「遙かなるリオネス」第二部第五章

第二部第五章

バードは、懸命にグラエを追った。かろうじて視界に入る彼は、赤く輝いて矢のように鋭く飛んでいた−−−しかし、リオネスでは弓矢ほど使われない武器はないし、使われるときは暗殺と用途は決まっているのだが。それにしても、いったいどれくらいの速さで飛んでいるのだろう。徒歩のほかに移動手段といえば、彼は三本角の甲虫しか知らないが、あれは歩く速さの倍くらいの速度しか出せない、本来は荷役用の虫である。
しかし、いまは下の光景がすごい勢いで後方に去っていくところだ。飛ぶようにとは、本当にこういうことを言うのだろう。
だれかの力を借りてでも、自分が空を飛べるようになるなんて、バードは想像したこともなかったが、そもそも、空を飛んでみたいなんて思っていたわけでもない。ただ黒く、暗いだけの空、彼らの金色の眼をもってしても見透かせない空に、言いようのない恐怖感を抱くものは彼だけではないのだった。
つまり、空を飛んでいるのはバードの力ではないのだ。だから、いくら彼ががんばっても、これ以上速く飛ぶのは難しいのである。いまだって十分速いと思うのだけれど、グラエは満足していないらしい。
いきなりバードは失速した。青い大地がぐんぐん迫ってきて、ぶつかる寸前に受け止められた。彼を包んでいたバリヤーは消え、凍りつくように冷たい風が、痛いばかりに肌を刺す。
同時に、グラエがテレポートして帰ってきた。バードを受け止めたのは彼だ。本当は、それでは駄目なのだったけれども。
「どうだい、ちょっとは上達したのかい? 俺にはもう十分な気がするけれど」
「シリルに話すよ。ともかく戻ろう」
そう言うや否や、彼はもうテレポートをしていた。
ロゥンがグラエとなってから、早くも6ヶ月が経っていた。
つてや噂による仲間集めは少しずつ進められており、そのなかには、グラエほどとはいかないまでも、即戦力になりそうな、とくにサイコキネシスやクレヤボヤンスといった力を持ったものは少なくない。もちろん、力の強弱は個々にあるわけなのだが、なかでも、シリルという少年は、まだ14歳なのにけっこう強いサイコキネシスを持っていた。
けれど、ここに来るまでは、かつてのシラムーンのように、無意識のうちに力が暴走することが多く、家族のなかでも持て余されていたのだった。
そのシラムーンは、ディオラの訓練を受けて、いまではすっかり若手の指導や育成の係にまわっている。彼女のシンパシーには、ディオラが言ったとおり、もっといろいろな使い道があったのだ。たとえば、他人の潜在的な能力を引き出す、触媒としてである。おかげで、新しい同志が来るたびに彼女はひっぱりだこで、ゆっくり休む暇もないとぼやくこともしばしばだ。けれども、こんなふうにだれかに頼りにされることが、かなり彼女が変えたのは間違いない。
いまでは、自分の力にいつも怯えていたシラムーンはどこにもいない。バードは、こんなことなら、もっと早くに連れてきてやればよかったと思うことがあるほどだ。
そういうわけで、バードの飛行は、シリルの訓練のためだった。グラエ直々の訓練ということは、彼がそれだけシリルに期待をかけていることかというと、案外そうでもなかったりするのだが、こんなことは本人も周囲も知らない。
また、ディオラを中心としたテレパシー中継網はほぼ完成していたが、これはマナスとシウェナ、それも首都のアムールと、やはりシウェナの首都のドーリア以外にリオネス人街がなかったために、予定よりもずっと早かった。
リオネスから出ていくリオネス人は、非合法によるしか方法がないのだが、その密航できる船とは、シウェナ経由マナス行きしかなかったのである。そしてそれぞれの首都から各地に散るには交通手段もなく、人数もそうしなければならないほど多くはなかった。
そのほかの惑星や、マナスとシウェナの首都以外の都市にもリオネス人はいないことはなかったのだろうが、数えるほどもないと、ディオラは最初から度外視していたのだった。
ディオラは、マナスとシウェナのリオネス人を外リオネス人、リオネスのものを内リオネス人と呼んだ。外リオネス人同士を区別するために、マナス系外リオネス人やシウェナ系外リオネス人と呼ぶこともあった。おそらくは、自分たちはずっとリオネスに残ったのだという自負がそうさせるのだろう。そうした考えは、少なからぬものが持っている。リオネスでの苦しい生活は、大半が惑星を覆う暗黒ガスのためだと彼らは信じており、それがないだけでも、リオネスの外はいいだろうというのである。リオネスの外での差別がどれほどのものか、彼らはほとんど知らないということもあった。
しかしバードとしては、そのことが後々不和の種にならなければいいと思うのみだ。おなじリオネス人で内も外もないだろうし、第一、いがみ合うなんてばかばかしいというのが彼の考え方なのだが、賛同するものはグラエのほかにはごく少数でしかなかった。
バードの周囲に、リオネスを出ていこうとするようなものもいなかったので、余計にそう思うのかもしれないし、グラエにいたっては内外を意識するほどリオネスに慣れていないためもあったろう。大体、シリルのことでわかるように、彼はいたって他人に無頓着、というか無関心なところがあって、いつまでたっても顔も名前も覚えてもらえないというものも珍しくないのだ。
2人が戻ると、シリルは肩で息をしているような状態だった。なかなかの負けず嫌いで、ディオラの評価は高い。しかし、彼の自信はグラエに会ってからはつぶれたきりだ。彼がどんなことをやってみせても、グラエがそれを圧倒的に上回っているのだから、シリルがそのままやる気をなくさなかっただけでもよしとするべきだろう。
「失速したのは力不足?」
「距離が届かなくって…」
力を出しきって、シリルはそれだけ答えるのがやっとのようだった。
「距離を意識しちゃ駄目だ。バードのことだけを考えろと言ったろう? 力を使うのに、距離なんて関係ない。僕だけを追いかけていればいいんだよ、シリル。距離があるかぎり、君にはテレポートは習得できないよ」
「あのっ、もう1回…」
「それは無理だよ。いまの君では石ころも飛ばせない。それに、無理をしてもいいことはないから。
マーシィ、シリルに十分な食事と休息をとらせて。最低8時間は休むんだ、いいね?」
「…はい……」
グラエの口調はいつもそう変わらないはずなのだが、時として有無を言わせないかのように聞こえる。それは彼が余計なことを言わないからかもしれない。それに、だれに対してもおなじ言い方なので、みんなそんなものだと思っているようだ。
マーシィに指示を与えると、彼はその場からテレポートしていなくなった。その力は計り知れない。シリルには最低8時間休めと言っておきながら、彼の行動ぶりは常識を超えている。
グラエの力を身にしみて感じているシリルは、いくら悔しがってもしょうがないので、彼にだけはぜったいに逆らわない。
一方、シリルの姉のマーシィは、さっさと行動に移っていた。弟に比べて大した力を持っているわけではないが、料理の腕前には定評があり、はきはきした性格も受けて、家事担当の責任者扱いをされることもある−−−しかし、リオネスで料理なんていっても、どうせたかが知れているが。その彼女は今年で15歳、憧れのひとであるグラエが、まさか自分の弟より年下だなんて想像したこともない。
いいや、彼女だけではない。ディオラとバード、それにシラムーンのほかに、グラエの本当の年齢どころか、彼がかつて実験体だったことを知るものさえいない。
ひとつには、ディオラが秘したがったためだ。“戦士”と呼ばれるほどのものが実験体だったなんて、どう考えてもそぐわないし、第一士気に影響するというのが彼女の主張である。
また、グラエ自身がわざわざ自分のことを語らないという理由もある。なんといっても、彼はいちばん忙しい身だったし、そんなことが必要だとは思っていないからだ。
事実、そのとおりだった。だれも彼の過去など気にしていないし、聞いてみたがりもしない。それ以前に、みながみな、彼が最初から“グラエ”だったと信じているのだ。少しは事情を知っているはずのバードやシラムーンだって、たいていはころっと忘れていることのほうが多い。いいや、思い出すほうが少ないくらいだった。
気がつくと、最初は13人しかいなかったのに、50人以上の大所帯になっていた。
いまや、立派に革命軍とでも名乗れるほどだと言うものもいたが、まだ早いとディオラに一蹴された。彼女は、最初からここにいるだけにいちばん慎重だった。若いもののなかには、ディオラを臆病だと誹るものもいたが、グラエの御意見番たる彼女に、面と向かってそんなことが言えるはずもなかった。準備が整わないうちに帝国に知られることを、彼女はなによりも恐れており、それはグラエも同感だったのだ。
しかし、100人を超えたらいよいよだとか、1000人を超えなければ駄目だとか、みんな勝手なことを言っている。いまから緊迫感を抱いたとしても、なにしろ戦いには不慣れなものばかりだ。どうせ緊張感が持続することもできないんだからと、そのことについては目をつぶられているというわけである。
それで、いままでの洞窟では手狭だし、水源の確保という問題もある。少人数ではやりくりできたことも、多人数だとそうもいかなくなるものだということは、さすがのディオラにも考えがまわらなかった。しかも、その問題は、これから先、大きくなっていく一方なのだ。逆に大きくなってくれなければ困るということもある。
それを解決したのもやっぱりグラエだった。彼は、洞窟の入り口にある小屋の周りにバラックを増築し、水は煮沸消毒すれば大丈夫だと教えたのである。
けれど、彼はごく一部のものには、どちらも根本的な解決にはならないだろうとも言っていた。というのも、この土地は狭く、100人を超えたら、きっとバラックを建てるところがなくなってしまうだろうし、水がなぜ致死性になるのか、その原因を突き止めていないからだった。土地はともかく、水のことは、リオネスで暮らすものには生死を賭けた大問題のはずなのに、いろいろなことが山積みになっているのと、とりあえずの危機は回避できたのとで、先送りにされていた。
もともと入り口がひとつしかない窪地には、人が住んでいようがいなかろうが、だれも関心を寄せることはないし、目立ちもしない。いつの間にか、消えたはずの町が、だれにも知られないうちに、そこに蘇っていたのであった。
元の洞窟には、グラエとディオラしかいないことも、いまでは珍しくなくなっていた。おなじように暗いところではあっても、狭い地下より解放感のある地上のほうがみんなはいいらしい。いちばん古いメンバーだって、この2人以外はみんな地上に住んでいるほどだ。
けれど、ディオラはずっと自分の居場所にしてきた横穴から動きたがらず、グラエは一人でいるのを好んでいたので、結果としてそうならざるを得なかったのだった。
一人で洞窟に戻ると、グラエはいつものように精神体だけを飛ばした。その方法を教えてくれたのはディオラである。このやりかたで、彼女は月に何度もマナスやシウェナに行っていて、テレポートするよりもずっと楽なはずだと言う。
彼はちっともテレポートを大変だと思ってはいなかったので、彼女の意見に同意できなかったが、それでも、精神体だけでもかまわないときは決まってそうするようになった。精神体であるだけに、音が聞けなくなるという欠点はあったものの、テレパシーが使えるのだから、あまり不自由はしなかった。ついでにいえば、超能力の持ち主でなければ、見つからないという利点もある。つまり、リオネス人以外にはほとんどわからないということだ。
覚え始めたばかりのころは、自分の実体がないのが不安で、どこかへふわふわと流されていってしまいそうな気がした。けれども、彼はじきにそんなためらいからは解放されていた。力を使うことはグラエにとって第二の本能と化していたのだ。実験体として肉体的に抑圧されてきた彼の足りない部分を、力は補おうとしているのかもしれない。
ディオラがテレポートを大変だろうという理由のひとつには、リオネスとマナスが10光年も離れているという事実があるのだろう。それに、彼女はテレポートが使えない。しかし、かつてアムールの公園もリオネスもおなじように遠かったころ、それは精神的なものであった。そして、マナスからリオネスへ一気にテレポートしてのけたことで、彼は超能力を使うにあたっては、精神的な距離というのが、実は大切なのだと知ったのである。
やれと言われれば、彼はいますぐにでも、マナスへ行って帰ってこれるだろう。ただ、その必要はないだけのことなのだった。
しかし、いまのところテレポートができるのはグラエだけで、そのためにも、もっとも有望なシリルを育てて、テレポートができるようにしなければならなかった−−−彼がシリルを訓練することが多いのは、ひとえにこのためなのだ。テレポートできるものが2人になるだけでも、ずいぶんと行動範囲が拡がってくるものだと彼はよくわかっていた。
今日は彼はエルレストレーゴに行った。最近、行く機会が増え、いまでは町のだいたいの形もつかんでいる。しかし、実際に行ったことは一度もなかった。リオネス人以外のものに自分の存在を知られたくなかったからだ。帝国はきっと、手配書をとっくに全土にまわしているにちがいない。なんといっても、彼は7人の帝国市民を殺した実験体なのだ。それに、いまはまだ、余計なことを勘繰られたくはなかった。
彼の目標は宇宙港と帝国軍の建物だ。宇宙港はリオネスと外の世界をつなぐ唯一のところである。ここを制圧するか否かで、最初の情勢は変わってくるにちがいない。
たとえ“戦士”と呼ばれていようと、実際に彼は戦ったことは一度もなかったし、それはディオラやバード、シラムーンだけでなく、ほとんどの仲間も同様なのだから。
フェール=リオネス研究室の爆破は、ほんとうに突発的なものだった。もう一度おなじことができるかと言われたら、彼は自信がなかったろう。なによりも、たとえ帝国人であったとしても、だれかを殺さなければならなくなることを、グラエは恐れていたのだ。
帝国軍の宿舎は、リオネスでは最大の攻撃目標だが、ここを制圧して、まず帝国軍と流刑囚をリオネスから追い出して、その際、マナスとシウェナから帰ってきた外リオネス人たちの使った船で送り返すことまではだいたい決まっていたが、問題はその後だった。帝国がどう動くか、彼にはまだ予想がつけられなかったのである。
グラエは、宿舎の見取図を描けるくらいだったが、洞窟の壁に、無造作に描かれた地図が、まさかそれだとはだれも思っていないようだ。しかし、まだ時期ではない。マナスとシウェナのリオネス人の帰還問題も片づいていないうちから、行動を起こすわけにはいかない。
ディオラが言うところの外リオネス人たちは、マナスであれシウェナであれ、そこを離れてリオネスに帰ってくることにまだ完全に同意してはいなかった。
グラエは、彼らが戦力となることを期待しているわけではなく、リオネスで反帝国ののろしが上がれば、彼らは真っ先に帝国の攻撃を受けるだろうと思ったのである。そのとき、彼らの安全を守ることは、彼にはできないのだから、せめてリオネスにいてほしいと考えていた。
だが、出ていくのも大変ならば、帰ってくるのはもっと大変である。しかも、彼らには彼らなりに、苦労してアムールやドーリアに根づいたという思いもあって、そこを捨ててまで、暗黒の惑星リオネスに帰っては来たがらないのだった。
そんな外リオネス人たちの心情を、勝手だと考えるのはなにもディオラばかりではなかったが、一方的に彼らを責めることもできないグラエは、ずっと根気強く説得してきていたし、同意したものにも一人でも多く説得してくれるように頼んでもいた。
最初の問題はどうやって帰ってくるかだったが、宇宙船をひとつ分捕るというところで話は落ち着いていた。グラエが助ければ、そんなことは朝飯前だ。
そして、いきなり彼は、エルレストレーゴからアムールのリオネス人街へ飛んだ。シリルにはテレポートよりも先に、精神体を飛ばす方法を教えておいたほうがいいかもしれない。いいや、これはシリルばかりではなく、テレパシーを使える、多くのものが覚えられるはずなのだが、いまは外リオネス人のほうが優先問題だった。
グラエを迎えたミディアの表情は決して明るいものではなかった。彼女は今年で43歳、リオネスではとっくに死んでいてもおかしくない年だが、4世代まえからマナスで暮らしているせいか、寿命が伸びたのだという。彼女とディオラが同年代だなんて、いったいだれが信じるものだろう。
リオネスで暮らす人間は、帝国人に限らず早死にだし、早く老いを迎える。
“そのようすじゃ、あれから増えてはいないみたいだね?”
“さっぱりさ。あたしたちはアムールに慣れちまったんだ。どうしていまさら、リオネスになんか帰れるものかね。半分だね、グラエ。半分が帰ると言っただけでも、いいと思ってくれなくちゃあ”
“そのことなんだけれど、帰る日がもっと伸びそうなんだよ”
“おや? じゃあ、なにかい、あたしたちは、まだアムールにいてもいいって言うんだね?”
“あなたたちとシウェナのひとたちにいますぐに来てもらっても、まだ住めるところがないんだ。その準備にとりかかるには、僕らの人数は多くないし。それで、もう半年ぐらい待ってもらいたいんだ。それ以上は、伸ばすつもりはないんだけれど”
“フィーリはなんて言ってるんだい?”
“これから言いにいこうかと思っていたんだ。あなたがテレパシーで訊いてみたほうが早いんじゃないの?”
“それもそうだね”
フィーリはシウェナの帰還リオネス人のリーダーである。やはり、ディオラやミディアと同年代の女性で、強いテレパシーの持ち主だった。強いテレパシーはどうも女性に多いらしいというのが、ここ半年ばかりのグラエの結論である−−−シラムーンのシンパシーだって、見方を変えればテレパシーの一種のはずだ。
ミディアが呼びかけると、彼女はすぐに精神体だけを飛ばしてきた。それもディオラに習ったのだそうだ。
“あたしは半年待たされるのはいっこうにかまわないよ。帝国に気づかれるのはたしかに心配だけど、それ以外は少しでも遅らせたほうがいいと思うね”
“なぜだい? ドーリアには未練があるから?”
“馬鹿お言いでないよ。あたしはねぇ、リオネスに帰るっていうのは悪い案じゃないと思ってるのさ。もともとあたしたちはリオネスから来たんだし、独立できるなら、帰ったほうがいいだろうからね。ドーリアにいたってどうせ楽しいことなんかありはしないもの。あんただってそうだろう、ミディア? アムールにいて、あんた、楽しかったかい? そんなはずはないんだよ。それにもう半年もあれば、一人でも多くのやつを連れていけるかもしれないじゃないか”
“そちらも、人数はあれから変わりないの?”
“おなじだね。でも、ぎりぎりまでねばってみるさ。時期が伸びるっていうんなら、まだ承知しそうなものはいるんだもの。
ねぇ、グラエ。あんたやディオラはなんにも言ってないけどさ、帝国に連れていかれちまったやつのことはどうするつもりなんだい?”
“どこにいるのかわかっていれば、すぐにでも助けられるけれど”
フィーリの表情が少し曇った。
“それは難しいねぇ…帝国には何人の人間がいるのかは知らないけどさ、そのなかから、リオネス人だけを探すのは大変なことだよ。それも、どこにいるのかわからないんだから、その思考を捉えるだけでも難しいよね”
“じゃあ、そのことはあなたたちに任せるよ。僕はあまりこっちには来れないから。呼んでもらえれば、すぐにでも行けるけれどね”
“半年後か…あたしも、もうちょっとみんなに声をかけてみるとしよう。仲間は一人でも多いほうがいいんだろう?”
“あなたたちから見て、使えそうなものはいる? 力が使えなければ、何人いても帝国にかなうはずはないよ”
“残念ながら、いそうもないねぇ…見つけたら、中継網に連絡するよ”
“わかった。じゃあ、あとはよろしく”
グラエがいなくなると、二人は思わず顔を見合わせた。優しいんだか冷たいんだかわからないというのが、ミディアとフィーリのグラエ評だ。性格につかみどころがないということもあるのだろうが、いまのように「力がなければ使えない」とはっきり言い切ってしまうところと、仲間を守りたいというところが、2人にはつい矛盾しているように思えるのだろう。
しかし、どちらにしても、グラエほどの力の持ち主は2人とも知らず、反帝国のシンボルとして奉るには彼は最適だったし、彼の力なくしてその成功は難しいだろうということは彼女らにもよくわかっていた。
“いよいよ半年後かぁ…年甲斐もなく、なんかこうわくわくしちまうねぇ。帝国に楯突こうなんてすごいことを考えるじゃないか”
多少興奮気味のフィーリにたいして、ミディアはあくまでも冷静を努めた。おなじリーダーでも、この二人はけっこう対照的な性格をしていた。
“本当にうまくいくと思っているのかい? あたしは胸騒ぎがするよ。せっかくアムールに居ついたのに、リオネスなんかに帰ったって、そんなにいいことがあるものかね”
“あたしはグラエを信じるよ。ディオラはいい子を見つけたものさ。でも、よく決断したと思うよ。あたしなら、きっと躊躇しちまったとも、たとえグラエがいたってさ。若いくせに大したもんさ”
“どっちが若いっていうんだい、フィーリ?”
“グラエとディオラだよ、決まってるじゃないか。なんだい、なにか言いたそうだね、ミディア?”
“グラエはともかく、ディオラはちっとも若くなんかないよ”
“そんな馬鹿な! あんな小娘が、どうしてそう見えるっていうんだい?”
“ディオラはね、あたしらとおなじくらいなのさ。どうしてだかは知らないけど、彼女は小娘に見えるだけなんだよ”
“本当かい、それって…?”
“なんだったら、ディオラに訊いてごらん。まったく、あんたもお人好しなんだから”
“大きな御世話だよ”
マナスから戻ると、グラエは一息つく間もなく、ディオラの横穴に向かった。ミディアとフィーリに、あと半年と言った以上、リオネスでの準備を進めなければならない。それには、いままでのならいから、まずディオラに相談するのが筋というものであった。
しかし彼は、外リオネス人の帰還時期については、まったくだれにも相談していなかったので、これでは順番が逆であることをしっかり忘れていたのだったが。
「どうしたね、グラエ? おまえが来るなんて珍しいじゃないか。あたしのことなんて、もうすっかり忘れたものだと思っていたところさ」
「話があるんだ。みんなも集めたいんだけれど、いいかな?」
「そいつは話の内容次第だねぇ。いったいなにを企んでいるんだい? まず、あたしだけに話して、2人で決めちまうわけにはいかないのかい?」
「みんなの協力がいるんだ…でも、あなたには、まず聞いておいてもらったほうがいいかもしれないな。
ディオラ、半年後に、マナスとシウェナから、ミディアとフィーリがリオネスへの帰還に同意したものを連れて帰ってくることになっているんだ」
「なんだって そんな話は初めて聞いたよ。いつの間にそんな話がまとまっていたんだね? もしかして、おまえの他には、だれも知らないっていうんじゃないだろうね?」
「実は、そのもしかしてなんだよ」
「おまえも、そういう大事な問題はだれかに相談するものだ。全部一人でできるわけじゃないんだし、まったく、おまえ一人でやっているんじゃないんだよ、もう少し周りに気を使ってやらなくちゃあ、せっかく仲間がいるのにさ。それで、半年後の根拠はなんなんだい?」
「準備に必要な時間さ。いまから始めれば、半年後にはどうにかできるんじゃないかと思ってるんだけど」
「皮算用もいい加減にしておくれよ。何人ぐらいいるのか、わかっているのかい? あたしらはたったの50人しかいないんだよ」
「僕一人で決めたことはそれだけじゃないんだよ。帰ってくるのはだいたい2000人くらいらしい。それだけの人数が一度に動くとなれば、もう帝国だって黙ってはいないだろうから、そろそろもっと仲間を募って、彼らが帰ってくるのと同時に、始めてしまいたいんだよ」
ディオラは、開いた口が塞がらないかのようだった。グラエの言葉が一瞬理解できず、ぽかんとした。が、徐々にわかってくると、呆れるやら怒るやら情けないやらで、大変複雑な表情になったのだった。
「おまえがそこまでなんにも考えていないとは思わなかったよ、いったいいままでなにをしていたんだい」
「なにをしていたって…僕だってちゃんと考えているさ。それで、半年後がいちばんいいんだ、こっちにだっていろいろ事情があるんだよ。ディオラの一存で決めないでくれよ」
「それを言うなら、その事情とやらを説明してもらおうじゃないか。そこまで言うからには、なにかあってのことなんだろうよ、それで納得できれば、あたしだって賛成するけれどね」
「それは……」
グラエは一瞬ひるんだ。けれど、ディオラは追及の手を休めることはなく、余計に強い調子で迫った。
「まだ、だれもものになっていないんだよ。力を持ったものがほしいって、おまえはよく言うけれど、育ててやることも大事だってあたしは言ったはずだね? おまえの言うように、半年後なんかにおっ始めちまったら、絶対に未熟な連中は死んでしまうよ。そうなったら、おまえ一人でどうするつもりなんだい? 自惚れるのもいいかげんにおしよ!」
「もう決めたんだよ、ディオラ。半年後が早いんだとしたら、あなたはいつがいいと思っているんだい? それまで、僕らが隠れきれるとでも思っているの? 僕は変えるつもりはないよ、どうしたって、半年後には始めるさ! みんなにもそう言うよ」
「グラエ」
彼はテレポートしていなくなった。
へなへなとその場に座り込んだディオラには、未熟なままで戦いを始められ、次々に同志が死んでいく光景が見えるようだった。グラエを追いかける気力もない。
「そんなことがあってはいけないんだ、なにを血迷ったっていうんだろう? いったい、なにを隠しているんだろう…?」
ディオラは、グラエの急な変わりように、信じられない思いだった。彼女の知っているグラエは、あんなに先を急ぐようなことはなかった。それも、今度の件はまったく根拠があるようには思えないし、第一、半年後なんて早すぎる。いくらなんでもそれでは無理だ。
それとも、あれが彼の本心だったというのだろうか? いままで半年間、彼女はグラエのどこを見てきたつもりだったのだろう?
ディオラが大切に育ててきたものが、とつぜん鼻先で奪い取られたような、そんな気さえしたほどだった。
一方そのころ、グラエはみなに半年後には戦いを始めると宣言していた。もっと仲間を増やし、外から帰ってくる仲間を迎え入れよう。そして、ついに帝国に反旗を翻すときが来たんだ。
彼の言葉に、なにも知らない若いリオネス人たちや、日頃からディオラの慎重ぶりを快く思っていなかったものは大方が賛同し、興奮した。
話を聞いたシラムーンやバードのような古参メンバーは、グラエにいきなりの蜂起のわけや、なぜディオラがいないのかを聞きたかったのだが、彼は話を終えると、すぐにいつものように地下に引っ込んでしまい、だれとも話したがらないような素振りであった。
けれども、シラムーンは躊躇することはなかった。彼女は兄を見てひとつ頷くと、勇んで地下へ向かったのである   。
真っ暗闇のなかで、ロゥンは人知れず、声にならない叫び声をあげつづけていた。
やめて、やめてくれ、と。弟や妹たちも彼と意識を共有していたが、その声が届くことはありえない。
レーザーメスがターナの身体を切り刻む。ここではもうさんざんやってきたことだ。実験中に死んだリオネス人の子らをばらばらにし、死因を調べること。ほかにもいろいろ、このときとばかりに解剖しまくるのだ。
内蔵をよりわける。それらひとつひとつが大事な標本だ。生前よりもずっと丁重に、ターナの身体の一部は、ホルマリン漬けの瓶に収められ、研究室の一角に飾られるのだ。
そこには、彼女に先んじたヌー、キリエ、ザルト、アディ、ヒューラの標本もある。いちばん最初に殺されたルカがいないのは、ばらばらに散ったから、解剖できなかったのだ。
実験者たちの会話が、さらに彼の心を引き裂く。
「どうですかね、ディヴァーズ?」
「駄目ですな、フェール博士。こんな卵子ではとても受精はできませんよ。できたとしても、すぐに死んでしまうでしょう」
「ふーむ。ヌーたちの精子も駄目だったし、実験のせいで生殖能力が衰えてしまっているのかな?」
「ターナには、まだ月経は来ていなかったですからね。今度は受精させてみればいいんじゃないですか?」
「いや、こんな卵子じゃあどうかな? でも、月経があったっていうことは、身体は準備していたってわけだからな」
「内蔵に異常はありません。生きのいい標本ですよ。クローディア、これにもラベルを頼む」
「はい、わかりました」
「まったく忌ま忌ましい話だ! いくら実験体が消耗品だからといって、リオネス人は貴重なのに」
「でも、例の卵子と精子は無事なのでしょう? いくらでも実験体を作ればいいじゃないですか」
「それは時間の損失だね、トーイアン。それに、いくらなんでも卵子と精子には限りがあるものだし、そう簡単に死なれては困るよ」
「残っているのはロゥンだけですか。いくつかの実験はお手上げですね。比較すべき相手がいないんですから」
「少しペースを落とさなけりゃならないでしょうし、今度の16人にはいきなり成長促進剤を投与するわけにはいかないんですか?」
「アディの細胞を見たろう? 老化が早くなって、結局は同じことさ。もしかしたら、もっと効率が悪いかもしれない。しかし、悪い案ではないかもしれないな。眠らせる予定の8人には、試してみてもいいかもしれない。しかし、まあ、ロゥンだって、どっちにしたって、たとえ自然死だって、あと10年がいいところじゃないかな」
「それまでには、ほかの7人のように死んでいるでしょうけどね−−−」
はっとして目を覚ますと、彼はマナスではなくてリオネスにいた。ずいぶん昔のことのような気がした。ターナが死んでしまってから、まだ8ヶ月にしかならないのに。
ひとつひとつの出来事を彼はよく覚えていた。あまりにも鮮明な記憶、どうしてこんなにもはっきりと覚えているのだろう。
昔の、それもロゥンだったころの夢はよく見たものだし、いまも見ることがある。それは、彼が生きているかぎり、彼を苛んでやまないだろう。たとえ彼がグラエとなったとしても、ロゥンたち8人が一生背負いつづける烙印なのだ。
けれども、どうやらいまのところ、だれかを夢見に巻き込んではいない。彼の眠りはいたって不規則なもので、それも気が向いたときにしか寝ていないから、睡眠時間が特定のだれかと重なることのほうが珍しいのだった。
自分の肉体があと数年で臨界点を迎えてしまうことを、実験者たちの言葉を聞くまでもなく、グラエは知っていた。それは、彼の力をもってしても決して止められない老いのはじまりだ。そうなったら、彼は衰弱していくだけだろう。力を使って補っても、いつか追いつかなくなり、みなに隠しきれなくなって、あとは死が急速に訪れる。
もしも、脳以外をすべて機械に替えたとしても、脳がいつか老いる。脳まで機械に替えてしまったら、そのものをはたして、人間と呼べるだろうか? それに、彼はそうまでして生きていたくはなかった。
けれど、自分の遺志を継いでくれるものがほしかった。動物のような本能のままに、グラエは子孫を残さなければならないとわかっていた。
リオネスでは子どもは貴重だ。乳児の死亡率が異常に高く、成人できるものが少ないだけに、養子をほしがるものはいくらでもいたし、中絶なんて論外だった。しかし、実験者たちが言ったように、彼の精子は自然に受精するだけの力を持っていない。
彼は静かに頭のなかから重い記憶を振り払った。
うたたねするほど疲れていたとは思えないのに、彼の体はもう体力が落ちているのかもしれない。
だとすれば、こうして考えていること自体、時間の無駄なのだ。彼がしなければならないことはたくさんある。そのほとんどは彼にしかできないことだ。どれから手をつけてもいいくらいなのに、自分のことにばかりかまけてはいられない。
しかし、過去はいつまでも彼を追いかけてくる。彼を挫けさせようと、帝国に従えと、悪夢のように囁きつづける。
ロゥンがフェール=リオネス研究室をほとんどまるごと吹き飛ばしたのは、ターナが死んでからわずか2ヶ月後のことだ。
グラエはそのときのことを思い出すことで、過去を振り払ってしまおうとするかのように、目をつぶったのだった。
卵の腐ったような臭いで、そのガラスばりの檻は満たされた。黄色いガスに、もう息ができないほど苦しい。
ロゥンはガラスを叩く。得られるはずのない助けを求めて。
頭に刺された針が、激しく乱れる彼の脳波を伝える。心臓は激しく打ち、徐々に心拍数が弱まっていく。
凄まじい熱気、檻のなかの気温が、ふつうの人間ならばとっくに体内の水分が蒸発して死んでいるような温度にまで跳ね上がった。
「博士、これ以上は危険です!」
ロゥンの身体に刺された針から送られる情報のパネルを見ていたクローディアが、悲鳴にも似た声をあげた。
レッセ=フェールの指がパチンとスイッチを切り、檻のなかからは急速にガスが消えていった。濃度が完全にゼロになったのを確認して、彼は檻を開く。
なかではロゥンが倒れていた。クローディアは強心剤を打ち、実験体がよく実験の合間に着せられる貫頭衣をかぶせようとしたが、てっきり気絶しているかと思った彼に腕をつかまれて、思わず悲鳴をあげそうになった。
「もう、おしまいにして…苦しい、苦しいよ、クローディア……」
彼女は答えずに、ロゥンに服をかぶせた。それは、彼の身体についた水滴を吸って、たちまちぐっしょりと重くなった。
水分補給のために、管を口に差し込んでやったが、飲み込む気力もないらしく、だらだらとこぼれるばかりだ。
彼の身体には無数の黒い染みがあった。部分的に注入された薬物が残り、変色したものもあれば、血が固まって変質したものもある。遠目にはわからないが、こうして近づくと斑点だらけで気持ち悪いほどだ。
しかもロゥンだけでなく8人のリオネス人全員がそうだったのだが、実験の差し障りとならぬように頭髪以外は全身が永久脱毛されており、その薄緑色のビニールのような肌は不気味なものだった。
「まるで毛をむしった鳥肉だね」と評した実験者もいた。しかし、頭髪だけは、いくら抜いてもまた生えてきてしまったのだ。その理由はいまだにわからぬままだったけれど、技術不足とも考えられていた。
「クローディア、針を全部抜いておいてくれないか」
「はい」
「少し休憩にするそうだよ。1時間もすれば、強心剤も効いてくるだろうからね」
スミルノ=アンセハムの呑気な声。
ロゥンは強心剤というのが全身を駆け巡るのを感じていたが、目はかすみ、クローディアの姿がぼやけた。
立ち上がろうとした彼女の白衣をつかんだが、伝わってくるのは嫌悪感ばかりだ。
「ロゥン、離してちょうだい。少し休むのよ、あなたも寝ていなきゃ駄目よ」
「行かないで、クローディア…! 僕を独りにしないで、もう実験をおしまいにして…」
「なにを言ってるの、私は、こんな硫黄臭いところにはいられないわ。実験はこれからなのよ、おしまいになんかできるわけがないでしょ」
「助けて、お願い…」
嘘だと言って、クローディア。僕らに微笑みかけてくれたじゃない。あれは僕らを愛してくれたからなんでしょう?
「クローディア、君はそこにいてくれないかって、フェール博士がおっしゃってるんだけど」
彼女はため息をつく。博士の命令とあらばしょうがない。「○○してほしいんだけど」という彼の言は、命令以外であったためしがなかった。
「わかりました」もうひとつ、ため息。
「ロゥン、ここにいるから、手を離してちょうだい」
優しい声、けれどそれは表面だけのものだ。リオネス人の実験体を手なずけるために、彼女は愛してるふりぐらいはできる。本当は、マナス黒人以外は下等人種と見なし、奴隷や実験体とすることさえ厭わぬくせに、平等主義者のようなふりもできるのだ。
やがて、ロゥンの意はまったく無視されて、実験が再開された。頭と心臓付近を中心にふたたび針が刺され、四肢を鎖でつながれた彼は、立っているのも辛そうに見えた。
「まだ強心剤が効いていないんじゃないですかねぇ」とオーレ=ディヴァーズは言ったが、「もう1時間以上経っているんだから、そんなはずはない」というフェールの一言で一蹴されていた。
檻はふたたび閉じられ、白いガスが分量を見ながら注入される。空気がただちに撹拌されて、濃度を均等にする。ロゥンは身体をよじり、未知の気体から逃れようとしたが、束縛された身では無駄なことだった。
悲鳴があがって、断末魔にも似た叫びは、実験者たちを震撼させたが、つぎの瞬間には驚きに変わった。
7人は顔を見合わせ、ぞっとしていた。いかなる薬物をもってしても、リオネス人を殺すことはできないというのか?
苦悶にゆがんだロゥンの顔から、生気が消えていく。
「心拍数が落ちていますが、博士?」
クローディアの言葉に、5人の目がいっせいにフェールに集まった。このまま死ぬのを待つのか、それとも生かすのか。
彼は黙ってスイッチを切り、同時に空気洗浄剤を働かせた。別のレバーを動かすのと、ロゥンを浮かす鎖がゆっくりと降り、彼は床に横たわった。
「ジャレス、強心剤をもうひとつだ。
さてさて、まさか生き延びるとはな…」
「大した生命力だ。博士、このままロゥンを生かしておいたほうが、今日使いきってしまうよりもよくはありませんか?」
「うーむ……たしかに、彼は興味深いね。今日死なせてしまうには惜しいが、しかし、あと1回もつかな?」
「中止して、とりあえず16人が育つのを待つことはできないんですか?」
もうやめて。これ以上は使ったら、きっとよくないことが起きる。
クローディアがまた薬を打ちにきた。止まりかけた彼の心臓を動かすために、ロゥンで実験をつづけさせるために。
「もう、いやだ、クローディア…」
「え…」
彼女がそんなに驚くのは、彼がまだ話せるから。
「もう実験はおしまいにして、苦しいよ、辛いよ…恐いよ……」
「そんなこと言ったって困るわ…博士!」
クローディアが立ち上がり、入れ替わりにフェールが来た。
「いつもの君らしくないな、ロゥン。あと1回だよ、おとなしく実験を受けてくれなきゃあ−−−」
「もういやだ、僕も死んでしまう、リオネスに帰りたいよ…これ以上力を使えない……」
「なんだって 力とはなんだ、ロゥン?」
フェールに髪をつかまれて、彼を息をするのも苦しかった。
「いつ、そんな力を使っていたって言うんだ? いつから、おまえは力を持っているんだね!」
ぜーぜーと荒い息が響く。まるで全身を呼吸しているのに、ちっとも足りないような錯覚。
「力とはな。それがおまえの手品だったわけだ、死ぬはずのところを力に救われたというのか?」
「僕は自分を守ってただけ……痛い、離して…」
「おまえが正直にしゃべったらな、ロゥン。
ラインスター! 君だけ残ってくれ、今日の実験内容を変更しなければならなくなるかもしれない。ほかのみんなは仮眠をとるんだ。いいや、なんでもいいからともかく休め!」
待って、行かないで、クローディア。僕はいつも挫けそうになる。フェールが恐ろしくて、なにもできない。なにも抵抗できないんだ。
「さあ、話すんだ、ロゥン。どんな力だ? いつから持っている? おまえの兄弟たちも持っていたのか? 全部、正直に話せば、別の実験に切り換えてやるからな」
「いやだ、実験はもういやだ」
「話すんだ! 化け物め、やっぱり力を隠していたのだな。ええい、忌ま忌ましい。もっと早くにわかっていれば、ほかの7人だって死んでしまうまえに、もっと使い道はあったろうに」
「いやだ、話さない…! ぜったいにいやだ、実験はいやだ、やめてくれなきゃ−−−」
「やめてくれなければ、だと えらそうなことを言うな、リオネス人のくせに。おまえは実験体なんだぞ、実験を拒否するなど、許されると思っているのか?」
「いやだ、いやだ…」
「……ようし、仕方がない。ラインスター、神経ガスの申請をしてきてくれないか。そう、このまえとおなじ量でいい」
ロゥンの表情が凍りついた。神経ガスの使用は、月に1度か2度あるぐらいのことだったが、彼はそれをとても怖がっていた。
もともと対人兵器である神経ガスは通常の麻酔の効かないリオネス人にはちょうどいい麻酔となる。しかし、この兵器は実は第二代皇帝ボルネオール=デボラルの時代に使われたのを最後に、使用の禁止がなかば暗黙の了解と化していた。第五代グロシェン=インパールの代となっても、その用途は主に、奴隷たちをおとなしくさせるためとなっていたが、実はこんなところで使われていたのである。
だが、そもそも神経ガスの使用が禁止されたのは、人体に与える影響を考慮してのことだった。民族生体科学研究所の実験報告によれば、このガスによって脳神経細胞を破壊されたものは100ミリグラム吸入のときに8パーセントであるのに対し、500ミリグラム吸入のときには70パーセントに跳ね上がるのである。
神経ガスの開発目的は、本来ならば敵を殺さずに無力化することにあった。ところが、どこをどう間違えたものやら、できあがったのは人体に致命的な障害を与える欠陥品だったわけで、実戦に使われたことはほとんどないのだった。
ひとつには、時の銀河帝国皇帝ボルネオール=デボラルが、神経ガスのように障害を与える兵器よりも致死性の兵器を好んだからだとも言われる。そのため、せっかく造り出された神経ガスも、サンプルやデータだけを残して開発が中止されてしまい、ふたたび注目されたのは女帝カスタリア=ハンセを経た、第四代皇帝エメルスン=フォードの時代になってからのことだった。
しかし、ここで神経ガスについて講釈したところで、ロゥンにはなんの意味もない。彼にわかっているのはただ、それを使われると自分の頭のなかをひっかきまわされ、心がばらばらになるような気がするという、恐ろしい事実だけなのだ。
フェール=リオネス研究室において、神経ガスが使われることは月に1度くらいしかなかったし、実験体の全員に使われるわけでもなかった。だが、苦しみも痛みも共有してきたロゥンたちにとり、ガスの責め苦は想像を絶するものがあった。だからこそ、ロゥンは神経ガスを恐れた。
しかし、いくらフェール博士といえど、ガスの準備が常にあったというわけではなく、「申請」ということになったのである。
ロゥンの目にはっきりと脅えの色が浮かぶのを見て、フェールの心中に満足そうな思いが浮かぶ。彼にそれが感じ取れないわけはなかった。
どこまで狡猾なのか、どこまで残忍なのか。
彼は絶望に似た思いを抱きながら、心のどこかではまだ博士に期待していた自分に気づく。
なにを期待していた? この男がいままで自分たちにどんなことをしてきたのかさえ忘れてしまったというのか。弟や妹を殺したのはだれだ? 自分たちを実験体にしたのはだれだ? 殺そうとしているのはだれなんだ?
ウィリーズ=ラインスターが実験室を出ていった。
ロゥンの心臓は不規則に波打ち、今日2度目の強心剤が、荒々しく全身を駆け巡っているのがわかる。
ラインスターが戻ってくるまでの間、時間稼ぎができるはずだった。ロゥンはほっと一息ついたが、表面上は変わることなく、脅えた目でフェールを見上げていた。
時間を稼いだところでどんな意味があるのか? ロゥンにはそもそも、なぜ自分がそんなことを考えたのかさえわからなかった。時間が経ったところで、この状況が好転するなんてことがありうるのか? そんな馬鹿な!
「おまえがこんなに強情なやつだったとはな…!」
床に叩きつけるようにフェールはロゥンを離した。彼も、ラインスターが戻ってこなければ脅しが効かないことを察したのだろう。
けれどその心中には、怒り以上に激しい驚きがあるのがロゥンには感じられた。まさか、彼にここまで抵抗されるとは思ってもみなかったのだろう。彼だって、ここまで抵抗したのはまったく初めてのことだ。従順な子どもたち、実験体とはかくあるべきなのだ。
ラインスターはなかなか戻ってこず、彼を待っている間、ロゥンはついうとうとと浅い眠りをまどろんだ。ロゥンとしては、決してラインスターなどに帰ってきてほしいわけではなかったのだが、彼が来たときが自分の運命の別れ道になることを、彼はなんとはなしに察していたのだった。そして、眠りは彼を救うことはなかったけれど、疲れは癒してくれたものだった。
ところが、繋がれたままだったというのに、気がつくと、彼は身体に例の貫頭衣をかけていたのだった。実験室には彼と、やはり居眠りをしているフェールしかいない。あの男にかぎって、そんなことをしてくれるはずがないのに。では、自分でやったというのだろうか?
あれからどれくらい経ったのだろう。けれども、ロゥンには1時間という概念がわからなかった。彼にとって時間とは、いくつかの行為を意味するだけだ。実験の時間、寝る時間、食事の時間、なにもしない時間、などなど。夜も昼もなかった。外は明るくなり暗くなりを繰り返して、それを自分たち以外の人びとは昼だの夜だのと呼んでいるけれど、彼らにはなんの意味もなかった。
ロゥンはゆっくりと身を起こし、貫頭衣を羽織った。心臓はまだ不規則に胸を打っている。鎖は重く、身体に刺さったままのコードさえ、なんという重さに感じられるのだろう。
フェールはまだ目を覚まさない。
けれど、ほかのものはそろそろ起き出し、こちらへ向かっているところだ。
アンセハム、ターバー、ディヴァーズ、トーイアン、最後にクローディア。
しかしロゥンは、1人だけ寝ていなかったはずのものを探していた。神経ガスの使用許可申請に行ったラインスター、彼はどこにいるのだろう。
1人、また1人と研究員が顔を出し、とうとうフェールも目を覚ました。
クローディアは少し寝坊をしたらしく、慌てて身繕いをしているところだった。
「すいません、遅くなりまして。なんかうるさいやつが入りまして、なかなか許可を出してくれなかったんですよ」
クローディアに気をとられた一瞬の隙をついたかのように、そのときにラインスターが戻ってきていた。
「いや、いいよ。わたしもつい居眠りをしてしまったものでね、ちょうどよかったさ」
そう言って、フェールは勝ち誇ったようにロゥンを見た。
生意気なやつめ、これを見せられてもまだ嫌だなどと言えるのか。神経ガスと力の秘密と、どちらを選ぶつもりなんだ。だいたい、おまえに選択の余地があるとでも思っていたのか。たかが実験体にすぎないくせに。
そこには、ロゥンには決して越えられない壁があった。彼を人間とは思わぬ偏見を、フェールだけでなく、クローディアやラインスター、この研究室のものが同等に抱いている。
そのとき彼が感じたのは、怒りではなかった。他がいに理解しあうことのできない、深い悲しみと絶望。最初から理解することなど拒絶されている。
いまだかつて、ロゥンは研究員に対して殺意を抱いたことがなかった。それは、彼が知らない感情だった。憎しみや怒りなど、縁遠いものでしかなかったのだ。
「いやだ……」
彼は首を振った。弱々しく、訴えるように。
「嫌もなにもない。おまえが選べるのはどちらかだけだ。力の秘密を正直に話すか、神経ガスをくらうか。さあ、どっちにするんだ!」
「ガスは嫌だ、ばらばらになる、とっても恐い、ガスはやめて、心だけ沈んでくみたい、粉々になる、助けて、やめて、ヌー、キリエ、ザルト、アディ、ルカ、ターナ、ヒューラ、助けて、助けて…」
そう、あれが最後のときだった。自分でもなにをしたのかなんて、よく覚えてもいないし、わかってもいない。
けれども、彼にはそれ以上、過去に思いをはせていることはできず、思わず立ち上がっていた。いるなんて思いもよらなかった人物が、いまにも倒れてしまいそうなようすで、ゆっくりと彼に近づいてきていたのである。
互いの顔がかろうじて判別できるほどの薄暗がりのなかでも、頬をつたう一筋の涙ははっきりとわかった。
橋を渡るまえに彼女の体はよろめき、グラエはテレポートして彼女を支えた。
「シーラ、なぜ…?」
彼女は答えられなかった。なにか言おうとしても言葉にならなくて、涙だけがあふれてきた。自分のシンパシーのことも忘れて、ただ泣きながらしがみつくと、グラエはそっと抱きしめたのだった。
小さい手に頬をなでられて、シラムーンははっとして顔をあげた。同志のなかには子連れで参じたものもいる。いつかのように力を暴走させて、子どもたちのだれかを巻き込んでしまったのかと思ったが、そういうわけではなかった。グラエと似た少女が、彼女のまえにぺたりと座っていた。
気がつくと、その子だけではなく、彼女は8人の少年少女に囲まれていたのだった。
「ロゥン…」
そのなかで一人だけ見覚えのある少年は、呼びかけられると、ほんのわずかに微笑んだように見えた。
彼女は涙をこすって、8人の顔を一人ひとり見つめた。ロゥンの夢で見たとおりの、8人の子どもたちだった。
「泣かないでって、シーラ」
「え…?」
「グラエがね、泣かないでって」最初の少女は、それだけ言うと、はにかんだようすで、ロゥンの背後に駆けこんだ。
「それは、あたしが泣いたってしょうがないってことはわかってるわ、でも…」
「そういうことじゃないの」今度は、14、5歳くらいの少女だった。彼女が多分ルカ。いちばん最初にロゥンのもとに還ってきた少女。
「シーラに泣かないでほしいんだって。笑っていてって、いつも笑っていてほしいんだって」
「だって、笑えっていったって……」
「あたいたち、わからないの」ルカがつづけた。8人ともおなじ、真っ白な髪に金色の眼、そして、ほとんど変わらない表情。
「笑うってどうすればいいの? グラエもわからないんだって、でぃーえぬーえーを読んでみても、わからないって言ってたの。だから、シーラには笑っていてほしいんだって」
笑い方を教えようとして、彼女はふたたび言葉を失わざるを得なかった。
簡単よ、それは彼らの生き方を知らなすぎる言葉だ。
楽しいことを考えればいい、そんなことが彼らにあるのか? 実験体の身から逃れてみても、待っているのは早すぎる死。成長促進剤と実験のために、彼らは長生きできない。そうと気づいている。
どうして笑えるだろう?
笑い方など教えられるだろう?
「ねぇ、笑ってよ、シーラ」7、8歳の少年が言った。
「じゃあ、一緒に笑ってみましょうよ」
彼女の言葉に、8人は顔を見合わせたが、「やってみようか」というロゥンの一言で決まりだった。
彼らの初めての笑顔は、どこかひきつっていて、とても笑顔などと呼べるようなものではなかった。シラムーンは祈るような気持ちで、彼らが心から笑えそうな材料を探そうとしたが、とうてい彼女に見つけられるはずもなかった。彼女とロゥンたちとでは、あまりに育った状況がかけ離れている。それは、あるいはグラエを笑わせるよりも難しいことだったかもしれない。
「笑って、ねぇ、もっとよ」
彼女は木偶のようにその言葉だけを繰り返し、だんだん子どもたちの姿がぼやけていった。気がつくと、シラムーンはグラエの胸にもたれていたのである。
「あなたも笑ってよ、グラエ…」
「わからないんだよ、シーラ。どうすればいいんだい?」
ロゥンたちは、いまもグラエのなかで生きているのだろうか? それとも、あれはただの幻で、彼ら8人の魂を抱えるグラエと話したのを錯覚していたのだろうか?
どちらにしても、彼らにしたのとおなじ過ちは繰り返さない。彼女は必死で考えて、とうとうたったひとつの道を見い出したのだった。あるいは、彼女はまだグラエの夢につかまったままだったのかもしれない。シラムーンの見つけたと思った道は、なによりも彼が望んでいることだったのだから。
「未来よ、グラエ…!」
「未来…?」
「あなたはだれから生まれたの? 父さんと母さんからだわ、だれだっておんなじ、帝国の人とあたしたちと、どうちがいがあるっていうの? みんな、自分だけでは生まれられないのよ、そうやって命を繋いでいくのよ。動物だっていい、あたしたち、そのために生きているんだわ。だから、あなたの命をここで終わらせてしまわないで、未来へ繋ぐのよ!」
「僕では駄目だよ、シーラ。君も知っているんだろう? 僕には、生殖能力がないんだ…」
「あなたには力があるわ…! どんな方法でもかまわない、力を使ってみればいいじゃないの」
「それには、僕一人では駄目なんだよ…人間は単性ではないのだから、雌体が要る」
「あたしを使えばいいわ…! これから、だれをどうやって説得するつもりでいたの? きっと、どうしてそんなことをしなければならないのか、説明しなきゃならなくなる。こんな大事なときに、そんなことを打ち明けられる? 駄目よ、みんなに知られてしまうようなことになっては駄目。でもあたしは知っているわ、あなたのこと、ロゥンたちのこと、少しだけわかっている。だから、あたしにしかできないのよ」
「本当にいいと思ってるの? 僕は、君をそんなふうに扱いたくはないよ。君は、僕にとっては大切なひとだから、こんなことで傷つけたくはないのに…」
「なぜ? あたしがかまわないって言ってるんだもの、そんなことをあなたが気にするなんておかしいわ。それにあなただって、ほんとにいいと思ってるの? あなたの命を、どうしてこんなところで終わらせてしまえるの? 最初から諦めてしまわないで、あたしはそのことのほうがずっと嫌だわ…!」
「ありがとう、シーラ。僕に未来をくれるんだね…」
「あなただけの未来じゃないのよ、グラエ。あたしたち、みんなの未来なんだもの」
そのとき、彼は初めて微笑んでみせた。ロゥンたちのようにぎこちなくない、本当の笑顔を。
「ねぇ、少しの間だけ目をつぶっていてくれる?」
「なに?」
彼女は、ほんのちょっぴり茶目っ気を出したのだった。グラエは素直に目を閉じた。
彼とシラムーンとはほとんど身長にちがいはない。だから、そのままの高さで伸びをすることもなく、彼女はちょっと首を傾けただけで、グラエにキスをした。
少しだけ触れあった唇の感触は、彼女にとって、生涯忘れられない思い出になることなど、そのときの2人は想像してもみなかったのだけれど。
目を開けたグラエは、不思議そうな顔をしていたが、とくになにも訊こうとはしなかった。
彼の開いた手の平のうえで、シラムーンはなにか、とても小さな、濡れたものが動くのを見た。それはなに? 訊ねようとしたのに、彼女はなにか恐い予感がして、グラエがそれを見つめるさまをじっと見ているよりなかった。
それからしばらくの間、シラムーンはおなじようなものが何度も現われては消え、現われては消えるのを見た。それらは動いているようだったけれども、あまりに小さすぎたので、形がはっきりわからなかった。
だが、何回目かのとき、それはグラエの手のうえで醜悪な生き物のようになり、彼女は初めて、それが赤ん坊の原型であることを察したのであった。
「……わかっているんだよ、シーラ…自分のしていることがいかに自然に反したことであるのかはね。でも、いまの僕にはこれしか方法がないし、いろいろやってみる時間がないんだ−−−」
「いいの、なんにも言わないでいいのよ。少し驚いただけなんだから、本当よ、そんな顔をしないで、グラエ。それよりもどう? うまくいきそうなの?」
「ああ、そうだね…なんとなくわかってきたよ、どうすればいいのかは。シーラ、君の身体を貸してくれるかい? 僕は、生まれてくる子どもを、ロゥンたちとおなじように親のない子にはしたくないんだ、それにせめてふつうの子どものように、母親の身体から生まれてほしいんだよ…」
「わかってるわ、グラエ。そんなこと、最初からわかりきってることじゃないの。初めてのことだから、ちょっと恐いけど…大丈夫、あたし、あなたの子どもを生んでみせるわ、ううん、ちがうわね、あなたとあたしの子どもなのよね?」
「そうだね…それじゃあ、僕の手のうえをよく見ていて…僕は、このことを一生忘れないでいるよ。新しい命が生まれること、それが僕と君の子であること……君のおかげだよ、シーラ。君が僕に子どもという未来をくれたんだ…」
彼の手のうえに現われた赤ん坊の原型は、すぐにシラムーンの身体のなかに移された。彼女は微笑んではいたものの、内心では狼狽といってもいいくらいの戸惑いを覚えて、新しい生命の息吹を感じることさえ、恐ろしいほどだった。男性と付き合ったこともない自分が、たとえ愛してるとはいえ、子どもを生むのだ。この子が自分の子どもだという事実も、いまの彼女にはただ恐ろしいだけだった。口ではいくら強がりを言ってみせても、変わったように見えても、彼女は一人の娘にすぎなかったのだ。
そんな彼女の心中を癒してくれたのは、滑稽なまでにぎこちない、グラエのキスだった。
「気づいていたのね…?」
「ちょっとだけね」
彼の暖かさは、どんな言葉よりも彼女を温めてくれた。怖がるまい。恐怖は真実を見る目をくらませてしまう。たとえば、自分の本当の力を知らなかった昔の彼女のように。愛している、その気持ちに偽りはないのだから。
そのときの2人は気づかなかったのだが、一部始終を聞いているものがいた。
聞くとはなしに聞こえてくる衝撃的な事実に、彼女は震えて、言葉もなかった。嗚咽をこらえ、泣いてはいけないと自分に言い聞かせて、彼女は突然のグラエの心変わりを、それが彼の本心だったのかと疑った自分を責めた。
ただただ言葉もなかった。彼女は、出ていくこともできずに、そこにじっと潜んでいた。
(もう、なにも言わないよ、グラエ…おまえの言うようにしてやるとも、おまえに協力するよ。どうしてそんな大切なことを言わなかったんだい? あたしが、そんなことぐらいで取り乱すとでも思っていたのかい? 馬鹿お言いじゃないよ、あたしはそれぐらいじゃ泣きもしないし、動転もしないさ。ただ、黙って、おまえの言うことに従うだけなのに……
気を使ったのかねぇ…おまえらしくもない、だれにも話さないでいられるわけがないじゃないか、いずれ、だれかに話さなければいけなくなるんじゃないか。でも、もうなんにも言わないことにするよ、きっと、半年っていうのは、おまえにとってはぎりぎりのところなんだろうねぇ、ぎりぎり辛抱して、それ以上は待てないって思ったんだろうねぇ…いいさ、やろうじゃないか、どうせ、いつかは帝国とぶつからなくちゃならないんだもの、それが半年後に来るにしたって、おまえがいないよりかはずっとましだろうともさ……!)
乾いた頬を涙がつたった。けれどもディオラは、この戦いが終わるまで、二度と泣くことはないと、そう心に決めたのである。
ディオラがグラエに同意を示すと、彼は驚いて、素直に喜んだ。その笑顔は、彼女を嬉しがらせ、また悲しくも思わせた。
そして、彼はなぜディオラが考えを変えたのかは訊かなかったし、自分のことも言わなかった。けれど、グラエは知っていたようだったと彼女はあとで思うことがよくあった。
実際、彼はすべて知っていたのだ。あの強大な、比類なき力の持ち主は、年齢ではたしかにディオラよりもずっと年下であったにもかかわらず、その奇異な生い立ちやロゥンら8人の前身を内に持っていたためか、彼女以上にすべてを見通していたのだから。だからこそ、彼は戦いを率いていくことができたのだ。帝国という絶望的な相手との戦いに、ひるまないでいられたのだ。
それは、だれもが同意見だった。その金色の双眸で見つめられると、自分がまるでなんにも知らない子どものような気がすると、グラエの実際の年齢を知っているはずのバードさえ言うのだから、他のものにいたっては、なにをかいわんやであったろう。
ディオラの賛同により、すべては本格的に動き出した。もはや、帝国は仮想の敵ではなかった。彼らが戦うべき相手として、その強大さはひしひしと迫ってくるばかりだ。自分たちの守ろうとしている惑星は、それに比べたらなんて小さいのだろう。
同志も急速に増えた。テレパシー中継網は、いまや特定の仲間だけでなく、それを受けられるものならば、だれでも受け入れるように方針を変更していたのである。
そして、マナスとシウェナから帰還する仲間を迎えるための準備も急速に進められていったのだった。
時間がないならないで、人びとは働くものだ。それは、いまはまだいい方向に動いているのが、せめてもの救いであった。
しかし、実際に戦いが始まってみれば、もうそんな呑気なことは言ってられないにちがいない。なにしろ、相手はあの銀河帝国なのだから。
こうして、帝国暦188年7月、ついに、帝国史上最悪とまで言われたリオネス独立の乱が勃発した。
戦いは、グラエの独立宣言で、静かに始まった。
しかし、リオネス側のだれもが、いずれ帝国が総攻撃をしかけてくることを予想し、そのようすを想像して恐れないではいられなかったのである−−−。
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