「宝剣物語」第一部第一章
ガイルが10歳の年に見た夢は、いまでも細部を思い出せるくらいに印象深くて奇妙なものだった。
後にも先にも、あれとおなじような夢は二度と見ることはなかったのに、あれからも夢はたくさん見たのに、あの夢だけはいつまでも忘れることがなかった。忘れてしまうことができなかった。
それともあれは夢ではなかったのか。高熱に浮かされて、死の一歩手前までいった彼が見た幻だったというのか。
あの黒い大河、滔々と音もなく流れ、水面にはなにものも写さず、水草も魚もなにひとつ見えなかったあの黒い大きな河は、いまも彼の背後を、あるいは前を流れているのだろうか。
ガイルは物心ついてから10歳になるまで、ただの一度も家の外に出た記憶がなかった。もっと正確にいえば、出られたことがなかった。
彼の家は彼と祖父が寝起きしていた部屋、それに彼が滅多に入ることのなかった両親の部屋と、いつも薬草の匂いが鼻をついた両親の仕事部屋、それに薬草の貯蔵室が1部屋と、4つの部屋があるだけの平屋建てで、床下1メートルある、このアダモン島ではごく一般的な造りの家だった。
それは同時に彼の世界のすべてでもあった。
生まれつき病弱で、起きているよりも寝ているほうが多いような生活、朝には気分が良くても太陽が高く昇るころには熱を出したり気分が悪くなっていることも珍しくなかったガイルには、家の外など望むべくもない遠い世界だったのである。
もっとも彼は、家のなかのこともあまり知っているというわけでもなかった。自分の部屋を除くと、それさえも野外に等しいくらいに縁遠い世界だったのだ。
わずか、立ち上がって数歩行くだけで見渡すことのできるはずの他の3つの部屋も、ガイルには滅多に足を踏み入れることのない異世界であり、彼が知っているのは本当は自分の部屋だけに限定されているといってもよかった。
だから、逆に彼は、自分の部屋のなかのことだけはとてもよく知っていた。なにしろ一日中そこに篭りきりの日も当たり前の彼のことだ。いやでも自分の部屋のことには詳しくなる。どこに何があって何を見ることができるのか、ちゃんと知っているのだ。
たとえば、部屋の天井や壁、床をくまなく覆っている板の数や傷、穴、その向きや色の微妙な違い、それに年輪の形まで、ガイルは後々まではっきりと思い出すことができた。指で壁のそれらをたどり、そうする以外に時間をつぶせないこともざらだった。
熱に浮かされた眼で見ているとそれらの年輪や穴はまるで自分を見つめる目のように見えたこと、最初は小さくてやっと視界に捉えられるぐらいだったのに見つめているうちにだんだん大きく見えてきたこと、そうして無数の目に見られているような気がしてきて、彼はときどき夢に見ることさえあった。
そんな夢はたいていいい夢などではなかったが。そうでなくても、ガイルは続きを見たいと思うような夢を見ることは希だった。
また彼の部屋には東と南に大きな窓があったこと、それらは多くの時間、つっかえぼうで持ち上げられていたことも彼は覚えている。窓をそうしておくのはいつも祖父の仕事で、雨の降る日や風の強い日、ガイルの具合がよほど悪いとき以外は、朝起きるとまず窓を開けるのだった。
もちろん、窓が開いているときと閉じているときとでは部屋の明るさは格段にちがう。だから窓を開けるということは、部屋のなかに自然の明かりを取り入れる意味もあったのだが、それでも日光がガイルのところまで差し込むほどは開けられないのが常だった。
祖父が一緒だったのでご先祖の霊を祀る霊壇があったこと、病弱な彼を心配して祖父がしょっちゅうご先祖さま−−−祖父は「祖霊」と呼んでいたが−−−に祈りを捧げていたことも彼は思い出せた。その霊壇の形も上に載せられた魔除けの大蒜も彼はいちいち覚えていたが、後にも先にもおなじものを見ることは二度となかった。
祖父は右足がほとんど動かず、トネリコの杖を愛用していたが、そのねじれ具合や長さも、それをついて歩く祖父の姿とともに、ガイルは覚えていた。座っているときなどは、祖父はいつも杖をおなじところに立てかけるので、そのためにできたほんのわずかな壁の窪みの位置も彼は知っていた。
それは両親も知らない彼だけの秘密だ。ただの窪みなんかじゃない。その他の祖父に縁の品々とともに、祖父の思い出を辿る、大切な大切なものなのだ。
また、天井の隅っこに張った蜘蛛の巣の形や大きさ、そこにかかっていた獲物のことも彼は驚くほどよく覚えていた。蜘蛛が巣をはる様子などは、彼の部屋のなかではいちばんと言っていいほどおもしろい見物だったが、ガイルはたいてい最後まで付き合うことはできなかった。それに、そこに獲物がかけられているのをたまたま起きてすぐに目にしたりしたときなどは、彼はいつになく嫌な気分になったものだ。とくに獲物がまだかかったばかりで、もがいていたりすると、まるでそれが自分の姿のように思えて、彼は不機嫌だった。
けれども、彼が蜘蛛の巣を払ったことは一度もない。手が届かなかったせいもあるが、せいぜい、視界に入らないで済むようにしたぐらいだ。
それでも時折、本当に気分のいいときなどは窓から外を眺めることもあったが、彼の部屋から眺められるのは開けた村の景色ではなく、鬱蒼と木々が生い茂り、村人が決して足を踏み入れようとしない東の森だった。
村人がなぜ足を踏み入れないのか、そもそも森に近づくのさえ敬遠していることなども、彼が知ったのはずっと後のことだったが。その理由を知ったのはさらに先のことだ。
だがそれは両親の気遣いだったのかもしれない。歩けるようになったのも2歳になってからのことだったし、いまだって満足に走ることもできないガイルが、村で遊ぶ子どもらを見てもおもしろいはずがないと…?
幸か不幸か、彼は10歳になってからさえ、家族以外の人間を知らないですごした。
父のもとには毎日のように、少ないときでも1人から2人、多いときでは5、6人の村人が訪れていたはずなのだが、そのなかのだれ一人として彼とは面識がなかった。彼が村人の来る部屋−−−両親の仕事部屋止まりだったが−−−まで出られることは希だったし、彼を訪ねてくるものは皆無だったからだ。
そして両親も祖父もガイルよりも強い存在であり、彼はいつも守られるべき弱い子どもだったから、それだけで彼の世界は完結していたのだった。
森の木はいつも緑の葉をつけていて、ガイルはよくその奥を覗いてみたい気持ちにかられた。この森はどこまでつづくのか、終わりがあるとしたらどんなふうなのか、祖父が話してくれる伝説やお伽話などによっても、彼の想像はかき立てられた。けれども、外に出ることもできなかった彼にはそんな想像をするのも難しいことであったが。
また、彼はお話のなかで聞かされる光景を思い浮かべようともしてみたが、そんなことをしているのはごくわずかの間で、数奇な運命に巻き込まれた登場人物たちの行く末を追いかけるのにすぐに忙しくなってしまうのだった。それにそうした風景の描写に長々と費やしているような話は希であるか、そうでなくても話し手の祖父によってずいぶんと省略されてしまったようだった。
だから彼はずいぶん長いこと、彼らが行かなければならなかった白い骨のような木々が並ぶ森や、一息吸うごとに肺を蝕む、瘴気の立ちこめた沼地について貧困な想像しか抱いてはいなかった。だいいち、「白い骨のような木々」や「瘴気の立ちこめた沼地」なんて、彼の想像力の範囲を超えているといってもよかったのだ。そんなところに自分が行けることがあろうなどと、彼は思ってもみなかったから。そんなところがこの世にあるはずがないと、祖父でさえ思っていたようだったから。
ただ彼は、登場人物の敵のひとつとしてそれらの障害を捉えていただけだった。彼らの目的を阻む奇怪な化け物や邪悪な魔術師同様、そんな不愉快極まりない光景も乗り越えるべき壁だったのだ。
しかし、「奇怪な化け物」や「邪悪な魔術師」についての想像力のなんと貧困だったことか。
祖父の語ってくれた物語や伝説の登場人物たちが、ガイルの唯一の友人だった。祖父は彼のたった一人の遊び相手だったけれども、やはり友だちとは呼べなかったからだ。
繰り返し繰り返し語られるそれらの話は、時に荒唐無稽な冒険談であり、時に恐ろしい怪物がはびこる伝説であったりした。
祖父の言葉は力を持ち、外に出ることのできない彼を空想と幻視の世界に連れていってくれた。それは無限に広がる世界だった。外に出ることもできなかった彼が見ることのできた、夢であった。彼が眠っているあいだに見たような暗い悪夢に比べれば、そこは想像のなかでも希望に満ちあふれていた。
けれども、それらは暗い時代の昔語りであることが多かった。四つの大きな災いと無数の小さな災いが人びとを襲った古い時代のことだ。
たいていは始祖のシアンよりも古い時代であるか、おなじぐらいに古いものであるかのどちらかで、シアンの後の物語というのは一度もなかった。
サウアー=ドライアス、ドルガン、ルンカネーラ、ヴァラックという名の四つの災いのことは、祖父も一度しか話してはくれなかった。それも彼が強くせがんだためだ。
しかし、あまりにも力が強すぎるのでそれらの名を口にしただけでも災いが降りかかるのだと、祖父はすぐにガイルにも魔除けの言葉を唱えさせた。それはシアンに始まって、祖父の父、つまりガイルには曾祖父にあたるレオンの名で終わる、直系の先祖たちの名前であった。
その後、ガイルはシアンからレオン、後には祖父の名を最後につけ加えた20人もの先祖の名を暗記するのにさんざん苦労させられたものだが、不思議なことに四つの災いの名だけは、いつまでも忘れられることがなかった。
風が唸りをあげる嵐の夜や、だれかが死んだ夜などに、ふっと遠い記憶のなかから浮かび上がってくるような、悪いしこりのような、そんな不吉な名前であった。それらは確かに力を持っていた。だがふだんの彼は思い出すこともなかったし、気にとめもしなかったのだ。
気がつくとガイルは黒い大きな河のほとりに立っていた。いいや、河というものをそもそも見たことがないのになぜ河とわかったのか。
彼は桶やお椀にくんだ水しか知らない。あるいは雨だけが彼の知っている水の形というものだ。雨の日にはたいていは窓は閉められていたものだったが、1度や2度くらいは彼だって雨を見たこともあった。そういうときは決まったように伏せっていたが。
けれども、黒く、静かに流れていく巨大な水の帯を一目見ただけで、彼はそれが河だと理解したのである。
もしかしたら、祖父の話をたくさんたくさん聞いているうちに、ガイルは河というものの形について空想していたのかもしれない。もっとも向こう岸が見えないほどの河があるとは、さすがに想像してもみなかったが、彼があまり驚かなかったのはこれが夢なのだとわかっていたからだったろう。
でも、夢のなかで「これは夢だ」とわかっていたことはいままでにはなかった。目覚めて初めて、夢だったんだとほっとすることばかりだった。
そうか、眠っていたと思ったら、実は夢を見ていたのだ。でもおかしなこともあるものだ。夢なのに、こんなにはっきり意識があるなんて。
だいたい彼の見る夢は、いつもいつもなにかに追いかけられて恐ろしさに目が覚めるようなことばかりだ。
それはときとして得体の知れない影であり恐ろしい姿の化け物であったりしたが、いちばん恐ろしかったのは、全身に無数の目を持つ死神王の夢を見たときだった。なにも見逃さず、それでいて耳を持たないから嘆きの声は聞こえないという死者を統べるもの、彼はお伽話だけのものではなかったのだろうか。
いけない、いけない。これは夢なんだから、変なことを考えるとそれが形をとってしまう。
ガイルはそんなお話も聞かされたことがあった。なにしろ、お話のなかのことしか知らない彼だ。
黒い水面は彼の立っている岸辺よりも低く、見おろしてもなにも写してはいなかった。ガイルはその場に膝をついてみたが、ちょっと手を伸ばしたぐらいでは水面には届かないようだ。
膝小僧とついた手がひんやりと冷たい。でも自分の部屋で床に跪くのとちがって痛くはなかったが、まずはこの黒い河のことからだ。
河の流れは穏やかで、飛沫ひとつあがるわけでもなし、いると言われた魚というものがいそうな様子でもなかった。
彼の右手から左手に向かって、ただ黒い水が動いていく。最初のうち、ガイルは墨が流れているのかと思ったくらいだ。けれども墨のようにどろどろとしているわけでもなさそうだった。覗き込んでみても川面には彼の顔を含めてもなにも写らず、よくない想像をしていたガイルはほっとすると同時に、ちょっとばかりおもしろくなかった。
そこで今度は視線を転じて空を見上げると、一面灰色だった。曇っているというのとは違っている。曇り空ぐらいならいくらガイルだって見たことがあったが、一面灰色ということはなくて、灰色が薄かったりほとんど黒と言ってもいいぐらいに濃かったり、色の濃淡があるのがふつうだった−−−ふつうだと言い切れるほど、彼が曇り空を見たことがあったわけでもないが。
だから彼の暇つぶしのひとつには、雲が流れていくのを見るということもあって、これがけっこうおもしろいものだったのである。
それに比べれば、晴れていてくれとも思わなかったが、夢のなかで見る空とは、なんとも味気ない色をしているものだ。
「……空じゃ、ないのかなあ…?」
自分でつぶやいた独り言にどきりとする。
そういえばそんな話があった。空が見えると安心していたら、紛い物の、怪物が造った〈魔宮〉の空だったという話だ。〈魔宮〉というのはこの世とあの世の境に造られる空間で、そこから戻るには〈魔宮〉の造り主を倒さなくてはならないという、冒険談だった。
「……でも、俺をはめたってしょうがないし、これは夢だもんね…」
そしてこれは彼も予想していたことなのだが、一片の雲どころか、空をゆく鳥や虫の姿さえ見つけられなかった。周りには人影さえない。
ガイルは夢のなかとはいえ、なぜこんなおもしろくもないところにいるのか考えた。べつに鳥や虫がいることを期待しているわけでも、だれかがそばにいてほしいと思っているわけでもなかった。家族のほかには、物語の登場人物しか知らぬ彼だ。
でも、夢なんてこんなものなのかもしれない。彼が常日頃から期待していたように、普段できないようなことができる−−−たとえば冒険したりとか危地に陥るとか−−−いうわけではなさそうだった。
だとしたら、大きな河のほとりにいるという以外に、彼が自分の部屋の天井を見上げて熱を出して寝ていることとどう違いがあるというのだろう。
いやいや、気を取り直して、彼は今度は自分の周囲を見回す。もしかしたら、河に投げ込めるような石のひとつやふたつ、落ちているかもしれないと思ったのだ。
この大河に飛沫のひとつもあげられたなら、なにか変わったこと、ガイルが最初に期待していたようなことが起こりそうで、彼が是が非でもやってみたかった。
ところが、おなじように黒い大地がどこまでも見渡せる限り拡がっているだけで、石ころ一つ落ちていない。
足の裏に伝わってくるのはまるっきり見たとおりのすべすべした滑らかな感じで、けれどもそれでいいかといえば、そういうわけでもなかった。
確かに、木の家で床に膝をつくよりはましだが、ガイルは、川岸というものは石ころだらけなのだと長いことずっと決めつけていたからだ。
少なくとも祖父の話ではそうだったし、石ころだらけでなければ、沼地のなかをいくつもの支流に分かれて流れていく、川とも沼ともつかぬところのようにぐちゃぐちゃになっていたはずだった。それ以外に彼がどんなものを知っているというのか。
そのときになって彼は自分が裸足だったことに初めて気がついた。裸足であるのも当然で、寝たときのままの半袖の上衣に半ズボンという格好だった。
もっとも寝たり起きたりの生活が当たり前のガイルには、ねまきなんてものはなかったし、それは祖父や両親もおなじことだった。ちがうといったら、祖父も両親も革靴を持っていることぐらいで、外に出られない彼には当然不要のものである。
彼はおもしろくなさそうに地面を蹴飛ばし、その場でくるりと回ってみた。足を引っかけるようなものはない。これも安心すると同時に、敵の間諜が結んだ草とか、悪意ある植物をちょっとだけ期待していたのでがっかりだった。彼はちょっと舌打ちしたが、自分がそういう伝説やお伽話かぶれになっていることまでは気づくわけもなかった。そういうものなのだと、最初から決めてかかっているのである。
まあ、伝説ほどの劇的な演出は期待していないとしても、もっとこう変化がほしかった。
膝を抱えて座ってみる。辺りは薄暗くてはっきりいって視界は悪い。いくら見渡せるかぎりといったって、距離感はあまりつかめないのだがそんなに遠くは見えやしない。
歩いていけるかもしれない。見えるかぎり遠くに歩いていったら、その先には案外もっと変わった光景が広がっているのかもしれない。
けれども、彼は河の側から離れようという気がしてこなかった。変わることなく、穏やかに流れていく黒い河を見ていたって、ちっともおもしろいなんてことはないのに。
おもしろくなかったけれども、なにか奇妙な話ではあった。生まれてこのかた一度も外に出たことのない自分が、夢だとはいえこんな大きな河のほとりにいるなんて。しかもいくら夢だとわかっていても、ちっとも目が覚めないなんて。それに、触れたこともないくせに、地面が勝手に自分の足の下にあるものだと決めつけているなんて。
そういえば、祖父の話にはこんなに大きな河は出てこなかった。もしも水辺が出てくるとしても、彼の友人たちはたいてい沼地とも河川とも区別のつかないようなところを行ったものだ。剣を片手に、鎧には泥と傷と血がいっしょくたにこびりついていたっけ。
あてのない絶望的な旅をしているものもいた。怒りを抱いたものも、希望を失いかけたものも。そして、なにかを探しているものも。
いままで友人だと思っていた彼らは、なんとガイルから遠いのだろう。なんて遥かな世界にいるのだろう。
彼は、とうとう髪の毛を1本抜いて、川面に投げつけた。あんまり眺めたことはなかったのだが、彼の髪の毛は両親とおなじように黒かった。
祖父も昔はやはり黒い髪をしていたというのだが、ガイルには祖父の物語以上にはとうてい信じられないことだった。だって、祖父や父にも子どものころがあったなんて、そんなはずないじゃないか。自分が生まれたときから、祖父はやっぱり祖父だったし、両親はやっぱり両親だったのだから。
当たり前のことなのだが、そんな人たちにいまのガイルとおなじ歳のころがあったなんて、どうしても想像ができない。祖父の髪は、ずっと白くて、髭も豊かなものだったから。年老いた顔しか知らなかったから。
つけ加えるならば、眼の色もガイルは祖父や両親とおなじ灰色なんだそうである。でも、おなじ灰色でも、祖父の目はいつも優しそうに見え、父や母の目はいつも沈んでいるように見えるのは、彼にはちょっぴりだけどおもしろいことだった。
「おまえの目はなんでも知りたがりの目だな」
祖父はそういってにっこりしたが、いちばん側にいてほしい人といったら、祖父以外には考えつかなかった。
それにしても、なんて忌々しい流れだろう。それに、さっきよりも辺りがだんだん暗くなってきているようなのは、いったいなんのためなのだろう。
やたらに大きい河、渡ることもできそうにはない。
たとえ夢のなかのこととはいえ、ガイルは自分が泳げないことは百も承知だったから、溺れるのはまっぴらごめんだった。それ以前に、彼は水に入ったことさえない。
それに、ガイルは英雄たちを河に引きずり込んで溺れさせようとしたぬらぬらの灰色の手を、内心では少々恐れていなくもなかった。あの、手の形をしていたけれども本当は手ではなかった、化け物を切り伏せるための剣はないのだ。あったとしても、とうてい使えないだろうけど。
それとも夢のなかなら泳げるのかもしれない。
深くて深くて、まるで底なしのように見えるこの河も、実は彼の膝までしかないのかもしれない。
夢のなかなのだから、まるで鳥のように飛んでいけるのかもしれないし、水の上を虫のようにすいすいと歩いていけるのかもしれない。
そうでなければ、物語の主人公たちのように、好意的な水の乙女に運んでもらえるとか。好意的な風の娘でもかまわない。
でも、水の乙女も風の娘も、彼の近くにはいなかった。夢のなかでなら、その姿が見えてもおかしくないと思ったのに。
それこそ彼はできるかぎりの無数の空想を働かせてみたけれど、そのどれひとつとして根拠があるものではなかったから、結局は試してみる気にもなれず、座ったままでいた。
けれども、ガイルは溺れるということについても知っているわけじゃなかった。だいいち、お話の英雄たちは溺れたりなんてしなかったので−−−河に引きずり込まれた彼も、結局は「灰色の手」を切り伏せて、また友人たちに助けられて、なんとか溺れないで済んだからである−−−、どうなるのか、皆目見当がつかなかった。
それでも、彼はこの黒い河に入っていくのが怖かったので、あれやこれやと理由をつけていたのだった。
どちらにしても、この先家の外になど出られる見込みのない彼のことだ。せめて夢のなかでくらい好き勝手にしてもよかったのかもしれないが、河のなかに飛び込む勇気はガイルにはなかった。
それに河のなかに入ったとたんに夢から覚めることがありはしないかと、これまた根拠のないことを考えてしまい、それはそれでおもしろくなかったのである。
まあ、空想だけはしたい放題のはずだった。
けれども、さすがの彼もそのうちに、河のほとりで空想を働かせていることに飽きてきた。なぜ立ち去ろうとしないのか、自分でもよくわからないくらいだ。今日の夢はこの河のほとりにいることだけで終わりだなんて、そんな決まりはないはずなのに。
そこまで考えてもまだ去ってしまいたくなくて、ガイルはようやく対岸に目を転じた。
そちらは、こちらの暗さを考えると意外なほどに明るかった。いままで視界に入っていなかったのが不思議なくらいだ。
向こう岸は遠くて、霞んで見えないほどなのだが、その明るさだけは十分にわかった。それでも河が黒く見えるのは、本当に黒い水が流れているからなのだろう。
「ちぇっ、不公平じゃないか」
彼は今日の夢のなかで、2回目の舌打ちをした。
不公平なのはいつものことだ。なにも今日に始まったことじゃない。考えてみれば、生まれてからずっと、ガイルは不公平な目にあっていたのだから。
どうして彼だけが家から出られないのか、だれも教えてはくれない。
父も母も、祖父だって、いくら訊いても黙っているばかりだ。そうでなければ、訊いたほうが悪いみたいに暗い顔をするだけだ。
どうして自分だけ、いつも熱を出していなくちゃいけないのか。
どうして、舌が痺れるほど、食べ物の味がわからなくなるほど、苦い薬を飲まなきゃいけないのか。
苦い薬のせいで、せっかく食べたものを吐いてしまったことだってあるし、気持ち悪くなって一晩中眠れなかったことだってある。
それでも薬は飲みつづけなればならないだなんて、本当にそんなことがあるんだろうか。
外ばかり眺めていたいわけじゃないのに、いつも家にいたいわけじゃないのに、どうしてなんだろう。
最近では滅多にないことだったが、ガイルは自分の不公平さに苛立ち、終いには癇癪を起こしたこともあった。
そうしなくなったのは両親や祖父にあたってもしょうがないとわかったからだ。だれが悪いわけでもない。彼がたまたまそう生まれついたというだけのことなのだ。
じゃあ彼でなくたってよさそうなものではないか。
でも、そうとわかってはいても、夢のなかでまで不公平でなくたっていいと思う。ほかにだれもいないっていうのに、損な役回りにいつまでも甘んじていることはないだろう。
ガイルは立ち上がり、ちょっと握り拳をつくって、左右を見回した。見えているかぎり、どっちもおなじような光景がつづいているのはさっき確認したことだ。
黒い河が流れ、こちら側は暗い。空はどこまでも灰色で、彼の興味を引くようなものは対岸の明るさを除いてはなにひとつなかった。
黒い河、灰色の空、暗い川岸、たったそれだけの言葉ですべて言い尽くされている。ぎゅっと両手を握りしめて、気合いを入れて見回したのがまるで馬鹿みたいな、ありきたりの光景−−−もしもそれらをありきたりと呼べるのならば、だが。
「よーし、こっちだ!」
それでも、彼はおもむろに右側を指さした。
ガイルは右ききである。左もそこそこうまく使えるので両手ききだとも言われたが、両方の手が器用に使いこなせて嬉しかったということはいまだにない。それもこれも、みんな不公平だから起こったことなのだ。
10歳にもなって自分の面倒だって満足にみることができないのに、両手が使えたからといって得するだろうか。そんなことは全然ない。
もうこんなところとはおさらばだ。だったら、対岸に渡れる方法、たとえば橋というものがあれば充分なのだが、川幅がもっと狭くなっているところでもいいわけだ。そうすれば河を飛び越えてもいいし、渡ることもできるだろう。そして、その先にはもっとおもしろいことが彼を待っているに違いない。
そうと決まれば「善は急げ」で、彼は、最初の一歩をおそるおそる踏み出した。夢のなかとはいえ、歩くのなんて久しぶりだ。ちょっとだけ緊張して、たくさん不安だった。
けれども歩き出すとすっかり快調で、彼は行進でもしているみたいに両手を振って歩いていった。
こんなふうに歩けたことはいまだかつてなかった。行進するには彼の部屋はそんなに広いわけではなかったし、少しぐらい気分がいいときだって、寝床から離れられることは希だった。むしろ起き上がっていられるか寝たままかというだけの違いで、ガイルが寝床から離れていることなんて滅多になかったのである。
右、左、右、左…。
歩き方を忘れていなくてよかった。たとえ夢のなかとはいえ、歩き方がわからなくて無様に転ぶなんてみっともないし、現実とおなじではそれこそ目覚めていたほうがいいからだ−−−いや、どっちとも言えないかもしれないが。
一、二、一、二…。
景色は相変わらずだったけれども、ガイルは歩いているだけでけっこう楽しかった。それに歩き出すと景色などに気を配る余裕はほとんどなくて、彼はだいたいおなじような歩調でどんどん歩いていった。
「一、二、一、二……」
いつの間にか自分で調子をとっている。そうしてから、初めて何歩歩いたのか数えておけばよかったと思ったが、後の祭りだった。
そのうちに周りを見渡す余裕も出てきたが、いくら歩いても彼は疲れなかったし、いくら調子をとっていても喉も乾きもしなかったし厭な咳も出なかった。
いいものだ。もっと早くに歩き出せばよかった。
夢だから、こんなことも自由自在にできるのにちがいない。夢でよかったと、彼は初めて思った。
けれども、歩いていくのは快調だったとしても、ガイルがやがて立ち止まったのはちっとも変わることのない黒い河と暗い岸辺のせいだった。
対岸を改めて見る。
遠い。なんて遠い。
河の幅はさっきとほとんど変わっていないようで、やっぱり岸は霞んで見える。
そして明るい。まるでそちらにだけ太陽が当たっているかのように明るい。
人影は相変わらず見えず、彼はずっと一人だったけれども、こちらの暗さとあちらの明るさは、まるでガイルがいるべきなのは陽もあたらぬ影のなかだと言っているように思われて、ちょっと暗い気持ちになった。
落ち込んでいるわけじゃない。そんなことはいまに始まったものじゃないから。
でも−−−。
賑やかな楽の音が聞こえてきたのはそのときだった。
太鼓と笛と、かき鳴らされるのは一弦のケルン。
あんまり陽気な音楽だったので、暗い気持ちはぱっと吹き飛んで、ガイルは立ったまま、しばらく楽に耳を傾けた。
奏者の姿は見えない。でもどこかで賑やかな演奏をしているのだ。楽しんでいる人たちがいるのだ。
彼は楽器にはどれひとつとして触ったことがなかった。家のなかには楽器は置いていなかったから。
笛ぐらい吹いてみたい、太鼓ぐらい叩いてみたい、ケルンの弦だって弾いてみたい。
みんなと一緒に演奏するのが無理でも、演奏しているのを見ることができなくても、楽器に触ることぐらいできるだろう。ちょっとでも、気分を味わうことぐらいできるかもしれない。
しかし、演奏は家のなかでやるものじゃないし、楽器は家に持ち込まない、というのが祖父の言い分だった。
その理由は教えてくれなかったけれども。
いつもは彼に甘い祖父も、そのことだけは頑として譲ってはくれず、ガイルが癇癪を起こしたのは、ほんとうに久しぶりのことだった。
だから、外に出られなかったガイルは、楽器の音しか聞いたことがない。
木の幹をくり貫いて、羊の皮をはった太鼓は手で叩くものであるとか、木や竹をくり抜いた笛は横に持ったり縦に持ったりするもので形もちがい、音もちがうのだとか、木の胴体に馬の鬣をはったケルンが実はいちばん演奏するのが難しい楽器なのだとか、そうしたものの形を話してもらったことはあっても見たことはなく、いつもそれらが混じりあって演奏されるのを聞くだけだった。
楽器が演奏されることは珍しかった。決まっているのは一年の4つの区切りの祭りのときだけだ。
一年の終わりと一年の始まりの2日間、特に元旦の昼と夜の長さがまったくおなじになる日(春分)、3月と4月の間、一年でいちばん昼が長くて夜が短い日(夏至)、それから昼は日に日に短くなってゆき、再び昼と夜とがおなじ長さになる6月と7月の間の中日(秋分)、そして昼はまだ短くなり、もうこれ以上はないという9月と10月の間の日(冬至)の4回だ。
祭りは年に4度もあるのに、ガイルは一度として参加できたためしはない。陽が長いとか短いとかも、あまり実感できなかったし、どういうものであるのかは祖父に教わったことしか知らない。
そういえば、祖父はお祭りには出なかったものだ。ガイルが、村中が賑やかな楽の音に包まれて、楽しそうな人びとの声、歓声や喧噪が時折聞こえるときにあんまり機嫌が悪くならなかったのは、ひとえに祖父という味方がいたからであった。
楽の音はいつも家のなかでしか聞けなかった。それも遠い音だった。楽の演奏には、お祭りのときは夜が明けるまで終わりということがなかった。ずっとおなじ人が演奏していると、せっかくのお祭りを楽しめなくなってしまうから、何人かの人たちが交代で演奏するのだと、祖父が教えてくれた。
祭りが始まったばかりのときは、両親が祭りを取り仕切り、すべては2人の指図で動くが、みんなで決まって捧げるという祖先への祈りの儀式が済むと、あとは好き勝手に飲み食いしたり、踊りまくるのが通例だそうである。
男たちはこの日のために羊をつぶし、濁酒や檸檬水を配る。
女たちは腕によりをかけた、とっておきのごちそうを並べて、もちろん羊の丸焼きは最高のお楽しみである。
村の人たちは、祖父とガイルにもちゃんとご馳走を持ってきてくれるのだが、それらの料理のどれひとつとして、彼は食べた記憶がないのだった。
彼は祭りの日以外に楽の音を聞いたこともあったが、なんの日だったのか、訊いてみもしなかったものだ。それに、そういうときは祭りとはちがって楽の音は一日中続くことはなかったから、よけい気にとめなかったのかもしれない。
しかしいまは事情がちがう。夢から覚めたら、祭りの日だったのかどうかは知らないが、ガイルはじっと耳を傾けた。
楽の出所を探そうと目をこらし、耳にも神経を注いだ。
どこかから聞こえる。
どこかで演奏しているはずなのに、その姿が見えないはずがない。
上流じゃないし、下流からでもない。
もっと河から離れてもいないし、対岸のようでもない。
まるで頭の上から音が降ってきているような気がするほど、どちらとも方向が定められなかった。
見てみたい。
楽器が演奏されているところを、楽器そのものを。
けれども、彼がそうして楽に集中しているうちに、奇妙な音が楽の音に混じって次第にはっきりと聞こえてくるようになったのである。
最初は気がつかないくらいの小さな音だった。いつまでも鳴りやまず、見えないどこかから聞こえてくる楽の音にほとんどかき消されてしまうような音だった。
それが楽の音がつづくうちにだんだんと大きくなり、やがてガイルにもはっきりと聞き分けられるほどになっていた。
だが、その音がなぜ彼の注意を引いたのかといえば、あまりに楽にそぐわず、耳障りなといってもいいような不協和音だったからだ。
それは太鼓ではなかった。
だんだん大きくなっていくうちに、彼はその嫌な音が笛ではないかと確信するようになっていた。
近づいてくる。その不協和音だけが近づいてくる。
ガイルは耳をこらし、うろうろとした。どちらの方角から聞こえてくるのかだけでも確かめたいと思ったのだ。不協和音を鳴らす姿なき演奏者がどこから来るのか、知っていなければならないような気がしていた。
「…?!」
足下がおぼつかなくなって、彼は一瞬楽も不協和音も忘れた。
もうちょっと足を踏み出していたら、河にまっ逆さまに落ちるところだった。
彼は慌てて河から離れた。
(……? 落ちたら…? 落ちたら、俺はどうなるんだろう……沈んじゃうんだろうか、それとも今度こそ、あの灰色の手が出てきて、俺を沈めようとするんだろうか…? それとも、パロールが俺を助けてくれる……?)
ガイルは、振り返って暗い水面を見つめた。なぜ河から遠ざかるのか、理由がわからなかった。河にはまるのが怖いというだけの理由ではないような気がして、彼はほんのちょっとの間だったが、川面を見ていた。
知っている。
この河の名前を彼は確かに知っていたような気がする。
確かなことなんて、あるんだろうか。
でも思い出せない。
なぜ忘れてしまったのか、忘れたことが悪いのかいいのかもわからない。
彼は河にちょびっとだけ近づいて、もっと河をよく見ようとした。
黒い河、彼の顔を映すこともない暗い河、この河の名前など、なぜ知っているような気がしたのだろう。河と名のつくものなど、どれひとつとして見たこともないというのに。
けれども再び楽の音に注意を戻すと、もう不協和音は止んでいた。そして楽もさっきから比べると彼から遠ざかりつつあるようだった。
ガイルはまえよりも激しく頭を巡らし、探してみたのだけれども、さっきのようにもっとはっきり聞こえていたときでさえ見つけられなかった演奏者たちを、遠ざかりつつあるいま、見つけられるはずはなかった。
彼は今度は舌打ちしなかった。そんな気分じゃないのだ。
思いどおりにならないこと、不公平なこと、さっきはそれが悔しくて、舌打ちせずにいられなかったのだけれども、いまはため息しか出てこなかった。
ため息はあんまりつきたくない。だって、自分の部屋がため息の灰色に染まってしまうから。ため息なんて、一度や二度ついたところでとうてい足りるものじゃないから。
でも、そうして打ちひしがれて顔を上げたガイルは、そんな気分もすっかり吹き飛んで思わず大声を上げていたのだった。
「おじいちゃん?!」
対岸にはいつのまにか祖父が立っていた。
ガイルの祖父は大柄な人だった。真っ白な髭とちょっと薄くなった白い髪と、肩幅もあって力持ちだったし、祖父の話す物語に出てくるような、英雄たちを助けた介添人のようにさえ見えた。
ガイルの両親はとても忙しい人たちで、一年のほとんどを床から離れられないような病弱の息子を抱えていても、つきっきりで面倒を見てくれたことはなかった。
ひとつには、彼はあんまりよくは知らなかったのだが、父は村でただ一人の薬師であり、母はその助手だったからだ。
昔はそれは祖父の仕事であり、ガイルが1歳のときに亡くなったという祖母も、いまの母とおなじように祖父の助手を務めていたのだという。つまり、彼が飲まされている苦い薬は、すべて父が調合したものなのだ。
けれども、祖父が父に助言を求められることはほとんどないようで、祖父とおなじくらいの年寄りたちでさえ、父の世話になっていた。祖父は完全に引退しているのであり、村の人たちもそれは承知しているのだという話だった。
もしもそれまで生きていられれば、いずれはガイルがいまの父のようになり、母のような女性と結婚して子どもも設けなければならないのだと祖父が教えてくれた。
もちろん祖父は「生きていられれば」なんて言い方はしなかったのだけれども、その途方もなく先のことのようにしか思えない話を聞かされたときに、彼の心中に真っ先に浮かんできたのはそのことであった。そして父はいまの祖父のように引退する。
祖父はいつもガイルのそばにいてくれる人だった。熱が引いたとき、目を覚ました彼の視界に真っ先に入るのはいつも祖父だった。
父はいつも忙しそうで、祖父とおなじで足が悪かったし、母ときたら、それに輪をかけて留守がちで、家にいないことも多いひとだったので。
でも祖父はちがうのだ。よほどのことがない限り、まずガイルのことを最優先してくれる。熱があれば看病してくれ、気分が良ければ話し相手になってくれるし、遊び相手にだってなってくれるのである。
だからというわけではないが、彼は祖父に怒られた記憶がない。両親があまり甘えさせてくれないぶん、彼は祖父にべったりで、そばにいられることを喜んでいたものだ。
祖父の身体からは、年々薬草の匂いがとれていくようだった。けれどもその手にはしみが残り、いずれガイルの手にもできるようになるのだと祖父は話していた。おなじようなものは父の手にもあったが、やはり祖父ほどではなかった。
いちばんの遊び相手であるばかりでなく、祖父はガイルにとっては先生でもあった。彼が10歳になるまえに文字を書けるようになったのは祖父のおかげである。その練習をするための粘土板は祖父が毎朝、それと使うたびにきれいにならしてくれた。字の練習をするのに貴重な紙を使うわけにはいかず、その点、粘土板ならば何回でも使えるので練習にはもってこいなのだ。
ガイルのペンはもちろん祖父が造ってくれたものだった。木の枝を削って、父が持っている本当のペンとおなじ形にしてくれたのだ。初めて父のペンを見せられたとき、たとえ書くものは紙と粘土板で違うとはいえ、おなじ形のペンを持っていることはガイルには喜びであり、密かな誇りでもあった。
祖父の指は太くてたくましく、それに器用だった。ガイルはあまりものが欲しいとねだることはなかったけれども、祖父に頼めばたいていのものは造ってもらえた。彼がお粥を食べるためのお匙やお椀、重湯を飲むためのお椀に薬を入れる鉢、そうした食器も古くなったり壊れてしまったりすれば必ず祖父が造ってくれた。
自分で煙草を吸っていたのはただの1度も見たことがなかったが、祖父がパイプを造っていたのも1度や2度のことではない。
二人の部屋に飾り棚を造ったのも祖父だ。ガイルが自分のものなどなにひとつとして持っていなかったので、祖父は木切れを彫ったり削ったりして造った、幻想的な生き物をそこに飾った。けれども残念なことにその数はあまり増えることがなかった。むしろ祖父の手は、食器や村の人たちのために農作の道具を作り出すことに忙しかったから。
ガイルにとって意外だったのは、あんなに器用な祖父が、なぜか自分の杖だけは祖父の祖父から譲り受けたものをそのまま使っているのだということだった。
それはとても古い杖で、祖父が「これはいずれおまえが使うことになるだろう」と一度だけ言ったのをガイルは忘れなかった。
「だって、僕は要らないよ。杖なんか使いっこないよ。僕は自分で歩けるもの」
ガイルはすぐにそう反論したのだが、祖父はそのときに限ってはなにも言わず、それでいつまでも忘れられなかったのかもしれない。
あるいは祖父も父も、おなじように右足が悪いので、いずれ自分もそうなるのかもしれないという心配があったせいかもしれない。それまで生きていられるかどうかもわからぬくせに、変なことを心配したものだ。
身体は病弱だったが、ガイルは小さいときから好奇心旺盛な子どもだった。
「なぜ?」
「どこで?」
「なにが?」
「だれが?」
「いつ?」
「どうやって?」
彼が祖父の話にそれらの質問を混ぜないことはそれこそ希で、しかも嬉しかったのは祖父がかならず答えを持っていたことだ。いくら訊いても祖父は絶対に彼を「しつこい」などとは叱らない。むしろ喜んでくれているのがわかるので、ガイルもよけい張り切るというもので、そのために熱を出してしまうことも、ちょっと寝込んでいただけなのに、そのまま熱をこじらせることも珍しくはなかった。
ガイルは窓から見える森に棲む、鳥や獣の名前を祖父に教わった。木や草の名前も、両親が使う薬草の名も、祖父が知らなかったことはない。
もしも彼が外に出ることができたなら、たくさんの星座の名前についてもきっと知っていただろう。鳥や獣を一緒に見つけてもっと、教えてもらえたのだろう。
実際には、彼に星座の名前を教えたのは祖父でも父でもなかったが。
だから、夢のなかで対岸に祖父の姿を見つけたときのガイルの心中といったら、複雑という言葉だけではとうてい足りるはずがなかった。
いつものように祖父がいてくれたことが嬉しいのに、自分が行くことのできない向こう岸に立っている。しかもそちらは明るく、できるものならば彼だって祖父とおなじ側に立っていたいのだ。
でも彼は大切なことを忘れていた。対岸が霞んで見えるほど遠いのに、どうして祖父の姿が見分けられたのかということを。
「おじいちゃん!!」
声をかぎりに張り上げると、祖父が手を振って答えた。
まっすぐ立っている。杖もつかずに。いつになく満ち足りたようすだった。祖父はいつもなにかに飢えているような人ではなかったのだけれども、いまは杖を離したことで、あれほど必要としていた杖を手放したことで、本当に身軽になったように見えた。
杖をつかなければ部屋の端から端へ行くこともままならなかった祖父が、たとえ夢のなかとはいえ杖を持ってさえいないことにガイルは違和感を覚えたが、その気持ちはすぐに打ち消された。
夢なんだからそんなことはどうでもいいのだ。それどころじゃないというのに。
「おじいちゃん、どうやったらそっちに行けるのさ? ねぇ、俺もそっちのほうがいいよ、迎えに来てよ! 俺も連れてってよ!!」
けれども祖父は手を振るのみで、彼がぽかんと見ていると、突然こちらに背を向けたのである。
しかも、ゆっくりとだが、確実に遠ざかっていくではないか。
「おじいちゃん?!」
ガイルは泣きたいような気持ちだった。いつもそばにいてくれた人が、そばにいることが当たり前だと思っていた人が自分に背を向けて去っていこうとしているのだ。
たとえ夢のなかとはいえ、それはない。
それともあそこに立っていた人は祖父ではなかったのか。
ではなぜ手を振ったのだろう。なぜ彼の呼ぶ声に応えたのだろう。
こんなに残酷な話ってないじゃないか。
祖父を追ってガイルは走り出した。
けれどもそう数歩も行かないところ、河の手前で彼は腕をつかまれ、目のまえに迫っていた河に落ちることだけは免れたのだった。
河は彼にはまってほしいのだろうか。落ちそうになるのはこれで2度目だった。
「行ってはいけません。あなたはまだ河を渡ってはいけない」
それは女性の声だった。鈴の音が鳴るような、それでいて毅然とした声音だった。
その声を聞いただけで身体が痺れそうな気がした。背筋がぞくぞくする。
ガイルはゆっくりと振り返り、自分を引き止めたものを見た。いつの間にいたのだろう。祖父を見つけた以外は、彼はずっと一人きりだと思っていたのに。
それにしても、まだ痺れているようだ。なんて声なんだろう。
腕をつかんでいたのは白い繊細な手だった。その腕は肌の白さとはあまりに対照的な真っ黒な長衣に入り、そのあまりの暗さに彼は夜そのものを見ているような気さえして頭がくらくらした。
黒い長衣は白い腕を除いては全身を覆っていた。顔さえ見えない。
「あなた、だれ…?」
彼の問いに答えはなく、そのものは腕を放した。見えているのは左手だけだ。
「あなたは、だれ?」
おなじ問いを彼は根気強く繰り返した。
長衣は重たそうに揺れている。左手が見えていなければ、ガイルは長衣の幽霊かと思ってしまったにちがいない。
やはり返事はなかった。
「どうして、俺があっちに渡るのを止めたの? 泳いでいけたかもしれないじゃないか。そうだよ、おじいちゃんが向こう側にいたんだよ、まだ渡っちゃいけないなんて、あなたが決められることなの?」
その奇妙な人物はガイルよりもずっと背が高かった。彼は祖父とあまり背比べをしたことがなかったからよく覚えていないのだが、もしかしたら祖父とおなじくらいの高さかもしれなかった。
「一度渡れば二度と戻れなくなるから…目を覚ましなさい。ここはまだあなたの来るところではありません」
理由はわからないが、その人物にはガイルに譲る気はさらさらないようだった。
彼は思わず後ずさりしていた。
と、すぐ後ろが河であることを忘れていたので落ちそうになり、白い手がさっとのびてきて今度はそのあやしげな人物に助けられた。
ガイルが慌てていると、そのものはさっと彼を抱きしめて、耳元で一言ささやいた。
「プエナ」と。
けれども、彼女が手を離したときに、ガイルははっきりと見たのである。白い手の持ち主にはあまりにふさわしくない、醜い右手を。それは祖父の手のようにしみだらけだった。
祖父の手を醜いと思ったことなど一度もないのに、その右手だけは例外だろうか。白い手とあまりに対照的だったので、どうつなげたらいいのかわからなかったせいかもしれない。いいや、むしろ彼は本能的に嫌悪したのだ。その手を醜いと感じたのだ、理由は言えなくても。
手はすぐに引っ込められていた。見たことさえ疑わしいように。
ささやかれた耳が熱いようだ。
ガイルは知らず知らずのうちに耳に手をやり、それが熱を持っていないのを確かめたほどだった。
痺れた感じとはべつに、身体のなかを清涼な風が吹き抜けたような気がした。それは生まれて初めてのことだった。
そのひとの顔を見てみたいと思ったが、彼女はしっかりとフードを閉め、覗くことが悪いような、それでいてさっきの右手をもう一度見たいような、怖いもの見たさの好奇心が募った。
しかしいくらなんでも、恩人にそんな失礼な真似はできまい。この黒い河にはまってはならなかったのだ。二度と取り返しのつかないことになってしまうから。
ガイルはその白い手をそっと両手で握りしめた。
「俺は、ここを去らなくちゃいけない。そうしなければ目が覚めないから…?」
「そう……それだけではないけれども、いまはそれで充分……河の名前を思い出した、ガイル…?」
その人物は、なぜか彼の名前を知っていた。けれどもガイルはそのことを不思議には思わなかった。夢のなかのことだからではなく、もっとちがう理由があったような気がする。陳腐な言い方をすれば、運命的な、というやつだ。
「ううん、ちっとも。それとも、あなたは知ってるの?」
手がぴくりと動いた。それだけが彼女の答えだった。彼だってそれ以上を期待していたわけでもない。
このひとはなにも教えてはくれない。祖父とはまったく反対だ。彼女はガイルに道を示し、助けてもくれた。だがそれだけだ。最後に選ぶのは彼で、その決定にまでは関与しないにちがいない。
「助けてくれてありがとう。
俺はもう行くよ。目を覚まさなくちゃいけないもの」
彼女が頷いたような気がした。そうはっきりした動きではなかったが。
手を離し、彼は一度だけ振り返った。祖父の姿はもう見えず、彼女ももういない。気がつくとまた一人になっていた。まるで最初からそこにいなかったかのようだ。
ささやかれた耳は、まだ熱いというのに?
でも、もう目を覚まそう。
さっきまではいくらそう思ってもちっとも目が覚めなかったのに、いまはすんなりと目が覚めた。
もっとも、夢のなかであれほどはっきりと自分の意志を保っていたせいか、ガイルはちっとも目が覚めたような気がしなかった。それでも、こっちが現実なのだ。
自分の部屋が狭いと思ったのは初めてのことだったが、紛れもない、これが彼の世界だった。
「おじいちゃん…?」
視界に、いつもいてくれるはずの祖父が入らず、彼は心細くなった。部屋のなかは窓が閉め切られていて暗かったが、霊壇に灯された細い蝋燭の最後の火で、見ることができた。蝋燭はもう消えていまいそうだった。
祖父ばかりでない、父も母もいないのだろうか。家のなかは妙にしんとしており、珍しくも確かめてやろうという気になる。両親がいないのはよくあることだったが、祖父までいなかったことはなかったのが彼を不安に、そのくせ、いつになく大胆にさせてもいた。
起き上がると、ちょっとだけめまいがした。お腹が空いている。
そういえば、このまえはいつ食事をしたのか覚えていない。昨日だろうか。もっとまえのことだろうか。
熱が出たことを彼はいまになって思い出した。熱冷ましの薬も効かず、今度こそおしまいかと思った。
熱を出すことはガイルには日常茶飯事だったが、今度のそれはいつになく高く、祖父がいつものようにご先祖さまに祈りを捧げる声を遠くに聞きながら、彼は意識を失ったのだった。
祖父はもっとも強力な先祖の霊、始祖のシアンに祈っていた。でも彼には、シアンの名をつぶやくだけの力さえ残っていなかった。
何日ぐらい寝ていたのだろう。枕元には水桶があって、ずり落ちた手ぬぐいをガイルは拾った。すっかり乾ききっている。
それで寝床を降りると、床はひんやりと冷たかった。
寝台に手をつき、彼は自分が立っていられるどころか、歩けることを確認した。
気分はいいのだが、いつまでも調子が悪いような、この身体が自分のものではないような違和感はなかった。
熱が冷めても身体の奥には熱の芯が残っているように思えたことも一度や二度ではない。その芯が、彼をいつまでも熱しようと、燃やしてやろうとしていたのは、あれは悪い夢だったのか。
けれども、いつになく、生まれて初めてと言ってもいいくらいに気分は良好なのに、ガイルの心中を不安がよぎった。
なぜ、あそこに祖父がいたのか。
なぜ、あの不思議な女性は、彼を止めたのか。
あの河の名前はいったいなにか。
答えもないままに、何ヶ月、いいや何年ぶりかで彼は自分の部屋を出た。
まだ期待は捨てられなかった。両親は出かけているだけなのかもしれない。でも、きっと祖父がそこにいてくれるはずだと、彼が起きるのを待っていて、一人ぼっちにするはずがないと、そんな期待を抱いていた。
それにしてはやはり物音ひとつしなかったが。
父母の部屋につづく扉を開ける。どんな部屋だったかなんて覚えてもいない。見たことがない部屋だと思うだけだ。なにもかもが新しく、珍しく、そのどれ一つとしてなじみがない。
自分一人で立っているのが不安で、彼は壁づたいに歩いた。本当はそうできるのじゃないかと期待しているのに、いつ裏切られるかわからないから。
彼の知らない壁、彼の知らない床、彼の知らない天井、彼が知っているものがなに一つとしてない部屋。
「いてっ!」
壁に手をこするようにして歩いていたら、手のひらを傷つけてしまった。刺さったとげを抜いて、ちょっと血をなめる。身体は弱いのだが、自分の血とか傷とはあまり縁がなかったので、血がしょっぱいのはおかしく、奇妙な気がした。
それよりも、あるはずがないのに、ガイルは壁に意地悪されたような気がして、しぶしぶと手を離さざるを得なかった。それから戸口のほうを見た。
外に通じる戸は閉まっていた。
「でも、あとちょっとじゃないか。それに、夢のなかではちゃんと歩けたんだからねっ!」
最初の1歩をためらいがちに踏み出して、彼は戸口まで小股で10歩でたどりついた。
けれども、そのままそこに手をかけるのはためらわれた。
出てもいいのだろうか。祖父も両親もいないというのに、彼一人で出て、なんとかなるものだろうか。
生まれてこのかた、一度も外に出たことがないのに?
外のことなど、なに一つ知らないのに?
ましてやこの扉の向こう側は、彼が少しでも見たり聞いたりして知っている、窓の向こうの風景ではないのだ。
そのとき、話し声が聞こえたと思って身を引くと、扉は引かれ、真っ白い、いつもとはちがう服を着た母が戸口に、そしてやはり白い服を着た父が、見たこともないひとたちと一緒にそこに立っていたのだった。そのだれもが白い服を着ていた。
そのなかにも祖父がいない。
彼が口を開くより早く、母に抱きしめられた。
香の匂いがする。何度か嗅いだことがある匂い、薬草の匂いのなかに混じっているのは、明らかにふだん嗅ぐことのない匂いだ。
母の手が額にあてられた。
温かい手、そういえば夢のなかの彼女はなんと冷たい手をしていたことか。
「歩き回ってはだめよ。おまえ、つい今朝方までひどい熱で、もう何日も寝ていたのに」
「大丈夫だよ、母さん。すごく気分がいいんだ、本当に、ほら、大丈夫だよ」
嘘ではなかった。おなかがとても空いていることを除けば、すがすがしい気持ちでさえあったのだ。
「それでは、我々はこれで失礼するよ、ローレン」
「ああ、今日はありがとう」
見知らぬ人たちと父との短い会話で、彼は大切なことを思い出す。
いまにもひょっこりとそこらから顔を出すかと思った祖父は、まだ姿を見せない。
「ねぇ、おじいちゃんは?」
彼の言葉に母は震えた。
その場に走った緊張感を彼は痛いほど感じて、次に来る言葉を予想してぎゅっと目をつぶった。
あれは夢じゃなかったんだろうか…?
「おじいちゃんはご先祖さまの末席に加わったんだよ、ガイル」
母の代わりに応えたのは父だった。「先祖の末席に加わる」という言い方はあまり聞いたことがなかった。でも祖父が言うには、それは「死んだ」ということなのだった。
「おまえが意識を失っているあいだにね。眠っているような穏やかな顔だった」
「死」という言葉を父があえて避けていることに彼は気づいた。その理由はわからなかったけれども。
それよりも、彼は父とじかに話をしたくて母の手から離れた。
「…楽の音が聞こえたよ、賑やかで、楽しそうで…」
祭りのとき以外にも何度か聞いたことはあったが、その理由を思いついたのは今日が初めてだった。
「それはおじいちゃんを送る楽だ。〈忘却の河〉を渡り、〈遥かな国〉へ行くのに、ひとりぼっちで寂しくないようにね」
ガイルはさらに父に近づいた。
「おじいちゃんは河を渡っていったの? その河が〈忘却の河〉っていうの…?」
「そういう言い伝えなんだ。若くして妻を失ったオルセウスの話は聞いたことがなかったかい?」
知らなかった。
でも、あの河の名前は−−−。
気がつくと村人は一人もおらず、ガイルは外に出て階段を下り、生まれて初めて大地を踏みしめた。
ざらざらと埃っぽい、嫌な感触、夢のなかの川岸とは似ても似つかない、本物の地面。
それが彼には、とても嬉しかった。夢なんかじゃない、これが現実であることが。あんまり嬉しくなって、彼は夢のなかでもしなかったことをしたほどだ。
ほんの10センチばかり飛び上がってみたのだ。
「なにをやっているの?! おまえはまだ寝ていなければだめよ。どこに行こうっていうの…?!」
母が悲鳴にも似た叫びをあげ、彼を引き止めた。
「おじいちゃんはどこにいるの? 止めないでよ、俺はおじいちゃんのところに行くんだから! 俺だって、おじいちゃんと最後の話ぐらいしたいよ!」
「ガイル…!」
母は手を挙げたが、それは震えたまま頭上で止められた。
彼も負けじと癇癪を爆発させそうになったが、父が割って入った。
「ついてきなさい、ガイル。おまえはおじいちゃんに可愛がられていたな。最後の挨拶をする権利はあるだろう。それだけ元気なら心配もなさそうだ。
サリア、手を離してやってくれないか」
「あなた…!」
母は抗議したそうに声を荒げたが、父の口振りに逆らわないほうがいいと察したのか、黙って従った。
父が杖をつきながらゆっくりと歩いていくのをガイルは追った。
振り返ると母が心配そうに彼を見ていたが、目が遭うとそらし、ぷいと家のなかに入ってしまった。
あんな人だったっけ…? 戸が閉まり、その向こう側に消えた母の残像を追いながら彼はちょっとだけ考えた。
けれども、初めて父と並んで歩けるという興奮は母のそんな態度に気遣うような思いを打ち消してしまっていた。父と一緒でなくたってよかったのだ。外を歩ける、それも生まれて初めて外に出られたその足で。それだけでも充分大冒険といえるのに、父まで一緒にいるのである。しかも、父のゆっくりした速度は、歩き慣れない彼にはちょうどよかった。
「……オルセウスというのはね、花嫁を失い、死神王のもとまで行ったという伝説の詩人なんだよ−−−」
父は祖父ほど昔語りがうまくはなかったが、オルセウスの物語にはとても興味を引かれたし、なによりこんなふうに父と話したこともなかったのでさほど気にはならなかった。
新妻を失ったオルセウスは、彼女を取り戻そうと死神王アケロンの下に苦労のすえにたどり着く。
その冒険たるや、とうてい一口に語りつくせるものではなく、何度も危機にあい、困難な障害にぶつかりながら、すでに「伝説」と呼ばれていた詩人は己の歌声とケルンを奏でる指、愛妻を思う詩によって乗り越えていったのだという。
それだけが彼の武器だった。彼の歌声のまえには、盗賊や悪党は無論のこと、恐ろしい怪物でさえひれ伏し、耳を傾けて、しまいには道を譲り、貴重な情報さえ与えたという。
アケロンはなにひとつ見逃さないといわれる無数の目を持ち、そのくせ耳を持たないと伝えられる。彼が耳を持たないのは生者の嘆きを聞かないためだという。死神王と呼ばれるのは、彼がすべての死者を統べるものだからだ。
けれども、オルセウスの歌は耳を持たないアケロンが見ることのできるほどにすばらしく、ついには歌は現実のものかと思われた。
生きながらに死者の領域を訪れたオルセウスの命を狙おうとする亡者の群れさえ、動きを止めないではいられなかったというほどだ。
さすがの死神王もこれには心を動かされ、オルセウスを妻のエリエドネに会わせることについに同意する。
しかし、死神王はオルセウスに、「いかなる結末になろうと悔いるな」と戒める。
エリエドネは生前とまったく変わらぬようすでオルセウスのまえに姿を現すが、〈忘却の河〉をくぐった彼女は、愛する夫のこともなにひとつ覚えてはいなかった。あるいは、エリエドネは〈忘却の河〉の水を飲んだとも、単に越えただけとも言われている。
この話には三通りの結末があり、ひとつにはオルセウスは悲嘆にくれて、生きながら〈忘却の河〉をくぐってしまい、なにもかも忘れて地上に戻ったという話。
二つ目にはオルセウスはエリエドネに愛の詩を喉が枯れるまで捧げるが、〈忘却の河〉によって失われた記憶は戻ることなく、失意のうちに地上に戻ったという話。
三つ目には、エリエドネに詩を捧げたところまではおなじだが、奇跡は起こり、彼女に記憶は戻る。しかし、死者の数を違えることはできないとアケロンに諭されたオルセウスは、一度は妻を生き返らせるために無関係の人の命を死神王が奪うのを黙認しようとするが、結局は己の身勝手さを悔い、自らその刃に倒れ、死んでしまうという話である。
けれどもその後、オルセウスの代わりにエリエドネが生き返ったという話は伝わってはいない。
ガイルがなにか言おうとすると、父が立ち止まり、土饅頭を指さした。
「おじいちゃんはここに眠っているよ、ガイル。ほら、大丈夫か? 村が一望できるいいところだ。見てごらん」
彼は差し出された腕に素直につかまった。こんな大切なところで転んで、祖父の墓を荒らしてはならないし、慣れないこともしたせいで疲れてきていた。
それに、細いひとだと思っていた父は案外力強く、祖父の手を思い出させた。
ちょっと呼吸を整えてから、ガイルは父が示すように村を見おろした。村、これが彼が生まれ育ったモールニアの村だったのだ。
小さな家が点々とあり、広い範囲にわたって金色が揺れ、日光を浴びて輝いている。その内にも外にも人間が動いているのが見えた。
「これが村…?」
「そうだよ。おまえもいつか父さんの跡を継いで、この村のために働くんだ。これがおまえの村だよ、ガイル。モールニアの村だよ」
ちょっとだけ元気を取り戻して、彼はぱっと両腕を広げた。
「でも、ここからならおじいちゃんがいつも見てるんだよね、父さん? あれがうち? いちばん近いから、おじいちゃんにもよく見えるよね?」
「おじいちゃんだけじゃないんだよ。おまえのおばあちゃんも、そのまたおじいちゃんも、みんなここに眠っているんだよ。大地に還る、その日まではずっとね。ここは、我々に与えられた約束の土地なんだよ」
悲しみがどっとあふれたのはそのときだった。
もう二度とあの声を聞くことはできないのだ。
あの手に触り、支えられ、与えられることはもうないのだ。
低く太く、かぎりなく優しい声で彼の名を呼んだ祖父、子守歌を歌ってもらったことはなかったけれども、優しいハミングを彼は忘れることがあるまい。
あの太い腕のなかで、器用に作り出される彫刻や食器を眺め、胸躍るような冒険譯を聞くことはできない。
ガイルは祖父が大好きだった。
両親と離れていたせいだけでなく、祖父と祖父が示し、語ってくれた世界が彼のすべてでもあった。
それらはすべて、祖父の死によって失われたのだ。
泣いている彼を、父は静かに抱きしめた。
温かい手、母とおなじ温もり、祖父とおんなじ温かさ。
いままで、こんなふうに父に抱きしめられたことがあったろうか。
「わたしたちはここから始めよう、ガイル。長いこと放っておいてすまなかった……」
父が独り言のようにそうつぶやくのを、彼は自分の泣き声に混じって聞いていた。
そうしているうちに、辺りにはだんだん夕暮れの気配が迫ってきた。影が長くなり、肌寒ささえ感じられる。
彼がようやく気持ちを落ちつけたのは夕日が西に沈みかけたころだった。
顔をこすっていると、母の声が聞こえてきた。
「あなた、ガイルも。もう家に入らないと。日が暮れてしまってはよくないわ」
「そうだね。ガイル、おじいちゃんに挨拶をすませたかい?」
「待って! 待って、父さん」
でも、挨拶なんてどうすればいいのかわからない。
とりあえず彼は墓を眺めた。
土饅頭の周囲には白い花がたくさん飾られていた。そのなかで照れくさそうに微笑む祖父の姿が見える。夢のなかで見た姿のままに。
それで、ガイルは自分も倣って白い花を1輪供えた。
(おじいちゃん、ここなら寂しくないんだよね…? みんな、一緒なんだって、父さんが言ってたもの…でも、俺、すぐにまた来るよ。それまでここにいてくれるよね…?)
作法など知らないままに彼は手を合わせた。
あの河のほとりに行けば、もう一度祖父に会えるのかもしれない。そんな思いが脳裏をかすめたが、彼は二度と行ってみたいとは思わなかった。
目頭が熱くなって、彼は涙をごしごしとこすった。頬骨のところがちょっとだけひりひりする。ついでに鼻の下もこすっていると、
「だめよ、そんなにこすっていては。ほら、顔をふきなさい、もうこんなに赤くなっているじゃないの」
と、母がぬれた手ぬぐいでさっと顔をふいてくれた。
父はそのあいだじゅうずっと黙っていて、ガイルが自分でも顔をふいて振り向くと一言、
「帰ろうか」
とだけ声をかけた。
「大丈夫? 家まで歩ける?」
「うん、大丈夫…」
それでも不安だったので、彼は母の右腕につかまった。さっきつかんだ父の手よりも細かったが、少し骨太のようだった。
「ねぇ、父さん。楽はとっても賑やかだったね」
「そうだね。おじいちゃんは、まえの薬師だったから、それだけ盛大に送ったのさ。村のものはみんな来た」
「おまえ、楽が聞こえていたっていうの? それに、ずっと高熱を出していたのに、いきなりこんなに長いこと外にいても本当に大丈夫なの?」
「夢のなかで聞いたんだよ、母さん。楽の音が聞こえてたのに、姿が見えなかったんだ。そのうちに聞こえなくなっちゃって…きっと、おじいちゃんを送る楽だったんだよ、ねぇ、そうだよね?」
「熱は出ていないのね」
母は彼の言うことなど半分も聞いていないようだった。額にあてられた手に、ガイルはちょっとむっとする。
でも母の言い分にも一理あるのだ。それは彼自身がいちばんよく知っていることだ。
「ねぇ、あんなに賑やかだったんだもの、、一人くらいへたくそな人がいてもわかりゃしないよね?」
けれども、彼の問いに両親は不振そうに顔を見合わせるだけだった。
「そんな人はいなかったよ、ガイル。お祭りのときとは違うから、楽はだれでも参加できるわけじゃないんだ。みんな慣れた人たちばかりだったよ、下手な演奏はおじいちゃんに失礼というものだよ」
「だって…」
だって不協和音が聞こえていたよ。
その言葉を思わず彼は呑み込んでいた。
あれは楽の音とは違うものだ。楽の音が近くも遠くもなかったときには、あの不協和音はだんだん大きくなっていった。楽の音が遠ざかったときは、もう聞こえなくなっていた。
空耳だろうか。熱にうかされて、彼は幻聴を聞いたのかもしれない。
祖父の葬列の楽を乱す、なにを?
「どうかしたのかい?」
「ううん、なんでもないんだ」
そう言って、ガイルは今度は父の空いているほうの左腕にしがみついた。
やっぱり両親に言おうか。
でも、あの不協和音がなにか自分に悪いことをしたというわけでもないし、なにも夢のなかでの出来事でまで心配させることはあるまい。
「ガイル、それじゃ父さんが歩きにくくなってしまうわ。つかまりたいのなら、母さんの腕につかまりなさい。それとも、もう歩けないの?」
「そんなことないよ、大丈夫。一人で歩いていけるよ。
ねぇ、それよりも、ちょっとだけ走ってみてもいいかな?」
答えを聞くよりも先に彼は父の腕を放して走り出した。
なんでもないんだ、多分 ・・・。
彼は心のなかでもう一度だけ繰り返したのだった。