最後のもの 2
「へくしょん!!」
弓をつがえようとして、ガイルは大きくくしゃみをした。そのせいで、やっと見つけた鶉は、あっという間に逃げていった。
「しょうがないなぁ…あーあ、いくらなんでも、あんな弁当ばかりじゃ食べ飽きたな…」
そうは言うものの、彼は、自分の狩りの下手くそさを棚に上げている。それに弁当の味にいちばん無頓着なのも彼だった。
ガイルが狩りに懸命になるのは、ひとえに師匠たちの気持ちを和らげたいためだ。
というのも、オルズデールとバーザムがここのところよくつっかかるのも、ひとつには食生活の貧しさがあるからだ。もっとも、それは〈創造の杖〉一本しか作らなかったオルズデールにも少なからぬ責任はあったわけだ。しかし、弁当の不味さに文句たらたらなのは、ガイルやバーザムではなくてとうのオルズデール自身だったが。
もうひとつは、酒がないことである。オルズデールもバーザムも無類の酒好きで、それもお互いに底知らず、顔色ひとつ変えずに酒だけ飲んでいるさまは、実は下戸のガイルから見ると不気味でさえあった。
ついでに2人とも煙草の量も半端じゃないのにもう残りが少ない。ガイルはよく、師匠の部屋で煙にまかれて息苦しい思いをしたものだ。オルズデールときたら、部屋中を煙で真っ白にしてしまうくらい煙草を吸うのが好きで、しかもそのあいだは窓も扉も閉めっぱなしなのだからたちが悪い。
いやはや、彼の師匠は、あんな杖を造るよりも、無尽蔵に酒が湧く、魔法の水筒や、いくらでも好きなときにふかせる魔法のパイプでも造るべきだったのだ。それも2人分を。
(でも、そうしたら今度は、不味い酒とか不味い煙草しかできないのかもしれないな…)
そんなことを考えて、ガイルはくすりと笑った。
それにしても、こんなときに魔法が使えればと、彼はしみじみ思った。そうすれば獲物の1匹や2匹はたやすいものだ。
しかし、オルズデールの言うとおり、“賢者の学院”の外で無節操に魔法を使うわけにはいかない。〈結界〉のうちならばいざ知らず、こんな無防備なところで魔法を使っては、たとえそれがいくら些細な〈灯火〉のような呪文であっても、妖魔や魔族を自分から呼び寄せているようなものだ。だからオルズデールもバーザムも警戒を緩めない。魔法とは人外の力なのだ。尋常ならざる事態にいつ陥ったって不思議じゃないような力である。そうとわかっていない人間が“賢者の学院”を出てはいけない。
もっとも、もしも彼に魔法が使えたなら、そもそも、彼らがこんなところに来る理由もなかったのだ。
いまさらのようにガイルは、2人の師匠をあてのない旅に引っ張り出した自分の軽薄さを思ってため息をついた。ため息などつけた道理でないこともじゅうじゅう承知のうえでだった。
ガイルが魔法使いの杖を失ったのは、いまから4ヶ月ほど前、復活暦958年の新年が明けたばかりのことだったから、1月の初めになる。
話せば長くなるのだが、要するにこういうことだ。
彼はもともとエズリモル大陸の生まれではなかった。エズリモルの東に浮かぶ、〈暗黒の島〉ともいわれるアダモン島からやってきたのだ。それもたった1人で。
ことの起こりは、かれこれ六年前、ガイルが14歳の春のことだった。
その日、平和だったアダモン島は大陸で知られているとおりの暗黒の島となったのだ。
突然、妖魔や魔族として知られる異形の怪物が現れ、彼の産まれ育った村だけでなく、おそらくはすべての町や村が襲われた。
そのときの一方的な襲撃でガイルは両親と、もしかしたら一緒にエズリモル大陸に来ることになったかもしれなかった、兄のように慕っていた精霊使いを失った。
彼だけは命を長らえたものの、焼き印を押され、他の村人たちとともに銅鉱山に送られ、そこで奴隷同然に働かされたのが約半年間。
そのときに仲良くなった友は殺され、それがきっかけともなってアダモン島を脱出して、エズリモル大陸のなかでもいちばん大きい国、ハロンドール神聖王国東海岸に漂着同然にたどり着くまで約2ヶ月。
そこでオルズデールとバーザムに助けられ、“賢者の学院”に入門し、オルズデールだけでなく3人の賢者に師事して3つの領域の魔法を学ぶこと5年。
ところが、5年目にして、魔法を学ぶと同時にバーザムに剣技も習っていたことが発覚し、それが“学院”の禁忌であったことから、彼は魔法使いの知識と魔力の源である杖を大賢者じきじきに折られ、魔法使いではいられなくなってしまったというわけである。
だが、杖を失った代償にガイルがオルズデールの助けで得たのは、杖の本当の目的であった。
それは、魔法の力とは元来闇に傾くものであり、そのために妖魔や魔族を引きつけるのだという話で始まっていた。
魔法の力を生まれながらに持っていたといわれる古の民は、あるとき人間にその技を盗まれた。古の民は別世界から来た人間以上の知識と力を持った存在で、森の民と地の民と呼ばれているが、現在は見ることのできない幻の民だ。ただダンドカンバ山脈の遺跡のようにその遺構はいくつか残されているし、“賢者の学院”では森の民の言葉が教えられることもあるので、古の民がいたのが明らかな事実だとわかってはいる。
彼らは人間が魔法を盗んだことを憂い、魔法を扱うには人間はまだ幼稚だと考えてその魔力を抑えるために呪いをかけたのだという。
それが古の民にかけられた「杖の呪い」で、皮肉なことに“賢者の学院”はその杖を守るために建てられていた。しかも人間たちは、魔法使いになるためには生涯でただ一本の杖と巡り会えなければならないと信じてきたのだ。
かくいうガイルだって、杖が折られたときに身体の底から抜けていったように思える魔法の力が、実は呪いによるものだとはいまだに信じられなかった。
けれども彼には魔法が必要だった。剣だけでは足りない。魔法がなければならないのだ。いつかアダモン島に帰り、復讐をするために。
だが悲しいかな、魔法も奪われたいまの彼には杖の呪いを解くべく探索の旅に出たとしても、それをはたせる望みなど万に一つもなかった。
だからこそ、齢95の老魔法使いオルズデールと、ぼちぼち50に手が届こうかという元傭兵隊長のバーザムをこんな旅に引っ張り出したのである。
もっとも、あてのない旅のわりに、2人は楽しそうに見えた。2人とももともと旅好きなのか、なんだかんだと文句を言いながら、それさえも楽しんでいるように見える。ガイルには、とても楽しむなんて余裕はないというのに。
ハロンドール神聖王国を離れ、いよいよ旅が危険なものとなったときにバーザムが言ったものだ。
「俺もオルズデールも本当はおまえに感謝してもいいぐらいなのさ。なにしろ10年以上、かれこれ14、5年になるが、おなじところに居座っていたのも窮屈だったんでね。おまえのことがなくたって、2人とも、いいかげんに放浪の虫がむずむずしてたところだったのさ」
「でも、俺のせいで先生まで“学院”を追放になってしまって・塔に大事なものとか、残していなかったんですか?」
彼がおそるおそるオルズデールの顔色をうかがうと、老魔法使いは心底気持ちよさそうに高笑いした。
「ヴァリのやつが束になったところで、わしの塔に傷ひとつつけられるものか。そんなことはとうの昔に対策済みじゃよ、わしの塔はちゃーんとわしの特製の〈結界〉に守られておるわい。ま、万が一破られるようなことになってみろ、ただではおかんから」
そこに自分の部屋もあったことを思い出して彼はちょっとだけほっとした。この旅が終わるころにはあの部屋も無用のものとなっていればいいのだけれども。
もっともバーザムはめいっぱい嫌そうな顔をして、オルズデールやそのヴァリという大賢者のためではなしに、そんな事態に陥らないことを願ったようだった。
つまるところ、彼らの目的とは、いまはいなくなったといわれる、古の民を探し、杖の呪いを解くことにあった。そのために人影の絶えて久しいダンドカンバ山脈で地の民の遺跡を見つけて探索し、ここで駄目ならば、古森の森の民を探さなければならないのである。
失われた魔力を再び取り戻すためには、古の民を探さなければならず、そうできなければ、ガイルにはアダモン島に戻ることさえも無理なのだから。
それが知識魔の返答だった。身体の小ささに比べれば、滑稽なぐらいに巨大な頭を持ち、昆虫のような複眼を持った異なる世界の生き物。
視界の隅で何かが動いたような気がして、ガイルは矢をつがえた。立ち止まり、耳を澄ます。自慢じゃないが弓は苦手なのだ。
辺りはすっかり夕暮れ時だ。もたもたしているうちに、もうこんな時間になってしまったらしい。
これが獲物をしとめる最後の機会だと思い、彼は緊張していた。どこにいるのか。もしかしたら、動物ではないのかもしれないと思ったとき、そいつは襲いかかってきたのだった。
慌てて放った矢は、それでも外しようがなく、そいつを掠めた。
短い叫び声があがった。その鋭い爪を避けきれず、額に血がにじむ。
こんな近距離では弓は役に立たない−−−もっと離れていても、彼の腕前ではどうかわからないが。ガイルは弓を投げ、素早く腰の短刀を構えた。獲物の皮を剥ぐために持ってきた、さんざん雑草を切り払うのに使った例の刃の厚い幅広の短刀である。
けれど、相手がただの動物ではないと知って、ガイルはしばし呆気にとられ、すぐに全身の血が逆流するのを覚えた。
やはり噂は本当だったのだ。地の民の遺跡とその周辺のダンドカンバ山脈中腹に妖魔が出るという話は。
彼にとってはいくら憎んでも憎みきれぬ化け物だった。両親や友を殺した仇、不倶戴天の仇敵だった。
だいたい、動物が自分より大きな生き物を襲うはずがないのだ。それだけでも妖魔だという充分な証拠である。
その妖魔は大きさは穴熊ぐらいだったが、湾曲した爪は長く、吐く息は異様に臭かった。その目には明らかな殺意と悪意が満ちていて、人間の言葉まで操るのである。
「ケケッ、コンナトコロニ人間ガ来ルトハ。動物バカリ喰ラッテアキアキシテイタトコロダ、ケケッ」
「そう簡単にやられるものか!」
「ケケッ、がきトイウニハチョット固ソウナ肉ダナ」
ガイルは、長剣を置いてきたことを悔いた。長さからいっても短刀では不利だし、なにより戦い慣れてもいない。短刀は敵にとどめを刺したり、取っ組み合いになってから初めて役に立つものだ。
もちろんバーザムは短刀の使い方や武器がなくなったときの戦い方も教えてくれたが、妖魔相手ではどれだけ役に立つのか、なにしろぶっつけ本番なのだから見当もつかない。
それでも妖魔に背を向けることなどできるはずがなかった。彼は短刀の柄を握りしめて、覚悟を決めたのである。
「ふぅむ、手ごわい扉じゃな。バーザム、わしはそろそろ休憩したいんじゃが、ガイルのやつはどこまでほっつき歩いておるのだ? …どうかしたのか?」
「いや、叫び声が聞こえたものでな」
長剣を片手に、もう片方には火のついた薪を持ってバーザムは立ち上がった。剣は古いながらもきれいに磨かれて、火を反射するぐらいだった。ダンドカンバ山脈に入ってからは、草を切る以外の用途では使ったことがない。
「ガイルか?」
樫の杖を抱き寄せたオルズデールの声音には、いつものおちゃらけはなかった。
「ちがう。動物か、あるいは化け物か…オルズデールよ、お主の勘もまんざら捨てたものではないな」
老魔法使いをかばうべく後ずさりしながら、バーザムは姿を現した化け物に一瞥くれた。こっそり襲う気などさらさらなかったらしく、妖魔は数にものを言わせて大胆に姿を現した。
「まんざらだけ余計じゃわい。
やはり、遺跡におったのは妖魔というわけか。しかしバーザム、この数では助けに行ってやる時間はなさそうだぞ」
10匹ほどの化け物に、オルズデールは自分が働くわけでもないのにうんざりしたようだ。
「妖魔ふぜい、片づけるのに手間取るものか!」
長剣が一閃して、妖魔の首が転げ落ちる。その切り口に、彼は油断なく炎を押しつけた。息が止まるかと思われるほどの悪臭が立ち上り、妖魔以上に強烈に彼らを襲った。
けれども首を切らせておいて、そのまま2匹に増える化け物など嫌というほど見ていたから、オルズデールも長衣の袂で鼻と口を覆うにとどまった。
2人は知らぬことだったが、ガイルのもとに現れたのと同じ外見の化け物である。一見穴熊のようだが、より凶暴で邪悪だ。
「オルズデールよ、あの剣を拾って、やつらの輪を突破できるか?」
バーザムは顎でガイルが置いていった長剣を示した。戦うのに手間取ることはないとはいえ、彼らは長いこと妖魔に接していなかったために忘れていたのだ。妖魔も魔族も、いわゆる化け物と呼ばれる異形の怪物たちは夜、それもとくに月夜の晩を好むのだということを。
「たやすいことよ」
「こっちを片づけてから探しに行ったのではガイルのほうもどうなっているのかわからんし、それにあいつは囲まれてるかもしれない。数はわからんが、ちがうやつがいるかもしれないしな」
そう言いながら、襲いかかってきた1匹を、バーザムは一刀のもとに斬り倒した。引退して10年以上経つとはいえ、元傭兵隊長の腕前は、まだまだ衰えてはいなかった。
“我は一陣の風! 風の如き疾きもの!”
それを見て、目にも止まらぬ速さで、呪文を唱えたオルズデールは飛び出した。剣を拾い、まさに風のように、ガイルの姿を求めて、森のなかを自在に飛んで捜し回ったのであった。
最初の1匹はたやすく倒せたが、ひときわ大きい、一群の頭のようなやつが出てくると、形勢はガイルに不利だった。
旅に出てからはバーザムに毎晩のように鍛えてもらっているし、そもそも5年間も鍛錬を積んできてはいたのだが、いかんせん実戦はこれがほとんど初めてだったのだ。
ハロンドール王国はその長い歴史のなかで内乱もなかった平和な国だ。今度の旅は最初の2ヶ月はハロンドールを出るために費やされた。他の国ではおよそ考えられないことだが、ハロンドール国内ではあらゆる街道にかならず警備隊が常駐している。ハロンドール王家の紋章〈双頭龍〉のついた制服を誇らしげに身につけ、投げ槍を3本と長剣に短剣を一振りずつ備えた街道巡視兵には何度かお目にかかった。彼らがいるのでハロンドール王国の秩序は保たれている。旅人は安心して1人で出かけられるし、手紙も荷物も確実に届く。物品の流通も滞ることはないし、それゆえにハロンドールは豊かなのだと言われてもいる。
その替わりというわけではないだろうが、一歩ハロンドールを出てしまうといきなり危険地帯で、一人旅はとうてい無理だ。もちろんいくらハロンドール王国でもその辺境地帯はかなり危なく、外の危険さが忍ばれる。
ガイルたちも一度夜盗に襲われたのだが、バーザムが一撃で盗賊を倒したことに恐れをなして、そのせいか以来一度も襲われないで済んでしまったのだった。
それから剣を振るうのはもっぱら草を切り払うときだけでは、いくらバーザムがいい先生でも、ガイルが呑み込みのいい生徒でも、そう上達するはずもない。
たちまちのうちに、ガイルはそのぬらぬらした鉤爪の餌食になった。鎧は紙のように裂け、数カ所に血がにじんだ。どれも致命傷ではないが、逆になぶられていると感じた。
しかも、相手の爪に毒があったのか、気がつくと足元はふらふらしており、もはや体は思うように動かなくなっていた。
「ガイル! どこじゃあ?」
オルズデールの声が聞こえたのはそのときのことで、彼は渾身の力を振りしぼって叫んだ。短刀さえろくに振るえなくなっていた。
「先生、ここです!」
化け物たちが彼に殺到したその刹那、突然ガイルは金色の光を帯び、その周囲で次々に爆発が起こった。
オルズデールがなにか呪文を唱えていたのは聞いたが、その意味などわかるはずもない。
彼は地面に放り出されたが、怪物たちは大きなやつを残してみな吹き飛ばされ、その頭さえも、爆発のために大怪我を負っているような有り様だった。
オルズデールが弟子の傍らに降りる。その手から、粉がぱらぱらと落ちた。
「まだ生き残っておったとはしぶとい奴じゃ。とどめを刺しておこうか!」
もはや動けぬ妖魔が相手では、いくらろくに剣を握ったことがないオルズデールとはいえ、とどめを刺すのはたやすいことであった。
「ふん! 妖魔相手に金剛石とは、ちとやりすぎたかのぅ。我ながらたいした腕前じゃわい。ガイル、おまえにはこういう呪文を使う機会も−−−おっとっと、感心しとる場合じゃない」
老魔法使いは、ポケットの一つから薬瓶を取り出し、ちょっと呪文を唱えて、中身を飲み干した。名札もついていないのによく間違わないものだ。空の瓶はまたポケットに戻した。
ぐったりと横たわったガイルは、オルズデールよりも頭一つは高く、痩せているとはいえ、鍛練の賜物で筋肉だってついている。が、魔法使いは、その彼をこともなげに片手で抱き上げると、再び風のように飛んで、バーザムのもとに戻ったのだった。
バーザムはといえば、かすり傷を数カ所負っただけで、妖魔はすべて倒していた。それもほとんどが一撃によるもので、鮮やかとしか言いようのない手並みであった。幸い、彼は毒も受けなかったようだ。
「剣は間に合わなかったようだな。ガイルはどうしたんだ?」
「動けんようじゃ。意識はあるみたいだから麻痺毒じゃないかと思うんだが、これから詳しいことを調べるところじゃ。妖魔が相手だ、これ以上面倒なことにならなければいいがな」
オルズデールのすることを、バーザムは黙って見守るしかない。手伝えることといったら、せいぜい動けないガイルの服を脱がすぐらいだ。
「皮肉な話じゃな、バーザムよ」
「ん?」
「寄生虫にやられた傷痕が、ほれ、鎧を裂くほどの鉤爪から、ガイルを守っておるのじゃからなぁ」
「まったく」
2人は思わず苦笑いを浮かべずにはいられなかった。
寄生虫騒動を思い出すと、いまでも背中がぞくぞくしてくる。あれが、ガイルとの付き合いの始まりで、あのときは、2人とも傭兵家業から引退してかれこれ10年も経ってからの事件だった。
アダモン島でガイルの背に押された焼印は、おそらくはエズリモルなり、別の大陸にたどり着いた時点で、寄生虫の正体を現すように仕組まれていたのだろう。それは、2日目にして本性を表した。ガイルの手の甲から背、腰、膝の裏までの皮をそっくり剥ぎ、一時だけではあったが、彼を思いのままに動かしていたばかりか、妖魔相手なら決してひけをとらなかったバーザム以上の強さだったのだ。その痕はいつまでも残り、彼らに忘れさせることなく事あるごとに、こうして思い出させてやまない。
「この鎧はもう使いものにならんな。妖魔が相手では無理もないが」
めちゃめちゃになった革鎧を、バーザムはさらに細かく刻んで捨てた。
「やっぱり麻痺毒じゃな、これは。放っておいても抜けるじゃろうが、時間をかけることもあるまい。一応解毒をしておくとしようか。大したことがなくてよかったわい」
オルズデールは、ポケットから取り出した黒っぽい葉を数枚、口に入れてしばらくもぐもぐしていたが、赤黒い液が出てきたところで、それらを傷口に貼りつけた。しかし味のほうはいただけなかったらしく、何度も唾を吐いて、しきりにうがいをした。
当りが真っ暗になったころ、ガイルはようやく身動きできるようになった。バーザムは火を起こしなおしていて、ぱちぱちという音が虫の声と唱和した。
「大丈夫か?」
「ええ…多分…」
けれど、まだ指先は痺れ、頭もはっきりしない。思っていたよりも強力な毒だったようだ。
起き上がろうとして、彼はオルズデールに止められた。
「その葉が落ちるまでじってしておれ」
「でも…」
「どうせ扉は開いとらんのだ。開いていたところで、いまのおまえを連れていくわけにはいかんしな」
「残念だが、今日もこの杖を使わなければならないというわけさ」
バーザムが、合言葉を唱えて〈創造の杖〉を振る。この失敗作の唯一の利点が、合言葉さえ知っていれば、だれでも使えるところだけとは、まったく情けない話だ、とオルズデールは渋い顔になった。バーザムに言ったとおり、だれでも造れる杖ではないのだが、仮にも賢者を名乗る身としては、たとえ専門外とはいえやはり満足できるはずもない。
それ以上に、不味い弁当のことを思って、いつになく暗い顔だ。
それから空を見上げて、老魔法使いはぽつりと呟いた。
「月が2つとも隠れておるとは、まったく暗い晩じゃて。もっとも月夜を好む妖魔どもを避けるにはしょうがないというべきかな。のぅ、バーザム?」
「俺はたとえ化け物が出るとしても明るいにこしたことはないがな。ともかく寝ずの番を立てるとしよう。交代で見張れば、万が一にも危ういことはあるまい」
「そうじゃな。バーザム、お主、一人で立ってくれ。後でわしとガイルでやろう」
「わかった」
「先生、扉が…!」
ガイルが声をあげると、オルズデールもバーザムも思わず振り返った。
のっぺりしているだけかと思われた扉に、文字のようなものが白く浮かび上がっている。月もない暗闇のなか、それはきらきらと微かな輝きを帯びていた。文字だとすればそれは楔形の、刻むのに適していそうな字だった。
寝る支度を早くも始めようとしていた老魔法使いは、急いで扉に近づいた。
「読めるか、オルズデール?」
「わしの知っている字ではないな。おそらくは、地の民の言葉であろうが…魔法をかけてみれば、読めるようになろう」
「でも、どうして夜なのに、文字が出たんでしょう?」
「それも魔法じゃな。そういう伝承を聞いたことはないか? これはおそらく新月文字と呼ばれるものじゃろう。新月のときだけ読むことのできる、暗号に使われるような文字じゃ。古の民がいかにも考えそうなことではないか。すでにここからが地の民の遺跡なのじゃな。悪意はなかろうが町を守る仕掛けがあっても、これほどの技術の持ち主たちじゃ、おかしくはない。気をつけんとな」
ガイルもバーザムも無言で頷いた。これから向かうのは、ダンドカンバ山脈の内部に造られた町なのだ。そこは、つねに光を欲する、人間の領域ではないのだった。
その晩は結局は何事もなくてすみ、翌朝、オルズデールは写しとっておいた文を、地の民の言葉そのままに読みあげた。濁音が多くて、聞き取りにくい言葉だとガイルは思った。エズリモル大陸に来てから覚えた言葉や、彼が知っていたアダモン島の言葉とも共通点はなさそうだった。
痺れはすっかりとれており、彼は今度からはどんなときでも長剣を身から離すまいとベルトをしっかり締めた。
“友よ、我は来た。戸を開けよ、我らが古き友情のために”
岩は中央から真っ二つに割れ、3人の前に、暗い入口が顔を出す。
「良き時代があったものじゃな。友というだけで戸を開けることができるのだからな」
「それも、古の民とやらの性質か?」
「さあてな。どちらにしてもいまのわしらには無縁のことよ」
強い好奇心のためもあって、ガイルは通路に首を突っ込んだ。
すると、どのような仕掛けかはわからないが、ぽつぽつと光が灯り、先に続く路を示したのだった。どこまでも続くまっすぐな路だった。
この先に、地の民の町があるのだ。その規模も構造も、だれも正確に知らない古の王国の跡が。
「ガイル、おまえにはしんがりを頼む。さあ、行くぞ」
一行が入って間もなく、扉はゆっくりと背後で閉まり、外の明るさを完全に閉め出した。
ガイルは一度だけ振り返ったが、いまは地の民か、彼らの遺したものを探す方が先決だということを思いなおし、先を行くオルズデールの灰色の長衣を慌てて追ったのだった。