例によって浅野忠信氏につられて行くやつ。しかし、今年最後の映画とするにはかなり物足りなさが残りました。「ぴあ」のインタビューで、彼がいみじくも「10年前に自分のたどりつきたかったところに全然来られていない」と答えたとおり、こんなんでいいのか、って感じです。台詞ほとんど棒読みのようなUAにも、さほど魅力を感じず、全編の半数以上のカットを占める雨の景色だけが印象に残りました。
自他ともに認める雨女の涼。彼女の大切なことがある日には必ず雨が降る。親知らずを抜いた日、ただ一人の家族である父と婚約者のヨシオを同時に失った日にも土砂降りの雨が降っていた。涼の家は、関西のとある町で「ひかり湯」という銭湯をやっている。父を失い、銭湯を続けていくべきかどうか迷った涼は、傷心旅行で、風のように自由に生きるユキノに出逢う。「初めて逢った人と仲良うしたかったら、なんにも訊かんことや」と言うユキノ。戻ってきた「ひかり湯」に、どこからやってきたのか、見知らぬ男があがりこんでいて、勝手にご飯を食べ、父の布団を敷いていた。「火を見ると落ち着く」という男の素性もわからぬまま、涼は彼を銭湯の火の番に雇う。やがて結ばれる2人。だが男には、涼の知らない事情があった...。
ネタばれになるのであんまりおおっぴらには書けませんが、優作のキャラクターが甘いのが不満。「火を見ると落ち着く」というところから、正体がばれてきて、実はあの台詞の裏には「こーんな事情」や「あーんな事情」があったのよ、という辺りで、もっと凄みがほしいです。涼の雨女というシチュエーションは、演出でいくらでも雨を降らせることができるわけですから、役者が多少大根だろうが、必然性は出てくるんですけど、「火の男=火に取り憑かれた男」というところがもっと伝わってこないと、「地水火風」というファンタジーでは手あかのついたような設定は生きてこないのではないかと思うわけですね。そういう意味では、小川眞由美さんの翠も、「地を這うように生きている女=地の女」って、それはあんまり直球すぎるっしょ。直球と言えば、みんなそうなんですけど。
そう、映画では珍しいのかもしれませんが、ファンタジーのゲームとか漫画とか小説とか読んでる人間には、この設定はちょっと古いし、書き込みが足りないし、ひねりもないのです。そこらへん、もちょっと想像力がほしかったね、監督、とか思いました。今時、ここまでべたべたな設定のファンタジーはなかなかないぞ。
黒澤映画ファンにはおなじみの頭師佳孝氏(「赤ひげ」の長坊、「どですかでん」の六ちゃん、とか)が出てると言うので、たきがは、目を皿のようにして探しておったんですが、全然わかりませんでした。ううーん、かつての面影はあるわけないかぁ。
(了)