最後のもの

最後のもの 5

部屋のなかは相変わらず薄暗かった。走り出してうっかり瓦礫につまづいてもおもしろくないので、ガイルは慎重に進んだ。
彼は地図をもっとよく見ておけばよかったとちょっとだけ後悔していた。宝物庫がこんなに広いところだとは思わなかったのだ。
部屋が一瞬揺れ、彼は振り返った。
オルズデールとバーザムが、一見太った人間のようだが腹に巨大な口をもうひとつ持った一つ眼の化け物と対峙している。
彼らのあいだにあったはずの扉はなく、老魔法使いが光の球を飛ばしたところだった。
急がなければ。あれが恐らく魔族だ。
さっさと用事を済ませて、こんなろくでもない町からはおさらばするのだ。
けれども、再び前進しようとしたガイルは、思いがけぬ光景に絶句し、立ち止まったのだった。
いつの間にか部屋のなかは明るくなっていた。それも魔法で光を出したのとはちがい、部屋全体が明るいのだ。
かつてカザドブルはこのように、地上と変わることなく煌々と照らされていたにちがいないと思えるような明るさだった。
しかも、そこにいるのは彼ら3人だけでもなかった。
妖魔がいて、両刃の斧を振るう地の民と、細身の剣と弓、それに強力な魔法を繰り出す、森の民とおぼしき人びとまでもが戦っていたのである。
彼は再度振り返ったが、オルズデールもバーザムも気づいたようではなかった。
あるいは最初から承知していたことなのか。
だが、彼にはそんなに立ち止まっている時間はなかった。水晶を見つけなければならないのもそうだったが、妖魔が1匹、彼のほうに向かってきていたからだ。
ガイルは思わず生唾を呑み込んでいた。
これが罠だとしたら仕掛けたのはトワドにちがいない。だから承知したのだろうか。それもこちらになにも交換条件を求めないなんて虫が良すぎる。
彼らの足下が揺れたのはそのときのことだった。
幸いにもガイルはそのおかげで妖魔に対して優位に立ったが、手でつかもうとしてもどうしてもつかめないもの、どこかに忘れてきてしまったものが彼の脳裏をかすめていったようだった。
(なんだろう……?)
彼は迷いを振り払った。いまは魔力を取り戻すことだけを考えればいい。
古の民がいようといなかろうと、大した問題ではない。
彼は背負い袋から水晶を取り出した。
剣を鞘に収めると、この異様に広い宝物庫のなかを探し始めた。
王宮ばかりでなく、カザドブルの町全体が、崩壊を予感させて揺れたのはほんの一瞬のことだった。
けれどもその拍子にトワドの手からは〈遠見の水晶球〉が転がり落ちていった。
彼はそれを拾い上げようとはしなかった。
むしろもはやできるような状態ではないことは明らかで、その顔といい手といい、土気色になり、息も切れ切れで荒かった。
「アッジ、ネン、ドリアス・ボワド、ダッ、トワド…!」
トワドはかろうじてそうつぶやいたが、その憔悴ぶりは尋常ではなかった。
少なくとも、ガイルたち3人が出かけていったときにはまだ彼は、岩のように古びてはいたが衰えたようすでなかった。
彼はさらになにかをずっとつぶやきつづけていた。
けれどもあまりに小声だったので、聞き取ることはとうのトワド自身にさえできないほどであった。
醜いというよりも滑稽な姿の魔族だったが、その強さはやはりバーザムよりも上だった。
オルズデールが彼にいくつかの魔法をかけていなければ、とうの昔にその毒を滴らせた爪で傷つけられていたにちがいない。
それでも戸口に完全に踏みとどまることはできずに、彼はじりじりと後退させられていた。
大きな揺れを予期していなかったのは彼らばかりではなく化け物もおなじだったようだ。
その一瞬の隙をバーザムは見逃さなかった。
絶妙の間合いでオルズデールが呪文を唱えながら金剛石を魔族の背後に控えた妖魔の群のなかに放り込んだ。
魔族がバーザムの渾身の一撃を喰らったのと、妖魔がその後ろで散ったのとはほとんど同時だった。
地の民と森の民対妖魔の戦いを我関せずでとおりすぎようとしたガイルだったが、頬を濡らした血飛沫と女性の悲鳴には立ち止まらないわけにはいかなかった。
巨大な蟷螂のような化け物が、その鋭い刃で森の民の両腕をすっぱりと切り落としたところだった。
足下に腕が転がってくる。
剣を握りしめた、女性らしい細い腕、その足にぶつかった感触の生々しさに、彼は一瞬後ずさった。
なぜこんなことになってしまったのかガイルには想像もつかなかった。
それともトワドは知っていたのだろうか。だから宝物庫に行けと言ったのか。
「ミトス! ヒル、シエン、ミトス!」
ちょうどガイルの目の前に倒れたその女性は、哀願を込めたようすで彼の知らない言葉を口走った。
“助けて! 人間の子よ、助けてください!”
頭のなかに言葉が響いた。
ガイルはそれが森の民の言葉であることを理解したが、ろくに習った覚えはなかった。
ちゃきちゃきと刃を打ち鳴らす音が聞こえる。
こんな戦闘に関わるつもりじゃなかったのに、ガイルはどうやらそのまっただ中に飛び込んだようだ。
今度は軽く足下が揺れた。
まるで地震でも起きているような、それでいて断続的でつながりがない、奇妙な揺れ方。
「ヒル、ミトス!」
聞いたような声が彼に呼びかけた。
“人間の子よ、助けるんだ!”
また頭のなかに言葉が響いた。
そちらのほうを見ると、トワドよりもずっと若く、しかしそっくりな地の民が彼に向かって叫んでいた。
そのあいだにもちゃきちゃきという音は迫っている。
彼は息を呑んだ。
けれども一瞬だってためらってはいられなかった。
彼だけ生き残るか、古の民と心中するか、選択は2つに1つだ。
「そこをどけ、トワド! おまえたちは所詮過去の亡霊だ!!」
彼は森の民の女性を飛び越えた。
彼女の断末魔の悲鳴が響く。
と同時に、激しい揺れが三度彼らを襲った。
この町が崩壊するのは時間の問題だ。
ガイルは転びそうになりながら奥へ進み、ようやく台座に置かれた半分欠けた水晶を見つけ出した。
大きさといい、その欠けた部分といい、片割れに間違いはない。
度重なる揺れにもかかわらず、水晶は台座から外れてはいなかったのに、簡単に手で取ることができた。
ガイルはひとつ息を呑み、左手で片方を押さえながら、右手でトワドのよこしたもう片方を重ねた。
その境目が消えていき、一つに戻るのを見る暇もなく、真っ白な光が水晶と彼の左手を包んだ。
けれどもそれは、ただの光などではなかった。
「うわああああっ!!」
水晶はたちまち片手に載るぐらいに縮んだが、その白光は彼の左手を焼いた。
手のなかからそのまま逃げようとする水晶を、彼は必死でつかんだ。
痛みよりもいまは、この機会を逃せば二度と手に入らなくなってしまうことのほうが恐ろしかった。
たとえ片手を失っても、この機会を逃がすわけにはいかないのだ。
「プエナ…!」
そう叫ぶと同時に、水晶も光も消えた。
しかし、先ほどまでの揺れは今度は連続したものとなり、1000年以上もの長きに渡って存在した地の民の都カザドブルは、ゆっくりと崩壊し始めたのである。
断続的な揺れが連続したものと替わったとたん、オルズデールはバーザムを有無を言わせずに〈瞬間移動〉で外に連れ出した。
これ以上、カザドブルに残っている意味は彼らにはなかった。魔法使いが待っていたのはことの終わる瞬間だけだったのだ。
魔力を温存しておいたおかげで、2人は一気に町の外、ダンドカンバ山脈の一部を下方に見おろせるところまで飛んでいた。
2人の足下で、世界の屋根は揺れていた。
かつて、この大山脈が揺れたという話には、かならず忌まわしい伝説がつきまとったものだが、今度はどのような結果になるだろうか。
もはやカザドブルは消えてしまうだろう。ダンドカンバ山脈に押し潰されては、たとえ地の民の町といえども保たないにちがいない。
古の民の秘密や、地の民の最後の王を、その懐に戴いて永遠に沈黙する。
「〈瞬間移動〉をかけるのなら、一言断ってほしかったね」
「時間がなかったんじゃ、これも運命というものさ」
「なにが運命だ。どうせ最初から狙っていたくせに」
「うむ、そうとも言うな」
「……だいたい、なにがどうなっているんだか俺にはさっぱりわからん。ガイルやトワドはどうしたんだ?」
「待とうじゃないか、あれが帰ってくるのを。トワドのことも多分知っているだろう、そんなに長い時間ではないと思うがね」
珍しく穏やかな言い方だった。けれどすぐにおちゃらけたようすで、
「それよりもあの揺れはいい加減に治まらんものかのぅ。お主と2人で宙に浮いとるなんて、こんなに色気のない話もないものじゃ」
「悪かったな、お主好みのきれいどころじゃなくて」
「なあに、お主のかわりにきれいどころが一緒じゃあ、とうにわしらの命はなかったろうさ」
バーザムはひとつ咳払いをした。まともに受け答えをした自分が馬鹿だった、とでもいいたげだ。
「それにしてもええ眺めじゃのぅ」
「さっさと降りたいんじゃなかったのか?」
「ほっほ、高所恐怖症では魔法使いは務まらんわい。魔法使いは苦手を作ってはいかんのだ。その点ガイルのやつときたら、心臓に毛が生えとるんじゃないかと思うほど図太い神経をしとるからのぅ。あれはまったく魔法使い向きじゃよ」
「そういうものか…?」
「そうとも。
それよりも見ろ、絶景とはこういうことを言うんじゃぞ。ダンドカンバ山脈を、たとえ一部とはいえ見下ろせるなんて、だれにでもできる体験ではないぞ」
「この光景のなかに妖魔がいるなんて嘘みたいな話だな……」
「ほほう、今日のお主はやけに冴えとるわい」
「珍しく意見があっただけさ」
そう言って、バーザムはにやりとした。
〈プエナ〉と叫んだとき、地の民と森の民、それに部屋のなかの妖魔は消え去った。
けれど左手は手首から先がまだ煙をあげているような状態で、その痛みのためにガイルは膝をついた。
町は崩壊を始めていた。
瓦礫が落ちてくるので彼は右手をあげてかばったが、すぐにそれだけでは足りなくなるだろう。
この崩壊が地の精によるものであることを彼は理解した。しかしそこには悲しみも怒りもなかった。もともと精霊は感情を持たないものだが。
“地の精霊王ドリアスよ、我、〈杖なきもの〉が命ず、我が身を守れ…!”
彼の命令に応じて、地の民によく似ているが、さらに岩のようなトナルディアの王が現れた。
瓦礫が彼に触れなくなり、それでも起きていることが辛かった。
“……人はもう残っていないのか…?”
“あなたのほかにはだれも…”
“遺体はトワドと、魔族や妖魔のものだけ…?”
“いいえ。古の民の遺体は残りません。魔族や妖魔の遺体も間もなく消えるでしょう…”
まさか、オルズデールにかぎって逃げ遅れることはなかろうと思っていたけれど、安否を確かめずにはいられなかった。
ガイルはほっとため息をついた。
けれどもそれ以上に彼を驚かせたのは古の民の遺体が残らないということであった。
(じゃあ、あんたらは、本当にこっちの世界からいなくなってしまうんだな……このカザドブルももうつぶれる…地の民がいた痕跡なんてどこにも残らないのか…)
周囲はもはや見渡すこともかなわない瓦礫の山となっていた。
“俺を外に連れていけ…もうここに用はない”
“御意”
彼は地中を移動しながら、短刀で器用に衣服を切り裂いた。左手に包帯をするつもりだったのだが、こればかりはうまくいかずにほとんど布きれを巻きつけるだけに終わった。
指を動かせるのが不思議だった。
それほど左手はひどく見え、けれども指一本落ちてもいないのだ。
明るくなったと思ったら、ガイルは外にいた。
足下に広がるのはダンドカンバ山脈、呼ばれて探すと、オルズデールとバーザムがずっと上空にいた。
“もういい、ドリアス”
彼の命令に地の精の王の存在はかき消されるようにいなくなった。
“翼よ!”
落下したのはほんの一瞬のことで、ガイルはすぐさま身軽に飛んでいた。
なんて力だ。全身にみなぎる魔力に彼は酔いそうだった。そんな感覚はずっと忘れていたから。
だが、いま感じているのは彼が魔力を失う以前よりも数倍も強い力だ。
もしもそれ以上に強い痛みがなければ、1、2発、派手な花火を打ち上げていたかもしれなかった。
「先生!」
「うまくやったようじゃな、そうやっているということは」
「ええ」
「その手はどうした?」
「水晶の光で焼かれました…形のあるのが不思議なくらいで…」
「ふむ…まずは降りるとしよう。ガイル、おまえなら麓までひとっ飛びで行けるじゃろうが?」
「やってみなけりゃわかりませんよ」
しかし、ガイルが感じていた以上に魔力は強いものだったようだ。
彼らが一ヶ月もかけて登ってきたダンドカンバ山脈を、彼は瞬きする間に麓に降りてしまったのだから。
自分でできるだろうと言っておきながら、オルズデールも呆れ顔だ。
「まったく、トワドがあれだけ反対したのもわかる気がするわい。わしらがえっちらおっちらと登った山を、おまえときたらあっさり降りてしまうんじゃからな。
まさかと思うが、あの地震もおまえの仕業だと言うんじゃないだろうな?」
「そんな馬鹿な…! あれは地の精のやったことで、俺にはなんの関わりもありません」
「どれ、ちょっと手を見せてみろ。なんじゃ、この手は、お団子になっとるぞ」
「右手だけだとうまく包帯ができなくて」
「診るのもいいが、まずは村に行ってからにしたらどうだ? おあつらえ向きに近いし、おまえだってそのほうがずっと楽だろうに」
「そうですね…」
三人は歩き出した。
それでもオルズデールは心配しているのか単なる好奇心か、ガイルの左手を診るのをやめようとはしなかった。
「見かけほどではないぞ、これは。神経もちゃんと繋がっておる、大丈夫じゃろう」
「水晶を手にしたらそんなふうになったのか?」
「二つを合わせたら…白い光が出てきて、焼かれたと思ったんですけど」
「そういえば、おまえはおかしな動きをしていたな。なにをうろついていたんだ?」
「……後で話します。でも、原因は想像がついているんですけどね…」
「おまえ、ほんとうに痛いのか? さっきから平気そうな顔で歩いとるじゃないか」
「痛みを止めたんです。できると思わなかったけど」
「魔法とは案外便利なものだな。魔法使いが偉そうな顔をしてのさばっているわけだよ」
「なんだ、その言い方は? だいたい、お主の口から『魔法は便利だ』なんて、わしゃあ初めて聞いたわい。いったいぜんたい、どういう風の吹き回しじゃ?」
「お主が便利な魔法を使ったことがあったか? 俺はいつも迷惑を被るばかりなんだぞ」
「なにを言うか、この恩知らず!」
二人の不毛な会話を聞いて、ガイルは苦笑した。
けれども、彼はダンドカンバ山脈をふり仰がずにはいられなかった。
〈プエナ〉という言葉を聞いたのは、なにも彼の父が薬師だったからというだけではなかったのだ。もっとまえに、彼はあの言葉に助けられた。それがなにを意味するのかわからなくて、ずっと忘れていただけだ。
ガイルは、オルズデールがきれいに包帯をし直してくれた左手を見た。
この手を焼いたのはトワドだ。あるいはあの〈解呪の水晶〉を造った地の民かもしれない。どちらでもいい。彼らはもういないのだから。
それでも、この手を見るたびに彼はトワドのことを思い出すだろう。痛みはいずれ魔法によらなくても薄れていくだろうけれど、あの痛みを忘れることもないのだろう。
「でも後悔なんかしてやしないさ…俺は力を取り戻したんだ」
彼は自分にも言い聞かせるように低くつぶやいた。
「なにをもたもたしとるんだ! おいていくぞ」
「待ってください、すぐ追いつきますよ」
いつの間にか、また元に戻ったオルズデールとバーザムがガイルを呼んだ。
「祝杯をあげるのはいいが、肝心のおまえがいなけりゃ話にならないからな」
ぼろぼろに汚れきった格好だったが、二人とも誇らしげに笑っていた。
つられてガイルも笑みをこぼす。
「話したいことがたくさんあるんですから」
彼は、少し急ぎ足になって、二人の師匠のあとを追ったのだった。
〈 終 〉
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