「遙かなるリオネス」第二部第四章

第二部第四章

嫌な予感がして、シラムーンはそわそわと落ち着かなかった。ロゥンとバードがそそくさと出かけていって、もう1日は経っている。2人ともまだ帰ってはこないのだろうか。このままでは厄介なことに巻き込まれてしまいそうで、彼女は1人で気をもんでいた。
バードがエルレストレーゴなんて行く気がないことぐらい、彼女にはわかりきっている。リオネスでいちばん大きな町は、彼ら一家には嫌な思い出しかないところだ。
でも、それもこれも全部自分の力のため、亡き父が「エンパシー」と呼んだ、この役立たずの力のためなのだ。それなのに、あんなことを言ってしまうなんて。
そのときのことを思い出して、彼女は身震いした。もう忘れなくちゃいけない。いつまでも気にしていてもしょうがないと父にあれだけ言われた。けれども、そう言った父がいつまでもいちばん気に病んでいて、とうとう母より先に死んでしまったではないか。その後を追うように、父の肉もろくに食べられずに母も逝ったけれど。
彼女は、どうやったらこの力が消えるのか、いつだって知りたかった。こんな力は欲しくない。あたしはあたし、それだけでいいのに。
だから、空間を割くようにロゥンが現われたとき、彼が四肢に繋がれた鎖をいとも簡単に溶かしてみせたとき、彼女はわくわくしたものだ。彼の力は、彼女が聞いたこともないほどに強い。もしかしたら、ロゥンなら、彼女の力を消してくれるかもしれない。そんな期待を抱いたのだった。
「バーディシュ! シラムーン! いるんだったら、返事くらいしたらどうなんだ!」
戸を乱暴に叩く音に、彼女は空想を破られて、びっくりして慌てて立ち上がった。
「灯りがついているのはわかってるんだ。バーディシュは帰ったのか? シラムーンはいるんだろう?」
3部屋しかない小さなバラックは、戸を叩かれて揺れ、怒鳴る声でまた揺れるかと思われた。揺れるだけですめばいいが、もしかしたら崩れてしまうかもしれない。
シラムーンは、家のまんなかから怒鳴り返した。声が震えてはいないだろうか。そんな思いが頭をよぎる。
「そんなに怒鳴らなく聞こえるわよ。なんの用なの?」
そう言いながら、いよいよもって彼女は落ち着かなかった。嫌な予感が、最悪の形で的中してしまったよう気がした。でも、本当に恐いのは彼ではない。
「バーディシュは帰ったのか?」
声の主はソルディン=ストラッチ、ハルミアの町の支配者ぶっている強欲なひひじじい、ガストンの長男坊だ。
「いないわよ、いま出かけているの。でも、そろそろ帰ってくると思うけど」
「そいつは残念。じゃあ、せっかくだが、この招待状は1枚無駄になっちまったな」
げらげらと笑う下卑た声が聞こえた。
ガストンが年をわきまえぬひひ親父なら、ソルディンは女となれば顔と尻しか目に入らない色情狂だ。町の女は全部自分たちのものだと思い込んでいるらしく、親子そろっての嫌われ者で、しかも2人とも乱暴で腕っぷしが強いというろくでなしだった。ほかにも似たようなちんぴらを何人も抱えこんでいる。いま笑った連中がそれだ。
招待状なんてかっこつけてるけれど、どうせろくなものじゃない。それに最初からバードがいないのも見越してやってきたに決まっている。
「出てこいよ、シラムーン。招待状を受け取ってくれよな」
猫なで声。なんといってもソルディンは、かつて彼女に言いよって、バードに手ひどくぶっ飛ばされた思い出がある。あれから1年も経って、もう懲りたものだと思っていたのに、どうやら自分の勝手な思い込みだったらしい。あるいは、とっくに忘れてしまったか。
考えてみたら、1年も平穏無事にいられたのが不思議なものだが、バードの強さにはだれもが一目置いていたのである。その彼が出かけがちになったのが、ここ数ヶ月というわけだった。
出ていくのはまっぴらだ。ソルディンがとりまきを連れているのはわかりきっているのだから、彼女はきっと取り返しのつかないことになっているにちがいない。
かといって、こもりきっていれば安全かというとそうでもない。彼女がどうしても開けないとなれば、ソルディンのことだ。戸を壊してでも入ってくるにちがいない。そうなったら、どっちにしてもおなじことだ。
「なんの招待状なの? あたし、あんたからそんなものをもらう理由なんてないわ」
本当にバードが帰ってくることを期待して、シラムーンは少しでも時間を稼ごうとした。
「へっへっへ…理由のないやつなんて、このハルミアには1人もいねぇよ。ハルミアに住んでるってだけで、十分な理由になってるのさ」
自惚れたソルディンは、そんなことに気づいたようすもない。
「どういうこと…?」
「おまえだってハルミアに住んでるんだから、噂ぐらいちっとは聞いてるかと思ったけどな」
「なんの話なの?」
「昨日、とうとう親父がくたばっちまったんだ。どうか一口、肉を食ってやってくんな」
「冗談じゃないわ…!」
激しい怒りが全身を突き抜ける。抑えろ、感情を爆発させるな。彼女の力の本当に厄介なところは、相手の感情に同化してしまうことなどではないのだ。
「そんなつれないことを言うなよ、シーラ。ハルミアの町のならいじゃないか。それも町の支配者たるガストン=ストラッチが死んだんだぜ」
「シーラなんて呼ばないで! あんたなんかに言われるとぞっとするわ。それに、町のならいだろうとなんだろうと、ガストンの肉を食べるなんてまっぴら。町の支配者ですって、笑わせないでよ…!」
「相変わらず冷たいやつだなあ。おまえのおふくろとうちの親父のことは、もう10年も前の話じゃないか。当事者同士が死んじまったっていうのに、いつまでも根に持ってるなんてかわいくないぜ」
「あんたなんかにかわいいなんて言われたくないわよ、大きなお世話。それよりも、よくもそんなことがぬけぬけと言えたものね。10年も前の話ですって あたしにはつい昨日の−−−」
たった一度の体当りで、バードとシラムーンの家の扉は軽く破壊されてしまった。
ソルディンがどかどか入ってくる。獣脂ランプに照らされた、その得意げな顔に、彼女は絶対に唾を吐きかけてやろうと思っていた。
が、とつぜん2人のあいだの空間が歪み、気がつくとバードとロゥンがそこに立っていたのだった。
「へぇーっ、瞬間移動っていうのは便利なもの−−−」
「バーディシュ ど、どうしててめぇがこんなところにいるんだ!」
「ソルディン! てめぇ、あれだけ痛い目にあって、まだ懲りてねぇのか」
バードがいれば話は早い。彼はソルディンに言い訳もさせず、追っかけていって、向かいの家まで殴り飛ばした。ついでにとりまきについても1人ひとり殴り倒して、追い出した。
「これでうちの戸の弁償金はちゃらにしておいてやる! こんど来てみろ、前歯の1本や2本じゃすまないと思え!」
「ガストン=ストラッチが死んだんだぞ、肉を食ってやるのがせめてもの情けだろうが!」
ソルディンの叫び声はどこか悲鳴に近かった。とりまきにいたっては声もない。
「情けだとぉ あんなひひじじいに情けなんかいるかい! 俺たちは肉は食わねぇ、ガストンの肉なんざ、いいや、おまえらストラッチの肉なんか、たとえ死んでもお断りだっ!」
「よくも言ったな。おまえら、絶対にこのままですむと思うなよ、ハルミアの町から追い出してやるから、そう思え!」
「勝手にしろ! こんな町、こっちから出ていってやらぁ!」
シラムーンは、腰が抜けそうだった。もう大丈夫、安心だ、助かったと思ったら、急に涙まであふれてきた。
「彼に、なにかされたのかい、シーラ?」とロゥン。
「ううん、大丈夫…もうちょっと遅かったら、すごく危なかったんだけど」
危なかったのは自分じゃない、ソルディンのほうだとは言えなかった。
「あーあ、ひでぇなあ。この扉、どうやって直そうか、シーラ?」
バードの声は、何事もなかったかのように一転して呑気だ。
「バード…」
「あん…?」
「バード、このひとだれ? ロゥンじゃないわ…!」
「え…?」
彼女は後ずさった。ロゥンに似ている。けれど、ぜんぜん別人だ。バードは、いったいだれを連れ帰ってきたのか?
「すまんすまん。いま事情を説明するよ」
「いいよ、バード。僕から話す。テレパシーのほうが早いし、間違いない」
声はロゥンのようだ。が、あの頼りなさそうではかなげだった彼とは似ても似つかない。そこにいるのは、もっと自信にあふれた若者だった。ロゥンはどこへ行った?
「大丈夫、シーラ。僕は君が知っているロゥンだったんだよ。手を貸して。君の力を恐れることはないから」
流れ込んでくる情報によって、彼女はなぜロゥンが彼に変わったのかを理解した。
ロゥンならぬグラエから、ディオラを仲介としてその場にいるみなに送られたイメージは、彼らの士気を高揚させるには十分なほどだった。彼らは、同時にグラエをリーダーとして受け入れることに同意して、すべては急ピッチで動き出した。
ディオラがすでに個人的に親交を持っていた、在マナスのリオネス人リーダー、ミディアのような、強力なテレパシー能力の持ち主による、帝国を覆う中継網の作成は、リオネスから帝国内に散ったリオネス人たちの連絡網として最優先課題となった。
また、仲間も集めなければならない。中継網がその手助けとなるだろう。
けれど…。いちばん大切なことがある。それがなんであるのかは、まだグラエの胸のなかにしまわれたままだ。
バードが彼女に隠れてやっていたのかはこんなことだった。だから、彼は連れていってくれなかったのだ。
ここでも彼女の力は邪魔になる。これから人が増えるのだとしたら、余計に自分の居場所なんてないだろう。
“そんなことはないんだよ、シーラ”
やさしいテレパシー、ロゥンから伝わってきたのとおなじイメージだった。グラエとなってからも、彼はそんなに変わったわけではないのだ。ただ、自分の居場所を見つけただけ。彼女がいまだに見つけられないものを、リオネスに来て、まだ5日目の彼が見つけてしまうなんて。こんな不公平ってない。
「どうして、そんなことが言えるの…?」
彼女はテレパシーなんて、使ったことがなかった。そもそも、そんな使い方があるなんてことだって知らない。
「ディオラがいる。彼女の力なら、僕を導いてくれたように、君の力ももっといい方向に導いてくれると思うんだ」
「こんな力要らないわ…! バードから聞いてないの、あたしにこんな力があるから、あたしたちはエルレストレーゴにいられなくなったのよ。それよりもあたしの力を消してしまってよ、できるんでしょう?」
彼は首を振っただけだった。
「馬鹿なことを言うなよ、シーラ。いくらグラエだって、そんなことがほいほいとできるもんか」バードが口を添えた。
「じゃあ、そのディオラってひとでもかまわない。頼んでよ、あたしの力を消してくれるように、お願い、グラエ…!」
彼は困ったような顔でバードを見た。
「とりあえず、すぐに戻るつもりで来たんだし、行こうぜ。ディオラにもいちおう訊いてみりゃあいいよ、もしかしたら、もっとうまいこといくかもしれないし」
「嫌よ、あたしは力なんて欲しくない。消してくれないっていうなら、どうしたって、1人になるわ。あたし1人なら、なんの問題もないんだもの」
「シーラ、いいかげんにしてくれよ。おまえは考えすぎなんだ。親父だって言ってただろう? 力のことで考え込んじゃいけないって、1人で悩むのはやめろってさ」
「こんな力、ないほうがいいと思ってるくせに…! 父さんも母さんも、そのために早死にしたようなものじゃない。いちばん悩んでたのは、あたしや母さんじゃなくって、父さんじゃないの! 考え込むな、考えるな、そればっかりだわ。勝手に働く力なんだもの、どうしようもないじゃない、どうしたって考えるしかないじゃないのよ!」
「じゃあ、勝手にしろ! 俺はもう知らないからな。グラエ、こんなやつ、置いていこうぜ」
「いや、僕は残るよ。先に行っていてよ、バード」
「あ、ああ…」
わずかな手荷物をまとめて、バードは、グラエが残ると言ったことを少々不思議に思いつつも、荒々しく出ていった。もうこの家には帰らないつもりなのだろう。
その後ろ姿を見つめながら、シラムーンは子どものように地団駄を踏んで、泣きわめきたい衝動にかられた。バードはきっと折れる。そうわかっているだけに、余計そんなみっともない真似はしたくなかった。
彼の足音が遠ざかると、グラエは静かに言った。
「どうして力があっちゃいけないんだい、シーラ?」
「ここで話すのはいや、だれもいないところへ連れていってよ」
ソルディンはどうせいつものことなので野次馬もいなかったけれど、いつ、どこで、だれが耳をすましているかなんてわかったものじゃない。
「わかった」
テレポートというものは、案外味もそっけもないものだった。けれども、シラムーンはそんなこともどうでもいいくらい気が立っていた。バードにあんなふうに言われたことで、気分がむしゃくしゃしてもいた。
その光景をだれかが目撃したら、きっとただではすまないだろうに。
2人が現われたのは荒野のどまんなかで、どこからともなく、しょっぱそうな水の匂いがした。見渡すかぎり起伏はなく、町の灯も見えなかった。考えてみれば、シラムーンはシンパシーのせいでエルレストレーゴとハルミアの町以外のところはまったく知らなかった。両親もバードも、どこにも連れていってくれなかった。
「ここはどこなの…?」
ふと不安にかられて、彼女は思わず隣に立つグラエに訊いた。
「だれもいないところだよ、シーラ。ここでなら、だれにも話を聞かれないですむ」
彼の淡々とした口調からは、どんな感情も伝わってはこなかった。皮肉ではなくて、本当に彼女の望むようにしてくれたつもりなのだ。
「水の匂いがするわ…どうしてしょっぱそうな匂いがするのかしら…? 近くに水源があるの?」
「行ってみようか」
それにしても、なんて気楽にテレポートをしてのけるのだろう。彼が“グラエ”と呼ばれるようになったのも無理はない。
気がつくと、足元には静かに水が寄せては返していった。彼女が手を差し出すと、水のように冷たい水が濡らし、また離れていった。
「リオネスにこんなところがあったなんて知らなかったわ…これは川?」
「ちがうよ、シーラ。これは海さ」
「う、み…?」
「川が何十本も集まったより、もっと大きいもの。手を貸して。君の力なら、僕の目をとおして海のなかが見えると思うのだけれど」
「あたしの力…? 嫌よ、使わない。それに、海なんて見にきたのじゃないわ、あたしの力のことを話しにきたのに」
「海のなかを見たくないの? そこにも生きているものがいるんだよ、僕たちとおなじ、リオネスに生きていく仲間じゃないか」
「仲間…? あなたって、おかしなことを言うのね。あたしたち、リオネス人は動物なみってわけなの?」
「べつにおかしなことなんかじゃないだろう? リオネスじゃあ、人間も動物も食べたり食べられたりして生きていくしかないんだって、言ったのはバードだよ」
「それはあくまでバードの考え方よ…あのひとはそう言うの。でも、そうなのかもしれないわね、あたしたちなんて、しょせんそれだけの存在なんだわ…」
「そんなふうに考えちゃいけないよ、シーラ。バードは、そのために戦おうとしているんだ、いつまでもリオネス人が虐げられないために。僕らも帝国の人びととおなじ人間なのだから。
でも、リオネスに生きている生物がおなじ仲間だというのはまったく別の意味でさ。僕らは、このリオネスに生きているんじゃない、おんなじようにリオネスに生かされているんだってことなんだ」
「……あたしの力が、たとえ海のなかを見るためだけでも、役に立つなんて思わなかったわ。これはすごい発見よ、グラエ」
ロゥンと呼び慣れてもいなかったのだから、べつにグラエに変わったところでそう問題もないはずなのに、シラムーンはなんとなくおかしいような気がしてならなかった。
「そんなことないさ。君は、自分の力を卑下する必要なんかちっともないんだ。力を失くすのは簡単だけど、もっと力について学んでからでも遅くはないんじゃないのかな?」
「あなたは、あたしがなにをしたのか、知らないからそんなことが言えるのよ…!
エルレストレーゴにいたころのことよ…あたしは7つで、バードは10だったわ……」
シラムーンは、当時を思い出すかのような遠い目をして、グラエの肩に頭をもたれさせた。
「あたしが自分の力に気づいたころは、なんにも知らない子どもで、おもしろがってたのよ…あたしはね、ひとの心を左右できるの、自分の思うような感情で操れるのよ……だから、さっきあなたとバードが帰ってきたときだって、ほんとに危なかったのはソルディンで、あたしじゃなかったのよ…」
「ソルディン…? ああ、彼のことかい?」
「そう…あたしは、彼を殺すことだってできた、それもだれにもわからないように…! 現にあたしはなんの関係もないひとを殺すところだったわ!
最初のうちは悪戯のつもりだったの、とつぜん笑わせたり、怒らせてみたり、遊ぶ相手もいなかったから、そんなことばっかりやってた……でも、やっぱりわかるのね。父さんに見つかっちゃって、すごく怒られたわ。そんなことするものじゃないって、母さんには黙っているから、二度とそんなことをするなって言われたわ。そのときに気づいていればよかったの、自分の力が制御できないこともあるんだって、そうすれば、あたし、もうだれにも近づかなかったのに…!」
「そんなことはできないだろう、シーラ。リオネスで一人で暮らしていくのは無理だって、最初に言ったのは君だよ。ずっと一人きりでいるなんてことはできないんだろう?」
「あなたって、本当のことしか言わないのね…」
そう言って、彼女はわずかに微笑んだ。けれどもシラムーンは、どうしても話してしまいたいらしかった。
「……それから間もなくよ、あたしたち一家がエルレストレーゴにいられなくなったのは…」
そのときのことをまざまざと思い出し、彼女はまた身震いしたのだった。
エルレストレーゴで、ちんぴらの争いなど珍しいものではない。むしろ日常茶飯事のことで、シラムーンもわざわざ気にすることもなかった。また、いつものことであるだけに、死者が出ることも稀であった。
しかし、そうした小競り合いの怨恨は消えることなく降り積もっていつか爆発するものだ。まだ7歳のシラムーンがそのいざこざに巻き込まれたのは、彼女にとっても、その場に居合わせた人びとにとっても、不運以外のなにものでもない。
いつものようにちんぴら同士が、どうでもいいことでいがみ合いを始めるのを、彼女はとくに気に留めることもなく通りすぎようとした。
あんな馬鹿なこともない。ぶつかったのぶつかられたの、睨んだの馬鹿にしたの、どうでもいいことで彼らは始終争ってばかりいる。
きっとあいつらは喧嘩をするのが好きなんだわ、ほかにすることもないみたいだし、あんな喧嘩だって、いつも適当なところでやめちゃうくせに。彼女はそんなふうに考えたのだった。
しかし、いつもならすぐに終わっているはずの喧嘩はいつまで経っても終わらなかった。そればかりではない。徐々に人数が互いに増えてきて、どんどん拡大していった。
彼女は逃げようとした。巻き込まれることを恐れたのではなく、心のなかに、彼女の意志とはまったく関係のない怒りや殺意、憎悪といった感情が湧いてきて、かつて父に禁じられたひとの心を操る力と結びついてよからぬことをしでかしそうな予感がしたのだ。
彼女の背後で怒号が激しくなっていく。互いに罵りあう声が、その場の無関係な人びとにもこれはただの小競り合いではないのかもしれないと思わせずにはいられなかった。
そして彼らがとばっちりを受けないように逃げはじめたころ、勢いあまって、ついに死者が出た。
名前も知らないほんとうに下っ端のちんぴらは、自分の死がきっかけとなって、エルレストレーゴに後々まで語り継がれるような事件が起きたとは、夢にも思わなかっただろう。
(だめよ、だめ…! まって、あたしがいなくなるまでまって、このままじゃ、あたしどうなるかわからない、あたし、みんなをめちゃめちゃにしてしまいそう…)
シラムーンは走り出したのだけれども、それよりも早く全面的な対決が始まり、剣や棍棒、ナイフといった武器による殺し合いにあっという間に発展していったのだった。
彼女を怒涛の勢いで怒声が包んだ。
怒り、憎しみ、殺意、恨み、そうした感情が彼女の意志を押し流していく。
(だめ、だめぇ)
こらえる間もなかった。
けれども、そのあとのことをシラムーンはぼんやりとしか覚えていないのだ。
怒りにまかせて、諸々の感情を解放してしまったことや、逃げまどう人びとをその力で捕まえて、戦いを始めさせてしまったことぐらいしか−−−。
「……めちゃめちゃな気分で笑っているあたしを見つけて、家に連れて帰ってくれたのはバードだったわ…みんな、もうなにがなんだかわからなくて、とつぜん自分じゃなくなってしまったことしか覚えていないんだって、あとで聞いた……死人が出なかったのが不思議なくらいよ、あんなに酷かったのに。でも、だれもあたしの仕業だなんて思わなかったみたいね…あたしの力のことは、それまでは父さんしか知らなかったのだもの……それで、母さんはすっかり病気になっちゃったわ、心の病っていうやつなんだって。あたしがそんな力を持っていたからってこともあるんだけど、ずっと母さんに内緒にしてたってことですごく傷ついたんですって。だから、あたしたちはエルレストレーゴにいられなくなったの、いつ、あたしの仕業だなんてわかるかもしれないし、そうなったら、町の人だって黙ってはいないだろうからって…それで、ハルミアに来たのよ、ここなら裏リオネスだから、小競り合いもないだろうって……」
シラムーンは大きなため息をついた。いままでずっとひた隠しにしてきたことを一気に話してしまったので、少し疲れたようだった。そんな彼女に、グラエはさっきから変わることなく、黙って聞いている。だから彼女も、こんなことが話せたのかもしれない。
「…あとで聞いたら、エルレストレーゴでは、ずっとあとまで語りつがれるような大事件になったんだって、だって、なんにも関係ないひとまで殴りあったりしちゃったんだものね。それも数十人がよ。でも、みんな口をそろえて言うんだそうよ、あれは絶対に自分の意志とは無関係なところで行われたことなんだって、そんなつもりもないのに、だれかに操られたにちがいないって…そうよね、そうさせたあたしは、全然無傷でいるんだもの、あたしがその場にいなければ、いいえ、あたしがこんな力を持っていなければ、こんなことにはならなかったのよ…!」
「……ディオラは、きっと君の力を消してはくれないと思う。彼女は一人でも多くの力を持ったものを欲しがっている、君の力は、僕の目を使うだけでなく、もっといろいろなことができるはずだから」
「嫌よ、こんな力でなにができるとかなんて聞きたくないわ。消してもらえないなら、始めからそんなところには行かない、あたしは一人で十分よ」
「ディオラだけじゃない、僕も君の力を借りたいんだ、シーラ」
「あなたが…? それだけの力を持っているあなたが、どうして、あたしの力なんて欲しがる理由があるの?」
「君のような力は僕にはない。君の力は、もしかしたら、たくさんのリオネス人の力をまとめることができるかもしれない。僕の力はたしかに強いよ。でも、一人でできることには限界があるし、僕ほどの力を持ったものが、もう1人現われるとは思えないんだ」
「そんなこと、探してみなけりゃわからないじゃない、あなただけなんてこと−−−」
「いるはずがないよ、シーラ。僕の力は、ロゥンたち8人があわさって生まれたものだから、僕1人の力じゃないんだ。それも、ロゥンたちはもともと2人だったのを分けられて、それで僕になったのに、おなじことができるひとはいないだろう?」
「……怖いのよ、グラエ…! あたし、またなにかをやらかすんじゃないかと思って、そうなったら、今度こそ取り返しがつかないことになってしまうんじゃないかと思って、それが怖いの!」
彼女は、ここで初めてグラエの顔をまともに見た。彼の表情は、なにもかもを打ち明けてしまうまえとくらべても、やはりあまり変わったようには見えなかった。
「僕が君を守るよ。君の力が不用意に働かないように、君が自分で制御する方法を覚えられるまで、君を守ることができるよ。だから心配しないで。
それに、君はまだ救われるんだよ、シーラ。君はだれかを殺したわけでも、殺させたわけでもないんだからね。君には、自分の力でやり直す機会があるんだ。たしかに、考えなくちゃいけないことなんだろう、でも、まだ大丈夫なんだよ」
そうだ。実験体だったグラエは、7人もの実験者を殺して逃げてきたのだ。けれどそれは、本当に咎められるべき罪なのだろうか? 彼をそこまで追い詰めたのはだれだ? 殺された7人の実験者とやらではなかったのか。
「グラエ……わかったわ、あなたの言葉を信じる。一緒に行って、あなたを手伝うわ。あたしも、あなたやバードと一緒に戦ってみる」
「ありがとう。じゃあ、行こうか。きっとバードが心配している」
「待って。せっかく来たんだもの、海を見てみたいわ、ねぇ、いいでしょう?」
「ああ、いいよ」
彼女のわがままを彼はあっさりと聞き入れてくれたけれども、グラエは決して笑おうとはしない。かといって、彼が冷たいという感じも受けないシラムーンは、なにか奇妙な気持ちで海のなかを見入っていた。
それは、彼女にはおよそ想像もつかない世界であったにもかかわらず、後々彼女はそのことをだれかに話せるほど覚えてはいなかったのである。というのも、グラエのことばかりが気になっていたからなのだった。
それから、グラエのテレポートによって、2人はディオラやバードがいる洞窟まで飛んだが、そこにいるだれもが、彼の力に驚嘆しているのは手にとるようにわかった。昨日、バードに連れられてきたばかりなのに、という妬みももちろんあったが、彼にかなわないのはわかりきっているようだ。
しかし、彼が約束したとおり、人びとのさまざまな思いがもはやシラムーンを悩ませることはなく、彼女はすんなりとディオラに紹介されたのだった。
バードは、いつもと変わることなく、妹を迎えた。後に引かないのは彼のいいところだ。彼女がグラエに連れられてやってきたということで、彼を信頼しているのもわかった。
「俺の妹のシラムーンだ。俺たち、ハルミアにいられなくなっちまったもので、今日からこっちに連れてくることにしたんだよ」
「はじめまして、ディオラ」
「どうして、いままで連れてこなかったんだい?」
「それは、いろいろと複雑な事情があってだなあ…」
「おまえらしくもない、煮え切らない言い方だね」
「それはバードのせいじゃないわ。でも、あたしから説明するよりも、あなたが読んでくれたほうが早いと思うのだけど」
そんなことが言えるようになったのも、グラエのおかげかもしれない。話してしまったことで、少しだけ気が楽になったような気もする。
「そうかい。でも、おまえにはグラエのバリヤーがついているよ。まずそれを外してもらわなくちゃね」
「そんなこともわかるの?」
「あたしのテレパシーを通さないバリヤーなんて、そうそうあるものじゃないからね。まあ、テレパシーで読めば、そんなものがついている理由も簡単にわかるってものさ」
外したのも読まれたのもまたバリヤーがつけられたのも、ほんの一瞬のことだった。ただ、気がつくと、妹を紹介するという役目を終えたバードはいなくなっていたぐらいのことで、物知り顔をしたディオラで、そうとわかったようなものだった。
ディオラの薄い灰色の目が、シラムーンを上から下までじっくりと見回した。グラエに守られているはずなのに、まるで自分が無防備な気がして、彼女は落ち着かない気分だった。
ディオラとの接触で、少しだけ彼女のことを知ったシラムーンは、彼女がマナスにまで届く強力なテレパシーを持っているのがわかっていたので、そんなふうに感じたのかもしれないが、それとこれとはまったくの別問題だった。
「どうだね、グラエ。この娘をあたしに預けてみないかい?」
「どうするんだい?」
「少し力を育ててみようかと思ってね。たしかに、おまえの言うようにこんな力はあたしたちにはない。制御の方法を覚えるだけでももっと使い出があると思うんだけどね、いろいろと教えてやってみたいのさ、シラムーンの力は、おまえよりもあたしに近いものじゃないかと思うしね」
「僕はかまわないけれど、シーラは?」
「やってみるわ。そのために来たんだもの」
「バリヤーは外しておいき、あとはあたしが引き受けてやろう」
「わかった」
グラエが振り返りもせずに、ディオラの横穴を出ていってしまうのを、シラムーンは心細く見送った。あそこでちょっとだけでも振り返ったり、微笑みかけてくれるだけでもいいというのに、彼はそんなことは考えてもみない。だいたい、彼が微笑むなんてこと、ありえるものだろうか?
「いまはまだ駄目だよ」
ちょっといたずらっぽくディオラが言った。
「なんの話?」
「わかっているんだろう? まるで親から引き離された子どもみたいじゃないか。でもね、グラエはおまえだけのものにしちゃいけないんだよ、いまがいちばん大切なときなんだからね」
「わかってるわ…あたしが力をつければいいんでしょう? そうすれば、だれも文句が言えなくなるわ。それまではなにも言わないし、しないようにする」
「そうとも言い切れないんだけれどね、グラエにそういう自覚がないだけに余計おまえのほうにこらえてもらわなくちゃいけないよ。きっと、おまえにもそのときになったらわかるよ。さあ、手をお貸し。おまえには少し辛いことになるかもしれないけど、これを乗り越えてもらわなくちゃね」
シラムーンは息を呑んで、おそるおそる言われたとおりにした。
彼女の身を裂かれるような悲鳴は、ディオラのバリヤーに阻まれて、ただ一人、グラエにしか届かなかった。
彼がはっとして振り返ったのを見て、ナークが声をかけた。
「グラエ、なにか…?」
「いや、なんでもない……君たちも始めようか。
まずは、自分のなかの力を意識することだ。リオネス人の力は決して特別なものじゃない、この星で暮らしていくために与えられた必要な力なんだということを、一人ひとりが自覚するんだ」
彼を中心に10人のリオネス人が輪になった。そのなかにはむろん、バードも混じっている。彼ら一人ひとりの力は強いものではないし、ほとんどが力の自覚もない。
けれども、グラエは知っていたのだ。リオネスが強大無比の銀河帝国と戦うには、リオネス人が持つ超常能力に頼るしかないことを。そのための第一歩は、各々の力の開発と覚醒を促すことだ。表面に現われている力と、潜在能力とはおうおうにして違うものなのだから。
かつて、銀河帝国に反抗して立ち、成功したものはない。また、帝国に攻められて、併合を迫られ、一度なりともこれを追い返した惑星もひとつもない。
それでもリオネスは戦わなければならない。自らの自由を勝ち取るために。前例がないというのなら、リオネスがなればいいことだ。
一度くらいは帝国に打診してみてもいいだろう。銀河帝国皇帝グロシェン=インパールに、直接リオネスの独立を訴えることもできるかもしれない。
しかし、そんなことがすんなり受け入れられるとは思えなかった。かつて実験体であったからこそ、グラエは知っている。マナス黒人に代表されるような帝国人が、リオネスについてどう考えているのかを。クローディア=ジャレスやレッセ=フェールは、決して特殊な考えの持ち主ではないのだ。
「あのときは、みんなにその気になってもらうためにあんなことをしたけれど、本当のところはわからないよ、ディオラ。どう考えたって、勝ち目のある戦いじゃないんだ。あなたはそれでもいいの?」
「あたしらにも意地ってものがあるからね。いつまでも帝国に足蹴にされてさ、それで黙ってることなんてできるものかね。戦うんだよ、あたしらの意地を見せてやろうじゃないか。きっとだれかが継いでくれる。何年経とうと、何十年経とうと、きっと継いでくれるやつがいるさ。このまんまじゃ終わらないよ。いくら帝国だって、いつかは認めなくちゃならなくなるだろう。これはその手始めさ、あたしはそれでいいんだよ。
おまえこそ、そんなものでいいのかい? あたしらは、たんにおまえを利用しようとしているのかもしれないんだよ」
「…自分の力で帝国を相手にどこまでやれるのか、試してみたいんだ。それに、あなたが僕を“グラエ”と呼んだんだよ。僕は戦うよ、それでいいじゃないか」
「おまえも馬鹿だねぇ、バーディシュやシラムーンに言ったように、一人でどこかでこっそりと暮らしていればよかったのにさ、こんなことに自分から飛び込んでくるなんて」
「僕がロゥンなら、きっとそうしていたよ。でも、僕はグラエだから、もうロゥンではいられないから、戦うしかないんだ……ただ、あなたやみんなを、勝ち目のないとわかっている戦いに巻き込むのは気が進まないんだけれどね」
「グラエの名にこだわることはないんだよ、重荷だと思ったら、いつでもやめちまえばいいのにさ」
「気弱になることはないよ、ディオラ。僕はグラエなんだ。この力だけじゃなくて、それが僕のほんとうの姿だからだと思うんだよ」
ディオラと交した短い会話を、いつかみなに打ち明けなければなるまい。
けれども、そのほかにも、彼の胸のなかだけに秘していることは少なくなかった。
が、いまは戦うことだけを考えていてくれればいい。リオネスの独立を夢見ていてくれればいい。
戦いはまだ始められたばかりなのだ。どう転ぶかなんてわかったものじゃない。
後に、銀河帝国をゆるがすことになるリオネスの独立反乱は、このときに始められた。
初期のメンバーは13名だったが、グラエ、ディオラ、シラムーン=ボーヴァ、バーディシュ=ボーヴァ以外の名は、帝国の記録には残っていない−−−。
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