第二部第三章
ロゥンは立ち止まって、きょろきょろと辺りを見回した。道も目印もない荒野をよくもバードは間違わずに行けるものだ。振り返っても、もう町の灯は見えないというのに。
それにしてもなんて暗いのだろう。この暗がりがどこまでもどこまでもつづいている。彼の目は遥かかなた、表リオネスにあるエルレストレーゴまで見透かすことができるけれど、暗いことに変わりはない−−−表リオネスなんて、いつ仕入れた知識なのだろう?
空を覆っている暗黒ガスがなくならぬかぎり、夜の帳はいつまでもリオネスを覆いつづける。300万年消えなかったものが、まさかいまさら消えることはあるまい−−−まただ。ロゥンは時々、自分でも奇妙なぐらいに知っている。
けれど、そんな日が来ることはあるのだろうか? そんな日のためにバードたちは帝国から独立しようとしているのだろうか。墨をまいたように黒い空、一寸先も見えやしない。
しかしながら、“永遠の夜”とはこの闇を表現しきれる言葉ではない。夜とはいつか明ける希望があるものだ。何年、何十年先でも希望があればいい。けれども、リオネスにはそれがない。リオネスで抱く夢は、いつもかなえられる見込みのないものばかり。
そんなことを言い出したものは、リオネスの闇がいかに深く暗く、冷たいのか、いつ明けるかもわからず、もしかしたらずっとこの暗闇がつづくのかさえ知りもせず、想像もできなかったにちがいない。自分の存在が、わずかな明かりでも持ってなければ決して確かめられないこと、だれにもわかってもらえないことの恐怖を、そのものは一生知ることはないだろう。リオネスのことをわずかに聞きかじったロマンチストの戯言だ。
だからリオネス人の目は人間を、生き物を、周囲と区別して捉える。赤い塊としてでも、そこにいることを知っている。そして彼らは、人間の集まってくるところでは決して灯りを絶やさないできたのだ。その恐怖から逃れるために。
暗闇のなかで、大地は深い青に見える。冷えきっているせいだ。太陽の光をほとんど受けられず、惑星そのもののエネルギーでしか温められないからなのだ。ロゥンの目には、まったく灯りのないリオネスは、青と赤だけの世界として写る。いろいろな青、いろいろな赤、まるでそれしかないような極採色の視界。
帝国の調べでは、暗黒ガスは1パーセントほどの太陽光線を吸収しきれずにリオネスにもたらすのだという。1パーセントの恩恵、それを最大限に生かすための進化と改造。生き延びたがゆえに、なおも哀れな姿をさらけ出す惑星、リオネス。
「さっきからどうしたんだよ? 何回も立ち止まっちまって。リオネスにそんなに珍しいものもないだろうに」
バードが引き返してきて言った。もはや呆れ口調だったが、ロゥンにはどうでもいいことだ。彼には当り前のことばかりでも自分には珍しいことなのだと、いちいち説明する気にはなれなかったし、息を整えるのだなんて言おうものなら、またひ弱だと馬鹿にされるのが落ちだ−−−しかし、これは、決してロゥンがバードの無知さを蔑んでいるわけではなく、説明することもコミュニケーションの一環なのだとたんに彼が知らないだけだったのだ。なにしろロゥンときたら、文字どおり筋金入りの箱入り息子だったのだから。
彼は頭をめぐらし、少し離れた暗がりで動く集団を見つけた。立ち止まった口実にするのだ。そんなことぐらいは考えつくのだから、もう一歩進んで気を使えばいいものを、悲しいかなロゥンには思いつかない。
「あれはなんだい、バード?」
バードもそれを見て、1、2歩近づきかけたがすぐにやめた。
「なにをしているように見える?」
そう言った声は、その集団に気をつかってか小さかった。
「固まっていてわかりにくいね。3人、4人…5人…? 1人はとても冷たいよ。なにをしているの?」その声につられて、ついロゥンも囁き声になる。
「人間を食っているんだ。身内が死んじまったんだろうな。行くぞ、ロゥン。今度、あれと同じようなところを見ても、声をかけないでさっさと離れるんだぜ」
「どうして?」
「あれが弔いの儀式だから。死んだものは生きている人間に食われるんだ、あとに子孫を残すために、生きていくためにな。身内のないやつは友だちでも、なんだったら見ず知らずのやつでもいい。病気で死ぬんでなけりゃあ、だれでも食ってくれるさ。ハルミアの町みたいに、知り合い全員に食われることもあるんだけど。だれも食ってくれなくても、動物か虫がいつかは片づけちまう。でも、そんなやつはリオネス人には少ないけどな。よっぽど恨みをかってたやつとか、私刑にあったやつでもなくちゃ。そんなやつだって、友だちの1人くらいはいるもんだろうし」
「どうして、声をかけちゃいけないんだい?」
「いろいろと身内の決まりごとがあるからな。人間を食うのは神聖な儀式だから一言もしゃべっちゃいけないとか、本当は見られてもいけないとか、うるさく言われたくなかったらそうしろってことさ。現に、トラブルに巻き込まれたやつだっているんだぜ、それで死体がもうひとつ増えたら洒落にもならないんだけどよ。おまえなんかリオネスに来たばっかりなんだから、どうせなんにも知らないんだろ? 知ってたって巻き込まれるのに、おまえなんか危なっかしくって、命がいくつあったって足りないよ。いいな、近づいても声をかけても駄目なんだぜ」
「わかったよ、バード」
「でも、おまえ、あんまり驚かないんだな」
「……僕も、だれかが食べてくれるのかしら…? 弟も妹もみんな死んでしまったから…」
「そんな心配するには早いんじゃねぇの? おまえにだって、家族ができるかもしれないじゃないか。べつに友だちだっていいんだぜ、なんだったら、俺とシーラで食べてやるよ。もしも俺のほうが早かったら、そのときは頼むわ」
ロゥンは答えられずに振り返った。青い人影はもうかなり小さくなっていて、人間の形はしていなかった。もう少し見ていれば、あとかたもなく食べられてしまうのだろう。彼は急に寒気を覚えたが、薄い布一枚でも本当に寒いわけではなかった。
あれが未来だ。数百万年、リオネスでつづけられてきたことは、これからも決してやむまい。どんな人間にもかならずやってくる死の形は、リオネスではだれかに食われるということなのだ。
「どうしたい、ロゥン?」
「…君たちも、だれかを食べたの…?」
「親父とおふくろたちをな。シーラのおふくろのときは、俺とシーラだけで食べたから、しばらく食いつなげたけどな。食われるのが恐ろしいのか? 俺たちにはだれにも食われないで死んじまうことのほうがよっぽどおっかねぇんだけど」
「ちがう、食べることのほうが恐ろしいんだ……」
彼は立ち止まって両腕をつかんだ。震えているのが自分でもわかる。
「でも、そのおかげで俺たちは生きてるんだ」バードの力強い手が、ロゥンの肩を痛いくらいにつかむ。
「親父とおふくろたちが俺たちを生かしてくれている。リオネスじゃあ人間も動物もおなじようなものさ。食って食われて生きていくしかねぇんだ。だけど流刑囚はちがう、やつらには、俺たちの考えがわからない。あいつらは、リオネスに来たって、まえとおんなじように暮らせるなんて思ってる。だから、俺たちはやつらにかまわないし、死んでも放っておくんだ。昔、よほど腹をすかしたやつが、なんでもいいっていうんで食ったことがあったらしいけどな。でも、もう二度と食いたくねぇって−−−」
「僕だってわからないよ、バード! 生まれてからずっと、僕らはペレットっていう餌だけを食べさせられてきたんだ、それがなんでできているのか、僕らだけが食べさせられているのか、帝国の人間も食べているのか、そんなことは知らなかった。それは、食べろと言われればなんだって食べられるよ。うまいとかまずいとか、僕にはわからないんだから。でも、それで、どうやって君たちのことをわかれって言うの? どうやって君たちと一緒に戦えって言うのさ? 僕はリオネス人だけど、リオネス人らしいことはなにひとつわからないのに…」本当にわからないと言えるのか?
「だれかが死んだらわかるよ、ロゥン。どうして食べなくちゃいけないのか、どうして食えるのか。どうやったら戦えるのかも、行ってみりゃあわかるよ。
それに、俺たちには、おまえみたいに強い力を持ったやつが必要なんだ。さあ急ごう」
バードに促されてロゥンは歩き出した。戻ることはたやすいけれども、そんなことをしてもなんの意味もないのだ。
けれど、本当に死んだ人間を食べることは恐ろしいのだろうか?
もしも、亡くなった弟や妹たちを、ロゥンが食べるか標本にするか、どちらかを選べと言われたならば、彼はためらうことなく前者を採ったろう。だが、リオネスでの食人は、また意味がちがうような気がする。
ロゥンは、自分のなかの知識を引っぱり出した。かつてリオネスのことを知ったように、彼は自分のDNAを読むことができた。知らないはずのことを知っているのはそのせいだ。つい無意識のうちに、彼は自分のDNAを読んでいる。しかし、いつからそんな力を身につけたのか、覚えがない。
DNAには、彼の古い古い祖先の記憶も刻み込まれている。それこそ、無尽蔵の知識が詰まっている。精子と卵子の提供者という意味での両親のこともとうに知っている。しかし、知ったところでこれといった感慨もわいてはこなかったのだけれど。
食物連鎖、とでもいうのだろうか。いいや、バードは「だれにも食べられないことのほうがよほど恐ろしい」と言った。それはむしろ、精神的なものだ。
では、なぜ恐ろしいのだろう? 死んだあとのことまで心配してもしょうがないのに。多分、それだけではないのだ。人間も動物もおなじに、食べたり食べられたりして生きていくこと。そこにいったい、どんな意味があるのだろう?
バードはまた、こんなふうにも言った。「親父とおふくろが俺たちを生かしてくれている」と。そういう思いがあって、だれかに食べてほしいと願うのだろうか。
気がつくと、2人はそれから一回も休まずに歩いていた。ロゥンは自分の身体を変えていくことができた。冷たくて薄い空気にすぐに慣れたように、彼の力は彼を強くしていた。必要なように彼を変えていった。
実験体としてこの世に生み出され、まともな生活などなにひとつ送ったことがないロゥンを、その力はまたもや無意識のうちに助けている。これもまた、進化の形なのだろうか? どこまでも進化しつづける自分の姿を思って、彼はぞっとしないではいられなかったが。
「ここが…?」
やがて二人は、周囲を暗闇のなかでなお黒々とそびえる山に囲まれた、盆地の真ん中にぽつんと立つ小屋に着いた。周りには山のほかにはなにもなく、どうやら盆地の入り口も、二人の入ってきた谷間しかないらしい、行き止まりのところだ。
「この下でやっているのさ。この小屋は昔は水小屋だった。水があったころには、ここには小さな町だってあったんだぜ。水源は貴重だからな、水のあるところには必ず町ができるんだ」
「水がなくなったのかい?」
「枯れたわけじゃなくって、水が飲めなくなっちまったんだ。俺たちは泥水だって飲むけど、死ぬとわかってる水は飲めねぇよ」
「どうしてそんなことに?」
「そいつがわかればなあ。それで直せればいいんだけどなあ…」
その水は地下を浸透して、いつかほかの水源を汚染するのではないのか? そうして、すべての水源が駄目になったとき、リオネスに人間がいなくなってしまうのだろうか? それが遠い未来のことなのか、もっと近いのかは、ロゥンにはわからない。
「でも、そのおかげで、だれもこんなところには来ないんだけどな。見てのとおり、出入口はひとつしかないし、周りは山に囲まれてるだろう? 水もないのに、こんな狭いところを欲しがるやつはいないからな」
「だれが欲しがるんだい?」
「土地をか? そうだな、自分が偉いんだって思いたいやつとか、強いんだって自慢したいやつなんかが勝手に土地とか水の権利ってやつを主張したりするんだ。そういうやつは帝国かぶれなのさ。それで帝国も、そういうやつらが好きなんだと。エルレストレーゴなんて大きい町じゃあ、そんなやつばっかいるんだ。おかげでしょっちゅう争いばっかりで、まともなやつの住むところじゃないっていうのさ。まあ、俺たちの住んでるハルミアぐらいだと、せいぜいいても1人ってところかな…そいつが嫌なやつなんだけどよ」
あっけらかんとしたバードにここまで言わせるやつなのだから、よほど嫌なやつにちがいない、ということぐらいはロゥンでも想像はついた。
「ふーん…」
けれども、どう「嫌なやつ」なのかわからないので、ロゥンの返事は無関心ぽく聞こえただろう。
「まあ、それに、俺たちも、町にいるよりはずっと安全なのさ」
小屋のなかには井戸と階段があった。井戸は壊れかけていて、ずいぶん長いこと使われていないらしい。バードの言う「昔」とは、いったいいつのことなのだろうか。彼はまるで、それを見てきたかのように言うけれど、本当に知っているのだろうか。それともまた聞きなのだろうか。
「町には、ほかにもだれかいるのかい?」
「帝国のやつらがが? そりゃあいるとも。エルレストレーゴなんて行ってみな、腐れ軍人と流刑囚がうろうろしてるんだぜ。でもやつらは、臆病者ばかりだから、絶対に町を離れないんだけどよ」
「彼らは、どうして、リオネスに来るんだろう?」
「さあねぇ。連中だって、来たくて来たってわけじゃなさそうだぜ。さっさと帰りたいのに帰らせてもらえないやつばっかりだってさ。それもこれも、全部、帝国が決めてるんじゃないのかな?」
「そのための独立というわけなんだ」
「おまえ、まだそんなことを考えてたのか?」
「いま、ちょっと思いついたんだよ」
「のんびりしてらぁ…」
これには、バードも開いた口がふさがらないといったふだ。自分がそんなに変わったことをしているという意識はロゥンにはちっともなかったのだけれど。
2人は階段を下った。少し行くと階段は終わり、下り坂になっていて、水の流れる音がかすかに響いてきた。外の空気は乾ききっているのに、下るにつれて湿ってくるのも、いまでもこの下に水があるという証拠なのだろう。
けれども、ロゥンのなかで、ふと死への恐怖が重なった。だれかを食べることの恐怖が、細く暗い道を下っているときにわきあがってきたのだ。頭では理解していても、心はそう簡単にはいかない。「食べろと言われればなんでも食べられる」とは言ったものの、実際にそうできるかどうかは疑問だった。ましてや、バードの心情を理解することなど、できる日が来るのだろうか?
狭くて暗い通路は、金色の目をもってしても見分けにくく歩きにくかった。バードの赤い塊はわかっても、その周りはほとんどおなじように見える。まるで見知らぬ怪物の食道を飲み込まれていくような気がしたほどだった。
けれど、彼は立ち止まることも1人で戻ることもできず、口を開けたら、死体の肉を押し込まれそうな錯覚さえ覚えて、少し急ぎ足になって、無言でバードのあとを追っていったのだった。
前方が明るくなったと思ったら、視界がぱっと開けて、いまの通路よりはずっと広い洞窟が現われた。暗がりに慣れていただけに、ロゥンはぱちぱちと目を瞬かせて、バードにぶつかったので止まった。
「やあ、ナーク。ディオラはどこだい?」
「いつものように奥のところさ。珍しいじゃないか、あんたが新しいやつを連れてくるなんて。でも、わざわざディオラに紹介するほどのやつなのかい、バード?」
「当り前だろう。さ、行こうぜ」
不信の目を向けられつつも、バードに促されてロゥンは洞窟のなかを進んでいった。けれども、ナークと呼ばれた若者は、すぐに関心を失くしたようすで、彼らから離れていった。
道は左手に現われた地下川に沿ってつづいており、途中で2ヶ所ばかりに丸太橋がかけられて、狭くて不自由ながらも向こう岸に渡れるようになっていた。川はけっこう下のほうを流れていて、のぞいて見なければ最初は川だとわからなかったほどだ。その黒い暗い水面は、リオネスの空のように底なしに見える。自然にできた洞窟をそのまま利用しているのだろう。全体的に広いところではなく、対岸があっても不便だった。
けれども、何人かのものはここで寝泊りしているらしく、そのための用具がいくつか置いてあった。しかし、バードも含めて、大方のものはここに通っているようだった。なかは薄暗いとはいえ、照明がなされており、いままでの不便さは解消されていた。あまり臭くないのは、なにを燃料に使っているからなのだろう? ほら、そんなことまで知っている。
対岸に、十数人のリオネス人がたむろしていて、ナークも含めて、なにか議論に熱中していた。なかにはバードを誘おうとするものもいたが、ロゥンを見てやめた。切れ切れに聞こえてくるのは、帝国、リオネス、独立といった言葉だ。なかには、ときどきこちらを見るものがいる。その視線はなにを意味しているのだろう? 彼らの力はどれも弱いようだが。
地下川のざあざあと流れる音はうるさかったが、だれもかれも、その音に負けないくらいに大声でしゃべっていたので、その反響もなかなかのものだった。歩いていくうちに、ロゥンは頭がくらくらしたほどだ。おなじリオネス人なのに、彼らはテレパシーを使えないのだろうか? そういえば、バードもシーラもテレパシーを使ったようすはロゥンが知るかぎりではなかったみたいだ。
やがて、いちばん奥に横穴のようなものが見え、そのなかも薄暗く照明されているのはここからでもわかった。洞窟もここで行き止まりだった。照らされているのと狭いせいで、振り返ると洞窟の入口が見えた。
入り口には子どもが突っ立っていて、バードから用件を聞くと、すっ転びそうになりながら、奥のほうにかけこんでいった。なにをそんなに慌てているのやら。
それからバードに呼ばれるまで、ロゥンは川の流れをどこまでも追っていった。川は濁っていた。それも、バードの言う「飲めない水」と関係があるのかはわからない。
この川はいつになっても地上に出る気配はなく、なかなか終点に着かないほど長かったが、たどりつくまえにバードが彼の手を引っぱっていた。終点に着いたら、こんどは水が飲めなくなった原因を探ってみようと思っていたのに。
「何度呼ばせるんだい。ぼーっとしてるなよな」
「だって、川を見てたんだよ、バード」
「川ぁ そんなものより、こっちのほうが大事だろうが。なんのために連れてきたと思ってるんだよ、まったく…」
さっきの子どもは笑いそうになるのを懸命にこらえていたが、バードに頭をぶん殴られて、涙顔になった。
横穴の天井は低く、大柄なバードは中腰にならねばならないほどだったが、肉体的にはすべてにおいて標準以下のロゥンは、少し首をすくめれば、頭がたまに擦るくらいですんだ。ここだけは人の手がかかっていそうだ。まったくの粗い作業ではあっても。
そのいちばん奥には1人の老婆が座っていた。ロゥンは一瞬、そこにいるのが老婆ではなく、きかん気の娘がいるような錯覚を覚えたが、その謎は後々解けた。彼女が顔を上げるとやはり老婆だった。
「相変わらず騒々しいねぇ、バーディシュ」
「ディオラ!」
バードは親しげに近づいていったが、ディオラと呼んだ老婆とロゥンの間に、少なからぬ緊張が走ったことに気づかないままだった。
とっさにバリヤーを張ったロゥンは、老婆がバードの言ったとおり、とても強力なテレパシーを持っていることに気づいた。彼女はバードを通り越して自分を見ている。テレパシーの情報量は莫大なものだし、一瞬にしてたくさんの情報を伝え、読むことができる。彼がバリヤーを張るのがもう少し遅かったら、すべてをさらけ出していたにちがいない。
ディオラもそうと気づいたらしく、傍目にはわからない笑みを浮かべた。
「−−−で、こいつはロゥンていうんだけど、すごい力を持っているんだよ」
「もういいよ、バーディシュ」
「え…?」
「あとはあたしとこの子の問題だ。さあお下がり。この子の力はあたしが見るよ」
「あ、ああ…」
彼は納得しかねるようすだったが、ディオラには逆らえないこともよくわかっているようで、言われたとおりにした。さっきのナークの言葉からしても、彼女がここのリオネス人をまとめているのは間違いなかった。
そのあいだも、ロゥンのバリヤーの表面を、ディオラの鋭い針のようなテレパシーがはいまわり、わずかなすき間からでも侵入しようとしていた。たたき、探り、無言の言葉を巧みに操って、時としてすかしたり、なだめたり、脅したり、なんとかしてロゥンに扉を開けさせようとしている。バリヤーの内側で、彼は声も出せずにじっとしているしかなかった。
心のなかでは怯えていても、ロゥンの強固な守りは決して崩れなかった。
バードが行ってしばらくしてから、彼女はとうとうあきらめて、話しかけてきたのだった。なぜ彼女も、テレパシーを使わないのだろう?
「名前はなんていうんだね?」
「ロゥン。バードから聞いてないの?」
「聞いたとも。でもおまえにはまったく不似合いな名前じゃないかね、共通語のいちばん最初の文字だなんてさ。あたしのテレパシーを防いだのはおまえが初めてなんだよ」
「でも、それ以外に呼ばれたことがない。あとはC31175611で登録されてただけだから」
「じゃあ、おまえは実験体だったってわけかい?」
「そうだ。僕らは8人兄弟だったんだ。みんな死んでしまったけれど、僕のなかにいて、僕に力を貸してくれている」
「なら、わかるね。実験体ならありうることだもの、ロゥンなんて。おまえの兄弟は、あと7人いるのなら、さしずめ、ヌー、キリエ、ザルト、アディ、ルカ、ターナ、ヒューラだったんだろう?」
ロゥンは頷いた。いかにも実験体らしいという彼らの名前、いままでそれで呼びあうしかなかったなんて。けれどほかにどう呼べばよかったというのだ?
「力の使い方をだれに教わったんだい? マナスから来たっていうのなら、ミディアあたりかね?」
「だれにも教わってないよ。自分で覚えたんだ。どうすればいいのか、力が勝手に働いてくれるから、あとはそのときを覚えておけばよかった」
「そいつは、あんまり効率のいい習い方じゃあないね。
バリヤーをお外し、ロゥン。もう勝手に読みゃあしないよ」
「じゃあ、なにをするんだ?」
「あたしはね、おまえにどんな力があるのか知りたいのさ。マナスから来たなんて、それもすごいことだけれど、おまえはもっといろいろな力を持っているよ。それには、おまえのバリヤーが邪魔になるのさ」
「僕の力を知ってどうするんだ?」
「あたしはね、おまえを導いてやれるんだよ、こんなことができるのはあたしだけさ。まあ、場合によっては、入り口をちょっと示してやるだけで、あとはおまえが勝手に進んでいけるかもしれないけれど、おまえならそうできそうだけど、それだってあたしなしでは駄目なんだ。もっと力を自由自在に使いこなせるようになりたくはないのかい? バーディシュから聞いただろう、あたしらがなにをやろうとしているのかを」
ロゥンは頷いた。
つまりそれは、協力するということだ。具体的にはどんなことをさせられるのかはわからないが、それでもかまうまい。もしもバードの言うとおり、自分たちのような実験体がいなくなるのだとしたら。
彼がバリヤーを外したとたん、ディオラの強いテレパシーが彼を貫いた。
気がつくと、ロゥンは狭い箱に閉じ込められていた。ちょうど彼が入るくらいの箱、触るとざらざらした手触りで、冷たかった。
ロゥンは透かして、外にさっきディオラと間違えた娘が立っているのを見た。けれども、それはディオラだ。彼女は本当の正体を偽っているのだろうか?
この箱を造ったのは彼女だ。彼女がロゥンを閉じ込めた。
なんのために? 彼の力を知るために。おそらくはこれが彼女のやり方なのだ。
足や手がだんだん温まってくる。いや、ちがう。箱が温められているせいで、彼の、箱に直接触れている足や手が温まっているのだ。そのうちになかの空気まで温められてきて、それは上限を知らないかのように熱くなる一方だった。
ロゥンはまず箱を壊そうとした。堅固なものかと思っていたらそうでもなく、簡単に壊れて、なぜか跡形もなく消えた。だが、すぐにべつの箱が彼を包んだ。
さっきよりもさらに熱く、まだまだ熱くなりそうだった。ロゥンはこんどは箱を冷やそうとした。激しく動きまわっている分子を止めてやれば、箱はもう熱されることなく、自然に冷めるだろう。それも難しいことではなかった。
けれども、こんどの箱は壊せなかった。しょうがないので、彼は外に瞬間移動する。ディオラの隣に現われたつもりだったのに、いつの間にかずっと遠くにいた。
“あたしを捕まえてごらん”
瞬間移動しながら、逃げまわる彼女をロゥンは追いかけた。
捕まえたと思ったそのとき、ロゥンはもとの洞窟に立っていた。娘だったディオラはやはり老婆の姿で、なにがあったのか、彼にはとっさに理解できなかった。
そのディオラは小刻みに震えていた。表情にだんだん歓喜の光が宿る。彼女はなにをつかんだというのか。
不意に彼女はよろめくように走りよってきて、ロゥンの手をつかんだ。
「これからはロゥンなんて名前はおやめ」
「なぜ?」
「おまえにはもっとふさわしい名前があるよ。グラエというんだ、こんどから、グラエとお名乗り」
「グラエ…?」
「ああ、やっとあたしの望んでたものが現われた。おまえはあたしたちの力、あたしたちの武器だ!」
「僕が武器…?」
「そうだよ、おまえのような力は見たことがない。だからグラエというんだ、戦士ってことさ。グラエ・ナル・グラエ、戦士のなかの戦士ってことなんだよ! 考えてもごらんよ、そんなに強い力を持っている意味を。戦うんだ、あたしたちは帝国と戦うんだ。おまえがいればできるよ、さあ、おいで!」
「ちょっと待ってよ。いきなり言われたって困るよ」
「なにを困ることがあるんだい? 自分の力をよく見てごらん、もっと強くなるよ、おまえはもっと強くなれるんだよ。それに、いきなり戦えなんて言ってやしないだろう。みんなに紹介してやるのさ、これからは忙しくなるよ」
彼はまだ戸惑っていた。けれども、自分がもはやロゥンではないことも知っている。8人の実験体の子どもたちはもういない。彼は、とっくにロゥンと名乗るべきではなくなっていたのだ。ただ名乗るべき名がほかになかったのと、身体がロゥンのままだったというそれだけのことだった。
「僕がグラエ…」
「そうさ! いったい、ほかにどんなふさわしい名前がおまえにあるのか、あるというんなら聞きたいよ。さあ、おいで。おまえの仲間を紹介してやる。でも、先におまえのことを紹介しなくちゃならないね」
ディオラに導かれるような気持ちで、彼は横穴を出た。ほんの短い距離だったが、彼にはとても長く感じられた。彼が体験しなかったお産のような錯覚さえ覚える。これは胎道だ。赤ん坊が世に生まれてくるときに通る道だ。彼は、今日初めて生まれてくるのだ。だれの子でもない。強いてあげるとすれば、ロゥン、ヌー、キリエ、ザルト、アディ、ルカ、ターナ、ヒューラの子どもとして。彼は産声さえあげたいような気持ちで横穴を出た。
涙が一筋頬をつたう。彼は今日生まれたのだ。ディオラが彼を取り上げ、グラエと命名した。ロゥンは彼のなかにいる。やっと他の7人と一緒になれた。そして、グラエになった。
彼はディオラのしわくちゃの手をとり、ふわりと跳躍した。洞窟内のだれもが、呆気にとられている。バードさえも、当のディオラだってびっくりして言葉もない。
あれはいったいだれだ? たしかバードが連れてきた新入り−−−。
「みんなにいい知らせがあるよ」気を取り直してディオラは言葉をつづけた。
「もう、いままでみたいに話し合うだけはおしまいだ。仲間をもっと集めて、いよいよ帝国と戦うときが来たんだ」
戸惑うようなざわめき、それとこの奇妙な力の持ち主とはいったいどういう関係があるのだろう、とでも言いたげに。
「彼はグラエだよ。これからはグラエが中心になって、いろいろやっていこうじゃないか。新入りだって思ってるかもしれないけどね、彼の力はとても強いのさ」
彼らはまだ納得しかねるようだった。けれど、ディオラに異議を唱える勇気はだれひとりとして持ち合わせてはいない。バードがかろうじて口を開いた。
「具体的にはどんなことをするつもりなんだい、ディオラ?」
「仲間を募ろうじゃないか。そして、帝国中に散った仲間を呼び戻すよ。リオネスにいる軍人と流刑囚を追い出して、あたしらだけの惑星に戻そうじゃないか! 独立するときが来たんだよ、ええ?」
ディオラの掲げた手を彼はとった。一瞬遅れて、みなの頭のなかで鮮烈なイメージがひらめいた。
帝国の艦隊が爆発し、その中心にいるのがグラエ、“戦士”と呼ばれるもの。
「戦うぞ!」
「そうだ、そのために俺たちはずっと話し合ってきたんじゃないか!」
「リオネスのために!」
「帝国から独立するために!」
意気盛んに彼らは声をあげた。その中心にいるのはディオラではない、グラエだ。バードが知っているロゥンの面影はなかった。ひ弱な少年はどこにもいなかった。
「リオネス独立のために」静かな声で彼が言う。
「リオネス独立のために」そこにいるだれもが口をそろえた。
けれど彼らはいまだ知らない。強大無比の銀河帝国がいかなるものであるのか。帝国に比べて、リオネスがいかにちっぽけな星であるかを−−−。