マフマルバフ監督づいてます。その最新作。アフガニスタンといえば、2001年9月11日の同時多発テロ事件以来、一躍世界の注目を浴び、カンダハールはその「悪役」タリバンの本拠地。けれどもその時まで、いや、バーミヤンの大仏破壊まで、アフガニスタンというのはずっと世界から忘れられた国でした。1979年12月のソ連軍侵攻と軍事クーデター、その後のムジャヒディンの戦い、ソ連でゴルバチョフ書記長の登場、続いてペレストロイカが起こり、1989年にソ連軍の撤退、暫定政権の誕生、内戦の始まり、そしてパキスタンのアフガニスタン難民からタリバンが登場するまで、アフガニスタンの情勢は新聞の国際面からも消え、忘れられていったのです。これは、そうした国際社会を告発した映画です。平和の代わりに武器を与え続け、アフガニスタンを20年以上に及ぶ内戦に陥れたアメリカやパキスタンを初めとする国際社会を告発した映画なのです。
カナダに亡命したアフガニスタン人ジャーナリスト、ナファス。彼女は「20世紀最後の日食の日に自殺する」と書かれた妹の手紙を受け取り、妹のいるカンダハールを目指しての旅が始まります。妹は亡命の時に地雷で片足を失っていてアフガニスタンに残りましたが、女性の社会参加を一切封じたタリバン支配下の故国で、生きる希望を何もかもなくしてしまったのでした。最初はイランからアフガニスタンに帰還する難民一家の第4夫人になりすますことでカンダハールに向かおうとしますが、途中で盗賊に襲われて一家は帰ることにし、ナファスは一人になってしまいます。タリバンの宗教学校を放校された少年ハクの道案内で次の町に向かったナファスは、そこで元ムジャヒディンのアメリカ人、ブラック・ムスリムのサヒブと出逢います。ソ連と戦うことが神を探す道だと考えてアフガニスタンにやってきたサヒブでしたが、今は医者となって人びとを救うことが神を探す道なのだと考え直していました。けれどもサヒブはカンダハールの刑務所に入れられていたことがあり、ナファスを送っていくことができません。2人が次の道案内に選んだのは、地雷のために右手を失ったと言うハヤトでした。ナファスとハヤトは、花嫁を送る女性たちの中に混じりますが、人びとの群れはやがて3つに分かれ、カンダハールに向かう途中にはタリバンの検問が待っていました。ブルカをかぶって女性のなりをしていたハヤトは検問に引っかかってしまいますが、ナファスはカンダハールを目指して旅を続けるのでした。日食は明日に迫っていました。
見終わった時に、「あれ、妹との再会は?」と思ったんですよ。ナファスの旅は途中で、果たして間に合うのかもわからないし、間に合っても妹とどうするのかも不明だし。でもよくよく考えてみたら、この映画の主題はそうじゃないんです。ナファスが妹に会えるかどうかというのは、この映画にあっては狂言廻しにすぎないのですね。監督が描きたかったのは、ブルカに閉じ込められた女性たち、人形を地雷だから触ってはいけないと教える学校、パラシュート付で落とされる義足を、松葉杖をつきながら必死の形相で追いかける男たち、そうしたアフガニスタンの今であって、ナファスの旅が途中で終わってしまうことは、まさに世界から忘れられた国、世界が忘れ去った国、アフガニスタンそのものなのではないかと思ったのでした。だから逆に、この旅は終わってはいけない、ナファスが妹と再会して良かった良かったでもなく、妹の死に間に合わなかったでもなく、後の物語はアフガニスタンへの償いに、国際社会が紡いでいかなければならないのではないのかな、と思ったのです。無数のナファスと、その妹、ハヤトやハクのために。
朝日新聞の批評で、マフマルバフ監督が「アフガニスタン固有のブルカを否定的に描いている」という部分は当てはまらないんじゃないかと思います。ブルカそのものの目的が女性の外見を閉じ込めることにあるんですから(イランのチャドルと違って、全身、目まで隠しちゃう)、その中に女性が物を隠したり、ブルカそのものをおしゃれにしたりすることはできるけれども、やっぱりブルカは女性を抑圧する道具なのだと思いましたね。ラストで色とりどりのブルカが砂漠を歩いていくシーンがあります。作家の村上龍さんとの対談で監督は「このブルカを美しいと思うことは、ハリウッド映画で首が美しく飛ぶことと同じようなものだ」と仰っていたんですが(うろ覚えだけど)、檻はいくら美しくても檻であると、そういうことが言いたかったのかもしれません。
(了)