Stage Seven「皇子」
炎竜の月12日、カストロ峡谷のフルンゼという町に入った解放軍は、周辺一帯を荒らし始めたならず者、漆黒のアーレス退治を依頼された。
カストロ峡谷全域を貫くポロープ川はゼテギネア大陸最長の大河であり、その冷たく荒々しい流れはたびたび氾濫を起こし、とうてい人間には御しがたい。流域沿いの土質も農業には向かない痩せたものである。しかし川の流れは人が移動するのにわかりやすい目印の一つだし、カストロ峡谷はそれ以外の理由では開拓され得なかったのだった。
全長1500バーム(約1500キロメートル)の大峡谷においてまとまった居住地があるのはフルンゼからタシケントまでのわずか60バーム足らずの範囲でしかない。けれどかつては旧ホーライ、旧ドヌーブ両王国の国境だったこともあるし、ほとんど国交はないがガリシア大陸に至る陸路の1つでもある。
アーレスはこの地に来てまだ日は浅かったが、もともと豊かでない土地に山賊は厄介きわまりない代物であった。
東の辺境より聞こえる解放軍の噂は、多少尾鰭(おひれ)をつけて帝国に対し連戦連勝の報を伝えてきた。地理的に帝国も旧王国もあまり関係ないカストロ峡谷の人びとではあったが、その噂はアーレス退治の望みを託すに十分なほどで、解放軍がこれを拒むはずもない。20人ぐらいで小隊を組んで一帯の町を解放に当たった。
聖騎士ラウニィー=ウィンザルフの保護はその途上で浮上してきた。アーレスがカストロ峡谷にやってきたのは、ラウニィーがここに逃げ込んだためだったのであり、彼を追っ手に差し向けたのはマラノの支配者、ラインハルト=アプローズ男爵だった。旧ゼノビア王国の貴族であり、ポグロムの森を焼き払った虐殺事件の首謀者でもある。旧ゼノビア勢が半数を占める解放軍にとっては憎き裏切り者だった。
ディアスポラからマラノへ向かうには、北側に大きく迂回する以外に南のガルビア半島、西のバルハラを経由する道もある。しかし、24四年前の戦争でバルハラにおいて賢者ラシュディが使った禁呪はガルビア半島の根っこまで及び、ホーライ王国の西半分を永久凍土に変えてしまったのだ。グランディーナは速度の落ちる雪原の進軍を嫌い、多少回り道にはなるがカストロ峡谷経由を選択した。以前は2日ほど余計にかかった道だ。
聖騎士ラウニィーには、この選択が幸いであった。解放軍がバルハラを経由していれば、彼女はいまごろ捕らえられてマラノに送り返されていただろう。
「グランディーナ、全員集合しました」
「思ったより時間がかかったな。アレック、今日はここで休む。明日、マラノに向かうと皆に伝えろ」
「承知しました」
ほんの一部とはいえ、カストロ峡谷はやはり広い。解放軍が予定の集合地点アルマアタ郊外に集まったのは聖騎士ラウニィー保護の翌日、炎竜の月14日のことだった。先に到着していた者がすでに野営地を作り始めていたが、人員の増加は手間を2倍3倍に増やしたし、消耗品もばかにならない。
しかし、人が増えた結果、マチルダ=エクスラインはいままでの食事担当から解放されて治療に専念することができるようになっていた。怪我人も増えたのは余計なおまけではあったが。
「今日はどうだ?」
「皆さん、お元気ですわ。スウィフトさん、フォーダムさん、チャールスさんの怪我もマラノまでには良くなると思います。ですがグランディーナ、あなたがいちいち出回られることはないでしょう。1ヶ所と決めていただければ私が報告に上がりますのに」
「あなたの話を聞くためだけに歩いているわけじゃない。それよりもデネブが料理の味が落ちたとぼやいていた。忙しくないなら、そちらの面倒も頼む」
「あら、あらあら。ミネアにはちゃんと味つけから手順まで教えたつもりだったんですけど早速見に行ってみますわ。彼女も意外と大ざっぱなんですよねぇ」
マチルダは苦笑いしたが、心は料理部隊の方にすっ飛んでいるらしい。グランディーナとランスロットに頭を下げると急いで走っていった。
「そういえば、よくあなたが苦言を呈さないでいるものだな」
「君が出歩いて皆の報告を聞く話か。わたしはいまのマチルダの意見には反対だ。君が出歩くのを怠り、目の届かぬところが生まれるようになっては後々、要らぬ厄介になりそうだからな。君だってそのことを案じて、こうして歩いているんじゃないのか?」
「それは私も認めるが、あなたが黙ってついてくるのはどうにかならないのか?」
「君が皆の話を聞いているのにわたしが口出しすべきではないだろう。かといって君を一人にするつもりもない。それがわたしの仕事だと思っているのでね」
彼女も来るなと言わず、また移動する。
ディアスポラを発って以来、これが日課なのだ。用事のある者同士が近くにいることがあっても、グランディーナはわざと遠回りしているように思われた。
「デネブ、さっきの石は何かわかったか?」
「何かも何もないわ。これ、ただの追尾石じゃないの。期待して損しちゃった」
「ただじゃない追尾石もあるのか?」
「追尾石は追尾石。ならず者が持ってるような物ではないけれど、そんなご大層な代物でもないの」
「効果はなんだ? 作るのは手間なのか?」
「もちろん人を追いかけるのに使うのよ。そうでなくっちゃ、カストロ峡谷で人なんか見つけられっこないわ。作るのは材料があればそんなに面倒じゃないわよ。ちなみにこれ、彼女の?」
「そうだ。ほかの人間には使えないのだな?」
「これを作った人が変えないと駄目ね。あたしに預けてくれたら使えるようにできるけれど、どう?」
「いや、いい。返してくれ」
「あなたが持ってても使い道はないわよ?」
「あなたに預けておくより安全だろう?」
「しょうがないわねぇ」
デネブの手からグランディーナの手に多角形の宝石が手渡される。その内部ではずっと光が点滅しており、向きを変えると光の位置は常にある方向を指して動いた。それが誰を指しているのかはランスロットにもすぐわかった。
「まだ用事があるの?」
「あとはウォーレンと話したら終わりだ」
「じゃあ、一緒にお夕飯いただきましょ。そう言えばマチルダさんにはちゃんと言ってくれた?」
「さっき伝えた。せっかくの誘いだが先行するから夕飯にはつき合えない」
「あら、残念ね」
グランディーナは宝石を無造作にポケットに落としてまた歩き出した。
2人とすれ違うと皆が挨拶をする。
彼女とランスロットの顔はもはや知らぬ者はいない。同様にウォーレンやアッシュ、ギルバルドにカノープス、マチルダの名前と顔もほとんどの者が知っている。望むと望まざるとに関わらず、彼らもまた解放軍を代表する者だと皆が認識している証でもあった。
「さっきの話はどういうことだ?」
「マラノに着く前にアラディと話しておきたいが、私が留守のあいだのことをウォーレンに頼もうと思っている。あなたとカノープスはどうせ一緒に来るだろうと思ったから話さなかったが支障はあるか?」
「いや、ないな」
人数が増えたので補給の荷物も倍増した。しかし、いままではウォーレン1人にガーディナー=フルプフが手伝うくらいだったところを非戦闘員のヨハン=チャルマーズ、ディック=プイセギュール、フレドー=ケフェンフラーの3人が正式な補給部隊に任命されたのでウォーレンの負担はかなり軽くなったはずだ。
「ウォーレン、補給は済んだか?」
「はい。ですが、補給部隊も人が増えましたし、マラノからはヨハン殿にお任せしたいと思っています。そろそろ、あなたにお気遣いいただく必要はないとも思いますが、それだけではありませんか?」
「いまの解放軍の規模ならば皆の様子に目を配ることができる。私の知らないところで勝手に何かが起きているのはご免だ」
ウォーレンは黙って頷いた。
ディアスポラ陥落前夜の緊張感は2人のあいだにはなくなっていた。どうやらカノープスの言ったようによりは戻したらしいが、ウォーレンの人柄をよく知るだけにランスロットは彼が元の鞘に収まったはずはないと思っていた。しかしいまは表面上は穏やかだ。その穏やかさを逆に彼は案じずにいられない。
「それと私は先行してフラヴィオで影の報告を聞く。ランスロットとカノープスが一緒に行くが、あなたたちともそこで合流しよう。それまであなたに解放軍を任せる。歩いて、ここから3日のところだ」
「承知しました」
グランディーナはその場を離れ、ウォーレンが頭を下げるとヨハンたちも倣った。
彼女は最後にギルバルドのところに赴いた。そこにはカノープスやユーリアもおり、話がはずんでいた。
「ギルバルド、これからグリフォンを3頭使いたい。問題はないだろうな?」
彼は即座に立ち、カノープスたちも動く。
グリフォンたちはとっくに食事を終えていたが、大勢人が現れたもので多少落ち着かないようだ。
「皆、元気です。誰が乗っていきますか?」
「私とランスロット、それにカノープスだ」
「どこ行くんだ?」
「皆に先行してフラヴィオまで行く。影の話を聞くから私一人の方が都合がいいんだが、2人とも来るだろうからな」
「当然だろう」
「それならばエレボスとシューメー、ポリュボスがいいでしょう。すぐに発ちますか?」
グランディーナがランスロットを見たので彼は頷いた。次いでカノープスを見ると、彼も当然という顔をしたので、ギルバルドは名前を挙げた3頭をすぐに起こし、ユーリアが率先して手伝った。
「後のことはウォーレンに任せた」
「承知しました。お気をつけて」
すでに辺りは暗くなり始めている。3頭のグリフォンは次々に野営地を飛び立ち、カストロ峡谷もすぐに背後に去っていった。
それから2日後の炎竜の月16日、トリエステより北に1日のところにある宿場町フラヴィオでグランディーナはアラディ=カプランとだけ会った。2人はずいぶん長いこと話し合っていたので、ランスロットとカノープスは待つことを強いられた。
もっとも、この2人に限ってただ待つわけもない。現在の解放軍についての話は尽きるはずもなかった。
たとえばこんな具合に。
「ああ一気に面子が増えられると顔と名前の一致しない奴らがいつまでもいて面倒だよなぁ。おまえは全員覚えたのか?」
「たぶん大丈夫だ。ああ毎日会っていればいやでも覚えるさ。彼女も全員覚えたんじゃないのかな。それにこれからは一緒に戦うことになるんだ、命を預けるかもしれない相手のことを知らないではすまされないだろう?」
「真面目にそんなことを言ってるんだったら恐れ入るぜ。大方の連中はいまだに解放軍じゃなくてゼノビアだのホーライだのにしがみついているっていうのに。俺だってまるで悪夢のようにゼノビアを思い出すことがある。おまえにはそういうことはないのか?」
「ないなんて言ったら嘘だと言われそうだが、君ほど深刻に感じたことはないな」
「別に嘘だとは思わねぇけど、その潔さがどこから来るのかは興味がある。いつ吹っ切れたんだ? アヴァロン島からか?」
「吹っ切れたんじゃないよ。自分のすべきことが何か考えたら、国などにこだわるのがつまらなくなっただけさ。彼女の強さを見習いたくなったということもあるがね」
「おまえたちはそれでいいかもしれないがな、国に拠らない強さってのは危険と紙一重だ。そのことは承知しているのか? それにゼテギネアの人間なのに国がないなんてあり得ねぇと思うんだがな、おまえ、そこらへん聞いてないのか?」
「ゼノビア城を落としたばかりの時に、わたしも郷愁に駆られて訊いたことがあるが、はねつけられた」
「そりゃまた、何て?」
隣室の2人はこちらの会話などまったく気にしていないだろうし、カノープスのほかに聞いている者などいない。それでもランスロットはつい小声になった。あの時グランディーナから感じた拒絶反応を思い出すかのように。
「要らぬ好奇心は身を滅ぼす、そう言われたんだ」
てっきり笑い飛ばすかと思っていたが、カノープスは腕組みをして短くうなり声を上げた。
ランスロットも思わず息苦しさを感じて窓を開けに立つと、隣にいると思い込んでいた彼女とアラディを眼下に見つけて苦笑いがこぼれた。
「何かあったのか?」
すぐに窓を閉めるとカノープスが不審そうに言った。
「話に夢中になりすぎたようだ。2人が降りたことに気づかなかった」
「護衛のためについてきたわけじゃないんだからいいんじゃねぇの」
「じゃあ、何のためだ?」
「暇つぶしさ。3日もただ歩いているのもおもしろくねぇし、周りの目がうるさくてかなわねぇ。内緒話もできねぇからな」
「それならばギルバルドも誘えば良かったかな?」
「それじゃ露骨に内緒話しますって面子だろうが。そうでなくたってギルバルドのことはまだ陰口たたくような馬鹿がいるからな」
「それはあまり嬉しい話ではないな。彼女は気づいているんだろうか?」
「気づいたらどうだっていうんだ? まさかあいつにギルバルドを庇えとでも言うつもりか?」
「そうではないが、彼女は気を遣うことができる立場だろう?」
「ギルバルド自身がそんなことを願っていないのにお節介を焼く馬鹿がどこにいる? 下手な同情なんてあいつは望んじゃいないし、中傷されるのも覚悟の上で来てるんだ」
「それでは君がさっき、うなった理由は何だ?」
「ほかの奴なら何をすかしてやがると思うところだがあいつならあり得ねぇ話じゃないからさ。もしもエンドラの娘だなんて言われたら、おまえ、どうする?」
「愚問だな。わたしの気持ちは変わらないよ」
「皆が皆、そういう覚悟でいればいいんだがな」
「皆が知る必要のないことだからこそ黙っているのだろう。だがこういうことに限って漏れやすい。失った祖国にかまけている場合ではないというのにな」
「だが俺たちも含めて、たいていの奴らは国に縛られたまんまだ。あいつだけ、そういうしがらみがないのは内心、羨ましくもあるな。だからってゼノビアが嫌になったわけじゃねぇぜ」
「それは蛇足だな」
「違いねぇ」
2人が笑い合っているとたたく音がして扉が開いた。
「何だ、驚かすなよ。誰かと思ったぜ」
「ひとまず用事は済んだ。後は皆と合流するまであなたたちも休め」
「マラノの話はもう済んだのか?」
「今回は私たちだけでは埒(らち)があかない。どうしても商人たちの協力が必要だが、心当たりが1人だけある。どちらにしても待ちだ」
「そんなことを言ってもウォーレンたちが来るのは明日だし、マラノに遊びに行くわけにもいかねぇし、することなんかねぇぞ」
「ではこれでも眺めていろ」
グランディーナが筒状に丸めた紙を投げてよこした。カノープスはそれを開き、ランスロットものぞき込む。マラノの地図だった。
「ひでぇ字だな。これ、何て書いてあるんだ?」
「マントーパ、ベルチェルリ、フェルラーラ、ボローニャ、モンビーゾだ。汚い字で悪かったな」
「え? おまえの字なの?」
「ライナスが描いた地図に私が加筆した。マラノの地理をよく頭に入れておけ」
ランスロットとカノープスは思わず顔を見合わせた。どちらかと言えば、口をすべらせたカノープスの方が言葉に詰まり、ランスロットも弁護のしようがない。
しかし「ひどい字」などと言われたことがよほど癪(しゃく)に障ったのか、グランディーナの方が言葉を続ける。
「字なんて書けて読めればいいんだ。いちいちうるさいぞ」
「おまえ、それを言うなら、これは読める字じゃないぞ。どう見たって殴り書きだ、読めって言うなら、せめて丁寧に書けよ」
「読めたんだから文句を言うな!」
戸が勢いよく閉まり、カノープスは唖然としていた。その手からランスロットは地図を取り上げる。
「君も時々、大人げないことを言うんだな。字のことぐらいで目くじらを立てるなよ」
「売り言葉に買い言葉ってやつだよ。何だよ、おまえまであいつの言うことに同意するのか?」
「お世辞にもきれいな字とは言えないが、君が言うほど、ひどい字でもないだろう?」
「冗談だろう。おまえ、その字が読めるって言うのか?」
「確かに君の言うとおり、くせ字だとは思うが、読めるじゃないか」
地図が返され、カノープスはそこに書かれた文字を睨んだ。うなり声さえ上げたところを見ると、本気で読めないらしい。
「確か、マントーバ、ベルチェルリとか言ってたな。おまえ、書き直してくれない?」
ランスロットは書く物がないと言おうとしたが、火桶に燃えかすが残っていた。あまり気は進まないが読めないのも事実のようなので、彼はグランディーナの文字の隣に書き足してやった。
「マラノは攻めにくそうな都だな。三重の城壁に加えてサルジニア湖にも三方を囲まれている。城壁の門はどれも1ヶ所しかないし、港も町の中に引っ込んでる。おまえならどこから攻める?」
カノープスが地図をよこしたのでランスロットは手にとって眺めた。
三重の街壁を持つマラノは6つの地域に分かれる。いちばん外側の外壁に囲われた地区の西側がフェルラーラ、真ん中がボローニャ、南東をモンビーゾ、2番目の内壁に囲われた地区の西半分をマントーパ、東半分をベルチェルリと呼ぶ。いちばん内側の内壁に囲われた地区がマラノ発祥からの都市部で単に「マラノ」という時にはここだけを指すこともあり、ほかの名称は知られていない。
当然、内側が1等地で外側の方が3等地となるのだが、現在も拡充しつつあるマラノには近い将来、4番目の外壁が造られるのかもしれない。24年前はおそらくはここマラノにも、ゼノビアのように多くの難民が集まったことだろう。
「港からかな。ただ船の調達が難しそうだし、外壁に比べれば守りが薄いのは敵も承知しているだろう。明け方を狙っても警戒は厳重だろうな」
「そうだ。かといって、外壁と港以外は侵入が難しい上に広すぎる。ゼノビアみたいに空から攻めればほとんど市街地の上を通るから待ち伏せは避けられん」
「何だ、処置なしか」
「いまのままじゃどうしようもねぇから、商人たちの助けが要るんだろう」
「24年前、マラノはどうだったか知っているか? そもそもマラノには自衛軍なんてあるのかな?」
「軍はないって聞いた。何でも商人が個別に抱えている用心棒だけらしいが、24年前は戦わないで降伏したそうだ」
「そうか。これは返すよ」
カノープスが黙って受け取ったので2人の話はそこで途切れた。ランスロットは手持ちぶさたになり外をのぞいてみたが、隣の部屋がすでに暗いことがわかっただけだ。
「彼女はもう寝たらしい」
「何だ、俺たちも休もうぜ」
2人の部屋が暗くなったのも、じきのことだった。
「相変わらず起きるのが早いな。まだ夜が明けたばかりだぞ」
「昨日はあなたたちより先に寝たからだろう。寝過ぎたかな」
「本当に寝てたのか。俺はてっきり狸寝入りかと思ってたぜ」
「寝られる時は寝ることにしている。それにマラノのことについて考えようにも判断材料が足りない」
「昨日は悪かったな、大人げないこと言っちまって。ランスロットにも釘を刺された」
「字のことで怒られたのは10年ぶりだ。私も大人げなかった」
「おまえを怒る奴なんていたのか」
「10年前は私だって子どもだ、怒られもする。特に字のことはあなたと同じことを言われた。きれいに書けるようになれとは言わないから丁寧に書けと。読めればいいなんて言ったら、10年前と変わっていないとまた怒られるかな」
「誰にだ? フォーリスさまにか?」
「フォーリスさまに怒られたことはない。あの方は私にどうしろとは言わなかった。あなたは誘導尋問がうまいのだな。もう少しで話してしまいそうだった」
「話しちまえばいいじゃねぇか。何を押し黙ってる必要があるんだ?」
「マラノを落とすまで余計なことで気を煩わせたくない。忘れてくれ」
「おまえがそこまで言うなら、俺も追求しねぇよ」
「ありがとう」
グランディーナがわずかに微笑んだのでカノープスはつい目をそらす。アイーシャの時もそうだったが彼女は本気で礼を言っているのだ。
「それで、今日は誰に会うんだ?」
「〈何でも屋〉のジャックという商人にだ」
「ていうと、おまえがヴォルザーク島に来る時に世話になった奴か」
「そうだ」
「2ヶ月前にマラノに行くと言ってた奴がまだマラノにいると思ってるのか?」
「ああ。おかしな話かもしれないが、彼にはマラノで会えると確信している」
「おまえがそう言うからには信用できる奴なんだろうな?」
「いや、どちらかというと変わり者だ。ランスロットも起きたようだ。朝飯にしよう」
「あるだけありがてぇと思わないとな」
「私は味にはこだわらない」
カノープスは半分くらい冗談のつもりだったが、グランディーナは本気で気にしてなさそうだ。だがこればかりはランスロットも同意した。1軒しかないから文句は言えないが、フラヴィオの宿の飯は美味くないのだ。その点、解放軍の料理人たちは、主にマチルダによるところが大きそうだが、いい腕前をしている。
しかし、一昨日の晩は携行食糧で昨日の朝も同じ物を食べた。あの味気なさとどっちを取るかと訊かれたら、2人とも宿の方がまだましだと思っている。
朝食はパンに目玉焼きと焙った豚の燻製肉の薄切りで、2人が席に着くより早くランスロットの陣取った卓に並べられていた。
「おまえが出かけたら、俺たちはここでウォーレンたちが来るのを待ってるだけか」
「そうなる」
「グリフォンと我々だけトリエステに先行してもしょうがないだろう」
「まぁな。おおい、かたまり肉を売ってくれ。あいつらにも飯を食わせなくちゃならん」
「私は出るぞ」
馬車の音が聞こえたのは彼女が外に出てからだった。
ランスロットが後を追うと、4頭立ての馬車にグランディーナが乗り込んだところで、馬車はそのまま街道を南に走り去った。