JSA

JSA

韓国、2000年
監督:パク=チャヌク
出演:オ=ギョンピル(ソン=ガンホ)、イ=スヒョク(イ=ビョンホン)、ソフィー=チャン(イ=ヨンエ)、ナム=ソンシク(キム=テウ)、チョン=ウジン(シン=ハギュン)、ほか
主題歌:金光石「宛のない手紙」「二等兵の手紙」
見たところ:いろいろ

 公開初日にソン=ガンホ氏が舞台挨拶に来るというので、有楽町まで行って、実家の近所で見て、最近DVDで見ました。都合3回見てることになります。実は大好きな映画というわけではなくて、気になるところがあって、二度三度と繰り返し見てるのです。と言っても、この映画の主題は「カル」のような謎解きではなく、1回見れば、大方の筋はつかめるはずです。で、たきがはが気になったところと言いますのが、主役の1人であるスヒョクの自殺でこの映画は幕となります。しかし、パンフレットのイ=ビョンホン氏のインタビューを読むと、実は別バージョンの終わり方も検討されていて、そちらではスヒョクは自殺せず、除隊してから数年後、韓国の法律下では会うことのできない大切な兄貴、オ=ギョンピルの赴任先であるアフリカへ向かうところで「この人に会いに行くんだ」というエンディングもあったらしい。分断された祖国では決して育むことの許されない友情。遠い異国の地で、その約束が果たされるというもう1つの悲劇、というわけです。たきがは、基本的に自殺する登場人物に興味がありませぬ。共感できない。ですから、スヒョクの自殺より、もう1つのエンディングの方がよほどいいと思ってた。でも、実際にはスヒョクの死、まだ4人の兵士が生きていたころの偶然写された実はのどかなスナップで映画は終わりますから、気になるところというのは、なぜこっちのエンディングだったのか、なぜスヒョクが死を選ばなければならなかったのか、という点だったのでした。

で、3回目でやっと気がついたのですが、4人の兵士のなかで、オ=ギョンピル以外は実はただの青年ではないか、ということでした。最初に殺されてしまったチョン=ウジン、ソフィーの取り調べに耐えかねて自殺を図ったナム=ソンシク、最後まで生き残るものの、最後の最後で死を選んでしまったイ=スヒョク、この3人がごく普通の若者、日本にだっていそうな、ごくごく普通の青少年たち、ぶっちゃけた話、オ=ギョンピルに比べたらてんでガキっぽい3人だったのです。そう、数少ない登場人物のなかで、オ=ギョンピルただ一人が、いちばん理性的で、いちばん剛胆で、いちばん大人で、なにより兵士であると。いちばん若いチョン=ウジンのキャラクターは、ナム=ソンシクに弟分扱いされ、靴クリームの塗り方を教えられていることからもわかる。そのナム=ソンシクも、イ=スヒョクよりも若いし、妹の言い分では「友達もいないような暗い性格」であると言われる。2人よりも大人のようなスヒョクでさえ、実はよく見ているとオ=ギョンピルとは比べものにならないガキんちょである。言動の若いことが見ているとわかる。ということは、オ=ギョンピル以外の3人が、どれほど自分たちの友情がやばい橋を渡っていて、発覚すれば刑罰間違いなしということを理解していたのかは疑わしい。韓国の兵士が北朝鮮の兵士と接触することは厳罰ものだと映画のなかで言ってますが、そうとは知っていても、自分に当てはめていたとは思えない。

なので、この映画の悲劇はまさにそこにあったのではないかと思いました。ごく普通の青年たちが大した自覚もなしに踏み込んでしまった、朝鮮半島がいまだに休戦中であり終戦していないという重い事実のなかで、ある者は殺され、ある者は激情にかられて殺してしまい、ある者は死を選んだ。だから彼らは死んでしまった。けれど、友情を育んだ4人のなかで、たった一人、兵士で大人だったオ=ギョンピルは死ぬこともなく、チョン=ウジンのことを訊ねられて、ソフィーに「死んだ者のことは忘れた」と答えられるのではなかったのかと。「忘れた」と言いながら、オ=ギョンピルは人間として、死んだ人のことを決して忘れられないだろう、忘れないだろうと思います。もう1つのエンディングのスヒョクは、きっと兵士のスヒョクであって、普通の若者のスヒョクではなかった。「JSA」は、普通の若者を見舞った悲劇、引いてはその発端となっている半島分断の悲劇が主題であると思いますので、スヒョクは普通の青年でなければならなかったんじゃないか、そんなことを思いました。

(了)

[ もっと映画日誌を読む | 映画日誌のトップに戻る | 五十音順一覧 | 映画のトップに戻る ]
[ トップページ | 小 説 | 小説以外 | 掲示板入り口 | メールフォーム ]