第二部第一章
クリオ=ラサ博士がまだ29歳の若さだと知ったのは、クローディアの手術が無事に終わって包帯もとれた、11月24日のことだった。30代のやりてと勝手に想像していた彼女は、彼が思っていたよりも若く、一見頼りなさそうに見えることに驚いた。
「わたしの声は、そんなに老けて聞こえるんでしょうかねぇ」と彼がちょっとしょんぼりしたので、クローディアは慌てて否定した。
「お仕事がお仕事だから、私が勝手にそう思い込んだんですわ。どうか気になさらないでくださいね」
笑おうとすると、顔の筋肉はぎこちなくひきつった。それなのに、主治医である彼には伝わってしまうのが、彼女には二重の驚きだ。
「でも、あなたが笑ってくれてよかったですよ。わたしも自信はあったのですけれどね、やっぱりあなたご自身のことなんですから」
「とんでもない。私、すっごく感謝してるんですよ」
事実、クローディアの予想は嬉しいほうに裏切られた。記憶にあるのと寸分たがわぬ自分の顔が、鏡のなかで心配そうに見返しているのを見て、おかしくなったくらいだった−−−心配そうに見えたのも、たんに彼女がそう思っていただけのことなのだと、後々気づいたのだが。
以前と少しちがうのは、声のトーンが落ちたこと。そう言うと、彼女が目覚め、包帯をとってからずっと付き添っていたクリオは、それがさも重要なことであるかのような顔つきでメモをとったのだった。事実、彼はいつでもメモをとっていた。
「大変なのはこれからですよ。なにしろ、リハビリをして、まず動かすことに慣れてもらわねばね」
そうして、彼はせっかくクローディアが動かすのに慣れてきた声帯発声装置を外していった。これからは人工の口を使わねばならないのだ。きっと、使っていくうちに慣れてしまうだろう。
けれども、視覚はともかく、嗅覚も味覚も触覚も、使いなれていないせいか、それとも腕や足、顔がないことに慣れてしまったためか、彼女はよく、手術は失敗に終わり、丸太ん棒のようにベッドにただじっと横たわっているだけという夢を見た。夢は夢でしかないはずだった。だがクローディアは、人のよさそうな顔をしたクリオの一任で、自分がいつでもそうなりかねないことを承知していてもいいくらいだった。
しかし、典型的なマナス黒人である彼女は、なおも自分が人種ピラミッドの頂点にいるのだという意識を捨てきれなかったし、この後、周囲がたんなる実験体と扱うのを快く思わなかった。実験体がものである以上、彼女のプライドが同列に扱われることを許さなかったのだ。
リハビリ士としてやってきたのは、最新の専門知識を完璧なまでに叩き込まれた女の奴隷で、ライサといった。彼女はまだ16、7の小娘に見え、そばかすだらけの白い肌に、吸い込まれるような青い眼が印象的だった。髪は白っぽい茶で、おせじにも美人とはいえない。
彼女の口調は機械的で、必要最小限のことしか言わなかった。しごく従順な態度で、まるでよくできたロボっトのようにさえ思えたほどだ。しかし、時折目に反抗的な光が宿ることがある。苦痛とともにそれはすぐに消えてしまうのだが、クローディアにはなにか気に入らぬことだった。
ライサが実は自分と同じ年だということを、彼女はあとでミンム=テシーから聞いた。
けれど、彼女についてもっと詳しい話は、クリオから聞かされたのだった。
彼女は腕のよいリハビリ士だった。それに、いくら同性でも奴隷であるということは、かなり気恥ずかしさを失わせせるものだ。生身の肉体と生体機械のつなぎ目は、いくら優れた外科医でも完全に消すことはできない。リハビリの後に、全裸になってマッサージを受けるたびに、クローディアはライサが奴隷なのだと思ってほっとするのだった。なんといっても奴隷はものなのだから、感情や思考力があるはずがないし、彼女がなにを考えようと感じようと、そこで塞き止められてしまうのだ。クリオ=ラサが奴隷を選んだのは、そういう理由からだったのだろうか?
クローディアはミンムにはなにも言わなかったが、クリオには率直にライサのことを話した。
「ど、う、し、て、リ、ハ、ビ、リ、し、に、ラ、イ、サ、を、え、ら、ん、だ、の、で、す、か?」
「お気に召しませんか? 彼女は訓練センターでも最高の成績を修めた優秀なリハビリ士なんだそうですが。そのほかにもいろいろ器用なんだそうで、リハビリが終わるまであなたには必要かと思ったんですけれど」
「だ、っ、て、ど、れ、い、な、の、に、じ、ゅ、う、じ、ゅ、ん、そ、う、だ、け、れ、ど、と、き、ど、き、は、ん、こ、う、て、き、な、め、を、す、る、こ、と、が、あ、る、ん、で、す、き、け、ん、な、か、ん、が、え、を、い、だ、い、た、り、し、て、い、ま、せ、ん、か?」
「ああ、だからですよ。ライサは当研究所付の奴隷にしたのです。そうすればいつでも、いらなくなったときに処分してしまえますから。しかし、ここには奴隷は彼女しかいないし、あなたが元気になったらお役ご免ですけれどねぇ」
「ど、う、い、う、い、み、で、す、か?」
「彼女はもとはテルミナスあたりの生まれらしく、奴隷でもなんでもなかったのです。しかし、ああいう貧しい惑星ではよくあることなんですが、家の事情から身売りしましてね。あんまり器量もよくないから、快楽にはむかないし、頭がいいというので技術を教え込んだのですね。リハビリだけじゃなく、もっといろいろなことを知っていますよ。ひところはけっこうあちらこちらでひっぱりだこだったそうで。ところが頭がいいのも考えもので、奴隷じゃなかったことがあるものだから、とかく反抗的だったそうで、多いときには1ヶ月に4、5人も主人を変えられたんだそうですね。とうとう処分されることになりまして、そうなるまえにと、うちで引き取ったというわけです。まあ、それで滅多にすることじゃないんですが、思考コントロールを受けていましてね、反抗的なことを考えると苦痛が走ることになっているんですよ。だからあんまり気になさらなくても大丈夫ですよ。あれから逃れられたものはいませんし、どうせ1ヶ月ほどの付き合いなんですから。しかし、どちらにしても、彼女にはここが最後というわけですねぇ」
それでクローディアも納得した。けれど、だからといってライサに対する嫌悪感が消えたわけはなく、いつも不気味な感じが抜けなかった。それは杞憂にすぎなかったことがあとでわかったのだが。
クリオはリハビリが終わってからやってきては、クローディアに部屋のなかを裸で動いてみてくれと頼んだ。
「ど、う、し、て、そ、ん、な、こ、と、を、し、な、く、ち、ゃ、な、ら、な、い、ん、で、す、か?」
「筋肉や骨との連結具合を見たいんです。それには、どうしても服を着られたままではわかりにくいんですよ。リハビリの直後なら、動きもいいでしょうし」
結局、彼女は従わざるを得なかった。クリオ=ラサの命令に逆らうことはできないのだし、それに、彼は主治医でもあるのだからと割り切るしかない。
しかし、最初のうちはまだ腕がうまく動かせないせいもあって、手伝ってもらわねばボタン一つ外すことができなかった。思うように動かせぬ指に、クローディアはつい苛立ち、クリオに八つ当たりすることもあった。こんな体でもまともに生活できるのか、そう思って泣き出してしまいそうになったこともある。
彼を罵り、さんざん悪たれをついたときには、さすがに自己嫌悪に陥ったものだが、それでも、しまいにはうまくなだめられ、言われるままにポーズをとるのが常だった。
裸になることには、年頃になってからは父親にさえ見せなかっただけに、彼女はいつまでも違和感を感じないではいられなかった。
両親のことを思い出しても、不思議と哀しくなったり、会いたいと思うことはなかった。銀河帝国のために、文字どおり命を捧げているのかと思うと、誇りに感じたくらいだったし、研究所に入ることをあれほど心配した両親にも、誇りに思ってほしかった。
そんなとき、彼女はふっと思い出す。
生体科学研究所に入ったのも、帝国に尽くしたいという思いや憧れがあったことを。
子どもを生んで育てるという基本的なことではなく、もっと進んだ分野で貢献したくていたのだということを。
愛国心とは美徳なのだ、とくにマナス黒人においては。
「あなたはコ・ケラシュのほうの出身でしょう?」
「どうし、て、わかりま、す?」
「職業柄ね、肌の色と髪質の組み合わせには詳しいんですよ。あなたの肌はコーヒー色だ。しかも体毛が薄いとなると、北半球の北緯30度から40度のあいだの人間で、髪に緩いウェーブがかかっていましたからね」
クローディアは不思議そうに自分の体を見比べた。びろうどのようになめらかな本物の肌に比べると、作り物の手足には体毛がない。けれど、これは紛れもない彼女の手足なのだ。それと、産毛の生えない顔。
「もう、ひげ、の、心配を、しな、くても、いいんだ、わ」彼女もまた、一年の半分以上の時期を、無駄毛に悩まれている娘の一人だった。けれども、もう水着姿になることはあるまい。
そんな心情も知らず、クリオは相変わらずのんきな答えだった。「そうですね。人工皮膚の限界なんですよ、産毛までは再現できない。ちょっと歩いてみてもらえますか」
彼女は言われるとおりにした。全身の写せる鏡をちらっと覗く。継ぎ目もこれぐらい離れてしまうと目立たないものだ。それなのに、これがクローディアなのだと言い聞かせなければならなかった。
それからも、ライサは相変わらずだった。
従順だが、なにを考えているのかわからなかった。が、その苦痛には耐えがたいものがあったのか、そう目立って反抗的な意志を見せることは少なかった。
しかし、クローディアに言わせれば、彼女はただの愚か者だ。
たしかに頭はいい。こちらにおなじことを二度言わせたことはないし、いろいろなことも知っている。必要なものはきちんと揃えておいてくれるし、リハビリが終わってからも、召使いとして重宝しそうなほどだ。
しかし、もとは奴隷ではなかったというが、なにもかも承知のうえで身売りしたのではないのか。なぜ、わざわざ自分の命を縮めるようなことを言ったのだろうか。いまになって後悔しているようにも思えない。
快楽用の奴隷は「公娼」であることはクローディアもよく承知している。男性とつきあったことがほとんどなく、それもキスどまりの彼女にだって、そういう奴隷がどんなことをさせられるのかはよく承知しているつもりだ。が、ライサは技術用の奴隷なのだ。いったい、なにに不満があるというのだろうか?
こうした考え方は、なにもクローディアばかりではない。むしろ、白人の差別に始まって、人種や階級によって人間を等級づけしてしまうことに慣れたマナス黒人ならば、こう考えるのが、普通であった。銀河帝国ばかりでなく、マナス帝国を、ひいてはマナスがまだ共和政−−−と言っても、それは貴族院による統治で、一般民衆は政治の世界からは切り離されており、そういう意味でもマナスの民は、本当の民主政治を知らないのである−−−であったころからつづく慣習を、人間はそう簡単に改められるものではないのだった。
その点において、クローディアとライサのどちらが愚かであるのかは、まったく別次元の話となる。クローディアはその矛盾に気づかずに盲目的に従っているのだし、ライサは知っていて無力なまでに反抗しているのだから。
またこうも言える。知っているにせよ知らないにせよ、2人とも帝国のしたで砕けゆく石のひとつにすぎないのだと−−−。
クリオの注文はさまざまだったが、日に日に難しいポーズをとらせるようになった。歩けるようになると走らせたり、踊らされることもあった。熱心にリハビリに取り組んでいるおかげで、クローディアは体を動かすことはあまり苦痛に思わなかったが、この奇妙な行為がいつまでつづくのかだけは知りたかったし、ポーズをとるのはモデルになったみたいで気恥ずかしかった。
「リハビリが終わるまでですよ。一般生活に差し支えがないとわたしが判断したら、すぐにでもね。いまのところ、あなたは申し分がなく、うまくきています。せいぜいあと一週間というところですか。どうやら、今年中には一般生活に戻ることができそうですねぇ。まぁ、一般生活といっても、この研究所から出ることは当分できませんが、慣れれば、こんな落ちついた環境も悪くはないですけどねぇ」
と彼は、例によってのんびりした口調で答えた。年頃の娘の裸を見ているなんて自覚がないようなのは、たんに無関心なのか、それとも割り切っているからなのか。へたに好色な目を向けられるよりはよほどいいけれど、こう反応がないのも物足りないものだ。
「テレビとかは見てもいいんですか?」
「もちろんですとも。なんでしたら、ビデオ鑑賞もけっこうですよ。なにか趣味があれば、できるだけご希望に添えるように努めます。外出する以外のことは、たいていかなえられると思っていただいてもいいですよ。なんでしたら、スポーツなんてのもね。
ところで、だいぶ毛が伸びましたね」
「ええ。昔は腰ぐらいまで長くしていたこともあったんですよ。でも、あまり伸ばさないほうがいいですね、きっと…」
「どうしてです?」
「だって、知っているひとに会ったら、すぐにわかってしまうわ。私、死んだことになっているんですもの」
「そうですね。しかし、あまり嘆かないでください。わたしまで辛くなってしまいますから」
「……ねぇ、博士。私がいちばん嬉しかったことってなんだと思います?」
「さあ、なんでしょうねぇ…?」
「涙が出るんですよ。びっくりしちゃった。でも、本当にいちばん嬉しかったんです。私、まだ泣いてもいいんだなぁって思って…」
クリオはなにも言わず、クローディアに患者の服を着せた。彼女は不思議そうな顔で彼を見たが、やはりなにも言わなかった。
いつもなら、それがお終いの合図だった。
なんにしても、彼女はまだ24歳の女性なのだ。しかもそこそこに美しく、クリオだって、やはり若い男性であることにかわりはない。しかも未婚だし、いまだに女っ気がない。
自分の研究室に戻った彼は、クローディアには教えずに撮った、資料用の長いフィルムを再生した。「画像処理済」のスタンプが押されたそれには、音声もなく、彼女だけが写っている。
最初のうちは指一本動かすのさえぎこちなく、すぐヒステリックになりがちだった彼女は、日を追うごとに動きもなめらかになり、表情も豊かになっていった。
「彼女は被験体、そしてこのわたしは実験者だ……」
彼は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。いくら実験体とはいってもクローディアはマナス黒人なのだ。おなじマナス人として、クリオはどうしてもそこのところを割り切れない。いや、それ以上に彼女の存在そのものがまぶしかった。
のびのびと体を動かすクローディアの残像が、クリオのまぶたの裏にいつまでも残っていた。
帝国暦183年6月、帝国民族生体科学研究所内、フェール=リオネス研究室の開室とともに、補助研究員として配属されたクローディア=ジャレスは、そこで初めて生きているリオネス人というものを見た。リオネス人が写されることはいまの時代にはほとんどなく、それも研究者用の資料でしかなかったため、たとえ一葉の写真とはいえ、一般民衆の目に触れることはありえなかったのだ。
男の子が4人と女の子が4人、5歳ぐらいの子が4人と10歳ぐらいの子が4人、兄弟姉妹なのか、八人ともとてもよく似た顔をしている。いや、似すぎている。だが、その表情には、およそ子どもらしさはかけらもなく、自我のない顔であった。
彼らに虚ろな視線で眺められたとき、クローディアはぞっとして声をあげそうになったほどだ。
「男の子のうち、大きいのがロゥンとヌー、小さいのがキリエとザルト、女の子は大きいのがアディとルカ、小さいのがターナとヒューラと名づけました。どうです、よく似てるでしょう?」
リオネス研究室の責任者、レッセ=フェール博士とはいちばん長い付き合いだというウィリーズ=ラインスターが言った。出世欲のない呑気もので、「年中フェール博士の尻を追いかけてる」と陰口をたたかれることもしばしばだ。実際、彼は使い走りをさせられることもよくあったが、文句ひとつ言わずに従っていた。
「兄弟姉妹なのですか? それにしても、8人とはずいぶん多いのですね」とクローディア。名前の平凡さをあえて指摘しなかったのは、実験体なのだから、区別がつけばいいと思ったからだ。
「八つ子なんですよ、実は。もちろん薬のおかげってやつで。大きいのと小さいのがいるのはですね、成長促進剤の投与をしてきたからなんですよ。本当はみんな5歳なのですが、博士が受精卵のときにもっと比較してみたいとおっしゃられたもので」
「そうですね、比較するデータが多いのはいいことだって聞きますもの。でも、5年間も育ててこられたなんて、大変だったのじゃありません?」
「そこは機械まかせですよ。人間を使うとどうしても情が移ってしまうから、いっそ育児ロボっトにまかせてしまえってことで。まさか、リオネス人相手に情が移るものもいないでしょうけどね、予算が少ないから機械のほうが安上がりだったのです」
彼女は答えず、8人の子どもたちを見つめた。噂には聞いていたが、実際に薄緑色の肌を見るのは初めてのことで、まるでかぶりもののようにさえ思えた。そうでなければ、人間の形をした植物か。どちらにしても、とうてい人間には思えない。擬人植物といわれたほうが、まだぴんとくるだろう。
それは、嫌悪といってもよかった。リオネス人に対して、多くの帝国人が抱いたのと同じ思いを、クローディアもまた、まず抱いたのであった。ヴィジュアル人の青白い肌だって好まないほうなのだ。彼女は、チョコレート色の黒い肌をもっとも美しいと考える、典型的なマナス黒人だった−−−その色とは、言うまでもなく、皇帝ディルティメント家の色なのである。
「どうぞ、ほかの設備も案内しましょう」
「ありがとうございます。でも、お仕事が忙しいのじゃありませんか?」
「まだまだ平気ですよ。それに、新しいかた、それも女性が来るなんてわたしには初めてのことですからね。もう足が舞い上がっちゃって」
クローディアは軽く微笑んだ。なんと言われようとも、ラインスターは気持ちのいい人物だった。
2人がいくつかの実験設備を見てまわっているうちに、やがて研究室のメンバーが全員集められた。
フェール博士は、まず開口一番に開室を喜んだ。惑星リオネスの発見より、早くも90年以上が経つ。リオネス人についての研究室はここがお初である。民族生体学博士として長年リオネス研究室の開室を申請し、各所に働きかけてきただけに、張り切らざるを得ないのだろう。
また、年齢別、性別による比較のためとはいえ、一度に8人もの実験体を所有しているのもここだけなのだった。
しかし、他の研究室ではトータル的に見れば、半年に20人以上の実験体が消費されたところも珍しくはなく、マナス白人室のように古いところでは、50人以上消費されている例もある。リオネス研究室の実験体の数が多いのは、たんに補充がしにくいためであった。
それから彼は、研究員を一人一人紹介した。
ホウマー=トーイアン、スミルノ=アンセハム、オーレ=ディヴァーズ、ジョウル=ターバーの4人は、民族生体科学研究所内の別の研究室から転属された、40〜50代のベテラン揃いだ。年齢順でいくとちょうど逆になり、ターバー、ディヴァーズ、フェール、アンセハム、トーイアンとなる。
彼らはすでに、フェール博士より、実験計画案を提示されており、それに意見するだけの知識と経験を有していた。ただし、聞いたところではなにしろ初めてのリオネス研究室ということで、彼らもひとまずはフェール博士の言うようにやってみようということになったらしい。ただ一人の30代であるラインスターは、フェール博士の言うことには、一も二もなく承知するはずだが、彼だって、この研究所にはかれこれ10年はいるのだった。
しかし、最年少のクローディアの役割はもっとも素っ気ないものだった。早い話、みなの雑用係みたいな役なのである。彼女は大学を出たばかりのぺーぺーだ。いくら才媛とはいえ、最初から重要な仕事など与えられるはずもない。
それでも、クローディアは素直に、開室と同時に入れたことを喜んだ。生体科学研究所は決して人気のある就職口ではなかったのだが、他に同類の職場がきわめて少なかったため、入ったら退職するまでそのままのものが多く、欠員補充など滅多になかったのである。しかも、たいていは退職したものの代わりとして求められ、まえの仕事を引き継がせられるのが常だし、このリオネス室を最後に新しい研究室が開かれるはずもなかった。
コ・ケラシュの片田舎の両親は、希望どおりに研究所に入った娘が、いきなり「機密厳守」の部署に配されたことを大いに心配していたが、これもすべてお国のためと沈黙するしかなかった。田舎者の平凡な夫婦は、できるならば大学卒業と同時にクローディアを結婚させたがっていたが、彼女の性格からいえば、それもはなから無理な相談だった。
まさかその4年後に娘が死んでしまうとは、両親はおろか、当のクローディアさえ予想していなかっただろうが。
最初から、フェール博士はいかに効率的にロゥンたちを使えるかということに頭を悩ませていた。いくつかの実験を始動させたものの、その経過を見、あるていどまで結果を予想できるようでなければ先の計画も立てられず、時間はどんどん消費されていくばかりだ。
彼は、開室に先立って、八つ子どころか、もっとたくさんの実験体の登録許可を申請していたのだが、なにしろ初めてのリオネス室ということで退けられてしまったのだった。かくなるうえは一つでも多くの成果をあげて、今後の研究の後押しにするしかない。そうでなければ、他惑星人のように実験体の補充を容易にすることだ。
「どうせ亜人なんだ、そこらへんから狩らしてくれればいいのに」と言った実験者もいたほどだ。
しかし、なんにしても初めてのリオネス人による実験ということで、彼らの経験が役に立つどころか障害となってしまうことも珍しくはなく、なかなか能率は上がらなかった。ただ忙しいだけで、たいして進展もしない日々が1ヶ月もつづいたのである。
子どもたちの面倒を見ることも、クローディアの大切な仕事のひとつだったが、自我のない彼らは、いたって手間が少なく、クローディアはせいせいしたものだった。実験が行われると少々面倒なこともないでもなかったが、彼女に苦痛を覚えさせるほどではない。
実験はさまざまな物質に対する、彼らの抵抗力や耐性を調べることから始まった。電圧や薬品、毒物、アレルギーを起こすあらゆる物質など、膨大なリストとその結果、さらに推移などを、クローディアは暇さえあればコンピューターに打ち込んでいった。
分刻みのスケジュールに、子どもたちより実験者のほうが悲鳴をあげかねないほどだったが、フェール博士はなかなか妥協しようとはせず、開室して1ヶ月は、「民族生体科学研究所のなかでもいちばん忙しいところ」と噂されたほどだった。
しかもその1ヶ月というもの、実りある成果は数えるほどしかなかったのだから、だれもがいつでもいらいらしている、嫌なところでもあった。
「今日でリハビリはおしまいにしましょう」
クリオからそう告げられたとき、さすがのクローディアも一瞬どきっとした。
「そう、ライサももう不要です。なにごともなくてよかったですねぇ」
「なにかもったいないような気がしますわ。彼女は、召使いとしてもさぞ万能でしょうから…どうにかして残しておくわけにはいかないんですか?」
「それは聞けないんですよ。思考コントロールは永遠につづくわけではないんですから。それにクローディア、たとえリハビリが終わっても、体を動かすことを怠ってはいけませんね。自分のことは自分でやらなくちゃあ、召使いなんて、もってのほかですよ」
「すみません」
「さてさて、リハビリが終わったとなると、あなたも普通の生活ができます。わたしの研究室の近くにあなたの私室を設けたんですが、これがまた、なんとも殺風景な部屋でして。カタログ・ショッピングをご存じですか?」
「ええ、もちろん!」
「あなたの部屋に端末があります。いくら使われてもかまわないんですが、名義は必ずわたしの名前にしておいてくださいね」
「いいんですか?」
「あなたの名前を使うわけにはいきませんし、偽名だと面倒です。それに、わたしならば必要経費で落とせますからね」
クローディアは朗らかに微笑んだ。哀れなライサのことはもう頭からは消えており、彼女はこころゆくまで買い物を楽しんだのである。一瞬でも奴隷の命乞いをしたり、殺されることを哀れに感じたりしたのも、彼女にあってはこれが最初で最後であった。
ライサは、帝国暦187年も押し迫った12月24日のうちに処分され、遺体はあとかたもなく廃棄された。最後の瞬間まで彼女はなにか言いたそうだったが、その言葉はだれにも届くことはなかったのである。
クローディ_アの考えているとおり、奴隷とはものであった。生まれながらの奴隷はともかく、たとえばライサのように途中で身売りしたものはこの点を多く誤解している。彼らは自分の考えなど持ってはならず、あくまで従順でなければならない。いや、従順であれという思想自体がすでに危険なのだ。主人の言葉は絶対である。が、それを当り前のものとしていなければならない。
この点に関して、長年奴隷を使いつづけたマナス黒人の意識は徹底していた。彼らは、概して他惑星人の主人に比べると奴隷の扱いが厳しく、非人道的だと思われがちだが、そもそも人間だとは考えていないのだから、しごく当然の行為であった。また、奴隷を使うこと自体、人道的な見地からは大いに外れている。
そういう意味でも、マナス黒人とは特別な人種なのであり、マナスの慣習をそのまま押し通してきた銀河帝国は、マナス帝国と名乗るべきだったのだ。
年明けて188年1月のある日、クローディアは鏡とにらめっこをしつつ、もう何時間も髪形のセットをしていた。事故と移植手術のおかげで、一時はつるつるに剃り上げられた頭も、リハビリ中のみっともなさを通り越して、ようやく見られるほどに髪が伸びてきており、彼女に女性らしい楽しみを与えてくれる。
しかし、鏡を見つめていると、生身の部分と機械の境目がうっすらとわかる。それを隠すことが、目下の課題であった。が、だれもクリオ=ラサの言うように、正面から見て、これが機械の顔だとはとうてい思うまい。生身の人間そのものであった。なんといっても、表情が人間らしくなったのだから、彼女としては一安心というところだった。
部屋のなかもすっかり彼女の好みに合わせた調度がなされていた。
一間しかないとはいうものの、カーテンやベッドカバーに始まって壁紙やじゅうたん、はてはクッション、化粧品まで、すべて彼女が選んだものだ。
クリオは、「ここだけ研究所のなかじゃないみたいですねぇ。いや、華やかでいいですよ」と言った。
それもこれもみんな、彼が落とした必要経費のおかげだ。お金のことを気にしないでいいと言われたので、すっかり気楽に買い物をしたものの、研究所の経理は、送られてきた請求書を見て、きっと目を白黒させたにちがいなかった。しかし、にわかに改造した部屋なので、浴室も物入れもないのが不便ではあった。
生体機械研究所は、民族生体科学研究所同様、それだけで小さな町ほどの機能を持っていたが、共同浴場だけはいただけなかった。研究所に女性が少ないので、だれもいない時間がとりやすかったのがせめてもの幸いだ。クリオはそのうちにクローディア専用に浴室を作ると約束してくれていたが、多忙な彼のこと、いつになるかなんてわかったものじゃない。
「クローディア、いまなにをしていますか?」
クリオの声が天井から降ってきた。天井にスピーカーなんて、センスがなさすぎる。
「髪を直しているところなんです。なにかご用事でも?」
「クゥィニックが来たんですよ。例の事故のことで、お話を伺いたいとか」
「わかりました。私の部屋へ来ていただけるのですか? それとも、どこか別の部屋で…?」
「別の部屋がいいでしょう。そこはあなたの私室なんですからね。そこから斜めむかいに小さな部屋があったでしょう? そこまで行ってもらうことにしますよ」
「はい……」
来るべきものがついに来たという気持ちで、クローディアは落ちつかなかった。
ロゥンの行方を追って、帝国のなかでももっとも秘密めいた部署が動き始めたのだ。
帝国諜報部員ともいわれるが、クゥィニックがどんなものか、知っているものは少ない。いや、存在を知らないものだって珍しくもないのだから、彼女はなにか、人知を越えたものでも見るかのような気持ちで、そわそわと指定された部屋へ向かったのだった。
「はじめまして。クローディアさん…?」
「え、ええ、そうです。あなたがクゥィニック…?」
人間コンピュータの異名をとるだけあって、彼女が初めて見たクゥィニックは、冷たい印象の、しかし若い男性だった。そのものは、にこりともせずに椅子を指して言った。
「どうぞ、座ってください。今後、わたしのことはディレルと呼んでください」
「ええ…」
「お体の具合はいかがです?」
無味乾燥な言い方だった。これがクゥィニックというものだろうか?
「たいへんけっこうですわ。そんなことまでご存じなのね」
「他言するつもりはありません。けれど、わたしたちは一つの事件について、どんな細部でも知り尽くしていなければなりませんから。今度の事故のような場合は、とくに情報が大切なんです。しかも、あなたはフェール=リオネス研究室の唯一の生存者ですから、あなたについてはかなり私的なところまで調べさせてもらいました」
「はい…」
ディレルは、クローディアよりもさらに濃いチョコレート色の肌に直毛のマナス黒人だった。皇帝ディルティメント家そのままの造形に、彼女は彼の出身地を訊いてみたくなったが、同時に、この相手をどう扱ったらいいのかわからなくて、どきどきしながら彼を見ていた。
「わたしはアムール市の出身ですよ、クローディア」
「…どうして、私の考えてることがわかったんですか?」
「読筋術を使えば、たいていのことは。でも、わたしは御家とはなんのかかわりもありません」
つまらないのが半分、ほっとしたのも半分だった。皇帝家の血筋だなんて言われようものなら、クローディアは舞い上がってしまって、なにひとつまともに答えられなかったにちがいない。
けれど、ちょっとだけ嬉しいこともあった。読筋術とは、筋肉の動きを読んで、相手の心情を推し量る読心術の一種だが、それでわかるほど、彼女の顔はよく動いているということだ。
「それで、どうして私のところへいらっしゃったんです?」
「すべて知っておくためだと申し上げたでしょう。この事件の全容を知れば、ロゥンがどこへ逃げたかも見当がつきますし、それが我々のやりかたなんです。しかし、超能力者が相手では、すべてにおいて情報不足とも言えます。ですから、今後、あなたにはできるかぎり協力していただくことになると思います。それがあなたの義務ですから」
「わかりました…では、なにからお話ししましょう? 事故のときのことですか?」
「いいや、もっと昔から、あなたが覚えているかぎり詳しくです。フェール=リオネス研究室であなたがたがしてきた実験についてすべて、それに実験体はロゥンだけではなかったのでしょう? そのものたちについても話していただきたいですね」
「わかりました。どれだけ思い出せるかわかりませんけど、できるだけ思い出してみます」
「どうしても思い出せないことや、こちらの知りたいことを思い出せないようでしたら、記憶反復剤なり、脳内探査機なりを使いますので」
彼の言葉に、クローディアは身がすくむ思いだった。どちらも対重犯罪者用として使われるものだ。ディレルは、自分を重犯罪者のように扱うつもりなのだろうか?
「そんなつもりはありませんよ。しかし、あなたも呑気なものですね。いつまでも一般市民のつもりでいられては困ります。あなたはラサ博士の実験体で市民権は有していないのですから。わたしはあなたを重犯罪者のように扱うつもりは毛頭ありませんが、実験体になにを使おうと、どんな問題があるというのです? 実験者だったあなたは十分ご存じのはずですがね」
彼の言い分はまったくもって正当なものだったが、クローディアが受けたショックは、彼女の価値観を根本から覆えしかねなかった。
けれども、それは動かしようのない事実だった。なんといっても、クローディアは市民権を持たない身なのだ。生体機械研究所から出ることも許されていないし、たとえ許される日があるとしても、生体反応板による監視つきである。買い物ひとつも自由にできないものを、普通のマナス黒人ならば、亜人と見なすのが当り前だったろう。クローディアだって、立場が逆ならばきっとそうしていたにちがいない。
しかし、勝手なものだが、他人の痛みはわからなくても自分の痛みとなると話はべつである。しかも、クリオ=ラサもミンム=テシーも、一度として彼女を実験体と扱ったことがなかっただけに、余計ディレルの視線は辛かったのだ。自分はマナス黒人なのだというプライドは彼によって崩されつつあった。
「どうぞ、先をつづけてください」
彼女の動揺をよそに、ディレルの口調は相変わらず冷徹だった。
帝国のためにつくすということがこんな形で報われようとは、クローディアは夢にも思わなかった。そんな彼女の脳裏をふとよぎったのは、1ヶ月ほどまえに処分された、ライサのことだった。
いいや、そんなことがあるはずがない。彼女は奴隷だったのだ。しかもテルミナスあたりの生まれだとクリオが言っていた。マナス黒人の自分とは、根本的にちがう。
どうちがうというんだ? 奴隷も実験体もおなじ亜人ではないか。しかし、それでは、ロゥンたちとおなじということになる。どちらにしても、袋小路でしかない。
目に見えるほどはっきりと震え出したクローディアの腕を、ディレルはつかんだ。
「話しなさい、クローディア…!」
彼女ははっとして顔を上げた。そうしなければならないような気がして、自分のことがすみっこのほうへ押しやられて、あれだけ悩んでいたことが嘘のように消えていた。
「なにからお話しすればいいんでしょう…?」
「ロゥンたちのことを、彼らに行った実験も含めて、できるだけ詳しく話してください」
「わかりました…ほかに7人いましたわ。男の子が4人に女の子が4人だったんです。うち半分に成長促進剤を投与しましたので、肉体的には本来の年齢の倍くらいでした。いまでもはっきり覚えてます。みんな同じ金色の眼、薄緑色の肌、髪は実験が始まって間もなく、とつぜん一斉に白になってしまったんです」
「なぜです?」
「さあ…? 実験後の反応はいつもと変わらなかったもので。フェール博士は、8人を同じ実験にかけたことがあったのでそのせいじゃないかっておっしゃってましたけど、ほんとうのところはだれにもわかりませんでした。それを調べるのが私たちの仕事でしたけど、もしかしたら、リオネス人に特有の現象なのかもしれませんでしたし」
「はい。
私が初めて見たとき、小さい子が5歳で大きい子が10歳くらいだと言われました。ウィリーズ=ラインスターさんが案内してくれたんです−−−」
8人の子どもらは、なにひとつとして逆らうことはなかったが、自主的になにかすることもなかった。彼らはただ言われたことに従うのみだった。身のまわりのことや下々の始末だって、一回言われればあとは自動的にやったのだが、それまではなにひとつしようとはせず、手間がかかるともかからないともいいかねた。
その、どこまでも、なにをされても従順な表情に、クローディアはいつか彼らを風変わりなペットと見なすようになっていた。気持ち悪さを隠して、子どもらをかわいがるようにまでなったのである。彼女にしてみれば、これは大した意識改革であった。
けれど、彼らは言葉を発しなかった。いつも無言でおとなしくて、どんな実験にも悲鳴もあげず、表情も変えないのが不気味だと言った実験者もいた。
リオネス人には感情がないのかとまで、最初は思われたぐらいだった。それほど、彼らの反応は皆無だったのだ。
とうとうクローディアは、ロゥン以外には話しかけられたことがなくて終わった。そのロゥンさえも、話しかけるようになったのは、他の7人がみな死んでしまってからのことだったが。
そして彼だけになると、実験者一同は初めて、リオネス人にも感情があるのだと知った。植物のような人間だとしても、いちおう人間のほうに近いということだ。だが、それはまたそれで厄介なことであり、間もなく彼らは、リオネス人に感情がなければよかったのにと思うようになっていたのだから、勝手なものである。
あるいは、そうした態度が彼らなりの無言の抗議だったのだろうか? だとしたら、それはほとんど伝わらなかったわけだ。たとえ伝わったところで、マナス黒人揃いのリオネス研究室では認められもしなかったろう−−−そして生体科学研究所においては、そうした研究室など珍しくもなんともなかったのだ。他惑星人の実験者の存在自体が珍しいくらいだった。なにしろ、マナス黒人以外には、全惑星人の研究室があるところなのだから、そうした極端な比率も当然と言えよう。
月に一度、クローディアは休暇をもらえた。いま考えてみると、自分だけでなく、フェール=リオネス研究室の人びとは殺人的なスケジュールをただ黙々とこなしていたようだ。
もっとも、半年も経つとペースがつかめてきたので、週に2日ぐらいは交代で休んだのだが、よくそれまでだれも倒れなかったものだと、後々、彼女は思うことがあった。
休みになると、彼女はいつもアムールへ行った。毎日8人の子らに囲まれどおしで、たまの休みくらいは1人きりになりたかったし、生体科学研究所は、若い娘が休みをすごすには退屈なところだった。しかし彼女は、外出するときには必ず外出先を告げさせられ、実験内容についても固く口止めされたものだ。
そんなこと言われなくたってわかっているわ、とクローディアは内心憤慨したが、相手が機械ではどうしようもなかった。熱烈な愛国者である彼女には、一言「機密厳守」と言えば、それで十分な口止めになったのである。
彼女は、自分がなにをやっているかなんて、たとえ両親にだって話すつもりはなかったし、なんでも打ち明けられるような親しい友人もいなかった。たとえ殺すと脅されたところで、彼女は口をすべらさなかったかもしれない。
銀河帝国の首都アムールは、ディルティメント家の二代当主カイザンによって現在の基礎が築かれた、まさにディルティメント家による、ディルティメント家のための都市である。マナスのなかでもそう古いほうの都市ではなく、ひとえにディルティメント財閥との結び付きだけで大きくなったアムールは、マナス帝国、銀河帝国となってからも代々の皇帝によって拡張されつづけ、いまや他に並ぶもののない、押しも押されぬ最大の都となった。
人間を等級づけたマナス黒人は、アムールもきちんと区画分けしなければ気がすまなかったらしく、ひとつの都市でありながら、アムールの内にはいくつもの都市を抱えているかのような構造をしていた。
アムール宇宙港を中心に放射線状に伸びた16本の大通りは、そこからマナス中へつながっている。民族生体科学研究所は、そのアムールの北の郊外にあった。
宇宙港の南南西にあるアムール市自然保護区は、扇状の敷地全体が公園という、きわめて特殊な造りをしている。
そこでは、だれもかれも、自分の足で歩いていかねばならず、人力によらない玩具を持ち込むことも禁止されていた。
飲食は決まったところでしかできないが、原始的なキャンプはいくらでもしてよい。
ただし、事前に管理事務所に申請して許可を受けること。
など、けっこう口うるさい気まりはあったものの、人気のある娯楽施設の一つだった。
クローディアも例にもれず、よくそこでのんびりしていた。アムールとは比べ物にならないほど小さい、故郷の町の周辺がこんなふうだったこともあったし、いくら機械生活に慣れ、一日たりとてその恩恵なしでは暮らせないとはいえ、植物の緑はいつまでもひとの心を休めるものなのだろう。
けれど、そんなときにかぎって、ロゥンたちのことばかりが気になったのはなぜだったのだろう? あるいは植物から連想したのかもしれない。
彼らをここに連れてきてやれたら、少しは子どもらしく笑うだろうか、遊ぶだろうか。
そんな許されるはずもないことを彼女は夢想したことがある。しかし、実際に連れていってくれと頼まれても、彼女は丁重に断わっただろう。元来、クローディアは子どもの相手は苦手だったのだ。しかも、そんな空想はあくまでも研究所を離れたときだけのことで、帰れば、彼女は実験者の一人にすぎなかった。
そのロゥンたちは、互いに話すこともないらしく、実験者がいないときでも黙りこくっているのを彼女は知っていた。が、間もなく彼らは、別々の部屋に移されて、以後、なにかの比較実験以外のときには、死ぬまで独りきりだった。
彼らは人間ではなく、ただのものだ。だからといってここまでおとなしいのは不気味なものだと、彼女も思わざるを得なかった。
フェール博士は、8人が8人とも超能力を持っていないことを残念がっていた。
リオネス人についての実験や研究はすべて白紙の状態から始めなければならないが、それでも他惑星人の実験データが参考にならないことはないのだから、いくらか進めやすい。
ところが、超能力者にまつわる資料のなんと少なかったことか。しかも、帝国内で唯一のリオネス研究室で、その実験ができないとは。
リオネスは超能力者の宝庫だといわれる。民族生体科学研究所に勤めるものならば、一度ならずとも食指が動くのは当然であった。超能力者はトラップにもいたのだが、あまりにも稀少すぎて、実験体として使えなかった。
上司でありながら、クローディアはレッセ=フェールという男は、40代のわりに落ち着きがなかったと思うこともしばしばだった。なにより、彼は功をあせっていたと彼女は考えたこともある。
だからこそ、7人もの実験体が死んでしまったのだ。最初に死んだのはルカ、成長促進剤を投与され、ヌーとならんでいちばん多くの実験を施された女の子だ。ヌーやルカとの比較のため、ロゥン、アディ、キリエ、ターナの4人は比較的実験が少なかったのだ。ルカは、死んだときは14歳くらいに見えたっけ。
それからザルト、ヒューラ、キリエ、ヌー、アディ、ターナと次々に死亡し、一時は研究室の存続さえ危ぶまれたほどだった。実験体の死亡は、生体科学研究所ではいつものことだ。とくに目立つような噂にもならないのだが、補充の容易でないリオネス研究室では、他の研究室のように気軽に実験体を消費するわけにはいかない。肝心の実験体がいないのではお話にもならなかった。もっとも用意周到なフェール博士は、当面は残ったロゥンで研究をつづけていき、新たにもっと多くの実験体を育てていたようだったが、それでも数年は待たされてしまっただろう。
弟妹の死は、ロゥンに自我という余計なものを与えた。話すようになり、実験を嫌がった。自分も死ぬのではないかと恐れたようだ。ロゥンは弟妹が生きていたころは実験がいちばん少なかったので、そのショックもあったのかもしれない。
とくに、神経ガスを彼は嫌っていた。しかしリオネス人には麻酔が効かない。麻薬のたぐいだって、リオネス産のアルブンとアコニンが効果を示すものだが、それだって他の惑星人に比べたらかわいい症状だ。
それで、麻酔が必要なときはどうしても神経ガスに頼らざるを得なかったのだが、ふだんは無口なロゥンが、このときだけは饒舌に訴えた。
「ガスは嫌だ、ばらばらになる、とっても怖い、ガスはやめて、心だけ沈んでくみたい、粉々になる、助けて、やめて、ヌー、キリエ、ザルト、アディ、ルカ、ターナ、ヒューラ、助けて、助けて…」
「そう、あれが最後の実験のときだったわ…そのときになって、初めてロゥンに超能力があることが発覚したんです。それで、フェール博士が実験を中断することにして、ラインスターさんに神経ガスの申請を命じられていましたけれど、ロゥンとどんな話をしていたのかは知りません。私たちも疲れていましたし、少し仮眠をとりました。とにかく、実験室を出ていくように命じられたんです。私、寝過ごしたんだわ、あのとき……」
「ロゥンをなだめる役はあなたではなかったんですか?」
「そうなのですけど…フェール博士は、超能力のことを知って、もっと厳しい態度で臨むつもりのようでした。私は、実験室に最後に入ったんでしょう、突然爆発が起きて、なんにも聞こえず、全身が燃えるように熱かったことだけ、覚えています…」
話が途切れて、クローディアはぼんやりと昔のことを考えていた。それと同時に、なぜこんなことになったのか、奇妙な気がしていた。まだ話さなければいけないことはあるのだけれど、ディレルはもう少し考えていたそうだ。
「食事にでもしませんか? 少し休みましょう」とディレル。人間コンピュータでもおなかはすくものらしい。
クローディアは素直に頷いたが、なにか、まだ忘れているような気がして、どこかそわそわと落ち着かない。
生体機械研究所の食堂では、2人は完全な部外者だった。だれもが自分の実験や新発見の話に興じている。その内容はちんぷんかんぷんなものばかりだ。
けれども、すっかりディレルに気をとられたクローディアは、時折振り返ってひそひそとささやくものがいることに気づかなかった。生体機械研究所では、女性の存在そのものが珍しかったが、クリオ=ラサの実験体たる彼女のことを知るものは少なからずいたのである。さすがに面とむかって話しかけてくるような礼儀知らずはいなかったが。
2人は黙って食事をした。クローディアはいろいろと訊いてみたいことばかりだったのに、ディレルに目で制されて、そのたびにうつむいて、慌てて食事を口につめこむような有様だった。それにしても、この昼食は味気なく、彼女はほとんど食べたような気がしなかった。けれども、なにか賦に落ちない。それがなんであるのかは、まったくわからなかったのだが。
「午後からは、少し付き合ってもらいますよ」
先に食事を終えて、ディレルは有無を言わせぬ口調で断言した。こうした話し方が彼の癖なのか、それともクゥィニックとはこういうものなのか、クローディアにはよくわからない。
「でも、ラサ博士の外出許可がまだ出ていないのですけど…」行かなければいけないのはわかっているのに、彼女はなんとなく気が進まなくて、言葉を濁した。
しかし、ディレルの口調はどこまでも素っ気ないものだった。クローディアはまたなにかを思い出しかけたのだが、いまはそれどころではなかった。
「そんな必要はありませんよ。彼はあなたの実験者ですが、例の事件についての権限はいっさい持っていないんですから」
「いったい、なにをするんですか…?」
「行く途中で話します。ここは無関係な人が多すぎる」
そう言って彼は、そのときだけ渋そうな顔をした。
ディレルがなにをするつもりなのか、見当もつかなくて、クローディアは不安にかられた。
「ちょっと待っていてください。すぐに戻りますから」
彼が足早にいなくなったとき、ほっとして緊張の糸が切れた。
けれども、実際のところ、ディレルはそんなに突拍子もないことをやらせようというつもりではなかったのだが。
彼が向かったのは、クリオ=ラサの研究室だった。昼食もとらずに熱心にモニターに見入っていた彼は、若いクゥィニックが来たのを見て、ぎょっとしたような顔になった。
「もう、お帰りですか?」
「いや、まだです。ところで、生体反応板のスイッチを切っておいてもらえますか? クローディアが帰ってきたら入れてもかまいませんから」
それだけ言うと、もう用事はすんだと言わんばかりに、彼は研究室を出ていこうとし、慌てたクリオに引き止められた。
「帰ってきたらって、どこまで行かれるつもりなんです?」
「口出しは無用ですよ。あなたはクローディアの実験者というだけなんですから。スイッチが入ったままであるかどうかはわかりますが、実験体に障害が出ることは覚悟しておいてください」
あくまでも説明しようというつもりはないらしく、ディレルは脅しともとれるような言い方をしたが、これにはさすがのクリオもむっとせずにはいられなかった。
けれども、そこには多少なりとも、クローディアをそんじょそこらの実験体とおなじに扱うなんて、という私的な感情が混じっていることを、彼は否定できなかっただろう。
「待ってくださいよ。彼女は先月末にようやくリハビリが終わったばかりなんですよ。やっと実践にも乗ってきたところで、いまがいちばん大切な時期だというのに、手荒なまねをされては困ります」
「こちらも待たされたものでね」
彼の口調から、馴れ馴れしさは消えていた。しかし、その危険さに気づかないのも、クリオの、というか、生体機械研究所の閉鎖的で世情に疎い面を象徴していた。
「ロゥンが逃亡してもう半年になる。あなたがたがクローディアを実験体としてなど登録したがったから、我々はろくな手が打てなかったんだ。彼女にまともな身体は必要ない。脳さえ無事なら、彼女から情報を得る手段はいくらでもあるのだから、たとえ気がふれてようとそれでよかったのに。リハビリが済んだというのなら、あなたの役目は終わったはずだ」
「クローディアはわたしの実験体なんですよ。彼女の生体機械はここ十数年の研究の成果なんだ。わたしの役目はまだまだこれからですよ」
クリオは盛んに力説したが、ディレルが相手では空振りする一方だった。クリオ自身が公平に話しているわけではないのだから、空振りするのも当然だった。
「べつに、あなたから彼女を取り上げるつもりはない。ただ、彼女は例の事件の唯一の生存者だ。実験にさしつかえるようだったら、彼女の手足をあなたに返してでも、彼女が必要だということだ」
「彼女の替わりなんかあるものですか。冗談もいいかげんにしてください…!」
「実験体なんていくらでも作れるじゃないか。彼女にこだわる必要がどこにある? あなたは少し実験者としては私的にすぎるようだな」
「作れるって…」
クリオは、ぽかんとしてディレルを見送った。
いざとなったら、事故を装ってでも実験体を作れという意味だと気づいたころには、もう彼はクローディアを連れて出かけていったところだった。
それから6ヶ月後、実験体T49740522とクローディアの所属先は、生体機械研究所より移されることとなった。
しかし、生体機械研究所における当実験体の関係者のなかに、彼女の移転先を知っているものは一人としていなかった。それから間もなく、新しい実験体が入ったが、その関係者のなかに、クリオ=ラサの名前はなかったという。
そしてクローディアは、亜人の宿命として、やがて歴史の闇から闇へと葬りさられるのである−−−。