、聖霊は氏族や部族に共通の始祖だ。
なにか嫌なことがあれば、人びとはまず聖霊の名をつぶやいて厄除けを願い、なにかにつけ聖霊に助力を頼む。世界はそれほどまでに危険と悪意に満ちていた。人間は弱く、異形の怪物や悪霊をいつも恐れていなければならなかった。武器を持たない人びとにとっては、身を守ってくれる手段は切実なほどに大切であり、その最も身近な存在が聖霊というわけである。そしてシアンは、ヘイズ氏だけの聖霊であった。
2人はトラビスの村のなかを一回りしてヘイズの家に戻るところだった。田畑のなかから、村人が老いも若きも挨拶をした。
2人というより、むしろローレンは付録だ。
父はヘイズ氏の常として、長年トラビスの村のために働いた。生まれたのもトラビスだ。父には下に弟が1人いて、ローレンのように他の村のヘイズ氏のもとに婿養子として入ったというが会ったことはない。
父は長兄とおなじ28歳で結婚した。それから、長兄が生まれ、ローレンとのまえに2人の子も生まれたが、2人とも命名されるまえに死んでしまったという。だから、トラビスのヘイズ氏の墓所には、無名の墓が2つあるが、無論そればかりではない。
いまのローレンのように、父もモールニアのヘイズ氏とファルコまで出かけることもあった。それも結婚するまえまでの話だが。だが、それ以外のことで父がトラビスを出たことはなく、本当にこの村とともに生き、この村のために尽くしてきたのだった。
誇張ではなくて、本当に父に命を救われたものは少なくないのだ。ローレンが生まれるまえの悪疫などでも、父はそれこそ不眠不休で働いたのだから。
彼は父を尊敬していたし、10歳も違うと長兄も兄というよりはもっと遠い存在だった。
だから、いまの自分が父や長兄のようにヘイズ氏として、村人を助け、むしろ導く立場に立てるようになるなんて話はとても想像ができない。いまのローレンは長兄の手伝いをするのが精一杯で、覚えなければならないことが多すぎるのだ。
けれども、ヘイズ氏は一人前になったと認めてもらわなければ結婚は許されない。まだ気が早すぎるが、サリアはそれまでずっと待たねばならないのだろう。
「おまえには教えなければいけないことがたくさんある。スランのことは心配するな、そのためにマイラがいるのだからな。だが、そのうちにモールニアへ行って、デュラスにも教えを請わなければならなくなるだろう」
ローレンはまたしても頷いた。気がつくと家のまえで、お客人が降りてくるところだった。
階段は幅が狭い。立っているだけならば2人並べるが、歩いて、ましてや杖をついている父ではとても危なくて人が去るのを待っていなければならない。
「お大事に」
つい、いつもの癖でローレンは帰っていくお客人に声をかけた。母子連れで、子どものほうはおなかを押さえているから、腹痛でも起こしたのだろう。母親が2人に頭を下げていった。
父が先に階段を昇り始めたが、2人が帰ったのを察したのか、長兄の怒ったような声が飛んできた。
「ローレン? 帰ってきたんなら手伝ってくれ。いままでどこに行っていたんだ?」
「いま行きます、兄さん。父さん、先に通らせてください」
実質的な権力はいまだ父のものだったが、ヘイズ氏としての仕事では長兄が最優先される。礼儀を無視してローレンが先に昇っていっても父は小言は言わなかった。
長兄はいつも怒ったような話し方をするのだが、今日は本当に怒っているのじゃないかと思えた。
というのは、仕事場に入っていったら、いつも彼を手伝っている義姉がいなかったからだ。でも、室内のお客人の数からいっても、いちばん忙しい時間はどうやらすぎてしまったらしい。
「父さんと話をしていたんです。すみません、いちばん忙しい時に手伝えなくて」
「言い訳はいい。半夏を煎じてくれ、それから−−−」
それから夕暮れまでの3時間ほど、ローレンは仕事場と薬草の貯蔵室を行ったり来たりした。
ヘイズ氏は一般的に薬師と呼ばれるが、それはその仕事の大半が日常に起こる、病気や怪我の治療に追われるからだ。人参、芍薬、山椒、牛黄、大蒜、弟切草、薄荷など、薬草はそれこそ無数にある。仕事とはいえ、ローレンは長兄が次々に的確な指示を出すことにいつもながら舌を巻いた。
夕日が差し込むころ、ようやく客人はいなくなった。ローレンはほっと安堵の息をつき、長兄に聞かれなかったかと慌ててその表情を盗み見た。
「ニーの具合がよくないんだ…母さんに任せておけばいいのに、マイラときたらディーンも放ってつきっきりだ…」
「父さんがいるから大丈夫ですよ。兄さん、ここは僕が片づけるから、行ってあげたら」
長兄はちょっと驚いたような顔をしたが、すぐに杖を手に立ち上がった。
「そうさせてもらおう。すまんな、ローレン」
「いいえ」
スランは、杖をつくのももどかしそうにできるだけ急いで出ていった。
兄も人の子だ、きっと義姉にはなにか言ったのだろうが、本当はいちばんに駆けつけてやりたかったにちがいない。
ローレンはすっかり散らかった仕事場をてきぱきと慣れた様子で片づけた。どっちにしても、スランが片づけることは滅多にないのだ。兄は父とおなじに杖がなければ歩けないので、せいぜいいてもローレンに指示を出したり、手にとった薬草について教授してくれるぐらいだからだ。
彼はまだまだ半人前だ。片づけなんて覚えたって、一人前のヘイズ氏はしないことのほうが多いのだから。
それはそれとして、ローレンも少しだけニーのことが気になった。生まれてから2ヶ月になるがあまり丈夫なほうではないらしく、しょっちゅう熱を出したりしている。ディーンが手のかからない子だっただけに、義姉は気の休まる暇がないとぼやいていたが、可愛がっていたっけ。
子どもは、生まれてから1歳になるまでは名前をつけてもらえない−−−ちなみに、誕生日という考え方はなくて、アダモン島では年が明けるとみな一斉に年をとるのが習わしだ。だから、極端な話をすれば、大晦日に生まれた子は、わずか1日で命名されることになる。
ニーとは、そういう命名まえの女の子の呼び名で、男の子ならばヨーになる。つまり、ローレンもスランも、昔はヨーだった時期があるのである。しかも、命名されるまでに死んでしまえば、葬儀が行われることもないし、祖霊の列に加えられることもないのだ。ローレンの2人の兄は、つまりヨーのままで亡くなったわけだ。
赤ん坊の生存率は高くない。これはヘイズ氏に限らず、アダモン島全島においてそうだし、だれもが知っていることだ。死産や流産はもとより、せっかく生まれてきても1歳になるまで長らえない子も少なくはないのだ。だいいち、出産はたとえヘイズ氏がついていてもたいへん危険な行為であり、妊婦の死も充分あり得る。
ニーやヨーとは、そうした死が家族に与える悲しみを少しでも和らげるために、生まれてもいないのだから、死んでいないのだという、古来からの知恵である。
しかし、理屈ではそうとわかっていても、実際にはどれだけの両親が嘆いていることか。
だんだん暗くなってきたので、ローレンは角灯に火を入れた。角灯なんてふつうの家にはない。朝日が昇るちょっとまえに起き出して、夕日が沈んで間もなく寝てしまうのが多くの家の日課だ。角灯なんて要らないようにできている。
しかし、ヘイズ氏ではそうもいかない。患者は翌日までなんて待ってはくれないし、出産はなぜか夜中が多い。昼間にできることといえば、祭りと葬儀くらいなものだ。だから、ヘイズ氏の家には角灯が常備してある。獣脂を使い、とても明るいとは言いがたいのだが、ないよりはましな灯りである。
それで、ローレンもそういうところはしっかりヘイズ氏の習慣に染まっていて、暗くなってきたら角灯をつけるのが当たり前になっているのである。これが他の家であれば、もう夕飯を食べて寝なけりゃと思うところだ。
薬草をしまうには専用の貯蔵室があって、そこに箪笥が置かれている。箪笥の棚は無数の仕切りによって薬草が他のものと混じらないようになっている。しかも蓋もついていて、このトラビスにヘイズ氏が家を構えたころから所有しているという年代物の家具である。
ローレンは、その蓋を一つひとつ開けては薬草が少なくなっていないか、悪くなっていないかを確かめた。なかには滅多に使わない薬草もあるのだが、放っておいていいはずはない。
後かたづけとはいっても、仕事場の散らかったのを片づけることなどすぐに終わる。屑を捨てたり、薬草を擦ったり混ぜたりするのに使う鉢や乳棒を洗っておくぐらいだ。いちばん時間がかかるのは、実はこの薬草の貯蔵を見ておくことで、もしも補充用の薬草も少なければ、2ヶ月に1度、乾期の月に行われる、ファルコでの薬草の交換会のときには気をつけなければいけないということになる。モールニアのファーナが2ヶ月に1度出てくるのは、この交換を行うためだ。そのときはたいていローレンか義姉がファーナと一緒にファルコの町まで行く。そしてファルコには、メナンやフィンクの町からもヘイズ氏が来て、薬草の交換を行うのである。
薬草の交換には2つの意味がある。
1つにはモールニアのように樹海に接していて薬草に豊富なところでさえ、手に入らない薬、たとえば冬虫夏草や班猫などの動物や虫、菌を使うものを手に入れることだ。薬草が豊富なところはむしろ例外的で、どこの村や町でも、どうしても手に入れられない薬草の1つや2つはある。
2つ目には情報を交換することである。ヴェラにはヘイズ氏族の長がいるし、コーストの町からは代々副長と決まっている。ヘイズ氏の常で、成人男子は杖を使わなければ歩けない身だ。そのため、よほどのことがなければ成人したヘイズ氏は自分の町村から出ないので、ローレンのような成人まえの男子や、ファーナや義姉のような妻がもっぱら情報の仕入れ役になり、あまり時差を感じさせずにヴェラからモールニアまで情報を伝えるのである。
ローレンが最後の棚の蓋を閉めたとき、辺りはすっかり暗くなっていた。トラビスの村は静まり返り、ただヘイズ氏の家だけが、小さなニーを案じてざわめいているように思えた。こんな時間になっても起きているなんて、ヘイズ氏以外にはあり得ない。
けれどローレンは、ニーのことばかり考えてもいられなかった。
「婚約か…」
今日初めて1人になれて、彼はため息をつくように低くつぶやいた。
まだ実感がわかないというのが本当だ。じっくりと考えてみる時間もあんまりなかったし。
サリアはファーナに似ているのだろうか。ローレンは、つい数日前に一緒にファルコに行ったときのファーナを思い出そうとした。くるくるとよく表情が変わり、まるで少女のように笑う。
今度から、彼女のことも「お義母さん」と呼ばなければならないのかもしれない。そう思うとちょっと照れくさい。どんなふうに呼んでも、ファーナは答えてくれるんだろうけれど。
ローレンは角灯を提げて自分の部屋に戻った。隅に夕餉をのせた盆が置いてあったが、すっかり冷めていた。今日はパンと野菜を煮たものだ。
アダモン島では、乾期のあいだは昼にちゃんとした食事をとるので夕餉は簡単になってしまう。父が引退してからは母が料理を作るようになったけど、そのまえは村の独身の女性が交代で作りに来ていたものだ。それも朝、昼、晩と毎日である。
ヘイズ氏はこと食事に関しては恵まれていて、自分では農作業ひとつするわけでもないのに、食糧はきちんと分けてもらえるし、これが凶作の年であろうと大して減ることもない。そのうえ、料理まで作ってもらえるのだ。
しかし、ヘイズ氏は決してその技を他氏族のものには明かそうとせず、同族内でしか結婚しない。そのうえ、成人すると男子は必ず右足の腱を切らなければならず、生涯杖を使わなければならない身となる。
これはとても古い話だそうだが、ヘイズ氏の長がバウアーというものだった時代、ヴェラ、コースト、ドリィ、ファルコの四部族の長が、バウアーにヘイズ氏の技を他の部族にも教えるか、忠誠の証を示せと迫ったという。
バウアーは技を伝えるよりも忠誠の証を立てることを選び、自ら右足の腱を切った。村から一生出ないことを誓った彼の立てた証は、たちまち他のヘイズ氏にも求められるところとなり、以来、ヘイズ氏は成人すると右足の腱を切るのだという。
腱を切ったバウアーは、四部族の長にも逆にヘイズ氏族を裏切らない証を立てるように迫り、四部族の長は他の氏族長なども含めて話し合い、ヘイズ氏を農業から解放し、できるだけその便宜を払うことになった。
つまり、もしもヘイズ氏に求められれば、どんな部族の長であれ、彼を泊めたりもてなすことを拒むことはできないのである。
ローレンは片膝をついて両手を組んだ。
「我らの父祖なる聖霊シアン、あなたの血につながる幼き命、いまだ生まれてもいないニーの命をどうか助けてください…」
それから数日して3月が終わり、1年でいちばん昼の長い日がやってきた。アダモン島には、どんな村でも行われる4つの祭りがあって、そのうちのひとつがこの1年でいちばん昼の長い日の祭りだった。
長兄はいつものように祭りを取り仕切り、ローレンは義姉がほとんど小さなニーにつきっきりだったのと、勉強のために手伝わされた。
祭司の衣装を着たスランはいつになく堂々として見え、その一挙手一投足をローレンはじっと見つめた。
トラビスの村とモールニアの村とでは氏族は違うが部族は同じだという話だったので、かなり参考になるところも多かろうと思ってのことだ。
ヘイズ氏は、わずかながら魔法を使うことができる。スランも例にもれず、村人に向かってきらきらと輝く光の粉を播き、ほんの短い間、掌ほどの小さな妖精を飛び回らせた。
子どもも大人も、はしゃいでこの妖精を追いかけたが、幻のようにだれにも捕まえられることはなく、逆に人びとをほんのちょっと、からかったりした。
待ちかねた若者たちが、妖精が消えたのを合図にわっと賑やかに楽器を演奏し始めた。
祭りは二部に分かれていて、前半をヘイズ氏、後半を村の若者たちが担当するのが倣いだ。たちまち、辺りにはいくつかの踊りの輪ができた。ローレンは長兄が戻ってくるのを待ちかまえて輪を器用に抜け出た。
太鼓と笛、それに一弦のケルンが代表的な楽器で、村によってはほかにいくつか使われるが、トラビスではこの3つと、あとは人びとの発する合いの手だけだ。
年齢からいえば、ローレンは若者たちに混じって祭りの支度をしたり、その進行を仕切ったりしなければならないのだが、ヘイズ氏となればそれも免除されてしまう。彼は密かにそれを残念に思っていたが、かといって踊りの輪に加わる気もしなかった。小さいころから一緒に遊んだという間柄でもないもので、どうしても気後れしてしまう。それで、いつも父や長兄を手伝って、ご馳走を食べて終わってしまう。
加えて、今年はニーのことが心配で、長兄でさえ楽しんでなどいないようだったし、ローレンもとてもご馳走を味わうどころではなかった。
明日から雨期に入る。雨期は1ヶ月もつづき、アダモン島では乾期と雨期が1ヶ月ずつで交代する。しかも雨期のあいだは決して雨がやむことはなく、乾期のあいだは雨が1滴も降らないのである。
ちょっとだけ天体観測についても教えられたローレンは、暦がこの気候に合わせたのではないかと思ったほどだ。
幸い、いつも雨期の客人は少ない。雨期には仕事にならないので、人びとがほとんど出歩かなくなるからだ。
農業はいつも乾期のあいだに終える。わずか1ヶ月のうちに種蒔きから収穫までしなければ、雨期にはせっかく植えた苗は流され、残ったとしても長い雨のために腐ってしまうだろう。
トラビスの村人たちは、ニーの具合が良くないことを知って、まるで遠慮でもしてくれたかのように、雨期に心配な疫病などもなくて、長兄が出かけなければならなくなるようなことにはならなかった。
激しく雨の降りしきる音でローレンは目を覚ました。雨期に入ると生活の区切りが大幅に変わるが、どちらにしても暗いうちに起き出すことなどなかった。眠りなおそうとして、彼はちょっと水が欲しくなり、自分の部屋を出た。
夜は人外の時間だ。どんな町や村の人も、よほど緊急の用事でもない限り外に出ることはしないし、出なければならなくなることをとても嫌がる。
夜になると、樹海から、人がまだ知らないところから、異形の怪物や悪霊が這い出てくるのだと言われているからだ。残念ながらそれは噂とか、いつまでも寝ようとしない子どもを脅かすためのお伽話でもない。異形の怪物も悪霊も、ちゃんとこの世にいるものなのだ。
ヘイズ氏に育ったせいか、ローレンは夜に出歩くことにはあまり抵抗は感じなかったが、やはりできるものならば家は出たくないというのが本音だった。けれども、必要とあらば、聖霊の名をつぶやいてその守りに期待をかけるだろう。
「……シー…」
「…?!」
目が冴えてきて、ローレンは雨に混じって義姉の声を聞いたように思った。まさか起きているとは思わなかったので、耳を澄ましてみたが、気をつけてみれば、すすり泣きさえ聞こえるような感じだ。
もう、彼はこのまま寝てしまうなんてことはできなかった。しかし、家のものは彼の他にはだれも起きているようではない。
「義姉さん…?」
案の定、義姉はニーのすぐそばにいた。暗闇に浮かぶ人影に、思わず内心では聖霊の名を唱えずにいられなかったが、それが義姉であろうことは十中八九間違いがなかった。
「ローレンなの…?」
義姉のほうも驚いたようすで応えた。
「どうしたの、こんな時間に…?」
家族にはばかってか、彼女はささやくような声で訊いた。雨の音がうるさくて、ローレンはできるだけ近づいたが、角灯をつけようとは思わなかった。
「雨の音がうるさくて目を覚ましたんです。それで、喉も乾いていたものだから、ちょっと水を飲みに行ったんですけど、義姉さんこそ、こんな時間にまで起きているんですか?」
「眠れないの…スランもお義父さんも、もうやれるだけのことはやったから、あとはこの子次第だって……でも、とてもじゃないけど、この子を放ってなんておけなくて…」
そう言って、義姉のマイラは目元をこすったようだった。
彼女は長兄ともローレンともちょうど5歳ちがう。ヘイズ氏には珍しくもないことだが、結婚するまで夫となる人の顔を見たことがなく、あの長兄の妻とは思えないほど、子どもっぽいところが残っている人だ。
「2人の言うとおりですよ。だいいち、義姉さんはいつ寝ているんですか? ニーより先に−−−」
「あなたまでニーなんて言わないで、ローレン!」
ずっと堪えてきたものが、不意に爆発したようだった。彼女はローレンの肩をつかむといきなり泣きだし、彼はどうしてよいものか見当もつかなくてまごついた。
「義姉さん、みんなが起きてしまいます、ニーだってせっかく寝てるのに…」
「ニーだから、死んでもいいって言うの?! しょうがないって、あの人は言ったのよ、それよりも私のお腹のなかの子を大切にしなさいって。ニーだからしょうがないなんて言えるの?」
「じゃ、じゃあ、なんて呼べばいいんです? 義姉さん、さっき、だれかの名を呼んでいませんでしたか?」
ローレンが小声にしたので、マイラもさすがに時間をわきまえたようだ。
けれども、彼女の口調はいつもよりもずっと激しく、こんな一面があるなんて、不謹慎かもしれないが意外な気がした。
「……この子、ニーなんかじゃないわ…チェシーよ、チェシーっていうのよ……」
「チェシー? だって、まだ命名まえじゃないですか。1歳にならなくちゃ、名前はないし、生まれてもいないって…」
「この子は生まれたのよ、ローレン…! ディーンだけじゃない、チェシーも私がおなかを痛めて産んだ子なの。スランも、お義父さんも知らないわ、もちろんお義母さんもね、でも、お義母さんなら、きっと私の気持ちがわかってくれるはずだわ…」
「だれにも知られてはいけないことなんですか…?」
「そうよ。特に、スランとお義父さんにはね」
ローレンは急に背筋が寒くなった。マイラが話しているのは、もしかしたら氏族全体に関わるような禁忌なのではなかろうか。
けれども、彼女はまるで熱に浮かされたように話しつづけた。ローレンが聞いていようがいまいが、どうでもいいというように。
「チェシーがまだ生まれていないなんて、だれにも決められないわ。だって、チェシーは1人で、たった1人でこんなに頑張っているんだもの、替わってあげられるものならば、私が替わりたい、チェシーは生きているのよ、そうでしょう、ローレン?」
彼は答えられなかった。替わりに、今年始めの、ディーンの命名の日を思い出していた。
ヴェラとコーストから、ヘイズ氏の長と副長が来た。2人は、毎年この時期になるとアダモン島全島を巡り、ヘイズ氏の子どもたちに命名を施すのだが、今年はこのトラビスが最終だそうで、さすがに少し疲れたようなようすだった。
命名にはディーンの母であるマイラは出席を許されず、長兄と父とだけが許されていた。ローレンも母もやはり許されなかった。
ローレンは、自分もいつか子どもを持てば、長兄のように出席が許されることを知っていたが、女性はどうやら一生許されないものらしい。彼は、義姉のこの憑かれたような話し方に、その鬱積でも溜まっているのかと思ったのだった。
「どうして、兄さんや父さんに隠れてまで名前をつけるんです? 2人ともニーを可愛がっていることに違いはないし、それに母さんや僕だって…」
「女はみんなそうするのよ、ローレン。名前もつけられなくて、生まれなかったものとして葬られたヨーやニーなんて、本当は1人もいないのよ。おなかのなかにいるときから呼んできたんですもの、この子はチェシーなの、ニーじゃないのよ…!」
彼女の言うとおりなら、おなかのなかにいる子にももう名前はつけられていることになる。いまディーンと呼ばれている幼い甥っ子も、かつては別の名で呼ばれた時期があったということだ。
けれども、ローレンはもうそのことを考えていることができなかった。
「スラン…! あの人を呼んで、ローレン! チェシー? 母さんはここよ、チェシー! お願い、スランを…!」
マイラのようすで、チェシーの容態が急変したのはわかった。ローレンは飛び出し、長兄ばかりでなく家族を起こしたが、その祈りは空しく、小さなチェシーは間もなく息を引き取った。
雨期ももう終わりに近づいた、4月末日のことであった。
長兄は、雨期が明けたらチェシー、いやニーを先祖の墓所に葬ることに決めたが、葬儀は行わないと改めて言い添えた。
ローレンには、長兄の措置にマイラが不服を申し立てるかと思ったがそんなことにはならず、妹の死を知らない幼いディーンの存在が一家を大いに慰めた。
ニー、いいやチェシーは死んでさえもいなかった。生まれてこなかったと言われるのだからそれも当たり前なのだ。
けれど、ローレンはチェシーの温かさをいまになって鮮明に思い出したし、父や母も理屈では割り切れないところがあって、いままで以上にディーンを可愛がるようになった。
死は日常だった。
しかし、ヨーやニーなどという言葉ではごまかしきれない思いがあるのも確かなことであった。
マイラは、ちょっとぼんやりすることが多くなって、長兄はますます仏頂面になった。ローレンは以前にもまして忙しくなり、なにごとも勉強のためと、自分に言い聞かせた。
けれども、モールニアのデュラスのたっての願いもあって、彼は乾期のうちに出かけなければならなかった。
乾期になって間もなく、ファーナが出かけてくるので、いつものように一緒にファルコにいって、そのままモールニアまでついていこうとローレンは考えていたのだが、それでは乾期のあいだをほとんど留守にすることになるので長兄に反対され、ファルコにはマイラが行くことに決まった。
そしてローレンは1人でモールニアに行き、ファーナと入れ替わりに帰ってくればいいと、例によって長兄が独断で決めた。
もっとも、これにはちゃんとした理由があって、マイラはまだニーの死から立ち直っていないが、ファーナなら慰められるだろうというのだった。
それで、ローレンは5月の半ば、モールニアに向けて発ったのであった。
トラビスからモールニアまでは街道とは名ばかりの細い道がつづいている。行き交う人も皆無で、ローレンは鳥や獣の鳴き声を耳にする以外はまったく1人だった。モールニアに行くのは初めてだったが、一本道のため迷うようなことにはならなかった。
暗くなると、さすがに知らぬ土地では不安があるのでローレンも移動しようとは思わなかった。
ファーナが教えてくれたとおりに、水源のあるところで休むようにしたが、若くて健康な彼にも決して楽な道行きではなかった。起伏が激しいのが最大の理由だ。ファーナは、たしか4日で来ると言っていたが、3日目になっても、行けども行けども森と山ばかりだ。
休むときには暖をとらなければならない気候ではなかったのだが、ファルコに行くときにはいつもするように焚き火を焚いて、〈結界〉も描いた。
トラビスを出ると、モールニアに接しているという樹海が急に身近なものとなる。ローレンは異形の怪物が棲むと言われる樹海より身を守るために、ファーナがいつも描いているのであろうところとおなじ場所で休み、〈結界〉をなぞりなおした。
ローレンは、ふだん自分が人好きのするほうでないと思っていたのだが、わずか3日だれとも話さなかっただけで、もう人恋しくてたまらなかった。
2ヶ月に1度、この行程を通っているファーナの忍耐には頭が下がる思いだ。彼女はいつも、どんな思いでトラビスを1人で出ていくのだろう。
改めて、彼はモールニアがとても辺境の地であり、とうていトラビスから4日の距離だなんて呑気なことを言ってられないのを知った。
「明日の昼頃にはモールニアにつくんだから」
思わず口に出すと、自分の声がびっくりするほど大きかったような気がした。
人影を見かけたのはそのときのことだった。
夜でも充分暑いというのに、フードをすっぽりとかぶり、まっすぐに近づいてきた。
彼が〈結界〉を越えるまで、ローレンは声をかけることさえ忘れていた。
「こんばんわ。火にあたらせてもらってもいいですか?」
そう言って、そのものは立ったままでフードを下ろした。30代半ばか、もうちょっと年をとっているか、中肉中背の男で、気味悪いほど印象の薄い顔立ちだった。
「どうぞ、ご自由に。こんな時間にお一人ですか? モールニアからいらした…? ……いえ、すいません、立ち入ったことをお訊きしてしまって…」
「いいえ」
と彼は不可思議な笑みを浮かべた。
「わたしになにを訊いてもあなたは忘れてしまうのですよ、ローレン=ヘイズ。わたしとここで出会ったことや話したこと、なにもかもをね…。
でもいまはヴァールとだけ名乗らせてもらうとしましょう。たとえ忘れるのだとしても、呼び名もないのではあなたも不自由でしょうからね。あなたとはまた、改めてお会いすることになるでしょうが、あなたはどうせなにも知らないのですから」
彼の言うことがよくわからなくて、ローレンは首を傾げたが、そのうち、正確にはヴァールの言葉を聞いているうちにどうでもよくなっていた。
「あなたはモールニアへ行くのですね?」
「…え、ええ、そうです。婚約者とその父上にお会いしなければならないんです」
「それはいいですね、ローレン。あなたももうすぐ結婚するというわけですか?」
「いいえ、まだなんです。結婚はまだできません。僕はまだ成人していませんし、それにサリアはまだ8歳なんですよ。
でも、あなたはなぜそんなことを訊くんですか?」
ヴァールは答えずにローレンを見つめた。
フードをかぶりなおして立ち上がったが、彼は目をそらすことができなかった。
頭がくらくらした。
なにかがおかしい。
ローレンはヴァールから離れなければならないことを痛感したが、どうすることもできなかった。
「あなたの子どもをいつかいただきに行きますよ、ローレン=ヘイズ。奥さんにはそのときにお目にかかるとしましょう…」
気がつくと朝になっていて、ローレンは変な格好で寝ていた。おかげで節々が痛いが、これから山道を歩くのに差し支えはないようだ。自分がこんなに寝相が悪かったなんて思わなかった。
変な夢を見たように気がした。けれども内容は思い出せず、ローレンは取り立てて気にせずに出発したのだった。
道はいよいよ狭くなり、緩やかだが長い坂道を彼はゆっくりと確実に登っていった。
太陽が中天に昇ったころ、ローレンは坂道の終わりについた。少しだけ、この旅程で初めての平坦な道を歩く。両側は鬱蒼と茂った森で、彼はあまり脇見をしないようにした。
道が少し下ったかと思ったら、そこからはモールニアの村全体が見渡せた。山と森に囲まれた、すり鉢状の盆地に段々畑がところ狭しと刻まれ、数えられるほどの家が並ぶ、小さな、ローレンが想像していたのよりももっと小さな村であった。
彼が畑のなかの道を降りていくと、働いていた人びとが老若男女を問わずに集まってきた。
「僕はヘイズ氏のローレンといいます。こちらのヘイズ氏、デュラス殿を訪ねてきましたが、どちらにいますか?」
「あっち」
「あの丘の上だよ」
「森の手前」
口々に子どもらがそう答えた。指されたほうを見上げると、さっき村を見おろした峠の反対側に、少し大きな家がぽつんと立っており、何人かの人が帰ってくるのがわかった。
「ありがとう」
ヘイズ氏だと言ったら、村人は一斉にがっかりしたようだった。そうでもなければ、モールニアを訪ねるものなどいないということか。
特に子どもたちの態度は露骨で、さっと散った。
しかし、ローレンだって、他氏族のものと話がしたいというわけでもなかった。人恋しさは村に入った途端に、もうどこかへすっ飛んでいってしまったらしい。
モールニアの村にはさほど見るべきものはなかった。トラビスの村とおなじ、床の高い家、より貧しい田畑、特徴があるわけでなく、みなおなじように見える。
サリアと結婚すれば、トラビスではなくてモールニアが彼の故郷になる。それも悪くないなと思った自分に、ローレンは少しだけ驚いていた。
「お父さん、お客様だよ!」
そう言って家のなかに走り込んでいった少女がサリアであろうとローレンは確信した。ファーナにはあまり似ていない。それにあの格好ではまるで男の子みたいだ。豊かな黒髪を三つ編みにして垂らしていなければ、完全に男の子に見えたにちがいない。だとしても、彼女の声は甲高く、彼はやっぱりサリアだと思ったろう。
杖をつく音はすぐに聞こえてきた。
ローレンが待っていると、サリアに腕を掴まえられた壮年の男が姿を見せた。足は悪いが肩幅は広く、かっしりした体格だ。豊かな顎髭をたくわえており、ローレンはファーナの言ったとおりだと思った。
彼はローレンを見ると、片腕で楽々娘を抱き上げて階段を下りてきて、微笑みかけた。
「初めてお目にかかります。トラビスのドワンの息子、ローレンといいます。あなたがデュラスさまですね?」
「いかにも。いずれ親子になるのだ、堅苦しい呼び方はよそうじゃないか」
「でも、なんてお呼びすればいいんです?」
「デュラスでいい。これは娘のサリアだ。
サリア、ご挨拶をしなさい。おまえの未来の夫になる方なのだよ」
改めて言われると、ローレンのほうが照れくさかった。
けれども、サリアのほうは意味もろくにわかっていないのか、無邪気に笑った。
「こんにちわ。わたし、サリア」
つられてローレンも微笑んだ。
が、デュラスが軽く咳払いをしたので、サリアを婚約者として扱わなかったことに気づいて赤面した。
「サリア、おまえは1人で遊んでおいで。父さんは彼と話があるからね」
少女は父親を見て、にっこり笑って頷いた。
彼女が文字どおりぱたぱたと走って出ていくのを、ローレンはなおも微笑ましい気持ちで見送った。
ニー、いやチェシーもあんなふうになったのだろうか。ふとそう思ったが、彼女のことはもう忘れなければならなかった。
「…ファーナが一緒でないということは、なにかあったのかね、ローレン?」
「それもあります。でも、兄からあまり留守にしてくれるなって言われまして」
「うむ、スランはまったくうまくやっている。だが、遠慮がないな。わたしがおまえを呼んだのは、ただ顔を見たいだけではないことぐらい、想像がついてもよさそうなものだ」
「それは知りませんでした」
「婚約のことを聞かされたとき、早いと思ったかね、ローレン? まずはお茶でも飲もう。まったく、乾期のあいだは喉ばかり乾いていかんな」
デュラスが先に立って家の奥に向かった。
モールニアの家には部屋が4つあった。これはトラビスよりも2間少ないことになるが、家族が3人しかいないのだからあまり不自由もないのだろう。ただ、ローレンが来れば一間くらいは建て増ししてもらいたいような気もするけれど。
最初の部屋はおなじように仕事場で、薬草の貯蔵用に1部屋、あとの2部屋が居住空間というわけだ。薬草の貯蔵室がいちばん大きく、しかも窓がなくて暗いことはどこの町村でも変わることがない。ちらりとそのなかをのぞいたローレンは、トラビスやファルコよりも箪笥が立派なことに密かに驚きを覚えた。
デュラスが藁で編んだ丸い座布団を勧めてくれた。
アダモン島の家では土足が原則だ。土は一応階段で落としてくるが、念のためにどの家にも座布団の10枚くらいは常備してある。
渡されたのはきれいな編み目で、ローレンは家で自分が使っている、すり切れた座布団を思い出した。確かに、ファーナの言うとおり、デュラスは手先が器用な人らしい。
お茶が出されてから、ローレンは初めて喉がとても乾いていたことを思い出した。お茶の味までトラビスとはちがうような気がする。実際、それは気のせいではなかった。
「小さな村だろう、モールニアは? トラビスの半分くらいしか人がいないのだ。みんな知り合いみたいなものだ。これほど小さい村となれば、村人一人ひとりについて帳面をつけていても大した手間ではないからね、我々は代々そうしてきたのだ。いずれおまえにこの帳面は渡そう、役に立つにちがいない」
「トラビスでも似たような手帳はありますよ。でも、そんなに細かくはないと思いましたけど。それに、僕はまだトラビスの方々とはあまり話したことはありませんし」
「うむ、手伝いなどをしているうちはそんなものさ。わたしもそうだったからな。
これはモールニアの代々の記録だ。村人が、その先祖にどんな病気をしていたかもわかる。そうすれば、自ずとかかりやすい病気というのもわかってくるからね。いつ生まれたかはつけていないな。ただ、何歳の時にどんな病気にかかったのかは知っているが。それに大切なのは子どもの数だよ。女性の場合は、特に何人産んで、うち何人が生き残っているか、死んでしまったか、死んだとすれば何歳ぐらいかまでは書いてある」
「僕にもできるでしょうか?」
「新しく追加することだけさ。おまえはわたしの手帳に新しい人や病気を追加していけばいいんだ。ファーナがおまえのことを慎重な性格だと評していたよ。おまえならきっとうまくやれるだろう。どちらにしても成人すれば家のなかにいることが多くなる。あまり外には出たくなくなるものさ」
「…父は年をとったからだと思っていました。でも、みんなそうなんですね…」
「ヘイズ氏の男子には避けて通れぬ話さ。だが、恐ろしいかね、ローレン? バウアーの話を聞いたときに恐ろしいと思ったかね?」
「そりゃあ怖いです。歩けなくなるなんて、考えただけでぞっとします…でも、逆らうことなんてできないんですから、しょうがないです」
デュラスがにやりとしたので、ローレンは自分がなにかおかしなことを口走ったのかとどぎまぎした。
「…たしかに、おまえは慎重な性格のようだな。だが、ちょっと慎重すぎるかもしれん。ドワン殿やスランにはあまり似ていないようだ」
「……よく言われます。お気に召しませんか?」
「そんなことはないよ。
さて、悪いがお客人のようだ。手伝ってくれないか?」
「喜んで」
来客を告げるサリアの声は、当然ローレンにも届いていた。が、声を張り上げて得意そうに帰ってきた彼女を、デュラスは叱りつけた。
「お客人が来るときは騒ぐんじゃないと、何回言われたら覚えるんだ?」
「ごめんなさい…」
彼女はすまなそうに小さくなったが、デュラスは杖をついて仕事場へ出ていった。
泣くまいと頑張っているサリアに言葉もかけづらくて、だいいち自分のほうなど視界にも入れていないようだったので、ローレンも将来の父に倣った。
お客人は当然村のもので、畑で足を切ったと言った。
デュラスが一人娘を叱ったのを聞いていたのか、彼のほうが恐縮してみせたが、ローレンを見ると、目を丸くした。
傷は彼が手伝うほどではなかったが、デュラスにはむしろ、ローレンを村人に紹介しておきたいという気持ちがあったようだった。
「それはまたお早いお話ですねぇ、デュラスさま」
村人は、ローレンがサリアの婚約者だと知るとまずそう言った。同年代同士で結婚するのが他氏族の場合には圧倒的に多い。
「急に決めてもサリアが落ち着かないだろうし、あまり遠くのものを望むわけにもいきませんからね。いまのうちに婚約しておけば、サリアも自覚を持つようになるでしょう」
「まだ修行中の身ですが、よろしくお願いします」
ローレンが頭を下げると、彼は慌てて自分も帽子をとって挨拶をした。
「こちらこそよろしくお願いしますよ。なんといってもモールニアはトラビスからだって4日以上もかかるところにありますからなぁ」
お客人が帰っていくと、デュラスはローレンを質問責めにした。どれだけのことを知っているのか、これからどれだけのことを学ばなければならないのか、などだ。その質問の端々にデュラスの広範な、自分の父よりもずっと深い知識が伺われた。
もっとも、答えるたびにローレンは冷や汗ものだ。なにも知らないと思われたくないが、知ったかぶりだと言われるのも嫌だ。
サリアは途中からぽかんとしたようすで聞いていたが、おもしろくないとは言わなかった。
やがて、外がすっかり暗くなるころ、デュラスはやっとローレンを解放した。
「サリア、彼に星座の名前を教えてあげなさい」
「はい!」
彼女は嬉しそうにローレンの手を引っ張った。
「行こう、お兄ちゃん!」
「ちがうよ。彼はおまえの夫になる人だと言ったろう? ローレンだよ、サリア」
「おっとってなに、父さん?」
「おまえが大きくなったら彼と結婚するんだよ。父さんと母さんのようにね」
「はい、父さん。
行こう、ローレン、星のなまえをおしえてあげる」
「ありがとう」
外に出ると満天の星空だった。考えてみたら、ローレンときたら家のなかにこもっているのが好きで、星座の名前ひとつろくに知らなかった。
サリアは微笑ましいぐらいに一生懸命だった。つられて、ローレンも一緒に星を指し、彼女がするようにつなぎ、星座をたどったのだった。
彼女は10個ほどの星座を教えてくれた。季節によって見える星座にもちがいがあることも得意そうに話した。
「おぼえた、お兄、じゃなかった、ローレン?」
「ちょっとだけね。でも、これからはもっと星を見ることにするよ。ありがとう、サリア」
「お父さんがね、おしえてくれるのよ。お父さんは何でも知ってるの、どうぶつのなまえもくさや花のなまえもなんでも知ってるの。ローレンも知ってる?」
「薬草のことには詳しいんだけどな。サリアは教わったかい?」
「やくそうのことはお母さんよ。お父さんはあんまりそとに出ないから。お母さんとはいっしょにやくそうをつみに行くのよ。ローレンもしたことあるの?」
「そうだね、あるよ」
「ねぇ、いつまでモールニアにいるの? サリアと、いっしょにあそんでくれる?」
彼女はローレンの手を引っ張り、くるくると独楽のように廻した。
「お父さんがいいって言ったらね。
サリア、いい加減にしないと目が回っちゃうよ、さあ、そろそろ家に−−−?!」
不意に樹海のほうから、獣のようなそうでないような異様な叫び声が聞こえてきた。
「いやぁっ!」
サリアはローレンにしがみついた。
彼でさえ、背筋がぞっとするような声だった。
あるいは人かもしれない。
樹海に入ったきり、決して戻らなかった人びとの話はいくらでも聞いた。
もしも彼らが生きていて、樹海で気が狂ってしまったのだとしたら −−−。
彼は震えるサリアを抱きしめた。
抱き上げて、後ろ向きでゆっくりと階段を昇った。
樹海からはなにも出てこないようだ。
けれど、それだけではとうてい安心などできるはずがなかった。
「…聖霊シアンよ、我らに加護を与えたまえ…!」
まるでそれに応えるようにして声は再び夜空を切り裂いた。
しがみつくサリアの指先がきつくなり、ローレンも余計に彼女をぎゅっと抱きしめる。
ようやく家に入ると、デュラスが真っ青な顔をして戸口に立っていて、ローレンは急いで扉を閉めた。
間をおいて、もう一度だけ声は響き、辺りはまたもとの静寂に包まれた。
「お父さん、怖いよ!」
サリアはべそをかいてデュラスにしがみついた。
「……あれはいったい、なんの声なんですか…?」
ローレンはそう訊ねるのがやっとだった。
恐ろしくてたまらず、あの声が何度でも聞こえてくるような気がした。
「……明日になったら話そう…夜は人外の時間なのだ……いまは話したくない…」
「そうですね…」
寝床に入ってからもローレンはなかなか寝つかれなかった。
けれど、いくら耳を澄ましてみてもあの奇怪な声はおろか、獣の声ひとつ聞かれず、彼はいつの間にか眠っていたようだった。
モールニアでは、トラビスよりも人口が少ないせいか、お客人の数もあまり多くはなかった。
もしも昨晩のことがなければ、清々しい朝だったにちがいない。顔を洗うために外に出たローレンは、樹海に潜むという異形の怪物が、いまもそこから覗いているのではないかという錯覚に捕らわれた。
「ローレン、いずれモールニアに来ることになるのだから、話しておこう。それが真実か否か、おまえに確かめる機会がないのを願うばかりだが……。
だれにも話してはならないと誓えるかね…?」
「サリアにもですか…?」
「そうだ」
「はい、お義父さん…」
「モールニアはシアンがみまかった地だ。それゆえにこの地をヘイズ氏は守り、決して離れることがなかった。それはヘイズ氏のものならば、いずれ知るようになることだ。
だが、モールニアのヘイズ氏にだけは、こうも伝えられているのだ。シアンはまだ生きていて、樹海をさまよっているのだとな…」
「シアンが…?! だれか見たという人でもいたんですか? でも、それが本当のはずがないですよね? 人間がそんなに生きるなんてこと、できっこないんだから…」
ローレンは言葉を濁した。デュラスの表情は真剣そのもので、嘘だとは言い切れないようだった。そうでなければ、彼がそんな勿体ぶった言い方をするはずがない。
「…確かめる術はないのだよ、ローレン。しかし、シアンについては謎の多かった人であることは間違いないのだ。樹海で彼に会ったという言い伝えもあるが、本当かどうかはわからない。昨日のあの声を、シアンのものだという話もある……。それも、だれも確かめたものはいない話だ。
さあ、この話はこれでおしまいにしよう」
彼はそう言うと、四つに畳んだ紙をローレンに渡した。蝋で封がしてあるところを見ると手紙のようだ。
「これをスランに渡してほしい」
「兄に、ですか…?」
「婚約者がいるということは、もう子ども扱いはできないんだ。だからといって大人でもないわけだが、スランにしてもドワン殿にしても、おまえにトラビスの家を優先させるように強いることはできないということだ。
おまえには薬草の知識は豊富にあるようだが、その他のことはからきしだな。スランの手伝いにはマイラがいる。そのための結婚でもある。おまえにはもっといろいろなことを学んでもらわなければならないし、そのためにちょくちょくモールニアに来る必要もあるだろう。
トラビスにトラビスのやり方があるように、モールニアにはモールニアのやり方があるからだ。おまえはこれからモールニアのヘイズ氏になるんだ、いまはそのための準備期間だ。
そんなことを書いてやったんだよ。スランもドワン殿もトラビスから出たことがなかったからな」
「わかりました。でも、お義父さんはモールニアの方じゃなかったんですか?」
「わたしはメナンの生まれだ。おまえのように通うことはできなかったから、ファーナとの婚約が決まってからはずっとモールニアで暮らしてきた。結婚したときに1度だけメナンには帰ったがね…」
メナンといえば、ファルコの先にある町の名だ。モールニアからは片道10日以上もかかり、とうてい通えるような距離ではない。
ローレンはメナンからファルコに来ているタランを知っていたが、彼がまさかサリアの従兄だったとは思いも寄らなかった。
しかしデュラスは、まるで独り言のようにこうもつけ加えたのだった。
「なぜかはわからないが、モールニアではここ4世代ほど女子しか成人していないのだ。他の部族での成人年齢にさえ達しないで死んでしまうものが多い、いや多すぎるほどだ。わたしとファーナの息子たちも、サリアには兄にあたるんだが、みんな成人できないで死んでしまったよ……」
それから、ローレンはファーナが帰ってくるまでモールニアにとどまり、デュラスにいろいろなことを教わった。彼は父や兄とはまたちがった角度から物事を見ることも教えた。
そしてローレンが感じたとおり、デュラスの知識は幅広く、この後も何度も驚かされた。
彼は何事も新鮮な気持ちで学び、いざトラビスに帰るときになると、このままデュラスのようにモールニアに残りたいとさえ願うようになっていたほどだった。
けれど、てっきり賛成してくれるかと思っていた義父は、即座に反対した。
「それでは駄目だな、ローレン。おまえは、まだトラビスでさえ充分に学んだとは言えないではないか。スランやドワン殿について、もっとよく勉強してくるといい。ファルコに行くことも大事なんだ、何事も勉強だと思うんだよ」
「でも、僕はもっとあなたの側で学びたいんです。それでも駄目なんですか?」
「わたしは、おまえに狭い視野の持ち主になってほしくない。モールニアのヘイズ氏を継ぐからといって、モールニアのことしかわからないのではよくないからな。
それに、サリアにあまりなつかれても困る。あの子はまだ子どもなのだ。おまえのことを婚約者として見るようになるのはまだ当分先のことだろう。いまはまだ、新しい遊び相手に過ぎないようだからな」
「わかりました。そういうことでしたら、しょうがないですね」
すると、つい今し方帰ってきたばかりのファーナがふふ、と笑った。
「あなたはそれでいいでしょうけれど、私には残念な話だわ。だって、ローレンとあまり会えなくなってしまうんですもの。本当にローレンの言うとおり、ずっとモールニアにいてくれればいいのに」
「彼は遊びに来るわけではないんだよ、ファーナ。それに、彼が婚約してからいつまでも結婚できないのでは、ドワン殿やスランにも恥をかかせることになってしまうんだからね」
「わかっていますとも。まったく、あなたたちは本当の親子みたいに、生真面目なところがそっくりね」
デュラスはわざとらしく咳払いをした。
「10年なんて長いようで短いものさ。わたしたちの小さな娘はすぐに大きくなるよ」
ローレンはちょっとだけ微笑んだが、すぐに気を引き締めた。トラビスまでの4日間は決して短い道のりではない。うっかりしていて事故など起こしたらたいへんだ。
「それじゃあ、僕はそろそろ帰ります。次は2ヶ月後にお目にかかりますから」
「そうね。そのときを楽しみにしているわ」
すると、サリアが張り切ったようすで口を挟んだ。
「ローレンを見送りに行ってもいい、父さん?」
「そうだね、行っておいで。でも、あまり遠くまで行くんじゃないよ」
「わーい!」
彼女に手を引っ張られて、ローレンは挨拶もそこそこに家を出、階段を駆け下りた。
けれど、そうはいってもサリアは村のほうまでは降りていこうとはしなかった。
彼女にとって、村は未知の世界であり、村人はたまに家にやってくるお客人にすぎないのだ。もしも村に降りることがあるとしても、両親と一緒のときばかりだったにちがいない。
そうと確信したローレンは、
「ここでいいよ。元気でね、サリア」
と手を振ってみせた。
「またね、ローレン」
許しが出たので、彼女はほっとしたようすで手を振った。
ローレンは、村のほうに降りるまで2回ほど振り返ってサリアに手を振った。
彼女はまだ家に入ろうとはせずに、そのたびに振り返した。
村の中央道路を歩いていくと、仕事の手を休めた村人が声をかけてきた。この10日足らずのあいだに、噂はしっかりと人びとのなかに広まったにちがいなかった。
「もう帰るのかね?」
「ええ。今度は次の乾期のときに来ます。これからは、乾期のたびにおじゃますることになると思いますので、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
「お気をつけて、トラビスまでは山道が続きますからね」
「ええ、ありがとう」
「今度は村にも寄っていってくださいな。サリアの婚約者さんとなれば、もう村の一員であるようなものですもの」
「そうそう。この村のものは、トラビスの方々とはおなじ部族ですからね」
初老の女性からそう声をかけられて、ローレンははっとすると同時に、嬉しいような恥ずかしいような気持ちになった。次いで声をかけてきた男性とともに、2人はモールニアの村の有力者であるにちがいなかった。
「ありがとう。ぜひ、そうさせてください」
ローレンは、デュラスやサリアのそばにいたきりで、ろくに村人を訪ねてもみなかった自分を恥ずかしく思い、心底からそう答えた。
村の入り口で、彼は最後にもう一度だけモールニアの全景を見渡した。
それからは、振り返ることなしに彼は歩き出した。トラビスまではまだ4日もあるのだった。
デュラスの手紙を真っ先に読んだ長兄は、渋い顔で、それを父に渡した。しかし、父が2人に頷いてみせたので、ローレンはひとまず胸をなで下ろした。
父と義父とが同意しあっている以上、いくら長兄でも反対はできないだろうからだ。それは事実そうなった。
ローレンが、いずれモールニアのヘイズ氏になるという話はすでにトラビスの人びとにも伝わっていた。
多くのものは、2人目の息子であるローレンの落ち着く先が決まったことで好意的で、冷やかされることもあったが、なかには10歳も年下のサリアと婚約したことで、誹謗するような声もあった。
しかし、それは面と向かってローレンやスラン、父に言われたことはなく、むしろ噂として入ってきた。
母や義姉が心配して、一家の耳に入れたのだ。
「言いたい奴には言わせておけばいい。それよりも、ローレン。くれぐれも噂の元を突き止めようなどと思うなよ」
長兄は相変わらず怒ったような口調で断言した。なにも言わないが、この件に関しては父も思うところはおなじようだ。もっとも2人は性格的にも似ていたので、考え方もおなじなのかもしれない。
だから、ローレンはいつも反発せずにはいられないのだ。
「でも兄さん、それじゃあ、サリアやデュラス殿の名誉はどうなります? 僕だけの問題ではありませんよ、ファーナだって、トラビスには頻繁に来るのに」
「張本人を突き止めて、謝らせなければ気が済まないとでも言うのか、ローレン? そんなことをすれば、氏族間の問題になる。ヘイズ氏の長は黙って聞き流すわけにはいかないだろうし、トラビス氏の長もおなじことだ。しかも、名誉のためとなれば、責任は重い、我々の助力をそのものに与えないということで仮に解決したとしても、彼は追放されるだろうし、部族のなかでも不名誉を被るだろう。しかも、行く先々の町村で禍根を残すだろう、ヘイズ氏はどこにでもいるのだからな。
だが、それは浅はかなやり方だ」
「……」
「我々には我々のしきたりがある。ヘイズ氏であることにもっと誇りを持て、ローレン。こんな噂で名誉などと騒ぎ立てるのは、おまえのなかにこそ、サリアとの婚約にやましい気持ちがある証拠だ」
ローレンは返す言葉もなかった。
大人にならなければいけないのは、サリアよりもむしろ自分のほうだ。彼は、スランのような考え方はとうていできなかった。少なくともいまは、思いつきもしなかった。
「禍根は子々孫々まで残るが、噂は1年ともたない。
もっと強くなれ、ローレン。デュラス殿は、そのためにもおまえをトラビスに帰すとおっしゃっていたんだぞ」
「……すみません、兄さん。教えてもらうまで、そんなこともわからないなんて…それに、僕は今まで兄さんをずっと誤解していたようです」
「冷たい奴か…? それはちっともかまわない。わたしのほうにも、おまえをまだまだ子どもだと、馬鹿にする気持ちがあったのも確かだからな。わたしはあまりいい兄ではなかったな…。
ローレン、おまえに手伝ってもらえなくなるのはとても残念だよ。でも、おまえをいつまでもわたしの手伝いだけでいさせることはできない。その替わりに、おまえが、わたしと対等な立場になることを喜ばせてもらうとしよう」
「ありがとう、兄さん」
スランが差し出した手を、ローレンは素直に握り返した。
恥ずかしいと同時に、彼は誇らしくもあった。
長兄の言うような誇りはまだないのかもしれないが、ヘイズ氏は個々に成人していくという意味が、やっとわかったような気がした。
スランの言ったとり、噂は間もなく消えた。
ローレンにとって、10年とはまさに長いようで短くもあり、またそのまえの18年とは比べ物にならないくらいに充実してもいた。
彼はすぐにサリアを愛するようになった。
彼女が会うたびごとに成長していくのを見守るのは、楽しくもあり、誇らしくもあった。
サリアの名誉のためなんて口実だったのだ。あのときの彼は、確かにスランの言うとおり、10歳もちがう婚約者がいることにやましい気持ちを抱いていたのだ。サリアはまだ8歳だったから。
サリアもまた、いつまでも訳のわからない子どもではいなかった。
彼女は結婚するということについて間もなく知り、ローレンを愛した。
サリアは、大胆かと思うと臆病で、わがままかと思うと会う人をみんな好きになったりした。触れるのが怖いぐらいに繊細かと思えば、ローレンにいきなりむしゃぶりついてきたりもした。
長い婚約のときを経て、2人がようやく結婚したとき、その出逢いからはもう10年が過ぎ去ってしまっていた。
サリアはあのときのローレンとおなじになり、ローレンはあの当時の長兄とおなじ年になったわけだ。
ささやかな結婚式は、まずサリアだけがトラビスに来て行い、それからローレンとトラビスの両親を伴ってモールニアに行き、やはり身内だけでより厳かに行われた。
ローレンもサリアも、このときになって初めて、ヘイズ氏のなかでは離婚など許されないことを知った。
それから、2人だけで樹海に入った。2人の両親に見送られて、2人きりで。
樹海は昼間でも薄暗く、正に樹の海という呼び方はぴったりだった。見上げれば、枝と枝が密に重なり合って、陽の光はとうてい地面には届かない。
モールニアに通うようになってから、ローレンは樹海にはその都度入ったし、サリアも父母に伴われたり、1人だったりして樹海に入ることはよくあったが、2人だけでというのは互いに初めてのことだった。
2人はそこで結ばれるのだ。できるだけ大きな木を選び、生まれたままの姿になって、その周りを3度巡る。思い思いの誓いの言葉を改めて唱えながら、2人は木のまえで、新たに巡り会う。
「この木が倒れることになっても、僕は君を愛しつづけるよ、サリア」
2人で選んだ木は、以後神聖な木となる。
「あたしも、この木が倒れても、あなたを愛しつづけるわ、ローレン」
森、樹海とともに生きるのがヘイズ氏の定めだ。森は人外の勢力圏だが、薬草の宝庫でもある。
森よ、大いなる樹海よ、この新しき絆に祝福を。
今日の結婚に携わった、すべてのヘイズ氏がそう願う。
新婚夫婦はその木の下で一夜を明かし、樹海を出てくるのである。
しかし、結婚には苦い成人の儀式も伴っている。
ローレンがなにかの助けを借りずに歩けるのはこれが最後のことだ。彼らは、みなモールニアに入り、村人のまえでローレンの右足の腱を切らなければならない。
彼は苦痛に悶えることも許されない。たとえ全身を貫くような激痛が走っても、ローレンは村人の祝福を受けなければならず、耐えることでようやく村のヘイズ氏として認められるのだ。
その場で簡単な手当がされる。まえにここで成人の儀式を行ったのは、ローレンの義父にあたるデュラスで、もう26年もまえのことだから、血溜まりは残っているはずもない。
痛みのために、ローレンは数日は起き上がることはできないだろう。そのあいだは、いままでどおり、デュラスが村人の面倒を見ることになる。
けれども、痛みで伏せっているローレンを置いて、トラビスの両親は帰っていった。あまり長居すると、すぐに次の雨期に入ってしまうからだ。雨期のあいだ、2人も余分に養えるような余裕はモールニアにはない。
2人は、くれぐれもローレンを頼むと言い残していったが、彼には挨拶をするような気力もなかった。
互いに足が不自由な身となったからには、もう滅多なことでは会えない。事実、ローレンが両親の姿を見るのはこれが最後のこととなった。
2ヶ月後、サリアが身ごもっていたことを知らされたローレンは、彼女がおなかの子にどんな名をつけたのだろうかと思ったのだった。
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