Stage Seven「皇子」1

Stage Seven「皇子」

「お母さん、お母さん!」
小さい子の泣き叫ぶ声が聞こえる。いいや、あれは自分、いまの自分の声か。何もできない子どものように震えるばかりの自分の声か。
「いいえ、お父さま! 私はもう子どもではありません。自分の伴侶は自分で決めます。私に相応しい方は私が選びます。押しつけられての結婚など、ましてあのような男性などお断りいたします!」
そこで彼女は目を覚まして、堅い寝台の上に起き上がった。寝慣れていないせいで節々が痛い。目が覚めたのはそのためでもある。
室内はとうに明るくなっており、扉がそっと開いた。
「ラウニィーさま?」
「シータ? 何の用です?」
「いいえ、お声が聞こえたものですから、何かあったのかと思いまして」
「何でもないわ。夢を見たのでそれで声をあげてしまったの。私、ずいぶんと寝坊してしまったようね」
「はい、もうじき正午です。鐘を鳴らしますけれど、ラウニィーさまはまだお休みになっていてください」
「もうそんな時間? 全然、気づかなかったわ」
「お疲れなのですわ。マラノからずっと辛い旅を続けてこられたのですもの」
その時、彼女らの頭上で高らかに鐘が鳴り響いた。正午の聖課を告げるロシュフォル教会の鐘である。
「私も聖課におつき合いさせていただくわ。いつまでも寝ているのも格好が悪いし、これからのことも考えなければならないもの」
本当はそれだけが理由ではないが、ラウニィーの言葉に純朴な僧侶の娘は心底、嬉しそうな顔をした。
だが、彼女らが揃って廊下に出ると、絹を引き裂くような悲鳴が入り口の方から聞こえてきた。教会の静寂(しじま)は破られ、荒々しい濁声が続く。
たちまち足を止め、見た目にもはっきりと震えだしたシータの手をラウニィーは引っ張った。
「この部屋に隠れておいでなさい。きっと私を捜しに来たのだわ。片をつけてくるから」
「ラウニィーさま、おやめください。裏口からお逃げください!」
「いいえ、たとえお父さまが追ってこられようと、私は逃げることなんてできない。いいわね、あなたはここに隠れているのよ!」
そう言いながらラウニィーは槍だけ取った。聖騎士になった祝いにその父から贈られた名槍オズリックスピアである。
「聖騎士の名にかけて私は戦わなくてはならないのよ。あなたはそこにおいでなさい!」
「ラウニィーさま!」
悲鳴と濁声がさらに入り交じる。
追っ手に父は混じっていないようだ。そうと気づき、彼女は内心、胸をなで下ろす。ハイランド王国一、ゼテギネア帝国一の騎士と讃えられた父に、自分がかなうはずのないことを彼女はよく承知していたからだ。
だがそればかりではない。ラウニィーはまだ父を敬愛していた。父以上の騎士を知らないし、父を尊敬する思いは同じ道を歩むと決めた時から強くなっていく一方だ。しかも彼女は一人娘だったし、母も幼いころに病で倒れている。親類縁者を除けば父はただ1人の肉親だったのだ。
「乱暴狼藉はおやめなさい! ここをロシュフォル教会と知っての暴挙ですか?!」
槍をかまえ、彼女は堂々と口上を述べた。
しかし返礼は下卑た笑い声と魔法による攻撃だ。
「無礼者! 私が話しているのですよ?!」
「あんたの口上なんて、どうだっていいんだよ、お嬢さま? 俺が請け負ったのはあんたを多少痛めつけてもいいからマラノに連れて帰ることなんだ、あんたのそのきれいな顔にはン千万ゴートって大金がかかってるのさ!」
ロシュフォル教会の僧侶たちに乱暴をはたらいているのは黒い翼のレイブンとその手下たちだ。見覚えのある顔ではない。だが連中は彼女のことをラウニィー=ウィンザルフその人と確信しているようだ。
「あなたたちのような下衆な輩に捕まる私ではないわ。それに誰が約束したのか知らないけれど、ン千万ゴートなんてお金、本当にもらえると思っているのかしら?」
ラウニィーは一歩下がって槍をかまえた。レイブンも手下たちもいやらしい笑いを浮かべ彼女を見ている。
古代高等有翼人の末裔と言われるバルタンに対し、オウガバトルの際に暗黒神側についたとされ、堕落した有翼人と言われるレイブンは真っ黒な翼が特徴だが、この男は翼ばかりか髪や肌の色まで黒かった。
「約束したのはあんたの婚約者さんさ。マラノの支配者なんだから金はうなるほどあるだろうよ。あんたも痛い目、見ないうちに、一緒に帰るって言ってくれないかい?」
「馬鹿ね、そんな口車に乗せられて。あの男がけちなことはマラノ中の人が知ってるわ。だけどどうやら、あなたたちも痛い目を見ないとわからないようね。私に手を出したお馬鹿さんがどうなるか教えてあげる」
その言葉も言い終わらぬうちにレイブンたちが襲いかかってきた。ラウニィーに聖槍騎士特有の呪文を唱えさせまいとしてであろう。
だが彼女は槍を使わせても強者である。オズリックスピアの切れ味も鋭く簡単に部下2人を屠ってみせた。
しかしレイブンがその死さえも利用しようとはラウニィーには思いもよらぬことであった。3人目の鼻先に槍を引っかけた彼女は死体と一緒になし崩しに倒された。
「卑怯者! 大勢で襲いかかるなんて!」
「多少は傷つけてもかまわねぇとアプローズさまの仰せだ! 卑怯だろうと何だろうと捕まえちまえばこっちの勝ちよ!」
「その言葉、そっくりあなたにくれてやる」
「ぐふっ?!」
「アーレス?!」
「誰だ、てめぇ?!」
応えはなかった。レイブンを後ろから切り捨てた女性剣士はラウニィーを捕らえていた部下たちも次々に屠り、一瞬にして全てを片づけてしまったのだ。その速さにラウニィーも唖然とした。
赤銅色の髪をした娘は剣を収めると倒れている僧侶に近づいて抱き上げたが、あらぬ方向に曲がって青ずんだ腕が力なく垂れ下がり、彼女は弱々しくうめいた。
「あなたは何者なの?」
「グランディーナ、解放軍のリーダーだ」
「解放軍? 反乱軍ではなくて?」
「そう呼ぶのは帝国の勝手だ。あなたの名は知っている。ラウニィー=ウィンザルフだろう?」
「そうよ。でもなぜ?」
そこへグランディーナと入れ違いに彼女と親しい顔が入ってきた。
「ラウニィーさま! ご無事でしたか?」
「ノルン!」
「お久しぶりです、ラウニィーさま。驚きました、あなたがアーレスに追われていると知った時は。それにしてもラウニィーさまがなぜこのようなところにおいでなのです? まさか聖騎士団の任務でですか?」
「それならば良かったのだけれど違うのよ、ノルン。私、お父さまに結婚を強いられてマラノから逃げ出してきたの」
「ええっ?!」
「しかも相手はあのアプローズ男爵なのよ。いくらお父さまの命令だってこればかりは従えないわ。自分の国を裏切った恥知らずの男だし、ポグロムの森で捕虜を虐殺した卑劣漢よ。それに私と彼って20歳以上も離れているわ。どう考えても私とは釣り合わないのに、お父さまは何を考えていらっしゃるのかしら?」
ラウニィーは大きなため息をついたが、ふと視線に気づいて顔を上げると、解放軍のリーダーや中年の騎士、それに老年の魔法使いが彼女を見ていた。3人に気づいてノルンが脇に動く。
「まだ何か、ご用?」
「アプローズの話を聞きたい。マラノの支配者というのは本当か?」
「ええ。あなたたちは?」
「我々は解放軍の一員であり、ゼノビア王国の生き残りです。国を裏切り、避難民を虐殺したアプローズ男爵の仕業は同国人としてばかりでなく人としても許し難い罪業、マラノにいるというのならば好都合、ぜひ討たねばなりますまい」
「あなた方がゼノビアの騎士だというの?」
「そうです。わたしはランスロット=ハミルトン、彼はウォーレン=ムーンです」
騎士が自己紹介し、魔法使いと揃って頭を下げる。
しかしラウニィーはグランディーナと名乗ったリーダーに話しかけた。
「あなたたちはこれからマラノへ行くのね?」
「そうだ」
「私も一緒に行ってもいいかしら?」
「なぜ?」
「アプローズ男爵をこの手で討つためよ。ほかにどんな理由が要るというの? あなたたちだって是が非でも彼を自分の手で討ちたいと思っているわけではないんでしょう?」
「あなたの私怨で討たせるには相手が大きい。それに私は一時的にせよ帝国の人間となれ合う気はない。あなたはまだゼテギネア帝国の聖騎士ではないのか? アプローズを討った槍を次は私たちに向けられるのはご免被る」
「私に祖国を裏切れと言うの? それにいま、そちらのランスロットさんがおかしなことを言わなかったかしら? ポグロムの森で殺されたのは旧ゼノビア王国の捕虜だったはずだけれど?」
「違う。ゼノビア城からの避難民を降伏することも許さずに森ごと焼き殺したのがアプローズだ」
「馬鹿な! それでは捕虜虐殺より始末が悪いわ。どうしてそんな人がマラノの領主になどなれるの? いいえ、そんなことよりお父さまはどうしてそんな人を私の婚約者になどしたのかしら?」
「ヒカシュー大将軍はポグロムの森の真相を知っているだろうな?」
「軍の最高責任者が知らないはずはありますまい」
ウォーレンが答える。
「その上でアプローズを娘の婚約者に選んだ理由は何だと思う?」
「大将軍の利するところはわかりません。あるいは女帝の働きかけがあったのかもしれませんが、我々には関係のないことでしょう」
2人の話を聞きながらラウニィーは混乱していた。アプローズ男爵がポグロムの森でなしたのは同国の捕虜虐殺というのが帝国での通説だ。それは人道的には確かに許し難いことだが、その後の帝国全土で行われた処刑を鑑みれば同じ戦闘員を殺したことはそれほど非道とも言えないだろう。だが非戦闘員で降伏の意志があった避難民の虐殺はどのような理由があろうと弁解の余地はないことだ。何より納得できないのはそんな男が自分の婚約者だという事実であった。
「アプローズ男爵のしたことは本当に捕虜の虐殺ではなく、避難民への焼き討ちだったのね?」
「そうだ。その火のために近隣の2都市も廃墟と化した。信じられないのならポグロムの森へ行って自分の目で確かめてくるがいい」
「いいえ、そんなことはしないわ。私もこのまま、あなたたちと行きます。そしてアプローズ男爵を討つわ。それでいいかしら?」
「我々とともに帝国と戦うということだな?」
ラウニィーは一瞬、躊躇(ためら)ったが、頷いた。
「そう受け取ってくださってけっこうよ」
「解放軍を代表して、あなたを歓迎する。
ウォーレン、ノルン、彼女に着替えと傷の手当てを。彼女の支度ができたら発つ」
「そういえば、ノルンはなぜあなたたちと一緒にいるの?」
「彼女に訊けばいい」
グランディーナとランスロットが去り、ウォーレン、ラウニィーとノルンが残された。
「ウォーレンさん、彼女はああ言いましたけれど、場所さえ教えてくだされば、私1人で十分ですわ」
「わかりました。着替えといっても大した物もありませんが」
「あなたたちの備蓄にはそれほど期待していないから心配なさらないでけっこうよ。じきにマラノですもの、そこまで我慢するわ。でもどうせなら動きやすい物をお願いね、ノルン」
「わかりました、ラウニィーさま」
2人が去ってから、彼女は手鏡を取り出した。さっきの攻撃でも壊れていないが、写った顔はいまにも泣き出しそうに見える。ザナドュを離れて以来、誰にも心を許すことができないで来たのに、ここでノルンに会えた気の緩みからだろうか。それとも祖国への信頼が日に日に失われることへの嘆きからだろうか。
「私はさっき、どんな顔をしてあの人たちの話を聞いていたのかしら? こんな情けない顔をしていたら、帝国の聖騎士まで情けないなんて思われてしまうわ」
「そんなことございませんわ、ラウニィーさま。私には聖騎士らしく、ご立派にふるまっておられると見えましたわ」
「ノルン」
「でも驚きました。解放軍ときたら着替え1つをとってみても本当にろくな在庫がないんですもの。選ぶほどにもないんですから。マラノが近くて幸いでしたわね。あの町では手に入らない物はないって有名ですもの」
そう言いながら彼女が広げた衣装は、確かにラウニィーの目には粗末な代物と写った。上都ザナドュで贅沢な物に囲まれて育ち、贅沢を贅沢と思わず、求めるままに与えられる物の全てが当たり前だと思っていた彼女は、晴れて聖騎士になった後、団長のガウェインがしばしば口にした貧しい人びとのことを何も知らないままマラノに来た時、初めてその言葉の一端に触れ、理解する機会を得た。聖騎士として守るべきと思っていた人びとの大半が、旧ハイランド領を出れば帝国だけでなく聖騎士をも恐れ、憎んでいるという事実をも知った。
この貧しい服は、まるでその象徴のようだ。それが彼女がよかれと思っていた、この国の現実なのだ。
「お気に召しませんでしたか?」
「そんなことないわ。ありがとう、ノルン。私がいま着ている服だって大した物じゃないでしょ? これ、実はこのロシュフォル教会で借りたのよ。こんなに汚してしまったけれど、怒られないかしらね?」
「着替えられたら訊いてみますわ」
急いで着替える彼女にいささかのんびりとノルンが話しかける。
「それにしても驚かれたでしょう、ラウニィーさま? 解放軍のリーダーは無頼の傭兵なんです。ラウニィーさまへの口の利き方がなっていないのもしょうがありませんわ」
「ええ。でも、そんなことはこの際どうでもいいわ。どうしてなの、ノルン? あなたのように聡明な女性(ひと)がなぜ解放軍などに加わっているの? いいえ、それよりもなぜカストロ峡谷にいるの? 帝国教会に何かあったの?」
「本当にご存じないのですか?」
ラウニィーは振り返る。ノルンの美しい顔が歪んだかと思うと彼女は感極まった様子で手の平に顔を伏せて震えていた。
「ノルン?! ノルン、どうしたというの?」
「ラウニィーさま、私はもう法皇ではないのです。帝国での最後の身分はディアスポラの監獄長でした。私はディアスポラ大監獄に追われたのです」
「何ですって?!」
ノルンの話はラウニィーには衝撃的なものだった。彼女ばかりかゼノビアの守備隊長を任じられ、解放軍に敗北したというデボネア将軍の話にも驚かされた。よもや四天王が解放軍のリーダーに負けようとはラウニィーは思いもしなかったからだ。
彼女は自分が突然、婚約者など押しつけられ、その相手のこともろくに知らないうちに結婚話にまで進んでいるあいだに、ノルンとデボネアを襲った嵐のような事態にただ驚くばかりだった。
しかし彼女はその裏に父、ヒカシュー大将軍の娘に知らすまいとする意図を感じた。ノルンやデボネアの事実上の左遷など、彼女が知っていたら決して黙ってはいなかったろう。気が進まない自分の結婚話など喜んで放り出して、何を差し置いても2人をゼテギネアなりザナドュなりに引き留めただろう。ノルンもデボネアもラウニィーはよく知っている。ディアスポラだのゼノビアだのに誰が喜んで送り出すものか。
「卑怯だわ、お父さま! 私がアプローズ男爵のことであれこれ迷っているうちに勝手に話を進めるなんて。ノルンもデボネアも大変なことになっていたのに私に一言も教えてくださらなかったなんて! フィガロ将軍だって、プレヴィア将軍だって、ルバロン将軍だってそうよ、3人ともデボネアのこともあなたのこともとっくに知っていたでしょうに、私には素知らぬ顔で話したのだわ、なんて卑怯な人たち! 何て卑怯なお父さま!」
「ラウニィーさまはなぜアプローズ男爵から逃げ出したのですか?」
自分とデボネアのことを話し終えるとノルンはすっきりした顔だ。一人で激高してラウニィーは恥ずかしくなる。
「話してみてわかったからよ。あの男は私のことなんて愛していないの。あの男が私と結婚したいのは私がラウニィー=ウィンザルフだから、ウィンザルフ家に、正確にはお父さまに取り入ってより高い地位を望んでいるからよ。それは私だって、自分がウィンザルフ家の跡取りで結婚相手を自由に選べないことぐらい知っているつもりだわ。だけど彼は元はゼノビア王国の貴族で、ポグロムの森虐殺事件の首謀者だというじゃないの。そのことを言ったら何と答えたと思う? 『敗残兵のことなんて知りません』ですって、もう私、開いた口がふさがらなかったわ! しかも真相は捕虜ではなくて無辜(むこ)の民の虐殺でしょう? ゼテギネア帝国も語るに落ちたというものよ!」
「なぜヒカシューさまはそのような男とラウニィーさまを結婚させようなどと思ったのでしょうね?」
「それがマラノに来てからお父さまにお会いしていないのよ。ポグロムの森の真相もさっき初めて知ったのだし、でも知っていれば、たとえお父さまの命令でも決して承諾などしなかったのに、悔しいわ。ところでノルン、あなたたちの事情はわかったのだけれど、なぜ解放軍などに加わったの?」
「だって、ディアスポラ大監獄は解放されてしまいましたもの。あのまま帝国に戻っても監獄長として責任を取らされるのは間違いありません、好きで行ったわけでもないのにそんなことになるのはいやですわ。それにディアスポラに行かされたばかりのころは解放軍をクアスの仇と恨んでいたのですけれど、クアスは生きていると聞きましたし、だったら、もう帝国にいる理由はありません。むしろ解放軍と一緒に行った方がクアスに早く再会できると思ったのですわ」
「でも祖国と戦うことになるのよ、あなたはそれでもいいの?」
「かまいません。デアマート家はどうせ私しか残っていませんでしたし、帝国がどうなってもいいんです。クアスが側にいてくれれば、私にはそこが祖国ですわ、ラウニィーさま。それにエンドラさまはともかく、最近のガレス皇子やラシュディの言動には我慢がなりませんもの」
頬を薔薇色に染めながら、そう無邪気に言い放ったノルンに、彼女は肩の力が抜けるのを感じた。
「さぁ、ラウニィーさま、傷の手当てをいたしましょう」
3つ年上の友人は、出逢った時からお嬢さま然としたところが抜けきらない女性である。ウィンザルフ家主催の夜会で、ラウニィーは父からノルンを紹介された時のことをいまも忘れない。生家は没落し、その衝撃で両親は相次いで亡くなっていた。独り残されたノルンはやむを得ず帝国教会に身を寄せたが、それらの面倒を見たのがヒカシュー大将軍だったのである。いまから5年前、ラウニィーが19歳のことだ。
「済んだのか?」
「ええ。あとは荷物を取ってくるだけだわ」
ラウニィーは急いで寝室に向かい、鎧を身につけた。
「よろしいのですか、聖騎士団の鎧など?」
「私、聖騎士に選ばれたことを恥じていないのよ。だけど解放軍とともに行って、祖国と戦うつもりでいるのも本当だわ。それに彼女ってそういうことにうるさくないような気がするのよ」
「そうですか?」
支度を調えて教会を出ると、2頭のワイバーンとグランディーナ、それにランスロットが待っていた。
「本隊は先に行かせた。ラウニィーは私と、ノルンはランスロットと乗れ」
否も応もなく2人はワイバーンに乗らされた。
上空から眺めてもカストロ峡谷は全貌がつかめない。町があるのはわずかな地域だけで、その間、約60バーム(約60キロメートル)足らずである。だがそれさえもゼテギネア帝国のごく一部にすぎない。
この規模で打倒帝国を掲げた解放軍の無謀さに呆れながらラウニィーはその存在を反乱軍ごときと片づけられない自分を感じる。
騎士道とは正義を貫くことに非ず、忠誠を貫くことにありとラウニィーは父、ヒカシュー大将軍に教わった。父の忠誠は誰よりも女帝エンドラに捧げられ、それはラウニィーが生まれる前より続いている。
対して、ガウェイン団長に率いられる聖騎士団の忠誠は女帝ではなくゼテギネア帝国そのものに向けられている。その歴史は四天王よりもよほど古く、旧ハイランド王国時代には聖騎士に選ばれることは武人として何よりの名誉であったと言われたほどだ。
だからこそ父と同じ道を選んだラウニィーも聖騎士になることを望んだ。そのための稽古に明け暮れ、同年代の娘たちのように着飾ることもせず、それでも彼女は己の選んだ道が間違っていないと信じている。
けれど彼女には常に父の影がつきまとう。かつては旧ハイランド王国一と言われ、老いたいまもなお、四天王筆頭ルバロン将軍を差し置いてゼテギネア帝国一と言われる大将軍ヒカシュー=ウィンザルフあっての聖騎士叙位という思いから逃れられない。
父の影から逃れようと訓練に没頭したつもりで、その成果があれだ。聖騎士団の誰にも見られなくて良かったという安堵と傭兵上がりの解放軍リーダーに助けられたという羞恥が彼女のなかで交錯する。
しかし自分もこれからは解放軍の一員なのだ。ゼテギネア帝国に反旗を翻す一団に聖騎士の誇りを失うことなく加わることは可能だったろうか。
「降りろ、ラウニィー。ここからは歩きだ」
「え、ええ」
気がつくとワイバーンは着陸しており、彼女らは解放軍の本隊に追いついていた。
ほとんどの者が彼女を好奇の目で見る。ゼテギネア帝国大将軍、ヒカシュー=ウィンザルフの愛娘というのがその理由だろう。帝国を離れても父の影から逃れられないことを彼女が疎ましく思った時、1人の老騎士が近づいてきて、深々と頭を下げた。
「あなたはどなたです?」
「わしの名はアッシュ、解放軍の戦士です」
「アッシュ? 下の名は何と仰いますの? もしや私の父のお知り合いですか?」
「直接お会いしたことはありませんが、ヒカシュー=ウィンザルフ殿の名はよく存じ上げております」
「父の名をご存じとは、まさか、あなたは旧ゼノビア王国騎士団長のアッシュ=クラウゼン殿ですか?」
「おお、ラウニィー殿はわしの名をご存じでおられましたか」
「ええ、思い出しました。でもあなたのことは主君暗殺の騎士と、そう聞いたような気がします。父はそのことをとても残念がっていました。私が父からあなたのお名前を聞いたのはその時だけだったと記憶しています」
「いいや、ヒカシュー殿は残念がられたりはしないでしょう、ラウニィー殿。真の騎士である、あの方には、わしの名など口にするのもはばかられるような忌まわしいものであったに違いありますまい」
「それは、わかりません」
だがアッシュの言うとおりなのだ。女帝に不動の忠誠を誓う大将軍が旧ゼノビア王国騎士団長の名を聞きたがらなかったことを彼女はよく知っていた。
「ラウニィー殿、差し出がましいことを申し上げるようですが、アッシュ殿のグラン王暗殺の罪は冤罪にすぎません。真犯人は帝国のガレス皇子だと、ご本人が申しておられました」
「ランスロット、余計なことを申すな」
「いいえ、これはアッシュ殿だけでなく陛下の名誉のために申し上げるのです」
「お二人とも、それは本当ですか?」
「ええ、アヴァロン島でガレス皇子と対峙した時にはっきりとそう言われました」
「何て卑劣なことを!」
ラウニィーは二の句が継げなかったが実はガレス皇子のことはろくに知らないのが本当だ。女帝の弟でありながら要職にも就かず、権限だけは大将軍にも匹敵するが、実際は賢者ラシュディと組んで、ゼテギネア帝国に伝えられる悪事の大半はこの2人のせいだとも言われている。しかし女帝や大将軍、それに四天王などから皇子を批判する言葉は聞いたことがない。
「でもそれならば、アッシュ殿はご自分の仕業でないことはご存じだったのでしょう? なぜ無罪を主張されなかったのです?」
「主君を守るべき騎士団長がその仕事を果たせずして、なぜラウニィー殿は無罪と仰せられます。たとえこの手にかけてなかろうと主君をお守りできなかったのであれば、わしの罪には代わりますまい。あなたのお父上も同じ立場に置かれれば、きっと同じことを申されましょう」
「アッシュ殿は騎士道を貫くと仰せですのね? それならば父も同意しましょう。でも、私には正義を曲げてでも貫くべき騎士道があるとは思えないのです。それは単に、私が騎士道を理解していないからでしょうか?」
話すうちに不意にラウニィーの心のなかに、初めて出会った異国の騎士に対する畏敬の念が現れて、彼女は思わずアッシュの前に膝をついていた。衆人の目も気にならぬほど、それは強い思いであった。
「アッシュ殿、どうかこの未熟者めにお教えください。私は迷っているのです。騎士道を貫いて祖国に殉じるべきか、騎士道に背いて正義を貫くべきか、私にはどうすれば良いのかわからないのです」
「顔を上げられよ、ラウニィー殿。そして立たれるが良い。騎士道を貫きそこね、こうして生き恥をさらしている、わしに何が教えられると思われるのか」
「いいえ! いいえ、生き恥だなどと私はそうは思いません! あなたは騎士道に、亡きグラン王にいまも仕えておられます。いいえ、あなたばかりではありません。父もエンドラさまに捧げた騎士道を貫き、もしもこの先、解放軍と戦うことになってもエンドラさまに殉じる道を選ぶでしょう、それが騎士道なりと私に説いた人ですから降伏することも考えてはいないでしょう。でも私にはそのことが恐ろしくてたまらないのです。父と戦うことは正義でしょうか? ゼテギネア帝国に正義のないことは私もよく承知しているつもりです。ザナドュからマラノに行くまで、マラノからカストロ峡谷に来るまで、我が祖国のなした爪痕を私はいくつも見、それらが24年経ってもいまだに癒えていないことも知っています。騎士道を貫こうとすれば、私は正義に恥じることになりましょう。ですが、私には愛する人びとのいる祖国に刃を向けることも正義ではないように思えるのです」
冷たい非難の目をラウニィーは周囲から矢の刺すように感じた。ここにいるのはごく一部を除けば、彼女の祖国に国を蹂躙(じゅうりん)され、亡国の徒となった人びとなのだ。彼女の言う騎士道や正義など、彼らに言っても笑い飛ばされるだけだろう。その彼らが彼女に何も言わず、非難の眼差しを向けるだけで済んでいるのは、ひとえにアッシュが解放軍でそれだけの影響力を持っているからに違いない。
最初に自分に話しかけてきた旧ゼノビア王国元騎士団長の心遣いに、彼女は深い感謝の念を抱いた。
「あなたの手には武器がおありだ、ラウニィー殿」
言いながらアッシュは彼女の手を取った。と同時に彼女らの周囲が動き始め、ラウニィーとアッシュ、それにノルンだけがその場に取り残された。
「そしてこの世にはあなたより力がなく、それでも戦わねばならぬ者、戦う者が大勢いる。騎士道か正義かと迷っているから、進むべき道が見つからないからという理由であなたが武器を取らないこと、戦わないことは許されないと、わしは思うが、いかがか?」
「迷いながら戦って道が見つかりましょうか?」
「道は見つかるものではない。あなた自身が見つけるものだ。そしてあなたの望まれる道は見つけ出すのがもっとも困難なことと思う。あなたの言うように騎士道と正義は寄り添うものではない。むしろ相反することが多いものだ。お父上もそのことは重々承知しておいでだろう。その上で騎士道を選ばれたのであろう。迷われよ、ラウニィー殿。迷ったあげくにあなたの選ばれた道は誰にも非難はされまい、されてはなるまい。だが、もしもその時にあなたが敵となるならば、わしは喜んでお相手いたそう」
「アッシュ殿は誰もがそのように迷い、選んだ道を戦っていると仰るのですね?」
「1人だけ戦うことに迷いを見せぬ者をわしは知っている。解放軍のリーダーとはそのような強さがなくば務まらぬものかもしれない」
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