Stage Four「戦場に翻るは青き旗」
「マチルダはいるか?」
「ミネアとあそこにいますよ」
解放軍のリーダーが己が身と武器以外の物を持っているのは珍しいことだ。そう思いながら騎士アレック=フローレンスの指した先では、マチルダ=エクスラインとミネア=ノッドを中心に女性陣が賑やかに朝ご飯の支度をしていた。その中にはマンジェラ=エンツォやシルキィ=ギュンターに引っ張ってこられたのであろう、若い戦士たちの姿も混じっていて、朝食の時間が近いことを暗示してもいた。
そして、そちらに近づいていったグランディーナは先を引きずりそうな曲刀のほかに、使い古した槍を1本と大きな無地らしい青い布を抱えている。
「マチルダ。この布を旗に仕立ててくれ」
その場にいた全員がその一言で一斉に手を止めて、マチルダ以外の者はまた自分の仕事を続けた。朝食は古くて堅くなったパンと腸詰めと野菜のスープらしい。
「旗にとはどういうことでしょう?」
「周囲をかがってこの槍につけてくれればいい」
「旗って解放軍の旗ですか?」
ユーリアの言葉にグランディーナは頷いた。
「お待ちください。旗など作らなくても私はゼノビア王国の旗を持参しております。それを解放軍の旗にすればいいではありませんか」
「駄目だ」
マチルダが身動きするまでもなくグランディーナは即答する。気丈な彼女もそれで気をそがれた。
「ゼノビア王国の旗を持ち出してはならない。それは私が預かる。出せ」
2人のやりとりをユーリアが息を呑むような表情で見つめている。だが、それ以上騒ぎにならぬうちにマチルダの方が折れた。きれいに折り畳まれた旗を、グランディーナは無造作に脇に抱え込んだ。
「お待ちください。いい機会です。肩の抜糸をさせてください。もう問題ないでしょう」
「わかった」
マチルダの言うとおり、人狼シリウスに噛まれた傷は治っていた。だがいくら彼女が腕のいい治療者でもあれほどの傷痕が残らぬようにすることはできない。
「また傷が増えてしまいましたね」
「いまさら1つ増えたところで気にすることはない。終わったのか?」
「待ってください、もう少し」
マチルダの手が離れるとグランディーナはすぐに立ち上がった。彼女自身の言うように傷痕は数え切れない。それを周囲の者が気遣ってもいまさら、といなされるばかりだ。
「今日の昼飯後にゼノビア城攻略の話をする。旗はそれまでに仕上げておいてくれ」
「わかりました」
グランディーナがいなくなると、マチルダはそっとため息をついた。だが彼女はすぐに青い布地を広げて針と糸を取り出した。周りで賑やかに朝食を配っている声も耳に入っていないようだった。
白竜の月10日、ゼノビア城の真東に位置する城塞都市バイロイトの郊外が解放軍の野営地である。
ここから西にゼノビア城の城壁が見える。威風堂々としたその内には、現在はゼノビア王国の滅亡後、難民となった人びとが押し合いへし合いして住み着いており、24年前の栄華など微塵も感じさせないスラム街を形成している有様だ。ゼテギネア大陸でいちばん優美な都と言われた面影はない。
ヴォルザーク島を発ってから1ヶ月以上がすでに経過していた。それでも解放軍は当初の目的の1つに達したのであった。
「明日からゼノビア攻めですか?」
「アラディか。あまり気配を隠して近づくな。斬るかもしれないぞ」
「そんなへまはしませんよ」
そう言って彼は邪気のない笑顔を見せた。
「有名人についてお二人、情報をつかんだので戻りました。1人はゼノビア王国元騎士団長アッシュ=クラウゼン殿、もう1人はゼノビア王国第2皇子フィクス=トリシュトラム=ゼノビア殿です」
「アッシュというのはグラン殺害の張本人か? ウォーレンやランスロットたちに知られたら黙っていないだろうな。どこにいる?」
「そこのバイロイトに幽閉されています。ゼノビア王国以前から強固な監獄があったので有名ですから。トリスタン皇子はゼノビアにはいないようですが生存は確実です」
グランディーナは城塞都市に視線をやったが、すぐにそらした。バイロイトはかつて小ゼノビアと呼ばれたほど堅固な構えが特徴である。だが都市の中心はアラディの言う監獄であり、それはゼノビア王国よりもよほど古いのだった。
「皇子の噂はどこで聞いた?」
「ゼノビア城の西にカルロバツという町があります。そこに貴族たちの生き残りが隠れ住んでいるんです」
グランディーナは少しだけ考え込んだ。
「ゼノビアはもういい。このままアヴァロン島に渡って状況を教えてくれ」
「承知しました。バインゴインでお待ちしてます」
アラディは一礼して歩き去り、グランディーナはバイロイトに向かった。彼女はいまだにマチルダから取り上げたゼノビア王国の旗を持ったままであった。
だがバイロイトの門は解放軍を名乗るグランディーナに門戸を開こうとしなかった。
それで彼女はいったん野営地に戻り、まずウォーレンを見つけると旗を押しつけた。
「これを使われるのですか?」
「しまっておけ。マチルダに旗を作らせている。ランスロットと一緒に来てくれ。あなたたちに会ってもらいたい人物がいる」
「明日からゼノビア攻めでしょう? それよりも優先させる必要があるのですか?」
「ゼノビアの話は昼飯後だ。会えばわかる。グリフォンを使おう。行くぞ」
ウォーレンもランスロットも目を白黒させながらもグランディーナの強引さに慣れてきたものとみえ、黙ってグリフォンに騎乗した。彼女が「会えばわかる」と言い切ったこともあって、わざわざ訊かなくてもいいだろうという判断も働いている。
グランディーナはエレボスを操り、野営地のすぐ近くに見える城塞都市(バイロイト)のなかでも、ひときわ目立つ建物のすぐそばに強引に突っ込んだ。ポリュボスとシューメーがそれに続く。エレボスのいいところは無条件に魔獣を従わせられることだ。このグリフォンが行くところにどの魔獣も従う。
「バイロイトの監獄というのはここか?」
「そうだが、おまえたちは何者だ?」
「私は解放軍のリーダーだ。バイロイトに入ることを断られたが、ここの囚人に用がある」
言うなりグランディーナは曲刀を抜き放った。
「な、何をする気だ? ここがゼテギネア帝国の管轄下と知っての行動か?」
そうは言ったものの、守備兵は事態を察したらしく脱兎のごとく逃げ出した。
「そこまでして助け出す必要のある囚人がここにいるのか?」
やっと事情を呑み込んだランスロットが言ったが、グランディーナは刀を収めて建物の中に踏み込んだ。
だが鍵の束を取り上げて片っ端から牢獄の扉を開けまくっても使われていたのはそのうちの1つだけであり、彼女はそこに入っていく。後を追った2人はそこにいた囚人の姿にどちらも驚きを隠せなかった。
「団長ではありませんか! 生きておいでだったのですね?! よくぞご無事でいてくださいました!」
「そなた、ランスロット=ハミルトン、か?」
ランスロットは団長と呼びかけた男の前に恭しく片膝をつき、頭まで下げた。
「よく覚えていてくださいました。あなたに従騎士叙位をしていただいたランスロット=ハミルトンです。団長、あなたはとうにゼテギネア帝国に処刑されたものと思っていました。このようなところに囚われておいでと知っていたならばもっと早くお助けに来ましたものを、申し訳ありません!」
「わしがここにいたのが何のためであるか知っていて、そのような口がきけるか、ランスロット?」
「存じております。ですがわたしは信じておりません。団長が最も敬愛される陛下を暗殺されるなど、あり得ないではありませんか!」
「積もる話も多いようだがここを出てから話してはどうだ。あの様子では帝国兵も戻って来なかろう」
「そなたは何者だ?」
「私はグランディーナ。解放軍のリーダーをしている。この2人も解放軍の一員だ」
鋭い眼光がアッシュから放たれた。身長はランスロットよりわずかに高い。だが枯れ木のように痩せていて節くれ立った手はずっと大きく、元ゼノビア王国騎士団長という肩書きに恥じぬ威圧感はランスロットとは比べものにならなかった。
だがグランディーナはその視線を軽くかわした。ウォーレンもランスロットもそれは予期していたことだったが、彼女とアッシュとのあいだにはわずかな緊張感が走る。
「彼女の言うとおりです、まずは外に出ましょう。ここはあなたのような方がいらっしゃるところではありません」
「なぜそう思う? ウォーレン=ムーン、そなたとて、わしの罪を知らぬわけではあるまい?」
「存じております。ですが、わたしもランスロットのようにあなたのしたことなどとは信じておりません。グラン王を殺した者は別にいるはず、あなたとて、それをご存じでいながら理由があって獄に繋がれていたのではありますまいか」
アッシュは黙した。それに勢いづけられてウォーレンは言葉を続ける。
「沈黙もまたひとつの回答です、アッシュ殿。どうかご存じのことをお話ください。わたしたちの敬愛するグラン王の名誉のためにも、あなたは無実を晴らされなければなりますまい。陛下が、最も信頼されていた騎士団長に暗殺されたなどという不名誉があっていいはずはありません。あなたがご無事であったいまこそ、その汚名は濯がれるべきです」
ウォーレンの隣で立ち上がったランスロットが力強く頷いた。グランディーナは一足先に牢を出る。
「外に出て話すとしよう。ここは暗い」
「それでは鍵を」
「必要ない。わしはこのとおり、鎖に繋がれてなどおらぬよ」
「は、はいっ」
暗い獄から表に出ると、日差しがまぶしかった。ほんの数分入っただけのウォーレンやランスロットでさえそうなのだから、長年閉じ込められていたアッシュには目を刺すようなほどと推測される。現に元騎士団長は目の上にかざした手を長いこと下ろそうとはしなかった。
しかしバイロイトの牢獄には座って話せるような気の利いた中庭もなく、4人は建物を出た。
突然上空から侵入した3頭のグリフォンと逃げ出した帝国兵に周辺の住人が何事かと集まっていたが、入り口にエレボスが立ちはだかっているために近づけないでいる。
「このまま野営地まで戻るか?」
「それが良かろう。ここでそなたたちに話し、またここにいない者に話すのでは二度手間だ」
「ならば、あなたには私と同乗してもらおう。エレボスならば2人乗せても速度は落ちまい」
グランディーナの言葉にアッシュは頷いた。
ランスロットとしてはぜひ憧れの騎士団長と同乗したいところだったが、シューメーでは2人乗せると極端に速度が落ちるし、エレボスは彼を受けつけないので反対しようがなかった。
「我々は解放軍だ。2、3日中にゼノビア城からゼテギネア帝国を追い出す。腕に覚えのある者はいつでも来るがいい!」
聴衆の返事を待たずにグリフォンは飛び立った。
牢獄を中心に小さくまとまったバイロイトの町は眼下に小さくなり、解放軍の野営地に張られた天幕がすぐに目立つようになった。
「そなたはゼノビア王国の者ではないのか?」
「縁もゆかりもない。だがウォーレンたちとは縁あってヴォルザーク島から行動をともにしている。あなたがバイロイトにいることを知って彼らを連れてきたがあの反応は想像もしなかった」
アッシュが返答しなかったのはグリフォンが次々に着陸したためばかりでもなかったろう。エレボスを降りて彼は少しよろめいた。
「大丈夫ですか、団長?」
ランスロットが文字どおりすっ飛んできて手を出したが、アッシュはそれを断った。牢獄で老いさらばえ、長の月日もその肉体を衰えさせはしたが、誇りだけは失っていないとでも言いたげで、ランスロットは若造のように気落ちする。
「わしは一人で歩ける。それよりもそなたたちにひとつ頼みがある」
「何なりと」
「わしのことは二度と団長などと呼んでくれるな。王亡き後、おめおめと生き延びて何の騎士団長ぞ。わしの無事などむしろ生き恥よ。わしがそなたたちとともに行くのは元ゼノビア王国騎士団長としてではない。一介の戦士としてだ」
「心得ました」
ウォーレンも頷いて、3人の視線がグランディーナに向けられたが、その答えはやはり素っ気なかった。
「反対するいわれはない」
不意にシューメーが鳴き声をあげた。ウォーレンとランスロットは、その声で解放軍の各リーダーたちが集まっていたことに気づいた。
いきなり3人で、しかもグリフォンで出かけたものだから、よほどの重大事態発生と思われたのかもしれない。だが元騎士団長の救出とあっては、それもあながち間違いとは言い切れない。
現にアッシュを直接知っていそうな世代の者は、突然現れた元騎士団長に相当驚いたふうだ。
「生きていたのか、あんた」
皆の心情を代表するように言ったのはカノープスだ。
「おめおめと生き延び、そなたたちには生き恥をさらすことになった」
「あんたの恥なんてどうでもいい。だが王を暗殺したのは本当にあんたなのか? 俺だって帝国の奴らの吹聴なんか信じてるわけじゃねぇ。だけどあんた自身の口から本当のところを聞きたいし、そうでもしなけりゃ納得できねぇ。王を殺したのは誰なんだ?」
「わしではない。誰がやったのかは知らないが、わしの役目は騎士団長として陛下とお2人の皇子、それに王妃さまをお守りすることであった。それが果たせなかった以上わしがやったも同然だ、わしも同罪だ。罪は償えぬ、たとえこの身があのまま牢で朽ち果てようとも罪は消えぬ。だがこうして助けられた。ならばせめて一介の戦士としてそなたたちとともに参り、ゼテギネア帝国との戦いに死地を求めることが我が願い、我が望み、わしがここにいるのはそれだけのためよ」
「アッシュさま、そのようなことを仰らないでください。私たちは、ゼノビア王国騎士団縁の者は皆、一族を奪われ、路頭に迷い、それでもゼノビア王国の再建を夢見てまいりました。アッシュさまがともにおいでくださることで私たちがどれほど勇気づけられているか、どうかお察しください」
「そなたの名は?」
「ポリーシャ=プレージと申します。父はマイヤー、母はサマンサ、ともにゼノビア王国騎士団の一員でありました」
「マイヤー=プレージとサマンサ=プレージ」
アッシュがつぶやき、しばし黙り込む。そのあいだに進み出たポリーシャはその手を固く握りしめた。
「わしが覚えているそなたは6歳の幼子であった。母のような槍騎士になるのだと舌足らずに言ったな、あのポリーシャか」
「はい!」
それをきっかけにアッシュを中心に人の輪が厚くなった。近づいていかぬのはグランディーナとカノープス、それに先に再会を果たしたウォーレンとランスロットだけであった。
「俺はグリフォンを休ませてくる。城攻めの話はいつするんだ?」
「あれが済んだらだから昼飯後だな。途中までつき合おう」
心得たようにウォーレンが頷く。ランスロットはこっそり鼻をすすり上げた。
騎士団長アッシュ=クラウゼンは神帝グラン王ともどもゼノビア王国の両輪であった。24年前、グラン王と第1皇子ジャン暗殺の咎によりアッシュはその地位を追われた。ハイランド王国侵攻前より両輪を失っていたゼノビア王国には、魔法軍団と魔獣軍団が残っていたとはいえ戦わずして勝負はついていた。ゼノビアは負けるべくして負けた。
神帝グランを戴いたゼノビア王国がハイランドに屈すれば、ほかの三王国、ドヌーブ、ホーライ、オファイスにそもそも勝ち目はない。抵抗は散発的なものにすぎず、ゼテギネア帝国の建国まではわずか戦乱勃発より1年後のことであった。
「アッシュの人気は大したものだな。俺も話を聞いた時には半信半疑だったが、もしかしたらと思わなくもなかったんだがな。ギルバルドは端からアッシュだと信じてなかったが。だが24年もの牢暮らしじゃ、あの剣の冴えはもう期待できないだろうな」
グランディーナは相づちを打つでもなく丈の長い草の葉を弄んでいた。その眼差しは西方、ここから2日のところにあるゼノビア城に向けられている。
「おい、どこ行くんだ?」
「つき合うのは途中までと言ったろう」
グランディーナがカノープスから離れていくのと彼とグリフォンに気づいたギルバルドとユーリアが近づいてきたのはほとんど同時だった。
「どうしたの、兄さん? 少し恐い顔だわ」
「グランディーナ殿たちの用は何であったのだ?」
ユーリアが来ると、グリフォンたちは甘えるような仕草で頭を下げた。魔獣に好かれやすいのは有翼人の特性だが、そのなかでもユーリアは別格らしい。決まった人しか近づかせぬエレボスさえ元々の飼い主とはいえおとなしくなるのだから、ほかの魔獣にいたっては何をか況やである。そして彼女も魔獣たちを可愛がる名人なのだ。決して兄の贔屓目ではなしに。
「そこの牢に元騎士団長殿が囚われていたのさ」
それだけで2人は驚きの声をあげて顔を見合わせた。
「生きておいでだったのね」
「アッシュ殿はやはり無実であったろう? その話は当然されたのだろうな?」
「ああ、おまえの言ったとおりだったよ。だが真犯人はアッシュも知らないそうだ。おおかた帝国の奴らだろうがな」
「卑怯なことをするものだ。それなのにアッシュ殿はずっと牢獄に繋がれていたのか?」
カノープスは頷いた。
ユーリアが眉をひそめる。
「アッシュ殿にしてみれば、さぞ無念であられただろう。人一倍自分には厳しい方だ。王ばかりか妃殿下もお二人の皇子もおいででなければ、たとえ無実だとて外に出る意味もなかったに違いない」
「アッシュさまの家はゼノビアでも筆頭のお家柄でしたものね。でもクラウゼン家の方々も処刑されたと聞きましたけれど」
今度はギルバルドが頷いた。彼とユーリアのあいだに昔を懐かしむ空気が漂う。
旧ゼノビア王国の貴族層はその大半が騎士団・魔法軍団・魔獣軍団の隊長以上に属する者ばかりであった。だが残っているのは魔獣軍団に所属していた者だけで騎士団と魔法軍団に所属した家柄はギルバルドやカノープスらの知る限りではほぼ壊滅と言ってもいい。
現在解放軍にいるランスロット、マチルダ、リスゴー=ブルック、ポリーシャは数少ない貴族の生き残りだが、当時、成人していなかったという点、血族が1人も生き残っていないという点においては貴族などとはとても呼べなかった。そしてウォーレンにいたっては王に誓う忠誠は本物と認められていたが生家はしれなかったのである。
「だが解放軍のように若い力は確実に育っている。貴族がいないからといって国の再建にもそれほど案ずることはあるまい」
「そうですよね」
「昼飯の後にゼノビア城攻略の話し合いだそうだ。遅れるなよ」
「承知した」
「兄さん、どこへ行くの?」
「散歩だよ、散歩!」
上空に飛び上がると目指すそれはすぐに見つかった。その足の速さに舌を巻きながら、カノープスは1、2度羽ばたく。あとは滑空するだけの距離だ。
グランディーナの傍にいた2人の影がカノープスが降りてくると片膝をついた。
「ご苦労だった。ゼノビア城を落とすまで休め。次はディアスポラだ」
「承知しました」
ライナスが答えて2人は去る。カノープスは2人と話したことがないのを思い出したが、いまは後回しだ。
「何だ、もうおしまいか」
「敵戦力の確認だ。大した話は残っていない」
「いよいよゼノビア城の奪還か。腕が鳴るじゃないか。だがここは敵さんも易々と、とらせてはくれないだろうな」
カノープスは言いながら指を鳴らした。24年ぶりのゼノビア城だ。そこをよく覚えているだけに興奮は抑えようがない。それだけにグランディーナの素っ気ない物言いが多少気に入らなかったのは事実だ。
「とれる。ゼノビア城を落とすまではたやすい」
「大した自信だな。その落とすまでってのが引っかかるけど、どういうことだよ?」
「後で話す」
「肩肘突っ張ってんなよ。おまえ、誰かに愚痴を言いたくなることないのか? アッシュのことだって何か言いたかったんじゃないのか?」
「愚痴ってる暇があったら先のことを考える。ゼノビアの次はアヴァロン島、それから戻ってきてホーライ、マラノ、ドヌーブ、オファイス、ハイランドはずっと先だ。それに言っていなかったな、ゼノビア城にいるのは四天王の1人クアス=デボネアだ」
当然カノープスにもその名は聞き覚えがあった。軍事力に優れた旧ハイランド王国、その総司令官は大将軍ヒカシュー=ウィンザルフ、ハイランド王家に勝るとも劣らぬ名門貴族で、剣の腕にも優れ、ゼノビア王国にアッシュ=クラウゼンありと言われれば、ハイランド王国にもヒカシュー=ウィンザルフありと言われたほどの実力者だ。その大将軍が特に剣技に優れた4人を選び出して四天王の名を冠し、将軍という重職を与えるようになったのはゼテギネア帝国の代になってからのこと、もっとも四天王の2人は数年前に代替わりしたばかりで、それがクアス=デボネアとカラム=フィガロであった。
「四天王って、そんな大物がゼノビア城にいるっていうのか?」
グランディーナは答えず早足で野営地に戻っていく。その背はそれ以上の説明を拒絶していたが、カノープスはかまわずに飛んで追い越した。
彼女は強引に通り過ぎようとしたが、彼は羽さえ広げてそれを許さなかった。だがグランディーナの表情にも口調にもいらついた素振りは見えない。初めて出会った時のように、二度目にユーリアと来た時のように冷静な視線を向けている。
「あなたもランスロットと同じことを言うつもりか。リーダーが安全なところにいてもいいのは負けても軍を立て直せる正規軍の場合だけだ。我々の規模で負けは許されない。我々が負ければ次はない。ならば勝てる駒を最大限に使う。剣の腕で解放軍に私に勝てる者がいるか。シリウスの時もそうだったが高邁(こうまい)な騎士道精神だけで勝てると思っているわけではあるまいな」
しかしグランディーナの意に反してカノープスは上げた手を下ろし、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「何だ?」
「俺はランスロットと違う。騎士道精神なんてものとは縁がないし、自分だけ安全なところにいたがるリーダーも好きじゃねぇ。だけどおまえの本音ってやつを知りたかった。意地悪しちまったな」
さっきよりも早足でグランディーナは歩き出し、カノープスも飛びながら追いかけた。
「あなたもお節介だな。私のことなど放っておけばいいだろうに」
「これが俺の性分なものでね。それにどうせ肩持つなら若い方がいいしな」
「それでややこしい立場にならぬよう願う。だが続きは後で話そう」
「俺の人徳、知らねぇんだからなぁ。ややこしい話になんかなるものか。だいたいおまえは笑わなさすぎんだよ。ちょっと笑ってみろ、男なんてそれだけで女の言うことを聞くものだぞ」
「これが私の性分だ。それに皆に好かれるリーダーなど、いまは要るまい。必要なのはゼテギネア帝国を確実に倒せる力だ」
「倒せるのか? 俺たちの戦力なんて帝国の何十、いいや何百分の1かだぞ」
「少ないならば少ないなりの戦い方がある。正面切って戦うだけが戦争じゃない。それにゼノビアを出れば志願者はまだ増えようし解放軍に加わらなくても同調する者も出よう。帝国は倒せる」
「それで、おまえはゼテギネア帝国を倒したら、どうしようっていうんだ?」
「引き際は間違えないつもりだ。いまはそれ以上、言えない。だが戦争屋が戦後のことを心配しても仕方があるまい?」
カノープスは応えるかわりにちょっとだけため息をついたが、グランディーナはそれで話が済んだものと考えたようだ。
その時、2人の前方で青い無地の旗が翻った。
掲げているのはカリナ=ストレイカー、周りには若者たちがいて歓声を上げている。マチルダが縫い上げた物をシルキィあたりがめざとく見つけたのだろう。
彼女らは同じゼノビア王国の者とはいってもカリナ以外はその時代を直接知らない。ポグロムの森の虐殺に遭ったカシム=ガデムやシルキィ、マンジェラが最年長で、あとはゼテギネア帝国が興ってから生まれた者ばかりなのだ。それだけにゼノビア王国への郷愁はないのだろうし、解放軍の旗として示されたそれを素直に歓迎もするのだろう。
「あっ! グランディーナさま、カノープスさん、見てくださいよ! さっきマチルダさんが見せてくれたんです。解放軍の旗ですって!」
元気なマンジェラは臆すことなくグランディーナの手を引っ張っていった。一緒にやってきたシルキィはカノープスの腕を捕まえた。
2人に見つけられてカリナが照れくさそうな笑みを浮かべたが、その場に集まった若い戦士や魔法使いたちも思わぬリーダーの出現に驚いたようだ。
「気に入ったか?」
グランディーナが珍しく和んだ表情で言った。
「もちろんですよ! 旗がなくちゃ格好つかないじゃないですか。俺たち正真正銘の解放軍なんだなぁってみんなで言ってたところです」
真っ先にそう言ったのはカシムだ。ポグロムの森での一件以来、彼は若い者のなかでも一目置かれているがエマーソン=ヨイスとのよりはじきに戻したらしい。もともと後に引かないのが彼の長所だ。
「青は呪術的にも成長や若さを示す色です。僕たち解放軍には相応しいと思いますね」
「またエマーソンの悪い癖!」
「すぐ知ったかぶりして蘊蓄(うんちく)たれるんだから!」
「本当のことだ、君たちに揶揄(やゆ)される覚えはないね。
グランディーナさまだってご存じでこの旗にしたんでしょう?」
「そうだ。それだけが理由でもないがな」
「へぇぇ」
「この先、ドヌーブやホーライ、オファイスの生き残りが入るのを計算してのことだろう? ゼノビアの旗じゃゼノビア対帝国って形になっちまうし、ほかの国の奴らが肩身の狭い思いをすることになっちまう」
「そうだ、と言いたいところだが足りない。ハイランドを忘れている。アヴァロン島やマラノ、ともに戦う意志のある者ならば誰でも歓迎する」
「へぇぇ」
さっきはシルキィだったが、今度はマンジェラが頓狂な声をあげた。その場にいた若者たちも一斉にグランディーナに視線を向ける。カノープスの意見にも感心したが、それ以上にリーダーの言うことは刺激的だ。
「アヴァロン島やマラノはわかりますけど、ハイランドっていうか、帝国は敵じゃないんですか? 俺たちは帝国を倒すために戦っているんですよね? そのなかに俺たちに味方してくれる人がいますかね?」
魔法使いのウィングス=イースタリーが不満そうに言った。カシムの方が目立って、つい忘れられがちだが、本人も自分の地味なことは察していて仲のいいワイルダー=ホーナーと控えめにしている。
「勘違いするな。帝国は敵だが、そこにいる者全てが敵というわけじゃない。やむをえず帝国に従っている者もいるだろう。旧王国の者もいる。我々の意志に賛同するのなら私は誰でも解放軍に迎えるつもりだ」
「そうだよ! 俺たちだって帝国の兵士だったんだから。帝国にだっていい奴はいっぱいいるさ」
ヴィリー=セキ、アルベルト=ブラッドフォードはフェルナミアにいた帝国兵、ビンセント=ハンナとバイソン=ロイスターはダスカニアにいた帝国兵だ。そのことは皆が知っているだけにアルベルトの発言は信憑性を持っていた。同時に彼らは、さすがはリーダーと感心したように頷きあって、いろいろな意味の込められた旗を今度は感慨深げに見つめた。
「あなたたちが思い描くのはどんな国だ? ゼノビアの旗ならばゼノビア、ゼテギネアの旗ならばゼテギネアしか思い描けないだろう。だが無地の旗ならば、それができる。あなたたちの知らない国の形がある。国を作るのは、結局、一人ひとりの民だからな」
「そんなこと、考えたこともなかったな」
「だってゼノビア王国のことなんか知らないもん。知ってるのはゼテギネア帝国だけだわ」
「ポグロムの森のことがあるから自分がゼノビア人なんだって思ってた」
「ならば、これから考えろ。そして話し合え。状況に流されるな。大切なのは国を作るという自覚だ。たとえ神帝がいても国を支える者がいなければ国とは呼べない。もっとも国などなくても人は生きていける」
「新しい国には当然グランディーナさまもいるんですよね?」
「さあな。明日からゼノビア攻めだ。よく休め」
「はいっ!」
「カリナ、旗手はあなたに任せる。敵に奪われるな。そのうちに増やすかもしれないがいまのところ、それしかないからな」
「承知してますよ。今回はゼノビア城のてっぺんにこの旗を翻してみせますとも」
最後に誰に言われたのでもなく、カリナは旗をしまった。旗持ちを任されたので出しっぱなしにしておくのがもったいなくなったらしい。それをきっかけにグランディーナとカノープスはその場を離れた。
「旗のこと、ウォーレンたちは知ってるのか?」
「ウォーレンだけだ。マチルダがゼノビアの旗を持っていたが取り上げた。ウォーレンに話したのはそれを渡した時だ。ところであれはあなたの本心か?」
「当たり前だ。どうしていまさらゼノビアの旗にこだわるものか。それにゼノビア領はここまでだ。この先、ゼノビア人を加えることはほとんどなくなるだろうしな。おまえだってそのつもりなんだろう?」
「ゼノビアに限らずどの国の旗も使いたくない、それだけだ。解放軍に旗は要らないと思っていたが、城を落とすのに格好がつかない。だから旗を作らせた」
「ややこしい立場ってのはそういうことか」
「それだけでもないがな」
「うまいごまかしじゃなかったな。あいつら、おまえを女王にでも担ぎかねないぞ」
「まさか。そんな状況になるものか」
若手の兵士たちと話していた時の和んだ様子は離れた途端に引っ込んだ。いつもの無愛想な、本心を悟らせぬ彼女に戻っている。
「それはそうと、やればできるんじゃないか」
「何の話だ?」
「もっと笑えって言ったろうが。そうでなくても戦争なんか不慣れな奴ばかりだ。そんな面で話してみろ、出る意見も引っ込んじまう。あの嬉しそうな顔を見ただろう? そうだ、あいつら、今度、おまえに剣を教えてもらいたいと言ってたぞ」
「それは断る。人に教えたり、教わるのは苦手なんだ。騎士の剣ならばランスロットに教わればいい」
「何言ってるんだ。誰でもいいってものじゃないんだよ。それにそういう時は剣を合わせるだけでもいいんだぞ。若い奴らには何でも勉強になるものさ。必要なのは経験なんだ」
「私のは殺人剣だ。覚えても役には立たない」
そう言ってグランディーナには珍しく自嘲気味な笑みを浮かべる。
それがあんまり意外だったのでカノープスは即座に否定できなかった。
「ば、馬鹿も休み休み言え。武器を取るのにその覚悟のない奴がいるかよ。それに攻撃するだけじゃない。武器はかけがえのない人を守るための物でもあるだろうが? おまえだって初めて武器を取った時にそうじゃなかったとは言わせないぞ」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味だって言うんだよ?」
彼女は答えなかった。目をそらした表情から自嘲気味なところは消えていたが、その眼差しはどこか頼りなげで、それでカノープスもつい、追求しそびれる。
「ところでおまえ、どこ行くつもりなんだ?」
「昼飯だ。朝飯を食いっぱぐれた」
これにはカノープスも空いた口が塞がらなかった。